炎
1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10.
11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20.
煙。
焼き付いたような臭いが、一瞬鼻をかすめる。
一瞬、だった。
メーターに目をやる。
七千回転。俺のホンダCB400SFのエンジンは機嫌良く回り続けていた。
中古で知人から譲り受けた事故車ではあったが、
一万kmを僅かに越えた程度しか走っていない。
整備は適当な時期に知古のバイク屋に頼んでいた。
安い買い物をしたのだから、整備ぐらいは金をかけてもいいだろう。
そんな風にからかわれた。
久しぶりの休日。
行く先を決めないままのツーリング。
高速を西向きに走り続ける。
十二月。寝起きの部屋に差し込む光の暖かさに触発され、単車に跨った。
皮の上下に身を包む。
1DKの部屋では、汗ばむ程だ。
しかし、暖かいとはいえ冬だ。
一時間も走らない内に躰は冷え切っていた。
次のパーキングに入ることを決め、速度を上げる。
下りのワインディングで、スピードは上がり続ける。
左へのカーブ。ギアを落とす。
エンジンが唸る。軽い音だ。右へのシャドウカーブを曲がる。
立ち上がる炎が見えた。
炎は、一台の車から立ち上がっていた。
派手な事故だ。
さっきの臭いは。
しかし、ここからあの場所まで、少なくとも1kmはある。
考えてみるまでもない。
事実、この車は燃えている。
その炎の向こうに、女が一人、茫然と立ち尽くしていた。
急ブレーキ。リアを滑らせながら停める。
炎から50m程離れていた。
エンジンを切る。
単車から降り、メットをミラーにかける。
走り寄る。
乱れた髪の隙間から、血が見えた。
額からか。大丈夫かと声をかけようとして、躊躇う。
何かを射抜くようなその視線に息を飲む。
その鋭さだけではなく、美しさにも。
どちらかと云えば、後者だった。
声が裏返る。
怪我は。俺の声は彼女を素通りしていった。
彼女は俺を無視する風でもなく、ただじっと炎を見つめていた。
不思議なものを見るかのように、炎を突き抜けるような視線で。
視線が貫いた先にあるものが何か、そして誰か、この時には判らなかった。
女の前に立つ。視線は俺を捕らえない。
彼女の視線を無視し、髪をわける。
のぞいた額の傷は、小さなものだった。
割れたフロントガラスか。
彼女の服にいくつか光るものがあった。
「誰か乗っているのか」
尋ねた。
彼女は更に俺を無視した。三度繰り返す。
埒があかない。彼女の手首を握り、動脈を触る。
頻脈。しかし弱くはない。額からの出血もほぼ止まっている。
「車から離れた方がいい。まだ危ないから。」
俺は彼女の肩に手をかけ、引いた。
その時、初めて俺は彼女の視線の中に入った。
俺の心臓が強く収縮した。
アドレナリンが急激に放出されたようだ。
彼女の前で、俺自身が収縮するような錯覚を感じた。
声が出なかった。
彼女は俺を咎めるかのように睨んだ。
声を絞り出す。
「まだ火が強くなるかもしれない。離れないと危ない。判るね。」
彼女は何かに気づいたような顔をした。
彼女の目から鋭さが消えていった。
「君が運転していたのか」車から離しつつ尋ねた。
彼女の目から涙が流れ始め、彼女は首を横に振った。
「事故の相手は」彼女はもう一度彼女は首を振った。
俺はウエストポーチから携帯電話を取り出した。
警察に電話する。
事故の状況を簡単に説明する。
怪我人は、の問いに言葉が詰まる。
彼女を見る。彼女はへたりこみ、蹲っていた。
こちらの会話は耳に入っているのかもしれない。
しかし、事実は。伝えるしかない。
「怪我人は一人いますが救急搬送までは必要なさそうです。
額に僅かな傷があるだけで、意識もはっきりしていますし、
歩く様子も問題なさそうです。ただ・・。」
言葉を切った。
息を吸い、唾を飲む。もう一度話し始める。
「ただ、車の中に一人残っているのかもしれません。
炎で確認はできませんが。ここにいる人の話からすると、
一人で運転していたのではなさそうですし。
ええ、一応救急車を手配してください。」
名前と携帯の番号を言う。
彼女に近づきながら、話しかけてみた。
「連絡する人は?」彼女は頷いた。
「誰かに連絡しておく?事故があったことだけでも。
なんだったら、俺が電話しておいてもいいけど。」
彼女はうずくまったその姿勢のまま、首を横に振った。
煙草をくわえる。
冷え切ったジッポ。
なかなか火がつかなかった。
何度となく擦り、親指が黒くなった。
諦めかけた時、ついた。
吸い込む。
煙草のいがらっぽさが、躰が冷え切っていたことを思い出させる。
一度、むせた。
車を見る。炎が少し小さくなったように見えた。
何度となく事故を見てきたが、ここまで派手なのは初めてだった。
自分自身、何度か車をぶつけ、単車で転倒等幾度となくあるが、
俺自身が怪我をした事もなければ、車を潰した事もない。
どんな速度で走ればこうなるのだろう。
考えてみたところで、車の中にいる奴にとっては、過ぎた事だ。
取り返しはつかない。
関係のない事だった。
車を焦がす炎のせいで、躰が温もってきた。
思わぬ処で暖をとった。
彼女を見る。震えていた。
寒さのせいではない。
明らかだった。
話しかけようとするが、言葉が出なかった。
話すべき言葉がなかった。
こういう時、どういう言葉が適切なのか。判らなかった。
とにかく、俺にでき得る事は既に終わった。
この場に要はない。
しかし。
何かに捕らわれたかのように、俺は動けなかった。
否、動きたくなかった。
ここにいなければならない理由を何処かで探していた。
それは。
彼女を見ていたい、その一心であることは、明白だった。
それに屁理屈をつけようとしていた。
微かに、サイレンの音が聞こえ始めた。
違う種類のサイレンが聞こえ始めたのも、僅かな間だった。
手を挙げ、事故現場であることを示す。
警官に対しても、彼女はほとんど言葉を発しなかった。
頷くか、首を横に振るか。
