火傷
煙草を火のついたまま握り締める。
熱くなかった。ただ、 それを見ている友人の前で奇声を発して戯けて見せた。
それがせめてもの強がりだった。
あの夏。もう七年前のことになる。
僕はある女性を好きになっていた。
五つ年上で、小柄な美人だった。
今から想えば、それはまだ何も解っていない少年の憧れに過ぎなかったのかもしれない。
しかし当時の僕はそれを本気の恋と信じきっていた。
今更ながらに驚くが、僕はその女性を性の対象として見ようとしていなかった。
いや。そう見ることを否定しようとしていた。
それが純粋なものと考える、まだ十七の頃だった。
僕は、その女性をテラスのある洒落たバーに誘った。
そのバーは悪友達の行き付けの店であり、
僕らがそこに行くことは数日前に悪友達に告げていた。
バーに行く事は。
酒の力を借りるためだけでなく、酒の呑める大人なのだというアピールのためだった。
大人イクォール酒が呑める、というのも考えてみれば陳腐な考えだ。
しかし僕は。
単純に大人でありたかった。
彼女に値するような。
彼女にすれば、片腹痛いことだったろう。
子供の背伸びにしか見えなかっただろう。
それは誰より、僕自身が思っていた。
店に着くと、テラスで悪友達が待ち構えていた。
ウインク。手を振る。
僕らはテラスには行かず、カウンターに座った。
僕はテキーラサンライズ を頼んだ。
サンライズ。
その響きに望みを託そうとしていたのかもしれない。
彼女は確かバドワイザーだった。
僕の告白に対する彼女の返事は、必然的に、「ノー」だった。
ただ、 その理由は、僕が子供であるということではなく、
彼女には好きな人がいる、 というものだった。
それが僕に対する彼女の思い遣りだったのか、
それとも事実だったのか、今でも判らない。
その時の僕はそれを事実として受け取る以外になかった。
それが彼女に対する敬意の表し方だった。
大人でありたかった。
そうでない自分が腹立たしかった。
彼女を駅まで送る。
彼女はこれからも友人として、そう言ってくれた。
これは”お決まり”のものではなく、彼女の本音だった。
七年経った今でも。 電話や手紙のやりとりは続いている。
店に戻る。僕の悪友達はまだ呑んでいるだろうと思ったのだ。
案の定。 彼らはいた。
上手くいっていれば。彼らは僕を茶化すつもりだった筈だ。
しかし、彼らも僕の顔を見ては慰めにもならない言葉を綴るのが精一杯だっ た。
そんな気遣いが痛かった。
当然だと強がりながら、ブラッディ・マリーを一気に煽った。
消える筈のない想いを、酒で消そうとした。
煙草をくわえる。
覚えてまだ半年だった。
彼女と知り合って、二ヶ月ほど後に覚えたばかりだった。
大人ではない。
子供でしかない。
そんな自分が悔しかった。
彼女にとって の大人になり得ない自分が。
自分に向かない彼女の感情が悔しかった。
しか し。憎むことはできない。
自分と彼女に対する怒り。
屈辱。
矛先を向ける宛てのない憎悪。
そんな情念にまみれた僕は、自虐的になっていた。
煙草を中指と親指で挟む。
その先の長くついた灰は火を隠していた。
火はしょぼくれて力のない赤色だった。
そんな火が自分と重なって見えた瞬間。
僕は左手首に煙草を押しつけた。
右の掌をその上にかぶせる。
不思議と、熱くなかった。
ただ、涙が溢れてきた。
自分が何をしているのか。
しようとしているのか。
理解できなかった。
涙を誤魔化すために戯けていた。
悪友達の前では、泣けない。
あれから七年が経った。
今、彼女は僕の前にいる。
姓が変わっていた。
他に何が変わったのか、見つけられないでいた。
容姿、喋り方、態度。
笑顔も。
笑顔が素敵だから、そう言いながら告白した自分を思い出していた。
ただ、懐かしいだけだった。
「変わったね」そう言われて笑ってみせる。
変わらない彼女に対して、 僕は相当変わっていた。
大阪に来て一人で暮らし、何人かの女性とつきあう内に成長したのだ。
自分では、そう、思っていた。
僕の彼女について尋ねてきた。
興味深そうに聞き込んでくる。
喋る。
嬉しそうに微笑む。
一連の表情は、全てがあの時と同じだった。
僕の表情の微妙な変化すら見通すことも。
彼女にとって。
僕は弟のようなものだったのか。
それならば、どう足掻こうが僕は子供でしかあり得なかった。
結局僕は。彼女にとってはそのようなものだったのだ。
それすらも。
変わる事はなかった。
しかし。
僕は。
それを面映ゆく思えるようになっていた。
大切な記憶の中で。欠落しているものがある。
今も残る火傷の痕で。
感じたはずの熱さは。
煙草の熱さは。
どうしても思い出せない。
熱いとも思わなかった。
本当に、何も感じなかったのだろうか。