映画評論

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出口のない海 ダイバー キリングフィールド ヒトラー プライベートライアン 硫黄島からの手紙 太陽




映画評論・地獄の戦場

 このDVDはたまたま、ホームセンターで100円(!)で買ったものである。お断りしておくが、以前ある「映画評論」をしたら、ある方から映画評論になっていない、と厳しいコメントをいただいた。そうであろう。小生は映画について語るのに、映画をあたかもノンフィクションのように、歴史や民族性の反映を読み取ろうとする、という悪癖を持っているからである。そのことを前提に読んでいただければ幸いである。なお、その方からは、映画評論以外については過分な評価をいただいたことも付言する。

 昭和二十五年即ち、戦後間もなく作られた米国映画だから、戦時の気分が判っていた世代が作った映画であろう。半世紀近く前の映画ながら、「総天然色」で平成の初めの頃のビデオより、余程画質が良いのには驚かされる。

 海兵隊の物語で、ガダルカナル、タラワを戦ってきたというし、日本軍のロケット攻撃の偵察任務がテーマだから、硫黄島攻防戦をイメージしていると推察する。日本軍は上陸中の米軍を攻撃せず、上陸部隊をひきつけて戦闘開始していることからも間違いないだろう。


 上陸前の指揮官の以下のような全軍への訓示が興味深い。字幕と直訳が著しく異なるところは両方記載した。

 字幕:今までは殺すように指示してきた。

 英語の直訳:我々は死んだジャップは良いジャップと言ってきた。

 字幕直訳とも:捕虜獲得作戦に変更する。

 字幕:敵兵から情報を聞き出せ。

 英語の直訳:話の出来るジャップは良いジャップ。(Jap's who tells things good Jap)

 字幕直訳とも:これは命令だ。チャンスがあれば必ず敵兵を捕らえて来い。


 という次第である。いままで、死んだインディアンは良いインディアン、というスラングを小生は「良いインディアンは皆死んでしまって、ろくでなししか生き残っていない」と解釈してきたが、この字幕が正しければ、誤解していたのだ。本当は「インディアンは皆殺しにしろ」という意味だったのかもしれない。

 海兵隊の指揮官やその他のいくつかの証言で、米海兵隊は捕虜を取らない方針、すなわち日本兵は皆殺しにしろと命令されていた、と言われていたが、この映画はそれを公言しているのである。


 最後の場面である。主人公の偵察隊長は、7人の部下のうち4人が戦死、1人が失明の重傷と悲嘆にくれる。そして、戦死した作家だった衛生兵が書きかけたメモを部下が発見して、偵察隊長に読んで、最後まで完成させるように言うが、隊長はメモを捨ててしまったので部下が皆に読んで聞かせる。字幕は聖書風にうまく訳しているのでそのまま書いた。以下の通り。

 私たちは自問する「なぜ生きる者と死ぬ者がいるのか」

 答えは「神なる存在にある。生かされるには理由があるのだ。」

その理由を考えてみよう。

戦争体験者として、世界の人々に、語り継ぐ使命がある。

戦争は人類にとって脅威だと。

失った者を心に刻むんだ。

国が弱ると命が奪われる。我々は世界の一部だと自覚しよう。

弱ければ万人が弱る。自由を失えば世界も失う。

海兵隊B中隊はここに誓う。

祖国に帰れた者は苦しみを忘れず、国に力と勇気と知恵を与えるのだ。

恐れることはない。我々のそばに神はいる。

私たちは・・・。(We must・・・.)


メモはここで終わっている。書き終える前に戦史したのだ。すると主人公の偵察隊長がメモの残りのようにつぶやく。

 わが父よ。御名が聖とされますように。御国(Heaven)が来ますように。

 みこころが天と地で行われますように。

 日ごとの糧を今日もお与えください。

 罪をお許しください。私たちも人を許します。

 試みに会わせずに、悪からお救いください。

 国の力と栄光は限りなくあなたのものです。


 私人公の言葉はここで終わり、全軍の進撃で映画は終わる。この映画は、この言葉を語るために作られたように思われる。この一連の聖書のような言葉を何と評してよいか小生には分からない。ただこの言葉は、米国の栄光の絶頂期のものであるとともに、クリスチャンの米国人の典型的発想であろうことだけを申し添える。




映画評・集団左遷

 テレビドラマ評であるが、評論に便乗して政治風刺をするので、全くドラマ評にはなっていないことをお断りしておく。このドラマは比較的人気が高かったのに、何となく福山雅治のかっこ良過ぎで、見るのに抵抗があり、ようやく途中から見始めて面白いと思ったのである。

 三上博史演じる横山が、銀行の経営改善のために、外資系会社との提携を画策し、国会議員に賄賂を贈り実現直前にまでにこぎつけ、副頭取に就任しようとする。福山演ずる片岡は、横山の副頭取就任を阻止するため、銀行の裏金の受け取りリストを入手するのだが、役員会で公表するとリストから横山の名前が消えていて、片岡は失敗した。事前に頭取にリストを見せたものだから、頭取は外資系会社との提携の方が社のためになると判断して、もみ消したのだ。

 次に片岡は、同期の梅原から政治献金の証拠の手帖を入手し、マスコミに告発しようとする。しかし横山から、社内改革をするなら会社を立て直すことが必要で、政治献金は必要悪だと言われる。片岡は告発を共謀した真山の出向を取消すことと、片岡を新プロジェクトメンバーに入れて、今後出世し、横山と同じ土俵に立って社内改革をすべきではないか、と説得され、告発断念に傾く。これは少々の不正は目をつぶらなければならない、現実社会では、間違っているとは断言できない。この場面が現実味を帯びる所以である。

 しかし、不正を温存したままでの社内改革は意味がないから、俺たちの世代で断ち切ろう、と真山が片岡を説得した。社会正義あっての社内改革でなければ、お客様にも後輩行員にも申し訳ないではないか、という真山の熱誠に片岡は決断する。不正阻止一直線だった片岡が、最後に人参をぶら下げられて、心が揺れるとところが最後の見所だった。政治疑惑がマスコミに告発されて以降は、お決まりのハッピーエンドである。

 小生は社会人になって長いから、官庁でも民間でも、少々の裏があることは想像できる。このドラマにあったような不正行為や隠ぺいは、数限りなくあるのかも知れないのである。それに直面しなかった小生は幸運であったのに過ぎない。というよりは、そんな場面に出会うような地位にまで登らなかったのかもしれないのである。

 しかし、これから言いたいのは、どこにでもあって良いような些末なことではない。この番組の描いた不正は、会社の提携に関して、賄賂をもらった政治家の介入である。このようなことは一般的に、自民党の政治家がする、とイメージされるであろう。実際に諸外国よりは比較的清廉であるとされる日本の政治家は、自民党に限らずこの程度のことはしているだろうと、多くの国民は思っている。

 否、政治献金を受けて口利きをすることは違法ではないのである。現に石破議員らは獣医師界から献金を受けて、加計学園等の獣医学部の新設反対工作を続けたが、合法的活動である限り問題はないのである。

 小生が感じたのはこのようなことではなく、日本の崩壊を企てる勢力や裏社会との、政治家の危険な癒着である。このようなものは、片岡のような一直線の正義では解決のつかない問題である。しかも「大企業との癒着」ではないために、この手の政治家はむしろ清廉な人士として評価されているから恐ろしいのである。しかも、大手マスコミは、知っていながらむしろ問題にしないのであろう。二人例示する。

 一人は立憲民主党の枝野党首である。令和元年6月20日の産経新聞の「阿比留瑠比の極限御免」に大方次のように書かれている。平成23年自民党の平沢勝栄氏が当時の枝野官房長官に、極左暴力集団、革マル派に影響力を受ける浸透を受けていて、JR東労組からも献金やパーティー券購入を受けている、と指摘した。枝野氏は、そうした浸透をしている勢力の影響を受けないように留意していることと、献金などは合法的に処理していると答弁した。これは、はぐらかし答弁の典型である。スキャンダルとはならず、それでことはお終いとなった。

 JR東労組は「暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史」に書かれるような危ない面を秘めた組織なのである。枝野氏は、日本の暴力革命を企図する革マル派や、国鉄を悪くしようとしたと公言した組合の系譜の労組と癒着し、献金までもらっていたというのである。これほど危険な政治家がどこにいようか。極論を言えば、日本国を破壊しかねない組織との癒着に比べれば、賄賂をもらって会社の便宜を図る政治家など可愛いものである。そもそも議会制民主主義の否定に等しいのだから。

 多くの国民は労働組合と言えば、労働者の権利を守る良心的組織だと思っている。ところが一部の左翼組織化された労働組合はそうではなく、労働者を左翼運動に利用しているだけである。小生はその暗部を少しだけ垣間見たことがあるから体感している。

 次は辻元清美氏である。今裁判で係争中の小川榮太郎氏の「森友・加計事件」朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪、に次のようなことが書かれている。

 「辻元疑惑(P100)」である。森友事件の例の籠池淳子氏は「辻元清美議員が幼稚園に侵入しかけ、私達を怒らせようとしました嘘の証言をした男は辻元と仲良しの関西生コンの人間でした・・・作業員が辻元清美が潜らせた関西なんとか連合に入っている人間らしいです。」と言ったというのだ。

 そして小川氏は「民進党は、辻元は幼稚園の敷地に近づきもしていないと説明したが、実際にはこの日、辻元は視察団の一人として幼稚園の敷地に入っており、本人も認めている。民進党の抗議は虚偽だったのである。」これらを総合すると、辻元清美議員は「関西生コン」とは関係が深いようである。それでは関西生コンとは何か。

 ジャーナリストの須田慎一郎氏のニッポン放送での解説が、インターネットに出ている。それによれば、関西生コン事件があった。平成30年8月、滋賀県内の倉庫建設工事を巡る恐喝未遂事件で関西生コンのドンが逮捕された。ドンとは武健一氏である。正式な名称は「全国建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部」だそうである。この逮捕は大阪府の公安が行い、強制捜査には四府県警察が動いていた、というのである。

 関連業者に組合に入ることを強要し、入ると上納金を納めさせ、うちから生コンを買えと脅す、組合を名乗っているが、実態上は暴力団組織と変わらない、というのである。辻元氏はボスの武健一と個人的に仲が良いばかりか、政治献金まで受け取っている、というのである。このような人物が清廉潔白を装ってきれいごとを言い、政府を追及している。

 日本の世も末ではないか。「集団左遷」で社内での立場も顧みず、勇気ある告発をした片岡とその仲間たちの勇気は是とする。見ごたえのあるドラマであった。しかし、テレビドラマのみならず日本のジャーナリズムは、例示した枝野氏や辻元氏のような日本の暗部には触れようとはしない。

 日本の大手ジャーナリズムはことあるごとに、反権力を標榜し、自民党政権を追及する。しかし、日本は三権分立の国である。野党議員と雖も、三権のうちの立法権者である。権力者なのである。彼らは権力に対峙して、国民の側にいると見せかけて、実は絶大な権力をふるうのである。それも危険な暴力集団や、反社会的勢力と関係がある。日本の議会制民主主義の危険は、単なる政治家の賄賂汚職にとどまらないであろうことを、人気ドラマ「集団左遷」から思いを巡らせた次第である。




映画評論・ソルジャー

 近未来の話であろう。映画で想定した軍隊は、米陸軍なのか、海兵隊なのか分からない。とにかく、強い歩兵を作る為に、才能のありそうな子供たちを集めて、大人になるまで激しい訓練を行う。そのために落命する子供たちがいる位である。それとは別に、遺伝子操作で優秀な歩兵を人工的に作り出す、ニューソルジャープロジェクト行われている。当然のことながら、ニューソルジャーの方が強い。

 兵頭二十八氏の説だと思うが、海兵隊は日露戦争などでの日本陸軍歩兵の強さに驚嘆した米軍が、日本軍歩兵を目標に訓練して造り上げたものだという。とすれば「ソルジャー」とは日本軍歩兵を模範として徹底したものだと言える。特に遺伝子操作で作ったニューソルジャーは、それを米国らしい科学的合理性で徹底したものであろう。

 主人公のソルジャーと最強のニューソルジャーとが対決するところが、メインテーマになるのだが、小生は米国はまだ日本陸軍の強さに、潜在的な怖れを抱いているのだろう、ということの方に興味を持った。


