想ひ出の記


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 私は国語が得意でした。しかし作文だけはさっぱりだめでした。今はものを書くのを趣味にしているのにです。作文は家庭のことや友達のことなどプライベートなことをさらさなければならないからです。ホームページやブログを趣味にしている人たちにも、案外作文が苦手だったと言う人は多いのではないでしょうか。なぜ作文が苦手なのにホームページやブログが好きなのか。

 それは匿名性があることが絶大な理由ではないでしょうか。それに私は相応に歳をとり、プライバシーがばれても困らぬ歳になり、思い出をも語りたくなったのです。私のホームページなどはどだいひとりよがりです。そこに思いでに浸るのですから、さらにひとりよがりです。

馬のいる生活 ふるさとの記 人間の記憶 早乙女草






江戸文明の残滓

 「逝きし世の面影」(渡辺京二・文庫版)を読んでいる。著者は、江戸期に完成した日本文明は、既に日本から消えてなく、歌舞伎等の伝統芸能のようなものに受け継がれているように言われるが、それは残滓ではなく形骸に過ぎず、残っているとさえ言われないようなものだという。筆者の渡辺氏は1930年即ち、昭和5年の京都生まれである。だが大連育ちであったというから、成長期には外国に住んでいたのである。

 だから、氏は知らないだろうが当時の田舎ではまだ、残滓といえるものが多く残っていたであろう。それは私自身の経験の一部でもある。私は、渡辺よりよほど後の戦後生まれであるが、この本の記述で思い出す私の朧げな体験を書いてみたい。都会の通りには、「それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化していることだ。・・・彼らの多くは同時に熟達した職人でもあった。すなわち桶屋は自分が作った桶を売ったのである。(P214)」という。

 それこそ、筆、墨、硯など個々の商品だけ単独で、しかし、山のように多種なものを専門的に売っていたというのだ。ということは、その程度のことだけで生計が立てられたということだ、と結論する。そこで私の生家の話をしたい。昭和30年台半ばまでの話が、主である。

 生家は四世代が同居する大家族の専業農家であった。しかも、農業機械などはなく、馬で田圃を耕していたし、それ以外は全て鍬などの農機具による人力作業であった。山羊を飼い、山羊の乳を牛乳のように飲み、山羊の皮を処理して座布団にしていた。山羊の肉も食べたろうが記憶にない。味噌も自前で作っていた。これらは主として祖父がしていたように思う。祖父は無骨だが案外器用で、山羊の皮の処理は父にはできず、祖父がしていた。

 曾祖母は冬になると一日中干し柿造りをしたり、サツマイモを天日に干していも菓子のようなものを作ったりしていた。特産が水菜の漬物で、長く漬けるものだから、暗褐色化して塩辛い代ものだった。母は元気な時は水菜の漬物を作って、結婚した私に送ってくれた。ところがある年から、同じ水菜の漬物でも全く違うものとなった。自分で漬けられなくなり、町で買って送ってきたのである。だから、馴染んだ味ではなく、正直がっかりした。

 曾祖母の仕事は女向きの仕事であったろう。祖母は29歳で病死したから、その仕事の引き継ぎができず、曾祖母が年を取ると女仕事は無くなってしまった。母は曾祖母から家事や家のしきたりなどを教えられたと言うが、結局曾祖母がしていた、干し柿造りなどは引き継がれなくなった。このようにして断絶は起きていった。さらに兄の奥さんは専業主婦ではなく、独身の頃からの仕事を続けていたから、母は女仕事を伝えることができなくなって、断絶は決定的になった。

 その他各種の野菜はほとんどが、味噌漬けであったと思う。米主体の農家だったが麦や蕎麦も作り、日本で普通に取れる野菜、胡瓜、白菜、キャベツ、ナス、人参、大根など大抵は自家用であり、市場に出すようになったのは後のことだった。蛋白源は豆類以外は、週一回漁村から来る、40代のおばさんが自転車に乗せて行商する魚を買っていたのである。

 おばさんは、蒸気機関車が急勾配のためスィッチバックをしながら一時間かかる漁港から通って商売をしていたので、そのルートを自転車に山ほど魚を積んで往復していたのだから今から考えれば驚異的である。その頃は、全くの専業農家であり農繁期以外はごろごろしていたし、雨が降ると農作業は休みである。することがないのである。

 椿の木がたくさんあったので、椿の実をむしろの上に並べて干して皮を向き、種を椿油用として売ったのである。曾祖母は、残った時間は古着を縫っていくらでも雑巾を作ってどこぞに寄付して感謝されていた。農閑期も働きたかったのである。

 こんなことを長々と書いたのは、渡辺氏が専門の商品を売るだけで生計が立てられ、しかも商品は自作だ、ということと関係があるように思われるからである。曽祖母の作った干し柿や漬物、祖父の山羊皮のなめしなどは、比較しようがないが年季の入った職人芸だったと思う。祖父と曽祖母は黙々と根気よく、これらの作業をしていたのである。しかも、これらの農業などだけで、生活ができたのである。

 後年父母が農閑期に建設業や缶詰工場に行ったり、野菜造りを増やし積極的に市場に売り出すようになったのを、子供の頃は不可解に思った。それまでは専業農家で暮らせたから、渡辺氏がいうような昔の自給自足の生活だったのである。昭和30代後半から急速に洋化して洋服も買うし、農業機械も導入したから現金が必要になったのである。その証拠は私が学校に行くのに自転車を買ったが、現金は半分で残りは私がリヤカーに野菜を積んで代金にしたのである。工業製品を買うには、現金が不足するから物々交換したのである。

 つまり、洋服、自転車、農機具や洗濯機といったものがなく、手作りのおもちゃで遊んでいた時代なら、現金は農業などで賄える程度しかいらなかった。私は自前でそこまで考えた。しかし、渡辺氏が西洋化や工業化によって日本文明が滅びた、といっているのを読んで得心したのである。私のかつて経験した農業は日本文明崩壊以前の残滓で、昔からの技術の農業や小規模の手工業的なものを家族総出ですれば生活できたのである。

 その他に思い出すのは祭祀である。農地を除いた昔からの家の敷地とおぼしき範囲は、100m×200m位あったはずである。井戸の脇に1か所、臨家の境界に1か所、県道から家の敷地まで150mほどの私道があり、私道から家の敷地に入るところに1か所(馬頭観音)、敷地の東南端に1か所の合計4か所に神様が祀られていた。

 特に東南のものは、鳥居があり無人であるが小屋のある小規模な神社の形をとっていた。鳥居から神社までは数メートルではあるが、参道さえあった。鳥居の脇には、その地方には珍しい大きな銀杏の木が一本あった。馬頭観音には、年一回松明をつけて祈る習慣があった。そこでは松明の下で何らかの祈りがされていたが、記憶がぼやけて単なる松明の明かりの点灯ではないこともしていたちしか、覚えていない。それは祖父が年老いてくると止めた。馬頭観音以外は、水神、土神ともうひとつは風神か火神であったろうが覚えていない。これらの神々には、お供えをする以外に、かつては何らかの祭祀が行われていたと思うが、小生の記憶する時代には絶えていたのだと思う。そのことは、馬頭観音の松明をともして祀る習慣が残っていたことから私が勝手に推察したのである。

 ただ、井戸の脇の祠の石戸をいたずら心に開けると、赤い口を開けた白い狐の像があって、ぞっとしたことがある。私道は早くに市道に召し上げられた。藁葺の家が古くなり建て替えるのに、父が100mも家を移したのは、農地の真ん中に国道建設の計画があったからだと思うが、それらの事情から、神々の祠は居場所が無くなってしまった。

 それは既に父が早逝した後で、母だけ残った時代になってからである。母は独力で、神々の御神体を、新しい母屋の裏に1か所にまとめてしまった。本来ならば、風水でみたてて、新しい屋敷の敷地に、神々の各々の居場所を定めて祀るべきであったろうが、母にはその知識も気力も無かったし、家を継いだ兄は広い農地を貸すなどして守る事に汲々として祭祀には関心がなかった。というより嫌っていたから当然の結果である。御神体が残っただけましである。家を出て生家に関心もなかった私には、もとよりそれを咎める資格はない。

 「逝きし世の面影」にも、「信仰と祭」という章が設けられているが、前記した生家の祭祀は古来どのようなものであったか、ということに対応することは述べられてはいない。西洋人が見た日本の記録から記述されているので、そのような類には観察がいきようもなかったのだろう。だからこの類の文明は、残された祠という形骸だけで、本来の姿はあらゆる記録から消え去っていったのに違いない。もしかすると既に曾祖母の世代の記憶にすら残っていなかったのかも知れない。

