日本の風景

日本の風景です

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〇白い彼岸花

 
彼岸花と言えば赤と相場が決まっています。ところが近所の公園に、白い彼岸花を見つけました。30年近くは通っているのに、何と初めて見つけました。それほど片隅にひっそりと咲いています。




赤い彼岸花が1本だけ珍し気にありました。ピンクのもあるのです。色合いは、下の右のように純白に近いのです。







ある顕彰碑

富士山の麓の街を旅して、ある小学校の校庭に「顕彰碑」なるものを見つけました。次に記すのは、縦書きを横書きにしただけで、文体等はそのままです。



顕彰塔誌 

 霊峰富士を仰ぐ、この地に建立されたこの忠霊塔には、西南の役以来幾多の戦役に従軍し、一命を 皇国にささげられた旧御殿場町在籍の英霊三百九十余柱が鎮まります。

 顧みれば、英霊は明治維新の大業成り、国民皆兵の義務のもと、皇国の防衛と国権の維持に力を注ぎ使命感に徹し忠君愛国の精神を堅持して、西南の役日清日露両戦役に従軍し国威を全世界に宣揚した勇士や続く満州事変日支事変に際して国家の権益擁護に敢闘し一死国恩に報じた列士、更には八紘一宇の大理想と東亜被征服民族を開放し、万邦をして各々その所を得しめんとの、大義名分を旗印とする大東亜戦争に及ぶや感泣勇躍、陸海空を所狭く転戦中忠孝の道きわまり散華した義士であります。この聖戦に散男女青少年学徒、一家の柱石等総力を傾注して戦い、天に三百十余万の生命を犠牲にしましたが昭和二十年八月十五日終に敗戦といふ結果を招きました。

 国破れて山河あり。この冷厳な事実を直視した国民は異口同音に日本を再建しなければならない、その再建は日本人自身の不屈の努力によらなければならない、他人の援助や偶然を期待してはならないとの眞剣な自覚を促すにいたった。この自覚の由来は実に英霊が身を以て実践垂範せられた遺産に外なりません。一度は敗れたとはいえ 外、東亜諸民族は相次いで独立した。正に英霊は身を殺して仁を為すと称せらるべきもの。内にしては、焦土と化した大小都市に高層建築を林立せしめ、剰え今日世界屈指の経済大国を形成せしめた。これまた、英霊各位の遺徳偉勲の賜ものに外なりません。終戦三十周年に当たり顕彰塔詞を建立して、その遺徳を万世に伝える次第である。

    昭和五十年十一月十六日




 私は、この碑が昭和50年と言うそれほど古くない時代に、しかも戦後30年の記念として作られた事に驚いている。現代日本のように、自虐史観が跋扈すると同時に大東亜戦争を肯定的に評価する書籍も多く出ている時代と違い、戦時中に青春を過ごした人たちが多く生き残って、戦争の実相を知っていたのにもかかわらず、人々は戦争について黙して語らなかったからである。この碑のように維新以後戦後までの日本の歩みについてこれほど簡潔に述べたものを私は知らない。当時の市井の人々は語らずとも、精神は健全だったのである。

 のわずか10年後の昭和60年には、国会においては、侵略戦争の謝罪決議などと言う運動が出てきた。その間に日本は洗脳されつくされたのである。現代にこのような碑を学校のような公的な場所に建てようとしたら、反対運動で実現不能であるのは間違いない。



〇亀戸水神
 噛めど水神は、場所は東武亀戸線の亀戸水神駅、というごくローカルな駅下車である。しかし東京スカイツリーまでは、乗車時間15分と近い。まさに大都会にあるはずである。ところが鳥居と社殿はあるが、無人のひっそりとしたものであるである。多くの人は亀戸天神と勘違いするのに違いない。亀戸水神駅のホームには、ここは亀戸天神ではありません、亀戸天神に行くには、亀戸駅まで行って下さい、とわざわざ注意書きがある。笑い話ではない。しかし、ここんら亀戸天神までは徒歩20分で行ける。慌てて電車で亀戸駅まで行くよりずっと早いのである。果たして、ここで間違えて下車した人は、また載り直して、亀戸駅に行くべきなのでしょうか( `ー´)ノ

 ちなみに下の左の写真は「水神森若人の歌」の碑である。水神様の信仰を素朴に歌った歌碑である。しかし、赤茶けているばかりではない。実物を子細に見ると、元は長方形であったのが、角が破壊されて三角に見えるのである。これは、東京大空襲の被災の痕跡である。B-29によって10万人を超える無辜の市民が焼殺された事件である。焼けて赤茶けているのである。東京都心には、このにように東京大空襲の痕跡が至る所にある。日本人は広島・長崎の原爆被害とともに、心に刻むべきであろう。





〇平成最後の日

 平成最後の日、平成31年4月30日の、総武線沿線の駅前通りの商店街の風景である。商店街には日の丸と令和の書かれた、旗が整然と並んでいた。当日は今にも雨の降りそうな暗い日だったが、街は祝賀ムードでいっぱいだった。朝日新聞や共産党は令和の新元号にいちゃもんをつけるのに必死だったが、一般の国民のほとんどがお祝い気分だったのは、この風景でも知れる。

 あきれたのは、保守を自任しているはずの倉山満氏である。令和とは漢文で解釈すれば、大和すなわち日本国に命令するという不遜な意味だと批判した。しかし、この批判は二重の意味で間違っている。「和」は国訓では大和すなわち日本のことを意味する。しかし、漢文に使用する漢字としては、日本国の意味に解することはない。すなわち漢文と解する限り、日本国に命令する、などとは解しようがないのである。

 それどころではない。令和のに文字は、万葉集に書かれた漢文から抽出したものではあるが、単に二文字を出現順に並べただけで、漢文ですらないのである。何とおっしゃる兎さんである。ともかくも新元号を寿ぐのが健全な保守というものであろう。

 小生の記憶では、昭和天皇が崩御した昭和最後の日、一月七日もどんより曇った暗い日だった。小生は外をおろおろと徘徊し、天皇陛下が崩御したのに雷も鳴らない平静な日だったのを、直感的に納得できない思いをしたものだった。



○高山彦九郎墓所


高山彦九郎は、維新の直接の功労者ではない。むしろ先覚者である。仕事の翌日の予定から、偶然、西鉄久留米に宿をとった。久留米はJRと西鉄がかなりはなれていて、西鉄の方が大きなバスターミナルとなっており、繁華街がある。夕食まで時間があるので、近所を散策したら、高山彦九郎の墓所があるというので、行った。墓所のの説明には、下記のように書かれてあった。説明は不用であろう。

史跡 高山彦九郎墓
所在 久留米市寺町五六 遍照院内
国指定 昭和十七年七月二十一日

高山彦九郎正之(字仲縄)は、延享四年(一七四七)、上野国新田郡細谷村(現群馬県)に生まれました。
 寛政の三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)として有名な彦九郎は、全国各地を遊歴し、当時の徳川幕府を批判し、王政復古を唱えました。
 尊皇運動の先覚者である彦九郎は三度久留米を訪れており、寛政五年(一七九三)六月二十七日、友人である森嘉膳宅の離れで割腹して憤死しました。
 この墓は封建政治から中央集権の近代国家に移ろうとする胎動期の歴史を語るものとして貴重なものです。
 なお、終焉の地(東櫛原町一四〇八番地の四)には碑が建っています。
久留米市・久留米市観光協会



余談だが、高山彦九郎正之、と聞いて、元産経新聞記者の高山正之氏を思い出した。辛辣な批評を今でも続けている、興味ある人物である。











○千住新道碑

 たまたま引っ張り出した、鷗外随筆集で「なかじきり」を読んだ。この短文は、漢文や外国語を乱発する悪癖のある鷗外にしても、特に甚だしい。得意な独語ではなく、独学したフランス語が多いのが、この時期の鷗外の特色である。それでも「然るにわたくしには初より自己が文士である、芸術家であるという覚悟はなかった。」などという鷗外らしい調子を読めば、意味の分からぬ漢文仏語を読み飛ばしても気にならない。

 その中に「碑文を作る」とあっ注釈に、千住新道碑、とあったので、早速行くことにした。インターネットによると、今は「大正記念道碑」と呼ばれていた。

 北千住の西口のアーケードを通って一キロ前後と言ったところか。御覧のとおり、芝生もなく樹木も少ない、由緒ある記念碑があるとは思われない殺風景な公園であった。下の写真のように、碑の前は赤ん坊を乗せる自転車が立てかけてあって、邪魔な事甚だしかった。

 それでも親切に、右のような碑文の要旨が書かれているのは、漢文の読めない小生には有り難い。要旨の他にも、由来が書いてあり、鷗外は、ドイツ留学までの四年間、父と千住に住んでいた縁があるそうである。

 碑は元々墨堤通りの傾斜地にあり不安定なので、平成26年に移設したそうである。公園にまだ馴染まないのも仕方ない。

 碑文には荒河、隅田河と書かれている。角田川など隅の字が色々使われているのは見るが、河の字は初めて見た。大河という意味を込めた、鷗外の独創であろうか。鷗外は言葉の独創は決してしないから、、用例があったのである。公園の隣は千寿青葉中がある。千住は千寿とも書きならしたのであろう。納得である。近くの千住神社に行ってもどると、先の自転車は消えてすっきりしていた。





醫學士須田君之碑

 隅田川の畔にある、名前も隅田川神社の近くにこんな碑がある。すぐ近くなのだが、鳥居の外なので、神社の外なのであろう。漢文の素養のない小生でも、大まかな意味は理解できた。それを書き下してみたい。不可解なのは同じ字でも略し方が違ったり「従」は旧字ではなかったりすることである。また、何行か訳出できないところもあった。

碑文


 東京には、医者は数百件あるが、須田君は眼科で評判を聞いた客が毎日争うようにして来る。

 須田君の名は哲
で幼名を哲三郎と言う。信濃の国の伊那郡福与村に生まれ、本姓は細井であるが、徳島藩医須田経哲氏の養子となり、初めは漢方医学を学ぶが、その後西洋医学書を学ぶ。

 慶応二年江戸に出て、明治初年に官立医学校で英書を学び、数か月で教官補に推薦されるたが君は固辞した。

 明治四年独逸医学の官位を得、明治九年医学士となり、大学東校教官となる。明治十一年広島病院に転じ、医学校長を兼任し、医学生に名声を得た。

 三年を経て、明治十五年に帰京し、大学校の助教に任じられた後、十九年には辞職し、小石川春日町に病院を開くことを許可された。眼科に優れ手術機械も10数種を保有していた。

 君は嘉永元年八月二十日に生まれ、明治二十七年四月二十五日に享年四十七歳で没す。

 相当な誤読があるとは思うが、大意はこんなものであろう。その後に四言の漢詩が八句続くが、小生には全く文意を取ることができない。五言の絶句とか七言の律詩などというが、その手で言えば四言の律詩というのであろうか。

 実は小生が注目したのは「陸軍軍医総監従三位勲功三級男爵石黒忠悳
」とあったことである。石黒軍医総監と言えば、他でもない鴎外がドイツ留学時にドイツ娘と恋に落ちた時の上司で、結婚してはならぬ、と命じて生涯鴎外に恨まれた人物である。その石黒が早逝した優秀な医師のために碑文を書いたのである。これを見たとき小生は不思議な感慨にとらわれ、敢えてくだくだと読めもせぬ漢文を読んでみたのである。



○スカイツリー水上観光船


 ここはどこでしょう。江東区と墨田区の間を流れる、旧中川です。正確に言えば、旧中川は、上下流とも、端が荒川とつながっていて、水門で仕切られているので、ポンプで排水している分だけしか流れていません。流れているはずなのですが、ほとんど分かりません。

 さてこの船は、旧中川を遡って、江東新橋あたりで左旋回して、北十間川に入ります。この写真は、丁度旋回を始めたところです。ご存知のように、北十間川は旧中川と隅田川を結ぶ川です。スカイツリーにの前にある川です。

 そうです、この船は旧中川を遡り、スカイツリーまで行く、水上観光船です。隅田川の屋形舟とはほどではありませんが、適当なサイズに作ったもので、いつも満席のようです。スカイツリーの前に停泊している姿を何度も見ていますので、終点なのでしょう。

 多分、キロ五分で走れば追い越せますから、スピードは10ノットを遥に下回ると思います。でも、のんびりゆっくりがいいのでしょう。このスピードで、旧中川の河口からなら、スカイツリーまで一時間位と言うところでしょうか。旧中川は、沢山橋がかかっていますから、下からの眺めはいいと思います。



○大刀洗平和記念館

 久留米に金曜に仕事があったので、私費で一泊して、久留米から行きましたが、東京方面からなら、博多駅から鹿児島本線に乗り、基山で第三セクターの甘木鉄道に乗るのが本筋です。甘木鉄道は、一時間に二本あるので、ローカル鉄道としては、便利な方だと思います。入口には昔のコンクリート製(?)の立派な正門がありますが、第五教育飛行隊などいくつかの部隊のものを兼ねていてよく分かりません。
  

 祈念館は写真のように、立派になっていますが、数年前までは、バラック同然のものだったと言うので、いいタイミングに行ったのかも知れません。ただ、残念なのは零戦だけが写真撮影可となっていることです。特攻隊員の遺品や遺書などの展示物は、保存のために禁止するのは当然かも知れませんが、世界で唯一残った九七戦位はいいのではないのでしょうか。まあ零戦も唯一の三二型ということで貴重なのですが。


   

 栄エンジンは本物がむき出しで展示されていましたが、左の写真で分かるでしょうか。シリンダヘッドに導風板(バッフルプレート)があったのは意外でした。18気筒エンジンでは均等な冷却がむつかしいので、導風板が必要だとは知っていましたが、14気筒でもあったのとは、でした。戦死者の遺品や遺書の展示、の他、飛行場が空襲されたときの小学生の犠牲者の物語の15分程度の映画がありました。広島などの原爆記念館が、日本の侵略や戦争の悲惨さを強調しているのですが、この記念館は当時の人たちの心情を淡々と展示していて、好感を持てました。