 米国はベトナム戦争の凄惨なゲリラ戦で地上戦を恐れるようになったが、それも冷戦の勝利後の湾岸戦争である程度癒えたと思われるが、その時期の映画である。ヒットしなかったの原因のひとつは、やはり地上戦恐怖症は完全に克服されたのではなかったことであろうと思う。もし、ゲリラ的攻撃で、歩兵が一人また一人とじわじわ歩兵が戦死するイラク戦争の後なら、この映画は作られることはなかっただろう。



映画評論・バイオハザード ファイナル

 もちろんバイオハザードシリーズの完結編である。ストーリーを説明するつもりはない。画面に何回か出る、荒廃した大都市の風景には、どこか見覚えがある。そう、原爆などの米軍の無差別爆撃で焼け野原になった、日本の都市の風景の写真にそっくりなのである。

 猿の惑星の「猿」のモデルが実は日本人で、原作者は、大東亜戦争当時、東南アジアで日本軍に収容されていたピエール・ブールというフランス人である。ブールは、無力な白人たちと白人が開発したはずの兵器で白人を支配する猿たちの関係と、大東亜戦争で捕虜となった白人兵士と日本兵の関係にアナロジーを見たのである。

 小生も最初はそれに気付かなかった。何年かして、ようやくこのアナロジーに気づいた。知人に話してみたが、笑って取り合ってもらえなかった。その後、ある雑誌で、実は想像は正しかったばかりではなく、この映画が日本で公開される際に、米国人は日本人が、この映画を嫌って見に来ないのではないか、と恐れたという。しかし、ほとんどの日本人は気付かないどころか、ヒット作になった。

 ニューヨークにはハーレムという地区がある。その昔、アメリカ出張の際の休日の観光で、ハーレム見学とメトロポリタン美術館見学コースがあって、小生は後者を選んだのを一時後悔した。当時のハーレムは浮浪者などが占拠するひどく荒廃した地区で、一人で入ったら出てこられない、という話だった。

 観光もバスに乗ったままで、危険だから絶対外に出るな、という注意があった。テレビで見たハーレムの光景は、ハリウッド映画で見る核戦争などで荒廃した街とそっくりであった。これはハーレムをモデルにしたのだと勝手に想像している。それを実見しなかったのを後悔したのである。その後ハーレムは徹底的に治安改善が行われ、普通の街になったそうである。

 これらは、フィクションであっても、実体験や見聞が映画などの元になることがありがちだ、という見本である。バイオハザードで見る、ウィルスの被害で荒廃した光景は、米軍の無差別爆撃で破壊し尽された日本の都市がモデルに違いないと思う。そればかりではない。ぞろぞろと行進する「アンデッド」の群れは、空襲で焼かれた日本の民衆の死体がモデルであろうと邪推する。

 東京都内では、空襲で焼けただれた民衆が、灼熱に水を求めて隅田川や旧中川などに飛び込んで折り重なって死んでいった、と聞く。アンデッドにはそのイメージがあるのではないか。アメリカ人が日本の無札別爆撃を表向き、いかに正当化しようとも、意識の下では罪悪感があるのだと思う。



戦火の馬

 第一次大戦に軍馬として使われた英国の馬の話である。原題はWar horseというのだから、直訳すれば、軍馬というのになるので、味気ないから工夫したのだろうが、最近のようにウォー・ホースなどと直訳されるより、よほど気が利いている。監督はかのスティーブン・スピルバーグである。昔、「激突」というスピルバーグの映画があったが、ストーリーは全く異なるものの、同様にスピルバーグらしい、味わいある映画になっている。

 元々原作に人気があるらしく、スピルバーグの目の付け所が良かったというところであろう。ろくに金もない父が、高値で馬を競売で落札したので、農耕馬として育てると言った、息子アルバートは馬にジョーイと言う名をつけて訓練した。ところが、英軍騎兵に目をつけられて、軍馬として買われることになった。

 そこからジョーイの運命の変遷が始まる。ドイツ軍に引き取られたり、少女に飼われたり、気性の激しい馬との友情が芽生えたり、ジョーイの生活は次々と変わる。数々の戦場を駆け抜けたジョーイは、終戦とともに結局少女の祖父に競売で落札されたが、彼の好意でアルバートのもとに戻った、というハッピーエンドの物語である。馬は多くの苦労をしたので、ハッピーエンドは有難い。

 何故かジョーイに出会った青年たちはジョーイに惹かれ、一種の友情が芽生える。ジョーイを象徴するのは、最初にアルバートにつけられた赤白の三角布である。日本でも馬と人間との情愛は知られている。西洋人にも同様な感情があるのだと実感させられた。靖国神社にも戦火に倒れた軍馬を象徴するブロンズ像が飾られている。

 馬は犬以上に人間になつき、時には死を賭して働くそうである。小生の家は農家だったから、小学生の途中まで農耕馬がいた。馬を扱ったことはないが、副収入を稼ぐため、山羊や牛も飼っていた。山羊や牛を放牧の為に連れ出すのだが、強情で素直について来ないので、苦労した覚えがあるが、馬はそんなことはなかったろうと思う。

 だから牛が食用として売られていくときに、何の感傷もなかった。だが馬が売られていった時のことは鮮明に覚えている。当時最新の耕耘機を買ったので、馬がいらなくなったのだ。夜、裸電球で照らされた下で祖父が、最後の餌として、桶に切った干し草や、糠を入れて水でこねたのだ。

 電球に照らされた馬の、パッチリした大きな目は、潤んでいたが悲しかった訳ではあるまい。今でも馬を見ると、目が気になる。当時は珍しい、競馬馬を運ぶような箱形のトラックに乗せられて行ってしまった。馬は若くはなかったので、どうなったか見当もつかない。悲しかったかどうか記憶はないが、その時の光景は、よく覚えている。



SF映画「黒い絨毯」・・・支那人は黒蟻の大群

 随分昔の映画である。主演のチャールトン・ヘストンが若い。実はある本で、この映画に出てくる黒い絨毯、こと、人食い蟻は中共軍兵士を表わしているのだ、と読んで、ビデオ店で購入した。要するに猿の惑星が、日本人を模したのと同じ手の映画である。

 製作が1954年だから、朝鮮戦争で米軍が闘った直後で、殺せども殺せども湧いてくるように襲ってくる支那兵を、何十キロにも及ぶ人食い蟻の大群に見立てた、ということだろう。犠牲をいとわない人海戦術に対する米国人の恐怖を表わしている、のであろう。

 ただし映画は、手紙のやり取りだけで決めた見合い結婚、というアメリカ映画らしくない話がスタートである。日本人移民の写真結婚を嫌ったアメリカ人らしくないのである。この美男美女が、最初は反発するのだが、時間をかけて次第に愛するようになって、共に襲ってくる毒蟻と闘う、といった話である。

 二人の心の駆け引きが長く、蟻との戦いは付け足し、としか思われない。猿の惑星は、いかにも戦時中の日本人を皮肉った、というのが前面に出ているのとは、やはり違う。しかし、いずれも主演がチャールトンヘストン、というのは偶然ではあるまい。それにしても、古い映画でDVDで再販されているのだから、二人の主人公の描き方が良かった、ということなのだろう。画面も綺麗だから、支那兵云々、ということを忘れて見た方が良い。



太陽


 ロシア人の作った天皇の物語だと言うので、期待というより興味を持って見ました。一言で言えば昭和天皇のパロディー、すなわち戯画です。しかしパロディーであることは日本人の反発をかうと考えたとみえて、ぎりぎりのところで巧妙に隠されています。その代表は昭和天皇が意味なく口をもごもごさせる癖を頻繁に写すことです。

 実際にはこの癖は明らかに老人性のもので、終戦時四十歳前後であった昭和天皇が、あんなに不自然な癖があるはずはないのです。ところが一見して納得してしまうのは、ビデオ映像などが多く残されているのは、皇族が国民の前に露出する機会が増えたかなり最近のことだから、当然昭和天皇は高齢になって老人性の癖の印象が残っているというわけである。だから昔はあの癖はなかったと一般国民には断言できないから、インチキだと抗議もできないという仕組みである。

パロディーだと言う証拠を列挙してみよう。マッカーサー元帥はパイプをくわえた写真でも分かるように、見てくれを気にするハンサムな男である。ところがマッカーサー役の男優は、ハンサムと言えないこともないが、極端におでこの広い奇妙な風采の男である。

 御前会議とおぼしき会議で、陸軍大臣と思われる男が、ドイツ軍用犬による自爆作戦を行って戦局回復するなどと発言する。ドイツと提携していたのは事実であるが、そのようなことは計画されたことすらない。当時最後の作戦として行われたのは特攻隊だから、特攻隊の作戦を犬にもじったのであろう。

 つまり特攻隊員の死を「犬死に」であると言ったのである。この解釈は考え過ぎではない。ソ連時代言論弾圧に苦しんだロシア人は、本音をアネクドートという小話に託して、本音を口述で流布した。こんなのを覚えている。当時の最高指導者、ブレジネフ書記長夫婦の会話。国民が外国に移住して、人口減に悩まされている書記長「このままでは俺達二人しか残らなくなってしまう」。夫人の返事「それは間違いよ、一人しか残らないもの」。というわけである。

 マッカーサーに会ったとき、天皇が「自分はどうなってもかまわないから国民を助けてくれ」と言ったのは事実として知られている。これを正確に言わずに、翻訳でかろうじて「慈悲はこわない」などと訳させている。これでは一身を犠牲にしても国民を助けようとした昭和天皇の気持ちは分からない。

 このエピソードは重要なことだから、不正確に再現するのはおかしいのである。そして全くエピソードを紹介しないわけではないという巧妙な表現となっている。戦争中はヒトラーに似せたヘアスタイルをさせ、戦後はこれを直す。また天皇はチャップリンに似ている、などと言わせるのと合わせると底には天皇に対する悪意がある。ひげがあるのでチャップリンに似ていると言えないことも無い。

 しかし当時チャップリンが有名だったのはヒトラーのパロディーをやってナチス批判をしていたからである。つまり言外に天皇は日本のヒトラーつまり悪人だと言いたいのである。ナポレオンなどのいくつかのフィギュアを持っているが、そのうちナポレオンのものを戦後は隠し、ワシントンのものに変えている。これは好戦的なイメージからアメリカに迎合するように変更したという意味ばかりではない。

 昭和47年前後に発表された「天皇の陰謀」というアメリカ人デビッド・バーガミニの昭和天皇糾弾の小説の中の、昭和天皇が戦争中はナポレオン(だったと思う)の肖像画を自室に飾っていた天皇が、敗戦になるとワシントンだかリンカーンに変更して米国に迎合したという信憑性の無いエピソードのパクリであろう。

 天皇とマッカーサーが並んで写真を撮って新聞に載せたと言うのは、米国が天皇を貶めようとしたという意味で有名なエピソードであるが、これを単に写真撮影の予定をしていたのに天皇が偶然カメラマンたちの前に現れて写真をとられたというように戯画化されている。そして新聞に載ったということは少しも紹介されない。つまりノンフィクションに見せたフィクションなのである。

 昭和天皇がマッカーサーにもらったチョコレートを侍従に配るが、食べている途中に「チョコレートおしまい」と天皇が手を打つところは、お笑いとしてのイッセー尾形の地でやらせている。これなどは天皇を喜劇役者に仕立てたのである。また侍従を天皇が「ご老人」と呼びかけるのも同様である。しかも軽蔑調で言わせている。ご老人と呼ぶはずがないのである。イッセー尾形氏は、天皇陛下を愚かに見せる演技をしていて恥ずかしくないのだろうか。

 これらの例を見れば分かるように、事実を決して正確に再現しようとせず、しかも全く無い話は少ないと言うように、パロディーにしてしまいながら、巧妙にそれを隠蔽すると言う手法がとられている。ロシア革命でニコライ皇帝を一家もろとも惨殺して、尊敬すべき伝統を失ったロシア人の精神の、荒涼と高貴な精神の欠如を想起させる。そして俳優は日本人でありながら、うかうかとそれに乗ってしまう俳優の貧しさ、誇りのなさを感じたのは貴重である。多くの日本人俳優は、日本を貶める意図があっても外国映画に出ることを名誉に感じる風潮があるように思われる。国際俳優と言う訳である。