 曾祖母は伝えられた習慣や祭祀を守る事には熱心だったからである。しかし、後年の西洋化した私達には、煩わしいものでしかなかった。渡辺氏のいう古い日本文明が滅びた、というのは結局、人々の精神のあり方も西洋化によって変わったことを意味する。

 「逝きし世の面影」の「信仰と祭」という章には、唯一小生の記憶と一致する記録があった。それは「フォーチュンは野仏に捧げられた素朴な信心の姿を伝えている。『神奈川宿の近傍の野面にはたいてい、小さな祠があって、住民はそれに線香をたき、石に刻まれた小さな神に塩や銅貨などのお供えをする。・・・』(P538)」という記述である。そしてオールコックが描いた「道端の祠」という挿絵(P539)は、まさに小生の生家の無人の神社と同じ姿をしているのは感動的であった。

 また、前掲書では、日本の田園風景が庭園のようで、しかも自然そのままではなく、人が念入りに手を入れた美しいものである、と書く。小生の子供のころ住んだ生家の庭には築山があった。メインは金木犀としだれ桜で、築山の中には細い通路があって子供の遊び場になっていた。築山は季節毎に咲く草花でおおわれていた。隣家との境には長い距離にわたって椿があった。

 畑の真ん中には柿が何本も植えられたスペースがあったし、柿木は他にも畑の角々に植えられていた。20m四方の竹を主とした雑木林があった。これらの植物は全て自然のものではなく、人工に造成したものであるのは間違いない。渡辺氏の記述した風景が昭和30年代まであったのである。ただし、それが西洋人が見て美的に感じるものであったかだけが確信がない。

 前掲書の記述と小生の記憶と一致するものと一致しないものをいくつか追加する。祖父は滅多に怒らない人だったが、軽い気持ちで「畜生」といったとき「そんなことは言うもんじゃない」という意味のことを言って激しく怒ったのを不可解に思ったが「馬鹿と畜生という言葉が、日本人が相手に浴びせかける侮辱の極限だ。(P167)」ということと一致する。私にはない語感を祖父は持っていたのである。「このころは『女でもいばっている人』は、自分のことを『おれ』というのは珍しくなかったと断っている。江戸の庶民に、男言葉と女言葉の差がほとんどなかった(P371)」という。曾祖母は間違いなく、「おれ」と言っていたし、男言葉との区別がなかったように思う。母も自分のことを「あたし」などと女言葉を使ったことは考えられない。小生の生家は、東京から遠くない横浜言葉に似た訛りのある田舎町だったが、江戸言葉の影響は他にもみられる。

 農耕馬として、馬を飼っていたが、乗馬の習慣はなくいことは、前掲書の記述と一致する。西部劇を見た私は乗馬風景を見たかったのである。日本の「猫は鼠を取るのはごく下手だが、ごく怠け者のくせに人に甘えるだけは達者である(P483)」というのだが、生家で飼っていた猫は代々、鼠を取るためということだったが、実際に鼠捕りに役立っていたかは怪しい。しかも耕運機を買って馬を売った日、最後の飼葉をあげていたから、動物に愛情が深かったのも本当である。

 全般的に、当時の日本人は陽気でよく笑い、外国人にも平気で話しかける、と書かれているが、この点は私の常識とも一般的日本人観とも大きく異なる。ただ、母の実家の親族たちは陽気で人見知りしないたちだった。小生の兄弟は従兄に、おまえんちは、外で遊ばない、と冷やかされた記憶がある。私が唯一持っている古い家族写真では、祖父は鍬を持って上半身裸の祖父が写っているから、労働する日本人は裸で平気であった、というのもその通りであった。以上のように、前掲書に書かれたかつての日本人の姿は、私の幼い記憶にとって全く意外、というわけではない。

 渡辺氏は「・・・意図するのは、古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕ではない。(P65)」と断言する。それは、単に意図がそうではない、と否定するばかりではない。そもそも、古きよき日本が戦後にも残っていたのにせよ、なかったにせよ、そのような時代の記憶が渡辺氏になければ、愛惜や追慕は生じようもないのである。大陸に育った渡辺氏とは異なり、私は、前述のように確かに過去の日本の残影を見たのである。それは「良き日本」であったとは思えない。しかし、愛惜と追慕の念は微かにある、と言っておきたい。



小室直樹の教える村落共同体

 小室直樹氏の「中国原論」には小生の体験したにもかかわらず、未だに理解できていない村落共同体が書かれていたので、小生の経験と絡めて本書の、日本の共同体とその崩壊について取り上げる。(P169)まず共同体の定義である。

@共同体内外は二重規範となっている。A社会財はまず、共同体に配分され、次に共同体の各メンバーに再配分される。B共同体は敬虔な情緒に支配されている。

 という3条件である。

 小生は子供の頃、まさに、村落共同体の中にいた。しかし、小生の見たものは崩壊寸前の姿であったのに過ぎないのだろう。@とAは辛うじて残っていたが、後述のようにBなどは無くなっていた。小生の実家は国会図書館で調べると、応仁の乱以前に仕えていた領主が戦乱に負けたために、かつて住んでいた土地に戻り、それ以来土着した。同じ(あざ)の地域のうちでも、原則として10数件の同姓の家としか付合っていなかった。全てが血縁であったと思う。


 当初は敗残したために周囲を警戒し血族同士で固まった、一種の落人部落であったのに違いない。長子相続であったから、本家の我が家の土地は広大であった。30年位前に町の火葬場ができたが、そこまで行くのにタクシーを使わなければならない。しかし、戦前はそのあたりまで我が家の土地であったそうである。

 葬式などは各自の家でするのだか、死者の出た家は何もせず、通夜から葬儀までの段取りは、共同体の一族で全てしてしまう。食費や酒代その他の経費がかかると、その家の財布から、断りもなしに持って行って使う。それほど濃密な関係であった。田植えなどの大規模な農作業は共同体の仲間全員が集まって、各家の田圃の作業を順番にして片付けた。毎日の田植えの後の夜は、毎日ちらし寿司などの当時としては目いっぱいの御馳走を出しての大宴会が繰り広げられていた。

 だが委細を見ると、いくつかのグループに分かれて反目していた。不思議なことに本家である我家だけが孤立していた。母は意地っ張りだから、本家は馬鹿にされてはならないと突っ張っていた。私や兄が他所の子供にからかわれると、馬鹿にされるなと、怒られた。だが却って小生たちの根性はイジケていったのだと思う。奇妙なことだが、兄が成人式を迎えたとき、曾祖母が近所に兄を挨拶に連れて行った、ということを最近聞いた。本当は本家に皆が挨拶に来るべきなのである。

 かく言うように、六〇〇年も経つと共同体はほとんど崩壊していた。箪笥に短い刀が隠してあるから聞くと、祖父が大刀を短く折って成形して、鉈代わりに使っていた、と言う。そこには苗字帯刀を許されていた士族である、という誇りはない。既に百姓に土着していたのである。

 だから小室氏が書く、村落共同体の崩壊の過程は興味深く納得できた。「戦前、戦中における共同体は、頂点における天皇システムと底辺における村落共同体であり、日本の人々ここに安住していた。しかし敗戦によって、頂点における天皇システムは解消した。・・・致命的な急性アノミーが発生した。それとともに日本人の心の行き場所であった村落共同体も、漸次、崩壊していき、高度成長の進行とともに、ほとんど姿を消した。(P170)のである。

 日本の経済の高度成長というと、昭和三十五年あたりからだと思われているが、実は昭和二〇年代の末期に始まっていたのだと言う。ということは村落共同体も、その頃から崩壊が始まったのである。昭和35年から45年の10年間の社会変動は激しく、それまでの100年間以上の生活様式が変化が起きたと言う。同時に村落共同体も壊滅した。それは小生も体験した。昭和30年台前半は、子供の普段着は和服だった。和服と言えば聞こえがいいが、ボロな浴衣のようなものに粗末な帯を締めて遊んでいた。

 日本の共同体は、血縁共同体でも、地縁共同体でも、宗教共同体でもなく、全て一緒に仕事をすることによってできる「協働共同体」のだそうである。その事は前述のような、皆で農作業を協働していた、ということから小生には実感できる。「・・・高度成長によって大量の労働力が都市へ流出し農村過保護政策によって村落における協働システムは解体した。さらに流通経済が村落にまで流入したことがこの傾向に拍車をかけた。」(P173)というのだが、これも小生には実感がある。

