やってやるって!!

越中詩郎×ケンドーコバヤシ

 

 

プロレスに関する本である。

まずはプロレスに関し多少述べた上で、この本について述べることにしよう。

わしはプロレスをボクシングのような「真剣勝負の格闘技」であるなどとは微塵も思っていない。

竹内義和氏の言を引用アレンジして定義すれば、「真剣な勝負を見せるショー」であると思っている。

ミスター高橋氏が筋書きのあるショーであると暴露したが、

それが虚実いずれにしろ、わしの定義は揺るがない。

どちらが勝つか負けるか、それだけが重要なのではない。

如何に勝つか、あるいは負けるか、その「如何に」がより重要なのが、プロレスなのだ。

そこには数々のギミックやフィクションも混じり込み、

それぞれの選手が得意技/フィニッシュ・ホールドを増やすのと同様に物語が生まれてくるのだ。

そんなものを総て楽しむのがプロレスである。

 

獣神サンダーライガーは言った。

「プロレスは芸術である」と。

何を馬鹿な、と思ってはいけない。 プロレスが芸術で無いとするならば、

小説演劇オペラミュージカル映画歌舞伎能狂言等々、即ち全てのフィクションは 芸術でないと定義されなければならない。

超人的な肉体を持ち、Don't try this at homeな技を見せ、 勝負というカタルシスを見せつけるプロレスが芸術でないと言うのであれば。

もちろん、芸術紛いのものも数多あることは否定しない。

わしは少なくとも「芸術足りうる」と思っている。

 

先日の内藤-亀田戦で亀田大毅が反則を繰り返したことに対し、

「プロレス紛い」等という批判が出たが、 わしはこれに声を大にして反論する。

プロレスに於いて見受けられる反則とは、「ルール」には反するが 暗黙の、そして絶対的な「了解」に反するものではない。

その「了解」とは、「相手に怪我をさせない、技を受けても怪我をしない」事である。

多少の切り傷擦り傷はともかく、試合に出られなくなるような怪我をしないさせない、

これがプロレスにおける最重要なルールである。

スタン・ハンセンが本国アメリカで干されたのは、

技が下手なあまりにブルーノ・サンマルチノというスターの首の骨を折ってしまったからである。

(ラリアットで折った、というのはフィクションである)

この了解の範疇に有る限り、椅子で殴ろうが金網最上段から落とそうがそれは許されるのである。

翻って大亀はどうか。

急所を狙う数多の反則のオンパレードである。

内藤が強いボクサーであり防御にも秀でていたからこそ大事には至らなかったが、 一つ間違えば再起不能である。

こんな酷い反則をプロレスラーはしないのである。

ユンボにぶつけるより、コンクリの床にパワーボムを決めるよりも 酷い事を大亀はしていたのである。

先の批判は全く以て見当違い、次元違いの批判であると述べておく。

 

従ってプロレスに於いて「怪我をしない・させない」為には真剣にならざるを得ない。

慎重且つ大胆にとは児玉清氏@アタック25の常套句であるが、

それを文字通り体現しなければならないのがプロレスラーなのである。

これを竹内氏は「真剣な勝負」と称したのである。

またこれにより敵=相手とは絶対的な信頼関係が結ばれることになる。

プロレスに於けるカタルシスには技に説得力が必須である。

そのためには観客が「死ぬぞおい」と怖れ戦く程の破壊力に見せなければならないのだ。

故人であるが、ジャンボ鶴田という選手がいた。

日本のレスラーで彼ほど才能に恵まれた選手はおそらくいないだろうが、

往年の彼が現在NOAHの社長である三沢光晴との抗争を繰り広げている時に、

興奮の余り思わず洩らしてしまった言葉がある。

「俺のバックドロップは投げ方で威力が変わる。 三沢にはこれ以上ないほど危険な角度のバックドロップを喰らわせたんだ」と。

バックドロップが調整可能な技である=「真剣勝負」ではない、とばらしてしまったのだが(笑)、

「真剣な勝負」であることには変わりがない。

この言葉の裏にあるのは、相互の信頼関係である。

この破壊力のある技を受けきる筈だ、 その破壊力の受けきるのだという。

一歩間違えば本当に死ぬ。

正真正銘文字通りに命を預けるのだ。

そこに信頼関係が結ばれてくるのは当然の帰結である。

 

そんな中で一流と呼ばれる選手がいて、スター選手がいる。

逆に、圧倒的な存在感がありながら、一流とか、スターとか、 なんだかそんな言葉が似合わない選手も当然いる。

「本隊」とか「ベビーフェイス」にはいられない選手が。

「反体制」を歩み、いや走り続け、上の意味では誰よりも信頼されうる選手が。

 

越中詩郎というプロレスラー、いやをご存じだろうか。

全日本プロレスから新日本へ移籍し、高田伸彦(現・延彦)との数多の激闘を経て ヘビー級に転向し

日本プロレス界最長であるユニット、平成維震軍を結成、

現在フリーとなり、五十前にしてもなお一線で闘うを。

「人間サンドバッグ」と呼ばれる程に打たれ続け、蹴られ続け、投げ続けられても なお立ち上がろうとする姿を見せるを。

「侍」という刺繍を施した、何故か「袴」と呼ばれるロングパンツで闘うを。

ケツを空高く舞上げ、敵をなぎ倒すを。

「ド演歌ファイター」と呼ばれるが本当はビートルズ好きなを。

 

全日本出身ということもあり、受けには定評のある選手であるが、

彼と対峙する選手は誰も彼も、迷い無く技を仕掛けていけるのである。

必然試合は熱くなる。

観客もヒートアップする。

そして越中は歯を食いしばりこめかみには血管を浮き上がらせ、

更に熱く、更に高くケツを舞上げるのである。

 

彼が勝っても負けても、その結末には誰もがカタルシスを得るのである。

勝って絵になる男はいくらでもいる。

しかし彼はどちらも名画足りうるのだ。

バイプレイヤー中のバイプレイヤーであり、漢の中の漢である。

 

本書はケンドーコバヤシと越中詩郎自身の対談、ブログから抜粋されたコラム、 その他で構成された、いわゆる企画本である。

いわゆる企画本ではあるが、その中身は他のものとは一線を画する。

 

越中は語る。

対戦相手のこと。

修業時代のこと。

数回の移籍、

そしてフリーランスへの道を。

それは全て、「プロ」レスラーたらんとしたの言葉である。

 

ケンコバも語る。

越中への想い。

プロレスへの想い。

そして、自らの「お笑い芸人」としてのスタンスを。

 

「越中って(^^;」と笑わずにはいられない場面も多々ある。

この辺の引き出し方はさすがケンコバであるが、

その笑いも全てプロレス、そして越中への愛があってこそ、である。

双方のプロレスへの愛情、ケンコバの越中への愛情と敬意。

そんなものが満ちあふれているのだ。

そして、畑は違えど双方ともプロとして生きる事へのプライド、誇り。

揶揄、誹謗、中傷そして誤解を受けやすいプロレスとお笑いというショービジネス、

その中で更に本流、本格派に属さずにおいてなお、胸を張り大手を振る二人だからこそ、

お互いへの敬意や愛情が生じやすいのかもしれない。

 

それはレスラー同士が持つ信頼関係に相似である。

 

著作者がプロレスラーである本は綺羅星の如く在ったが、

これほどプロレス、そしてプロレスラーに対する愛情を全編に漲らせた本は、

少なくともわしが読んだ中にはない。

 

笑いあり、涙ありの名著である。

プロレスファン必携の書である。

 

 

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