Vintage Hands
祖父の手に、小指はなかった。
真当な、至極真当な百姓であった祖父にその筋など関係はない。
脱穀機で切ったのだ。
日焼けした無骨な手だった。
節くれ立った太い指だった。
指先には広く大きな爪があった。
そんな手で本を捲る手つきは、今でもよく憶えている。
その手は。
浮腫み、紫斑でまだらになっていた。
私が握ったその時には。
思い返せば、幼少の頃握った記憶はない。
微かに手を繋いだ気がするものの、 その手の感触も温度も何もかも記憶には無い。
既に手術の出来る状態ではないと聞かされてから十年が経っていた。
病室で手を握った時には既に。
歩くことなど出来ない状態だった。
痛みを和らげる薬で夢現となったままだった。
私の顔を認識できたのも入院当初ぐらいで、 後はたまに我に還った僅かな間にしかなかった。
夢の中で私の手を握り、微笑む祖父。
何事かと問う伯母に高校の入学式に臨むのだと笑う。
勉強して大学に入るのだと心構えまで述べていた。
叶わなかった夢。
祖父は家の事情で大学進学を断念し、次男でありながら家を継ぐ事になったのだ。
当時私は大学生であったが、顔を見せる度にすることと言えば 大学で何を習い、何をしているかであった。
それが私に出来る最大の、そして最低の孝行だった。
言外に祖父の為し得なかった事を今私がしているのだ、そう思うことにした。
そう思って欲しいと願った。
それほど学業に身を入れていた訳でもない私の、祖父に対する、 最大の嘘であり、最大の裏切りだった。
死に臨む床の中で夢を語る祖父に相槌を打った。
家督を継ぎ、戦争を丙種のため国内で過ごし、
地方政治に身を置き、子を育て、子を失い、孫を抱き、私を叱り。
祖父は一生を病院のベッドの上で追体験していた。
余りにも緩やかな、僅かずつ廻る走馬燈だった。
歩くのもやっとになりつつあった頃顔を出した。
少しでも良いから外を歩くように言ったのは私だった。
無理なのは解っていた。
堪えがたい痛みを堪えているのだろうと推していた。
それでもそんな事を言った。
私が隣室で煙草を吸う間に祖父は寝室となっていた居間からいなくなっていた。
庭先でへたり込む姿を見つけたのは伯父だった。
伯父の怒声が響いた。
玄関から僅か数歩の所だった。
私の叱咤だからこそ応えようとしてくれたのだ。
私が云ったから。
私は伯父に言い訳した。
しかし、祖父の躰は私の叱咤にも、祖父自身の意志にも。
応えることは能わざる状態だった。
私は時を確信せねばならなかった。
しゃがみ込んだ祖父の手は、力無くだらりと垂れ下がっていた。
干し柿で家を飾った秋、私は祖父の持つ包丁を奪うように受け取った。
私が剥いて見せよう、そう笑いながら。
既に骨髄を侵された祖父に出血を止める機能が欠如しているのは知っていた。
伯父や母の会話を知らない振り、聞かない振りで全て理解していたのだ。
万が一、手元の誤りが生じれば。
現在の私であれば多少の止血は出来る。
しかしその頃の私には病院に担ぎ込むのが関の山だった。
私が自分の指を切るのであれば。
如何に不器用な私でも将来に差し支える程に指を切ることなどあり得ない、そう思った。
私の包丁の使いは祖父を真似たものである。
教わるまでもなく、見てきたのだ。
そう笑って見せたが、祖父は私の手元から目を逸らさなかった。
危なかしい手先の私を気遣い、また手先の職業に就く筈の私の将来をも危惧する目だった。
積まれた柿の中から、三つも剥き終わらない内に、祖父は別の包丁を手にしていた。
呆れ口調で笑いながら、祖父のするままに任せた。
たかが干し柿だろうが、祖父が子や孫に与えようという心持ちであるのは知っていた。
その想いに口を差し挟めるほど祖父に敵う人間ではなかった。
未だに敵うものではない。
祖父の手から、私の掌に乾いた物が落とされた。
醤油に漬けて食べれば良いのだ、そう教えられた。
小学校低学年の私は迷うこともなく、云う通りにしていた。
割られた薪の中に巣くうカミキリムシの幼虫を焼いて私に手渡したのだ。
望外に美味かったのを憶えている。
祖父の手つきを真似て憶えた薪割りの途中の噺である。
私は毎夜の入浴を最も恐れていた。
浴室が別棟にある百姓屋敷では、一旦玄関を出、庭先から浴室に行かなければならなかった。
浴室は当時牛小屋の真横に位置していた。
浴室に行く為には牛の眼前を歩かねばならない。
一頭の牛を私は恐れていた。
今にして思えば、乳牛すなわち牝であり、しかも鎖に繋がれているのに。
三歳になるかならないの時期だったのだから、 そのような理屈はあってないようなものだったのだろう。
とにかくも角を折り、眼をギョロつかせた一頭の牛を私は恐れていた。
祖父や祖母に連れられ浴室に入った記憶が微かにある。
あるいはこの時、祖父は私の手を引いていたのかも知れない。
動かない手が組み合わされていた。
枕は北の方角にあった。
もう一度、顔を見ておきたかった。
もう一度、顔を見て欲しかった。
手を合わせながら、涙を零した。
その夜、蝋燭の番を命じられた五人は次々と眠りに落ちた。
私を除き。
話し相手のいなくなった私は棺桶を開き、 祖父の顔を、
決して醒めることのない寝顔を眺めながら従兄弟らの不躾を詫びた。
灰皿と蜜柑を傍に列べ、徒然と記憶を辿りながら蝋燭を見守った。
煙草を揉み消す私の手。
何かが私の頭の中で音を立てた。
爪。
私の爪。
年を経るごとに横幅を増した私の爪。
それは、祖父の爪そのものだった。
祖父を失った哀しみが束の間、消えた。
私の中に在る。
心の中にも、躰の中にも。
そして。 新たな哀しみが私を覆った。
何故これまで気づかなかったのか。
それを、伝えることができなかったのか。
私は微かな声で呟いた。
御免。
有り難う。
火の付いた煙草を挟む指先を眺めた。
頬が緩む。
襖の向こうから、階上から。
人が動き出す音が聞こえてきた。