 小生の知る昔の農家と言うのは自給自足に近かったから、現金は極めて少なくて済む。衣服は継ぎはぎで、兄弟のお下がりやお古を使うから滅多に買う必要はない。市場に農産物を売れば現金は足りた。小生は高校に行くのに中古の自転車を買ってもらったが、半分は現金だったが、半分は米と野菜をリヤカーに積んで行って払った。自家で食べる米は、工場に運んで精米してもらった。現金で全部払えないのである。

 ところが教育の程度が進み、農業機械が入るとそうはいかない。現金が必要なのである。その代わり協働作業は必要なくなる。現金はどうするか。田畑を売るのである。こうして村落共同体は消えた。「村落共同体こそ、多数の日本人にとっては心の依り所、故郷であった。都市へ出ても外国へ行っても、『志をとげて、何時の日にか帰る』場所であった。その村落共同体が、消えて無くなった。サアたいへん。一大事だ。・・・そこで、機能集団たる会社(企業)は共同体に成ることによって、巨大な急性アノミーを引き受けることにした。」(P173)その通りである。

 ただし、全部の会社ではなく、大中企業であり、中小企業や零細企業は共同体に成りきっていないのだという。その理由の説明はないが、想像するに、中小企業や零細企業は、ある人が入社してから死ぬまで(せめて定年退職まで)存続することが難しいからであろうし、そこまで社員の面倒を見切れなかったのだろう。また、規模が小さいと人間関係が濃密過ぎて現代日本人には耐えられないのであろうか。よくわからない。

 小生は体験から村落共同体が崩壊してしまい、その代わりに会社が村落共同体の代わりを引き受けている、ということはぼんやり思っていた。さすがの小室氏は、そのことを明快に説明してくれたのである。しからば中国の会社は、というと共同体にはならないそうである。それは血縁共同体、すなわち宗族が存在し、急性アノミーを吸収するから中国解体にはいたらないそうである。文化大革命での大量虐殺、洗脳、毛思想の否定が急性アノミーの発生を強いるが、結局共同体が吸収したのだと言う。




○御成橋


 平成26年7月1日に私用で沼津に行った。母は今は沼津市となっているだろうが、郊外の愛鷹山の麓の生まれであった。母の嫁いだ街は田舎でデパートがなかったから、洋服など大きな買い物をするには、わざわざ一時間汽車に乗って沼津に買い物に行くことを常としていた。母の嫁ぎ先が田舎で、沼津とは比べ物にならないという口吻が子供心に嫌味に感じられた。汽車と書いたのは、電車ではなく、蒸気機関車で後にディーゼルの気動車になったからである。

 デパートで食べる昼食は必ず醤油ラーメンだったと記憶しているが定かではない。具にメンマとチャーシューがわずかに入ったごくあっさりとしたものだが、不思議なことに、その味が醤油ラーメンの味の原点で、未だに同じ味を求めているが出会わない。もちろん有名店の、だしたっぷりの美味しいものはダメなのである。

 これは狩野川にかかる御成橋である。調べたら、当時と同じもので架け替えられていない。奥に見える山が香貫山で、当時は山頂に天理教のプラネタリウムがあり、遠足コースのひとつだったが、とうに撤去されて今はない。マンションなどはなかったから、御成橋の後ろに香貫山の全景が見えたのである。一番の思い出は狩野川の花火見物だ。生まれて初めて見る本格的な花火大会だったから、規模は遥かに小さかったのだろうが、二十年以上後に見た隅田川の花火よりも強烈な印象だった。

 橋のたもとで見たという記憶しかないので、御成橋だったか三園橋だったか定かではないが、御成橋が一番懐かしい名前である。



○忠霊塔

 これは小生が卒業した小学校の校庭にある。「忠霊塔」である。この忠霊塔は、傍に建てられた顕彰塔碑によれば、西南の役から大東亜戦争までに、この町で戦没した三百九十余柱の兵士の霊を慰めるものである。戦前の人口は、三万人程度もなかったから、人口比からいえば百人に一人以上であるが、その間の生存者はその何倍もあったろうから、比率ははるかに少ない。

 この三百九十余柱の戦没者の中の一人に叔父がいる。忠霊塔は終戦から間もなく建てられたが、この顕彰塔碑は昭和五十年に建てられた。顕彰塔碑には「八紘一宇の大理想と東亜被征服民族解放」云々と書かれている。現在の日本ではこのような碑は到底建てることはできない。昭和五十年の日本人はまだ正気を失っていなかったのである。

 この町には戦後間もなく米軍が進駐し、実弾演習を繰り返していた。榴弾の弾着音がするたびに、薄っぺらな我が家の窓ガラスはビリビリ揺れて、割れるかと思った位である。実弾演習場には近所の主婦が空薬莢を拾って売るバイトをしていた。真鍮の薬莢は高く売れたのである。

 薬莢拾いは演習の休憩の合間に行われる。ところが何年かに一度は米兵に射殺される事があった。誤射だと説明されていたがそんなはずはない。危険なので米軍の訓練の休憩時間は町に周知徹底されていて、おばさんたちが間違えるはずがないのである。米兵は遊び半分に撃ち殺すのである。オーストラリアに移住した白人たちは、タスマニアのアボリジニーをハンティング遊びの対象としたので絶滅した、という話を後年聞いたとき、私は田舎の誤射事件は故意であったに違いないと確信した。


○ふるさとの神々
 日本にはやおよろず、すなわち八百万の神がいるという。そうであろう。これは私のふるさとの裏庭におわします神々である。実はこの神様たちは四十年余前に壊された古い家の屋敷の敷地の各々の場所にに祀られていたのである。私は子供の頃それぞれの神様の祭祀の手伝いをしていた。神様はしかるべき場所にいたのである。そして200mほど離れた所に新居が建てられた後も同じ場所にあった。まだ神様おわす場所は売られていなかった。

 その後神様がおわしました土地は全て売られた。母がこれではいけないと、一人で新しい屋敷に移設したのだという。神々は元々このように一箇所に置かれていたわけではない。前述のように広い屋敷の四箇所に分散されていたのである。母が苦労して移設したのだから、一箇所にまとめた無神経を非難する資格は僕にはない。

 左の石碑様のものには馬頭観音と書かれている。農家で馬が居たからであろう。たぶん屋敷の庭の入り口の脇に1m位盛り上がった場所に置かれていたものである。年に一度何かの祭日に松明をともす場所であった。右から二番目は家の裏の井戸端に置かれていた。子供のころいたずらで、祠の戸を開けたことがある。真っ赤な口をした、白い狐が鎮座していた。

 屋敷から東に二百メートルほど離れた場所の大きな銀杏の木の下に鳥居がある場所の一番奥に、一番右の神が祀られていた。無人神社のようなものであったろう。左から二番目は屋敷の敷地の西端の隣家と市道の角に置かれていたのだと記憶している。私はこの神々のご本尊を正確には知らないが、風神、水神、土神だったと記憶している。四季の何かの日毎に供物をあげた記憶がある。もちろん各々の神に一斉にあげるのではなく、各々の出番の日があるのである。今では神々が粗末に扱われているばかりではない。

 七百年近くいた屋敷を移ったことを惜しんで、旧屋敷であったことを示す石碑を祖父の弟が建てた。普段田舎生活を軽蔑する風があった東京住いの祖父の弟も、実家の事を深く思っていたのである。その石碑も屋敷跡を借地にしてしまったために、撤去されて何と新しい屋敷に移されて神々の隣にある。余に希な応仁の乱以前から続く、わが家に伝統はない。ただ長く続いた家系を誇るだけである。祖父も、祖父の弟たちも父もとうの昔に亡くなった。母も既に鬼籍に入った。ふるさとは本当に遠くになってしまった。私にとってふるさとがふるさとであるのは、あまりに変貌した実家の周辺の景色ではなく、実家の三方を囲む変わらない山々の風景だけである。

○22歳の死

 この写真を見て欲しい。一見ただの変哲のない墓である。現在は共同墓地にある。元は約40年間専用の墓地にあった。わが家は専業農家だった。畑の脇の高台の10畳位の敷地に、高さ1mほどの石垣を立て、中に玉砂利を敷いてあった。その中央にあったのがこの墓である。周囲には竹で組んだ柵がある。柵のあたりには榊の木がびっしり植えてある。市道から行くには石造りの階段を登ると墓地の下に着く。そこから石垣の一角に作られた階段を登ってようやく玉砂利を踏むことが出来るのである。子供心にも荘厳なつくりだと感じたものである。田舎の田園風景にはなじまない、神社めいた雰囲気があった。