   



○満月マン


 今日は八月十五日です。例年通り靖国神社に行ってきました。日差しが強く理想的な終戦記念日です。とても暑かったです。神社で配ってくれる、冷えた麦茶が最高でした。さすがに、みたままつりのような、ギャルは少なかったのですが、人出は多いのです。日本も捨てたものではありません。遊就館も満員でした。いつも通り叔父さんの遺影に黙祷してきました。

 今日は珍しく特別展示を見学してきました。英霊が生前戦地から家族に送った手紙や遺品の展示で、親切に読みにくい手紙を打ちなおして読めるようにしてくれてあったので、全部読んでしまって一時間以上かかってしまいました。叔父さんも出征時に日の丸に寄せ書きをしてもらった遺品があるのです。母の生前に、聞いてみたら、間違えて洗濯してしまって全部ピンクになってしまって見せられるようなものではない、と言われてしまいました。

 母はそういうことに手抜かりのある人ではないので、何か事情があったのでしょう。そう言う訳で、小生の知る叔父さんの唯一の遺品もなくなってしまい、靖国神社に寄贈する希望もなくなってしまいました。さすがに遺品を残している人は、年齢や階級に関係なく、写真も手紙も綺麗に残っています。うらやましい限りです。

 それやこれやで、三時間近くいたのですが、外に出ると目眩がするほどの暑さが気持ちよかったです。どういう訳か、直射日光が強く汗だくになるような暑さは好きなのですが、余り信じてもらえる話ではありません。ちなみに、ランニングをする時は直射日光と暑さは反対に辛いので、暑いのが嫌いな普通の人の気持ちはよくわかります。

 神社を出るときにみかけたのが、満月マンです。ほうきとちり取りを持って、側溝を掃除していました。派手なかっこうの地味なボランティアです。面白がって家族が記念写真をとらせてもらって人気でした。奥さんも新宿のデパート付近で見かけたことがあるといっていましたから、都内に出没するのでしょう。


○平成二十五年のみたままつり

 今年も靖国神社のみたままつりに行ってきました。ところが大変。天気予報をなめて傘を持っていきませんでした。すると、鳥居をくぐったあたりから、パラパラです。だんだんひどくなるので、遊就館に行ってしばらくすれば止むだろうと思ったのですが、遊就館を出ると一時小雨になっただけで本降りです。

 あわてて休憩所に入ったら、雨宿りで満員です。しかたなく本を読んだら相当に読めました^( ⌒-⌒)^小雨になったので自分の献灯を見に行ったのですが、教えられた場所に行っても見当たりません。すると意外な名前がありました。奥野誠亮です。それも目立つ所ではなく、沢山の献灯に混じってひっそりと収まっていました。目立ちたがりな人でしたから不思議の感に打たれました。大臣時代に日中戦争は侵略戦争ではなかったと答弁し辞任した人です。

 大臣の答弁が外国やこれに呼応する日本のマスコミの干渉で辞任する嚆矢となってしまったのですが、今は少ない気骨の保守政治家です。中曽根元総理などはタカ派を気取っていますが、中共の政治家に配慮して靖国神社参拝を自粛する先例を作った人です。憶えているでしょうか現役政治家の頃は、風見鶏と揶揄された人です。石原前都知事も靖国神社の一件に関しては中曽根氏に意見が言えないのです。数を頼んで無思想の橋下氏と組んだことと言い、何故か保守になりきれないように思われます。

 ちなみに奥野氏の献灯の写真は取りましたが、ここに載せたのはプライバシーに配慮して平成二十三年のものです。献灯の場所は教えられた場所を見当違いに探していたのですが、おかげで奥野氏のものを見つけたのも奇遇でした。帰る段になると嘘のように雨が上がり蒸し暑くなり、これから祭りに向かう人の群れと、うらめしげにすれ違って帰りました。


○小村井・香取神社の社碑

 香取神社と言えば全国に多数ある。そのうち小村井の香取神社である。墨田区の文花にある。亀戸の香取神社はここから二キロ位しか離れていないから、いかに香取神社が多いか知れる。この頃、神社の社碑に共通点があることに気付いた。香取神社の社碑には「陸軍大将男爵本庄繁謹書」と添え書きされている。裏には「紀元二千六百年二月十一日」とあるから昭和十五年の紀元節を記念したものであることが分かる。

 そう、昭和十年代に作られた多くの社碑には、陸海軍の軍人が揮毫しているのである。昭和六年には満洲事変、それが落ち着くと昭和十二年には北支事変が始まった。当時の対支外交は軟弱外交で、満洲の権益や支那での経済活動が著しく妨害されているにもかかわらず、政党政治は何ら解決策を出せなかった。従って関東軍をはじめとする軍に期待が集まるのは当然である。北支事変と敢えて書いたのは、事変が拡大する前、初めはこう呼ばれていたからである。

 この時期に、日本固有の宗教である神道の社たる神社の社碑に軍人の揮毫が依頼されたのは偶然ではない。素朴な民衆の心が自然と軍人に期待していたのであることの象徴である。先日、月島の住吉神社を訪れたら、祭りの片付けで町内会の人たちが楽しそうに奉仕していた。そういう素朴の活動の延長として軍人に揮毫が依頼されたのである。

 本庄は関東軍司令官として満洲事変の先頭に立ち、二二六事件では反乱軍鎮圧の任に当たった。敗戦により割腹。石原莞爾のような強い個性と戦略眼は感じられないが、責任感のある人と信じる。本庄繁日記は小生も持っているが、昭和史の一級資料である。

 


○新大橋

 もちろん新大橋は隅田川にかかる橋である。橋の袂にこんなレトロなものがある。近くの看板を見ると新大橋の由来がある。

 

 下の写真がその看板である。ごく不鮮明だが、明治四十五年に作られた鉄橋だそうである。よく見ると、左に写っているのが先のレトロなものである。旧新大橋の脇に建てられた街灯である。写真の新大橋は明治村に移設されたそうだから、街灯だけが残ったのだ。この街灯、石造りなのにいやに黒ずんでいる。これは東京大空襲の焼夷弾による焼け跡である。多くの石碑などが焼夷弾で焼けたり破損した、というのは隅田川神社の方から聞いた。戦前からある東京の遺構は、東京大空襲の被害の痕跡を語っていたのである。石でさえこの有様である。多くの民衆はひとたまりもなかった。米軍の残虐非道に思いをいたすべきであろう。

 
 橋の袂の階段を下ると、御船蔵跡という石碑があった。幕末に幕府の軍艦を保管する場所だったそうである。碑は昭和三十三年に建てられたとあるから、敗戦直後の日本も案外ゆとりがあったものである。


○顕彰塔
 富士の裾野に旅した時、こんな碑をみつけた。名を顕彰碑というここに碑文を全文掲げる。縦書きを横書きにした以外は、文体等全て原文のままである。

顕彰塔誌

 霊峰富士を仰ぐ、この地に建立されたこの忠霊塔には、西南の役以来幾多の戦役に従軍し、一命を 皇国にささげられた旧御殿場町在籍の英霊三百九十余柱が鎮まります。

 顧みれば、英霊は明治維新の大業成り、国民皆兵の義務のもと、皇国の防衛と国権の維持に力を注ぎ使命感に徹し忠君愛国の精神を堅持して、西南の役日清日露両戦役に従軍し国威を全世界に宣揚した勇士や続く満州事変日支事変に際して国家の権益擁護に敢闘し一死国恩に報じた列士、更には八紘一宇の大理想と東亜被征服民族を開放し、万邦をして各々その所を得しめんとの、大義名分を旗印とする大東亜戦争に及ぶや感泣勇躍、陸海空を所狭く転戦中忠孝の道きわまり散華した義士であります。この聖戦に散男女青少年学徒、一家の柱石等総力を傾注して戦い、天に三百十余万の生命を犠牲にしましたが昭和二十年八月十五日終に敗戦といふ結果を招きました。

 国破れて山河あり。この冷厳な事実を直視した国民は異口同音に日本を再建しなければならない、その再建は日本人自身の不屈の努力によらなければならない、他人の援助や偶然を期待してはならないとの眞剣な自覚を促すにいたった。この自覚の由来は実に英霊が身を以て実践垂範せられた遺産に外なりません。一度は敗れたとはいえ 外、東亜諸民族は相次いで独立した。正に英霊は身を殺して仁を為すと称せらるべきもの。内にしては、焦土と化した大小都市に高層建築を林立せしめ、剰え今日世界屈指の経済大国を形成せしめた。これまた、英霊各位の遺徳偉勲の賜ものに外なりません。終戦三十周年に当たり顕彰塔詞を建立して、その遺徳を万世に伝える次第である。

   昭和五十年十一月十六日

 文意は明瞭である。維新成立以後戦後に至るまでの日本の足跡をこれほど簡明に表わしたものを他に知らない。現在の日本は、自虐史観の一方で、大東亜戦争の意義を説く著書も多く出されている。そのような動きが極めて少なかった昭和五十年の時点で、実は日本の市井の人たちは、きちんとした歴史観を持っていたのである。これはその証拠である。現在公的な場所に類似の碑を建てようとしたなら、反日の「プロ市民」がやってきてつぶすだろう。戦後のある時期まで日本国民はまともだったのである。


○三基の記念碑 

 
 隅田川の左岸、浅草からさほど遠くない、細道の脇です。真中が「日露戦争従軍記念碑」と読めます。かの東郷平八郎元帥の筆になるものと読めます。左は、「大正震火災横死者追悼の之碑」です。右が「松野緑之助顕彰碑」です。

 何故か、松野氏の顕彰碑だけが、黒い由来書きがあります。松野氏は墨田区議会議員として功績があった人だそうです。しかし何故ここに東郷元帥揮毫の記念碑があるのか、関東大震災の追悼の碑がここにあるかは、何もかたられていません。

 松野氏の功績を軽んずるつもりはありません。しかし、日露戦争や関東大震災が歴史的出来事で、日露戦争に至っては世界を変えた出来事です。それに由来さえ示さないのです。それを成し遂げた日本人の子孫は父祖の功績を軽んじているのです。

 神道のみならず、古来日本人の精神は祖先をうやまうことから始まります。それを軽んじておいて目の前の景気の良し悪しに一喜一憂している日本の未来に明るいものはありますまい。




○津波警告の碑と戦災殉難の碑

 ここは東京都江東区牡丹です。近くには富岡八幡宮があります。この近くのプラモ屋に久しぶりに行ったのですが、その帰りに見たのがこの碑でした。そこには「寛政三年九月四日の暴風雨による津波が襲来しこの付近一帯の家屋や住民も押し流されて被害はなはだしく以来幕府はこの付近・・・云々」とあった。

 地図で見ると今ではこの辺りは、海岸からは多少は離れていますが、江戸の古地図を見ると、ほとんど海岸線に近いのです。最近写真データファイルを整理していて、ふと東日本大震災の津波と重ね合わせて見てしまいました。幕府も震災の記憶を後世にとどめて防災意識を持続しようとした事が分かります。江戸幕府の防災意識もなかなかのものではありませんか。もちろん文字が読み取れる方は最近建てたもので、古く痛んだ方が元の碑です。

 そう言えば台風で高波にあった地域では、何々台風の時はここまで水没しました、などと言うマークが建物のとんでもなく高い所に記されていて驚かされることがあります。合掌。



 ところで、上左は津波警告の碑の隣の波除碑というモニュメントの説明です。上右はその隣にある戦災殉難の碑です。この碑には昭和二十年三月十日と書かれているだけで、何の由来もかかれていません。でも皆さんにはこの意味が分かるでしょう。そう、東京大空襲の日です。ここは平久橋のたもとです。隣の焼け焦げて壊れそうなのを針金で縛ってあるのは、当時の平久橋の欄干が空襲で焼け残ったものでしょう。東京大空襲は、一晩で十万人の一般市民が焼け死んだ悲惨な事件です。米軍は砂漠に日本家屋の街の実物模型を作って焼夷弾の効果を実験しさえして、爆撃したのです。焼夷弾は石油を糊のような半固体にして爆発すると燃えて飛散して、人体や物にくっつくと、剥がすことが出来ず確実に焼いてしまうものです。

 実験は焼夷弾の火災効果だけではありません。人間殺傷用の爆弾を同時に投下して消火活動を妨害する効果まで実験したのです。実験結果で焼夷弾と人間殺傷爆弾の投下比率を決めました。東京大空襲では、最初に東京市の周辺にぐるりと一周爆弾を投下して市民が逃げられないようにし、次に縦横に碁盤目のように爆弾を落として狭い区画に市民を追い込みます。仕上げは残りの地域に爆弾を投下して炎に閉じ込められた市民を焼き殺したのです。東京大空襲は単に市民をターゲットにした爆撃ではありません。檻に詰め込んだ多数の人間にガソリンを欠けて火を付けたに等しいことをしたのです。ですから東京市内の川という川には燃え上がった人々が飛び込んで焼死溺死したのです。この碑が橋のたもとにあるのはそのためでしょう。しかし津波の碑と違い戦災殉難の碑は何の説明もありません。津波の犠牲者も戦災の犠牲者も等しく弔うべきでありましょう。

 ちなみに三月十日は日露戦争の奉天会戦の戦勝記念の日で陸軍記念日です。アメリカ政府はこの碑を選んで民間人を焼き殺し、日本の戦意喪失を狙ったのです。第一次大戦中ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、戦争を早く終わらせるには、敵国の民間人をたくさん殺して戦意を喪失させるのがよい、と公言して英米から非難されました。しかし米国が実行した本土空襲や原爆投下はウィルヘルム二世の言葉を実行したのに過ぎません。原爆投下で戦争が早く終わった、などという米国人の言い訳は、ウィルヘルム二世の暴言そのものです。


