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趣味、好みその他のコーナーです。うんちくを語ります。




〇絵画にも言語がある

絵画には大きく誤解されている点がある。絵画は誰でも見ることができるために誰でも理解できるという誤解である。誤解も甚だしい。例えば私は富士山のふもとで育ち、毎日富士山の姿を見て十八まで育った。足元が富士山の傾斜の一部で、とにかく坂を上の方向に歩くと、富士山の山頂の方向になるのだからこれは誇張ではない。その私がいつも見ていた方向から富士山を見ると、他の地方の人より色々なものが見える。

 このように、同じ風景から受ける感慨も人とは異なる。見慣れた風景には、深く感じることができるといってもおかしくはない。これと同様なことが絵画にも言える。同じ形式の絵画を見慣れた人には、見慣れない人よりは細部まで感じるものがある。あるいは絵画ばかりではなく、音楽などあらゆる芸術に共通な事象である。それにはふたつの意味がある。

 ひとつの例は、現代日本人が受ける浮世絵の感銘と江戸時代の人々の受ける感銘とは異なるということである。当時の人々は浮世絵の景色のちょっとした小物の意味を理解できても、私たちには理解できないということもあろう。物の形状についても同じである。江戸時代固有の、家や景色や髪形について、我々には実物がどのようなものであったか、とっさには連想出来ないのである。そのことが、同じ浮世絵を見ても、受ける感銘が違うのである。すなわち浮世絵に使われている言葉への理解度が当時の人々は深いのである。

  西欧のキリスト教美術も同様である。聖書を理解しているものとそうでないものの理解度は異なるのである。そこまで極端な例ではなくてもあらゆる芸術には、時代や地域による共通性と非共通性から鑑賞者各自の理解度は異なる。

 もうひとつは個性の問題である。漱石は芸術は個性の表現だから、優れた芸術は作者自身にしか理解できないという意味のことを言った。これは極論ではないのかもしれない。それどころか作者自身すら時間の経過とともに理解できなくなるかも知れないのである。すなわち個人でも個性は変わる。

  以上のように作品に対しては理解の幅の狭さから広さまでがある。それをどう理解すべきか、私には永久に分からないと思う。ただひとついえるのは、絵画だからといって誰にでも同じように理解できるというものではなく、言語のように経験と学習が必要である。確かに訓練によって眼識というものは向上する。そのことを安易に考えてはいけないと思うのである。

さてイラストですが、アニメ風になってしまいました。





〇ラフスケッチ

 昔描いた、ラフスケッチ紹介します。荒っぽい線が気に入っています。画用紙は荒目、鉛筆はB2です。カーボンコピーして着彩しようとしましたが、自信がありません。下手でも生きた鉛筆の線が気に入っています。








絵画の原点

 物事は平凡である。絵画の原点は見たものを忠実に再現することにある。これは写真が発明された動機と同じである。人が見たものを忠実に再現して記録することの必要性は二つある。第一はある風景など眼前の映像に感動したなどの動機で、これを記録保存したいという個人的な欲求である。


第二はある画像を記録して、その画像を見たことのない人にも同じ画像を認識させる必要性がある場合である。前者は個人的な趣味の領域である。後者は人にも同じものを見せたいという前者と同じく個人的に純粋な欲求の場合と、社会的必要性があって同じものを表現したいという場合がある。社会的動機の場合にも背後に、個人的欲求が隠されていることもある。


 これら全てに共通するのは、見たものをできるだけ忠実に再現するということである。絵画は見たこともないものあるいは実際に眼前の光景ではなく、いくつかの光景を組み合わせたもの、あるいは全くないものの画像などがある。だが絵画の素朴な出発点は見たものの再現にある。絵画の発達はそれに止まらず見ることのできないものを映像かするばかりでなく、抽象画のようにありえないもの、或いは肉眼で見た画像と何ら関係ないものまで生み出すに至った。


 それでも絵画は見たものの再現であり、抽象画といえどもその延長で人間の思考から生まれたものである。抽象画といえども人間が映像から得る視覚的刺激を基礎にしたもの以外ではありえないからである。





○ウラナミシジミ

 運に見放されない日と言うものはあるものです。午後一番に出かけると、駅の途中の花が植えているところに舞っているシジミチョウを見て、ただのヤマトシジミではないと直感しました。花にとまったのを観察すると、珍しいシジミチョウです。見覚えはありますが、図鑑でだったか標本か、はたまた実物か記憶が定かではありません。早速鞄を開くと、いつものデジカメがありません。それどころか携帯すらありません。残念無念と思って電車で出かけると、降りた街のビルの間に、何と同じ蝶がいるではありませんか。

 しかもさっきの蝶のように翅が痛んでいないし、二匹です。ますます残念です。三時間ほどして家に帰ってから、まだ明るいのでデジカメを持って最初の場所に行くと・・・もちろんいるはずがありません。しかたなく、いつもの公園のキバナコスモスの畑に行くと、二人のオジサンが蝶を撮影しています。ツマグロヒョウモンのオスメスが乱舞とはいかないまでも、けっこういるのです。散々撮ったものですが、仕方なく撮影しました。

 注意して見ると、最初に見た蝶が二匹ちょこんとおとなしくとまっていたのには驚きました。もちろんこの写真がそれです。飽かず撮り続けること約20分。その中のベストがこれです。二人のオジサンはマニアと見えて一眼レフの立派なもので、羽ばたいていても連写してしまいます。小生の安物とは桁が違うのです。帰ってインターネットで検索すると、ほぼウラナミシジミに間違いありません。この名前に憶えがあるのは、子供の頃、飽かず蝶の図鑑を見ていたせいでしょう。デジカメを忘れてきた時は、正直二度と見ることはできないとガックリしていました。ともかく諦めないことです。いつかアサギマダラを撮影しそこなってから、何十回も同じところに通いましたが、未だに見られません。ところが今回はその日のうちです。運に見放されない、いい日でした。



○ムラサキツバメ



 八月の半ば今年の夏の一番暑い日の午後、公園のキバナコスモスが群生しているところにいった。一時は毎年放置しているので、自然に増えて行って、おそろしい位の密度で花が咲いた。近くに常緑樹があるのも幸いしていたのだろう。そこに色々な蝶が来るので楽しみにしていたのである。
  
 ところがある年から、公園管理者が、コスモスが散った秋に全部引っこ抜いて更地にし、春になると新しいものを植えるようになったらしいのである。だから花はまばらで、寄ってくる蝶も減ってしまった。小生にとっては大きな楽しみが奪われたようなものである。

 それでも救う神はいるもので、この日漫然とキバナコスモスを眺めていたら、じっと動かない、地味で小さな蝶がいる。蝶を見つけるのは大抵飛んでいる時で、じっと泊まるのを待つのが普通であるが、運よくとまっているところを見つけた。とにかく写真を撮ったが、近寄っても遠くからアップにしても、大写しにしようとするとピントが合わない。いつか電気屋に聞くと焦点が合う距離の限界があるのだ、という当たり前のことを教えてくれた。マニュアルでピント合わせをする技術もない。

 多分一眼レフで接写レンズでも使わないとだめなのだろう。ともかく一番うまく撮れたものをトリミングして大きくしたのがこの一枚である。この蝶は近づいても逃げないが、羽を広げず動かない。だから翅の表の模様が分からないで、同じような写真が何十枚も撮れただけである。

 さて生まれて初めて見る蝶で名前が分からない。タテハチョウかと調べたが、似た色のはあるが、模様が合わない。蛇の目蝶の色だが、肝心の蛇の目がない。大きさがヤマトシジミとウラギンシジミの中間で、かなり小さいのでシジミチョウに違いないとなった。

 それで結論は、ムラサキツバメである。後翅に細い尾状突起があると言う記載も一致している。ともかくも蝶探しは根気である。もう二度と見ることもないと思うと感動です。



○モンキアゲハ

 また、蝶になってしまいました。今年は運がいいのです。近くの親水公園で久しぶり、というか、二度目のモンキアゲハを見ました。以前見たのも、大きくて迫力があったのですが、翅の一部が欠損して、痛々しかったです。

 その点、今回のは問題ありません。蝶の分類は実に難しいのですが、一見黒いアゲハは、小生などは、全てカラスアゲハにしてしまいますが、それはでたらめです。ところが、モンキアゲハは、翅に黄色の紋が入っていて、形も大きいので、すぐ分かりました。

 ところで、同じ親水公園で九月半ばにアサギマダラを見ました。図書館に本を返しに行くので、近道の公園を通ったら、自転車で通り過ぎると、蝶が観葉植物に翅を広げてとまっています。翅の端がオレンジの、間違いなくアサギマダラでした。

 幸いデジカメを持ってまず、横から一枚パチリで、後ろから翅を広げたベストショットを、と思ったら、がさっと音がして、舞い上がってしまいました。青い空を見上げると、どこまでも高く飛んで行って、ついに見えなくなりました。

 家に帰ってたった一枚の写真を見ると、完全なピンボケで、蝶かどうかも判読できない代物で没。それから、機会があるとそこを通るのですが、いません。アサギマダラは小生の一番好きな蝶で、小学校の時教室に入ってきたのを捕まえて机の引き出しに隠していたら、クラス一元気な女の子が見つけて、何よこれ、と言って逃がしてしまいました。ガックリしたのですが、臆病な小生は文句も言えませんでした。女性で蝶の好きな人は希なのです。