 これは父の弟つまり私の叔父の墓である。追悼の意味もこめてその由来を語りたい。叔父は地元のの中学を出ると横須賀の海軍航空技術廠に勤め、22歳で陸軍に召集された。廠とは工場の意味である。海軍の航空機の技術開発と生産を行っていた、海軍航空の中心にあるところである。当時の航空技術は民間より軍、特に海軍が進んでいたから、日本の航空技術の先端を行っていたのである。

 叔父は海軍の飛行機の開発や生産をするところに働いていたのである。なぜか陸軍でも飛行場大隊に配属されたが前歴とは関係あるまいと思う。飛行場大隊とは飛行場の設営、維持、防衛や飛行機の運用をするところである。

 叔父は22歳で戦死した。22歳で召集され、22歳で戦死である。昭和19年8月の頭に満洲に出征し、その月の末には死んでいた。正確には戦病死である。母に聞けばコレラであるという。後述のように頑健だった叔父が1か月も生きられなかったのである。日本軍の悪の見本のように言われる731部隊が実は大陸のこうした不衛生対策のための防疫部隊であったと言うのは私には納得できる。

 戦前に講道館の初段であった叔父は頑健な人であった。当時の講道館というのは段をとるのが余程難しかったそうである。父が学校でいじめられると弟の叔父がやり返して護ったと、祖父は語っていた。タフを装っていた父も大した事はなかったのだ。そんな叔父もあっけなく死んだ。祖父はぐちひとつこぼさなかった。ただ、あれが生きていれば・・・と繰り返していたが、その後の言葉を聞いたことがない。後で親戚に聞くと母は不可解な行動をしている。年をとって体の自由がきかなくなるまで、母は静岡市の護国神社に毎年夏に通っていたというのだ。しかも父や家族には、実家に行くと嘘をついていた。母の親戚縁者で戦死したのは叔父だけである。だから母が護国神社にお参りする対象は叔父しかいない。母と叔父とは同じ位の年である。母の実家と父の家とは戦前から縁があったと言うから、叔父と母が幼馴染ではなかったとはいいきれない。しかし今となっては永遠に分からない謎である。

 祖父の悲しみの大きさは先祖伝来の墓とは別に慰霊碑のような専用の墓を作ったことでも知れる。しかし父の後をついた兄は酷薄である。父の墓を共同墓地に持っていくのはともかく、祖父の心をこめた墓地を売ってしまい、墓石だけ共同墓地に移設してしまった。家から出た私にそれを非難する資格はない。ただ祖父の無念を思うものがいなくなったことを残念に思う。私が現在あるのは祖父のおかげだと思っている。そこでせめての恩返しに、平成10年頃から靖国神社の夏の「みたま祭り」には毎年祖父の名前で献灯している。献灯は戦死者本人の名前ではなく、遺族の名前で行う習慣がある。その後母からもらった叔父の出征直前の写真を、靖国神社に送って掲揚してもらっているから、靖国神社に行くたびに手を合わせる。

 叔父の写真は祖母の写真などと共に、居間に飾ってあったから毎日見ていたものである。写真自体はよく撮れてはいるが、何となく特徴のない眼鏡をかけた兵隊さん、という感じがする。しかし、叔父の写真は鮮明なだけいい。靖国神社に掲揚されている戦死者の写真には、不鮮明も甚だしいものも少なくない。そこまでして掲揚しているのは、遺族の想いがいかに強いか知れる。ちなみに靖国神社の遊就館の一角には、靖国神社に祀られた戦死者の写真が遺族の申し出により掲揚できるコーナーがあり、戦死者の写真が何万とある。掲揚の順番は単純に申し出の順で、階級や功績には関係がない。東條元首相の写真も多くの一兵卒の中に混じっている。



○父の戦い
 父は大正10年生まれである。だから徴兵に行ってからまもなく戦争が始ったために、召集がかかり大陸に渡った。これを父は現役応召といった。これは軍隊用語としては正しいようで、私の記憶違いではなかった。父は北支つまり現中国の河北に派遣された。父はご機嫌になると軍隊時代の話をよくした。父を嫌っていた兄であり、弟は年が離れていたから専ら聞き手は私だった。父は貸家に住んでいた同年代の自衛官と蛙を主人公とした兵隊漫画を描き、私に見せて喜んでいた。筆使いが上手だったのである。これからの物語は父からの聞き書きである。父は派遣されるとすぐに通信兵に選抜された。想像するに今と違い少ない旧制の中学を出ていたからかもしれない。

 しかしすくに風邪あるいは肺炎を患い入院して、1カ月位入院して復帰して訓練を終えた。農家に生まれた父は頑健で徴兵検査の際に甲種合格、つまり健康優良とされていたからうなづけない話ではある。父の口癖は軍隊は人間を鍛えてくれるよいところだ、しかも金持ちも貧乏人も差別のない実力次第のところである、といったことである。実際、「金少尉」といって金を出せば偉くなれるが、たたき上げの実力がないためにかえって部下にいじめられることがあるという。

 父は傘が壊れると、わざわざ遠くの傘の修理屋に持って行かせた。そこの主人は父の戦友である。戦友とは絆が強いものだと言われるが、それはこの話でも分かる。父は奇妙な人で普段は相撲の番付表の、いわゆる観世流に似た癖のある字を書く。しかし私の字が余りにひどいので、こう書くのだと言って、書いて見せたのは、教科書のような綺麗な字であった。だから軍隊の基地の看板を書かされていたのだそうだ。また、対戦車訓練のために、技術将校から指導を受けて、シャーマン戦車の構造図を書いたのだと自慢していた。こう書くと父は器用な人のようであるが、実生活では不器用で、耕運機を運転しては川に落ち、畑仕事の段取りが下手だと母から笑われていた。

 父は通信兵として通信と暗号を担当していた。だから戦闘で人を殺した事はないはずである。b;f
これは事実を推定したのであって、平和主義的考え方で言うのではない。父の話では、丘の上で待ち構えていると敵が攻めて来るので、機関銃を掃射すると支那の兵隊がおもしろいようにばたばた倒れていく、というようなリアリティーのない話ばかりであったのはそのせいだろうと思う。この話を思い出す度、私の脳裏には、広い緩傾斜地に人の半分ほどの丈の草が風でなびいている間を、大勢の人が間隔 を空けて腰をかがめて登ってくる景色が浮かぶ。


○金木犀

 金木犀の匂いを知らない人は少ないだろう。白い小さな花が地味に咲くと、風向きによっては甘い匂いが木が見えない遠くまでわかる。しつこいばかりの濃い匂いである。生家の庭には築山があった。築山といっても一番高いところで大人の身長ほどしかない。

 その象徴のように丁度中央の一番高いところに金木犀が一本ある。東向きの家だから、金木犀の古木は家を朝日から隠すように、うっそうと立っている。金木犀の足元には小さな池があるのだが、雨の日以外に水がたまっていたためしがない。止水がしていないのである。ただし木に覆われているのでいつでも湿っている。

 風雅の趣味のない農家の癖に築山の構成は凝っていた。玄関からすぐ右に出たあたりに、築山の順路となるメインストリートがある。入り口の左脇には百日紅(さるすべり)があり、季節には薄いピンクのさわやかな花を咲かす。百日紅は丁度居間の縁側から見える位置にある。右脇にはしだれ桜の古木がある。

 メインストリートは趣をつけるためか、家の縁側に平行にほぼ築山の中心をくねくねうね走って抜けるが高さは庭のレベルで高低はない。昔はわが家にも趣味の人がいたのであろう。メインストリートの両側には凝った形の石が適当に配置してある。うまくしたもので春から秋まで築山には何か花が咲く。なかでもダリアは好みである。

 しかし家族の誰も地面を掃く以外に、花の手入れをしていた気配はない。たいした高さではないのに、メインストリートから分かれて、築山を登るように獣道同然の道がある。築山の植物と石、道などは近所の子供たちのよい遊び場であった。充分かくれんぼができた。