それで対応していた。
警官が俺の方に向き直り、近寄ってくる。
「あなたは、事故を見た訳じゃないんですね」
頷く。その職業特有の作り笑顔で続けた。
「このままじゃ全然状況が判りませんね。
目撃者もいないし。
ま、もしかしたらあなたにお伺いすることもあるかも知れませんから、
一応電話番号だけ確認させてもらいます。
携帯だけじゃなく、家や職場のも、お願いします」
告げた。
俺のすべき事は、ここには無くなってしまった。
完全に。
「じゃ、私はこれで」警官に言うと、CB400SFに向かって走った。
走らなければならなかった。
後ろ髪を引かれる思いを断ち切るために。
後ろ髪を引いているのは。
自分自身だった。
キーを回し、スターターを押す。
エンジンは冷えていた。
まるで行くな、とでも単車が語りかけているように。
行くな、と言っているのは、俺自身だ。
何度か空回りした後、エンジンがかかる。
暖まるのを待たずに、走らせる。
いつのまにか、日が傾き、真正面から俺の目に入るようになっていた。
帰るしかない。次のインターまで、12km。
アクセルを開けた。
インターで反対方向に乗り換える。
10分もしないうちに、事故現場を通ることになる。
できるだけ見ないように、と思いながら、
その場所を通る際、俺の目は彼女を捜していた。
見えたのは、警官が6、7人と炎の消えた車だけだった。
俺は更にアクセルを開けた。
急いだ処で、家には誰もいない。
しかし、何かに急かされた。
気づけば。150km/hを越えていた。
鍵を開ける。日が落ちた後の部屋は、冷え切っていた。
エアコンのスイッチを入れる。
冷凍庫からタンカレーを取り出す。
栓を開け、そのまま喉に流し込む。
喉から全身に熱が広がって行く。
煙草をくわえる。
あの事故で会った女を思い出していた。
人の顔を覚えるのは苦手な筈だった。
と言うよりも、初対面の人と目を合わせることが苦手だった。
自分を覆い隠すため。人の目は見ない癖がついていた。
しかし、彼女は鮮明に思い出せた。
印象的な目だった。
目が合った時の鼓動が蘇る。
タンカレーのせいだ。
瓶をテーブルの上に置き、服を脱いだ。
タオルを一枚。バスルームに向かう。
熱いシャワーでまだ冷えていた躰を温める。
ライディングでついた汚れを洗い落とす。
多分、煤も混じっている。
焼き付いたものだけは、洗い落とせなかった。
風呂を出ても、まだ部屋は温もっていない。
汗ばむほどの熱が急激に奪われる。
急いで袖を通し、頭を渇かす。
台所のグラスを取り、タンカレーを注ぐ。
冷蔵庫の中のライムは、乾いていた。
呷った。ベッドに倒れ込む。
いつのまにか眠っていた。
夢の中で目覚ましがなる。
夢とも現ともつかぬまま、目覚ましに手を伸ばす。
鳴り止まない。時計ではない。
電話が玩具のように光を発しながら鳴り続けていた。
「はい」寝呆け声のまま、返答する。
聞き慣れない声が響く。
名前を聞かれる。
そうですが、返答する俺は、直感的に警察か、と考えていた。
「今日の事故の件でお聞きしたいことがあります」
所属と名前を言った後、こう尋ねてきた。
事務的な口調だ。
そして。
続けて聞き憶えのある名前を口にした。
その名前は。
学生時代からの連れ、だった。
「私の知人ですが、彼が何か?」
事故の件で電話してきた筈なのに、何故彼の名前が出たのか。
尋ねながら、一つの直感が俺の頭を覚醒させた。
同時に血の気が引いていくのがわかった。
「まさか。運転していたのが」
「ええ」
暗転。
「彼の家族には、連絡されたんですか」
回転を止めた思考回路を必死で回し、尋ねる。
返事は、否だった。
奴は、勘当同然に実家を飛び出したのだと言っていた。
この時代に、そう言って笑っていたものだった。
彼の部屋にあるアドレス帳に、俺の名前と電話番号があったのだと。
仕事上のものは、必ず携帯する男だった。
つまり。今はもう灰になっている。
家族のものは、無かった。
更に。女の口から、俺の名前が出たのだと。
電話を切る。煙草をくわえた。
「ブルーカラーやな」
俺のショートホープを見るなり、亮は言った。
俺の手からジッポを奪い、自分のセブンスターに火をつける。
「お前のはヤンキー煙草」言い返す。
いつからか、二人で呑む仲になっていた。
元々、俺の女と奴の女が知り合いだった、というだけだった。
その当時つきあっていた女を単車で迎えに行った俺は、初めて奴に会った。
話は聞いてますよ、そう言いながら、奴は俺に火をねだった。
人なつっこいが、それはあくまで表面上のものであることが見て取れた。
その時の印象はそれだけだ。
他には、亮という名である事だけを知った。
次に会ったのは、奴等の宴会に呼ばれた時だった。
毛色の違う人種がいた方がいい、そういう理由で呼ばれた。
本当は、俺の女だった美幸の男、つまり物好きな俺を見るのが目的だったらしい。
普段の俺とは全く違う世界の人々。
酒に酔った連中の中で、いつのまにか亮と二人で話をしていた。
お互いに全く関わりのない世界にいながら、共通する何かを俺達は持っていた。
皆が酔いつぶれ、鼾をかき始める者もいる中で、俺達は話し続けた。
違う社会にいながら、共通の世界にいる。
そう感じた。
その後、俺達はそれぞれ女と別れ、きっかけとなった接点を失った。
しかし、俺達は呑み続けた。
共通項。
あれは奴が女と別れた時だった。
無くした何かを認める事のできない奴は、涙を浮かべながら笑っていた。
「俺、壊れてもた」自虐的に自分を嘲りながら。
ジンを煽って、俺は言った。
「昔からだろ。人の事は言えんが」
初めて会ってから、5年が経っていた。
その間に、奴は俺に。
逆に、俺は奴に。
どれだけ泣き言を言ってきたのだろう。
泣き言を言い合い、聴き合っていた。
お互いの傷を解り合えた者とのみ持ち得る関係だった。
そいつが、死んだ。
しかも、俺の目の前で。
俺はそれに気づきもせず。
車を買う、俺の部屋で言った奴。
思い出した。
奴が置いていったセブンスター。
形見。
取り出し、火をつける。