 二度目は二十歳ころ、友人と富士登山の下山で二合目あたりに、アサギマダラの大群に出会ったのには感激しました。三年くらい前、多摩動物園の昆虫館で、飼育されて飛んでいるのを見ましたが、野生のものを見たのは、今回が三度目です。今年の一番の残念事のひとつです。きっとまた会えます。



○ミスジチョウ

 神田川筋で、久々にミスジチョウを見ました。何十年ぶりでしょうか。田舎では、モンシロ蝶と同じくらいいて、黄アゲハの方が珍しかった位なものでしたから、どうということはなかったのですが、それ以後見たことがなかったから感激でした。このチョウも緑の広葉樹の葉にとまり、花にはとまるのは見たことがありません。ミスジチョウと言ってもオオミスジとかコミスジとか種類があるのですが、小生には区別がつきません。羽を広げると白黒の地味なのですが、裏はご覧とおり見栄えがします。

  


○アカボシゴマダラ
 
 東京にも色々な蝶が観察できるものです。タテハチョウのアカボシゴマダラです。標本でも生きているのでも、生まれて初めて見るから感動でした。場所は江戸川橋近くの神田川のほとりです。アサギマダラかと勘違いして写真を撮っていたから、小生の蝶の知識もたかが知れたものです。インターネットでようやく名前が確かめられました。小生は、アゲハかタテハかはたまたシジミか、位の大分類で図鑑などを調べる程度の知識しか持ち合わせていないのです。

 初めて見るのもそのはずで、日本では奄美辺りしかいなかったのが、20年位前から徐々に関東地方でも見られるようになったそうです。しかも奄美から来たのではなく、外来種らしいのです。それでも、日本の蝶と変わらぬ地味さは好感が持てます。どうも小生は、熱帯地域の派手な蝶というのは苦手で、それならば、ヤマトシジミのようなのが好きなのです。

 神田川のみならず、都内ではツマグロヒョウモンを見るのも稀ではなくなりました。キアゲハやアオスジアゲハなら、緑があるところなら珍しくありません。神田川周辺では、ミズジチョウも見かけましたが、まだ撮影には成功していません。楽しみは残しておくものです。




○ウラギンシジミ
 この写真を見ただけでウラギンシジミ、と分かるのは相当のマニアです。シジミ蝶というとごく小さなものがほとんどですが、ウラギンシジミはモンシロ蝶より大きい位です。小生は、小中学校の頃は蝶に興味があり、蝶を見るたびに叔父さんからもらった蝶の図鑑を調べていました。従って夏休みの工作は、昆虫、特に蝶の標本作りでした。赤い薬が毒で透明なのが腐敗防止で、標本にする前に注射することはみなさんも知っているでしょう。



 左のメスは平成22年に公園で見つけたものですが、生まれて初めて見た蝶にびっくしたものです。図書館の図鑑で調べてウラギンシジミと分かりました。子供の頃の知識が残っていて、シジミ蝶の仲間だと分かっていたので調べるのは簡単でした。右のオスは通勤途中にマンション近くで飛んでいるのを、止まるまで待っていたのです。残念中がら携帯しかなかったのですが、まあまあの写りです。どちらも常緑の広葉樹で花には止まっていません時期も10月半ば以降です。

 もう当分見られないと思っていたら、たまたま平成26年の11月に大阪大学に用があり、阪急北千里駅下車で、池の周りを通っていくと、ウラギンシジミのオスやツマグロヒョウモンなどがいました。帰りに通ってみるとやはりいますが、なかなかシャッターチャンスがありません。一時間ばかりその辺りをうろうろしていると、学生やらの通行者が通るのですが、恥ずかしがってはいられません。不満足ながら諦めて駅に行こうとすると、道を遠回りしてしまったようですが、やはりウラギンシジミがいて、撮影しやすい位置にとまってくれます。10cmまで近づくことが出来、大満足でした。結局片道15分の道を二時間以上でした。



○小生の好みです
 さてこれは何年かの歳月の後、本日平成21年5月9日完成したプラモです。本日の作業は、ピトー管という速度計測用のセンサーの先端のわずか3ミリの部分をアルミの銀塗装しただけです( ^^;)レシプロエンジンの双発単座機では世界一美しいと考えているから感動はひとしおです。MPMというチェコのメーカーの簡易インジェクションキットです。

 何とか、らしくは仕上げましたが、サイズが1/72と小さいから不満が残りました。ヨンパチのキットが欲しいです。製作にはあえてインチキをしました。それはこのキ−83の実機は水平尾翼の取り付けの強度不足で、臨時に水平尾翼の支柱をつけているという、この時代の飛行機には考えられない対策をしているのです。

 不細工な支柱を省略して、楽もさせていただきました。だから本来この機体には、試作1号機を示す、1の番号が白字で描かれているのですが、そのデカール貼りも省略して支柱なしと同様に、架空を徹底しました。従って、塗装の日の丸とオレンジの識別標識など全て、自前の塗装です。

 さてこのホームページでは本論はここから始まります。この飛行機、最大速度は計算値で704.5km/h、実測で655km/hと記録されている。ところが、米国で飛行させたところ、何と760km/hを出したというのである。この原因を多くの解説書には、米軍の100オクタンを超えるハイオクガソリンとプラグなどの機器を米国製に変えたためと説明されている。それも皆無ではなかろう。しかし日本のエンジンはよくてせいぜい92オクタン用で設計されている。技術的説明は省略するが、92オクタンで設計されたエンジンには、92オクタン以上のガソリンを入れても馬力は上がらないのである。

 逆に92オクタン用のエンジンに87オクタンのガソリンを入れると本来の馬力を出せない。結局エンジンはちょうどいいオクタン価のガソリンを使ってカタログ通りの馬力を出せるのに過ぎない。だから100オクタンのハイオクガソリンを使ったから性能が向上したというのは間違いなのである。655km/hという実測値はエンジンを全力発揮できなかったから、計算値より遅くても当然としても、機械が計算値より遥かに高い性能を出すというのは考えられない。計算では予測できないロスが必ず発生するからである。

 しからばなぜ米軍のテストで高性能を発揮したか。考えられるのは、計測の条件が違うことしかあり得ない。飛行機には機体本体ばかりではなく、実際に使用するために、ガソリンの他、オイル、銃弾、その他のものを搭載する。例えばこの機体の場合、自重は6308kgに対して、搭載量2487kgある。性能のテストにはどこの国でも、条件を設定してある。例えばガソリンを満載にするのか、半分にするのかなどである。同一の機体でも軽ければ空気抵抗が減ってスピードが出るのが一般的である。

 一般に戦後米軍がテストした日本軍機は日本のカタログより必ず性能が良い。これは明らかにガソリンや銃弾の搭載量の設定が、米軍では少ないとしか考えられないのである。日本軍は意外に真面目で、実際に使われる条件に近く設定していたとされる。特に海軍にその傾向が強かったのである。これに対して自国の飛行機の高性能を宣伝している米軍では、嘘ではないにしても、高性能にする必要があった。これに対して秘密主義の日本はその必要がなかったから、実用するときの性能を測りたかったのである。小生は昔、戦前の飛行機設計者のひとりに、かのムスタングの高性能は国を挙げての宣伝と聞いた。真実はそれであろう。

 
○幻の実戦機
 このプラモの機体は、大戦機マニアならよくご存知の、He100Dです。 キット自体は俗に言うマルチマテリアル、つまりプラスチック以外の材料も組み合わせたものです。つまり普通には作りにくいものですが、この機体が好きな人にとっては、レジンキットよりは遥かに作りやすく、ありがたいものです。

 小生にとって、He100は単発単座の液冷エンジンの機体としては、最も美しいと思っているものだから、尚更です。以前にも72分の1のキットは作りましたが、何せ小型なので、物足りませんでしたから48分の1のキットは最高です。

 さてこのコーナーの解説は、これでは終わりません。当時のナチスドイツが世界中に実用機のHe113として宣伝されましたが、実際には採用されませんでした。問題はその理由です。例えばエアワールド社の「ドイツ軍用機写真集」には、性能はライバルの「Bf109Eを完全にしのいでいた。しかし政治的理由により採用は見送られ・・・」とある。

 政治的理由とは、社長のハインケルがライバルのメッサーシュミットと異なり、反ナチスだったので、ヒトラーにうとまれていた、と言うものである。日本の多くの解説書はこのよう書かれている。しかし単純に考えてもこれはおかしいのである。ハインケル社のHe111はドイツの主力爆撃機として生産されていたし、エンジンの重大な欠陥を抱えていた、He177も強引に採用されて実用されているのである。事実上の欠陥機を作ったハインケルが本当にヒトラーに嫌われていたら、どうなっていたのか想像するがよい。ソ連などならスターリンの命令で死刑ものであろう。

 実はHe100にはいくつか欠陥がある。小型で取り扱いが困難な面があるとされる、Bf109よりさらに小型であったから、さらに取り扱いが困難だったのに違いない。その上に高性能を狙ったために、蒸気翼面冷却という特殊な方法を採用している。上のプラモを見ればわかるように、液冷エンジンに特有の大型のラジエターがない。わずかに胴体下に小型の引き込み式の補助ラジエターがあるだけである。これで空気抵抗を減らして高速を得たのである。

