2008 BTR ボクラノウタ Tour

at Cookie Jar

2008.2.9

 

 

   20年前、ライヴ童貞を捨てたのが倉敷という街だった。

  Straight Life Tour。

  骨折が癒えてない足を引き擦り、電車に乗って行った街。

   

   とは言え、久しぶりな感覚など微塵もない。

  師匠に確認するまでそれが倉敷だったか岡山だったか 全然憶えがなかったし、街並みにもまた記憶がない。

  わしは福山市の東の外れにある高校で寮生活を送り、 一時間以内に行ける範囲に住んでいたのだが、

  倉敷になど遊びに行った事もなかった。

  鷲羽山に当時の彼女と行ったぐらいか。

 

    駅から宿はすぐ近く。

  チェックインして荷物を置いて暇を潰したら、 てけてけ歩いて師匠と合流。

   前に会ってから随分立つ。

  結婚前だったからもう八年ほど前になるか。

  それでも師匠と崇める人物である。

  近しい人は全てそうであるように、 昨日会って飯でも食ったかという雰囲気で会話が成立する。

  ご無沙汰、というのは只の建前ご挨拶である。

 

   会場であるCookie Jarに入り、テーブルに陣取る。

  ライヴハウスでは煙草吸いながらでないと。

  曲を聴きながらの煙草は旨いのだ。

  誰がなんと言おうと。

 

   ぼそぼそと師匠と話をしながら開演を待つ。

  この場合開宴でも正しい。 楽宴が正しいように。

 

   三人が出てくる。

  「まったり」なMCで始まる。

  兎にも角にも、気持ちいいグルーヴであるのはいつも通りである。

  わしに音楽的に難しいことは判らない。

  しかしこれが気持ち良く、凄いものであることは肌で解る。

  ポーラ・アブドゥルなら立ち上がり躰を揺らすに違いない。

  その点では、いっそ、スタンディングぐらいの方が良いのかもしれない。

 

   新旧取り混ぜ、MCはのんびりと。

  音楽的志向は同一なのに、詞がつくとそれぞれに異なっていて面白い。

  以前「IS」について「大人の素直なポップス」と評した記憶があるが、

  本当に素直に実直に詞を書いているのかもしれない。

  それほどにそれぞれのキャラクターは明確である。

 

   そう言えば「詞の何かがどうひっかかるか」という旨のMCがあったが、

  詞というフィクションをどう捉えるかは確かにその客(聴き手)次第である。

  詞の全てやまたはその一部を、自分の事と捉えるか、自分への教示と捉えるか、

  自分に近い何ものかと捉えるか、それら全てこちらに委ねられたものである。

  また唄を聴いて感じる痛みや暖かみなどの感傷や感情。

  乱暴に言ってのければそう言う感じ方を引っくるめて「共感」と呼ぶのだろう。

   これもMCであった内容に触れるが、結局聴いているのは「詞」だけ、そんな人が多いのだろうか。

  「音」とか「メロディ」とか「リズム」とかに共感を得る人は少ないのだろうか。

  Cookie Jarを訪れた観客の数から察するに、多分、少ないのだろう。

 

 

   ・・・思いっきり話を横道に逸らそう。

 

   甲斐よしひろも昔ライヴやラジオで「客のリズム」を何度もネタにしていたが、

  別段甲斐バンド、甲斐よしひろの客に限ったことではない。

  先日TVで観た、とあるユニットのライヴ中継。

  ステージで唄うのが若者なら、客も勿論若者である。

  書いていてなんとなく寂しい気分もあるが(笑)、

  まあ明らかにわしよりも一回り以上下の世代なのだからそう呼ぼう。

   TVの中のライヴは、盛り上がっている雰囲気を醸し出している。

  ステージも、客も、楽しそうに躰を動かしている。

  しかしながら、ステージ上ではリズムよく唄っているその周りの客達は、

  当然の如くの「ウン パッ ウン パッ」であった。

  ステージと客席では違う曲が流れているのかとすら見紛う程である。

  もの凄く不思議な感覚を得た。

  客にしてみれば、今をときめくアーティストのライヴにいるのだ。

  是非とも「盛り上がった感」を表現したい事だろう。

  それには躰を動かすことである。

  リズムに乗って踊るのは難しかろう。

  手っ取り早いのは、拍手だ。

 