突きつけられた現実に、涙も出ない。
泣くべきなのに泣けない自分が腹立たしくなる。
考えの纏まらないまま、煙草を吸い続ける。
奴がくわえ煙草で俺の部屋に入ってくることは。
もう。無い。
朝を待って、警察に電話し、奴の部屋に入れるかどうか尋ねた。
昼頃にもう一度警察も行くとの事だった。
同行の許可を得、電話を切ろうとする俺に、
警官は家族への連絡先を知る者はいないかどうか聞いてきた。
とりあえず知人に当たってみる旨を告げる。
昔のアドレスを探す。
忘れてしまっていた女の電話番号。
美幸。共通の知人で電話番号が判るのは、美幸だけだった。
電話をかける。
奴の死、家族への連絡ができない事、警察が来る事、それらを端的に言う。
奴の死と、家族への連絡の旨を回すよう頼む。
それだけ言うと、電話を切った。
それ以上、話す事など無かった。
エンジンをかけ、カーステレオにテープを放り込む。
亮が置いていったテープ。
アクセルを踏み込んだ。
急ぐ必要はない。
しかし速度は上がる。
いつもの癖だった。
いつか事故る、亮はそう言って笑った。
実際俺は事故を起こした。
しかし、無傷だった。
そして、死ぬ程の事故を。
奴は。
皮肉。
それでも他の車の間を縫うように、俺のクラウンは走って行く。
いつも奴を降ろしていた交差点で曲がる。
奴は、アパートの前まで俺に遅らせるのを嫌った。
「ここでいい」ウインカーを出す俺に怒ったように言う。
送ってもらうだけでも悪いと思うのに、
狭いところに入り込んでもらう等、奴には許せないらしい。
ターンが切れるところまで。それが奴の言う礼儀だった。
左折を遮る声は。
聞こえない。
ウインカーを出し、曲がる。
狭い路地を抜け、アパートの下に車を止めた。
警察はもう来ていた。
車を停める許可を得、階段を上がる。
ドアを開けると、奴のコロンの香りがまだ残っていた。
シトラス。
コンピューターを起動する。
住所録らしきものを探す。
当然のように、何も判らないままだった。
警官にそれを伝えると、予測した事態であり、
免許、住民票などから調べているところだと言った。
ぐるりと部屋を見渡した。
広い。
六畳の筈だった。
寝室兼事務所。全く生活感のない部屋だった。
布団とコンピューター、ファックス。
灰皿。
それだけだった。
台所にさえ、コップと冷蔵庫しかない。
コンピューターの中の日記。
ここだけはクリックできなかった。
奴のプライバシーなどどうでも良い。
俺にすら吐露していない感情を見たくないだけだ。
コンピューターを切った。
亮の声がした。
”サヨナラ”。
芸の細かい男だ。
葬式は、奴の実家でするとのことだった。
北海道まで行けない者達は、事故現場に花を手向ける事になった。
俺も、その一人だった。
奴の仕事仲間とほとんどつき合いが無く、
知っている者と言えば昔の奴の女、令江と美幸くらいだった。
人数の都合で俺に車を出せ、と電話してきたのは美幸だった。
「みんな軽ばっかりでな、二人乗られへんねん。
あたしがこんなん頼むのもなんやけど、頼めるのん、
あんたしかおれへんねん」
「しょうがない、か。どこに行ったらいい?」
待ち合わせ場所と時間を確認する。
梅田のガード下に着いたのは、待ち合わせの20分前だった。
カーステには、奴のテープが入りっぱなしだった。
ピーター・ガブリエル。
80年代。その頃が一番いい。
言いながら俺のカーステに放り込んだのが、これだった。
外タレを知らない俺に、奴は言った。当分貸しといてやる、と。
そのまま、返していない。
返せなくなった。
ホープを斜めにくわえ、目をつむる。
音のせいで気づかなかった。
美幸と令江が車の横に立っていることに。
窓をノックされ、初めて気づく。
ロックを開け、ボリュームを絞る。
助手席に、美幸が乗り込んできた。
無理を言ってすまない、そんなことを挨拶代わりにして、
皆が揃っており、前のミラについて行くように言った。
「あんたが知ってるの、あたしと令ちゃんだけやん。
なんか申し訳ないけど」
無言のまま、走らせる。
新御堂筋を上がり、中央環状から池田へ。
高速に乗ったとき、初めて令江が口を開いた。
「亮ちゃん、結婚するつもりやってんて」
今でも令江に電話していた事は、知っていた。
亮自身が言っていた。
令江は、俺が既に亮から聞いていた事を喋り続けた。
美幸の合いの手をいいことに。聞きたくもないことだった。
ヴォリュームをあげる。
ガブリエルの声が、いつもよりしゃがれて聞こえる。
諦めるな。
そう囁いていた。
事故現場に着く。
壁は黒くすすけたままだった。
派手にやったものだ。
誰かの呑気な声が聞こえてくる。
ジッポで線香の束に火をつける。
皆に配る。
残った束を黒い痕の中央に向かって放り投げる。
湿っぽく手を合わせる事等したくない。
奴には相応しくない。
セブンスターをくわえ、火をつけた。
一息だけ吸うと、その煙草も同じように投げた。
皆が咎めるように俺を見る。
無視した。
車のトランクを開け、クーラーボックスの中から
ドンペリを取り出す。
奴への差し入れに、必ず使っていたものだ。
奴は日本酒やビールとかいった差し入れを拒んだ。
おそらく、俺だけにだろうが。
「今度演るんやろ。差し入れは?」
「日本酒はやめてな、品無い。もうそんな時代ちゃう」
「品や時代の問題か?」
「どおでもええ、なんし一升瓶はもうええ」
「なら、ビールか?」
「ビールもなあ」
「文句多いな。よし、ドンペリなら?」
「お、それいい。1ダースぐらい」
「馬鹿。いくらするよ」
「ほんまやで、ちゃんと熨斗付けてや」
本当に熨斗を付けて差し入れた。
思い出していた。
一振りして、栓を抜く。
黒い煤の上に振りかけてゆく。
白い泡が黒く染まりながら、下へと流れ落ちてゆく。
奴に手向ける最後の酒だ。
1ダースぐらい用意してやれば良かったか。
口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。
もう一度、セブンスターに火を付け、焼け跡に投げた。