 戦前なら、不敬罪で逮捕される、と言ったら、とんでもないことを言うと言われかねない。映画の製作者は、そうした日本人の感情を逆手にとって日本人に文句を言わせないように仕掛けたのである。もし、天皇陛下以外の人がこのようにパロディーにされたら、名誉棄損で訴えることができる。戦前は不敬罪というのがあった、という事実が逆に作用して、名誉棄損で訴えることができないのである。



映画・エイセス・大空の誓い


 日本人への偏見に満ちた映画であることを、出演した千葉真一氏は気付いていたのだろうか。あらすじはこうである。日米英独の第二次大戦のエースパイロット四人が、アメリカ各地の航空ショウで演技を見せている。ある時そのうちの一人の知り合いが事件に巻き込まれて殺される。その結果最終的には、四人が悪人の操縦する飛行機と戦うことになる。

 戦う前夜、千葉扮する日本人はエースパイロットなどではないと三人に告白する。翌日の空中戦で日本人は仲間を助けるために、体当たり攻撃をして死亡するが、悪人たちはやっつけられる、という、ごく大雑把に言えばこんなものであろう。

 ここで日本人に対する西洋人の典型的な偏見が見られる、人を騙す卑劣なやつ、自殺攻撃も厭わない、ということである。人を騙す、というのは真珠湾の騙し打ちであり、自殺攻撃とは特攻隊である。もちろん映画では仲間が自殺攻撃をした日本人に敬意を払っている。だとしても嘘つきの汚名は消えないのである。

 タイトルはエイセス Aces つまり空中戦で5機以上撃墜したパイロットの事をいっている。千葉真一の扮した日本人はエースパイロットではないのだからタイトルのAcesには含まれていないのである。何とも意地の悪い映画ではないか。日本人パイロットが偽エースだと知った米国人観客は、日本人は真珠湾の騙し打ちをする奴らだからね、偽エースもいるさ、と語るであろう。このようにして日本人に対する偏見は地道に定着していくのである。



平成狸合戦ぽんぽこ

 かのスタジオジブリのアニメ作品である。恐ろしい場面があったので紹介する。もちろんストーリーはニュータウン開発に反対する狸の物語である。狸たちは工事を妨害するために、色々なものに化けて、資材などを運搬するトラックに事故を起こさせる。その結果運転手三人が死亡する。寺の住職の狸が犠牲者を悼むとして念仏を唱え始めると、初めは神妙にしていた狸たちは、笑いをこらえきれずに涙を流し笑いだし、皆ではしゃいで解散してしまう。


 恐ろしい場面ではなかろうか。いくら自然破壊の開発に反対すると言っても、庶民の代表の労働者を故意で事故死させたのを悼むどころか喜んでいるのだ。庶民でも権力に使われる者は殺されても仕方ない、という思想があろうかと疑う。これを見たとき同じような場面のコミックを思い出した。

 作者は「夏子の酒」の作者であると言えば分かるだろう。「ぼくの村の話」という成田闘争をモデルにしたコミックである。反対派に襲われた三人の若い機動隊員が殺される。これは事実である。一方で反対派の若者が続く闘争を苦に自殺する。不可解なのは、青年の自殺については細かく描くのに、殺された3人については事実関係しか描かない。

 著者の心持ちには殺された機動隊員を悼む気持ちがないようにしか読めない。機動隊員殺害は成田闘争で本当にあった話で、事実は、計画的に待ち伏せされ残虐なやり方で殺されたのである。そうして当たり前だが若い機動隊員にも死を悲しむ親族はいたのである。平成狸合戦ぽんぽこの一場面の違和感と恐怖感で、このコミックを思い出した。日本人は敵対した勢力でも、死んでしまった者については敵味方の差別はせずに悼む崇高な本能がある。その本能が失われた日本人の偶然ではない発生に日本人の変質を感じて恐怖した次第である。



山本五十六

 平成24年に作られたものだが、よいしょ山本五十六とも言うべき映画である。半藤一利氏が監修したと言うから当然であろう。脇役に玉木宏演ずる今風の正義感あふれる新聞記者と香川照之演ずる、軍国主義迎合の御用記者風の上司が重要な脇役になっている。ところが小生には、御用記者の言動はまっとうに聞こえるし、当時のアメリカの新聞の論調も御用新聞、よく言えば御国に忠節であると言う点では全く同じであった。今の中共のマスコミが、政府の飼い犬であるというのは全然意味が違うのである。だから意図せずにこの映画は国策と言論のあるべき正しい姿と、それに見合っていた当時の言論を反映している。

 だが最後に、香川の記者がゲラ刷りの民主という文字を指して、これを最大限大きくしろ、と指示しているのは元軍国記者が平然と戦後の風潮に染まったことを揶揄している。この記者は信念も何もなく常に時流に迎合しているとでも言いたいのである。これは嘘である。朝日新聞は米軍に占領された後も原爆投下批判するなど、戦中と論調は変化しなかった。だから昭和20年9月にはGHQにより二日間の発効停止を受けた。これに畏怖した日本の全新聞は一斉にGHQに迎合する論調に転じた。香川の記者の転向には理由があったのである。占領中の日本には言論の自由もなく、従って民主主義もなかったのである。GHQの検閲は現在の中共政府より巧妙かつ徹底している。GHQによる過酷な検閲や発行停止という言論弾圧を描かずに、記者の転向を揶揄するのは嘘をつくのに等しい。

 ミッドウェー海戦で、山本の座乗する旗艦が空母の存在の可能性があるとの受電をしたときに、山本が南雲艦隊に打電しようか、と下問すると幕僚が南雲艦隊も受電しているはずだし、無線封止を解くと攻撃を受ける恐れがあると言われて断念する。敵空母せん滅を企図しているのならとんでもない話である。第一山本の座乗する旗艦は南雲艦隊より五百キロも離れていて、電波を探知されても攻撃される恐れはない。多くの最高指揮官のように山本が最前線で指揮をとっていたのなら、無線を使わなくても艦載機を飛ばし南雲に連絡は可能だったのである。山本が艦隊指揮にいつも後方の安全圏にいたのは、当時の通信レベルからして指揮官失格である。日本海海戦の東郷元帥が旗艦に座乗して自ら指揮をとったのとは違い、山本は、指揮する艦隊が交戦中に指揮もとらず、戦況も確認せずに、はるかかなたの戦艦の中で将棋を指していたのだから話にはならない。

 ガダルカナル攻防の後山本は、マリアナまで戦線を縮小したと言うが、そもそも大本営の方針に反してミッドウェー攻略にまで際限なく戦線を拡大したのは、真珠湾攻撃の成功で夜郎自大になった山本率いる連合艦隊である。しかも捨石だと言ってラバウル攻撃隊を残置して、撤退ではないと言い張つたとこの映画では描いている。その結果、多くのベテランパイロットを損耗すると言う愚を演じている。

 この映画では山本が反戦平和主義だったことになっているが、事実に反する。山本は、軍縮条約交渉に派遣されると、財政のひっ迫を訴える大蔵省の賀屋興宣をぶん殴ってやる鉄拳を振るうと恫喝している。対米戦を企画して艦隊予算を取ろうとしていた海軍は親ソ反米であった。だから独ソ不可侵条約が締結されると、一転して日独伊三国同盟賛成に転じた。独ソが敵対関係でなくなれば、ドイツと組むことはソ連とも組むことになる。だからその後ドイツがソ連に侵攻すると日ソ中立条約が結ばれたことは、海軍にとって対米戦の旗印を降ろさないのには都合がいい。

日本がドイツと軍事同盟を結んだまま、ドイツがソ連と戦えば、日本は対ソ戦を優先しなければならないからである。三国同盟締結の時点で山本が反対した形跡はない。海軍が三国同盟に反対したのは、ドイツとの提携による対ソ戦の可能性が高まれば対米戦備の必要性が薄れるからで、独ソ提携によりその懸念がなくなったからである。海軍は艦隊予算が欲しかったのに過ぎない。山本が航空戦備を重視したのも対米戦のためであることは、別項でも論じた。航空戦備の充実で山本は対米戦への自信を得たのである。

 山本の最期の描き方は実に奇妙なものである。P−38に襲われた陸攻で山本の隣にいた参謀は機銃弾で全身を撃たれて戦死した。一方山本五十六は硬直したように前方を凝視したまま動かない。あたかも既に死んだかのようである。ところが、山本は出血も何もない。実に奇怪な最期である。以前の定説では山本は機銃弾で機上戦死したことになっている。多くの本では頭部や体に銃弾を受けたことになっているが、明らかな嘘である。頭部に機銃弾を受けたはずの山本は墜落後端然として椅子に座っていたと言う。だがP−38の12.7mm機銃弾が頭部に当たっていたら粉々に飛び散って首なし死体になっているはずだからである。

 ところが1986年に出された「山本五十六の最期」では、検視の調書を見た医師は、山本が墜落後かなり長時間生存していたのだと判定した。その上着衣にはほとんど血痕が見られないと言うのだ。その後出版された「山本五十六自決セリ」では、山本は生きていたどころか拳銃で自決したと言うのだ。山本シンパのこの映画の脚本家は、海軍が機上戦死に偽装したように機上戦死説にしたかったのだ。二冊の本が機銃弾を受けなかったことを論証していることを無視はできなかった。従って何が原因かもわからず、あたかも空中で戦死したような奇怪な最期にしたのである。


○スリーハンドレッド・批評その3


 この方面の歴史に詳しくはないが、ギリシア対ペルシアのテルモピレーの戦いを描いたものだそうである。注目されるのは、映画の内容そのものよりも、その背景である。戦いは、ペルシア帝国とギリシアのスパルタとの戦いである。ペルシア帝国と言えば、現在のイランやアフガニスタン、トルコと言った地域である。現在もこれらの地域の住人はペルシア帝国の末裔を持って任じている。

 一方でアメリカ人はギリシア人の末裔ではない。しかし、この映画では、わずか3百人で、百万のペルシアの大軍と戦争するに当たって、王レオニダスなどに何回か「自由のため」と言う戦争の意義を語らせている。すなわち、自由のための戦争、と言うのは現在までのアメリカが掲げている戦争の大義である。実際に国王が自由のため、と言ったかは知らない。映画は、自由を戦争の大義に掲げることによってギリシア人をアメリカ人に擬しているのである。

 このような事はアメリカ人が古代ギリシアローマの戦争の歴史を映画にするときに、よく行われることである。例えば、ブラッド・ピット主演のトロイなどである。するとペルシア帝国とは何か。現在で言えば当然アメリカに敵対している、アフガンのゲリラやイランであろう。その事は作られた時期でも分かる。作られたのは2007年である。それ以前から現在に至るまで、旧ペルシア帝国領にいるイスラムのゲリラやイランの核開発はアメリカを悩ませている。

 北朝鮮の核開発疑惑より何よりも現在のアメリカを悩ませているのは、これら中東の地域である。9.11の自爆テロ、湾岸戦争、イラク戦争、アフガンでのテロリストの掃討作戦などがその象徴であろう。この映画は、アメリカはこれらの苦難を戦い抜く、という決意の表明でもあろう。もちろんこれは国策映画ではない。しかし国策映画ではない事自体が、民間にもそのような気分を受け入れる素地がある事を示していると言える。

ベトナム戦争の後には、戦争関連の映画と言えば、トム・クルーズ主演の「7月4日に生まれて」のような、反戦あるいは厭戦気分に満ちた映画ばかりだった。この映画のように、自由のためには命を賭けて戦うなどという映画はついぞ作られた事がない時期が長く続いた。アメリカはベトナム戦争の後遺症を脱却したように思われる。そのきっかけは湾岸戦争であると私は考えている。

湾岸戦争が始まったのは、ソ連の崩壊の直後であった。あるいは冷戦に勝利した事による自信の回復が、間接的にはアメリカが湾岸戦争に踏み切る事ができた理由のひとつであるかも知れない。日清日露の両戦争の指導者が幕末の戊辰戦争などの実戦に前線で戦った経験があったように、湾岸戦争の指揮官の父ブッシュは大東亜戦争にパイロットとして参戦している。このことも大統領の積極性に関連しているのかも知れない。

