アコギなParty 30
in 神戸チキンジョージ
2005.3.12
三月も中旬だというのに寒風吹き荒ぶ土曜日。
好天なら単車で行くつもりが朝起きた瞬間には電車に変更。
阪急を乗り継いで三宮は久しぶり。
学生の頃はよく歩いた街。
その頃とは違う場所になったチキンジョージでのライヴ。
考えてみりゃ旧チキジョに入ったことなかったな、わし。
ホテルはチキジョのすぐ近く。
チェックインして久しぶりな麗しきまるゆねえさまと太ったなあおいShige。
その後皆で連れだってお茶(わしはビール)。
お店の前にはドラゴン・ゲートのドン・フジイ選手(たぶん)。
あ、国内で最高のプロレス団体ね(笑)<ドラゴン・ゲート
握手ぐらいして貰うたら良かったかなあ・・・
そんなこんなで開場時間も近づきわさわさとチキジョへ。
Joseも合流し入場へ。
こんなに椅子を詰め込んだライヴハウスは初めて。
まあアコギだしそんなに躰を動かさない感じなのかなあ・・・・
とかなんとか思いつつ混んでたのでめんどくさがって
ドリンクチケットはポケットに入れたまま開演を待つ。
・・・・ライヴハウスなのに呑んでねえぞ(爆)
一際大きくなるBGM。
甲斐よしひろは独りで出てきた。
ちんぴら
ええとこのコード進行は・・と一瞬思ったが
唄い始めれば判ると思い直すヒネたファンですみません。
「お茶」の瞬間に思わずニンマリ。
一つには「こう来ますか(^^」なニンマリ。
もう一つは、後述。
裏切りの街角
松藤さんが入ってのもっと違うせんしゃぼいぼい裏切りの街角。
いい。これはいい。
何が良いかを書くともう纏めてしまいそうなので我慢します。
きんぽうげ
前野さんも合流しオールスターキャスト。
甲斐さんの唄い方はアルバムに近い感じ。
こういう雰囲気で唄うのも珍しいと感じた。
これもまた、いい。
何が(略)
ビュ−ティフル・エネルギ−
アルペジオのパターンがちょっと変わってたような気がした。
やはり甲斐さんは卑猥、松藤さんはえっち。
甲斐さんの声も、松藤さんのも、きっちり届く。
武道館の時みたく声&音に包まれるのもいいが、
「胸で聴く」感じもまた良い。
このニュアンス、解るよな、行った人なら(笑)
かりそめのスウィング
立ってリズムに身を委ねたかったなあ、これは。
良識派のわしとしては、立って後の邪魔になったら・・・ と、考えてしまうのですよ。
毒舌なわしとしては、クラップ要らんわい、なんですけど。
素直に躰を乗せた方が気持ちいいんじゃけどね、わしは。
安奈
師走二連荘甲斐(笑)
まあ唄は唄詩は詩であり実際の季節とは関係ないと思ってるので
セットリスト見てあらそうだったん、ぐらいにしかわしゃ思いませんけど。
それにしても、いい。
この曲が終わって、わしゃレポートのあらまし、決めましたよ。
かなりの確信を持って。
レイニ−ドライヴ
詩の内容を忘れるほど気持ちいい響き。
哀しい詩なのになんでしょうかね、この心地よさは。
おとなしめの曲調なのに椅子の上で躰を揺らすだけというのに
我慢できなくなってきたんですけどね、わしは。
愛のもえさし
このライヴ最高の収穫と思いますわしは。
原曲があれで、カヴァーがあれで、じゃあライヴはって興味はあるじゃないですか。
その意味も込めて某アンケートに書いたんですけどね。
それがもう、絶品。
期待してたものを遙かに越える力量にはもう敬服ですよ。
スネアなしでカヴァーしたのが「アタタカイ・ハート」で、
ライヴじゃあスネアどころかベースライン皆無なんですよ。
言い切りますけど、これを体感できなかった人は
人生の何かを欠落させたまま生きてると思いますよ。マジで。
この辺をKeyに後述しますけど。
ブル−レタ−
これもパターン変えちゃったんかな。
それにしても唄が滲みる。
罪にしろ業にしろ、重いんですよ、最近。
そんな状態であの躰に響く音に声でしょ。
この辺からわし、声出せなくなってきた。
花,太陽,雨
ええ迷ってますよわしゃ(笑)
とまあ個人的な心情はともかくとして、
とにかく進化の一途を辿るこの曲。
演る度にうねりが増して行く、という感じ。
うねりに躰を任せたい欲求はもう臨界。
子供に聴かせたかったなあ・・・・
漂泊者
臨界突破(爆) なんですけど、声は出せませんでしたね。
ここからアンコールに入るまで。
音と湧き出すモノに身を委ねるしかないです、こうなると。
風の中の火のように
破れたハ−トを売り物に
手を抜いてるわけでも、思い出せないわけでもなく、
この二曲をまとめて書くか、って感じでしょうけど。
漂泊者だけならまだしも、この二曲続けて来られるともうどうしようもないんですよ。
今現在のわし。 何かが堰を切った、ですよ、マジ。
翼あるもの
一息入れて落ち着きはしましたけど、 そこでもこれかい、てなもんでしたね。
フルで演る時とこれほど違う唄い方は珍しいんですけど、
その方が堪えますって(^^;
感触
素直にこれを受け止めれた頃が懐かしい・・・
ってレポートからどんどん逸脱してますね、わし。
いや、走るしかないのは解ってますよ。
走りますよ。
テレフォン・ノイローゼ
で、唐突に冷静になって前ふりしときますけど、
この曲はこのツアーを語るに外せませんね。
二十年近く前からこのスタイルはありますけど、
甲斐さん自身が自覚してこれを演ってるとわしは想います
。 ニンマリしながら気持ちよくなってました。
HERO
これは新しいっ!