○皇居です
 天皇陛下が手術をされた平成24年2月18日、手術の成功と快癒を祈る記帳に行きました。皇居周辺は久しぶりです。テレビでインタビューを受ける人たちは高齢とおぼしき人たちでしたが、御覧の通り若い人も大勢いました。日本も安泰だと安心した次第です。坂下門から東京駅方向を見ると高層ビル群です。皇居の落ち着きと都会の風景が調和しているように見えるのは日本です。



 行きは普通に千代田線の二重橋前で降りましたが、案外遠いので帰りは東京駅にしました。すると久しぶりに二階建てバスです。東京駅は工事中で、これが昔の東京駅を復元したものの一部です。手前の四角な建物は作業員の宿舎のようです。



○隅田川神社の碑
 正確には鳥居の外ですから、隅田川神社の碑とは言えないのかも知れません。「須田医学士の碑」というそっけないタイトルですが、碑の最後を見て驚きました。陸軍軍医総監従三位勲二等功三級石黒忠悳撰とあるではありませんか。撰とは碑文を作ったという意味だと思います。石黒なる人物、かの鴎外の読者なら知っているでありましょう。鴎外の軍医としての上司です。そして舞姫がドイツで恋をした鴎外の実話をモデルにしているのも有名です。

 鴎外は結局周囲の説得に負けて、ドイツの恋人を捨ててしまうのですが、誰あろう、石黒は出世の邪魔になるからと説得したうちの一人です。鴎外自身の親戚もかかわっていますが、仕事関係の言葉は効いたと思います。その故に鴎外は石黒に反目したとも言われています。東京には観光パンフにはない隠れた旧跡がまだまだあるのでしょう。謹厳なイメージの鴎外は、恋愛ばかりではなく、家庭でも舅と嫁の間でおろおろしていた、というやさしい男だったのです。ちなみに夏目漱石の最期の言葉は、子供たちに言った、泣いてもいいよ、だったと記憶しています。家庭では極度に厳しかったために、怖さから父の死を前にして泣くこともできなかったのです。洒脱でユーモアのあるイメージのある漱石ですが。そして漱石は入り浸るほどの落語マニアでしたが、鴎外は落語のらの字も興味がなかったはずです。落語家には神経質な人が案外多く、ある師匠などは高座を降りると決して笑わない気難しい人だったそうですから、漱石もその手かも知れません。

ちなみに二葉亭四迷も落語マニアで、出世作浮雲は落語調です。浮雲は現代口語文体の完成に寄与した作品のひとつとして有名ですが、浮雲の始めが落語調であったのに対して、徐々に変化して最後は今我々が知っている普通の口語体に変化しているのが分かる稀有な作品である。当時の小説家達が落語から苦労して口語体を完成していく過程をひとつの作品で確かめることが出来るのである。。



 須田医学士は嘉永元年生まれで明治二七年の誕生日前になくなっていますので、四十五歳だったのです。その事を石黒らは惜しんだのでしょう。小生の弟も似たような年に亡くなりました。違うのは医者にならんとして迷いから果たせなかったことです。弟は、盆の入りに生まれ、明けに亡くなりました。つまり先祖と共に来て、先祖と共に帰った不思議な人です。


○大阪造幣局
 宇治に行き、大阪に移動するために京阪電車に乗ったのは4月14日。大阪に直行するか戻って平等院でもみるか迷っていると、電車の広告に大阪造幣局の花見が今日14日からとあるではありませんか。震災のためもあり、夜間ライトアップはしないと言うので時間は5時まで。偶然こんな季節に大阪に来ることは今後ないかもしれないし、明日は帰りを考えたら無理かもしれないと考えて、造幣局に直行する事にしました。

 着いたのは4時半になっていましたが、桜を見て通過するだけだから充分とふみました。入ってみるとこれが意外でした。毎年ニュースで見る夜桜の映像は満開の桜で豪華絢爛。ところが実際には、まだまだこれからのようです。なるほど今日が初日な訳でした。ところがそうとも限らず、既に葉桜になったりさくらんぼがあるのも少なくはありません。ソメイヨシノはほとんどなく、八重桜などとにかく種類が多いのです。つまり造幣局の桜が有名なのは同じ桜が一斉に咲く普通の豪華さではなく、一本一本が派手な桜が沢山の種類あることなのでした。むしろ通好みなのかも知れません。

 結局出たのは5時半を過ぎていましたが、5時で即閉鎖と言うほど野暮ではありませんでした。しかもどんちゃんの花見をしたければ、造幣局の桜並木に並行して大川端にソメイヨシノの桜並木があってそこで出店がずらりと並んでいるのでした。さて今年の桜も終わりましたが、東北の震災のせいか桜も淋しげに見えたのでした。



○百舌鳥三陵古墳群

 大阪の堺に行きました。観光旅行ではないが、二時間ばかりのフリータイムが取れた、事前に何も調べなかったので、ホテルのフロントで周辺地図をもらったら、南海堺東駅の裏に古墳が3つもあることが分かりました。途中ザビエル公園と言うところに立ち寄ったりして、のんびり桜を見ながら歩くこと50分近く。着いたのが百舌鳥三陵古墳群です。その一つの反正天皇陵です。もちろん中には入れませんが、ちゃんと宮内庁の看板はあるし、周りの半周位がこのように水濠で囲まれたそれなりに立派なものでした。

 誰も見学する人はいないし、周りは住宅で、買い物帰りのおばさんたちがひっきりなしに通ると言うあまりに日常的な光景と、遺跡との落差に驚いた次第です。

 反正陵の近くには2つの小さな古墳があるはず。でも地図が示すあたりは典型的な住宅密集地です。ようやく見つけたのが、鈴山古墳と天王古墳です。どちらも新しいステンレス製の看板があるのでようやく分かったのです。天王古墳などは三方一軒家に囲まれた小さなもので、敷地いっぱいにようやく個人住宅が一軒建ち、ぎりぎり駐車場を作ったら、庭などできないほどの広さなのには唖然としました。

 帰りの新幹線で地図をよく見直したら、そこから1キロも行かないところには有名な仁徳天皇陵があるではありませんか。でも仁徳天皇陵なら事前に調べればいつでも行けるではありませんか。名もない遺跡に偶然出会ったのは小さな旅の幸運だと思います。グーグルマップの写真で見たら、看板はなくものすごい雑草に覆われていました。草も生えない季節に行って、古墳の形がよく分かったのも幸運でした。


○コンクリート船


 これは広島県のある漁港の入り口の防波堤の風景です。何の変哲もなく見えますが、左側は泥舟ならぬコンクリート船です。知人が安浦と言う町に、コンクリート船があると言うので、出張の帰りに寄ったのです。

 コンクリート船は武智丸と言うのだそうです。大東亜戦争も末期、鋼材の不足に悩んで、国産資材であるコンクリートで輸送船を作ったと言う訳です。


 詳しくはインターネットを検索すれば分かるのでそちらをどうぞ。近くに看板があって、武智丸と紹介されていますが、見て分かるように2隻が頭をごっちんこしているように見えます。看板をよく読むと、武智丸は4隻建造されて3隻が就航したとあるので、コンクリート船を皆武智丸と言ったのでしょうか。いささか面妖な話です。

 コンクリート船とは言うものの、下の写真のように端部に鋼材が使用されています。鋼製の船に慣れ切った日本の象徴のようにも思われます。知人の話では船に乗れると言う話でしたが、平成22年の暮れに行った時は危険なので進入禁止と言う土木事務所の看板がありました。


 残念ではありましたが、直接見られたと言う事で大感激でした。船体には海の守り武智丸、と言う標語があったのは嬉しい話です。貴重な観光資源になると思ったのですが、何せ呉よりよほど不便な所にあるのですが、呉江田島とセットにすれば訪れる人も増えると思いますが。

 安浦駅からは1キロ程度と聞いていましたが、ほぼその通りで歩いて遠くはありませんでした。メインストリートを三原方向に歩けばすぐに分かります。問題は安浦までです。呉線は必ず広停まりですが、快速は広で2、3分ですぐ三原行きが出ますから、広島から約1時間と15分なのですが、小生快速に5分遅れてしまい、広でべらぼうに待たされたので、2時間半以上かかりました。

 それでも途中ローカルながら大きな造船所や田舎の紅葉の風景など見あきないものがありました。安浦はこの辺りは珍しい有人駅ですが、めったに列車が来ないので、その間は駅の窓口が閉鎖していますから、帰りの切符は必ずどこかで買っておくことです。戦史に興味のある人には一見の価値があるのですが、これだけ見に来るのも大変なので、呉と江田島のホームページで紹介していただければ、見学者が増えると思うのですが。


○海軍兵学校

 さて呉まで来たら、足を延ばして江田島まで行くのが人情です。呉から江田島までフェリーで約20分。案外近いのでした。波止場に着いてどうしようと迷っていると、バスがありますが、当分出ません。地図もないので仕方なく、タクシーに乗ると推定距離2キロほどですから、うろうろ迷っているうちに歩いていれば着いていたはずなのです。

 場所は海上自衛隊の第一術科学校です。門を入ると机が出してあって、見学者の記入用紙があるので、書こうとすると、少し離れた受付の建物から、見学者?という声がするので、返事すると、一言言ってくれなくちゃ困る、見学者なら声をかけなさいと自衛隊員が命令口調です。色々な官庁施設に行った事がありますが、こんな横柄な人は初めてでした。大抵来るのは初めての見学者だから見学の手続きは知らないのは当然です。親切に教えてくれてもいいではありませんか。まして広報も兼ねているのだから、変なやつが来ても少しは我慢するのが仕事です。

 帰りもここに寄っていたら、無愛想に一言、そこに時間書いて、の一言だけ。同じ人でした。帰りのタクシーの運転手さんに言ったら、そんなひどいのいたの、大抵は写真撮りましょうか、と声をかける位皆愛想がいいのだそうです。変なのに当たったんじゃないか、とのことでした。自衛隊のためにこんな印象の悪い自衛官が広報の窓口にいることが残念だと思った次第。行きも帰りも時間ははっきりしているので、調べてもらえばこの不愉快な人物を特定できるので、抗議の電話でもしようと思いましたが、大人げないと思い直して止めました。ここまで感じの悪い官庁の広報担当は生まれて初めてでした。自衛隊のために言いますが、この後案内してくれた、自衛隊OBの人は実に愛嬌もあるし親切な人でした。そこまでいかなくても普通の親切心さえあればいいのです。

 はて私憤が過ぎました。これが赤煉瓦生徒館です。ちなみに呉は大規模な空襲を繰り返し受けたのに、すぐ傍の海軍兵学校は銃弾ひとつ受けずに全てが元のままです。アナポリスなどとともに世界の三大兵学校と呼ばれていたので米軍は配慮したのだそうです。


 次はこれ、近くの柱島沖で大東亜戦争中に爆沈した戦艦陸奥の主砲砲塔です。見学コースから遠く離れていたので、ようやく見えるだけでした。残念な事に、案内の人の説明は在りませんでした。小生帰りの時間の都合で、見学コースの途中で帰ったので、もしかすると、最後に説明したのかも知れません。

 ちなみにあとで調べたら、見学の途中で抜けてはいけないそうです。しらないので、先ほどの不親切なおじさんに了解を取っていたのですが、駄目とは言いませんでしたから、根は案外いい人なのかも知れません。



 江田島には武器の展示はすくないのですが、これが貴重な特殊潜航艇、正式名「甲標的」です。もちろんこれは用途を隠すためのものです。英訳はA-Target Type aと奇妙なものとなるそうです。本艇は真珠湾攻撃の際に撃沈されたものを米軍から返還されたものです。

 特殊潜航艇は真珠湾攻撃の1時間前に撃沈されたものがあるので、大東亜戦争で最初に沈没したのは日本の軍艦だと言う事になります。真珠湾攻撃は大統領が事前に知っていたとかいないとか諸説ありますが、戦争中でなければ相手に対する警告も上層部に対する報告もなく、いきなり攻撃撃沈しする事はできませんから、米国は既に真珠湾攻撃の前から戦時中である、と意識していたのは明白です。つまり平時の無警告射撃を禁止した国際法の観点から言えば、真珠湾攻撃が国際法違反の奇襲攻撃だと言う議論は意味をなさないのです。


 最後はこれ、甲標的の近くに展示してある、大和級戦艦の砲弾です。名古屋護国神社のものとリングなどを比較した結果は本物です。靖国神社や戦艦三笠のものは形状が違ったり、寸法が違ったりしているので、大和級のものではありません。従って小生が見た、大和級戦艦の砲弾の実物は、名古屋と呉と江田島の三箇所だけです。ただ不思議なのは、この砲弾のリングの全周を確認して見ましたが、Nすなわち日本製鋼所の刻印がありませんでした。

 見た通りリングは徹底的に磨きあげられていますから、磨いた際に削り落ちたのでしょうか。いくら刻印が浅くても、削れて消える事はないと思うのですが。


○海上自衛隊呉史料館
 
 別名「てつのくじら館」です。陸上を本物の潜水艦を移動させた、と言う事でけっこう話題になったものです。潜水艦は典型的な涙滴型のあきしおです。すぐ側にスーパーがあったり車が走っているのは、非日常的光景です。ちなみに涙滴型と言うのは潜水中の性能を極限まで追求しているものですが、一世代古い形だそうです。

 何故涙滴型を自衛隊が止めたのかと言えば、合理的理由は不明です。ドイツあたりの最新の潜水艦が涙滴型ではないからだと勘ぐっています。何せ自衛隊の九〇式戦車はレオバルト2にそっくりで、陸上自衛他の人が戦車メーカーの技術者にレオバルト2の写真を見せて、これに似たのが欲しいと言った、と揶揄されている位です。もちろん真偽は不明です。