「ねえ、あんたなんであんなんするん?」美幸が咎める。
ずっと無言のままで乗っていたが、我慢できなかったらしい。
宝塚のインターを降りたところで怒り始めた。
「あんたと亮ちゃんがどんだけの仲か知らんけど、あれは酷いんと違う?」
返答しない俺に向かっていつまでも怒っていた。
礼儀だとか、不作法だとか、しつこく続ける。
それでも無視し続ける俺の肩を掴んだ。
俺を睨む。
彼女の手を払い、
一言だけ言った。
うるさい。
引けなくなったのか、美幸は昔の事まで引き合いに出して喋り続けた。
無視。
亮は、俺にとってもう一人の俺、だった。
それを失って哀しく無い筈は。ない。
しかし、それと同様に、何故、という怒りがあった。
すがり泣きたい哀惜と、殴りつけてやりたい衝動。
どちらも、叶わぬことだ。
そんな葛藤の中で、涙を流したり手を合わせたり等。
できなかった。
奴が俺の涙を望むはずもない。
本当に哀しいのは、奴自身の筈だ。
全てが中途半端なまま終わってしまった奴の方が。
小さなライヴハウスを飛び回り、
ギタリストとして認められ始めた矢先だった。
彼女のことでもそうだ。
結婚しようとした処なのに。
仮に今。
奴に感情があるとしたら。
おそらく泣いているだろう。
半端に終わった人生を。
悔やみ。
いや、もしかしたら、それすらも俯瞰して、笑っているかも知れない。
いずれにせよ。それに対して俺が泣くこと等。
ましてや成仏しろとなど。
亮からすれば、片腹痛い事だ。
むしろ俺が奴に対して怒っている方を、奴は歓ぶだろう。
美幸は、しつこく俺に怒り続けていた。
何故、繰り返していた。
鬱陶しくなった。
一息ついて言った。
「ガタガタ言われる筋合いなどない。
俺とあいつの事は、ほっといてくれ。
文句があるなら、今すぐにでもこの車を降りろ」
ブレーキをかけ、車を止めた。
令江を引っ張るようにして、美幸が降りていった。
「もうCBに金かけるんやめや。もお限界やわ」
「ん、こないだ車検かけたばっかりだし、も少し乗りますわ」
「そーいや、こないだの高速の事故、自分、目撃者やってんて?」
「正確に言えば、違いますけどね、
まあ、最初にその事故を見つけたというか、そんなんですわ」
「あのCBも事故車やろ、なあ、そろそろ買うてえな。
新車。安うにさしてもらうし」
無責任にバイク屋の店長が笑う。
そこで死んだのが俺の連れだったと言えば、どんな顔をする事だろう。
適当に相づちを打ちながら聞く振りをしていると、
店長はカタログを5、6冊引っぱり出してきて説明し始めた。
暇なのだろう。
スタイルならこれ、パワーならこれと次々に並べる。
「なあ、CBのパワーに劣るんは嫌やろ?」
「そうね、元々ないしね。これより下って言うのもねえ・・」
適当な事を言いながら、一時間ほど喋っていた。
別に新しいものを買う気はない。
ただ、誰かと話をしていたかった。
何より、一人になるのが嫌だった。
なれなかった。
CBのエンジンは軽快だった。
しかし、カーブの際の粘りが無くなってきたように思う。
足周りが硬い。
店長の言うとおり、そろそろ限界なのかも知れない。
アクセルを開ける。エンジンは敏感に反応する。
車の間を縫い、家まで飛ばす。
何かに憑かれたようにスピードを上げるようになっていた。
あの事故以来。
奴の後を、等と腐ったことを望んでいるのではない。
ただ、何処かにできた空間を恐怖と緊張で埋めようとしていた。
雨が降り始める。
スピードは落とさない。
車の列が切れた。
アクセル。
道路沿いのレストランからアルトが出てきた。
右の車線を見る。
真横にカローラがいた。
俺の目の前に出てきたアルトは、
スピードを上げることもなくゆっくりと進んでいた。
フルブレーキ。
リアがロックした。
CBの体勢は保っている。
ギアを二つ落とす。
それでも、アルトはスピードを上げない。
メーターを見る。80km/h。
アルトは、もう目の前にある。
転ぶしかない。
思い切って車体を左に傾ける。
滑った。
CBから飛び出すように、蹴る。
道路に躰が接した。
勢いに逆らわず、回転する。
躰が前を向く度に、CBが火花をあげて滑ってゆくのが見える。
一度、跳ね上がった。
CBを追いかけるように、俺の躰は転がってゆく。
30mほど転がり続けた。
CBは更に50m程前方で止まった。
バイク屋に電話する。
さっきまでいた店長は出かけたとのことだった。
転倒した旨を伝え、取りに来てくれるように頼む。
30分はかかるが、と言う返事だったが、待つしかない。
目の前にあるマクドナルドに入る。
コーヒーを二杯半飲んだ処で、携帯が鳴った。
「こけてんて?怪我は?」
怪我などしていたらこんな所で待ってはいない。
それよりもCBはもう駄目かも知れない。
5年も乗ったCBに少なからず愛着があった。
「俺はいいけど、CBがね・・・」
すぐに来るとの返事が返ってくる。
コーヒーを飲み干すと、外に出る。
CBの左側にはオイルが滴っていた。
80km/hで転んだのだ。
廃車かも知れない。
しかし、俺は全くと言っていい程無傷だった。
僅かに左膝が痛む程度だ。
この程度の痛みなら、一週間も経たない内に消える。
亮のことを思いだした。
奴は、炎に巻かれてしまった。
運、という奴なのか。
奴はよく、ついてないと言っていた。
令江と別れて以来、奴の口癖だった。
「日本中のついてへん奴集めても、俺は上位に食い込む自身あるで」
酒を呑む前から、奴はこんな愚痴を垂れていた。
確かに、俺と奴を比べれば、俺の方がついている人間だろう。
見慣れたトラックが近づいてきた。
バイク屋の店長が手を振る。
トラックから降りてきて、第一声は、「派手やな」だった。
亮の事故を見たときに、俺が口にしたのと同じだった。
比べれば。地味なものだ。
手慣れた手つきで荷台にCBを乗せる。
家まで送ると言われ、素直に頼む。
直るかどうか判らないが、とりあえず見てくれるらしい。
三日後、留守電の店長の声で、廃車にするしかない事を知った。
「手続き要りますんで、近日中に来店して下さい」と。
.13.
