光と影
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最終電車の中で。一人の女が泣いていた。

乗客は、私と彼女の、二人しかいない。二人で、並んで座っていた。

恋人同士ではない。ただの友人だった。今では。

彼女に淡い恋心を抱いていたのは、もう遠い昔のことだった。

彼女が私に恋愛の情を感じたことは。多分一度もないはずだ。

 

 学生時代。横目で彼女を見るだけで満足しようとしていた。

目の片隅に映る彼女が私を幸福にした。

逆に、告白する勇気のない自分と、告白してもいい返事はないだろうという諦めを、強く自覚することになった。

今の私とは別の人格を持っていたのかもしれない。

現実離れした理想論を唱えることしかできない青二才は、その面でもまた、青二才だった。

幸福の背後にあるのは、孤独感と無力な自分だった。

彼女との別れが近づけば近づくほどに、幸福と孤独の差は激しくなった。

鬱状態を振り切るかのように机に向かっていた。

 

 卒業後、私は故郷を離れ都会の大学へ。彼女はその県の中心部へ。

そのまま音信は途絶えていた。私の孤独感もどこかに霧散していた。

数年後、同窓会で再会したのをきっかけに、電話や手紙で連絡を取り合うようになった。

みんなが酔っていた二次会で、私が抱いていた想いを悪友に暴露されたのだ。

幸い、私も相当に呑んでいたため、赤面したところで目立つものではなく、笑い話としてその場はすまされたが。

何人かとアドレスを交換していたが、手紙を書いてきたのは彼女一人だった。

そこには、謝罪が記されていた。要約すれば、気づかなくてごめん、そういうことのようだった。

慌てて私は返事を書いた。

気にすることはない。俺が告白したわけでもない。現在つきあっている女もいる。

そんなことを述べた。

 

 返事を書いてから一月もしないうちに、彼女はまた手紙を書いてきた。

私は返事を書く。そうやって、現在に至っている。

そのせいで、お互いの遍歴を知り尽くしていた。

会わないからこそ、形成しえた関係だったのかもしれない。

今でこそこうして二人で電車に乗っているが、その前に会ったのはもう十年近く前のことだ。

 

 お互いに、それ相応に年をとっていた。お互いに持っていたイメージは、十年も前のものだ。

そのギャップに笑いがこみ上げてきた。会ってしばらくは、会話が成り立たなかった。

 

 距離と時間は離れていたが。私たちは情報という鍵をいくつも持っていた。

その情報で窓を開け、お互いの空気を入れ換えるようにして、十年間というものを埋め合わせようとしていた。

それだけでも一時間は喋れた。お互いがそれぞれつきあっている相手すら知らない情報が、いくらでもあった。

他愛もなく、懐かしがるだけで十分に酔いは回っていた。

 

 彼女の顔が暗転したのは。最近の話になってからだった。思えば、会おうと言ってきたのは彼女からだった。

何か私に告げたいことがあるのだと、その時点で気づくべきだった。

何も考えずに無駄な時間を費やしたのかもしれない。

彼女と私の中に形成されていた信頼は、ここで崩れるのでは、という危惧を私に抱かせた。

しかし、彼女はその表情のままで話し始めた。

男との関係、結婚後の自分、何かを犠牲にするのでは、彼女はその犠牲がなんであるかも判らないまま、恐怖していた。

彼女自身、判っているのは結論だけだった。そこに至る過程、そしてそれからのことは彼女を不安にさせるだけだった。

 

 結婚を控えて何も悩むことはない。そう自分に言い聞かせながら。

でも。自分一人では消化しきれない思いを私に向けて吐き出した

。何度も。繰り返し。

繰り返していることを詫び、酒のせいにしながら。

酒のせいだけではない。しかし、私は彼女の話を聞き続けた。

 

 帰ろう。彼女は笑顔を無理矢理にこしらえ、言う。私の宿泊先を尋ねる。

言うと、彼女はもう一度笑顔を作り、同じ電車だと言う。

彼女の方が先に降りる。閑散とした改札を抜け、電車に駆け込む。

最終だった。まばらな車内は、停車する度に人を吐き出した。

 

 私たち以外の誰もがいなくなった瞬間。彼女は泣き始めた。

私にはかけてやる言葉もなく、肩を抱いてやる関係もない。

私は黙ったまま、向かいの窓に映る二人を見るしかなかった。

アナウンスが彼女の駅を告げる。減速する電車に躰が揺れる。

ドアが開き、彼女はまた手紙を、そう言って立ち上がった。

 

 遠ざかる彼女の表情を、じっと見続けた。私は昔感じた無力感を思い出していた。

彼女の姿が駅に隠れそうになる直前。彼女は走り始めた。

あるいは、笑顔だったのかもしれない。

その時には私の視力では彼女の表情は捉えられなくなっていた。

ただ、彼女が駆け出した先には。一台の車のヘッドライトが見えた。

何より、彼女の足取りは軽やかだった。 笑いがこみ上げてくる。

誰もいない車内で一人で笑った。

携帯が鳴る。聞き慣れた特徴のある声がする。私の所在を問いかけてくる。

電車の中だと答える私に、笑っている私の声をいぶかしむ問いかけ。

誰かいるの?私は笑い声のまま、一人だと答えた。ホテルについたら電話する旨を伝える。

 

 疑われるかもしれない。ありのままを話すだけだ。私一人だけを乗せた電車は、短く警笛を鳴らした。

 

KAI Story