 しかしこの方式は、故障が多いばかりではなく、主翼面の多くをラジエターに使っているために、弾が命中しやすくて壊れやすい。あっという間にエンジンが焼きついてしまうのである。通常のラジエターですら、被弾による被害は多いのにである。だからこの方式は競争飛行機だけに使われていた。結局この方式は軍用機としては各国でテストはされているが、採用されたことはなかった。つまり、そもそもHe100には根本的に無理があったのである。このようにHe100は技術的に採用されない合理的理由があったのである。

 しかしなぜ不採用が政治的理由であったなどと言われるのだろうか。それは戦後ハインケル自身がヒトラーに嫌われていたと語ったからである。要するに、ハインケルは主力爆撃機を大量生産するなど、戦争協力していたために、ナチスのシンパだと非難されるのをおそれて嘘をついたのである。しかも自分の技術的判断の誤りを隠ぺいすることにもなったからたちが悪い。世の中にはこのような話に満ちている。例えば朝日新聞は最も戦争協力していたために、戦後さかんに軍により弾圧されたなどという嘘を書籍その他でばらまいているのも、その類である。

 ちなみに小生それでもハインケルの飛行機には好きなものが多いのです。私はソ連嫌いですが、ソ連の軍用機には好きなものが多いのです。どうも坊主憎けりゃ袈裟まで憎しという心境になれないのは変なのでしょうか。


○2MR2とは何でしょう
 いきなり、そう言われても、飛行機マニアでも、分かる人はなかなかいまい。日本海軍の一〇式二号艦上偵察機の海軍部内の正式コード番号である。

 でこれが、そのプラモの箱絵である。プラモと言っても、素材はレジンと言う、広義のプラスチックだが、普通のプラモの材料とは全く違い、脆い上に、接着は、瞬間接着剤などの特殊なものを使わなければならないし、塗料の乗りも悪い。

 だから大体組み立てること自体が困難である。しかし、少量生産には普通のプラモより、コストがかからないため、マイナーな模型は、レジンが使われている。

 下が組み立ての説明書だが、ご覧の通り不親切で、組み立ての順番の指示は何もない。箱絵を注意して見て頂きたい。車輪の前の支柱の上の部分のあたりの胴体が、抜けている。つまり外板の一部がないのだ。これも、下の説明書を注意して見れば分かる。

 胴体の中が見えるから、親切にもエンジンがついているのは、下の説明書でもわかる。水冷式の場合のプラモなら、胴体内のエンジンは省略してもいいのだが、このキットは手を抜いていない。恥ずかしながら、私は一〇式二号艦偵の外板の一部が欠けているのを、このキットで初めて知った。日本で流布されている図面でも、そう言われて見なければ、絶対に分からない。

 このような内部構造を示した資料は、日本で公刊されているものにはない。ところでこのキットは、コロジーと言う、なんと、ポーランドのメーカーである。日本機の外国製のキットは、日本のメーカーよりも劣るのが、通例だが、日本メーカーのレジンキットは、コロジーよりも調査が悪く、誰ても入手できる図面をイージーに使っているケースが多い。

 ここで例示したように、このメーカーはそうではない。説明書には資料の出所が表示されていないが、とにかく、よく調査してある。東欧の小さな会社が、ここまでするのは立派としかいいようがない。しかし、このキットが完成するのは何年後のことでしょう?

 余談だが、日本海軍が正式コード番号に、2MR2というアルファベットを使っていたのに注意されたい。英語が敵性言語として排除されていた、戦時中も変わらない。

 ちなみに有名な零戦は、関係者の間では、零戦と呼ばれる事はまれで、ほとんどが、A6と呼ばれていたそうである。

 さらにニュースです。このキットは秋葉原の、ホビーステーションというプラモ専門店で買った。ホビーステーションは九月半ばに閉店するので、今は半額セールをやっております。

 ほしくても5800円と言う高価なキットなので、これを機会にやっと買ったのです。現金なもので、いつもは客が少ないのに半額セールになったら、客が押し寄せています。もうすぐ売切れてしまいます。すぐに行くべし。


○私の読書遍歴1
 履歴書の趣味欄によく書かれているのは、読書であろう。平凡だが無難だからだろう。アニメおたくでも、まさか趣味アニメとは書くまい。私も趣味読書と書いたくちである。実際に読書暦は長い。そして熱心に読書をしていた時期は人生に張りがある時期であったと、今振り返って思う。

 読書の初めはもちろん小学校である。小遣いが少なかったから、本は買わない。学校の図書館で借りる。そしてむさぼるように読む。学校帰りに歩きながら読んだこともある。多読だった。本を借りると図書カードに記録される。次々と図書カードが埋まり、カードを更新する。

 一学期に何枚も更新した。今思えば人とカード更新を争った気配がある。読む本と言えば翻訳ものだけである。日本の小説は陰気だからいやだと言うのがその理由であった。教科書が島崎藤村かなにか明治の文豪の陰気な小説を読まされたからだろう。

 とにかく外国の小説の派手な展開が、子供心をわくわくさせたのだろう。だから読み方はストーリーを理解するだけ。文章の文体を楽しむということはなかった。だから翻訳調で日本語としてこなれていなくても気にならない。この点が今とは正反対である。

 ジャンルは冒険ものや探偵ものが多い。怪盗ルパン、シャーロックホームズのシリーズなどである。ハックルベリーフィンの冒険もそう。今でも気になっているのは、どこの小説家知らない「偉大なる王」という虎の物語である。額に王の字の模様があるから、王と呼ばれた中国の虎の物語である。ストーリーは全く憶えていないが、いまだに気になる。

 中学の頃まではこのように本の虫だった私が、高校になってまともな読書を止めた。それは何もしない時代だった。兄と同じ高校に行くのがいやで、高校のランクを下げて受験したから、高校入学当時の成績はは今から思うと驚異的だった。しかし今振り返って、そのことに何の感覚もない。そのまま勉強を続けていたらよかったのに、とも思わなければ、馬鹿馬鹿しいとも思わない。無感覚なのである。しかしものごとは結果が全て。

 そのことは何の自慢にもならない。勉強にうぬぼれがあったために、勉強など簡単だと思い込んだ私はさぼり始めた。成績は急降下。さぼりをやめれば簡単に元に戻ると思っていたが、学問は積み重ねの世界である。そう簡単にはいかない。しかし、いまでは、そうした時代を過ごしたことも後悔していない。全ては過ぎ去った事実なのである。今さら過去に戻ってやり直したいとも思わない。本当は過去の面倒な事ばかり思い出すから、それよりも現在の安心の境地の方が余程良いのだ。


○漱石の病跡

 「漱石の病跡」とは40年以上前の、精神科医師である、千谷七郎氏の著書である。多くの天才芸術家は精神病、すなわち気違い扱いされることが多い。いや精神病であることが頭脳優秀である象徴とされることが多いが、これは偏見のひとつである。芥川龍之介などは精神病を気取った(馬鹿げている)形跡すらある。ゲーテなども躁鬱であったとされる。日本人では分裂病、今でいうところの統合失調症が多いとされるなかで、漱石の場合は躁鬱病であるとされている。

 既にしてこれは定説でもある。漱石の精神病分析は、漱石研究の有力な分野でもある。戦前は漱石評伝で有名な、小宮豊隆などの弟子の宣伝もあって、聖人とされてしまった漱石の精神病説はタブーですらあった。千谷氏の昭和38年初版のこの本はその意味で、その後たくさん出された漱石の精神鑑定の嚆矢でもあろう。昔、漱石の評伝なら何でも手を出した時期のあった私は、とうとうこんな本まで手に入れた。千谷氏は、天才と狂気というありきたりのテーマから入ったのだが、漱石の「行人」という作品はうつ病がよく分かっていないと読めない作品であるとか、ある程度歳をとっていないと実感が薄い作品であると断定している。

 これでは行人を楽しめるのはうつ病であるといわれているような気がした。私には自分を客観的に見る自分が居て、どんな馬鹿なことをしていても、遠くから見ている自分が居るから、精神病には「なれない」と思っている。精神病になりきったら幸せではなかろうかと思う。だから宗教にも帰依できない。宗教に入るには絶対者、つまり神を信じなければならない。私は宇宙に絶対者がいる事は、あるはずだと思っている。しかしそれは論理として、あるはずだと思うのである。だが宗教の絶対者は論理ではなく、感覚として信じなければならない。自己を客観的に見てしまう悪癖のある私には神の存在を絶対的に感覚として信じる事はできない。宗教にはいって安心を得てしまうことができる人を愚かというより、うらやましいと思う。自己を客観的に見ることが出来る、という意味は私の場合は、決して激したり、愚かな事をしないという意味ではない。激したり愚かな事をするどうしようもない自分をどこかで観察できるだけなのである。

 遠縁の親戚にかつて精神病であった男性がいる。頭がよいわけではない。二十歳ころ一週間くらい失踪してしまった。発見されときは、家から何一〇キロも離れた東海道線の線路上をとぼとぼあるいていたというのだ。奥さんの知人の女性は、真冬に氷のように冷たい水道水で何度も顔を洗い続け、挙句に薄着でどこかに行ってしまった。何時間もたって警察に10kmほど先を歩いているのを保護されたという。しかもその間の記憶はちゃんとあるというのだ。わが家に遊びに来て踊りだしたり、幽霊がいるからといって真剣に追い払っているのだという。典型的な躁状態なのだろう。躁が終わるとげっそりして静かにしているのだ。