 最近採用された一〇式戦車の砲塔先端はくさび型になっていますが、レオバルト2の砲塔も先端にくさび型の装甲を着けて改良されました。しかしレオバルト2は、現用戦車を改造したためにそうなったのであって、新規に設計したらもっと合理的な形状があったのに違いありません。武器の外形を模倣する傾向は戦後より強くなっているように思われます。


 史料館の展示です。地味なせいか見学者は多くありません。これはペルシャ湾に派遣されていた掃海艇「あわしま」の模型です。あわしまは船体が木製です。何故って、掃海艇とは海中の機雷を処分するのが仕事です。機雷には接触して爆発するタイプとか色々ありますが、その一つが金属の磁場の変化で爆発するタイプです。

 従って、つい最近まで掃海艇の主流は木製だったのです。一度製造工程を見学した事がありますが、それこそ木製、まるで大工さんが工場で働いている、と言った光景でした。ところが最近では同じ非金属でも、漁船と同じくFRP製が作られるようになりました。それで木造船は絶滅。

 当時働いていた大工さんの職人技は貴重なものだったと聞きました。しかしそれも今は昔、木造船の技術は絶たれてしまったのです。こういう点日本の技術伝承は案外軽薄でなものです。蓮舫さんとか言う人の事業仕分けと同じで、どうしてそんな技術をいまさら伝えるの、と言うのでばっさり予算を削られたのに違いないのです。

 昔日本は木製航空機をあっさり金属製に切り替えたために、戦争でアルミが無くなって木製飛行機に戻そうと思ったが後の祭り、惨憺たる有様でした。英国は木製のモスキート多用途機が大成功。ソ連も第二次大戦中の自国製戦闘機の主力は木製でした。 

さてここのメインは、むしろ資料館自体ではなく、最初に紹介した潜水艦ではないでしょうか。旧式とはいえ潜水艦の中の見学ができるのです。陸上に潜水艦を展示する、という発想もすごいですが、最近の自衛隊もやるものです。しかも有名な大和ミュージアムのすぐそばという立地もいいのです。そう言っては失礼ですが、大和ミュージアムが無かったら、わざわざ見学する、という人は少ないでしょう。

 でこれはトイレとシャワー室です。潜水艦で最も貴重なのは、空気の他には真水です。従ってシャワーやトイレで使われた水は循環使用されるのでしょう。循環使用するのなら、水が多い風呂でもいいのではないかと思うのでしょうが、循環使用するには電力がいるので、やはり水は最小限にするのでしょう。トイレもコンパクトで、大きさや金属光沢などは旅客機のトイレみたいでした。

 戦前日本海軍は、享楽になれたアメリカ人は、窮屈な潜水艦で長時間我慢するのは苦手だから、潜水艦乗りには向かないと判断したと言われています。ところがさにあらず、敵の攻撃を受けて待機している場合、相手の動きを論理的に推測するので、長時間何もせずに堪えるのはアメリカ人の方が案外得意だったようです。白兵戦も厳しいトレーニングを受けた海兵隊の強さは日本陸軍の比ではなかったようです。


  さてこれから江田島の海軍兵学校跡です。と言いたいところだったのですが、何も調べずに行った ので、江田島行きのフェリーはわずか10分前に出てしまいました(@_@;)そこで迷った挙句呉市内には旧海軍関係の建物が色々ある、と言うので見に行く事にしました。ところが帯に短し襷に長し、で待つには長いが見学に行くには時間が短いのです。

 そこで調べたら、大和ミュージアムから1キロ位の所に呉鎮守府の建物がある、と言うので出かけました。今年の夏は暑かったです(>_<)猛暑の中を大きなバッグを抱えて歩きました。しかも途中からだらだらと長い坂でした。女子高生もいましたから、この変な叔父さんは何を黙々と歩いているのだろうと思われたでしょう。

 呉鎮守府は海上自衛隊呉地方総監部の庁舎として使われているそうです。観光パンフを見ると、丸いドーム型の屋根が特徴です。実はフェリー乗り場の二階待合室の展望台から辛うじて見える建物がそうでした。あれこれ迷っているうちに案外時間が過ぎて、フェリーの出発の20分前に着くのはけっこうぎりぎりでした。

 途中からドームが見え隠れするのですが案外着きません。ようやく坂の途中から建物が見えるようになりました。でそれがこの写真。フェンスや木の間からようやく撮りました。平日にも拘わらず、国旗が掲揚されているのは流石に自衛隊です。もっともアメリカでは平日でも星条旗が溢れていましたから。見学には予約がいるのかどうか知りませんが、とにかく時間もなく覗き見状態ですごすごと帰りました。皆さま観光は計画的に。今はJRや飛行機ばかりではなく、ローカルバスの時刻までインターネットで分かるのです。ましてフェリーなどは当然です。


○大和ミュージアム


 さて季節は過ぎましたが、8月に呉と江田島に行ってきました。呉は言わずと知れた大和ミュージアムと海上自衛隊呉史料館です。

 まずは大和ミュージアム。戦艦大和の10分の1の模型はさておき、これは廣廠製の八九式飛行艇の模型です。もちろんプラモはありませんから、朴の木を取材としたソリッドモデルです。ソリッドモデルを知らない人のために説明すれば、とにかく全てのパーツを自作した模型です。

 感心したのはそのできのいい事でした。しかもレアものの八九式飛行艇です。当時民間の航空技術が揺籃の時期、海軍は呉の海軍工廠の航空機部門として廣廠を設置しました。そこでは軍用機の研究と生産が行われました。その比較的初期の作品が八九式飛行艇です。

 複葉とはいえ非常にバランスの良さが感じられます。ちなみに、その後、横須賀に海軍工廠が設置されるとほとんど技術者はそちらに移ました。私事ですが、私の叔父は横須賀の海軍工廠に勤務していた事があります。


 さて次の展示は・・・背景は人間魚雷回天1型です。でこの縦長の金属棒のようなものは、回転の潜望鏡です。体当たり攻撃には今でも批判は強いのですが、私は当時の人たちが日本の存亡の危機を説に感じて体当たり攻撃まで実施した心情を是とします。当時米国は日本とドイツには降伏を許さない、つまり無条件降伏をさせると世界に公言していました。これは当時の戦争の常識からは異常なものでした。

 だから日独は最後まで戦わなければならなかったのである。ところがサイパン、硫黄島、沖縄での日本軍の反撃による被害と特別攻撃隊の攻撃による被害に恐れをなした米国は、ついにポツダム宣言、という条件付き降伏を持ちださざるを得なかったのである。識者でも未だに日本は無条件降伏をした、と平気で言う人も少なくないが、これは明白な誤りである。

 ポツダム宣言には、吾らの条件は左記のごとし、として以下8つの条件が書かれている。つまり条件付き降伏であって無条件降伏ではない。誤解されるのはその条件のなかに、全日本軍は無条件降伏すべし、とあることだ。これは大日本帝国は条件付き降伏だが軍隊は無条件降伏であったということである。軍隊の無条件降伏とは、武装解除の手続きが済むまで武器を保持するとかの条件を許さず、即時停戦かつ武装開示して降伏せよ、と言う事である。ドイツ政府は一切の条件なしに全土を占領されて負けたのだから、これこそが無条件降伏である。現代の日本人は特攻隊員に今日の繁栄のある事を感謝して生活しなければならないのである。

 大和ミュージアムの目玉は大和の模型の他にも、零戦の実物がある。でそれはエンジンである、栄三一型甲です。ちなみにここの零戦は他に残されている機体と異なり、六二型というのがレアものです。航空評論家の野原茂氏は昭和六三年に出版された本で、米軍が発見した零戦の銘板に六二型と書かれたものがあった事に疑義を呈しているが、最近同氏が六二型についての本が出版されたところを見ると、六二型が認知されたのでしょう。誠に時代は変わったと言うべきか。

 同氏は零戦設計者の堀越技師が、エンジンの性能を向上させたのに、零戦の性能が期待ほど上がらなかったのは、エンジンメーカーの高高度性能研究不足と算出法の甘さによる、と指摘している事について、そればかりではなかったと書いている。つまり機体の全備重量が114kgも増えているのも原因である、というのだ。

 以前このホームページでも指摘したが、一体堀越技師は自分の間違いを他に責任転嫁する悪癖があるのがここでも示されている。やさしい野原氏はこの点は批判しない。失敗はまともにみつめないと、今後に生かされることが無いと、私は思うのである。これに引き換え立派だと思うのは、堀越技師と大学同窓の川崎航空機の土井武夫技師である。堀越技師が零戦以後、零戦の改造以外には雷電と烈風しか手がけなかったのに対して、有名な飛燕以外にも、屠龍の他、キ番号だけでも60,64,88,102,108などを手掛けている。

 果ては双発の急降下爆撃機まで担当している。堀越技師が零戦の小改造に汲々としているうちに、飛燕のエンジンを空冷に改造を行い、飛燕自体の改良に当たっても、主翼の断面を変更する大改造を淡々と行っている。これに比べ堀越技師は零戦の改造が小改造を頻繁に繰り返したのに過ぎないのに、愚痴ばかり行っている。土井技師は飛燕の液冷エンジンを空冷に変更する時期が遅れた事に対して、調子の悪い液冷エンジンに換装する事を言い出せなかった事に着いて、液冷エンジンの改良に努力している仲間に対して言いだす勇気がなかった、人情に負けた、と告白している。この反省も堀越技師とは異なるのである。

 閑話休題。これは大和の模型の艦尾側からの写真です。この模型展示法の良い所は写真でも分かるように、普通は横から眺めるのだが、展示場の下がくりぬいてあって、艦そこ側からも見る事が出来ることである。更に二階三階からみれば、斜め上や上空から眺める事ができるのである。


 外に出ると、戦艦陸奥の関係のものの展示がありました。陸奥は第二次大戦中に瀬戸内海の柱島沖で爆沈した事で有名です。陸奥爆沈は火薬の自然発火によるものとの説もあるが、海軍では原因不明と言う事になっているが、有力なのは乗組員が故意に火を付けたと言うものです。

 日本海軍ではこの他に、この前紹介した戦艦三笠が同じように火薬の爆発事故で沈没しています。三笠の方は、酔っぱらってふざけていた水兵が誤って火薬に火を付けてしまったのだろうとも言われていますが、陸奥の方は訓練に耐えかねた水平が故意に火を付けたと言われてもいます。

 榛名などは空襲で座礁したので、戦後簡単に解体スクラップにされたのですが、陸奥の方は放置されて、その後部分的に引き上げられたのです。従って、ここには陸奥の碇、主砲、スクリュー、舵などが展示されています。小生思うのですが、これらのパーツは貴重なものです。ですから塗装などの保護はしっかりとなされているのでしょうが、やはり屋内に納めていただければと思うのです。管理の苦労を知らない部外者のたわごとですが。


大和ミュージアムの裏の駐車場に行くとこれです。中に展示されていた大和級戦艦の砲弾に大きさも形もそっくりなものが置かれていました。これは駐車場のセイフテイーコーンです。大和ミュージアムにふさわしいと言うべきか、お茶目と言うべきか。小さな三角は砲弾の先端に着けられた風帽です。風帽は他国にはない旧海軍の発明です。

 実験によって水中に落ちた砲弾は、そのまま沈むのではなく、水中を進み敵艦に命中する事がある、と言う事を発見した日本海軍はそれを生かすために水中の直進性が優れた先端が平に近い平頭弾と言うのを開発しました。平頭弾では空気抵抗が大きいため、この風帽を付けて、水面に落下した時外れるようにしたのです。

 大抵の本には水中弾効果を得意げに記述していますが、米国も同じく水中弾の効果を発見したのですが、やはり直接命中する効果を重視して水中弾効果の優れた砲弾の開発はしなかったということです。これは合理的思考で、本来直接命中した効果を重視すべきで、それを水中弾効果のために犠牲にするのは本末転倒しています。大和級が直接米戦艦と砲戦をしなかったのは幸運と言うべきだと思います。日本海軍はそれより、射撃式装置の性能向上や戦闘指揮の方法の改良に、より心血を注ぐべきだったとおもいます。

 米国のアイオワ級戦艦と大和級が戦ったら、という記事を目にしますが、ある海上自衛隊OBは大和級は間違いなく負けると断じています。日米の射撃式装置や指揮方法の差は歴然としていて、米戦艦の方が射撃誤差の修正が素早くできるため、早く命中弾を与えられるからです。その上にレーダー射撃の有無があるからもっとひどいのですが、レーダーがなくても大和は負けたのです。それでいえば、大和級はもっと古いノースカロライナ級やサウスダコタ級にも負けたでしょう。ちなみに平頭弾が水中直進性がいい事は、最近の魚雷でも弾頭が平らなものがある事でもうなずけます。これは日本海軍の卓見です。要は日本海軍はハードよりソフトが弱いのです。


○記念艦三笠
 いわずと知れた、横須賀にある、日本海海戦の連合艦隊旗艦三笠である。小生朝の写真を見て、暇だったので早速行ってきました。その前に見たのは中学の遠足の時ですから、相当昔の話。当然最初の一枚は艦首から見た全景です。

 全体的には昔見た時より保存状態は改善されていたようです。艦内には関係者と思しき人がいて解説をしてくれた人がいましたが、多くの観光地の説明要員が大抵建前の知識しかないと思われる人が多いなかで、そのおじさん海戦に関するしっかりした見識を持っていて安心して聞けました。

 そのひとつが、日露両海軍で参加した戦闘艦艇は数も質も日本の方が高かったこと、戦闘能力を総合評価すると、連合艦隊はバルチック艦隊の10倍と言う圧倒的優位であったことです。これなどはチェックすれば分かるはずなのです。ちなみに司馬遼太郎の坂の上の雲の日本海海戦に関する記述は、多くの論者が指摘するように、不正確なものが多いのです。