 築山が終わると家の角に沿って平地の庭が続く。角辺りにあるのが例のルドベキア、おおはんごんそうである。小六で140cm、中三でも150cmに満たなかった私には男子の成人を超える高さのルドベキアはとてつもなく高い草であった。ルドベキアが咲くと初夏、そろそろ海水浴にも行ける、の期待の花である。ちなみに実家のルドベキアは黄色いダリアのようなものである。

 庭を座敷から床の間に向かうとごく薄いピンクの花をつける八重桜がある。しつこいほどの八重と花の数だが、うっとおしくなく気品さえ感じるのは花の色の品の良さと、背がルドベキアほど高くないせいだったろう。玄関と対角線の角の位置にトイレがあるので毎日見る羽目になる。

 築山から反対に玄関の方に行くと家をかすめて小川が流れている。長方形の家の短辺に沿って流れている。土間に屋根をかけて小川を覆っているから、小川は家の中にあるのも同然である。昔は水道などなかったから小川で洗濯をした。もちろん洗濯機などない。私が西洋の文明の利器で残して欲しいと思うのは洗濯機と水洗便所である。テレビも冷蔵庫もいらない。

 小川の向こうには家に沿って道がある。道は県道からわが家の田畑を通って家の裏の市道につながる何百メートルかの私道である。私有地を通るから私道なのだが、土地を切り売りするために通行人は他人の方が多くなるにつれ、とうとう市道に召し上げられてしまった。多くは私たち兄弟の学費になったのだろう。

 私が住んでいた築山のある家は、今はもうない。それを惜しんだ東京に住んでいた祖父の弟が、○○家発祥の地とか言う立派な石碑を立てたが、祖父の弟もとうになくなり、石碑もない。当時の面影といえば、築山の金木犀としだれ桜が移転した兄の新居に残っているだけである。

 金木犀としだれ桜は私と父が、他の木々とともに何日もかけて根回しして運んだのである。根回しとは大木を移設する際に一定の半径の溝を堀り、木を慣らしておいてから移設することである。私は根回しの語源をこのとき知った。


○ふるさとの記

 私の生家は地方の専業農家であったが、既に家業を継ぐ者はいない。相当な田舎の地方出身者であるが、東京コンプレックスはない。東京に住んでいる者の大部分は私と同じく地方出身者だからである。そして元々地方の訛りは少ない。むしろ、東北や九州など、はっきりとした方言のあることが羨ましい。実家や親戚と話をすると微妙に標準語と違うだけと言うのは、むしろ悲しい。

私の祖父の弟は教師をしていて戦前から東京に住んでいた。そして子供を連れて実家に帰るたびに、あてつけのように、田舎の子供は、などと侮蔑的なことを言った。だから兄は自分だってカッペ生まれの癖にと陰口を言った。東京在住者のほとんどが所詮は田舎の出なのである。

 しかし江戸コンプレックスはある。江戸にはそれなりの伝統があるからである。まして、たどればわからない位、永い事江戸東京に居たなどという家系にはコンプレックスを抱く。実家は落ちぶれたとは言え、苗字帯刀を許された家系であるというのであるが、武具といえば、槍は木部の柄は腐って無くなり、鉄製の穂先だけになって残っているだけである。刀に至っては、大刀を祖父が半分に折って成形し、鉈代わりに使っていた、という情けない有様である。武士の矜持などというものは、とうに無くしていたのである。だから江戸コンプレックスはある。

かつての豪族として土地だけはおそろしく沢山持っていた。要するに所領だったのだ。しかし事情があって戦前既にほとんどの土地を売ってしまって、小作を使っていなかったから、戦後の農地解放で土地をとられることもなかった。それは曾祖父が大病をして治療に金がかかったのだ、と母は言い張ったが、腑に落ちる話ではない。曽祖父は80近くまで生きたのである。母は言いたくない真実を知っていたのであろう。

 戦後でも専業農家で暮らしていけるだけの広い土地を持っていた。田舎の人はいい人だと思いますか少なくとも曽祖父や祖父、父はお人よしであった。馬鹿がつく位である。昔のこととて長子相続で全財産は長男が相続する。だが次男以下に同情した曽祖父は、一代限りという約束で無償で土地を息子に分けた。しかしそうは問屋が卸さない。次の世代が永年親と住んだ土地を返すはずがない。当然居座る。最近法律が改正されるまでは、借地でも二〇年以上住んだ土地は永住権が発生した。所有権の変更はないのにもかかわらず、所有者は借地人に返せとはいえないのである。そこで祖父は話し合いで解決することにした。結局親戚にただ同然で借地を売ったのである。そんなことが何度もあった。それにも懲りず赤の他人の借地人にも同様の手口で土地を取られた。

 お人よしは懲りないのである。こんな話しもある。数百メートルに渡って土地を接している遠縁の親戚の家がある。元は我が家の分家である。わが家の方が数メートル高台にありスロープで接している。境界のわが家の内の畑には目印として椿の木を並木に植えてある。しかも境界に植えると、他所の土地に張り出すので、枝がでても隣地を犯さないように、ゆとりを持たせたのである。

スロープの下は隣家の田圃である。ところが気が付くと境の木の根の土地が崩れて根っこが出ている。様子がおかしいので父は私を連れて、土地台帳に合わせて測量した。すると境のわが家の土地が延々と数メートルづつ侵入されて、隣家の田圃になっている。隣家は毎年目立たないように、少しづつスロープの裾を削って田んぼを広げていたのである。スロープは少しづつ崩れて我が家の土地が減るから椿の木の根っこが露出したのである。これを何10年にわたって根気よくつづけていたのである。なんという陰険な根性。測量の結果、どう解決したか私は知らない。しかしわが家の土地は周囲の親戚(他人ではない!)からこんな方法でも狙われていたのである。

 生家の近辺は私が住んでいた18歳頃までは全て同姓であった。昔の私の小学校では月1回、同じ字の部落の生徒が集まって下校するという習慣があった。ところが同じ部落名だから一緒に帰らなければならないのだが、県道と川をはさんで反対にある地域の多くの子供たちとは付き合いもなければ面識もない。私と同姓の家族だけが、ある地域にかたまって濃密な付き合いをしていたのである。

それには理由があった。数百年も前に私の祖先は、仕えていた主君が戦国の争いで負けた。そこで当時の居住地を逃れ以前住んでいた領地の外れに逃げて居座った。国会図書館の資料にはそう記載されている。要するに落ち武者部落を縁者だけで作って、隠れ住んだのである。だから長い間同族だけの共同生活をしていたのである。だから周囲の異姓の人たちとは交際しなかったのであろう。

 それどころか親戚のうちには、敗戦後近くまで隣家とだけ通婚していた2軒一組の家さえあった。近親結婚の結果、その家には、私が子供の頃までダウン症が多発していた。わが家の近隣は一種の血族部落社会を形成していたのである。今では生家の近所には農地が売り払われて、多くの人たちが移り住み、人口は何十倍となった。しかし私達先住民とは姓が異なるので区別できる。それなのに、同族が長い時を経て骨肉の争いを続けている。いや時間の経過が長すぎて親戚だと言う感覚さえ薄れて、機械的な共同体的習慣しか残っていなかったものと思われる。

 漱石の「心」には、主題となるこんなエピソードがある。主人公の帝大生が私淑する「先生」が人間はいざとなると誰でも悪人となると言った。そこで主人公は、それはどんな時ですかと質問する。先生の答えは「金さ君。」であったので、主人公は余りに世俗的な答えでがっかりする。もっと哲学的で高尚な答えを期待していたのだ。だが私には骨身にしみている。先生は親が死ぬと、親切であった親戚が遺産目当てで従妹と結婚させようとさせられた経験をしていたのである。子供の頃から仲良かった従妹までが、遺産奪いの陰謀に加担していた。そんな経験が先生を厭世人にしたきっかけのひとつであった。

 先生は親戚との遺産争いが、どんな良い人間をも悪くしてしまうと言ったのである。だから私には「金さ君」という言葉が深刻に響く。私は何十年かひそめていた、ひとつの決意を実行した。父は
50代半ばで脳溢血で死んだ。母は土地争いを繰り返すのを恐れて、将来私が家を建てるときは土地と家に相当する分だけ資産を分けるから、今回は父の遺産相続を放棄するように言ったので、偽善者であった私は実印を渡して従った。