 確かに{「行人」には奇妙な叙述が多い。大学の講義をしている最中に、授業をやめて外を一時間ほど呆然と眺めていて、その後勝手に講義を打ち切って平然と帰ってしまう。これは実話なのである。路傍の花を眺めていて、自分がこの花と一体になったと叫んでみたり、自分は世の中の最先端を行っているから不安でならないといってみたり、「自分は絶対だ」と言ったり主人公の大学教授の言動はまともではない。これらの言動は間違いなく漱石自身のものである。そして、漱石が小説にきちんと書ける、ということは、そのことを記憶し観察もしているのである。それでも私にはまともではない教授の言動を描いた後半の部分がメインテーマであり、面白い事は理解できる。私は強いて読んだのではなく、楽しんだ(面白おかしいという意味ではない)のである。私はうつ病に詳しいわけでもうつ病でもない。

 読んだのは18歳のときである。大学紛争で、学校が閉鎖され授業ができなくなり、下宿をたたんで田舎に帰り、ひまにかせて文庫を買って漱石を読んでみたのだ。だから千谷氏が歳をとっていなければ読めないというのは私には理解できない。そして今でも私は老成とは縁の遠い人間である。漱石によって私の新しい読書遍歴が始まった。私は物心ついて以来の読書人である。本を読まない時期の私は生ける屍である。高校の3年間がそうだった。大学紛争によって新しいチャンスが与えられた。私の読書遍歴はいずれ語ろうと思う。

 千谷氏によれば漱石の躁鬱は年譜により分かる。ひとつの記録は英国留学の際に極度の鬱になって、派遣元の文部省に、漱石発狂という報告が行った。小宮などの漱石信者はこれを、英文学と漢文との落差に気付かされた漱石が、文学の将来に悩んでノイローゼになったと高尚なことに原因を転嫁しているが、精神分析によれば単なる周期的に来る欝の時期にあたるのに過ぎないという。このほか漱石の年譜に欠落している部分がある。表立って活動をしていない時期である。これも周期的に来る躁鬱のサイクルによるものだそうである。私の今があるのは漱石のおかげである。それは漱石から思想的影響を受けたというような高尚な事ではなく、本来の読書という楽しみを取り戻せたのである。

 漱石により明治大正文学を渉猟したことは、その後の就職試験にも役立った。私の受けた就職試験で落ちる者は、専門学科が優秀であっても文学や美術史などの一般教養が欠落しているからであった。明治大正文学は日本文学ばかりではなく、外国の文学藝術についても教えてくれる。すなわち当時の文学者は西洋の藝術一般に博識であった。それは舶来高等のコンプレックスから、まず西洋の文化を学びそれをスタンダードとして自らの文学を書いたのである。漱石は英国文化を、鴎外はドイツ、二葉亭はロシア、永井荷風はフランス文化にかぶれ、それをとくとくとして紹介したのである。だから明治大正文化の渉猟は西欧の文学美術哲学などの西欧文化を教えてくれた。

 閑話休題。漱石に感謝するのはこのくらいにしよう。漱石の躁鬱は家族を絶望的に苦しめた。妻の鏡子と息子伸六がこのことを明らかにしている。鬱のときの漱石は後姿にも鬱のオーラがただよって、誰と言えども近づけなかった。小さい子供は気付かないから初めは近づいてしまうと、恐ろしい勢いで叱責される。理由なき理不尽な叱責である。このことは漱石の子供たちの心にトラウマを残した。父に愛情ではなく恐怖心だけを感じたのである。漱石は臨終の枕元で子供たちに、泣いてもいいよ、といったと伝えられる。これは泣いても叱らないよという、悲しい言葉である。

 私は漱石の弟子たちが、このような人物を「則天去私」などといって聖人化するのを憎む。則天去私とは天にのっとり私心をなくすという意味である。しかしかく語ったのは、美辞麗句に隠れて、神様、鬱の恐怖から救ってくださいと叫んだのに過ぎないとしか私には思えないのである。自らの努力で克服せずに家族を苦しめた漱石を、一面で私は憎む。漱石は「門」で禅寺で修行して、自分の過去の失敗を克服しようとする姿を描く。だが真相はノイローゼを座禅で克服しようとして失敗した普通の精神病者の姿である。文学が事実の反映でないのは当然である。現実の姿を美化するのは当然である。しかしそれをありがたがる小宮豊隆らの漱石の高弟と言われた弟子たちは愚かである。



○My favorite picture

 なぜか知らぬ、ある展覧会で見た油彩のポートレートである。展覧会の場合、通例は撮影禁止だが、係員のいる前で公然と撮ったので撮影可だったのだろう。

 展覧会を罵倒する僕だが、この絵は気に入った。何気ない女性のポートレートである。

 全体のバランスも良いが、顔立ちが気に入ったのだろう。僕のことだから画家の名前に興味はない。






















 そこで顔のアップ。なぜ気に入ったか。何年も経って今、ようやっと思い出しました。私のベスト・ノーベルは二葉亭翻訳のツルゲーネフの「片恋」であると言った。

 片恋は原題「アーシャ」。そう。この女性は私の思い浮かべるアーシャそのものであった。お下げ髪に、寄り目がちの大きな目。

 黒い軽装にブルージーン。本当は黒い薄手のセーターである。だが同じ黒だから良い。許容範囲である。

 アーシャは19世紀のロシア人だからブルージーンははかない。だが僕のアーシャはブルージーンでなければならない。













○My favourite illustrator



 私のベスト・イラストレーターは平凡かもしれないが、天野喜孝である。余計なことかも知れないが、経歴を見る限り美大などという余計なものを出ていない。15歳で漫画やアニメを作る、竜の子プロダクションに入社して、アニメのキャラクター設定を担当したとある。

 技量、センスともに充分である。上のイラストを見ていただきたい。要するにグスタフ・クリムトもどきである。価値あるものと評価の定まったものに寄りかかるのは仕方なかろう。上のイラストは画集「花天」の表紙である。表紙だからベストである。ベストがクリムトもどきになってしまっては悲しい。

 次は画集「天馬之夢」の中にあるのが、右のイラストである。これに類するものを見た人は多いと思う。天野は本の装丁も手がけているから、文庫本の表紙にこのイラストに似たものが見られる。

 さすがにこのイラストはクリムトもどきではない。天野の良さは、なまじ美大を出ていないため、天性のものを損なわれていないことであろう。

 そしてアニメのプロダクションという、最新のカルチャーにどつぷりと浸かったことである。最先端のニーズがどこにあるか知るのは、芸術家にとって幸せである。

 天野も何々賞と言うものはもらっている。しかし日展ではない。天野には技量がある。しかしクリムトに比べれば軽い。それは当然であろう。現代では、クリムトほど労力をかけるに値するほどの対価を支払われないのである。

 天野は竜の子プロを退社後、画集を出したり、舞台美術を担当したりして、比較的幅広い活動をしている。しかし決定的に収入を得る活動の場がないように思われる。

 残念ながら天野もカリスマになってしまった。だから画集を出せるのである。天野の今後は自らの作風をいかに発展させ、社会における存在の場を確保するかにある。

 私の答えは否定的である。天野はその役割を終えた。後はカリスマの残光により「生活する」だけである。かくほどに視覚芸術家の存在場所は現代にはない。

○歴史上の人物
 私の歴史上の人物のベストスリーです。一番目は昭和天皇。二番目は東條英機。三番目はいろいろ考えられるが、まずは聖徳太子。しかし東条英機をあげる人は日本中にいまい。だから東條について語る。

 東條は大東亜戦争開戦の決定をした時の総理大臣である。ために米軍が行った東京裁判で死刑になった。東條は本来政治とは無縁な軍人官僚だった。日米戦争が始まる前に、日本は戦争を避けるためアメリカと交渉をしていた。アメリカはドイツとの戦争に参加して、英国を助けるために参戦の口実として、日本との戦争を望んでいたから戦争は不可避だった。

 たまたま陸軍を押えることができるのは東條だけだと、内大臣木戸幸一が推薦したのだ。東條は戦争を避けるため、あらゆる妥協案を作って交渉したが無駄だった。あの時点で誰が首相でも同じであった。東條よりはるかに有能だとされながら暗殺された永田鉄三でもだめだったのだろう。

 米国は、大統領命令でぼろ船を出して、日本に攻撃させる計画も実行していたのだから。戦争回避の昭和天皇の意向を承知していた東條は、開戦決定の晩自宅に帰ると天皇にすまないと、何時間も男泣きに泣いていたのである。ものごとをこれだけ真剣に自分のものとして考えることが私たちにできるだろうか。

 東條の真骨頂は東京裁判が始まってからである。私の手元に「東条英機東京裁判供述書」という一冊の本がある。平成10年に刊行されたものだが、普通の書店には置いていない。だからたまたま神田の古書店から新本同様のものを入手したのである。

