ブラッディマリー
トールグラス。煽る。穏やかに下りる。胃で燃える。また煽る。
万里。それが彼女の名だった。頼りなげな躰と寂しそうな眼が印象的だった。 大学のサークルの飲み会にOBとして顔を出した。 俺達は、ただのスポンサーだった。俺が学生の時にもやった手だ。OBを呼び、金を出させる。侍らせた女の子で機嫌を取る。 悪しき習慣と言えば、そうなのだろう。しかし、それを否定すると言うのも大人げない。そんな雰囲気で、適度に騒ぎながら呑む、 そういうものだ。マネージャー候補、そういう理由で、万里はいた。場違いだった。冗談で、どこで間違えて、などと聞いてもみた。 万里はただにこりとするだけだった。周りに溶け込むでもなく、しかし楽しんでいるようにも見えた。
二次会に行く面子と別れ、俺は彼女を連れ、静かなバーに行った。半強制で。あまり飲んだことが。軽く甘口のカクテルを。 バーテンに頼む。薄めで。笑いながらバーテンが頷く。俺には、ジンを。ライムで。バーテンが首を傾げる。俺も笑いながら頷く。 何故あんな席に。友達とのつき合い。そんなところだろう。適当に言葉を交わしながら、俺は彼女に惹かれる自分を否定できなかった。 俺より七つも下だった。
それから何度となく会う度に、俺は彼女への感情の高まりを感じた。彼女もそうだった。自惚れではない。今ここにある痛みこそ、 その証拠となる。彼女は俺が初めてだった。俺にしがみつき、悲鳴を上げた。まさか、そう思ったが、シーツに残った染みが それを証明していた。彼女がそれに気づいたとき。顔を赤らめ、泣き始めた。そんな彼女がいとおしく、抱き締めていた。
俺達はいつも一緒だった。互いの生活に支障のない限り。お互いの部屋に行き来し、ただ、そこにいる。会話、というほどに 言葉を並べる必要はなかった。お互いに、そこにいるだけで安心し合える。万里となら、ずっと一緒にいられる。 二人ともそれは解っていた。それを、いつ、言葉にするか。言葉にしたら。それがプロポーズになるはずだった。灯りを消す。 万里は少しでも灯りがあるのを嫌がった。恥ずかしいから。過去、であれば。一笑に付してきただろう。隙を見てリモコンに 手を伸ばしたりもしただろう。しかし、万里にそういうことをする気にはならなかった。一緒にいるためには。一緒にいたいが為に。
しかし。別れは、唐突だった。
一本の電話。彼女の父親。彼女の携帯のアドレス帳。病院に単車を飛ばす。彼女は躰中に包帯を巻いたまま、静かに眠っていた。 眠り続けていた。交通事故だった。顔を見ても。父親が頷く。母親は泣き崩れた。その寝顔は、俺の腕の中で眠る彼女と同じだった。 美しくさえ、あった。肌は。頭に巻かれた包帯と同じほどに白かった。叫びにも似た嗚咽。涙が溢れてきた。胸の上で組んだ手を見る。 たおやかな指に。いくつもの傷が見えた。右の手首は、不自然に曲がっていた。それら全てがぼやけて見えた。悔やみの言葉は 言葉に為らず、早々に家に帰った。独りで呑み続けた。そんなお酒、イヤだ。万里が笑いながら凭れていたクッションを抱く。 ブラッディマリーを煽り、血塗れで死んだ万里を想った。
死も、死の与える喪失感も、日常を送る内、いつしかどこかに紛れて消える。生と死の隔壁は脆く薄いようであり、 その実無限に頑強でもある。俺はそう想うことで万里を想い出さなくなる自分を正当化した。仕事に明け暮れる事で想いを 振り払おうとしていたのは隔壁を越える事を忌避する本能的な行動だった。そしてその行動は正しかった。筈だった。
友人の電話。招待を受ける。彼にしてみれば、それは好意からだった。俺が落ち着いてきているのは傍目にも判っていただろう。 俺自身、そう想っていた。そこには、友人の妻と、その妹、真理がいた。いい娘なんだが、以前からそんな風に聞いていた。 本当にいい娘だった。この日を境に、万里は真理に取って代わっていった。
その日は、そのまま友人の家に泊まることになった。寝付けない俺は、枕が変わったせいにしていた。眠りについても、それは浅く、 風の音でさえ俺の目を覚ますのに十分だった。何度となく目を覚ます。夢を見ていた。その夢は、思い出せなかった。しかし、 いい夢でないことは、俺の躰を濡らす汗が語っていた。思えば、この時に気づくべきだった。
真理は、万里と対照的な女だった。明るいその性格と言動に一致して、健康的な浅黒い肌を光らせた。元の肌の色が判らない、 そう言いながら明るく笑う女だった。 ベッドの中でもそうだった。その時の行動言動だけでなく。蛍光灯だろうが太陽だろうが、 灯りがあろうがあるまいが全く気にする女ではなかった。それをはしたないと思わせない女だった。真理と一緒にいることが、 自然に思えてきた。真理こそが、自然なのだ、そう思い始めた。真理と、いることこそが。