 だが何年か前マンションを購入する際に、母に話をした私は、秘かに約束を実行してもらうことを思い出した。私は購入資金に困っていたのではないから、約束を守ってもらうことを期待していただけであった。そうか、と言っただけで母は約束を無視した。その年の盆に帰省した時、母は黙って百万円の現金を包んで私に渡した。帰ってから不審に思った私は、もしや遺産放棄の代償かと聞いた。
答えは、その通りだ、であった。私は絶望した。母は裏切ったのである。私は翌年のお盆に帰省してこの百万円を返した。必ずしも意地ではない。私はこの時まで母が、あの時の約束は悪いが家のために、なかったことにしてくれ、と謝ってくれれば、その通りにするつもりであった。だから私は兄と争いになろうとも、必ず母の遺産はもらうと決意した。私には裏切られた約束を実行すると言う大義名分があった。

 しかしそれは何の理由にもならない。本当の理由は子供たちに少しでも財産を残したいと言う欲が本当の動機だからである。私は遺産争いの醜さを知っている。しかし遺産欲しさの欲望から逃れられない。先生の「金さ君」は逃れられない真理であることを知っている。遺産相続には後日談がある。母が亡くなった年の盆に帰省すると、兄は相続放棄してくれ、と言った。私は、証拠はないが、と断って、母との約束を説明した。すると兄は快諾して、三か所の土地を相続したらいい、と言ったので、疑いもせず了解した。元々田舎に住むつもりはなかったので、地元の不動産屋に、売り払いを依頼した。

 ところが不動産屋は、一番売値の高い土地の上には小屋が建っているので売れないから、撤去しろと言い出した。兄に撤去を要求すると、実は自分が建てたのではなく、昔から親戚が使っているのだ、と言った。それを知っていながら、兄は騙したのである。曽祖父が、息子に一代限りで貸していた土地の最後のひとつだったのである。弁護士に相談して裁判となった。地裁で負けた。証拠集めの結果、母が裁判で決着をつけたがっていたこと、父の早逝はこの土地争いのストレスが原因だと言う噂が親戚じゅうにながれた(噂が事実かは不明)こと、母は私に約束通り遺産相続を遺書に残していた、などである。弁護士は高裁では勝てる、と言ったが、私は、父の早逝がこの土地争いのストレスが原因だと言う噂が判決に書かれていたことに恐怖して、上告を止めた。

父同様に私自身がストレスで倒れはしまいか、と怖れたのである。稲田朋美は弁護士で裁判の喧嘩に慣れているはずなのに、野党の追求に涙を流した。私自身も組合に取り囲まれて脅し同然の経験にも何の恐れも感じなかった。共通しているのは、弁護士の裁判も職務で脅迫されることも、本質的に自身の問題と感じることはないのである。ところが、本質的に自身の問題と感じた瞬間に、人は恐怖を感じる。漱石は一時の養父に、出世したのだろうと執拗に金品を要求された。これらの経験も含めて「心」が書かれているのであろう。漱石が養子に出されたのは迷信が原因のひとつである。漱石の家は新宿に地名を残すほどの旧家の生まれである。旧家を尊敬する人たちがいるが、旧家に生まれた私には信じられない。旧家生まれなどと言うことは、祖先様たちの恨みをため込まれているのに違いないのである。父も弟も、先祖の恨みのために早逝したのである。

母はよそから嫁に来たにも拘わらず、旧家の先祖たちの魂に取り込まれた。私の実家には、先祖の霊魂の恨みが溜まっている霊能力のある母はそれに感応した。その結果亡くなった母は、残された最後の遺産問題を解決して、子孫に禍根を残さないために、あの世から私に決着をつけるように指示した。私は間違いなく死んだ母からの指示を、この耳で聞いた。

結局裁判に負けはしたが、甥たちとその子孫が将来苦しむことだけは、断つことはできた。誰も感謝する者はいないが、母の遺志にこたえられたことだけで満足する他はない。母は死して意志を貫徹したのである。





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○馬のいる生活
 いまどき馬を飼っているという家があったらどうでしょう。乗馬をしているとか競馬の馬主とか、いずれにしても大金持ちというのが相場です。私の生家には昔馬が一頭いました。農家だったからで、金持ちだったわけではありません。今の農家はトラクターなどの農業機械がたくさんありますが、そもそも当時は農業機械などというものはありません。そこで馬が働いていたのです。

 左の写真を見て下さい。旅行に行った時の風景です。この光景で私は生家の馬を思い出したのです。これは耕運機です。荷物も運べば田んぼや畑を耕す機械です。馬と何の関係があるって。そう、馬は耕運機にとって替わられたのです。馬を扱うのは重労働で体力もいるし、生き物だからデリケートです。

 それで祖父は耕運機なるものが発売されると、近所で最初に買いました。すると馬は要らなくなります。そこである日、馬は売られることになりました。ある晩のことです。馬の餌は飼葉といって、わらと野菜を切り刻んだものに米糠をたっぷりかけて、水でかき混ぜたものです。

 そもそも若い人は米糠というものすら知らないと思います。米を白米に精製するときにできる粉とだけ言っておきましょう。最後の晩餐ではありませんが、売られる馬に最後の飼葉を上げたのです。

 電線をはって裸電球を煌々とつけています。庭にはトラックが横付けになっていました。馬はトラックに運ばれます。そのとき馬の横顔が裸電球に照らされてはっきり見えした。何十年経ちましたろう。今でもこの光景は忘れません。馬の大きな目。動物で馬ほどきれいな眼をしているものを知りません。大きな潤んだような目。成人してから人前で涙を流すことはありませんでしたが、当時小さかった私はその時泣いたのに違いありません。

 最近馬券は買わないのに競馬見物をすることがありました。秘かに馬の眼の美しさを確かめたいと言う気持ちがあるのです。幻想であろうと思いますが、未だにあの時の馬の眼ほど美しい馬には出会っていません。馬を使う農業。皆さんには信じられないでしょう。その信じられない生活をしていたことを言いたがらない人が私の同世代の人にはいます。あまりにかっこ悪いと思うからでしょう。でもそれは私たちの真実です。ですからそのようなおじさんたちを私は信用しません

 ついでに耕運機の話をします。父は耕運機をうまく使いこなせませんでした。新製品に飛びついたおかげで、エンジンのスタートが難しいのです。スタートの失敗を繰り返すとプラグがガソリンで濡れて、ますますスタートできなくなります。そんな時父はなぜか子供の私に整備をさせました。父は不器用だったのです。ある日荷物を運んで耕運機を運転していると、運転しそこねて脇の川に落ちてしまいました。父は軽傷で済んだのが不思議なくらいです。農家をしているので腕力は強いのですが、父はなぜか仕事に関しては不器用で、いつも母にいやみを言われていました。ところが子供に楽しそうにオリジナルの漫画を書いて遊んでいるという器用な一面もあったのです。本人は実業家とか政治家という口先のうまい人たちを尊敬していました。案外芸術家の気質を持つ父のコンプレックスではないかと最近思うようになりました。

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○人間の記憶
 小さい頃の記憶は何才まで遡るのでしょうか。私の最も古い記憶は、1歳のころだと思います。生家は昔米軍の基地がありました。家だけは大きかったわが家では、空いている床の間を米軍の将校夫妻に間貸ししていました。若いまだ子供のいない夫婦だったということです。私には夫妻に抱かれて床の間の天井を眺めていた風景を憶えているのです。夫妻が間借りしていたのがちょうど1歳前後のことだそうです。ちなみに将校さんが残していったスプーンにはMARINEと書いてあるのを確かめましたから海兵隊だったのでしょう。

 その次の記憶は2歳のことです。母屋の正面に庭を挟んだ場所に二階の住居兼作業場を立てている光景を一枚の写真のように憶えているのです。一階は馬小屋とお茶の収穫作業場で2階は階段をはさんで2間の居間がありました。後日この一間でなぜか祖父と私が寝泊りするようになりました。農家でしたから馬小屋は当然ですがお茶とは何か。

 母は遠くのやはり農家から嫁いできました。私の田舎は昔の豪族の没落した農家でした。戦前は養蚕で生活していたのですが、戦後はその収入もなくなり、ただ広大な土地を持っているだけの、気位だけ高い貧しい農家です。今は近くに○○市中央公園という、日比谷公園の半分くらいの公園があります。公園はわが家の農地のほんの一部を売り飛ばしたものですから、所有地の広さがわかると思います。

 一方の母の実家は野菜やお茶と言った産物のある農家ですから、当時としては現金収入のある裕福な一家でした。母の兄は戦前に大学に行ったのですから富裕さは想像できます。ところが父の家を見た義父は貧しさに驚いて、現金収入の道としてお茶の栽培をすることをすすめました。それが○○市におけるお茶栽培の歴史の始まりだというのだから驚きです。その一環として建てられた作業場の建築中の光景が私の2歳の風景でした。