 東京裁判にあたり、刑務所の中で裁判の供述のために書いたメモである。150ページ余にわたるメモは、当時の世界情勢から説き起こして、日本のの状況も踏まえ開戦にいたる経緯と日本の正当性を、論理を持って論証した。このメモは刑務所内で資料もなく、自殺防止のためナイフを与えられなかったために、看守にたのんで鉛筆を削らければならなかった。それすら快くうけてくれない看守も多かったという。

 東條は天皇の命令に反して開戦の決定をしたことはないと、手続きの正当性を主張したが、それでは天皇に訴追されると説き伏せられて、天皇の意向に反して強引に開戦の決定をしたように証言した。天皇に対する忠誠心の強い東條にとってはこれは屈辱であった。天皇のために恥を忍んだのである。

 これは弁慶が義経をなぐって助けた「勧進帳」の心境である。そして遺族には決して弁解するなと遺言した。ちなみに元三菱自動車の社長、東條輝雄氏は東條の子息である。近隣や教師まで犯罪者の息子と罵倒された中で、大会社の社長となった輝雄氏も大人物である。

 東條の供述は検事キーナンも圧倒され、検事対被告の対決は被告東條の勝ちとされる。その記録は今も残されている。政治裁判だから死刑は決まっている。その中で、名誉も捨て日本のために堂々と弁ずる。東條を有能だが小物の官僚に過ぎないとするものは、東京裁判を否定する者にも多い。

 その人たちに言いたい。あなた方には東條の何分の一ほどの胆力があるのかと。東條はDeath by hanging.(絞首刑)と判決が読まれると、ニヤリと笑い通訳のイヤホーンをはずした。この光景は今でもビデオで見ることができる。ナチスドイツの被告が大暴れしたのとは異なる光景である。

 東条英機は東京裁判で日本の主張を堂々と言い、後世に伝えた。これをきちんと引き継ぐ限り日本は滅びない。だから東條は尊敬すべき歴史上の人物である。だが引き継がなければ日本は滅びる。それは三島由紀夫の言ったように、魂を失った金儲けのうまい人たちのいる島が残るだけのことである。


○二葉亭四迷伝

 実は私の最も好きな小説家は漱石ではない。二葉亭である。漱石同様に岩波の全集の全巻を持ってはいるが、漱石と異なり全文章を読破したわけではない。だが文豪として大成した漱石は家庭を不幸にした人であった。だから思想家として尊敬もし、文章家として尊敬してもこの1点において私は漱石を絶対に許せない。

 二葉亭、本名長谷川辰之助という。親に定職につかないとののしられ、妻に裏切られても人生に愚直ともいえるべく、誠実な人であった。そもそも二葉亭は文学を志したのではない。日本の将来の敵はロシアに違いないと思い定め、敵を知るためにロシア語を学ぶために外国語学校(今の外語大)に学んだ。

 しかし学校が商業学校と合併しようとすると、商人とは一緒に学べないと猛烈な反対運動を起こしたため、あと何月もたたないで卒業というのに追放されてしまった。ロシア文学で文学に目覚めたといっても、二葉亭の場合には文学はあくまでも実社会で役に立つと考えたのである。

 ツルゲネフの翻訳で生活費をかせぐとともに、オリジナルの浮雲を、当時有名だった坪内逍遥に持ち込んだ。これが好評を博したのだが、当初は本人の名前で発表されなかったはずである。はずであると書いたのはこのホームページは資料なしで記憶で書いているからである。浮雲で二葉亭は現在の口語文体の創始者の一人とされる。

 浮雲は、長編であるにもかかわらず、二葉亭の評論で知られる、中村光夫氏に未完であると、発見されてしまう。面白いのは、書き出しの頃は、落語口調で、セリフなどにカタカナが混じっていて、軽口を叩いているような調子なのである。ところが、段々文体が落ち着いてきて、最後の方になると、すっかり現代の漢字仮名混じりの口語文となっている。つまり、浮雲で、作者が苦労して現代口語文体を作っていった過程が見えるのである。

 二葉亭が最も長く定職に付いたのは約五〇年の人生のうち、ロシア語翻訳の仕事をした内閣官報局にいた約九年だけである。ロシアの現状を調査するために、満洲の女郎屋のオヤジに就職したが、何年もせずに雇い主と喧嘩して飛び出したのだった。たしか女郎つまり売春婦の処遇が悪いと喧嘩したのだと思う。

 二葉亭は女郎であろうと弱きものに味方する偏見を持たない心根のやさしい人だった。職業についたりつかなかったり、点々とする二葉亭の不安定な生活を心配した学生時代の友人たちが無理やり連載小説を書くことを条件に、朝日新聞に就職させた。

 明治の日本は転職も能力しだいで、ごくあたりまえのことだったのである。ノルマで書かされた「平凡」は、当時の自然主義小説の批評家からは好評だった。やつらは馬鹿である。だから平静な心でみたら大嘘である。「平凡」で二葉亭はまともな小説を書くつもりはないと、小説で本心を告白している。

 それどころか女性にもてたいから小説を書くふりをしているとさえ主人公に言わせた。これらは真実であった。そんなことを言っては実も蓋もないのであるのに。世話してくれた知人をコケにしていたはずなのに、世間には好評であった。次に書いたのが「其面影」である。これは平凡だが読みやすい恋愛小説の体をなしている。だが男の主人公は絶望して大陸に渡り飲んだくれてアル中になる、という陰惨な結末である。何か二葉亭の心底を反映しているように思える。

 同じ朝日社員として一度出会った漱石は、あんな艶っぽい小説を書く人があんなにいかつい男だとはと驚いている。顔つきも体躯もいかつかったのである。だが二葉亭はどうしてもこの名声に安住できなかった。新聞記者という肩書きで再びロシア探索のためにロシアに向かった。

 「文学は男子一生の仕事に非ず」と放言したのは多分、ロシア行きの壮行会の席であったかと思う。私はこのせりふに二葉亭の全人生を見る。多くの文学評論家は文学にきずをつけたくないという卑しい職業根性から、この言葉を比ゆ的に解釈している。しかしこれが文字通り以外の何者でもないことは、小説平凡も彼の生涯も証明している。

 平凡で彼は文学に一時眼を奪われたことを呪詛罵倒しているのだ。文学はロシアではたしかに社会に有用であった。しかし日本ではそのようなものではなかった。日本文学は文壇という私的排他的利益サークルの私物か、大衆のエンターティンメントでしかなかった。

 排他的サークルの私物であるのはろくでもないが、エンターティンメントであることは、必ずしも文学にとって不本意ではない。ある意味現代にも通じる文学のあるべき姿だと小生は考える。しかし二葉亭はそれに安住できなかった。そんなものに価値を感じられない性格だったのである。江戸末に生まれた二葉亭は、漱石と同じく天下国家のために働くことこそ人生の究極の目的であった。そのためにロシア行って、ロシアの軍事情勢を探索しようとして、旅路で病を得、船上に死んだ。

 二葉亭には有名小説家として日本で一生を終えるより幸せであったに違いない。最近二葉亭スパイ説が流布されている。多分二葉亭はその説を喜んで肯定するであろう。二葉亭は人生を正直に生きた。小生のように、せこく生きることはなかったのである。しかしどんな地位にあっても、器用であるよりは純粋でありたいという生き方を少しでも実践したいつもりであるが、これが一番むつかしい。



○夏目漱石論

 西洋で文豪と呼ばれる条件は、作品の質と量の他に、定本とでも言うべき伝記作家がいることです。近代日本でこの条件を満たすのは多分、漱石だけです。鴎外は量は充分ですが、その多くが小説だか伝記だかわからないものです。二葉亭四迷の場合には、伝記作家中村光夫さんは評伝としては適切ですが、事実だけを克明に追うという執念が感じられないのです。

 芥川は短編しか作れず絶望して自殺したので量で失格です。永井荷風も良いのですが、伝記作家の定本がありません。荷風が終戦直後に二千万円というとてつもない金額の落し物をしたのは有名な話しです。人を信じないからいつも現金と貯金通帳をカバンに入れて持ち歩き、落としてしまったのです。

 二千万円と言えば今の何十億に相当するのでしょう。どけちの荷風は拾って届けた占領軍の米兵に、数十万円の礼しかしなかったために、多額の謝礼を期待した米兵をがっくりさせました。口語文では漢籍の教養がある荷風のものが、近代日本文学では最高で、格調のあるはずの鴎外もかないません。三島のどぎつい文体などは論外なのです。

 ですが、かわいそうに品格ない荷風には定本の伝記作家はつきませんでした。荷風のために弁護します。老境になっても玉の井の遊郭に出入りして気さくに遊女と語らった荷風は、権威とは関係のない市井の人、今風に言えば庶民の代表でした。ですから金にこだわり大金を抱いて孤独に死んだのです。

 三島由紀夫やノーベル賞の川端康成ですか。そもそも戦後にまともな小説家がいると考えるのが間違いです。文学に権威があったから、小説家になった人たちの作品に何の意味があるのかといいたい。彼らは権威に安住しようとした。だから三島はノーベル賞が欲しくてたまらなかった。

 漱石は一高の教授が職を蹴って何と小説家という、新聞記者と同じくろくでなしの職業に就職したから世間に話題になったのです。漱石がは転職に当たって最も腐心したのは、良い小説が書けるかなどではなく給料や処遇の安定など金銭面でしたから、雇い主の朝日新聞と慎重な交渉をして、生活の安全を図ったのです。