 そして戦後、ロシアの意見で壊されようとした三笠を救ったのは、東郷元帥を尊敬する米海軍であったこと、記念館としての再保存に尽力したのが、大東亜戦争当時の敵のニミッツ元帥であった事などは、感動ものでした。

左が艦橋にある司令塔です。砲弾を防ぐ鉄の塊にガラスのないのぞき窓があります。それで右の写真が司令塔の中で、舵輪やらがあります。東郷連合艦隊司令長官は、この鉄の塊の中にいたのではなく、露天の艦橋で指揮をとりました。大東亜戦争の時の山本五十六元帥をはじめとする連合艦隊司令長官は、皆前線から何百キロ後方の旗艦から、あるいは本土の日吉から指揮をとっていました。

 根性無し、と非難するつもりはありません。しかし、通信が充分ではない時代には、刻々変わる戦況に指揮官が対応するには現場にいるに勝るものはないのです。東郷元帥のように戦闘に立つと言う時代ではないにしても、現場の海域で指揮を取るべきでしょう。

ガソリンタンクなどの後方施設を攻撃すべきだと言う意見が司令部で上がった時、南雲はやるまい、と山本長官が語ったとされる。これは戦後、後方施設を攻撃しなかった事に対する批判が起きた時、山本長官はそのつもりだったが、南雲中将がしなかったのだ、と言う山本五十六を擁護するための作り話のように私には思われる。このような作り話ができるのも山本が現場にいなかったからである。またこれらの施設を攻撃すべきと山本が考えていたのなら、事前に攻撃目標を指定していたはずである。こういう嘘を贔屓の引き倒しというのである。

 艦の中には右は三笠神社があります。軍艦の艦内には必ずこのような神社があったそうです。建築工事などをする時も必ず神事を行います。まして命を賭けて戦う時は人間の本心が出るものです。大抵の日本人は聞かれると、無宗教だと答えるのだそうです。しかし無宗教の人間は神事は行わないものです。無宗教、つまり人間を単なる物体と見るならば、葬式は行わないものです。神事に頼り、神社に初詣をするのは、神道の信者だからです。初詣をする人たちの中にはキリスト教徒もいるでしょう。しかし彼らの基層には神道があるのです。彼らは神道のキリスト派に過ぎないのです。


 これは連合艦隊出撃の際の通信です。左が暗号文で右が翻訳文です。翻訳文を下に書き出します。

 敵艦隊見ゆとの警報に接し連合艦隊は直に出動之を撃沈?滅せんとす本日は天気晴朗なれど波高し

 と言うわけですが、波高し、と言うのは単なる修辞ではなく、波による揺れを考慮して大砲の発射のタイミングを考えて戦闘する、と言う意味だと言う事を聞いた事があります。なるほどと思う次第です。


 これは言わずと知れた、艦首の菊の御紋章。従って冒頭の写真のは複製です。日本海軍では御紋章は軍艦にしか着けられない、と言う規定があるのは広く知られていると思います。国際法で軍艦とは、病院船などの非戦闘艦船を含む軍隊に所属する艦船と言う事になっていることから、この規定は奇妙に思われます。日本海軍は軍艦と言うのを狭義に規定していて、駆逐艦や潜水艦など比較的小型の艦艇を軍艦には分類していません。

 従って駆逐艦には菊の御紋章が着けられていないのです。小型艦船は簡単に沈む可能性が高いので、皇室の家紋を粗末にすることになるから着けないのだと説明するむきもありますが、下種の勘繰りのような気もいたします。小生軍艦の定義で恥をかいたことがありました。旧海軍の福利厚生施設の佐世保水交社を改築した海上自衛隊佐世保資料館を見学したことがありました。そこでこんなクイズがありました。大東亜戦争で最初に撃沈された日本の軍艦はどれか、という四択クイズです。

 前述の定義は百も承知だったのですが、小生自信を持って特殊潜航艇を選びました。結果はブーでした。真珠湾攻撃の航空艦隊は無傷でしたが、それに先だって発見された特殊潜航艇は米海軍の駆逐艦に撃沈されたのです。しかしそれは軍艦ではない、と言うのです。確かに資料館の展示には潜水艦は日本海軍では軍艦に分類されていないと言う説明がありましたが、見事なひっかけであります。しかし国際法の普及と言う観点からは教育的ではない、と抗議したくもなります。

 ちなみに特殊潜航艇は、真珠湾攻撃の1時間以上前に撃沈されています。それは米海軍が日本の艦艇を発見次第攻撃せよ、と言う命令を出していたからです。しかも攻撃は無警告で行われています。これは国際法上は戦争状態でなければ許される事ではありません。ハルノートは最後通牒ではなかったので、無視すれば良かったのだ、と言う意見が散見されますが、アメリカはハルノートを事実上の戦線布告と見なしていたから攻撃命令を出していたのです。

 アメリカはハルノート以降、日本軍に最初に発砲させるトリックや、日本艦艇を攻撃する大統領命令を出しています。これはアメリカ自身がハルノートを宣戦布告と見做しているからです。歴史のイフですが、もし米海軍が真珠湾攻撃前に日本海軍に攻撃をしかける事に成功していれば、アメリカ大統領はハルノートで宣戦布告をした、と発表するつもりだったのです。ハルノートの中の中国と言う言葉には満洲が含まれていないからなどと言う重箱の隅をつつく議論をする日本人がいるのですが、それまでの日米交渉の過程を突然ひっくり返す要求をすること自体、交渉の妥結を拒否しているものです。何よりもそんな人たちは、米英ともに指導者が日本との戦争を奇禍として、米国が参戦する事を望み、ルーズベルトもチャーチルも、真珠湾攻撃を喜んだと言う事実を故意に無視しています。そもそも湾岸戦争より前の戦争で、はっきり分かる形で宣戦布告してから戦闘を開始した戦争はなく、全て奇襲攻撃で始まっていますから、国際法違反かどうか、と言う議論がそもそもナンセンスです。国際法は、単に条約などで明文化されたものばかりではなく、その当時慣習的に行われていた事を是認するものですから。


 さて次は、外に置いてあった、大和型戦艦の砲弾です。以前靖国神社にあるものは本物ではない事は述べた。しかるにこの砲弾であるが、愛知県護国神社の日本製鋼所の刻印のある本物と比較してリングの数や形状、全体のプロポーションから本物と判断した。

 ただ直径が18インチあるかは確認できないので、小生には九一式徹甲弾ではあるとは言えるものの、大和型のものとは断定しかねる。 それから周囲が立ち入り禁止なので、残念ながらNの刻印は確認できませんでした。

 以前、日本には大和型砲弾はインターネット検索で四箇所にあると書きました。小生は愛知県護国神社、江田島の元海軍兵学校と、三笠の三か所を見ました。他には大和ミュージアムと愛媛県の楢本神社にあるとされています。すると五箇所になるではありませんか。謎です。ここにある砲弾は護国神社のものに比べてかなり小さいような気がするのですが。


 さてこれは、三笠艦上にある灯篭です。横の看板によれば、海戦により砲弾で穴をあけられた三笠の鋼板で作られたもので、海軍から、かの伊藤博文公に送られたものだそうです。感心するのは、日本海海戦が連合艦隊の完勝であると言われながら、実際には三笠の被害がかくも甚大であったと言う事をこのような形で残したと言うことでありましょう。

 かくも無残になったものを記念に残したと言うのは、戦闘に勝ってもかくも甚大な被害を被るものである、というリアリティーを海軍の関係者が忘れないようにするために残した、と思われる事で、単なる座興ではなかったということである。残念ながらその後の日本海軍は戦闘に対して観念的になり、カタログデータの優秀さを競う傾向が強くなっていった、というように思われる。

 例えば重巡洋艦の砲塔のシールドは、ペラペラな機銃弾さえ防げないようなものにされ、軽量化にはげみ、その結果、少ない排水量で沢山の武器を積んでいる事を誇ったのである。それは巡洋艦の砲塔の装甲の厚さなどは、カタログ上評価されなかったからである。

 大和型戦艦の高角砲は四方を鋼製のシールドで覆われている。しかしこれは機銃弾や爆弾の断片から砲守るためではなく、主砲の爆風から高角砲の操作員を守るために過ぎなかった。だから大和にしても武蔵にしても機銃掃射を受けたり、遠くで爆弾が破裂しても容易に被害を受け、対空戦闘能力を簡単に喪失していった。

 演習で主砲を発射しても、機銃弾を受ける事はないから、爆風よけのシールドさえあればよいのである。何と現金な発想で、戦闘に対する想像力が欠如しているのであろう。この傾向は海上自衛隊にも引き継がれているようである。丸スペシャル、と言うシリーズの「75号には、米海軍から供与された5インチ砲は19mmの鋼板製のシールドが使われていて、重量が33.6トンだったと言う、これを自衛隊では6mmに減じて、30トンに軽量化したというのである。

 いくら高張力鋼に変更したとはいえ、6mmと19mmでは防御力は全く違うであろう。実際に戦闘に参加する、と言う想像力が欠如していて、軽量化による船の性能向上という事だけに囚われていると言わざるを得ない。


 さて今回唯一買ったお土産です。メダルは片面が三笠のシルエット、片面がかの有名なZ旗です。メダルは名前の刻印が入れられるようになっていて五百円ですが、面倒なので入れませんでした。

 けっこうせこく、メダルをはめ込むリングとキーホルダーがセットで二百円。大抵は両方買うとふんでいるのでしょう。言うまでもありませんが、Z旗は、「皇国の興廃はこの一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の意味です。

 小生中学生の時に買ったのは、露天艦橋で陣頭指揮する東郷元帥以下の指揮官の有名な画の複製でした。もちろんとうに遺失していますが、入手困難な訳ではないので惜しくはありません。それよりも残念なのは、外にある土産物売り場が狭く、あまり商売気が無い事でした。

 三笠を含めた一帯は三笠公園というのですが、公園は旧海軍の施設があった場所のはずですが、ゆかりを示すような標識も何もないのは残念でした。


 小生これで三笠公園を後にして横須賀の繁華街に戻ったのですが、途中で豊川稲荷入口と言う標識があり、急な階段を数人の観光客が登っているのでつられて行く事にしました。何故ここに豊川稲荷と思うのですが、訳が分かりませんでした。五階に相当する位の階段を登ると、これが稲荷さんで、確かに両側にはお狐さまが控えていました。

 神社の境内にあったこの石碑、最後の一時が読めませんでしたが、ともかく神武天皇遙拝とありました。さてこれで本日の三笠見学はお終い。最寄りの駅は京浜急行横須賀中央で徒歩10分前後でした。平成21年の暮にNHKで放送した坂の上の雲にも三笠の艦内を臨時改装して使われたそうです。この手の施設としては比較的よく手入れされていると思います。それも日本では戦争関係の施設が粗末に扱われている事を考慮しての事ですが。

 
○戦艦大和の砲弾


 久しぶりに名古屋に行きました。そこで立ち寄るのは愛知県護国神社。ここは以前にも紹介した事がありますが、その時は肝心のものを紹介していませんでした。この写真が護国神社にある、戦艦大和の主砲の砲弾、正式には九一式徹甲弾である。インターネットを調べたら、この他にも呉の江田島の旧海軍兵学校など合計四箇所にあるとある貴重なものである。ここにそんな展示があるのは、地元の人にすらあまり知られていない。またある本にアメリカにもある、とあった記憶がある。

 靖国神社にも大和型戦艦の砲弾と紹介された展示があるが、これは本物ではない。プロポーションがおかしいのはもちろんだが、なにせ直径が46cmよりはるかに小さいのだから明白である。一度神社職員に話したら、調査しますとのはがきによる丁重な回答があったが、数年後もそのままだったのは残念です。

 ちなみに九一式徹甲弾は、命中せず水中に落ちると上の三角の部分が脱落して、本体が水中を真っ直ぐ進み、敵艦の喫水線下に命中するという日本海軍の発明になる、新兵器「水中弾」として大抵の書籍には紹介されている。しかし僕に言わせればこれは欠陥兵器である。水面に落ちて信管が起動して200m水中を走って、敵艦に命中した時に爆発するようにしてある。

 このため信管は作動して0.4秒後に爆発する。しかし弾丸は本来、命中した時の効果を第一に考えるべきであろう。するとどうなるか。この砲弾の装甲貫徹力は絶大で、10cmや20cmの装甲なら、命中しても大してスピードも落ちずに装甲を打ち抜いて進む。0.4秒もあれば砲弾は楽に50mや100m以上は進む。戦艦ですら船体の幅はそんなにないから、砲弾は船体から飛び出してから爆発する。

 つまりこの砲弾は敵艦に大きな穴をあけるだけの事である。事実日本海軍でも、そのような理由から0.4秒もの遅延信管の採用に一部の反対があったと言うが無視された。ちなみに米戦艦の砲弾は、装甲を打ち抜いた直後に爆発するように0.05秒以下の遅延信管を使っているがこれが正解であろう。

 大和の砲弾は、厚い装甲を貫いて勢いがなくなり、反対の装甲を貫く事ができなくなって船体中に残った時だけ船内で爆発するという特殊な条件でしか効果がないのである。甲板の装甲に当たっても艦底に当たればそこはぺらぺらだから簡単に外に出てしまう。

 まして相手が装甲が薄い空母や巡洋艦などなら、命中しても絶対に艦内で爆発しないといえる。つまり大和の主砲では空母や巡洋艦を撃沈できないのだ。これが欠陥兵器と言わずして、何と言おう。サマール沖海戦で、大和の砲弾は護衛空母に大きな穴をあけて向こうが見えた、という妙な証言があるが、あながち嘘だと言えないのである。この海戦で大和は主砲を発車したにもかかわらず、護衛空母を撃沈していないというのは定説である。