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○早乙女草
 下の写真はある植物園でたまたま咲いていたものである。私には見覚えがある。田植えをする女性を俗に「早乙女」という。この花はちょうど田植えの時期に咲く。そこで昔田舎では「早乙女草」といいならしていた。花を早乙女に例えたものである。田舎では隣近所が全て同姓である。正確に言えば親密に付き合うのは、同姓すなわち親戚同士であった。だから同じ地域でもある意味で孤立していた。都会のひとたちには考えられない生活である。

 田植えになると、親戚のうちの農家をしている家が各家の田植えを手伝う。一軒づつ田植えの日をずらして親戚総がかりで田植えをする。そして夜になると近所のおばさんが集団でわが家に集まって宴会の準備をする。メインディッシュはちらし寿司である。田舎者にとって最高級料理は寿司だったのである。おばさんたちはよその家なのに、食器でも食品でも断り無く持ち出して料理する。

 食品どころか買うものがあれば、金を催促して必要なものは何でも買ってきてしまう。あるいは財布ごと持って行ってしまう

 子供心にも田植えの際のちらし寿司は、大した料理のない田舎では確かに楽しみだった。親父どもは遅くまで飲んだくれている。田んぼは広いから一軒でも1日や2日では済まない。

 それが終わると次の家に繰り出すのだ。田植えと言うのは稲作農家のうちの最も重労働であろう。だからこれも生活の知恵である。

 母は足の速いスポーツ少女だったのを自慢していたが大したことはない。田植えの時期が終わると必ず1週間は過労で寝込む。生家も農家なのにである。すると父か祖父が料理する。

母の料理も下手であったが、男どもの料理は最悪である。芋でも大根でもただ大雑把に切ってあるだけ。食べ物に関しては天国と地獄である。

 早乙女草にはそんな思い出がある。早乙女草は本当の名前ではない。田舎ものが勝手につけた名前である。そもそも写真を見ればわかるように草ではなく木である。だが私にとっては早乙女草に違いない。

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○What's  new ! Pinfan & Chen Shu-fen個展
 新宿某ビルの地下、台湾人イラストレーターコンビの個展。9月3日。日本で言えばおおた慶文調で、ほとんどが若い女性がモデルである。ただしより写実的な作品が多い。だが彼らの存在は異様である。雑誌の挿絵、表紙等で頭角を現すと、カリスマと呼ばれるようになった。すると今度はカリスマの威光を利用するために、何に登場するか周囲が気にしだしたのである。今回は中谷彰宏という日本の恋愛小説家の小説のカバーや挿絵として登場することになった。ちなみに二人は夫婦であり、元々作風が似ている。個展の作品は全て二人の共作ということになっている。



 中谷は彼らの画を必要としたのではなく、彼らのカリスマの利用しただけなのである。これは芸術にとって本末転倒している。もっとも芸能界も広末涼子というアイドルを作り出すために、映画や歌、写真集などを作った。映画や歌、写真集などが彼女を必要としたのではない。

 上の二枚の図版を見てほしい。左が最新作の「恋愛天使」であり右が従来のタイプの「少女の秘密」である。このタイプで二人は多数のイラストレーションを描いてきた。コピーでは分かりにくいが、最近ではずっと右の画のように比較的リアルなワンパターンの画風であった。それが左の絵のように、リアルでありながらどちらかといえば平板である。

 コピーではわからないが、右の画が顔に輪郭線を使っていないのに対して、左の画は微妙な輪郭線を使って効果を挙げている。今後どのような画風をとるのかは分からない。しかし左の画が幅を広げたのは間違いないだろう。

 下の図版は個展のあとで寄った新宿駅南口の丸善にあったChen Shu-fenの物語風画集とでもいうべき「メッセージ」という本のメインテーマとなる一枚のイラストレーションである。ここでも彼らは模索している。物語の挿絵、イラストレーションといえば物語がメインである。ところがこの本ではPinfanの文章はさしみのつまでイラストレーションが主である。ところが実際には、たしかに画は文章に合わせている。画のために文があるにもかかわらず、画は文の内容をなぞっている。画と文の関係はけっこう複雑な関係となっている。

 彼らは二人の画の登場の必要性を模索している。画風についてコメントする。上の二枚は二人の共作ということになっている。しかし下のはChen単独の作品だそうである。しかも上の左の作品と下の作品はともに最新作である。最新作でも下の画は輪郭線を黒く明瞭にしてさらに全体が要領よく手が抜かれている。「メッセージ」は比較的多数の画が収められている。多数描くためには手を抜かなければコストが合わない。

 そのためにメッセージでは着衣や風景を含め、線描でかなりの部分を省略している。文章の方はかなり労力がかかっていない。このバランスはできるだけ画を多く売りたいという考え方からは当然であろう。しかも手抜きはひらめきと軽快さという効果をも生んでいる。

 彼らは今、作風の頂点にある。しかしそこで作風の改良は止まるわけにはいかない。止まった瞬間に彼らは大衆から見捨てられる。彼らも作風の進歩を求めている。それは画家の本能でもある。彼らは現在に満足しているとともに将来に不安を感じている。ひとつは作風の現在と未来。ひとつは自分の作品の社会における存在意義である。イラストレーションをメインにした存在を求めているが、そのようなものは現実の社会にはない。

 メッセージは確かにイラストを中心とした物語である。しかしそのようなものは彼らのカリスマに頼った存在であり、一般社会に広く受け入れられるものではない。カリスマが時とともに摩滅したとき、そのような無理な存在では社会における存在意義はありえない。それが彼らの未来への不安である。彼らはいつまで人気を保てるのかと。



いわゆる「南京事件」について
 いわゆると言ったのは、世間で言う南京事件や南京大虐殺などと言ったものはなかったからだ。それをこれから説明する。「南京大虐殺」などと言った名称はそもそも胡散臭い。例えば数百人の日本人が支那の兵隊に虐殺された、通州事件は「通州虐殺」とは言わない。歴史上の事件に「虐殺」などという道義的判断のある名称をつけるのは政治宣伝の目的がある。
 純粋に歴史的な呼称なのではない。このような呼び方は支那人得意のものである。なぜなら支那では歴史は学問ではなく常に政治に奉仕するものだからである。このような支那の習慣に追従するのは日本人としては恥ずべきことである。日本人の良き特性を放棄している。歴史に関しても支那人は平気で嘘をつく。いや彼らにとっては嘘ではない。

 歴史は政治に奉仕するのだから歴史は政治目的にそって曲げて書かれるのは当然の行為なのである。だから政治目的で嘘をつくのは悪いことではない。だから支那人に追従して南京虐殺など「日本軍の残虐行為」なるものを追求している人たちも、支那人に性格が似てくる。

 嘘や不誠実は平気になる。例えば中国の旅などを書いた朝日新聞の本多勝一氏である。著書の中国人へのルポ記事で、中国人の証言を検証せずにそのまま載せたのはおかしいと批判された。すると、平然と私は中国人の証言をそのまま載せただけで、証言が間違っているなら悪いのは中国人だと答えた。この恐るべき不誠実を平然とやってのけて恥じないのである。

 私が南京事件なる歴史的事件はなかったと言うひとつの根拠は次のようなものである。歴史上の事件となるには歴史上の事件たる特性を備えていなければならない。日本軍の南京攻略は、ある国の軍隊が他国の大都市を攻略占領したというできごとである。

 そこで軍人や民間人に対する不法殺害が行われたことを歴史上の「事件」と称するには、類似の事例に対する特異性がなければならない。例えば米軍は那覇やマニラといった都市を攻撃して占領した。そして軍人よりも多数の民間人を殺害した。マニラでは無差別に砲爆撃をして何十万のマニラ市民を殺害した。いまでもフィリピンではマニラ攻略ではフィリピン人を殺しすぎたという怨嗟の声があるという。

 ロシアはベルリンを占領する際に多数の市民を殺害したのみならず、膨大な数の女性を強姦した。強姦は上官の許可の上行われていたというから、むしろ計画的なものである。強姦された女性は一定の年齢以上の女性の50%に上るという恐ろしい数字を聞いた記憶がある。