ちなみに父ブッシュはアベンジャー雷撃機に搭乗して日本軍に撃墜され、ようやく救出されるも同乗者を喪失している。他にもケネディーが魚雷艇の艇長として日本軍に撃沈されて、戦後も戦傷の後遺症に悩まされた。ジョンソン元大統領も太平洋戦線で爆撃機に搭乗し、撃墜王坂井三郎にあやうく発見され撃墜されそうになった経験がある。このように3人もの元アメリカ大統領が日本軍との戦いでからくも助かった経験がある。それに対して欧州戦線で際どい戦いを経験した元大統領はいないから、巷間言われているように、日本軍との戦いも楽ではなかったのである。

閑話休題。湾岸戦争はアメリカ得意の圧倒的な機械化兵力で、イラク軍を蹴散らしてしまった。この時の損害が僅かであった事が、アメリカの戦争に対する自信を回復させたのだろうと私は思っている。何よりも有力な兵器を惜しみなく使って兵士の損失を減らすと言うのが米軍のポリシーなのだから。それに引き換えベトナム戦争は敵地に進攻できないという足かせの元、ジャングルのゲリラ戦という白兵戦に頼らなければならない戦争に引き込まれてしまったのである。私はSFですらアメリカの戦争映画が、弾丸を惜しみなく打つのを見ると、日本軍にもこんなに豊富に弾薬があったら、と悔しい思いにかられる。


○スリーハンドレッド・批評その2
 映画スリーハンドレッドのスパルタ戦士は米軍のアナロジーだと前の批評で書いた。それはディティールでもいえる。むしろ史実として残されていないディティールを想像で描くからこそ、米軍の行動パターンのアナロジーが顕在化する。つまり映画の脚本家によるディティールは史実ではなく、脚本家自身の考え方そのものであるのだ。

 とりあえず戦闘が休止した場面で、スパルタ王レオニダスは敗れて転がっているペルシア兵に止めを刺すことを戦士に命じる。戦傷で苦悶するペルシア兵に次々に剣を突き立てて殺す。これは合理的ですらある。大東亜戦争の太平洋の島々の戦闘でも、米軍により同じことが行われた。戦争の常識として、戦死者1名に対して戦傷者は3名程度発生する。

 ところが日本軍の玉砕では千人の死者に対して数人しか生存しない。これは異常である。たとえバンザイ突撃して機関銃で掃射されても、被弾して戦闘不能になっても、その中で即死しているのはわずかなはずである。致命部分に弾丸を受ける確率は低いからである。まして怪我しても「人道的な米軍」が負傷した日本兵に戦闘後治療を施せば多くが生命だけは助かる。

 ところが太平洋の島々での戦闘では圧倒的多数の日本兵が死んでいる。とすれば米軍は、スパルタの兵士と同じく、戦傷した日本兵に止めを刺したのである。これは想像ではない。米軍、ことに海兵隊の指揮官は、日本軍の捕虜は取らないという方針を明言した記録がある。国際法では厳密には、敵兵は武装解除されて収容されてはじめて捕虜と認められる。だからレオニダスの行為も米軍の行為も、国際法違反かと言えばグレーゾーンになる。戦闘の継続として負傷者を刺殺したと言えなくもない。だが世間の常識では残虐行為である。

 人道的な米軍を信じさせられている現代日本人はおろかである。支那人やロシア人の残虐は常識である。だが米軍も、それよりまし、という程度である。スパルタの兵士の行為の詳細については米国人の想像におうものである。それは米国人のセンスが投影されている。だから戦傷した日本兵は米兵に虐殺されたのである。

○300

 
ギリシア遠征のペルシア軍に300人の精鋭兵士で迎撃するスパルタ王、レオニダスの絶望的な戦いの物語。例によってストーリーはさておく。ギリシアとペルシアの対比は何を意味するか。現代とのアナロジーがそこに隠されている。ギリシアとは西欧であり、ペルシアとは中東のイスラム諸国である。そしてペルシアを迎撃するギリシアの1国家スパルタとはアメリカに他ならない。すなわち現代のイスラム教徒のテロと闘うアメリカを表現している。

 これは考えすぎではない。王に援軍をと議会で演説する王妃は、自由と正義のためにと熱弁を振るう。これは現代アメリカの理想でもある。そして300人の軍団のなかで、王の命令で軍団の戦いを伝えるよう命令されて生還した一人の兵士は、神秘主義と暴君への戦いを民衆や兵士に語り続ける。

 アメリカもキリスト教国家が根底にあるが、表面的には理性化されて宗教は陰を潜めている。それに比べ宗教の教義が即法律であるイスラム国家は、日本や西欧諸国には神秘主義としかいいようがない。そしてフセインのような独裁者。イスラム諸国とは西洋人には神秘主義と暴力の支配する世界である。

 この映画は政府のプロパガンダではない。しかし民間でこのような映画が作られることは、国民は政府のイスラムとの戦いを支持していることを証明している。その象徴がこの映画である。硫黄島の戦いのアメリカ映画も現代アメリカの戦いを支持していることの証明である。硫黄島の戦いはアメリカにとって苦しい闘いであった。それを勝ち抜いたのは彼らの誇りである。その意気を現代に投影しているのである。ブラックホークダウン、プライベートライアンなども同様である。

 ギリシアは西欧諸国の前身ではない。DNAや文化において断絶がある。しかしルネサンス、文明復興といったように、西欧諸国はギリシア、ローマの末裔と嘘をついている。そこでギリシアより文明文化、あらゆる面ではるかに強大ですぐれたペルシア帝国を世界史の刺身のつまにし、弱小なギリシアを主人公にするというインチキを今もしている。

 そしてこの映画である。レオニダスらの最後の闘いは、明らかに勝つことを目的としていない。盾も兜も捨てて弓矢の前に身をさらして前進する。名誉ある戦死。それはアメリカとの日本軍の絶望的な闘いが背景にあるようにすら思われる。私は希望をつなぐ。この点において日本とアメリカには戦争観において、共通の価値観があるのではないかと。軍事同盟する共通の価値観があるのではないかと。

○沈黙の艦隊

 同名のコミックのアニメ化作品である。「沈黙の・・・」という枕言葉は、その後どういうわけか、スティーブン・セガール主演の映画で、沈黙の戦艦などのタイトルとして、次々に使われてポヒュラーになった。スティーブン・セガールは若かりし頃、10数年日本にいたので、日本語会話には不自由しない。テレビでかの評論家、淀川長冶と対談をしたことがある。関西にいたので、こてこての関西弁である。あのごつい身体して、そうですねんなどとおっしゃるのには、がっくり来た。そういえば淀長さんも関西人でした。

 閑話休題、沈黙の艦隊は、日本政府が極秘に原子力潜水艦シーバットをアメリカの協力により建造していたという話である。ところが、シーバットは艦長海江田以下、乗り組み員全員が反乱を起こす。シーバットは、やまと、と名乗り潜水艦が独立国家となるという荒唐無稽な話である。

 やまとは艦長海江田のマジックのような操艦により、やまと撃沈に駆けつけた、空母エンタープライズをやイージス艦を始めとする、米太平洋艦隊を一隻で全滅させてニューヨークに向かう。アニメとしての面白さは、海江田の奇跡的な操艦で一隻で多数の艦隊をきりきりまいさせるところにある。しかし作者のかわぐちかいじの本当の意図は、現在の日米同盟と、専守防衛の欺瞞を描き出すことにある。

 しかし、それは土台無理な試みである。日米同盟と専守防衛の欺瞞を描くには、日本罪悪史観から解き放たれていなければならない。しかし作者かわぐちはどっぷり、日本罪悪史観にひたっているのである。この点は現在、ビッグコミックオリジナルに連載中の、ジパングも同様である。

 かわぐちは、いわゆるガンマニア、つまり兵器オタクである。この点は平和主義を標榜する宮崎駿が筋金入りのガンマニアであるのと酷似している。かわぐちはそのなかでも、艦艇オタクである。だが専門外でも、メッサーシュミットとフォッケウルフを取り違えるとは情けない。

 かわぐちは艦船おたくとしては、想像力が欠如して物足りない。艦艇の描き方が実に精密なだけ、この点が浮き出る。かのシーバットは当時のアメリカの戦略原潜としても、旧式にぞくするもののコピーである。ジパングの護衛艦「みらい」も当時のイージス艦「こんごう」クラスの外観をコピーしている。私のような艦艇オタクではない者でも次に登場する護衛艦はステルスマストを装備することは、容易に予測できた。

○アラモ
 かの有名なアラモ砦の戦いである。映画の評価をさておき、歴史的にアラモ砦の闘いはひどいものである。映画でも紹介されたが、アラモ砦のあるテキサスは当時メキシコ領だった。そこにアメリカの開拓移民が入植して居座ったのである。メキシコの圧制がありメキシコ人自体にも反乱の機運があったというが、だからといって勝手にアメリカ人が居座っていいというものではなかろう。

 当然メキシコ側はテキサスのアメリカ人を追い出しにかかる。そこでアメリカ人がアラモ砦に立てこもって戦う。もちろんアラモ砦は全滅する。しかしそれを契機に米軍が攻め込んで、ついにテキサスはメキシコから独立してテキサス共和国となる。しかし僅か9年後には米国に併合されて、テキサス州となる。住民の自由意志による米国への併合の請願によってである。

 ここからは映画から外れるが、歴史はそこに止まらない。米国は更に別なメキシコ領に手を出す。当然戦争になる。これが米墨戦争である。墨とはアメリカを米と漢字表記するように、メキシコの漢字表記である。このとき使われた標語がリメンバー・アラモ、アラモ砦を忘れるな、である。

 そう日本との戦争はリメンバー・パールハーバーと云われたれと同じである。アメリカのワンパターンはまだある。米西戦争のリメンバー・メイン、メイン号を忘れるなである。米西戦争とはスペインとの戦争で、その結果アメリカはフィリピンをスペインから奪った。 しかもフィリピンの原住民に、アメリカに味方すればスペインから独立させると約束してだましたのである。

 約束違反をなじったフィリピンの指導者は、恐ろしい手口で惨殺された。メイン号とはアメリカがスペインに戦争を仕掛けるためのおとりの船である。わざと襲わせて戦争を仕掛けたのである。同じ手口はベトナム戦争でも使われた。トンキン湾事件である。アメリカはトンキン湾で北ベトナムに駆逐艦を襲わせて、これを口実に本格的なベトナム戦争の開戦をおこなった。

 アメリカ人の独立国を作って、後に米国に併合するという手法はハワイ王国併合でも使われた。顔を黒く塗った米軍兵士がクーデターによって、カメハメハ王朝を倒し独立を宣言し、その後米国への併合を宣言する。またもワンパターンである。米国民にとってインディアンの領地を奪って領土を拡大したことはDNAとなって常習化したのであって、悪意ではなく当然の権利である。それを否定したらアメリカの存在はない。

 米墨戦争の結果は悲惨である。メキシコは敗戦によって国土の3分の1を米国に奪われた。ニューメキシコ、ネバダ、ユタなどアメリカ南部の多くの州である。

 映画のエピソードをひとつ。伝説の英雄ディビー・クロケットはアラモ砦で戦死する。生前からすでに英雄扱いだったのである。その戦いとはインディアンすなわちネイティブ・アメリカンとの闘いであった。クロケットの戦いはインディアンから土地を奪う戦闘であった。

 なぜアラモ砦に残って戦うのかと聞かれてクロケットは、ただのテネシーのディービー・クロケットなら逃げ出したいが、伝説の英雄のディビー・クロケットはそうはいかない、と答える。クロケットは茶化しているが、人間は義のためには逃げ出したい心をこらえて命をかけることもあるものである。その心情は多くの民族に共通するであろう。

 砦に残った人々は、メキシコ軍の総攻撃の前夜、遺書のような手紙を各々の故里などに書く。その中にはテキサス独立のための犠牲になるというような文句がある。彼らの多くは植民した民間人が銃をとった、いわゆる民兵である。つまり食い詰めてテキサスで一旗あげようとした人たちである。

 だが彼らは死に臨んで欲得のために戦うとは言わない。それはそうであろう。退路を立たれた彼らは自分たちの死に意義を見出そうとしているのだ。これを私たちは是とすべきである。人は皆自分の行動に意義を見出そうとするのである。悪く言えば自己正当化である。