 次の写真を見て欲しい。弾底に近い位置のリングである。前回訪問した時に奉仕で神社を掃除しているボランティアの老人に、この砲弾には「M」の刻印があるから本物だ、という説明を受けた。肉眼では分からなかったので、老人が指さす場所の写真を撮って帰って印刷してみたら、「N」の刻印があった。この写真の中央のやや左の白っぽい四角で囲まれたのがそれである。考えてみれば今でも当時でも、戦艦の主砲を作れるのは、日本では日本製鋼所である。つまりNはその頭文字に違いない。日本製鋼所は世界でも、ラインメタルその他の、戦車の主砲を作る事ができる、数少ない世界的メーカーである。

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○新東京タワーパート2


 さて平成21年の10月も末になりました。7月に新東京タワーの建設中の画像を紹介しましたが、その続きです。いよいよその本体が姿を現しました。グレーのパイプが縦と斜めに走っているのがタワーの本体です。上のブルーのは、建設作業のための安全ネットです。上に立っている赤いものは作業用のタワークレーンです。

 タワークレーンと言うのは便利なもので、自分の脚を自分で継ぎ足して、どんどん高い所にいます。現在で高さ160メートル位でしょうか。既に多少高めの所に行けば、半径10キロ位の所なら見る事ができます。

 7月に行った時は、たまたま通った人が驚いて、携帯で写真を取っている位でしたが、今は写真撮影の人で周囲はごった返していました。その様子はテレビで紹介しておりましたから、見た人も多いと思います。

 タワーの周辺は典型的な下町で下町で、新宿のビル群とは趣が違います。近くには押上銀座と言う典型的な下町の商店街があります。しかし考えてみれば、新宿などと言う所は、かの夏目漱石が子供の頃、明治の初めには狸が闊歩していたと言う東京の外れでした。

 それが今や副都心で東京駅周辺より都会です。一方の新東京タワーのある業平押上は、江戸時代の途中から江戸の範疇で、隅田川の櫻堤でにぎわった都会でした。それが今や逆転です。しかし新東京タワーが経ってから20年後は、その風景も様変わりしていることでありましょう。


○ある墓所

 これは静岡県のとある田舎で見かけた風景である。墓碑には故陸軍航空兵曹長○○とある。大東亜戦争で戦死した一兵士の墓である。ここは民家に隣接した墓地で、この墓の左右には普通の先祖代々の墓がある。

 それに比べこれは、1人で四畳半ほどの敷地を使った立派なものである。しかも航空兵の姿を模した石像まである。曹長というから徴兵直後ではないにしても二〇代半ばの若さであろう。これは息子の戦死を悲しんだ、両親が立てたのである。

 なぜそう断言できるのかと言えば、私の祖父も同じことをしたからである。祖父の次男は大東亜戦争で弱冠二十二歳で戦死した。しかも出征してからわずか一月後の事である。そこで祖父は、この墓とよく似た石垣作りの墓所を作った。

 先祖代々の墓の近くはスペースがないため、田んぼの一角をつぶして建てたのである。周りは石柱ではなく竹垣で囲み榊を植えた。田んぼは道路より高い場所にあるため、まず石段を上ると墓所の入り口に着く。それから更に石段を登って参拝するのである。

 しかも道路を挟んだ隣家を見下ろす形になるし、市道からは杉の植木に隠されて直接は見えない。祖父はよくよく考えて場所を選んだのに違いない。それが寡黙であった祖父の悲しみの強さを語っている。だから私には断言できるのである。しかし祖父の死後多くの田畑を売って農家を止めた私の実家は、この墓地を撤去してしまった。そして共同墓地に新設した先祖代々の墓を建てて、その敷地に墓碑だけを移設した。祖父の悲しみはもう伝わらないように思われるが、家を出て暮らしている私には何も言う資格はない。


○新東京タワーです

 さて今頃と思われるでしょうが、新東京タワーです。押上げの近所に建設中とは聞いていましたが、ここまで進んでいるとは思いませんでした。

 浅草に行く途中、偶然に見たのです。浅草通りから路地を押上の方に入ると、突然巨大なビルの建築現場に遭遇しました。

 はてこんな大きなビルが、と思うと、それが建設中の新東京タワーです。それであわててデジカメで写した次第です。

 すぐ側にはコンクリートの堤防で囲まれた流れのない川があり、近代的なビルとのミスマッチはなかなかのものです。


 というわけで、新東京タワーでホームページを検索すれば、いくらでもあるだろうと思ったのですが、建設中の写真がはっきりのっているのは、建設写真館というようなホームページだけ。

 それでありきたりのテーマながら、わがホームページにのせることにしました。電車は東武伊勢崎線です。

 大きな板は建設中の落下防止で、駅に物が落ちないように防ぐ訳です。駅は業平橋。隅田川の堤のすぐ脇です。

 これからも定期的にのせますので、請うご期待(^0^)/


○秋田です

 秋田の人にはごめんなさいですが、クイズです。この写真はもちろん信号です。歩行者用の信号が赤青上下に並んでいるのは、全国どこでも同じです。しかし左にある自動車用の信号を見て下さい。

 これも赤、黄、青と縦に並んでいます。はてそれは何故でしょう。答えは秋田が雪国だからです。横に信号が並んでいると、雪が積り易いのです。雪が積もって信号が折れ曲がってしまうのです。

 雪国に住んだことのない皆さんに分からないでしょうが、は雪の力は信じられないほど強いのです。例えばガードレールなどは、普通の作りでは雪の重さで支柱が地面に押し込まれてしまうのです。


 さて秋田市と言えば、何と言っても久保田城址のある千秋公園です。千秋公園と言えば、観光パンフにあるのが、御隅櫓でしょう。でも小生一番感動したのが、茶屋でした。

 千秋公園の茶屋と言えば、まず石田光成のはからいで送られたという、大きな石の手水鉢です。でもそれも観光案内で有名なので、あえて紹介しません。紹介したいのは、写真に写っているような、庭に植えられたさりげない植木です。

 小生京都や九州で有名な寺や武家屋敷の庭を多数見てきました。それはそれで評判通りの立派な庭園でした。でも茶屋の庭に植えられた小さな木々には自然に見とれていました。初めての体験だったような気がします。

 千秋公園の見どころは数々ありますが、ぜひここもご覧あれ。ただあまり期待していくと、あまりにあっさりしていて拍子抜けするかもしれません。決して御隅櫓のような豪華さはありませんから。


○九州の旅です
 


 これは説明の必要ありますまい。武雄温泉の駅前です。これから「がばいばあちゃん2」のロケ隊が来るのでしょうか。そういえば武雄温泉の駅前というのは不思議で、どこにでもあるような駅前商店街と言うのがないのです。

 それから武雄温泉と言うのに、大きく案内が出ていたのは「嬉野温泉」行きの観光バスの案内でした。そういえばJR佐世保線に乗ったら、いろいろな駅で、嬉野温泉行きのバスが出ていました。

 この辺には嬉野しかないのでしょうか。ひどいのは、嬉野温泉までバス30分と言うのがありました。これでは最寄りではありません。

 武雄温泉からさらに佐世保に向かうと、ここは有田です。有田と言えば有田焼。この写真は有田の焼き物の窯の煙突です。有田から松浦鉄道というローカル線に乗っていくと、伊万里に着きます。

 この辺りは焼き物の宝庫なのです。以前有田焼と伊万里焼の違いを聞きましたが忘れました。その伊万里に行ったとき、焼き物の展示館があって、即売で大きな湯呑を買いました。

 値段は5千円で伊万里にしては安物に属するのでしょうが、色合いと言い形と言い、気に入ったのです。1年ほどすると、どうしても見当たりません。散々探してから奥さんに聞くと、あれ割れたわよ、いいものは弱いわよね、の一言でした( ^^;)


 佐世保線を走る特急です。赤い字は何と読むでしょう。答えは画面の左上にありました( ^^;)かのハウステンボス行きの特急ハウステンボス号でした。

 この特急、博多発なのですが事情を知らないと、結構面倒です。特急は「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」の3種類が連結されています。まず肥前山口で、かもめが分かれて、長崎に行きます。次に早岐でみどりが佐世保に、ハウステンボスがハウステンボスに行くのです。

 秋田新幹線や山形新幹線は2種類の新幹線が連結されて上野を発車しますが、3種類と言うのは初めてです。指定を買えば問題ないのですが、自由席だとよほど注意しないと、目的地に着けません、なんてことになりますから九州の旅にはご注意を。



 
 JR大村線に南風埼という駅があります。もちろんなんぷうさきとは読み
ません。答えは右の写真です。はえのさき、です。辞書で調べたら四国や九州では、南風を「はえ」と読むのです。東風をこちと読むのは標準的です。

 菅原道真の、東風吹かば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ、でこちは読めると思います。ちなみに南風埼はかのハウステンボス駅の隣なのです。小生10年くらい前、長崎から佐世保に行く高速バスに乗った事があります。

 途中ハウステンボスの構内に寄りました。しかし乗降客は2,3人。確かに施設は立派だし、本物の大人の作り、というのは本当でしょう。でも何故か皆で楽しめるという魅力はないように思われました。これはあくまでも小生の個人的感想です。


 さてここは、26聖人殉教の碑です。長崎駅前の横断歩道を国道の反対に渡って、坂道を五分も歩けば着きます。かなり大きな広場ですから、すぐ分かります。さて26聖人ですが、当時九州方面で流行したキリスト教信者です。

 さてそれが、豊臣秀吉に処刑されたというのです。それで可哀そうにという事で、この碑ができた次第。秀吉は何とひどい奴、ということになります。ところでこの話、日本の歴史の説明にありがちな、大きな欠落した視点があります。

 この説明は九州の大名がキリスト教信者になって、徒党を組んで政権に反抗する恐れが出たから、見せしめに弾圧する、という程度のものでありましょう。つまりキリスト教が流行ると困ると言う国内的要因に全て転化されているという特徴があるのです。

 だが当時西欧からキリスト教が布教された地域はどうなったか。フィリピン、南米などを見るとよいのです。全て欧米の植民地になって呻吟したのです。つまりキリスト教徒は侵略の先鋒になって世界各地に布教したのです。だから遠いアジアや南米の地に行く航海の便を国を挙げて支援したのです。今と違って海外渡航が奇跡に近い時代ですから、国の支援なくして布教などできなかったのです。もちろん海外に赴いた神父たちの善意と情熱は本物でした。

 キリスト教を信じていない野蛮な人たちを、命をかけて布教して幸福に導くと言う情熱は本物でした。しかしキリスト教以外の宗教は認めないと言うのは偏執的なものでもありました。そして欧米化すること、すなわち欧米の植民地化することが野蛮人の最大の幸せであるはずだったのです。ボクシングの映像を、片方が殴っている映像をカットしてみたらどうなるのでしょう。無抵抗の人間を一方的に殴っている、という悲惨な映像になります。

 殉教の物語もこれと同じで、西欧の征服の野望を隠してしまったから、秀吉は哀れな信者を一方的に虐殺した酷い奴、と言う事になるのです。秀吉の朝鮮征伐だって国際的要因があったとする説があります。これだって国際的要因を無視するから、説明がつかず、秀吉の誇大妄想という情けない説明になるのです。

○秋田です

 見慣れた人にはどうでもいいでしょうが、東海道や山陽新幹線を見慣れた眼には不思議な景色です。これは秋田新幹線の大曲の駅です。何と新幹線が在来線のホームに停まっているではありませんか(>_<)左をよく見ていただくと、在来線の電車もちらりと見えますよね。いえいえそうではありません。これはれっきとした新幹線のホームなのです。

 ただホームのつくりが在来線並みの、簡素なものなだけなのです。そこで小生、はたと考えてしまいました。例えば名古屋駅。新幹線は高くて立派で大袈裟な作りをしていますが在来線は簡素なつくり。しかしそれって本当に必要なのでしょうか。立派な作りでも、早く走るのは電車で、それを支えるのはコンピュータや電気設備。

 つまりプラットホームが立派な外観をしている必要はないのです。多分秋田新幹線は、在来線の駅に最低限のホームを増設したためにこうなったのでしょう。つまり必要は発明の母m(-_-)mなんちゃってですが、その通りでしょう。ちなみに山形新幹線の駅の多くもも同じようなものだったと思います。

 小生デザイン的には東海道新幹線の700系のいわゆるカモノハシ型の先頭車両の形はあまり好きではありません。派手ではありませんが、秋田新幹線の、この車両の形。なかなか粋で素直にかっこいいと思いませんか。


○博物館の不思議な展示
 ここは国立科学博物館です。でこの展示は、飛行機マニアでなくても日本人なら誰でも知っている、零戦です。科学技術の発達の歴史を展示したこのフロアに何故か、零戦があります。小生、実はかなり以前にも来た事がありますが、その当時からあったものです。

 ところが今回行って初めて気付いたのですが、実物が展示されているにもかかわらず、何故かこの飛行機の解説がないのです。他には戦前の飛行機の模型があり解説もありますが、これらは全て民間機です。奇妙な事はまだあります。この零戦は、東京都内に唯一の貴重なものです。にもかかわらず、案内のパンフレットには飛行機の平面のシルエットがあるだけで、零戦が置いてあるとは書いてありません。

 零戦は世界で30機以上が保存されているそうです。でもこれは、戦地で一人乗りから二人乗りに改造された、超レアもの。零戦二一型が元なのですが、改造されて世界でただ1機の貴重なものとなったのです。この肝心のコメントも、もちろんなし。やはり日本では軍事的なものは忌避されるのでしょうか。展示品に、解説がない、と言うのは初の体験です。博物館関係者の精神のバランスを疑います。