 二葉亭の場合には、遊んでいて小説という下らないものを書いていると親から嫌がらせを受けました。二葉亭四迷とは親から、くたばってしめー、とののしられたのをもじったというのは本当か嘘か分からないが、有名なエピソードです。たとえ三島が大蔵省のエリートコースを蹴ったとしても、小説家はそれ以上に安全な権威であったのです。

 漱石の評伝の定本は弟子の小宮豊隆です。小宮は本職を脇において、人生を傾けて漱石の伝記を書きました。しかし小宮には感性が欠如していました。漱石の個人的名誉を守ることに汲々としていた小宮の伝記は、克明詳細かつ正確な年譜に過ぎませんでした。でも文豪の伝記はそれでいいのです。というよりそれが文豪の伝記の絶対条件です。感性の問題は読者のものです。

 小宮によれば漱石は聖人です。漱石の妻、鏡子によれば家族にとってはとてつもなく気難しい、異常性格に近い人でした。そのことは息子伸六も証言しています。小宮は故意に目を塞いでいました。芥川など漱石山房の末席にいた人たちは、鬱状態のときの漱石は山房に弟子が集まっても、口も聞くのも恐ろしい雰囲気があったことを証言しています。

 小宮はそのことが作品の価値を落とすと考えて、隠すならまだしも家族の証言を嘘だとさえいったのです。ですが漱石の異常性は作品の価値と関係ないのは当然です。小宮はこの意味でも不見識な人間です。しかし小宮の「夏目漱石」は貴重な記録ですから文豪の素晴らしい伝記となったのです。

○My favourite writer
 好きな作家です。私の作家観は極端です。明治の一部の小説家しか読む気がしないのです。つまり漱石、鴎外、二葉亭です。許容範囲は、芥川、永井荷風です。三島由紀夫は文庫にあるものは耐えて全部読みましたがだめ。

 そこで漱石。全集などで公刊されたものは全て読みました。もちろん漢詩、英詩、日記、メモ、本の書き込みに至るまでです。メモでどこにも紹介されていない絶品の名句を紹介します。それは、

 最後の権威は自己にあり

 というものです。漱石は英語の「達人」でしたが英語のlast personとは用法が違います。物事の絶対的判断は結局自分しかないという意味です。これは示唆に富んだ文句であります。単に自分は絶対的決定権を持っているといのではないのです。

 もしそうであるなら、切磋琢磨して自己の判断力を高めなければならないというシビアなものです。結局物事の価値判断は、自分にしかできないのだから自分のレベルを上げよというのです。

 でなぜ漱石か。私には漱石は人生の恩人です。私は救われたのです。私にも悩める若き日々がありました。もちろん軽薄な読み方だという批判は甘受します。私は人間は孤独であるということを漱石から教わりました。軽薄だと言うのは、漱石の場合は大勢の友のいるなかの絶望的孤独で、私の場合は単に友達が少ないという大きな違いで、文字通りひとりぼっちだったのに過ぎないのです。

 私はそれを友人などいなくても良いと解釈したのです。いやわかっていてそう都合よく考えたのです。私は他人に超然として一人で活動する自信を得たのです。軽薄であろうと、私はそれで救われたのです。不思議なものでそう悟ると友はできるものです。私は漱石を小説つまりエンターティンメントとして読んだのはないのです。

 思想の書として読んだのです。今でもそのことを感謝さえすれ、間違っていたなどとは思いいません。人生を救ってくれたのですから。孤島で一冊の本を持ち込んでよいと言われたら、迷わず漱石の「猫」にします。猫は不思議なことにその後の漱石の全作品のほとんど全てを網羅しています。これは漱石が文豪とよばれるゆえんでもあります。

 ただ一点、決定的なのはその後の三四郎以後の小説を貫くものが欠落しているだけです。それは江藤淳が指摘したとおり、道ならぬ恋というものです。でも思想面を重視する私にはそれでいいのです。


○零戦の正体
 下のプラモを見て下さい。30年以上前のフランスのエレールという会社のプラモを20年ほど前に作ったものです。元はHe112B0だったと思うのですが、エンジン部分などを作り直して試作12号機にしたものです。アメリカのエアロシリーズと言うマニア向けの本によれば、まさに下の機体が日本海軍に輸出されたそうですが、日本航空機総集によれば実際に輸入されたのはHe112B0と書かれています。

 どちらでも良いのですが、下の写真のキャノピー(透明部分)を見て下さい。
キャノピーの形がかの零戦そっくりではありませんか。He112は試作6号機に至ってようやくこのキャノピーの形になりました。試行錯誤を繰り返したのです。零戦は最初古い形のキャノピーの風洞模型が残っていますが実際に作られたのがこの形です。

 ドイツでは苦労して開発したのに零戦の設計者のかの有名
な堀越技師は輸入品をやすやすとコピーしたのです。軍用機というのはいつの時代もハイテクです。ですからコピーできるのはたいしたものなので後進国日本としては恥じることはありません。ですが問題は、自らの技術開発については得意げに語る堀越技師はコピーについては黙して語らないのです。

 ですからこの点を指摘するのは世界広といえども、私しかいません。零戦は脚の設計についてアメリカ製をコピーしたことは軍学者の兵頭氏が指摘しています。兵頭氏によれば、当時の
日本の軍事技術はコピーだらけですが、設計者は恥じて語らないそうです。ここで大事なのはコピーしたことより、このキャノピーの形を日本は採用しドイツは採用しなかったことです。

 そして零戦が捕獲されると何と
アメリカもイギリスもコピーしてしまいました。このことも誰も言いませんが間違いないのです。当時の米英の戦闘機が一斉にこの形のキャノピーにむりやり設計変更しているからです。米英もけっこうずるくこのことは言いません。ところがこの形のキャノピーの流行は今も続いています。つまりドイツ空軍が採用しなかったものを日本海軍が採用したことで、今にまで影響をのこしたのです。

 プラモ作りの楽しみはこのようなうんちくを語れることにあります。





○My favorite sports


 今でこそ体力自慢をしていますが、元々スポーツマンとは縁が遠かったのです。小さい頃から勉強をするのでもないのに家にこもって本を読んでいる少年でした。本格的に運動を始めたのは社会人になってからでした。テニス、卓球、ソフトボール、バドミントン、バレーボールなどをたっぷりする時間が当時はありました。そこで気付いたのは、自分が必ずしも運動神経が鈍いわけではないということでした。それまでは引っ込み思案でスポーツをする機会がなかったのです。

 しかし気付いたのは、団体競技はだめと言うことです。熱中するとボールを他人を無視して追い掛け回してしまうからです。卓球ですらダブルスになると、ペアの順番でも打ちかねないし、自分が打ってからペアの打ち易いように配慮することをしらないし、いつでも自分がウイニングショットを出そうとします。バドミントンやテニスではペアが頼りにならないと見ると俄然ひとりでコートを走り回って、シングル対ダブルスの試合にしてしまうのです。

 自分でもそんな積極性があるとは知りませんでした。しかし試合には弱いのです。ブルペンエースなどとからかわれました。ところがそうでない唯一の球技がバドミントンでした。特別にうまいというわけではなく、試合になっても実力が出て、負けるはずのない相手には必ず勝てると言う意味です。思い出したら中一のころ、近所に帰郷した大学生と友人のフランス人学生と兄の三人で、バドミントンをしたことがありました。

 ところが私が一番強かったのです。情けない大学生たちで少年チャンピオンなどと言い訳していました。何につけても我流になる私のこととて、バドミントンのグリップは変則で、ウエスタングリップと言うのだと思いますが、フォアハンドでもバックハンドでもラケットの片面しか使わないのです。それでも何の支障もありませんでした。気付いたのは片面しか使わなくてもフォアハンドとバックハンドでは、ラケットのグリップを少し回転させて調整しないとうまく打てないのですが、これは全く意識せずにできるのです。

 ところが自信がつくと変則グリップが恥ずかしくなりだして、教科書どおりに矯正しました。すると打つのに支障はないのですが、飛距離が微妙に落ちました。もっとも困ったのは、バドミントンでもスマッシュというのでしょうか、シャトルを強く打ち込もうとするとタイミングが取れないのです。いまさらグリップは戻せず、よろしくはないのですが、数年前にレクリエーションのゲームでよほど若い試合したときもうまくごまかし、何も支障はなかったのです。というわけでMy favorite sportsその一の球技はバドミントンでした。

○My favorite music
 そもそも音痴ではないとは思うのですが、学校の音楽の時間は最悪でした。歌唱はまだしも、楽器演奏はぜんぜんだめでした。小中学校では笛の演奏があったのですが、唯一吹けたのはお星様ぴかりという例の単調なやつです。今でも楽器がひけるのを見ると私には神がかりに見えます。でも本当の原因はそうではないと今にして気付きました。

 勉強は家に帰って復習しなければならないと心得ていましたが、楽器の演奏だけは勉強ではないから、自宅で練習するものだとはついぞ思わなかったのです。ですから音楽の時間の唯一の救いはレコード鑑賞というやつでした。ただ聞いていて時間が時間が過ぎるありがたいものです。いまだにクラシック音楽嫌いの私が、クラシック音楽が最良の音楽の時間だというのだから私の気持ちはわかると思います。