俺のCBは、分解されていた。
使える部品だけ取り出し、それを買い取ってくれると言うことだ。
しかし、手数料を差し引かれると、新車の税金分にも足らないだろう。
長年乗ったものが分解されている姿は、俺を感傷的な気分にさせた。
と言うよりも、あれ以来、過剰に感傷的になっていた。
また亮と初めてあった時の事を思い出していた。
煙草を勧める店長の声で我に返った。
「しかし、その職業でこんなん吸ってる奴も少ないやろ」
「もらい煙草されんだけましだけどね」
店長が笑う。屈託のない笑顔が、逆に俺をまた感傷的にさせた。
その夜、電話が鳴った。久しぶりに聞く声だ。
須磨で勤務医をしている長田だった。
「店長から聞いてんけど、新車買うんやって?」
それから10分ほど、単車の話が続いた。
俺が単車に乗るきっかけを作ったのは、長田だった。
学生時代には、オフロードのレースに出るほどの単車好きだ。
手を怪我したら、そういう理由でレースはやめたが、
いまだに乗るのはスズキのTSだった。
「CBに馴れてるからな・・レプリカは嫌だし、
カウル付きならカタナ以外は考えられんけど、俺中免だろ。小さいカタナはな。
今度の日曜、店に行くし、長田も暇なら一緒に話してくれんか」
長田は、快く承諾してくれた。
しかし、話はまだ続いた。
「店長からも聞いてんけど・・」
店長も俺の様子がおかしい事に気づいていたようで、その事まで長田に伝えていた。
お節介な話だ。
しかし、店長も、その”も”が気にかかった。
尋ねる。
いろいろと情報は入ってくるらしい。
当然のことかも知れない。
長田と俺は同期で、他の同期の奴も何人か同じ病院で働いている。
いつもは皮肉の一つでも言わないと気が済まない俺が、
エレベーターの中で無言のまま、と言う事は何度もあった。
「ここだけの話し、だけどね」
前置きをしてから事故以来のことを話した。
長田も、どこか俺と同じ匂いを持った人間だった。
そうでなければ。言いたくもない事だった。
これまで胸に溜め込んでいたいたものを吐き出す。
吐き出したところで。
また貯溜する想いが湧き出すだけだった。
「俺はお前を知ってるから言うけど、お前が背負い込むことちゃうで。
俺はお前と彼の間の事は伝え聞きでしか知らへんけどな。
お前はどう思てるか知らんけど、立場変えたら、
俺にとっては、お前が死んだようなもんやろ。
その気持ちは想像しかできひん。
けどな、いつまでも引き連るもんでもないやろ。
彼が死んでも、お前は生きとんねや。
しゃあないやん。
しゃあないっていう言い方も、やけどな。
しかもお前、生き死にかかったところで勝負してるんやろ。
あかんで。このままやったら」
ひとしきり説教を食らった。
解ってはいることだった。
しかし、それだけではない。
話した。
長田は、笑いを堪えていた。
奴にしてみればこんな事をもらす俺がおかしくてたまらないだろう。
多分、十年近いつき合いの中で最も面白いと思っているに違いない。
節操がない、承知のうえだ。
そう言った。
長田の笑いが止まった。
「お前な、恋愛沙汰に節操も糞もあるかって昔言ってたやろ」
爆笑。
ひとしきり笑った後、息を継ぎながら長田は続けた。
「お前ちゃうかったら最低やって言うところやけど。
お前女に対していい加減なんか真面目なんか微妙なところあるもんな。
少なくとも俺が理解するところでは真面目やと思うけど。
多分、ちょっとは」
また笑う。
「あのなあ。そこまで笑う事ぁなかろ?」
お互いに笑った後、長田が言った。
「ま、それはそれで勝手にお前が苦しむ事やろ。
彼が亡くならはった事については、さっき言うた通りやけど。お前の恋、」
笑いを挿む。
「あ、おもろ。まあその感情については自分でケリつけるしかないやろ。
俺が言うまでもない事やとは思うけどなぁ」
長田の言うとおりだった。
解りきってはいることだが、それを敢えて指摘されることで
自分の感情に納得がいく事もある。
もちろん、長田だから素直に納得できるのでもあるが。
自分の身の振り方ぐらい、自分で決めるしかなかった。
それが解っている長田だからこそ、あれだけ笑ったのだろう。
また、俺もその笑いをどこかで求めていた。
電話を切った後も、俺の頬は緩んでいた。
「里村ですが」
聞き慣れない声だった。が、その声を聞いた瞬間、心臓が強く収縮した。
亮の。お礼というのも、そう言いながら一度会って話をしたいという。
亮の思い出話か。それも悪くない。
俺の目的は、それだけではない。
指定された店は、一時流行ったエスニック風のバーだった。
壁にはそれらしい絵や布が飾ってある。
テーブルの上に、蝋燭。
ウエイターが火を灯す。
俺はジントニックを。
彼女はワインだった。
「亮ちゃんから聞いてます。部屋に入ると、タンカレーの空き瓶が山積みだと」
嘘だ。
確かにタンカレーの空き瓶はごろごろしているが、
少なくともそれと同じだけの日本酒や焼酎の瓶があった。
亮の持ってきた酒の。
少量の食事をとった後、俺はトニックからマティーニに変えた。
彼女が喋り始めた。無表情なまま、蝋燭の火を見つめたまま。
「亮ちゃんとは・・」
まるで亮との記憶をたどるように、順番に話し続けた。
一時間は喋り続けただろう。
灰皿はもう三度も交換された。
ただ、その間、彼女の視線は蝋燭から離れることがなかった。
「あの日は。私の誕生日だった。プレゼントがあるって。言われて」
彼女は目をつむった。
次に目を開けた時には、涙が流れていた。
「せっかち、なの。
私。
それで、プレゼントを。
せかして。
そしたら。
亮ちゃん。
小さな箱を、ね。
あの人。