その内「HERO」だけでアルバム作りそうなぐらい
いろんなヴァージョンがあるこの曲に更に進化を加えるとは。
子供に聴かせたかったなあ・・・・#2
熱狂(ステ−ジ)
だから滲みるんですって(瀑)
嵐の明日
これを言ってしまうと身も蓋も無いんですが、
ハモリの力が明らかに違うと思います、オリジナルとは。
ハモリが絡むか平行線かってね。
バンドとユニットはこう違うって見せられたような気がします。
でもね。 そんなに届けられても困るんですよって(笑)
バス通り
この曲を唄う甲斐さんの声は蒼くなる。
どこかが戻るんでしょうかね。
「かりそめ」の「口に巻きつけた」じゃないんでしょうけど。
齢五十を越えてその声か、と感慨に耽るもわし自身三十越えたしと新たに感慨。
独りじゃ遠過ぎる、けど二人以上もまた遠いんですよ。
と更に想ったりもして。
とにかく、声が躰に響くライヴであったのは間違いないと思う。
その響きの強さに個人的感傷が共鳴してしまった感じで、
これほど余韻というか、感傷が尾を引くライヴは初めてだった。
もちろんそれはかつて経験のない個人的環境のせいでもあるだろうから、
その分は差し引いて考えるべきだろう。
しかしわしの感傷を触発して余りあるほどの声であったのは間違いない。
抽象的な言い方を繰り返すが、わしは耳で聴いたのではない。胸で聴いたと断言できる。
スナイプされたが如く、声が胸に飛び込んで来るのを感じた。
これはおそらく、「My name is Kai」の時は実験的であったものの一つを、
確信を持って意識的に成し得た事ではないかと思う。
推測にしか過ぎないが、わしはかなりの確証を持っている。
「My name is Kai」のレポートでは音楽的な部分についての考察は書けなかった。
音楽的には素人なわしに音楽的な確信などそうそう持てる筈もない。
まして説得力のある文章など書ける筈もない。
だから、明記せず他で少し触れる程度にしておいたのだ。
しかし繰り返され、更にはそれが増強されるとなると疑念は確信に変わる。
90年前後のA.G.の時、甲斐よしひろはこう言った。
「隙間を音が通って行くのを感じた」と。 会場の空間に音が滲み入る感じ、だったのだろうか。
それを今回に置き換えてみれば、言うかどうかは知らないが、
「客の躰に声が入っていった」または「客の躰が声に共鳴した」だろう。
これはステージの上からほくそ笑む程に実感していたことだろう。
その事象は、意識的に創り上げられたものなのだから。
これを意識しているからこそのMCもあった。
「フルで演る時と同じように歌え」である。
もちろん客席の環境、アコースティックだからこその音の隙間、
そんなもので客が大声を上げにくいのもあるだろうが、
客が大声で歌えなかった要因の最大のものは
「この声を聴いていたい」と思わせた事ではないか。
あの(笑)混じりのMCには確信犯的な面映ゆさがあったのだと思う。
もしかするとこの環境でないとそういう状況を作れない歯痒さもあったのかもしれないが。
そうであれば自嘲も混ざったMCだった、ということになるのだが、
これは本人でなければ解らないことだろう。
いずれにしろ、このライヴのテーマ(1)は、
「演者(爆)の声と客の躰の共鳴」だったとわしは思う。
さて(1)があれば当然(2)がある。
これは以前にも書いた事なので暇な人はここを参照されたい。
ここが先ほどの「他で触れる程度」の文章である。
この時点では未だ憶測に過ぎなかったが、今回はかなり自信を持って言う。
「My name is Kai」では甲斐よしひろが独りでピッキングする場面が多かったが、
今回は松藤英男のフィンガーの方が断然多いのだ。
にも関わらず、「My name is Kai」を上回るグルーヴであった事に間違いはない。
「裏切り」「きんぽうげ」「かりそめ」そして「もえさし」。
わしは太鼓ありかと錯覚するほどのグルーヴ感を感じた。
座ったままでいるのが苦痛になっていったのは尻が痛いからだけではない。