 だが自己正当化は人間の本能である。自己正当化しない人間は自壊しかない。ところが多くの日本人は、戦争への反省と称して自己正当化どころか、自己憎悪を正義と考えている。いわく、戦前の日本は侵略ばかりしていたろくでもない国であると。だがその先頭を切っている、朝日新聞などのマスコミ人は、かつての新聞社の「侵略への協力」などを批判されると、卑劣な手段を使ってまで自社正当化をする。

 それが目先の個人の利益だからである。そのことを詳しくはホームページの別項を見ていただきたい。このように自社正当化には手段を選ばないマスコミも、自国の正当化はしない。しないどころか貶めて恥じない。これはまともではない。自己保存の本能が崩壊しているのである。


○勝利なき戦場
 英語版だということで借りてきたDVDだが、英語、イタリア語、ドイツ語が場面によって使い分けられている映画だった。第二次大戦のイタリア戦線ということで、内容は特筆すべきものはないが、エピソードをひとつ。

 それはイタリアの兵士が休息している夜のこと。代筆屋の兵士がいる。イタリア人らしいおおげさな言葉をちりばめた言葉を使って、故郷の家族や奥さん、恋人などに手紙を書く。大きな声で手紙を書く代筆屋にある兵士が、早く書いて俺の女房への手紙を書いてくれというのだ。

 なんと「俺も字が書けたらなあ」と嘆くのだ。代筆屋がいるのは文章が上手いからではない。イタリア人に少なからず文盲がいるのだ。これには驚いた。第二次大戦当時、つまり父の世代の日本人には、まず文盲はいない。気の利いた漢字は書けなくても、平仮名だけの文章は最低書ける。

 ちなみにテレビ「菊次郎とさき」を見ていたら、菊次郎つまり北野たけしの父は文盲だった。そこで夜こっそり学校に行って、先生に仮名をならっていたら、たけしの友達にばれてしまう。たけしはそれを皆にばらすと友達におどされる。それを知った菊次郎は学校に通うのをやめてしまう。映画の文盲のイタリア人兵士と菊次郎は同世代である。しかし菊次郎は文盲であることを恥じなければならなかったのである。

 平仮名の半分しかないアルファベットも使えないというのは、まともな初等学校教育も受けていないことを意味する。この発見だけでもこの映画の価値はあった。この映画はイタリア、アメリカ、ドイツ人の3組のクルーによって作られているが、プロデュースはイタリア人である。

 だから敗戦国特有の戦争に対する否定的な考え方が基調となっている。そしてどっちつかずの信念なしの退廃的な雰囲気はイタリア人的に思える。それにしてもイタリア女性の村人の自堕落な行動はイタリア的とはいえ、見苦しい。映画の終わりに出る監督やキャストの紹介の次には、この映画の撮影の間には、いかなる動物も傷つけていない、というコメントがあったのはさすがエコの時代である。

○父親たちの星条旗
 既に劇場で見ていたが、レンタルビデオが出たので再度見てみた。ひとことでいえば、ドラマとしてはやはり日本側から描いた、硫黄島からの手紙よりできがいいということである。それは硫黄島のヒーローとなった三人の兵士の、何のために闘い、誰のために闘い、誰のために死ぬかという究極の人生哲学に深みがあるということである。

 残念なことにインディアン、今で言うところのネイティブアメリカンのアイラはヒーローといわれることに耐えられず、戦後若くして野垂れ死にしてしまい、人生哲学を語ることができず虚しく死ぬ。やはり異民族であるインディアンの心情は白人には描ききれないとしか言いようがない。

 彼らは国家のために犠牲になるのではなく、戦友や同胞のために死ぬのだという。硫黄島で勝利の象徴となる国旗、星条旗を立て、政府から戦時国債募集のため英雄となることを予定された兵士たち6人のその後の闘いと、実際に旗を立てながら無視された兵士の物語である。

 兵士6人は硫黄島の戦いが終わる前に、半数の3人は戦死する。いかに米軍も熾烈な戦いを強いられたかわかる。3人のうちのインディアンのその後は先に述べた通り。もうひとりは、英雄となって帰還後、仕事を探すがうまくいかずやっと用務員の仕事を見つけて一生をひっそりと終える。

 幸福な家庭を築いたはずの最後の一人ですら、奥さん以外の家族に硫黄島のヒーローであることを死ぬまで隠し続ける。旗を立てたのは、戦死した別の兵士だったことや、ヒーローに祭り上げられ、誰のために闘ったのか理解してくれない周囲に絶望したのだった。

 記憶が間違いなければ、白人の二人も40台、50台という若さで早死にしており、天寿を全うしたものはいないはずである。勝利したアメリカですら戦争は個人の人生に暗い影を落としていることがわかる。大した戦闘もせず、戦後貫通銃創だけで済んだ私の父がセイカクヲをゆがめたのは当然であろう。

 この映画の巧妙なところは、前半に派手な戦闘シーンを持ってきて、アクション好きを引き付けて置いてから、後半で、ヒーローとされた男たちの人生をじっくり見せていることである。

 気になるシーンをいくつか。上陸用の輸送船で味方の飛行機が低空飛行をするのを見て盛り上がっていた兵士の一人が、海に転落する。助けると思いきや、船団の隊列が乱れるというので、放って置かれる。戦友が投げた浮き輪につかまった所で、太平洋のまんなか。多分助かるまい。兵士の命を大切にするといわれる米軍にしてこの非情である。

 この映画の考証がしっかりしていると思われせるのは、艦砲射撃の戦艦の映像である。ちゃんと硫黄島攻略に参加した記録のある、ノースカロライナ級とペンシルバニア級戦艦が登場している。戦艦を知らない人に解説。排水量は3万トンから6万トン。自衛隊の軍艦は3千トンから1万トンだから、はるかに大きい。

 30cmから40cmの口径の大砲を10門前後つけている。砲弾は1トンもある馬鹿でかいもの。1門辺り1分間に3発、撃てるとして1隻当たり1分間に30発も撃てる。飛行機による爆撃の威力は比べものにならない。映画では日本軍の大砲がノースカロライナ級に命中して大爆発するシーンがあったがこれは史実にはない。愛嬌である。

 緒戦では日本軍の機関銃が米兵を次々と殺戮する。直接戦闘による死者は米軍の方が多かったから、この表現は正しい。例によって銃剣や格闘で戦うシーンでは米軍が圧倒的に強い。かの海兵隊は1対1の格闘戦闘の特別訓練を受けていて、日本兵は素人だから仕方あるまい。

 最後に一言。星条旗を揚げるシーンが新聞の一面に載った時、後ろ姿なのにもかかわらず、お尻の形で我が息子だと断定する。息子は戦死したが、母親はそのことにずっとこだわる。戦後何年もたってから、ヒーローのうちの一人が、この母親の夫を捜して、実は星条旗を揚げたのはあなたの息子だとつげる。

 このひとことを伝えるだけのために、戦友は捜し続けたのである。夫は妻にすぐ電話してこのことを伝える。自分の勘が正しかったことを知った母親は放心する。これは泣けるシーンである。この映画の良さは、このような人間心理の機微を捉えたものが多いことである。


○アイルランド・ライジング
 
訳すならアイルランド蜂起であろうが、この物語は歴史で言うアイルランド蜂起そのものではなく、現在のアイルランドが北アイルランドを除いて英国から独立した1920年頃の話である。現在もIRAによる北アイルランド独立運動は続いている。IRAの闘争は、親兄弟が争う凄惨な戦いとなっている。

 この物語はその原因をよく表している。以前紹介したブラピのデビルもIRAがらみだが、この映画の方が歴史的には忠実で価値がある。地味だがよくできている。アイルランドのさびしい風景も良い。主人公の男性はアーニー、親に反対されても独立運動に首を突っ込み始める。大学に行かせないと父は脅すが、それでよいと突っぱねる。

 これを悲しむ家族。独立運動による家族の分裂が始まった。アーニーは独立運動のベテランの女性、イータと知り合い恋に落ちる。イータは既に政府軍による銃の傷を自慢するほど独立運動で戦っている、北アイルランド生まれの闘士である。男のアーニーが煮え切らないのに対して、イータの方が決然としていてる。

 やがて英国との協定が成立し、北アイルランドを除いた独立が認められることになるが、全アイルランド独立を目指し妥協を認めないイータらのグループはこれに反対する。アーニーは英国との協定派に入れられてしまったのを、イータはなじり、結婚を申し込まれたのも拒絶する。愛より独立は強いのだ。

 北アイルランドも独立しない限り、協定を認めない一派が立てこもる。協定派は砲撃をして全面攻撃に入ることを計画するが、その前にアーニーは降服するよう説得に行かされる。説得に失敗したアーニーが帰ろうとすると、鎮圧軍と協定反対派が対峙しているところにさしかかる。

 鎮圧軍の前線指揮官は協定派の先頭に妹がいるのを発見する。ここでも兄妹の相克があるが、またしても女の方が過激。イータもこの妹もチャーミングな女性であるから怖い。妹は兄の前であっけなく射殺されて戦闘が始まる。アーニーは結局反乱軍についてしまい鎮圧軍に追い詰められて、死を覚悟した絶望的な戦いをし、戦闘の混乱の中で妹を殺された前線指揮官とばったり出会う。反射的に打ち合いとなり、相打ちとなる。

 銃弾に倒れながらも、互いに友情を確認して二人は死ぬ。立場は違っても、お互いに国のために死んでゆくことには変わりないと言うのだ。この映画にも北アイルランド独立の意志の強さの理由は説明されている。やがて北アイルランドは独立してアイルランドは統合される。ざまあみろ、英国は世界に植民地を持って多くの民族を翻弄した罪で、今北アイルランドに苦しめられているのだ。

 主人公アーニーは白人男性のくせに、いかつくなく好ましく感じられた。推薦映画。ご存知だろうか。ガリバー旅行記などで有名な小説家ジョナサン・スイフトは何を隠そう、アイルランド独立の闘士であった。

 デビルのときにも言ったが、この映画にもアイルランドなまりらしきものがある。疑問文でもないのに、語尾を上げるイントネーションである。注意して聞くとどの文でも語尾を上げるわけではないから、規則性がわからない。確かにcome with me.など命令口調でも語尾が上がるから奇妙である。

 今回気が付いたのは発音である。niceというときにナイスではなく、ノイスと発音する。他にもiをオイと発音していたのがあったから聞き違いではない。ただしこれらの癖がアイルランド訛りかどうか確信はない。ただアイルランド独立運動を問題にする以上英国とアイルランド訛りを区別するのは必要だと思うからである。

 この映画をみても日本人は国の独立ということにいかに甘ちゃんかわかる。朝日新聞の論説委員は、竹島は韓国にゆずって仲良くすればよいと書いた。親兄妹が殺しあって独立を戦う苦しみを知らぬのである。領土、国家独立の貴重さをしらぬのである。その癖サラリーマンとしての社内出世競争には全精力を尽くして余念がない。本末が転倒している。

○猿の惑星
 私にはこのごろ猿の惑星という映画を日本人が見る理由が分からない。初回の作品では気付かなかった。だが皆様、変に思わないだろうか。日本人を西洋人は何と蔑称するか考えたことがあるだろうか。

 そう。イエローモンキーである。猿が西洋人より武力を持って支配する。それでも文明は西洋人から借りたものなのだ。そう、猿とは日本人である。文明人たる西洋人が武力だけに優れた猿に捕まる。

 それは第二次大戦初頭、日本軍に負けた西洋人の姿そのものである。このことに気付いたのは三作あたりだった。原作者ピエール・ブール。彼は東南アジアの植民地にいて日本軍の捕虜となったフランス人である。戦場にかける橋の原作者でもある。

 彼は文明人が未開の猿たる日本人につかまった屈辱を映画にしたのである。中には良心的な猿もいる。そう。日本人だって少しは西洋人らしい良心を持ったものもいるのだ。だが大多数は野蛮な猿だ。猿が文明人の兵器を持ったときの恐怖。それがテーマである。

 猿の惑星とは西洋人の人種偏見の産物である。後で聞くと、上映前、猿の惑星は日本ではごうごうたる非難の声が上がるのではないかと心配したという。心配は杞憂に終わるほど日本人は愚かであった。