几帳面、でしょ。
変に。
わざわざこっち。
向いて」
言葉がとぎれ、嗚咽に変わった。
俺は言葉を見つけられず、煙草を吸い続けた。
二本半吸ったところで、彼女は大きく息を吸って、一気に言った。
「大きなトラックが前に入ってきた。避けようとして」
そして亮のスカイラインは壁に激突した。
彼女はまた大きく息を吸って続けた。
「私だけ出て」
亮のスカイラインは、反対方向を向いていた。
そしてそのボディは、右側を壁につけていた。
彼女は外に出ることができた。
しかし。亮が出る前に。
彼女はもう言葉を出せず、ただ涙を流していた。
「泣いてもしょうがないよね」
強がりだろう。しかし、それは紛れもない事実だった。
彼女にとっても、俺にとっても。
そして、俺が彼女を癒す言葉は存在せず、俺はまた黙った。
BGMの音が大きくなったような気がした。
jazzyな曲だった。
クールな口調で、熱く囁いていた。
BGMが止まる。ウエイターがCDを入れ替えている。
サックスの音が聞こえてくると同時に、彼女が言った。
「私が、私が死ねば良かった」
そう思うのは当然だろう。
しかし。
俺は否定した。
半分は、亮の代弁をしているつもりだった。
残りは、俺の個人的な感情だった。
「亮は怒るよ。君がそんなことを言ったら。多分。
俺が知る限り、あいつはそれを喜ぶ男じゃない。
そんなことを言ったら、あいつは報われない。
俺はそう思う。君は生きていくしかないよ。
あいつのことを思うんであれば」
「でも、亮ちゃんがいなくなったら・・」現在形だった。
「死にたい」
俺は煙草を消して、口調を荒げた。
「仮に君が後を追ったとする。奴のね。
それはおそらく最も楽な逃げ路だろう。
確かにこれ以上苦しむことはなくなるから、ね。
でも、君の親兄弟、知人はどうなる」
俺という項目は省いた。
「今の君と同じ感情を持つ事になる。
いや、君が持たせる事になる。それでいい?」
煙草に火を付け、喋り続けた。
彼女への感情を打ち消そうとしていた。
「繰り返すけど。亮は怒るよ。
怒らないにしても、哀しむと思うよ」
一呼吸おいた。
「俺は思うけどね、自分に近い人が死んだとする。
実際に今がそうだけど。
それで俺らは辛い思いをするけど、それは死そのものが辛いんじゃない。
その人にもう会えないという寂しさと、
何もできなかった自分の無力さ、無責任。
そしてそういう自分に対する怒り。
そんなものが入り交じったのが人が死んだときの哀しさなんじゃない?
でもね、誰でもやっぱり無力なんだよ。
結局。
できる事って、そいつの事を憶えておいてやる事と、
花を手向ける事ぐらいしかないでしょう。
その内に、その哀しさは自分の中で昇華されて行くよ。
想い出っていう言葉が適当かどうか判らんがね。
そういうものに。」
彼女が俺を見た。
瞬間、どきりとした。
「でも私がいなければ亮ちゃんは死んでないでしょ。私のせいじゃない」
声が荒くなり、掠れた。
「違う。そうじゃない。
奴は自分の意志で、君の方を向いて何かを渡そうとしたんでしょ。
ただ、結果として、そこにトラックがいた。
それは君の責任じゃないよ。
奴の運が悪かっただけ。
運不運ですませる話じゃないのかもしれないけど。
でもな。亮なら、運が悪かったと思ってるよ。絶対」
彼女は少し平静を取り戻して、言った。
「私のせいじゃない、と?」
俺も声を落ちつけていった。
「ああ。ただし、今の君は、その責任は無いと思うことにすら、
罪悪感を覚えると思うよ。
でもその責任っていうヤツは、君が生きようが死のうが、消えるものじゃない。
ただ、もし君が死んだら、その責任を人に押し被せることにしかならない。
人に同じ感情を抱かせる事でね」
俺に、と言いそうになる。
「今、君は生きる事自体が苦痛でしょう。
その責任とやらに押しつぶされてね。
でも、生きるしかないよ。
亮のことが、大事なんだったらね。
責任は無いというのが罪なら、君が死ぬ事はもっと罪になると思うよ。
生きろよ。そして亮の記憶を」
彼女は微かに頷いた。
そう思った。
彼女は俺を見ていた。
彼女の目からは涙が流れ続け、そこに蝋燭の炎が反射していた。
そして、ゆっくりと、大きく頷いた。
「そう、よね」
言うと、彼女は化粧を直しに行った。
帰ってきたとき、彼女の目はまだ潤んだままだった。
それからどのくらい呑んだのか憶えていない。
彼女は一人で帰ると言ったが、足下は危うく、
一人で帰すわけにはいかなかった。
帰したくない、否定できない感情が俺の奥底に確かにあった。
ふらつく彼女の腕をとる。
柑橘系の香水が鼻をかすめる。
自制しなければならない。
駐車場まで、ほとんど俺が引っ張るようにして連れていった。
彼女は急に俺の手を振りほどくと、車の影に走り込んだ。
嘔吐。
車にもたれ、待つ。
煙草。
切れていた。
彼女が立ち上がる気配がした。
向き直った俺の眼に入ってきたのは、
生気のない彼女の表情だった。
やはり、一人で帰さないで良かった。
下心も役には立つ。
俺の考えを悟られないように声を作りながら、車に乗るように促す。
大体の道筋を喋った後、彼女は眠り始めた。
淀川を渡ったところで、信号に停められる。
彼女の方をそっと見る。
ずっと見ていたいという俺と、それを不謹慎として戒める俺が
俺の中で睨み合っていた。
見ていたいという俺が背中を向けた。
彼女の頬は、濡れていた。
亮。呟いた。
彼女とはそれきりだった。
電話がかかってくることもなく、いつも通りに仕事に追われる毎日を過ごしてきた。
気付けば、職場のファンヒーターがまた、働いている。
ファンヒーター横の机。