リズムに躰を委ねたい欲求が経時的に増大していったのだ。
だからこそわしはエイトビートのクラップに違和感を覚えたのだと思う。
フルで演る時にも結構あるが(笑)、今回ほどクラップが野暮ったく感じた事はない。
アコースティックユニットであるにも関わらず。
表=8だけ、アコースティックユニットだけでも裏=16のビート感を表現し得る事、
これこそが今回のツアーで 最も純粋な意味での音楽的アプローチである。
もはや断言してしまうが。
「THE 甲斐バンド」の「テレフォンノイローゼ」と 今回、
または「My name is Kai」のものを比べると判り易いだろう。
明らかな16で弾いている事もあり、グルーヴ感は全く違う。
これは「見える」例ではあるが、エイトのアルペジオでも同じ事ではないだろうか。
全曲に渡り、うねるようなグルーヴをわしは実感したのだ。
このテーマ(1)、(2)、どっちがメインなのかは判らない。
わしは(2)が先にあって「My name...」で(1)にも自信持って
なら唄う方により集中したいのでギターはグルーヴ感を理解/表現できる松藤さんにほとんど任せた、
のではないかと思ってはいるが。
しかし(1)と(2)、声とグルーヴの相乗効果は明らかにある。
どっちが、と考えること自体が愚かしいのかも知れない。
しかし例によって、まだ終わらない(笑)
ネタは挟みませんが。
順序は逆になるが、これほどわしが自信を持って
断言しているそのわけについても述べておかなければなるまい。
武道館のレポの末尾、わしはこう書いた。
「飛天で演奏されなかった事でKeyとなった曲と、
ある種同じような意味を持ち珍しくカラフルな照明で唄われた曲、
この二曲に注目しつつ今後の活動を凝視していきたい。 」
わしは「ちんぴら」が始まった瞬間にニンマリとした、とも書いた。
武道館のレポで述べた予測が確信になったからである。
要するに「この二曲」とは「ブライトン・ロック」「観覧車’82」である。
同じ様な意味を持つ事はお判りだろう。
同じアルバムに入っていることはこの際無関係であるが。
「どこを切っても金太郎ブライトンが出てくる飴」と
「同じ所を回り続ける観覧車」との類似性は、
言うなれば堂々巡り、である。
わしは武道館の時、これを予測した。
堂々巡りをしてみるぞ、そう甲斐よしひろが言ったものと解釈していた。
そうすることで金太郎の顔いや「ブライトン」の文字のように
アーティスト・甲斐よしひろの実像が浮かび上がってくる、
と甲斐よしひろは確信していたのではないか。
だから、ギター一本のスタイルで「Beatnik 2001」のオープニングでもあった
「ちんぴら」を唄い始めた時、わしはほくそ笑んだのだ。
正に「同じ事を繰り返している」のだから。
つまり飛天から武道館までの五年間に垣間見えたものを
同じ様なことを繰り返して明らかにする、
そんな意味合いが あの二曲には込められていたと思うのだ。
だから、「My name...」で感じたより更に強くなったものが、
このツアーのテーマである、とかなりの確信を持って言えるのである。
さてそうなると、アコースティック=My nameの次は甲斐バンドであった。
大森さんが既に亡い今、甲斐バンドは考えられない。
しかしそのDNAを受け継ぐ人々は、在る。
「バンド」と呼ぶに相応しいメンバーが。
彼らと共に何を見せてくれるのか、期待して待つことにする。
どこで観ることになるのかの方が個人的には問題だったりするのだが(爆)
蛇足。
これはわしを知る人にだけ読んで貰えればいい事。
レポートよりも前に心情だけまとめた(まとまってないけど) 文を書いてみたんです、実は。
自分の状況を判って欲しい、そんな甘えた気分で。
自分で読んで泣けるぐらいの名文なんですが、
誰にも読ませずに捨てることにします。
ケツの穴見せるより恥ずかしい事と気づいたので。
というか、それにも気づかない程、滅入ってたんですね。
まだ浮かんでは来てませんけど。
まあ、ぼちぼち先を見据えてつつ歩きますということで。