○ブラックホークダウン
 ブラックホークとはこの映画に登場するヘリコプターのいわゆるニックネームである。せりふにでるsixty fourとはブラックホークの制式名CH-64のことを言っている。要するにCh-64墜落というのがこの映画のタイトルである。でこの映画でもヘリコプターの俗語のchopperというのが使われている。

 知ったかぶりはこの位。落ちたCH-64のクルーを助けるミッションがこの映画のテーマ。想定はどこの国だろう。米軍が介入して市街戦になっている、黒人の居留する国である。物量を誇る米軍でも市街戦では民衆を巻き込むために米軍とて好き勝手には戦えない。

 救出に向かった軽装甲車両部隊は悲惨である。バズーカなどの軽対戦車兵器で容易に被害を受ける。しかしあまりに敵に接近しているために空軍の援護はない。爆撃すれば味方も吹き飛ぶからだ。米軍は景気よく打つ。だが敵に囲まれては補給はない。

 敵は小銃などの携帯兵器を持った黒人の群集だから、いくら殺してもきりがない。殺せば殺すほどいきり立って攻めてくる。民家の一角に立てこもった数人の米兵に、黒人の群集が次々に襲いかかる。弾薬は尽きる。次々に銃弾を打ち込まれた米兵は、殺された挙句にさらしものにされる。

 最後の一人の米兵である。外では黒人の群集が暴れまわり、ヘリコプターやジープに投石している。まもなく突入してくるのに違いない。自動小銃を確認すると一弾もない。しかも負傷して動けない。最後に手にしたのは妻と子供の写真であった。映画はこの兵士が惨殺されるのを写さずに、アメリカの米軍司令部に移る。

 私はこの姿を孤島で戦った日本軍兵士の孤独な戦いを思う。絶望的な日本軍の戦いを米軍も現代においてすら戦っているのである。しかしこの映画は反戦映画ではない。あえて市街戦の悲惨な現実を写しながら、わが軍はどんな状況にあろうとも窮地に陥った兵士を救うというメッセージを送っている。

 これは米国の覇権を支持するメッセージである。この映画を作ることのできる米国は、ベトナムシンドロームを越えて強い。この意気が続き適切な米国政府の政策があれば、イラク戦争に勝てる。実に中西輝政教授はかつて英国がイラクとの戦いに勝った歴史を「正論19.6号」で指摘している。

 英国の勝利は植民地帝国の勝利であり正当ではない。米国の戦いはイスラムという度し難い一神教の角をまるめるという役目を果たせば正当である。一神教の米国が一神教のイスラムを倒す。それは一神教の独善を排すということであれば世界の進歩には繋がる。


○俺は、君のためにこそ死ににいく
 事務所の同僚からもらった割引券で錦糸町の楽天地で見ました。批評はしません


○太陽
 ロシア人の作った天皇の物語だと言うので、期待というより興味を持って見ました。一言で言えば昭和天皇のパロディー、すなわち戯画です。しかしパロディーであることは日本人の反発をかうと考えたとみえて、ぎりぎりのところで巧妙に隠されています。その代表は昭和天皇が意味なく口をもごもごさせる癖を頻繁に写すことです。

 実際にはこの癖は明らかに老人性のもので、終戦時四十歳前後であった昭和天皇が、あんなに不自然な癖があるはずはないのです。ところが一見して納得してしまうのは、ビデオ映像などが多く残されているのは、皇族が国民の前に露出する機会が増えたかなり最近のことだから、当然昭和天皇は高齢になって老人性の癖の印象が残っているというわけである。だからあの癖はなかったと一般国民には断言できないから、インチキだと抗議もできないという仕組みである。

 パロディーだと言う証拠を列挙してみよう。マッカーサー元帥はパイプをくわえた写真でも分かるように、見てくれを気にするハンサムな男である。ところがマッカーサー役の男優は、ハンサムと言えないこともないが、極端におでこの広い奇妙な風采の男である。

 御前会議とおぼしき会議で、陸軍大臣と思われる男が、ドイツ軍用犬による自爆作戦を行って戦局回復するなどと発言する。ドイツと提携していたのは事実であるが、そのようなことは計画されたことすらない。当時最後の作戦として行われたのは特攻隊だから、特攻隊の作戦を犬にもじったのであろう。つまり特攻隊員の死を「犬死に」であると言ったのである。

 マッカーサーに会ったとき、天皇が「自分はどうなってもかまわないから国民を助けてくれ」と言ったのは流布されている。これを正確に言わずに、翻訳でかろうじて慈悲はこわないなどと訳させている。このエピソードは重要なことだから、不正確に再現するのはおかしいのである。そして全くエピソードを紹介しないわけではないという巧妙な表現となっている。

 戦争中はヒトラーに似せたヘアスタイルをさせ、戦後はこれを直す。また天皇はチャップリンに似ている、などと言わせるのと合わせると底には天皇に対する悪意がある。ひげがあるのでチャップリンに似ていると言えないことも無い。しかし当時チャップリンが有名だったのはヒトラーのパロディーをやってナチス批判をしていたからである。つまり言外に天皇は日本のヒトラーつまり悪人だと言いたいのである。

 ナポレオンなどのいくつかのフィギュアを持っているが、そのうちナポレオンのものを戦後は隠し、ワシントンのものに変えている。これは好戦的なイメージからアメリカに迎合するように変更したという意味ばかりではない。昭和47年前後に発表された「天皇の陰謀」というアメリカ人デビッド・バーガミニの昭和天皇糾弾の小説の中の、昭和天皇が戦争中はナポレオン(だったと思う)の肖像画を自室に飾っていた天皇が、敗戦になるとワシントンだかリンカーンに変更して米国に迎合したという信憑性の無いエピソードのパクリであろう。

 天皇とマッカーサーが並んで写真を撮って新聞に載せたと言うのは、米国が天皇を貶めようとしたという意味で有名なエピソードであるが、これを単に写真撮影の予定をしていたのに天皇が偶然カメラマンたちの前に現れて写真をとられたというように戯画化されている。そして新聞に載ったということは少しも紹介されない。

 昭和天皇がマッカーサーにもらったチョコレートを侍従に配るが、食べている途中に「チョコレートおしまい」と天皇が手を打つところは、お笑いとしてのイッセー尾形の地でやらせている。これなどは天皇を喜劇役者に仕立てたのである。また侍従を天皇が「ご老人」と呼びかけるのも同様である。しかも軽蔑調で言わせている。ご老人と呼ぶはずがないのである。

 これらの例を見れば分かるように、事実を決して正確に再現しようとせず、しかも全く無い話は少ないと言うように、パロディーにしてしまいながら、巧妙にそれを隠蔽すると言う手法がとられている。ロシア革命でニコライ皇帝を一家もろとも惨殺して、尊敬すべき伝統を失ったロシア人の精神の荒涼と高貴な精神の欠如を想起させる。そして俳優は日本人でありながら、うかうかとそれに乗ってしまう俳優の貧しさを感じたのは貴重である。その意味でこの映画を見るように紹介してくれた人に感謝します。

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○出口のない海
 例によって戦争映画ですが、洋画ではありません。反戦映画的ではなく、祖国や家族を守るために戦争に行くという心情がきちんと描かれていて好感が持てる。若い人は知らないが昭和40年代初めにはまだ戦争や特攻隊のテレビドラマシリーズがあったのですよ。もちろん経験者が制作しているから反戦的でも自虐的でもなく、当時の国民や兵士の心情が素直に描かれていたと思う。

 見ていない人に解説します。これは六大学野球のスターピッチャーが、「魔球」を完成する前に出征して人間魚雷「回天」に搭乗を志願するという物語です。出征とは戦争に行くという意味です。僕の叔父は大陸に出征して、講道館柔道の有段者であるにもかかわらず、コレラで22歳で戦病死しました。魚雷とは爆弾にスクリューをつけて艦船に命中すると爆発するという兵器です。もちろん爆弾なのだから本来無人です。

 ところが日本海軍は人間を乗せて体当たりするという兵器を発明しました。多くの人たちは誤解しています。このような体当たり兵器を考えたのは20歳台30歳台の若い兵士です。日露戦争のときですら日本海軍の幹部はこのような生還不能な兵器を禁止しました。多くの国民すなわち兵士はこの戦いが日本民族の存亡にかかわると理解していました。だから日露戦争でも禁止されていた体当たり兵器を考え実行したのです。

 昭和天皇は神風攻撃の報を知らされ、ここまで戦局は悪いのかと絶句しました。特攻隊は元来、将軍の発明ではありません。米軍ですら被弾した飛行機が日本の艦船に体当たりしたという記録があります。海軍特攻の命令者とされた大西瀧次郎中将は敗戦の日、介錯もなくなく割腹して数時間苦悶して、多くの若者の苦しみを背負って絶命しました。阿南陸軍大臣と違いしらふです。

 多くの若者を死地に追いやった責任をとった人間のいたことは日本人の誇りとすべきことでありましょう。陰謀で何千万人を惨殺した毛沢東を神と称えるかの国に比べて何と日本人の幸せかを思うべきであります。ユン・チアンの「マオ」は読むに耐えぬ書である。日本ではあのような物語が書かれることはない。特攻隊の若者の心情を思うとき涙せぬものは人ではない。彼らに涙するのは女々しいことではない。

 この映画を含め、このごろの日本の戦争映画がそのような回帰を見せているのは好ましい。戦争は本当はいやだったとか、戦争になったら逃げるなどという気持ちの国民は例外であるからそれを一般化するのはおかしいのである。僕は特攻隊を美化するつもりはない、などという弁解を聞きたくもない。

 国民よ知るがい。人間魚雷回天をはじめとする体当たり攻撃は無駄ではなかった。体当たり攻撃や硫黄島、沖縄の戦闘による米軍の人的甚大な被害は米国政府を畏怖させた。ドイツと同様に無条件降伏しかないと宣言していたにもかかわらず米政府は、日本本土攻撃回避のためにポツダム宣言という「降服条件」を提示した。米国が特攻隊を恐れていたのは、日本軍による体当たり攻撃が実施されていること自体を完全に国民から隠蔽したことでも分かる。また各種の特攻隊迎撃の兵器開発も行った。

 日本の軍隊には無条件降伏するように要求したが、日本国には各種の条件をつけたから無条件降伏ではない。ドイツとは異なり、ポツダム宣言を出したことそのものが条件付降服である。多くの日本の兵士の努力と犠牲があったからこそ今日の日本の繁栄がある。戦前の世界には自由貿易はなかった。自由貿易は日本の戦争の結果、植民地が独立したからである。

 結果論に過ぎないと言うなかれ。産業革命を起こした人たちは産業革命を起こそうとしたのではないにもかかわらず、産業革命が起きたのと同じことである。天は自らを助くる者を助くである。特攻隊の戦果が有効であったというのは体当たりに成功した者たちばかりではない。攻撃は確率的に成功する。百%の成功はない。艦船に対する爆撃の命中率が5%が相場だとすれば、残りの95%の外れがなければ5%の命中はない。その意味で途中で撃墜されたりした特攻隊員は無駄死にでなく有効なのである。

 この映画の主人公は訓練中に海底の岩礁にはさまって、酸欠で死亡するがこれも同じ意味で無駄死にではない。酸欠は苦しかろうと思っていたが、遺書を書いている途中で意識がもうろうとして死んでいったのには何となく救われた。こんな感想を持つ僕は軟弱です。主人公が最後にキャッチボールをして魔球(多分今のフォークボール)が完成したのは予想された、考えようによってはちゃちなエピソードだが、これもほっと救われた思いがした。

 CGは気になるほどではないが、相変わらずいまいち。プラモでもそうだが西洋人のリアリティー追及はすごい。手先の器用なはずの日本人が、精密でリアリティーの必要なダイオラマでは到底かなわない。ちなみにダイオラマとはプラモの世界で、プラモを中心にして立体情景を作るものである。スターウォーズなどは模型の宇宙船であろうが、現実にないものにかかわらず、しっかり「リアリティー」がある。日本の映画も円谷映画の時代とは違いしっかり追いつきつつある。しかし追いつくのであって先頭をいくのではないところが悲しい。日本の得意は現実味とは関係のないアニメである。SFとアニメのどちらが上かという比較をしているのではない。