いつもにもまして俺以外の誰かがコンピューターを使うようになる。
俺が部屋に入った時、俺の椅子が開いていることなど、まず無いと言っていい。
今も、大谷がいる。麻雀をやっている。
俺に気付いた大谷が話しかけてくる。
「やっぱりここやね、ぬっくいわ」
「十二月にでもなればこの辺冷えますもんね。
しかし僕にしたら、ここは暑すぎますけどね」
「お前は我慢すんねん。お前は根本的に我慢がなっとらん」
大谷には言われたくない。言ってやった。
そのまま談笑を続けていると、不意に大谷が言った。
「そういやお前の連れが事故ったん今頃やろ?」
忘れる筈もないことだった。
「ええ、明明後日ですわ」
「あの後あそこ通ってんけど、壁真っ黒やったもんな。
俺が通った時は雨で流れかけとったけど」
雨ではない。酒だ。
適当に話をした後、仕事を片づける。
日が替わっていた。
車に乗ろうとした時。電話が鳴った。
女の声だ。
「里村ですけど。憶えておいででしょうか」
忘れる筈もない。
「もうすぐ一周忌になるんですが、できればご一緒にと思いまして・・・」
具体的な会話の内容は憶えていない。
同じ店、同じ時間。それだけは忘れなかった。
「明日な、あの子に会うことになった」
その前日、長田に電話した。何となく落ち着かなかったからだ。
人と話をしていれば落ち着く、というのは、よくある事だ。
「お前、まだ引っ張っとったんかい。結構マジやってんな。
ほんでなんで俺に電話やねん」笑いながら続けた。
「どーせ落ち着かへんねやろ。なんでお前両極端やねん。
遊びとマジ、そんだけ区別せんでもええやろ」
反論のしようがなかった。長田は笑っていた。
「遊びん時は鬼になるし、マジん時は初恋に顔を赤らめる
無垢な少年みたいになるし。
お、今の表現良かったんちゃう?
無垢なっちゅうのは褒めすぎやけど」
長田が自分に突っ込み始めた。
これが始まると、話が止まらなくなる。
結局、一時間ぐらいなんの意味もないことを言い合っていた。
何かで爆笑していた長田が、急に声のトーンを普通に戻した。
「落ち着いたやろ」二人で笑った。
長田が笑いながら言った。
「これで昔の借りは、返したで」
俺は首を傾げた。借りはあるが貸しがあるという記憶はない。
おそらく、他愛もない小さなことだろう。
俺が借りと思うものも、奴は貸しと考えていないだろう。
お互いの中にある了解。それでよいのだろう。
亮がいなくなっても、俺を支えてくれる奴はまだ他にもいた。
しかし、彼女には。
今はどうなのか。
支えがあるのか。
気になった。
「そんなんで思い出したんだけどね・・・」
今度は真面目な話になった。
支えだとか基盤だとか、気がつくと日が変わっていた。
結論は、単純だった。
その人それぞれの問題。
自分がどう思うか。
どうすべきか。
全てはそこに集約される。
店は変わっていなかった。
前と同じだった。
多分。
実際、店の様子などあまり憶えていなかった。
目新しいものがない、それでそういう印象を持ったのだろう。
彼女はまだ来ていなかった。
偶然にも、空いていたのは同じ席だった。
ジントニックを頼み彼女を待った。
ホープをくわえる。
彼女の顔、声、涙。
忘れる筈のないものを思い返していた。
待ち合わせた時間になっても、彼女は現れなかった。
俺は二杯目を空にした。
三杯目を頼もうとしたとき、彼女らしきものが眼に入った。
それは俺の記憶ではなかった。
髪が短くなったことだけではない。
何かに憑かれている。
痩せこけている。
以前、ここで話をした時にも、俺は何度が言葉を失った。
しかし今は違う。
驚嘆のあまり。
今晩は、そういう彼女の声が声として届かない。
彼女の発したものとは思えない。
彼女は俺に喋る前に、オーダーした。
バランタイン。
ストレート。
煙草を取り出す。
瘢痕。
手首。
動揺を隠せない。
俺の眼は見開かれたままだ。
「見えました、ね」自嘲的な笑みを浮かべる。
肌が粟立つ。
彼女は他人の事の様に、喋り始めた。
淡々と。
「アルコール依存症って言うんですか。
確かに言ってもらった言葉は理解していたんです。
頭でだけは。でも、呑まずにいられなかった。
起きてると・・・・もう。
呑み続けて呑み続けて。
お正月休みもあったし。
そして、仕事始めの前の日、自分では全然憶えていないんですけどね、
手首、切ってたんです。
運が良かったのか悪かったのか、急に友達が私に会いに来て。
年始の挨拶でもないんでしょうけど。
私も鍵をかけてたら、死ねてたんでしょうけど。
その後一月ぐらい入院していたんですけど、半分は依存症のせいで。
外科から内科と心療内科に部屋を移って。
別に死のうと思った事はないんですよ。
少なくとも意識がある時には。
傷も治ったし、一応安全と言うことで退院はして、
仕事もしてるんですけど、
結局、前程じゃないにしろ、毎日呑んでる・・・」
自嘲、空虚。
「言われた意味は解るけど、結局自分は死ぬべきじゃないかって。
ずっと自問自答してるんですよ。
死のう、とはっきり自覚はしないんですけどね。
あなたに言われた事は、その通りだと思います。
それは理解できています。
でも、亮ちゃんの顔が浮かんできたら、
もう、駄目なんです。
やっぱり傍にいたいんです。
こうやって生きているより、
死んでしまえば亮ちゃんの傍にいれるのかもしれない、そう思うと」
彼女の表情と、言葉が消えた。
俺は煙草を消した。
「俺と同じ、か」
彼女の顔に、表情が現れた。疑問。
「応えがない、という点で。
君が奴に何を望もうが、問おうが、応えはない。
同じ様に、俺が君に何を諭しても、望んでも、応えがなかった。