○安芸の宮島

 平凡かも知れませんが、日本三景、安芸の宮島です。宮島には広島から宮島口まで電車で27分、それからフェリーで10分ですから、有名な観光地としては便利です。

 しかもフェリーは15分おきにあります。そして2社が営業しているので、実際はもっと多いのです。

 宮島と言えば放し飼いの鹿。この日は天気がいいので冬なのに鹿さんいっぱい出ているとガイドさんが言っていました。鹿さんには餌をやるなと言われていたのですが、インターネットからコピーした地図を見ていたら、寄って来た鹿さんに四分の一ほど食べられてしまいました(~_~;)^

 さてこれは、厳島神社の入り口の鳥居の脇にあるライオンさんの像ではないでしょうか。2体あって、阿吽を表すのだそうです。

 阿吽とは梵字で、阿が口を開いたときに最初に出る音で、吽は口を閉じるとき、最後に出る音です。つまり最初と最後の音のペアって訳です。

 どうして小生がそんなうんちくを知っているかって(^_-)観光地には大抵ツアーがいて、ガイドさんが話しながら案内してくれるじゃありませんか。

 小生がいくところ運よくツアーの末席にいてガイドさんの説明を聞けたのです。この日は12月初めだと言うのに暖かくてコートもいらないくらいでした。

さて次は厳島神社の本殿です。大人300円の入場料です。いえいえ遊園地ではありませんから、入場料と言ってはいけません。拝観料とでも言うのでしょうか。

  さてこの馬さんは本殿入り口脇の厩舎にいるものです。もちろんご覧の通りの木像です。その昔伊勢神宮に行ったとき、やはり厩舎があって、やはり白馬が居ました。

 それは本物でした。天皇陛下の愛馬と説明されていましたが、その後行った時はいませんでしたが。本物の白馬は白だけあってよごれていて、汚かったのが可哀想でした。

 生きているので、いくら洗っても、ごろごろ動けば汚れてしまうのは仕方ないのかも知れません。ですからこの白馬さん、木像にしたのは、汚れない知恵かもしれません。


 さていよいよ本殿参拝です。前を行くのは仲良くアベック。こんなところに一人で来るおじさんはアホです。入り口には國寶厳島神社、世界文化遺産、とあります。そうでした世界文化遺産に登録されているのでした。

 日本中の観光地が世界文化遺産に登録してもらいたくって必死です。富士山などはごみが多いとの理由で未だに登録されない由。いいじゃありませんか。世界文化遺産登録の判断基準は西洋人のもの。

 日本人には日本人の審美眼も価値観もあります。だから日本人が良いと思えば世界遺産にならなくても構わないじゃありませんか。もちろん自然体で世界遺産になれば、それはそれでいいじゃありませんか。世界遺産にとうろくされようとされまいと、価値が減りも増えもしないのですから。世界遺産に登録したい魂胆は観光地として箔をつけて儲けたいと言う下心がみえみえなのですから。

 でこれがひとつのビュースポットです。手前が本殿で、奥の岡の上にあるのが、千畳閣とその五重の塔です。遠くで分かりませんが名のとおり千畳閣はただっ広い一部屋しかない寺です。

 本殿のような塗装がしてなく、木地むき出しの風格はなかなかです。拝観料も100円とお得です。といっても素人は大きさに感動するばかり。

 本日は干潮だったようで、本殿の下は海砂と海草がむき出しになっておりました。この前来た時は、すぐ下まで潮が満ちていましたから、来るタイミングによって、風情が変わるのはいい趣です。



 さて次も社殿の風景です。社殿の奥から対岸に渡る太鼓橋です。高さ5から6mほどの巨大な橋です。しかしこの傾斜の大きさでは、果たして人が渡れるかどうか。

 渡るとしたら欄干につかまって攀じ登る事になりましょう。それでは少しも風情はありません。もっとも今では入り口に柵があって通れません。



 さて本日の最後、大鳥居です。大鳥居は社殿中央正面から、まっすぐ海に二百メートル位いった海上に建てられている。根元の黒いのは藤壺です。要するに満潮時にはここまで海水がくるということです。

 この大鳥居、大きいので知られる靖国神社のより大きいのです。しかもく、欠けている部分を見たら、一本の木材ではなく、ベニヤのように積層してありました。果たして昔からそのような技術があったのでせうか。






○今年もみたままつりです

 靖国神社のみたままつりは、今年も今月13日から、16日です。多くの人は誤解していますが、基本は単なる縁日です。そのお祭気分に、多くの人が集まります。東京ではそんなところがすくないのです。

 だから、こんな今風の、にいちゃん、ねえちゃんか、いっぱい集まります。冷やかしているのではありません。日本人と言うのは、どだい、こうした軽薄な人たちで、それでいいのです。

 夏祭り楽しむべしです。ところで背景の、提灯は、戦死者を悼む人たちの献灯です。ちなみに私も、叔父が戦死したので、毎年献灯しています。にいちゃんねえちゃんが靖国神社に軽薄に集まる限りは、日本は大丈夫です。
 それで、縁日にはつきものがこれ、お化け屋敷です。靖国神社公式参拝反対などと、がなりたてている人たちは、こんな風景は想像しないのでしょう。要するに、日本の田舎なら、ごく当たり前の風景です。

 いや靖国神社反対などと言う人たちは、そもそも、田舎の日本の原風景を知らずに、西洋の基準で日本の事を批判するのが、最高の価値だと考えるかわいそうな人たちです。

多分、自分の父母や祖先がどういう生活をしてきたのか、忘れたかわいそうな。、人たちです。

 

これは恒例の有名人による献灯です。見にくいかも知れませんが、三遊亭馬師匠のものです。師匠の献灯は達筆で、何ともいえない風情があるのは、見たとおりです。







○成田航空宇宙博物館

 さてこれは何でしょう?成田航空宇宙博物館の展示物です。空冷星型エンジンだと分かったあなたは偉い。昭和19年に試作された貴重なエンジンの実物です。第二次大戦機マニアにはこれを見るだけで価値がある。ここには、シミュレータなど面白そうなものは多いが、博物館の博物館たるゆえんは、こうしたレアものの展示物である。

 何せ、世界にひとつしかないものであり、当時の日本の航空エンジン技術の粋を示すものだから。他にもアメリカのR-2800とかR-3350とかいう優れものがある。屋外展示にはかの、YS-11の試作一号機と同じく富士重工のFA-300の試作一号機がある。これもレアものである。

 これらの貴重な機体は、屋外で雨ざらしにするのではなく、屋内に永久保存すべきものである。YS-11などは機内に入れるのはありがたいが、破損しやすく長期保存には向かない。とにかく日本では、こうした航空関係の遺産の保護展示に無頓着である。これも敗戦後遺症と言うべきか。

 ところで、水をさすわけではないが、皮肉なことにハ-50の展示は日本の技術水準の限界を示している。展示にはハ-50の要目として、出力2600馬力、重量1.5トン、排気量66リットルとある。そして昭和19年に試作された。一方のR-3350は、各々、2800馬力、1.2トン、55リットルである。R-3350は小型、軽量、大馬力なのだから、両者の優劣は歴然としている。
 
 しかも、R-3350は昭和19年には試作段階を終えて、実用化されている。当時の航空関係の技術者の全てが、日本の航空技術者の必至の努力により、日本は最高水準に達していたと証言する。そして至らぬ点は、日本の基礎工業の遅れのせいにする。だが現実は上記のようなものである。ともあれ、一度成田にいくべし。一見の価値有りです。次回は航空宇宙博物館に行く際の注意事項をお知らせします。

○土浦武器学校
 平成二〇年のゴールデンウィークのメインイベントは自衛隊の土浦武器学校見学でした。
 その展示の目玉商品というのがこれ、旧陸軍の
三式中戦車。実はこれだけ見に土浦くんだり(失礼)まで一日つぶすのは、と思ったのですが、とんでもない。なかなかの宝の山でした。ちなみにこの戦車は当時のソ連ドイツはともかく、米軍の主力戦車に大砲の威力だけは対抗できたのです。

 武器学校見学希望者に注意事項をひとつ。自衛隊の大砲や三式中戦車などの屋外展示は休日見学可なのですが、旧陸軍の大砲など展示の火砲館や予科練関連の展示館の雄翔館などの室内展示施設は平日でないと見学不可です。

 またコース見学の、旧土浦海軍航空隊司令部庁舎などの日本海軍の施設見学は事前申し込みが必要だとのこと。こちらの施設は来年から取り壊しが始まるのでになりますので今のうちにご見学を。

 車で来る人は問題ないのですが、電車で来る人に注意を。常磐線土浦からバスで行き、武器学校前で降りるのですが、バスはいくつもの路線が共通しているので往復ともバスはすぐ来ます。昼過ぎに着いて土浦駅構内のコンビニで弁当を買おうとしたのですが、バスの時間を確かめてから、外のコンビニで買えばいいとなめたのが間違いの元。

 バスが発車直前なので飛び乗ると15分ほどすると到着です。そこでコンビニか食堂を探しますが、坂の途中に中華の看板があるので行くとつぶれてました。次にコンビニが見えたのでさらに行くとこれもつぶれ。汗かき歩くとコンビニカラフルな看板が望見されたので、コンビニかと思いきや銀行で、これは営業中。食品関係は皆つぶれ。

 さらに向こうにパーラーと書いた巨大な看板に向かうと、そこはパチンコ屋です。なんでパチンコ屋がパーラーかいな。交差点でおばさんに聞くとコンビニはあっちで、食堂はこっちで、近くはなくて距離は似たようなものというので、コンビニに向かいます。五百メートル以上歩いてついたコンビニのおにぎり弁当は最高でした。いい年をしたおっさんが、とぼとぼ弁当を食べながら歩くと後ろから来た、部活帰りの自転車の女子中学生に、こんにちはと声をかけられたのは感動でした。

 最近では変質者対策で、学校では見知らぬ人に声をかけられたら気をつけろと教えられているはずですが、変質者とおぼしきおっさんに声をかけるのはどういう神経でしょうか。でもあたりは人通りは少ないのですが、民家の点在する広々とした見通しの良い農地の真ん中の国道で、人の気分も、のどかなのでしょうか。僕の人徳なのでしょうか(*^o^*)これでタイムロスすること45分でした。教訓です。食べ物は食べられる時に食べておけでした。

 もうひとつの目玉の火砲館は去年リニューアルされたそうで、最初の見学者はかの松本零士氏だそうな。これはやらせです。何しろ松本氏は有名な武器マニア。

 平和主義者で知られる、宮崎駿などもたいそうな武器マニアです。風の谷のナウシカに出てくる巨大飛行機はナチスドイツ空軍のギガントのパクリ(失礼)

 などなど彼の作品に登場するものの多くは、昔の武器からヒントを得たものが多いのです。きわめつけは、彼はある雑誌の架空戦車のコンテストの審査委員長をしたことがあるのです。

 この手の平和主義者は案外と、潜在的な暴力的傾向の心情を持っているように思われてなりません。議論をするとき、自分の意見と異なると、ヒステリックに相手を罵倒する傾向のある人たちが多いからです。戦争をきちんと論じようという人たちの方が、かえって冷静な議論をしようとする人たちが多いのは面白い傾向です。平和主義を旗印にした労働組合は、暴力には訴えないものの精神的暴力に訴えて、議論相手を恐怖で威圧する傾向が明瞭にあります。

 何せかつて僕はその被害者でしたから。昔僕の部下が組合運動で抗議に来て、散々怒鳴った後、二人だけになったら「処分するならしてみろ、処分なんか怖くねーんだ」と、こういう口調です。やくざまがいとはこのことです。自分の行為が処分に値する悪いことだと、承知の上で相手を脅すのですから。

 皮肉ですが土浦は海軍航空隊のメッカです。ところが現在は陸上自衛隊の駐屯地になっています。だから駐屯地は海軍関係の記念碑や記念施設が多いのです。雄翔館は予科練の博物館として戦後建てられました。そして脇には予科練の記念庭園があります。

 予科練とは少年航空兵の大量養成学校です。当時アメリカのような民間パイロット学校が少なかった日本としては、戦前からこのような学校を作ったのは先見の明があります。私事ですが、叔父は旧制中学卒業後横須賀の海軍航空技術廠に実験班員として勤めた後、陸軍に召集されました。

 そこで配属されたのは飛行場大隊に配属されたのも何かの縁でしょうか。そこでこれは「予科練の碑」です。写真では分かりにくいのですが、碑のタイトルは戦後風に右から左にかかれています。予科練の時代には右から左に書かれていたのですから、英霊には読めないよ、と言われても仕方ありませんと、アンケートに答えておきました。

○秋葉原です
 というわけで、これは最近の秋葉原電気街の片隅の光景。なぜか二台の車に、窓までかけてアニメキャラが描かれています。おじさんには、何というキャラか分かりません。

 何故こんなに車にべたべたアニメを描いたのかも分かりません。日本人はちらっと横目で眺めて通り過ぎますが、白人が次々とやってきて、もの珍しそうに写真を撮って行きます。






○神田川の桜です
 
20年4月4日の神田川です。桜吹雪が神田川に降り注いで、場所によってはせっけんの泡のように川を埋め尽くしています。

 桜吹雪を降らせた風が、さっと神田川の川面をなでると漣が立ちます。そしてできた水面のひだでできた桜の模様がこれ。

 芸術的とは陳腐な表現ですが、粋な景色じゃありませんか。


○ツシマヤマネコです


 とうとう憧れのツシマヤマネコにご対面です。対馬には7年ほど前に行きました。対馬の長崎県庁の出先の建物に行くと、玄関のロビーに対馬山猫の剥製と骨が展示してあります。

 それてツシマヤマネコ好きになりました。対馬の北方にあるやまねこ資料館には実物がいるのだそうです。でも聞いてみると、猫エイズにかかっていて直接見られないのだそうです。

 ツシマヤマネコはかくも貴重な猫なのです。やまねこグッズは買いました。パンフに絵葉書、やまねこ貯金箱。対馬でしか買えない、今でも僕の宝物です。

 それがです。生ツシマヤマネコが東京近辺で見られることになったのです。平成19年の10月から、井の頭公園の隣にある、自然文化園でツシマヤマネコを飼育すると新聞にありました。