 最後に流れる竹内まりあの「返信」はよかったです。返信とは読まれない手紙の意味でした。硬派の映画の竹内まりあの主題歌は意外でした。竹内まりあは過去の人と思っていたのは間違いでした。早速CD借りてきて今聞いています。それに比べれば「男たちの大和」のテーマソングは英語の歌詞を混ぜた情けないものでした。

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○ダイバー
  水泳の得意な黒人兵士が、迫害を乗り越えてダイバーになり、指導教官との連帯も生まれるという物語。黒人であるために、砲兵などの戦闘要員にはなれず料理番にしか使われないという1960年代の実態は本当の話である。海洋航行中の海上であっても、黒人は汚れているので白人と同じ日には泳がせてもらえないという事実は、なぜ運動能力の優れた黒人が現在でも米国の水泳のオリンピック選手になれないかという理由を説明している。ゴルフのタイガー・ウッズは今でも入れてもらえないゴルフ場が米国にあるというのはその延長に過ぎない。

 閑話休題。建前は誰にでも開かれている、ダイバーの試験が卑劣な妨害で絶対に受からないように仕組まれるストーリーは過酷というよりは残虐である。米国では1960年代まではいわゆる白人による黒人の切捨て御免が行われていたのである。つまり白人が黒人を殺しても逮捕されない、起訴されない、あるいは起訴されても陪審裁判でむざいになったのはさほど昔ではない。

 1960年代のアメリカの公民権運動とはなにか。公民権とは何か。辞書をひくがよろしい選挙権、被選挙権などの参政権である。事実アメリカには法律で黒人の参政権を否定していた州すらあったのである。実に黒人差別とは「差別」という甘ったれたものではない。「迫害」という生やさしいものではない。実に黒人は人間以下のけだものと同程度のものとみなされていたのであって、現在でも潜在的には同様である。

 私は日米同盟を現状では全面的に必要欠くべからざるものと考えてている。それと人種差別観の認識とは完全に別個なものと考える。それは特定の個人的に対する個人的好悪相性と仕事や能力に対する評価とは、私は全然別個だと弁別できるからである。この映画はこのようなことを考えさせてくれる点においてすばらしい。アメリカの救いは不充分であるにしても、このような映画をつくることができることである。必見。ただし楽しい映画を期待するものは見ぬこと。

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○プライベートライアン
 兵士ライアンとかライアン二等兵とでも直訳した方がよかったと思うが。この映画に関しては漫画家小林よしのりのように、凄惨な戦闘場面をリアルに描いたことで、反戦映画とみなす人が少なからずいたのは意外だった。特に最後の戦闘で取っ組み合いになったドイツ兵がアメリカ兵の心臓をゆっくり刺す場面などは、腕がちぎれる場面より恐ろしい。

 しかしこれらのリアルな表現は、過去の大雑把などんぱちのいいかげんな表現から脱皮したものとみるべきであり、撮影技術の進歩により全般的にこのような傾向がどの映画にもみられ、特に洋画に甚だしい。観客はちゃちな戦闘シーンに騙されないほど目が肥えてきたのである。

 昔「三匹の侍」という時代を画したテレビ時代劇があった。それまでの時代劇は主人公が刀を振り回すと、相手が次々と倒れていくというものだったのに対して、三匹の侍では刀の一振り毎に肉の切れる音が明瞭に聞こえて、相手が切られるというものだった。この効果音は実際に豚肉か何かを切って録音したということだった。当時はそれでも画期的にリアルだったのである。

 リアルに人が切られる表現をすることが人気を高める要因のひとつであった。本来ならより残虐になったのである。これは侍の残酷さを表現するものではないことはプライベートライアンの戦闘場面が、反戦の意思表示ではないのと同様である。プライベートライアンのメインテーマは国家危急の戦争というイベントにおける国家と国民の信頼関係と、国民相互の連帯という二つである。

 それはマクロなストーリーを追えば分かる。四人兄弟の三人までもが戦死して、末弟までもが参戦していることを知った米陸軍は末弟のライアン二等兵を救出することを命じる。ライアン家の血筋が耐えないようにするためである。これが第一のテーマ、国民は国家のために身を挺するのに対して国家は国民のためを思うという相互信頼である。

 発見されたライアン二等兵はすぐ帰国することを望まず、仲間のために最後の任務をやりとげると残留して戦ったために、救出に向かったミラー大尉はこの戦闘で戦死する。これが第二のテーマである。ラストシーンは家族や孫たちなど絶えなかった子孫を連れてアーリントン墓地(?)にミラー大尉の墓を訪れるライアンで、星条旗のアップで終わることが反戦ではないことを証明している。何よりもこの映画は、オスカー賞のほか、在郷軍人会の表彰、米軍サービス機関メリット賞など軍関係者の表彰を受けているではないか。

 このような誤解が生まれるのは多くの日本人が「戦争」を一面からしか見ないからである。ある沖縄出身者の女性が、戦後生まれであるにもかかわらず、戦闘の焼け跡を見ていて戦争の悲惨さを体験しているから、戦争には絶対反対であると語った。これが全てだろうか。かつて50代の女性で夫婦で自動車旅行中に、事故にあって夫は即死し本人も下半身麻痺の重症を追った。

 何年か自殺を口にしたが死に切れなかったと聞く。彼女は自動車憎悪しているであろう。自動車などなければと思ったとしてもおかしくはない。日本では今でも毎年一万人近くの交通事故死がある。これはかの日清戦争の戦死者と同数である。毎年日清戦争を戦っているのである。この犠牲は車がなくなればたちどころに消える。

 戦争体験から戦争に反対するものは、事故体験から自動車廃止を主張するものになぜ同調しないのだろうか。それは自動車交通を事故体験という唯一の視点から見ないからである。自動車交通とは物流、旅行、自動車産業という多面を持つ。だから犠牲があろうとも廃止できないのである。

 戦争も同様である。結論にいこう。戦争には政治外交の延長、叙事詩、テクノロジーそして実体験という4つの側面を持つ。戦争は政治及び外交の努力で国家間の利害調整ができない場合の最終解決手段として国際法で許容されている。戦争法規と条約からなる、戦時国際法が確立されているからである。

 叙事詩とは物語である。兵士の英雄物語、撃墜王の記録、海戦陸戦の記録などは今日でも次々と映画や書籍で流布されている。プライベートライアンもそのひとつである。ひとびとは人生を賭けた叙事詩に多くが感動するのである。戦闘シーンを全く忌避するというのは極めて例外な人物である。宮本武蔵、太閤記などNHKの大河ドラマで戦闘シーンのないものはない。大河ドラマから戦闘シーンをカットしたら見られたものではない。多くの人々は実は叙事詩としての戦争を「好き」なのである。

 戦争によるテクノロジーの驚異的な進歩はいうまでもない。飛行機の発明は戦争によるものではなかったものの、その進歩は多く戦争予算によっている。旅客機の普及に絶大な貢献をしたDC=3は、第二次大戦の量産輸送機を何万機と低価格で転用したために用意に普及した。デジタルコンピュータは大砲の弾道計算用に開発された。インターネットそのものが軍用がルーツである。

 最後の実体験は言うまでもないが、私の父は暗号と無線の担当をしていたから、恐らく人を殺したこともなく太平楽であったのにもかかわ
らず、得意げに戦闘場面を聞かせていた。実体験者の場合も凄惨な場合ばかりではなかろう。何よりも実体験者は経験を公平に語ることはできないのである。かくのごとく戦争とは多面的なものである。

 プライベートライアンに戻ろう。ミラー大尉が再度戦闘に加わらないことを条件に解放したドイツ兵は再び戦闘に加わっていた。しかし最後の戦闘で投降しようとした。味方が殺されているのも助けることができずに脅えていた通訳の兵士はこのドイツ兵がホールドアップをしているのに即座に射殺した。

 1907年のヘーグ条約「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」の条約附属書には俘虜の章第4条「捕虜取扱の原則事項」には「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルベシ。俘虜ノ一身ニ属スルモノハ兵器、馬匹及軍用書類ヲ除クノ外依然其ノ所有タルヘシ」とある。要するに捕虜は武器その他は携行できないが、虐待してはならないと言うのである。もちろん捕虜を殺してはならないのである。ここでクイズ。手を挙げて投降してきた通訳の兵士の行為は先の条約に違反するのであろうか。もう一つ。戦闘で劣勢にたった軍隊が白旗を掲げた軍使を派遣して降伏の交渉をしようとしていたが、相手は小銃の射程内に入るや殺害してしまった。これは先の条約に違反するか。

 もちろん二つの行為はいずれも条約違反ではない。射殺された兵士はどちらもまだ捕虜ではなく、殺害は戦闘行為の継続とみなされる。相手が武装解除を行って無害化して確保した場合に捕虜と看做される。先の二ケースの兵士もともに確保されていない限り、敵対行為が確実に終わったとは限らないからである。つまり敵を欺くために白旗を掲げて油断させて、爆弾などの武器を携行して攻撃するといった例は多数存在したから、捕虜となるには厳密な手続きが必要なのである。

 なるほどプライベートライアンとはよくできた映画で、多くの教訓を含んでいる。戦争を冷静に考えられない日本人には当分こういう映画はつくることはできない。しかしいざ戦争となったら、かえって平和主義の日本人は戦時法規も頭になく、感情的に振舞うからかえって非道な行いをしかねないのである。もっとも日本人は根本的に人道的な民族だからそれとてたいしたことはない。支那人や欧米人は何でもする。

 多くの日本人は相互の信頼があるため、白旗で敵を欺くというのは例外であったろう。欧米人は相互に信頼できないために厳密なルールを逐次積み重ねてきた。それは自然界に法則を求めて定式化していく過程と、精神的基盤は同一上にある。支那大陸がいつまでも不幸な状態にあるのは、相互の不信の関係を普遍的にルール化しようとする精神活動がないからである。そのような精神活動がない日本人が、日本人と付き合う限り幸福なのは、日本人は支那人とも欧米人とも異なり、ルール化を必要としない信頼関係があるからである。だが今日のように、国際社会に参加するためにはルールを作り、ルールを守り、ルールを守らせるという毅然とした精神が必要である。

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キリング・フィールド
 アメリカ人ジャーナリストの助手として働いたカンボジア人が、脱出の機会を失してクメール・ルージュの過酷な支配下に置かれる物語。ここに描かれたのと類似の事実があったかは定かではない。ただ、虐殺を描いていても何百万という大量虐殺について触れていないのは好感が持てる。年端もいかない子供に冷然と大人を告発させる姿は共産主義の恐怖の一典型である。

 いずれにしても共産主義というイデオロギーは、受け取る側の民族性によって、異なるパターンの狂気の社会を現出することは確かである。ソ連ではレーニンとスターリンによる民族移動、大量粛清と強制労働。東ドイツでは秘密警察と相互監視による密告。中共では毛沢東による大量虐殺と文化大革命の狂気
。北朝鮮はいうまでもない。

 いずれも基礎にあるのは、科学的な社会主義として自らを絶対的な善の立場に置き支配するから、どのような手段を用いても内部の敵を処分するのにどんな手段も正当化されるということである。マルクスはこの方法論の端緒をつくっただけで、方法論を完成したのはレーニンである。

 その意味では地上に出現した地獄、共産主義をマルクス・レーニン主義というのは絶妙な命名である。レーニン、スターリン、毛沢東、金日成、ポルポトはこの方法論を民族の伝統にあわせて実行に移したのに過ぎない。この点で言えば現在の中共はマルクス・レーニン主義を脱した。現在の中共における言論統制や役人の腐敗、民衆への過酷な支配などは支那の伝統政治に過ぎない。

 正統なマルクス・レーニン主義国家は現在では北朝鮮だけである。北朝鮮はマルクス・レーニン主義と李氏朝鮮の合体した社会である。李氏朝鮮の歴史から学べば、朝鮮は内部改革による更正はありえない。李氏朝鮮はあれだけの外圧がありながら、日本に滅ぼされるまで変わらなかった。