 私の左の耳は鼓膜に穴が開いています。2才のときに祖父に風呂に入れられたときに落とされて水が耳に入ったのが原因で、中耳炎になりました。あらゆる病院にかよって祖父は治療してくれて、ようやっと治ったのは7才になったころでした。当時貴重だったペニシリンなど、金にいとめを付けなかったので、後にお前の耳の治療代で家が建つと揶揄されました。

 実際今の金にして数千万円かけていたらしいのです。しかし私にすれば、苦しみはせいぜいちゃらになっただけで恩着せがましく言われる筋合いはないと思うのは私のエゴでしょう。でもごく小さい頃のペニシリン治療で兄弟より3〜4cmばかり身長が低いばかりか、見えないところで肉体の障害があるのではないかと疑っています。もちろん今は健康そのものですが。

 中耳炎で耳の鼓膜に穴が開いてしまったのですが、人間良くしたもので、鼓膜は再生していたらしいのです。ところが20代半ば、いいかっこうをしたのでしょうか、妻とプールにいったとき飛び込みをしました。高々2mほどの低い飛び込み台から飛び込みをしたのです。よくある腹を打つような情けない飛込みではなく、きれいに頭から入ったのですが、きれいに入ったおかげて、3mほどあった深いプールのそこにゴッとばかり頭を打ちました。

 それどころか飛び込んだ瞬間に耳を叩かれたような大きな音がしてやっと浮き上がったのです。猛烈に耳が痛いのですぐに病院に行くと、薄く再生した鼓膜が破れてしまったというのです。ながながと話をしたのは、耳の悪い私だから音楽が嫌いなのだと長く思ってきたのです。

 イントロが長いぞーです。そうでした。My favorite musicです。音楽嫌いの私にして、ことにクラシック嫌いの私にしてほぼというに等しく唯一すきなのが、スメタナのモルダウです。単純にあの悲しい旋律が好きなのです。

 ですが最後はいけません。例のジャーン、ジャーンというエンディングです。ご存知でしょう。クラシックのエンディングの盛り上がるのは一種の作法だそうです。要するにみんなそうしているからそうしているのに過ぎないのだそうです。これがないと当時の人たちは演奏が終わったと思えないのだそうです。ですから作曲者の感性ではありません。

 こんなことは伝統ある芸能に限らず、伝統ある物事に多くあることです。これはあきらめます。そしてモルダウは唯一の(おっとっと)のベストクラシックです。

○My favorite song
 カラオケで一番歌いやすいのは、かの百恵ちゃんの「いい日旅立ち」です。キーは谷村新司歌唱のほうが合うはずなのですが、なぜか百恵ちゃんです。名古屋にいた頃、いい日旅立ちを歌うとなぜかカラオケのバックの風景が、大井川鉄道のSLが映るというので結構人気がありました。昔少年漫画で人気があったが、絵がえげつなくてPTAの反対でテレビ化されなかったいわく付の漫画に「こまわり君」というのがありました。

 こまわり君の脇役のかわいい女の子にジュンちゃん、モモちゃんという二人がいましたが、これが桜田淳子と山口百恵だと気がついたのは今日このごろのことです。三人娘のうちの森昌子がはずれたのは言わずもがなです。作者の山上たつひこ、というのは絵もうまく「光る風」という反戦風の代表作品が示すように、典型的な硬派の漫画家でした。しかしその後、雌伏の後に突然、こまわり君のようなしようもないギャグ漫画に転じたのは思想の転換があったのでしょうか。小生は寡聞にして知りません。

 ダッチロールしてしまいましたが、本題はMy favorite song でした。ダッチロールついでに言うと、ダッチロールとは航空用語で、水平を保つ安定性が方向を保つ安定性より強すぎて、機体の進行方向の軸を中心にしてゆれて、ゆれが止まりにくい不安定な状態をいいます。したがって俗語では話しが脱線することを言います。

 やっと本題。My favorite songです。好きな音楽を一つのMDにまとめて、いつでも聴けるようにするという素敵なことをはじめました。その中にとりあえず、いい日旅立ちは入っていませんでした。でベストは何か。石川優子の「沈丁花」でした。大昔のシンガーソングライターというやつで、同世代でも知らないと思われる超マイナーな歌手の超マイナーな曲です。何かからダビングしたテープを、さらにMDにダビングしたのでした。多分新曲当時でもカラオケにはなかったと思います。

 では別に詳しく話したいとも思いますが、MDの中身をとりあえず紹介します。一曲目が竹内まりあの返信。今の曲なのでそのうちあきるかもしれませんが、映画、出口のない海、の主題歌です。二曲目は映画「連合艦隊」の「群青」です。次はなぜかマリリンモンローの「帰らざる河」、The River of no return です。沈丁花を飛ばして、次がなんとスメタナの「モルダウ」でした。

 クラシック嫌いの小生にして間違いなく唯一のクラシックといえる曲。次に入れたい希望は、映画、太陽がいっぱいのテーマソングです。どこかにサントラ版があったはずなので探します。そう。太陽がいっぱいはサントラ版でなければなりません。小生には帰らざる河が愛するマリリン・モンローの唯一鑑賞に耐える映画であると同じく、太陽がいっぱいはアラン・ド・ロンの唯一の映画です。中年で太って魅力的になったドロンより、若き日の痩せてぎらぎらと餓えた目のド・ロンの方が素敵です。


○趣味その1・・・プラモについて

 キャリアだけは30年を越えるというだけ長いのです。紹介の第一号は下の作品。小生のジャンルはスケール物の
うちの軍用機なのです。とりあえず作品の紹介。あら探しをしないで下さい。私にしてはとにかく、完成しただけで大
したものです。資料は2枚目の写真を見てください。



 この飛行機の資料の出典は洋書です。名前はベルXP-77です。Japanese Zero とあるのはかの有名な零戦のことです。つまり日本の零戦の強さに手を焼いた米陸軍が開発した戦闘機ですが、ついにものにならなかったのです。正確に言えば零戦とは米軍にとって日本の単発戦闘機(エンジンが1台の意味)の総称であり、何も零戦に限らずに日本の戦闘機に手こずったの意味でした。

 零戦対策の戦闘機を開発したというのは日本ではあまり紹介されないエピソードですが、アメリカの本には紹介されているというのは日本人の名誉とすべきでありましょう。この本はマニア向けのAEOLUS PUBLISHING社のFax-FILEというシリーズの1冊です。

 安製本ですが1冊千円ちょっと程度と洋書にしては安いのが魅力で4冊も買ってしまいました。この手の趣味の洋書はかの有名な銀座の西山洋書に行けば手に入ります。飛行機のみならず、船、ミリタリー、ゴーストなどいろいろなものがあります。

 プラモの楽しみは作るだけではありません。和洋の資料を集めるのも楽しみのひとつで、コストは資料代の方が、プラモ代よりはるかにかかるのです。なおXP-77のキットはどこで買ったか忘れましだが、大抵のプラモ屋には置いてありません。またこのキットは日本広しと言えども完成させた人は10人いないと思います。ただのプラスチックではなく、エンジン部はレジンというしろものなので、接着はもちろん塗装も容易ではないからで、そのうえ機体も有名ではないからです。

 透明部品はプラスチックではなくビニール製なので瞬間接着剤とパテで固定します。瞬間接着剤を使うと中から曇るので何か月も放置して曇らないことを確認しておかないと完成してから突如曇っておしゃかということも珍しくありません。この作品は完成後3年以上たったのでもう大丈夫です。

○プラモのジャンル
 プラモのジャンルは大別するとスケール物と非スケール物に分かれていると私は考えています。非スケール物は有名なガンダムなど架空のものの実体化です。大抵は漫画かアニメがオリジナルです。フィギュアもこの範疇に入りますが、最近では完成品が販売されているので急速に消えつつあります。なおガンダムは子供の売れ筋なので、スケール物を看板にしている店でも経営のために置いています。

 別に紹介したピンバイスは実はマニア向けのプラモ屋です。ピンバイスの店長はプラモマニアではないと思いますが、業界情報を知っているので貴重です。できの悪いキットをプラモ雑誌が誉めていることなどの裏事情を教えてくれます。スケール物は飛行機、軍用車両、艦船、車に大別されます。それぞれ作り方、塗装のやり方やセンスが違うので、あるレベルに達すると他の分野に手を出すととんでもないことになります。

 艦船では700分の1のスケールで、実物の高さ1メートルもない転落防止用の手すりを全長にわたって張り巡らすのですから。車は顔が映るほどみがきあげるので塗料にごみが入ったらお仕舞いです。軍用車両はさびや泥などを再現するのでお手上げです。というわけで私にはいい加減で済む飛行機が最適。上級者の艦船マニアの作った飛行機を見ましたが、色調はでたらめ、よごしが激しく到底見られたものではありませんでした。

○ジオラマ
 スケール物ではジオラマをやる人がいますが小生は手を出しません。そもそも飛行機を作るのは3次元の美しさを楽しむためであって、苦労して情景を作る必要はないのです。ジオラマは手先の器用なはずの日本人より西洋人の方がはるかに、といって良いほどうまいのです。日本人のジオラマはどこか手軽に作って、軽妙さを楽しむという風があります。西洋人のリアリティーを追及するしつこさにはかなわないのです。非スケールものでもスターウォーズの撮影用模型のリアリティー(!)の素晴らしさにはかないません。

