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主婦連合会元会長・高田ユリさんが湯河原の病院でクリスマス・イブに静かに息を引き取ってから3年が過ぎた。私
は高田さんには特別な思いがある。
1994年に早大大学院法学研究科に社会人入試制度ができ、私はその一期生として入学した。その頃、仕事で高田
さんとは会う機会が多かった。何か気が合い、飲みにもいった。私が大学院に通いはじめた話しをすると、「私も行きた い」ということになった。受験のための研究計画をまとめるにあたり、たしか中野坂上の居酒屋で一杯やりながらいろい ろ案を練った。そのときの高田さんは本当にうれしそうだった。
高田さんは大学院受験の理由について、 「私は、主人に連れられて主婦連に行ってみた。奥むめおさんがいて、
小さな台所のような試験室に案内され、ここで商品のテストができる?と聞かれた。自信がないので、そのときは即答 せず自宅に帰ったが、どうしても来てほしいと言われた。それが主婦連に入ったはじまり。その後もとにかく問題が噴出 で、ただただそれについていくのみだった。自分で道を決めたというより、他人や環境にされるままに生きてきた感じが する。今回ははじめて自分の意思で進む道なの」と嬉しげに言っていた。1995年4月、高田さんは試験に見事合格し、 入学した。新聞に「高田さん79歳で大学院合格」という記事が大きく出た。丸の内線で、知らない男性から「あんた、が んばんなよ」と声をかけられたと嬉しそうに話していた。当時私は、何か気恥ずかしくて、通学定期を買うのをためらっ ていたのだが、高田さんが「通学定期で電車に乗れる。うれしい!」と言っているのを見て、「権利は行使すべし!」と思 った。
高田さんの行動の原点は主婦連ジュース裁判に敗訴したことにあるようだった。なぜ、果汁が入っていない飲み物
を無果汁と表示してほしいという消費者の声が行政に届かないのか・・・無念な思いに満ちていた。早大の大学院に入 って法律を勉強しようと思ったのも、消費者の生活を守る武器としての法律について研究したいと思ったからだ。かつ ての高田さんの企業人の間でのあだ名は「すっぽんのユリ」だそうだ。くいついたら離れない。審議会等の席で、学者 がたまに事業者よりの発言をすると、「でも先生・・・」と、ねばっている姿を私も記憶している。
科学的なデータを基に企業に物申す! それが主婦連のやり方だった。生活問題・消費者被害を科学的に検証
し、台所の主婦の声を国会に届けようとした奥むめおさんを支えたのが高田さんだろう。1962年に兵庫県知事に初当 選した金井元彦氏が知事選でかかげた重要施策も「生活の科学化」だった。それは後の兵庫県の「生活科学審議 会」、「生活科学センター」に発展する。当時お互いに交流があったのかもしれない。
「三宅坂に穴ぼこがあったら、それは私たちの涙であいた穴です」 高田さんがよく使っていた言葉だ。永田町の政
治家に陳情に行き、適当にあしらわれ、とぼとぼと三宅坂を上って四谷の主婦連会館に帰っていくときの寂しさを表現 している。
残念ながら、高田さんは大学院を卒業する前に病気で倒れ、亡くなった。
生活を科学すること、それは家政学の基本であろう。そして、科学が限りなく進歩していく中で、生活者の視点が忘
れ去られている現状もある。生活を科学することに加え、科学を生活の視点で問い直すことも重要であり、家政学の発 展はそこにあるような気がする。 ![]()
私の学位授与式の際に
早大・大隈庭園で(1996年)
細川幸一
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