 日本で南京虐殺を主張する人たちですら、不法殺害20あるいは30万人と言う主張を取り下げて、4万程度に切り下げている。最大限に見積もっても米軍やロシア軍の行為に比べれば、日本軍の行為は小規模なものである。それでも那覇、マニラ、ベルリンの攻略による不法行為は歴史的事件として取り上げられることはないのである。従って日本軍の南京攻略は、歴史上は都市の攻略と言う事件であって、不法行為による事件として記録されるべきではない。

 よくいわれる南京攻略の指揮官たる松井石根が日本軍の不法行為を嘆いたことが残虐行為の証拠とされるが、松井は不法行為が1件でもなきよう完璧を目指したのに、少数であっても不法行為が発生してしまったのを嘆いたのである。

 ちなみに私は南京攻略における日本軍の不法殺害は、民間人の誤射や便衣兵の誤認による殺害も含めても、最大で数十人規模だと考えている。日本軍は極めて平和裏に南京を占領している。日本占領における米軍の強姦事件も膨大なものがあったはずである。神奈川県における占領1ヶ月の強姦は千件単位にのぼったという。米軍は公然と許可はしなかったものの強姦事件を隠蔽して処分しなかった。米兵もかしこいもので国に帰ってそんな事件を語らないのである。

 平和な時代でマスコミの発達した現代ですら沖縄で米軍の強姦事件は起こる。現代の米軍の事件は追及するのに、日本人は米軍によって行われた過去の事件は追求しないで忘れる。大東亜戦争のときの日本軍は残虐で米軍は人道的、戦後になると米軍は非道というイデオロギーがまかり通っているのだ。全てのできごとがこの基準で判断される。

 沖縄の米軍が強く非難されているのは単に現在起きたできごとだからではない。なにせ本多勝一氏などは著書で、侵略軍は残虐行為をし侵略された側は残虐なことをしないとのたまうのだ。これで大東亜戦争はアメリカは侵略された側で、戦後は侵略する側になったと言うわけだ。

 だから北ベトナムは残虐行為をせず、米軍は残虐行為をするというわけだ。考えてみればこれはおかしいのだ。侵略された側は侵略に対する憤りから、侵略軍に対して残虐な復讐をするというのは心理的に見れば仕方ないことである。本多氏の見解は侵略された側は、侵略した兵士に何をしても残虐行為とはならないという恐ろしいことを言っている。これは国際法の戦時法規を無視する無法な発想である。

 南京事件なるものがなかったというもうひとつの根拠は、戦後の中共政府の行為をみればわかるということである。現在人殺しをしたばかりの殺人犯が、自分の犯罪を棚に上げて過去に家族を殺されたことがあると言うことを声高に言うとしたら、第三者はどう思うだろうか。

 毛沢東など中共指導者は建国前も含めて、何千万の人たちを殺している。今日本軍の行為を批判する中共政府はこのことには一切触れない。そして日本人に対してはすぐに国民感情が許さないとあたかも国民の声を代弁したかのように言う。しかし中共指導者にはるかに多数を殺された中共の国民の遺族には政府を恨む感情はないのであろうか。

 チベットで中共は何をしたか。「中国はいかにチベットを侵略したか」(講談社インターナショナル)には、中共がチベットを侵略した際にいかに民衆に残虐な行為をしたか赤裸裸につづられている。聞くに耐えない強姦や残虐非道な殺害など、ここに書くに忍びない。今はチベット人は中共の国民となった。その中共が国民を代弁して日本軍の残虐行為を非難すると言うのである。これらの非道な行為は日本軍の「侵略」が終えた後に行われた。前ではない。なぜ非道な行為を非難する者がその後非道な行為をするのであろうか。その言嘘と言わざるを得ないのである。

 そもそも国民を大量虐殺して平然としている中共指導者に国民を守ろうと言う感情はないのである。国民を守ろうと言う感情のない指導者が、国民のために日本を非難するはずはない。毛沢東は日本の「侵略」を非難しはしなかった。江沢民は非難し続けた。

 要するに彼らの非難は政治の一環に過ぎない。戦前の中華民国は国際連盟にささいな日本軍の誤爆などはまめに抗議するのに、南京で国民が虐殺などをしたなどとは一度も抗議したことはなかった。しかし国民政府にたのまれて捏造された数万という不法殺害があったという西洋人の著書を基に、東京裁判で二十万人という虐殺事件がでっち上げられた。ニュルンベルグ裁判でナチスのホロコーストを裁いた連合国は、日本にも人道を非難するネタが欲しかったのである。要するに南京大虐殺なるものは政治的に作られ、今も政治的に利用されているのである。

いわゆる「南京事件」について2
 諸君(平成19年3月号)の対談で元防衛庁長官の石破茂氏が次のように語った。

 「南京大虐殺はでっち上げ」「三十万人も殺していない」という論争をよく見かけますが、たとえ百人の虐殺であっても虐殺に変わりはないわけですし、・・・

 こういう言い方をする人は多い。そして一見正当な論理に聞こえる。だが三十万人でも百人でも変わりはないというのはあまりに粗雑である。確かに通州事件は日本の民間人二百人が虐殺された事件である。三十万人殺されていないにもかかわらず、歴史的虐殺事件として記録されている。

 それは数の問題ではない。まず無抵抗の民間の老若男女全員を軍隊が計画的に殺害したことである。民間人をしかも全員殺したこと、しかも計画的であったことが特徴である。さらにここには書き得ないような猟奇的殺人が行われたことである。これらの多数の要素の複合で歴史的事件として記録されることになったのである。

 南京攻略における不法殺害はこのような要素はない。前項で述べたように通常の大都市攻略の戦闘で不可避的、偶発的に発生する不法殺害としても小規模なものである。異常な事件でなければ規模が小さいかどうか、あるいはそこにいた人の数に対して殺された者の数の比率が高いかどうかということは、歴史的事件となりうるか否かの判断を左右する重要な要素である。猟奇的方法でなく銃撃したにしても、そこにいた人のほとんどを不法に殺したとすればそれは歴史的事件である。

 繰り返し使う不法殺害とは、捕虜を殺すなどの戦時法規違反のことである。別なところで説明したが投降しようとして白旗をあげた兵士を射殺したところで戦時法規違反ではない。まだ捕虜になってはいないからである。兵士と一緒に行動していた民間人をついでに射殺したとしても必ずしも戦時法規違反ではない。どんな必然性があっても戦場にいるのが悪いのである。

 「南京大虐殺」では「百人斬り」事件が代表として追及される。だがこれは戦闘中に支那兵を百人斬ったかどうかという話であって、もし事実であっても不法殺害ではない。猟奇的殺人でもない。白兵戦ではどの国の軍隊でも銃剣による刺殺が行われる。銃ではなく剣を使ったから不法とはされない。そもそも「南京大虐殺」の代表としてこの事件を持ち出すこと自体が猟奇的殺人がなかった証拠である。

 しかも非戦闘員はほとんどが安全区に非難していたから、間違えて戦闘地域に迷ってしまった人が偶発的に攻撃される場合しか民間人の被害はあり得ない。他は軍服を脱いで民間人の衣服を奪って安全区に紛れ込んだ支那兵が摘発されて殺された場合がほとんどである。これは万単位に上るものと推定されている。

 しかし戦闘中に民間人に成りすましたものは捕虜となる資格がないから、発見され次第殺されるのは戦争の論理からは合法的行為である。よくこのような人を裁判せずに処刑したから不法だと説明する人がいるが、これは処刑ではない。裁判して殺すから処刑なのである。便衣兵殺害を合法と主張する人にも「処刑」という言葉を使うから混乱する。

 戦闘中に民間人になりすました者を殺すのは戦闘行為であって処刑ではない。隠れている兵士を射殺するのが処刑ではなく戦闘であるのと同然である。平和時の論理からすれば残酷に聞こえるが、民間人になりすましてもいつ隠した武器で反撃するかも知れないのである。命のやりとりをしているのである。

 現に彼らは安全区に大量の武器弾薬を隠しているのが発見されている。戦闘を放棄していないと解釈されるのである。日本軍の行為に誤認によるものがが皆無とは言わない。しかし限りなく零に近いのである。日本軍の南京攻略は整然と行われた。

 従って、無防備都市を宣言していない都市の攻略、すなわち都市が戦場となってしまった場合の多くの事例に比べればはるかに合法的に攻略は行われた。石破氏の主張はあまりに粗雑である。第一虐殺とは何かすら問わず、虐殺があったということを自明のこととして、数の問題ではないと主張する。有力な保守と看做される石破氏がこれでは情けない。

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