 どこか浮世絵と油絵の違いがあります。またデッサンの力が違うのです。人物画を描くときに全身の皮膚の下の筋肉を研究するという執念にはかなわないのです。ある模型雑誌ではジオラマは英語ではダイオラマと発音するから、今後はダイオラマと呼ぶと得意がっていました。確かに英和でdioramaと引けばその通りです。最近気がついたのですが、このスペルはどう考えても英独語のようなゲルマン系のものではなく、ラテン系です。そうです。フランス語ではジオラマと発音するのです。発音記号でジの部分はdj と書くのですから正にジオラマでいいのです。ドイツ語もスペルは同じですが、ディオラマと発音します。つまりダイオラマと発音するのは少数派です

 つまり、変なところでうんちくを語るからお里が知れるのです。ですから小生は模型マニアとは付き合わないのです。模型雑誌の記事にも、工学の素養がないのに飛行機のうんちくを語ってとんでもないことを言う人がいるのです。工学の素養とは工専とか工学部系の大学を出たことを条件として言うのではありません。あくまでも工学の基礎を身に付けているかどうかに過ぎません。

○プラモ余禄
 趣味というのは永年続けると余禄があります。ひとつは人との交流ですが、小生は腕に自信がないのでマニアとの交流がありませんから、全ての趣味で孤独でして、この余禄はありません。小生の最大の余禄は世界を別な目で見られるということです。ソ連崩壊以前の東ヨーロッパのキットはソ連ものに関しては、資料が豊富ですから作りにくくてもデッサンが正確ですから手間をかければ案外国産や英独仏製より見栄えがするというものもありました。しかも格安でした。プラモには説明書があります。東欧の説明書の紙質は脅威でした。

 若い人はざら紙というものは知りますまい。脱色ができていないから茶色っぽいのです。そればかりか陽にいつまでも当てると劣化してしまいぽろぽろくずれるのです。いまでも保存してありますが、壊れないようにとっておくのは大変です。東欧製の紙は、はなからざら紙より質が悪く、茶色い上に曲げるとぼろぼろになってしまうのです。昔はソ連圏の優位を信じている日本人が多かったのですが、こんなぼろ紙を知っている私は到底信じませんでした。

 また日本製プラモでも戦車などはソ連ものが意外に人気でした。ソ連製兵器はある部分で西側を凌駕しているのです。だからソ連が貧しくても兵器作りには金を惜しまないという事実は実感できるのです。だからソ連が平和的な国であるなどというたわごとは信じないで済んだのです。余談ですが、最近はロシアや東欧のキットも質は向上し、紙質もよくなりました。しかし説明書の不親切さは相変わらずですが、日本製が親切すぎるのです。しかも日本人好みのものを次々と売り出して、値段も国産以上に吊り上げています。しかもときどきはずれがあります。すると千円二千円がすぐパーです。

○バキュームフォームとソリッドモデル


○フィギュア
 かつてプラモ作りを子供の遊びと卑下していた頃、プラモは西欧では紳士の高級な趣味であるということが唯一の言い訳でした。何もそのような安いことを考える必要はなかったのですが、西欧では大人のホビーとして各種のものづくりがあることは事実です。昭和50年代後半位から日本ではアニメや漫画のキャラクターの立体模型化としてフィギュアが始まりました。なかにはアイドルや実在の人物風のフィギュアもありますが、いずれにしても普通のプラモと同じく、キットを買ってきて組み立てて塗装するというものでした。

 特に顔の塗装が命なのですが、一部の熟練者以外にはきわめてむずかしいのです。そういうわけで日本ではこのジャンルはメジャーになることはなく、一部のマニアの秘かな趣味となっていたようです。西欧のフィギュアはそのようなものではなく、ヴァンパイアやドラキュラなどの伝説の登場人物その他の実体化として相当長い歴史を持っていました。西欧には趣味以外でも、メジャーではない技術が脈々と伝えられているという伝統があります。それが案外現代になって花開くということがあります。日本人にはメジャーな趣味や技術にはわっと人が集まるが、マイナーなものはすぐに忘れるという悪癖、あるいは現金さがあると思います。

 ところがフィギュアの世界が平成14年頃から激変が始まりました。完成品で質の高いものが販売されるようになったのです。特に顔の微妙な部分を自動的に塗装する技術ができたものと思います。相場は5000円〜15000円と高いのですが、完成品と言うのが現代のオタクには受けたのでしょう。売れ筋だったガンダムものですら、面倒くささから組み立てプラモというのは嫌われていったのです。こうしてアニメや漫画のフィギュアはメジャーな存在になりました。買ったことはないのですが、確かに質が高いものがあるのです。ためしにアキバのヨドバシカメラやラジオ会館に行って御覧なさい。

 アイドルフィギュアの難点はどうしても似ていないことです。アニメはそもそもデフォルメされたしろものなので、コピーしやすいのです。ところがアイドルフィギュアは忠実に似せるのが命なので、デフォルメはしてはならないのです。その証拠にここに何かのおまけのサッカーの小野選手のフィギュアがあり、質が良いのですがそれはデフォルメがされているからです。こうしてアイドルフィギュアは永遠にメジャーにはならないのです。多分西洋人がアイドルフィギュアを作っても、日本人の顔はだめでしょう。

○My favorite book

 好みといったら音楽の前に本について語りたい。無人島に何か月も暮らし一冊の本だけ持っていくことしかできないとしたら何を持っていくという設問がある。私は漱石の(我輩は猫である)と答える。猫は漱石の最初の作品であるが、その後の全作品の思想的要素が包含されているから、漱石が文豪と呼ばれている次第である。漱石は私の青春時代の大恩人である。私は漱石に救われたのである。それも文学としてではなく、思想としてである。

 しかし猫には全思想は含まれているものの、文学としてはもっとも肝心なものは含まれてはいない。漱石の猫以後の全ての作品のテーマは不倫であると指摘したのは、かの江藤淳の漱石とその時代であったと記憶しているが定かではない。不倫とは正確な表現ではないが、道ならぬ恋という意味である。例えばでは「先生」が青年時代に下宿先の娘さんを好きになったが、実は同じ下宿の親友Kに娘さんに惚れていると告白された。

 あせった先生はKがいない間に娘の母親に自分の気持ちを伝えて婚約してしまう。その直後にKが自殺したので、先生は自分の裏切りがKの自殺の原因だと考えたというのである。漱石の隠された恋とはろくでなしの兄の体の弱い、登勢という妻であった。それと知れるのは漱石の英詩である。漱石の英詩は難しい語彙がないので容易に読める。比較的内心の吐露のひかえめな明治人にしては、異言語のせいと人に見られるものでないことから気持ちをよく表している。そこに必ず近寄りやすく近寄れない女性が登場する。これが登勢である。

 私は純愛であったと信じている。道ならぬ恋を執拗に書き続けることで純愛が完成すると信じていたのである。これは例えではない。そもそも小説を書き続けた動機が登勢への純愛であった。書き続けなければやまなかったのである。閑話休題。実は私のベストの1冊とは猫ではない。二葉亭四迷の「片恋」である。片恋はツルゲーネフのアーシャ(Asya)の翻訳である。二葉亭はロシア文学を翻訳するときには句読点の位置やリズムまで崩さないと正確な翻訳を豪語していた。

 実態はそれは不可能であるにしても、坪内逍遥など当時の翻訳が意訳もいいところで、勝手に訳者の文章を入れてしまったり名前まで日本人にしてしまうなどしていた実情から比べれば、革命的で現代翻訳の基礎とも言える。片恋は、老人が青年時代の忘れえぬ恋を告白するものである。旅する兄弟に、同じく旅する青年が邂逅してしばし付き合ううちに娘に告白される。気が強い性格の娘を恐れた青年は結局一人旅を再開するが、分かれた後に時間がたつほどに思いがつのり、兄弟を探すのだが再び会えることはなかった。

 私にとってのアーシャは、黒い髪をふたつに分けておさげにし、長い首に黒いとっくりのセーターを着た女性である。丸顔とも言える瓜実顔で、目は黒いひとみがいつも驚いているように大きい。初読は21の学生の時だったと思う。私はときどき読み返すが短編なので1時間ほどで読める。読むたびに同じ感情がよみがえり、同じ情景を思い浮かべた。ところが去年読み返したときのことである。素直に告白する。何の感情も湧かなかった。年齢のせいではない。私の感性が磨耗してなくなってしまったのだ。事実は事実である。

 翻訳とは何か。単なる意味の訳なのか。その意味では片恋は翻訳ではなく、二葉亭の創作である。二葉亭は翻訳を意図したが創作である。それなら米川正夫の翻訳はどうか。ロシア文学の翻訳と言えば米川正夫である。しかしこれは翻訳であって創作ではない。私は米川を二葉亭より劣る翻訳者と言っているのではない。二人には資質の相違があるだけである。ちなみに二葉亭は、アーシャが告白するシーンで、「死んでもいいわ」と訳した。原文はI love you.と同じ意味だそうである。それを確かめたくて図書館で米川訳を探しているが未だに確認できない。原文がどうであれ「死んでもいいわ」は良い。


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