   しかし・・・・

  打てるのは、「ウン パッ ウン パッ」でしかない。

  

   わしが得た「不思議な感覚」とは。

  喜色満面に、おそらくは心底楽しむ人々によって、 絶望的な乖離が表されたこと、に、発するものなのだろう。

  観ながらわしが発した素直な言葉は、「ほんとに楽しい?」だった。

  

   リズムを体感しそれを躰で表現する、というのは難しい作業であるに相違ない。

  少なくともわしには無理な作業だ。

  感じることならば僅かに出来るという確信はあるが。

  だからライヴ中に拍手しないことが増えたのだが。

  立場を変えれば、ライヴで躰を揺らすだけ揺らして 顔が素だったりするわしなど、

  「ほんとに楽しい?」と言われるのかもしれないが。

 

   ・・・わしは誰に喧嘩を売ってるのだろう?(笑)

 

 

   まあそんなことは後で、というより、今、考えたことである。

  少数精鋭的なご満悦も確かに楽しいのではあるが、 どうしても勿体ないと想ってしまって不思議なのである。

  話をちょっと戻せば、その点「歌手が良い」とか「唄がいい」というのは 表現し易いというのも一点、かもしれない。

  どこかのライヴに出かける、出かけたとして、「歌手」や「唄」について語るのは、 比較的容易な事ではないか。

  対してリズムとかグルーヴとか、そんなものを語るのは困難である。

  この屁理屈こきのわしからして「こういうの」としか表現できない体たらくである。

  そんなものを語る為だけにライヴに行くものでもあるまいし、 この点、正しいのかどうか判らないが。

 

   とりあえずわしにとっては、リズムもグルーヴも唄も、好きなものは 是非とも観たい、感じたいものなのである。

  

 

   どんだけ太い横道やねんとツッコミを入れつつ、 強引に話は戻してしまおう。

 

   次回作のタイトルは「3×3」だそうである。

  とすると。

  先程キャラがはっきりと・・・等と書いたが、これは意識的なことなのかもしれない。

  多分、きっと、おそらく、そうに違いない。

  一回聴いただけの印象を言葉足らずな表現で、というのを承知で言うが、

  「故意に」それぞれを区別すべく、「敢えて」解り易く、

  坂井さんはman to (wo?)manな唄を、

  前野さんは普遍的な唄を、

  松藤さんはman to (wo?)manなんだか独りよがりなんだかな唄を、 書いているのではないか。

  バラバラに見える個性が集まって、 「一つのグルーヴ」を形成していることを強調するかのように。

  そのためにBTRが存在しているのだとの宣言に似たものかもしれない。

 

   となると、思い起こされるのは松藤さんの過去の活動、 甲斐バンドの中での活動が思い起こされる。

  そんな想いで作られた、というアルバムがあったのではないか。

  あのアルバムは、メンバーそれぞれがそれぞれにプロジェクトを作り、

  別々の12インチシングルに4曲ずつをしたためたものであったが、

  「3×3」はそうではなく、あくまでも一つのものの中に、

  それぞれの個性をしたためた、そんなものなのかもしれない。

 

   これは完全にアンコールの一曲からの思いつきである(笑) 確証などは全くない。

  ただそう想うだけである。

 

   しかしそれにしても、ここに書いてあることは後付けばかりである。

  ライヴレポとは股が裂けても言えない内容である。

 

 誰やいつも通り言うとるのは

 

   まあわしの場合、ライヴ中はひたすらグルーヴに身を任せ、

  勝手に詞に共感して漂泊っているだけなのだからしょうがないとご理解いただきたい。

  BTRとはライヴバンド、それも生粋且つ純粋なライヴバンド、 なのであると想っている。

  もちろんアルバムも楽しみだが。

  そんなバンドを純粋に味わおうとすると、こうなってしまうのである。

  わしはひたすら、彼らのグルーヴの中で気持ち良くなっていたいだけなのである。

 

   次もまた気持ち良くなりに行こう。

  次はいつかな・・・・・

 

見当違いも甚だしいというお叱りはBTRの方々以外からは受け付けません(爆)

Other