その日。明らかに顔色が悪かった。何かあったのかと聞く俺に、彼女はなんでもないと答えて、笑った。作り笑い。嘘だ。 俺は譲らなかった。押し問答。彼女が折れた。 実は。彼女はぽつぽつと喋り始めた。曰く、最近眠れない日が続く。その理由は、 悪夢らしい。どのような夢かは思い出せない。ただ、血のような赤い色だけ。それだけ。あまりに漠然とした答えだった。 想い出してみれば、彼女はこのところ赤い服を身につけていなかった。それに、俺自身も寝不足だった。理由を仕事のせいにしていた。 不安感を打ち消し、気のせいだろう。そう言った。彼女は作り笑顔で答えた。そうだね。 とにかく、この嫌な感じを吹っ切ろうとした。 俺は先にシャワーを浴び、裸のまま真理を促した。真理はタオルを手に取り、ユニットのドアを開けた。蛇口をひねる音がしたその時。
彼女の悲鳴が聞こえた。ドアが開き、彼女が転がり出てきた。裸のまま、顔を蒼白にして彼女は震えていた。俺はタオルを 彼女の肩にかけた。風呂をのぞく。湯気がたっているだけで、何もなかった。何。問い質す。彼女は震えたまま、声を出せない。 彼女の頬に掌を沿える。何かあったのか。もう一度聞く。彼女は深呼吸した。シャワーから。血が。それだけ言うのが精一杯だった。 彼女の肩を抱きそのままベッドにかけさせた。気のせいだ、錆でも出たのだろう、そう言ってやる。 落ち着かせようとした。 忘れさせようとした。こういう時にどうすればいいのか。俺にできることは彼女を抱いてやることだけだった。彼女も、 恐怖心を薙払うかのように俺を求めてきた。挿入れたその時。彼女は声を上げた。
愉悦ではない。
悲鳴。
彼女は天井を見上げたまま、眼を見開き、震えていた。俺は、瞬間的に萎えていた。真理のその表情に恐怖すら覚えた。 振り向く。ただ天井があるだけだ。真理は歯を鳴らしている。何もない、大丈夫だ。そう言って抱き締めてやる。 真理は俺にしがみついたまま、五分ほど震えっ放しだった。 震えが収まり、彼女の眼に落ちつきが見て取れるようになって初めて、 俺は躰を離した。呑むか。頷く真理にグラスを渡す。注ぐ。更に彼女の肩を抱いたまま、時間を過ごした。彼女がゆっくりと 息を吐いたとき、俺は彼女に何を見たのかを聞いた。気のせいだとは思えない。嘘のような話だが信じて欲しい。彼女はそう言い、 何度も唾を飲み込みながら話した。俺の肩の向こうに、血塗れの女がいた。その顔に見覚えはないが、その表情は敵意をむき出しにしていた。 その女は上半身しか見えなかったが、裸で、その白い肌は血塗れだった。 俺の脳裏に浮かんだのは、病院のベッドに横たわったまま眠る、万里だった。馬鹿な。俺は真理から離れ、机の引き出しを抜き、 その中身を床にぶちまけた。その中には万里の写真があった。顔がはっきり判るものを選び、真理に見せた。真理は息を飲んだ。 この人が。万里のことは話していた。頷く。間違いない、真理はか細い声で絞り出した。真理は首を横に振り、何も言えなくなった。 表情のないまま、下着を身につけ始めた。どうした、尋ねる俺に彼女は小さな声で答えた。帰る。落ち着いたら電話するから。必ず。 でも今は。恐い。必ず電話するから。そう言う彼女を引き留める手だては、なかった。
必ず、と言ったが、彼女からの電話は無かった。一月経ち、待ちきれなくなった俺は彼女に電話した。聞こえてきたのは、 機械的な声だった。受話器を置き、再び取り上げた。彼女の姉がいる家に電話する。友人が出る。何があったのか知らないが、 彼女は実家に帰ったという。知らないのか。キャッチが入った、少し待て。彼はそう言った。少しではなかった。随分待たされた。 二本目の煙草を吸い終えた時、彼の声が聞こえてきた。今の電話。冷静に聞け。良くない知らせであることは判りきっていた。 まさか、とも思わない。それ以外にはあり得ない。そう思えた。驚くほどに、俺は冷静だった。 真理が、死んだ。事故。今から実家に向かう。それだけ言うと、彼は電話を切った。
俺は台所に入った。冷蔵庫から、酒を取り出す。グラスの中の液体をかき混ぜる。ほぼ無意識だった。
そしてその酒は。彼女そのものだった。
首筋になま暖かいものを感じた。俺の顔から音を立てて血の気が引いていく。
懐かしさをたたえた恐怖。
叫びそうになる。振り向くな。俺の声が聞こえた。俺は右肩から向き直っていた。ガラス窓に。強張った顔が見えた。
俺自身の。
誰もいなかった。
どこからともなく。
聞き覚えのある笑い声が聴こえてきた。
あの、優しい笑い声が。