 中共か韓国に吸収されるしか変わる道はないのである。もし金正日が子孫に権力継承に失敗したところで、クーデターにより別な王朝が発生するだけで、支配の実態に変化はない。日本でも1970年以前に共産主義政権が成立していれば、日本型の地獄の社会が成立していたであろう。幸いなことに今その姿を想像することはできない。だが、現在でも心の闇にマルクス・レーニン主義を秘めている人々はいる。その人たちが、理想社会を築くとか、反権力と称して日本社会を崩壊させようとしている。

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ヒトラー
 素晴らしく出来がよい。必見。見る前はヒトラーの最後をグロテスクに描き、ナチスドイツを誹謗するものであると思った。そうではなかった。確かにヒトラーは錯乱していた。誤った判断、誇大妄想、56歳の年齢にしては腰の曲がった衰え。しかしそれは伝え聞かれたものであったし、第三帝国の全責任の敗戦を個人で支える心労からは当然の衰弱である。

 しかしヒトラーは卑怯ではなかった。ある時期から自決を覚悟し、遺体の処分方法を指示し、平然と妻エブァ・ブランウンと自決した。この点は吊るされたムッソリーニの情けなさとは異なる。しかもヒトラーの周囲の尊敬は最期まで失われなかった。これは重大な視点である。ヒトラーのカリスマはインチキでなかったとこの映画は主張している。ある幹部の妻はなんとナチス思想がなくなったドイツでは生きていても仕方ないとすら言う。ナチスはインチキではないというのだ。

 ゲッペルスをはじめとする幹部が決然と自決し、逃げ惑うさまを見せなかったのを次々と描いて見せたのは、ドイツ人の同胞に対するプライドを感じさせる。ナチス幹部に卑怯ものは描かれていない。ゲッペルス夫妻は衆人環視のもと、妻の覚悟のもと射殺し、自らも銃で自決した。夫妻の無言の同意の行動が粛々と描かれるのは武士の最期をすら思わせる。

 ドイツ国民も同様である。このごにおよんでも鉄十字勲章を与え、脱走兵を処刑するなどのおろかな行為はあったものの、首都ベルリン陥落の混乱にあたってのドイツ国民の行動は、むしろ整然としていたと描いたというべきである。国民に抵抗しないよう呼びかける司令官のソ連軍との合意により、というせりふを付け加えるのも条件付降伏を主張しているようにすら思われる。

 要するにドイツ全国民は敗戦に接して、整然と行動したといいたいのだ。画像といい演出といい素晴らしい。むしろ主人公の女性のあまったれが不満である。最後に本人のインタビューてわざわざユダヤ人虐殺に言及したのも不満である。ようするにこれが現在のドイツの限界を示している。ユダヤ人虐殺問題が今後のドイツ人の運命を左右していることを、賢明なドイツ人すら気付かない。

 スペインは南米での残虐行為を公然と出版流布されることによって活力を失って現在の二流国家に甘んじて小さくなっている。国際社会でスペインの発言権はないのである。現在の覇権国家はいかなるものか。米国は千万単位のインディアンを絶滅し、現在ではゲットーたるインディアン居留地に追い込んで恥じないし、植民地フィリピンで大量虐殺を行い平然としている。

 中共は億単位の自国民を虐殺した毛沢東をたたえている。ロシア英国しかりである。にもかかわらずドイツ人は敗戦国であるがゆえにこの不平等に耐えなければならない。だが生きるために耐えているうちにドイツ人はそれが生き様になる。私はドイツ人はそのようなおろかものではないと信じていた。

 ドイツ統一が成った途端に過去を無視して決然と生きると信じていたがそうではなかった。ドイツはナチスに全ての罪をおしつけるという賢い知恵を選択したゆえに永遠に謝り続けなければならないという間違った道を選んだのかも知れない。ドイツ人は賢くないのかもしれないのである。

 最後にストーリーと関係なくユダヤ人虐殺を執拗に言及するのは、ドイツ人にとってヒトラーを語るときの免罪符の一種である。しかし免罪符は個人には有効でもドイツ民族には有効ではない。この免罪符を振り回す行為がドイツ民族を長期的には衰退に追い込む。それに気付かぬほどドイツ人は愚かであったのか。

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硫黄島からの手紙
 御用納めの昼酒の酔い覚ましに錦糸町で見る。元々DVDで間に合わせるつもりだったがまあよかった。とにかく日本人の作った戦争映画よりはるかにできがよいことは間違いなし。前作と異なり、白兵戦で日米が伯仲していたのはよかった。相変わらず米兵がバタバタなぎ倒されるのは感動。投降して捕虜となった日本兵2人を面倒だからといって殺してしまうのはいんちきでなく正直。栗林中将などの見慣れた少数の日本の俳優以外の日本兵役の俳優は若者は日本語が完璧にもかかわらず、どことなく日本人離れした雰囲気であった。やはり米国で作った映画だからだろうか。

 栗林中将が切り込みによる玉砕を禁じたにもかかわらず、最後には残存兵全員で切り込みをかけたのはむしろ好感が持てる。バロンといわれた西連隊長が負傷米兵を治療させるのはやはり公平感が持てる。ただし内地の憲兵が意味も無く飼い犬を射殺させたのはエピソードの流れとは言え唯一不快なシーン。

 艦砲射撃の先頭に立っていたのは旧式戦艦ペンシルヴァニア思われるが、真珠湾で損傷した後に前檣楼は改装されていなかったのかと疑問に思ったが、海人社の「第2次大戦のアメリカ軍艦」とDVDで比較すると前檣楼はそのままで、後部3脚檣が撤去されて単檣となったことなど、考証は比較的正確であることがわかった。さすがアメリカ映画だけあってアメリカの兵器には正確だと関心させられた。
 このシーンはCGか模型かと思われるが、男たちの大和がDVDで見てもCGと分かるのに比べれば余ほどできがよい。日本軍の機関銃や小銃の射撃音は米軍のものと変わらないのは、私が聞いて不自然に感じたくらいだから旧軍の関係者ならもっと違和感を感じたのに違いない。戦闘服や装備なども知識があればチェックしておかしな点はあったのだろうが、分からなくて違和感を感じないでかえって良かった面もある。

 捕虜の殺害といえば兵頭二十八氏が玉砕の不自然さを説明していたのを思い出す。戦闘では戦死者と負傷者の比率は1対3程度になるのが普通であるという。相当な激戦でも1対1程度だというのだ。それはいくら機関銃や大砲で射撃しても、感嘆には即死させることはできない。すると被弾して戦闘不能になるが死亡しない兵士が相当発生する。いかに捕虜になりたくなくても、行動不能になるものが多数出るはずである。

 ところが太平洋の孤島では大部分の日本軍が玉砕した。これはありえないのである。これは米軍が捕虜を取らない、あるいは捕虜を殺したという証拠である。つまり負傷して動けなくなった日本兵に止めを刺したのである。これは特に海兵隊で顕著であったという。確かに公式に捕虜は取らないと公言した海兵隊その他の米軍の指揮官はいる。自ら認めているのである。人道的な米軍というのは、戦後流布された神話である。米軍は負傷してあえいでいる日本兵にとどめをさした。

 そして日本軍二万人のうち負傷して捕虜になったのは千人余という驚異的な数字を残した。米軍は捕縛した兵士から情報を取るため、片言でもいいから英語を話せるものを選別して、能力のないものを処刑してしまった。保護された日本兵と保護した米兵の証言は聞ける。だから人道的な米軍の神話は出来上がる。しかし負傷して止めを刺された日本兵の証言は永遠に聞けない。だから、捕虜は取らない方針であるという海兵隊指揮官の言明の裏に、どれほど多くの日本兵の命が無残に奪われたかは計り知れないのである。

 「人種偏見」という米国人の著書にはなんと日本兵が投降をしなくなったのは、投降しても米軍が残酷な方法で殺してしまうのを日本兵が知ったからだと書いてある。ドイツ人と扱いが異なったというのが人種偏見のゆえである。残酷な方法とはわざわざ飛行機からおとすとか、並べておいて戦車でひき殺すといったおぞましいものである。軍刀で首を切る方がましに違いない。しかし捕虜を殺すのは戦時国際法違反だが、捕虜を取らないというのは必ずしも違反ではない。例えば白旗を掲げて降伏しようとした兵士を射殺するのは国際法違反ではない。なぜなら彼はまだ捕虜ではないからである。白旗を掲げていても拳銃を隠し持っているかもしれない。捕縛して武器を携帯していないことを確認して無力化したときにはじめて捕虜となる資格が生じるからである。

 米軍の日本軍に対する残虐行為を我々はナチスの残虐行為を非難できないと嘆いたのは、大西洋横断飛行「翼よあれがパリの灯だ」のチャールズ・リンドバーグの「戦時日記」がよく知られている。ここで硫黄島の戦いで日本軍戦死傷者二万名、米軍二万八千名で日本軍の戦死傷者の方が少なかった唯一の戦いと特筆する者が多い。常識なら戦傷者と死者を混ぜるのは不可解に思われる。ところがそうではない。ここで勘定される戦傷者とは軽傷はもちろん指の2、3本失った人間は戦傷者のうちには入れられない。

 戦傷者とはその後正常な社会的生活をできない状態になった者を言う。すなわち死んだも同然の人たちである。要するに戦傷とは大変なことなのである。ちなみに米軍は硫黄島での被害をはるかに少なく発表した。米軍が被害を正確に隠さず発表したなどというのは大嘘である。特攻隊の攻撃は完全に米本土の国民から隠された。米国とて士気を鼓舞する被害は発表しても、厭戦気分を発生させらる被害は隠した。

 ちなみに国際法について知識のない人のために一言。国際法とは1648年のウェストファリア条約に淵源を持つ国家間の合意である。従って刑法などの国内法とは全く性質を異にする。基本は国家間の条約の集合と国際慣習から成り立つ。そして基本は戦争のやり方を規定した戦時国際法である。戦時国際法は軍事法廷などの国内法の制定を行って初めて実効性を持つが、実際には強いものの正義、すなわち国際法を相手国家に強制する軍事力を背景とする。もともとは戦争ありき、すなわち戦争は国家の権利であるという正戦論から始まる。

 そして戦闘の際には武器を公然と携行し、戦闘する服装と階級を明示しなければならないとか、捕虜の定義と権利などがある。ここでは民間人が私服で武器を隠し持って兵士を攻撃した場合、捕虜となる資格はない。つまり捕縛されたら無条件に殺害されても違法ではないのである。アメリカがアルカイーダは捕虜とは看做さないと言ったのはこの意味である。南京占領で日本軍が私服に着替えて隠れた兵士を捕縛殺害したのも正当である。本土空襲で民間人殺傷を目的としたB29爆撃機の撃墜された搭乗員を軍事法廷で死刑にした日本の行為も国際法から合法である。本来は原爆投下を命じたトルーマン大統領も本土空襲を指揮したカーチス・ルメイも死刑に相当する。

 また国際法の中立国の定義は何と中立を守れることである。つまり交戦国に自国領土に自国の領土の通過を許したり、軍事物資の提供を行わないことである。中立国ベルギーはナチスドイツ軍の自国領の通過を阻止できなかったために中立違反と看做された。自国領に侵攻されて武器を奪われることも中立違反である。だから永世中立国スイスは成人の国民全員が武器を自宅に携行して、時々軍事訓練を受ける重武装国家である。中立は他国が尊重してくれるものではなく、自ら守るものである。いまや常識となったが、非武装中立は語義矛盾に過ぎない。

 今の日本人なら中立国に侵攻したのが悪いと非難する。だがそれは善悪の問題ではなく、通過されたから中立を守れなかったという事実を指摘しているのに過ぎない。そもそも戦争をする権利があるのだから、戦術の必要に応じて他国に侵攻して通過したのは善でも悪でもなく、権利の問題である。自衛の権利である。自衛か否かの判定は各国自身が行うといわゆる不戦条約でも留保がされたのである。この論理を理解しないものは、国際法を理解し得ないものである。

 閑話休題。外国人が作ったという多少の違和感があるにしても、当時あり得ない変なヒューマニズムを持ち出す日本の戦争映画より余程ましである。なお三八式歩兵銃を、ライフルと呼んでいた場面があったのはひどかった。俳優が気付かないとは考えにくい。日本人が欧米の映画に出るときは、一般的に自己主張しない傾向はある。それにしても何十年前ならともかく、最近でもそんな傾向があるのにはあきれる。

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