広告の虚偽性はどこまで許されるか



  先日、紀伊勝浦方面に出かけた。その目的のひとつは、那智の滝を背景にした青岸渡寺の三重塔を見たかったか
らである。那智の滝の神秘的な姿に感動したあと、青岸渡寺の本堂を見学し、それから三重塔に行った。観光PR紙や
旅行代理店の広告写真でおなじみの塔であったが、ちょっと様子が違った。滝を背景に三重塔を写真撮影したのだ
が、滝が遠方に小さく撮れるだけなのである。そこではじめて気付いた。よく目にする写真は合成写真で、滝を大きく見
せているのである。

  これは不当であろうか? 実定法上は景表法の優良誤認にあたるか否かの問題である。なかなか難しそうだが、
米国でいう、「欺瞞的慣行」あるいは「非良心性原則」にはあたりそうな気がする。

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  関西消費者協会『消費者情報』2005年1月号で、惣宇利紀男氏が興味深いことを言っている。利己心からなる経
済主体が自己の利益追求に奔走しても、「神の見えざる手」によって社会は全体として繁栄する、というアダム・スミス
の言葉がその本来のスミスの意味するところと違った形で跋扈しているとし、スミスの「道徳感情論」を紹介している。 

  同氏は「たとえていうならば、われわれが豆腐屋さんに行って、豆腐を購入するのは、豆腐屋さんの慈愛を受けるた
めではない。豆腐屋さんの利己心とわれわれの利己心が、豆腐とそれへの正当な代金を交換することで、双方が満足
させられるからであるが、よりスミス的に言うならば、豆腐屋さんが正当な値段で豆腐を売って、生計を立てるという利
己心は、他人からみても‘ 同感できる利己心’であり、同様にわれわれが少しでも良さそうな豆腐を探し求めて代金を
支払おうとする利己心も前者に劣らず‘ 同感できる利己心 ’なのである」としている。他者の同感を勝ち得ない悪質な
取引方法や欠陥商品は本来スミスの想定した市場とはおよそかけ離れたものと同氏は結論づけている。

  先日、法の華事件で詐欺罪に問われた元教団代表、福永法源氏に東京地裁は懲役十二年(求刑懲役十三年)の
実刑判決を言い渡した。一方、日本人はお寺の参拝などで、御守をよく買う。「家内安全」「交通安全」「悲願成就」等々
良いことばかり書かれている。これは詐欺とまでは言わないまでも悪徳商法ではないのか?

  法の華は悪徳商法と認識しても、御守をそうだと思う人はいないであろう。しかし、その御守も訪問販売で数十万円
もの値段で売りつけられたとしたら話は違う。


   私は欺瞞的な表示・広告や取引にも「同感できる」ものと「同感できない」ものがあるのではないかと思う。そもそも
広告とは虚構の世界である。家族そろって焼肉を食べて、「この焼肉のたれは美味しいね」という。森繁久弥が校長に
扮して、教え子から相談があったら、「私は必ず○○エステート」を紹介しますという。焼肉を食べているのは役者であ
り、本当の家族が心底からおいしいと感じていると信ずる人はいないであろうし、森繁がどこかで校長をしているなどと
考える消費者もいるまい。これは同感できる「虚偽の世界」なのである。

  御守も500円程度で自由意思で購入する範囲であれば、旅や参拝の記念品・おみおやげの部類であろう。しかし、
病気や悩みをかかえている者の弱みにつけこんで、高額な御守を売りつけるとすればそれは決して同感できる宗教行
為、あるいは取引とは認められない。

  さて、那智の滝の合成写真はいかがなものか? せめて、「写真は合成です」等の但し書きをする誠意はほしいと
思う。

                                                               細川幸一
 

追記:しかし、何でも但し書きをすればよいというものでもない。カップラーメンで、実際とは違って具がたくさんのった写
真を載せ、「盛り付け例」と但し書きをして済ませることは許されるのか? お湯をかけて3分待つだけが売り物のカップ
ラーメンにわざわざ具を加えて料理することなど想定できない。



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