君は応えない。
それだけじゃない。
君が奴に何もできないように、俺は君に何もできない。
してやれない。無力なんだよ。
君が亮に対してできる事、俺が君に対してできる事。
俺が亮に対しても。
何もないよ。
俺がどれだけ君の事を想い、心配してたか。
そう言うと君の反論は、思いの深さ、
つき合いの深さが違う、という事になるだろう。
でも、俺にとっては全く同じ事なんだよ。
奴が死んでこの世にいない事と、君が死んだも同然になった事はね。
岡惚れだけはしたくなかったけどね。
まして亮の・・・。
でも、コントロールできない感情もある。
君自身、そうだろ?」
「二回しか会ってないのに。これまでに」
「そんなことは、解ってる。
俺自身おかしいとは思うよ。
でも理屈じゃない部分。そこが問題なんでしょ。
理屈なら、君はもう亮の死を振り払って、立ち直ってる筈でしょ。
違う?それと同じように俺は君のことが振り払えない」
「ただし、違うことが一つある。奴は死んで、いない。
君の感情も、俺の感情も、奴に伝わったかどうか、確かめる術はない。
ただ、俺の感情、論理、そういったものは、君には伝わる。それは判る」
「難しくなってきましたね」
微笑に表情が現れている。
俺は無視して話し続けた。
「亮はね、もう君に何もできないよ。生きる事すら、ね。
でもね。君は、奴が望もうが望むまいが、奴のために生きる事も死ぬ事もできる。
誰か、のために生きる事もできる。
君がどう選択するかは、俺には判らん。
それをコントロールする事はしたくないし、できない。
それに、俺が今の君にしてやれる事もないでしょ。
俺ができる事は、願うだけ。君が生きる気力を取り戻すように」
「あなたのために、生きろ、と?」
「それは理想だけどね。正直な処を言えば。
でもそうじゃなくてもいいんだよ。君が生きてさえいてくれれば。
それだけで俺には可能性がある」
「俺には、って、仮に私が死んだとして、それを亮ちゃんが喜ぶ可能性は?
そんな事はないと?そう言いたげに聞こえるけど」
「その通り。君が死んだ処で、誰が喜ぶ?
多分、前にも言ったけど、亮も喜ばない。
亮があの時、君の方を向いたことを後悔しているとは思えない。
それに、奴は君が死ぬ事を望むような奴じゃない。
それなのに。君が死んだら。
奴は君に対し、死をかけて格好をつけた。
結果的にね。そして君は生きたのに、君が自ら死を選んだら」
「それは理解できる。でも、亮ちゃんが、寂しがっているように思えて」
「その可能性はあるだろうね。あいつ、寂しがりな処あるし。
でも、そんなことを確かめることはできないよ。
ならね、自分にとっての可能性を選ぶべきでしょ。
それに、君は二回も死に損ねたんでしょ。
それだけでも、奴が君が死ぬ事を拒否しているという根拠にならない?
難しく考えてもしょうがないよ。答えはないんだよ。
自分で勝手に決めるしかない。
君はあの事故で死ななかった。
手首を切っても死ななかった。
現実、今君は生きている。
だから生きようとする。それのどこが間違っている?」
彼女はうつむいたまま、何かを考えていた。
俺は言いたいことを全て口にし、黙り込んでいた。
彼女は急に顔を上げ、言った。
「今日、車?」
頷く。
「乗せて」
彼女は俺の眼を見ながら、きっぱりと言った。「高速の、あの場所へ」
「どうするつもり?」彼女の真意を測りかねた。
「花を」
車を出す。
駅の近くで花を買う。
俺は花束を一つと鉢植えを一つ買った。
「どうして鉢植えも?」俺は答えなかった。
車に戻り、走り出す。
無言のまま。
30分ほど二人とも何も言わず、黙ったままだった。
高速の料金所にさしかかる。
彼女が口を開き、さっきと全く同じ事を言った。
高速のチケットを受け取る。
走らせる。
本線に乗ったとき、俺は口を開いた。
「死んだ亮と、死のうとしていた君への花束。
生きようとする君への鉢植え」
気障な台詞だ。
うわずりそうになる声を必死で押さえていた。
「一つはあの場所に。もう一つは、君が持って帰ればいい。
君は、生きている鉢植えを持って。
できる事なら、それを見る度に俺が言ったことを思い出して欲しい」
彼女は微笑んでいた。
その表情は会ったときの無機質な感じではなかった。
現場は、もう跡形もなかった。
一年が経過している。
しかし、その場所を、二人とも間違えることはなかった。
二つの花束を置く。
彼女が置き、俺はそれに寄り添うように置いた。
彼女は手を合わせる。
俺はポケットから煙草を取り出し、二本に火を着ける。
セブンスター。
一本は、花束の前に置いた。
置きながら、想った。
なぜお前は来るな、そう言えない。
そう、伝えてくれない。
俺では。
23.エピローグ
綿のような雪が、ふわりと彼女の肩に乗った。
徐々に数を増し、雪が舞い始めた。
車を出す。
彼女がつぶやいた。
「亮ちゃん、泣いてんのかしら」
「そう思えばいい。でも、これは哀しい涙じゃないよ。
寂しがってる涙でもない。何か暖かそうじゃない。そうだろう?」
冗談めかし、上を向いて言う。
猿芝居だろうと、そうするしかない。
「これがお前の涙で、辛いもんじゃないんなら、
少しばかりやませてくれるか?亮?」
その直後、視界から雪が消えた。
二人とも黙り込んだ。
彼女が息を飲んでいるのが判る。
一分も経たないうち、また辺りに雪が舞い始めた。
俺は彼女の方を向いた。
顔を見合わせる。
「嘘だろ?」
俺が言うと、彼女は笑い始めた。
心底楽しそうな声で。
ひとしきり笑う内、声に、別のものが混じり始めた。
今はもう、笑っていない。
俺は黙ったまま、車を走らせた。