 そればかりではありません。同じ時期に横浜動物園、ズーラシアにもツシマヤマネコが飼育されることになったのです。ちなみに新聞には、ツシマヤマネコは従来北対馬に主に生息していて、絶滅状態にあったのが、最近南対馬でも発見されたということです。

 井の頭、つまり吉祥寺の方が近いので、井の頭自然文化園に行くことにしました。そこで撮ったのがこの写真。猫はほとんど寝てるし、ガラスが反射してうまくとれません。まともなのはこのくらい。

 あとはねこの体にガラスの光が反射して、猫の胴が消えたりする、心霊写真状態でした。ねことしては相当大型です。右の正面写真がパンフ等によくある典型的なツシマヤマネコの顔です。

 僕より先に来た大柄の若い女性がいて、盛んに携帯やデジカメで写真を撮ります。ベストの位置を独占するので、早く行ってくれないかと思うのですが、なかなか行きません。

 隣のベンガルヤマネコなどを見ているうちに、やっと行きました。ツシマヤマネコの撮影だけで30分以上費やしていたと思います。相当なツシマヤマネコ好きもいたものです。

 僕も目的はツシマヤマネコだけ。ツシマヤマネコと、その親戚のベンガルヤマネコだけ見て帰りました。あとは井の頭公園の散策だけ。やまねこを見る人のためにアドバイス。自然文化園に行くには井の頭公園経由だと、倍くらい時間がかかります。井の頭公園に用のない方は地図をよく調べて行くべし。



○靖国神社みたままつり
 
 肝心のものを忘れていました。月遅れになりましたが、靖国神社のみたままつりです。毎年7月半ばの恒例の夏祭りです。靖国神社と言えば、ひいてしまう人も多いのですが、実態はどこにでもある単なる夏祭りです。

 へそだしもいるし、ハニワもいます。 当然蛇女やらお化け屋敷も出ます。本日は雨天のため、お化け屋敷はお休みでした。お祭の名物はお化け屋敷だけではありません。

 本殿の手前にあるぼんぼりです。ぼんぼりは画家、書家、政治家、スポーツ選手などの著名人の直筆手製のものです。今年は相撲の朝青龍や白鵬や女優の森光子など。けっこう意外な人も多いのです。

 恒例は写真の漫画家小林よしのりの作品です。普通の漫画はおぼっちゃまくんなど、実に下らないのですが、最近はゴーマニズム宣言などで政治漫画づいています。小林漫画は画の技術はたしかです。

 ただしアルカイーダやイラクの自爆テロを特攻隊と同一視するなど時々見当違いがありますので要注意。


  もうひとつの名物はこの提灯かざり。これは有志の寄付によるものです。多くは戦友会や戦死者の遺族の寄付によるものです。

 小生の叔父は22歳で戦死したと書いたことがありました。そこでこの提灯をひとつ毎年寄付しているのです。

 口数の少ない祖父でしたが、確かに息子の死を、ひどく悲しんでいるのは言外にも想像できました。その祖父に小生は、長男である兄より何故か可愛がられました。

 知恵がまわり早熟で生意気な兄に比べ、鈍重で従順な小生の方が、好ましく思われたのかもしれません。小生と同じく叔父も次男でした。そこで小生は亡くなった祖父に代わり毎年提灯を寄付しているのです。

 もちろん提灯に書かれた名前は祖父の名前です。偶然ですが、提灯の寄付を始めたのは上の子供が叔父の戦死した歳と同じになった年からでした。

 やはり子供を亡くす悲しみを理解できるような歳になったと言うべきでしょうか。ちなみに靖国神社の中の遊就館には戦死者の写真をかざるスペースがあります。

 小生も田舎から叔父の写真を手に入れて、展示してもらってあります。索引があるから名前さえわかれば、展示場所はわかります。

 展示してある叔父の写真は子供のころから実家にかざってあったものですが、他の人のものに比べても鮮明なので安心します。

 なかには、不鮮明すぎる写真もあり、それを無理してかざってもらっているのは、遺族が死者を想う気持が強いからなのでしょう。何と小生はスイカの定期券を靖国神社の境内で落としてしまいました。定期を失くすのは長い人生でも初めてです。

 飯田橋の警察と靖国神社に届けましたが出てきませんでした。靖国神社に来る人が拾ったのだから必ず出ると信じていたのですが。もちろん奥さんには黙っていました。ところが3日したところで、通勤途中に奥さんから携帯に電話がかかってきて、定期の落し物があったと駅から連輪があったと連絡してきてバレてしまいました。信じていた通り靖国神社の落としものは出てきたのでした。


○忠霊塔とは何か

 この写真を見ていただきたい。ある小学校の校庭の脇の森の景色である。これを忠霊塔という。大東亜戦争の戦死者の慰霊碑である。

 戦争当時、この町は人口五万人だった。祀られているのは五百人。百人にひとりである。女性が半分として、男性のうち出征したのが3分の1とすれば、青年壮年男子の約15人に一人が戦死した。

 当時は大家族で、一軒で7~8人はいたから、10数軒に一軒は戦死者を出している。そしてわが家にも戦死者がいた。日本は総力戦を戦ったのである。















 これが忠霊塔の下にある、明治天皇の御製、すなわち和歌である。

 かぎりなき 世にのこさむと 国の為 たふれし人の 名をぞとどむる

 と読める。この世に永遠に、国の為に戦死した人の名を記録すると訳すべきであろう。戦死者の名を記録したのがこの忠霊塔だからである。五百人の姓名がひとり残らず、忠霊塔に記録されている。

 以て瞑すべし。ちなみに今上天皇陛下の妃殿下、美智子妃の和歌はみごとなものである。雅子妃の及ぶべくもない。まだ時間が足らぬのであろう。


○名古屋の風景
ここは名古屋である。名古屋城の外堀を入るとすぐに護国神社がある。ここには靖国神社にもない、戦艦大和の砲弾がある事はすでに述べた。

 これはその展示場となっている「昭和の森」である。うっそうとした森に囲まれた暗がりで、写真撮影が困難だが、慰霊の場所としては良いのかもしれない。

 そういえば実家の先祖伝来の墓所は木に囲まれて薄暗かった。最近の共同墓地の太陽の燦燦とあたる場所よりよい。

 下は海軍パラオ会の碑である。上に黒く見える不気味なものは、駆逐艦の錨である。駆逐艦は排水量2000~3000トンで大砲は戦車より大きいものをたくさん積んでいる。

 それでも日本海軍は軍艦とは呼ばない。軍艦とは船首に菊の御紋章、つまり天皇家の家紋
を付けたものをいう。 
 これは駆逐艦以下の比較的小型の艦艇では、戦闘で沈没する危険が高いため、大切な菊の御紋章が沈みやすいから、菊の御紋章をつけないのだそうである。これは一兵卒まで思いをはせた天皇陛下に対する反逆である。

 あるクイズで「大東亜戦争で最初に沈没した日本の軍艦はどれか」というのがあった。迷わず真珠湾攻撃の際の特殊潜航艇に○をつけた。

 見事に外れ。確かに艦艇で最初に沈没したのは特殊潜航艇。でも×。特殊潜航艇は「軍艦」ではないのである。特殊潜航艇を日本海軍が「軍艦」と呼ばない事は知っていた。

 しかしクイズでまじめにこれを持ち出すとは思わなかった。ところでこの二枚の写真の違いを見て欲しい。戦前の横書きの文字表記は右から左である。

 戦後建てられたにもかかわらず、最初のものは旧来の慣習を墨守したのである。その後今風になったのは、戦争の追悼の意味から言えば後退である。


 右の写真は海軍飛行予備学生の慰霊塔の碑である。「思ひ出の記」に書いたが、22歳で戦死した叔父のために、父親である祖父は個人で自宅に慰霊碑を建てた。

 立派な慰霊なぞ下らない、などと言うなかれ。父親は息子のために、遺族として立派な慰霊碑を欲したのである。写真のように慰霊碑は立派なものである。しかも海軍飛行予備学生と麗々しく書かれている。

 遺族の心情としては、一上等兵として人知れず死んでいった叔父に比べると、この慰霊碑に祀られた人たちに羨望をおぼえる。日本では死者の魂は遺族の想いの強さによって、安心して眠ることができるのだから。
 左が海軍飛行予備学生の慰霊塔の碑文である。この写真でも碑文は読める。

 「はるかなる雲流るる果てにねむる
あまたの若き、み霊に捧ぐ」

 と読める。この碑文に涙せぬ遺族はいない。私にはこの碑文を読んだ瞬間に平凡だが、澄んだ青空に浮かぶ雲の景色を条件反射的に思い浮かべた。

 私の叔父の戦死が無駄でなかったと同じ意味において、海軍飛行予備学生の戦死は無駄ではなかった。

 私の叔父がわずか22歳で一弾も撃つことなく戦死したごとく、予備学生は米パイロットの十分の一の飛行時間で出撃し、若き命を散らした。

 しかし彼らの奮戦は間違いなく今の日本の繁栄をもたらした。そのことを私は論証できる。

 私は今後日本が滅びることを思わない日はない。今後日本が衰退するとすれば、私たちが彼ら戦没者の絶望的な戦闘に想いを致すことがないときである。私は知っている。その時日本は滅びる。三島由紀夫ではないが、国籍を失って金の亡者となった、日本人の風体をした人々が残るだけである。


○大阪城

大阪城。約十年ぶりに見ました。



格調高いこの景色。皇居とは違う整然とした風景でした。改めて大阪を見直した次第です。





○博多旅情
 博多です。博多駅下車、博多口正面をまっすぐ徒歩約10分で、そこはキャナールシティー。要するにショッピングモール。豊洲のララポートより大きいかどうかは知りませんが、九州一は間違いなし。キャナールつまり水辺を挟んでショッピングモールとホテルが並んでいます。

 5階にはラーメン横丁です。全国の有名ラーメン店が並んでいることになっています。北海道味噌ラーメンは失敗でした。さすが九州。なんととんこつ味の味噌ラーメンでした。

 
     
         右がホテル、左がショッピングモール    中洲側から望むキャナールシティー 

 次は隣の中州へ。中州とは川の土砂がたまって出来た文字通りの中洲。つまり川の中の島です。ここは川の上流側の突端です。以前中州から天神に行く橋のたもとで、にーちゃんがやっている屋台のとんこつラーメンを食べましたが、なかなか美味。昼間から煮込んだラーメンスープをドラム缶大の鍋に仕込んだ豪快なものでした。

 でも博多ラーメンはやはり長浜です。夜になると道の両側に100mくらいに渡って並ぶラーメン屋台は壮観です。当然スープはとんこつ。小生食道楽ではありませんが、長浜のとんこつを食べた舌には、東京のとんこつは全部だめ。なぜか物足りないのです。讃岐うどんを高松で食べるのと、東京で食べるの違いでしょう。

 ただし博多とんこつラーメンは高い確率で関東人には耐えられないと思います。ラーメン屋台の遠くからも強烈に臭うのです。東北の人は全くだめでした。臭くて屋台の傍を通るのもいやだそうな。ちなみに長浜には2回行きましたが、タクシーで博多から二千円ほど。公共交通機関のアクセスを知らないのです。

 最後は祇園近くのふるさと館でした。昔の町並みを小規模に再現したもので、入館料は二百円。ただしみやげもの館はただ。昔の博多の写真の絵葉書など貴重なものもありますのでぜひお立ち寄りを。ふるさと館を出て直進するとそこは櫛田神社。櫛田神社の由来は知りませんが、この画は7月に行われる祭り、博多祇園山笠の製作中のものです。祇園は京都ばかりではありません。博多駅から地下鉄で隣が地下鉄祇園駅。

 櫛田神社の山笠の制作は九州朝日放送の経費でまかなわれています。九州朝日放送といえば、そう、かの朝日新聞の系列です。脱線します。朝日新聞と言えば総理大臣が靖国神社に参拝したり寄付したりするのは、政教分離の憲法違反とがなりたてる朝日新聞です。その朝日の系列は地方では神社に寄付すると言うダブルスタンダード。九州朝日放送で櫛田神社の山笠に金を出すのは反対と言う馬鹿な社員はいないのです。そして親会社の朝日新聞も黙認するのです。

  

        祇園のふるさと館           祇園山笠

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○神戸です

 

 そして神戸。私には神戸と言えば異人館しか知りません。新幹線の新神戸から徒歩5分
と言う立地。で新幹線で一緒だったチューボーも異人館めぐりでした。

 異人館は明治時代に日本に来た、外交官、商人、政府招聘の外国人などの居住した家です。神戸は長崎や横浜といった港町に共通で、海岸線に沿って急傾斜した地形です。

 異人館はこの地域に残った外国人住宅を保存して観光スポットにしたものです。共通券を買えばど
の異人館にも入れるのです。

 ギャル(いやな語感ではありませんか)には人気だそうですが、中に入らなかったお父さんにはよく分かりません。

 

 天満神社の巫女さん。美人でした。ほんとですってばー。
一心不乱に何か内職をしていたのですが、写真をとった直
後に疲れたのか顔を上げたのをみたのです。でも上の写真
の鳥居から急階段を登らなければならない社務所には観光
客は他にひとりしかいませんでした。















 これがご本尊の牛様です。なぜかエプロンをしています。大宰府天満宮にも牛様はいましたから、牛様は何か天満宮と関係があるのでしょうか。インターネットでは分かりませんでした。



 そして本日のトリです。異人館とはこのような、昔の西洋館のことです。
西洋館とはとはいっても、西洋人の設計で、日本の材料で日本の大工
が建てたものです。この異人館、見ての通り萌黄の館ですと。今はやりの
もえーです。アーばかばかしい。











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