朝日新聞の戦争協力

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目次

緒言

一編 言論の自由とは

1章 軍事情報と言論の自由
1.1 軍事に関する報道規制はどこの国にもある
 軍事に関する報道規制は必要/誰が大本営発表を批判できる


1.2 見当違いな軍事情報制限批判
 日米の軍事情報の制限/情報規制は正確に行うもの/言論の自由は世界と比較すべき


2章 共産主義者の言論の自由
2.1 共産主義者の二枚舌

2.2 言論は弾圧する

3章 批判されないGHQの言論統制
3.1 日本政府による言論統制廃止は言論の自由の招来ではない

3.2 批判されないGHQの言論統制

3.3 わずかな抑圧におびえる言論人
 日本に言論弾圧はない/戦争反対の言論の自由もあった/政府は不当な圧迫を加えていない

二編 創られた新聞弾圧
1 反軍という妄想
1.1 民主主義社会の市民は戦争を好む

1.2 白虹貫日事件は言論弾圧か

1.3 テロの被害に遭わない言論人

1.4 朝日新聞擁護で翼賛する左翼

1.5 朝日新聞と軍部との対立とは何か

1.6 新聞人のエゴ
 新聞社は社員のためにある/なぜ満蒙権益か/軍部という名による誤解

1.7 多士済々の新聞人
 左右混じる新聞人/分裂気味な高原操像


2章 朝日新聞は弾圧されたか
2.1 切捨てられる東京朝日新聞

2.2 朝日新聞被害者説とは何か
 新聞は被害者と見られていなかった/右翼恫喝説/軍部恫喝説/不買運動説

2.3 大阪朝日新聞が満洲事変に反対していた記事はどれか俳句による抗議/事変勃発から「転向」までの大阪朝日の記事/右翼に脅されても変わらず   /社説以外ではどう報じたか/当時の朝日新聞批判

2.4 朝日新聞の不買運動の原因は満洲事変報道ではない

2.5 内田良平による朝日新聞の脅迫は事実か

2.6 新聞関係者は満洲事変計画を知っていた

2.7 石橋湛山の言動は無視されたか

2.8 朝日新聞は弾圧により転向したのではない

2.9 満蒙権益の擁護で一致していた世論
 満蒙権益に対する姿勢/事変直前の満蒙権益報道/支那は統一国家ではなかった/
満洲国は満蒙権益擁護の理想形/満州国は傀儡ではない/傀儡政府とは

3章 新聞は国民の正論を代弁していた
 忘れられた満洲事変への国民の期待/満洲事変なかりせば

4章 GHQに背骨を折られた新聞

三編 販売競争と戦争報道
1章 戦争協力を隠蔽する新聞

2章 作られた銃後の美談

3章「百人斬り競争」報道の前哨戦

4章 過熱する戦争イベント

5章 新聞の戦争協力と政治関与

あとがき

参考文献

1.辛亥革命から満州事変へ(大阪朝日新聞と近代中国)・後藤孝夫、みすず書房1987.8発行
  後藤は昭和11年から朝日新聞の記者となっている。すなわち当時若かりしと言えども、この著書の時代に関しては貴重な同時代人である。

2.新聞は戦争を美化せよ・山中恒

3.閉ざされた言語空間・江藤淳、ちくま学芸文庫版

4. 戦う石橋湛山・半藤一利

5.太平洋戦争・日本海軍の教訓半藤一利、秦郁彦、横山恵一共著

6.五十人の新聞人・鞄d通

7.二・二六事件・中公新書・高橋正衛

8.歴史の瞬間とジャーナリストたち−朝日新聞にみる20世紀朝日新聞社・五十嵐智友/1999.2第一刷
  五十嵐は朝日新聞社社員・朝日新聞論説委員を経て愛知学院大学教授など


9.思想、昭和481月号「満洲事変と大新聞」江口圭一・

10.
「日米関係史4」細谷千博、斉藤真、今井清一、蝋山道雄編掲載論文「マス・メディアの統制と対米論調」掛川トミ子

11.思想、昭和32年、399号掲載・「日本軍国主義とマス・メディア」荒瀬豊

12.朝日新聞大阪版、昭和60911日〜14掲載「戦争と新聞」秦正流

13.論座、平成7年8月号

14.実録・侵略戦争と新聞・新日本出版社・塚本三夫

15.「大阪朝日新聞は正に国賊 国賊新聞正体曝露」昭和7年3月発行、藤吉男

16.朝日新聞血風録、稲垣稔、文芸春秋社

17.国士内田良平、内田良平研究会、展転社

18.資料 日本現代史(8)満洲事変と国民動員、大月書店

19.私の朝日新聞社史・森恭三 田畑書店、1981.9.30第一刷

20.言論の不自由・朝日新聞社会部編・径書房・19982月第一刷

                              緒言

 現在の朝日新聞は戦争反対と平和主義を標榜している。しかしそれは、戦後GHQの言論弾圧に屈し、さらには迎合した哀れな姿に過ぎない。戦前の朝日新聞は、政党政治の対外政策にもどかしさを感じ、軍を支持したのである。それは日本のために当然であったのであろう。しかし朝日新聞の戦争報道はそれに止まらなかった。朝日新聞は販売部数獲得のために戦争報道を利用して、キャンペーンをはり、拡販に成功して大新聞に成り上がった。上海事変で「肉弾三勇士」という過激な言葉を発明したのは朝日新聞である。

 これは軍の強制によるものではないことは明白である。肉弾三勇士の歌なるものの歌詞を懸賞金つきで募集さえしたのであるが、ライバルの読売はこのようなキャンペーンはしていないのが端的に証明している。朝日新聞は戦争に散った若者の命を、親兄弟親戚の悲しみをよそに笛と太鼓を叩いてはしゃいで見せたのである。しかもそれは社業拡張の犠牲となったのだ。何と言う非情。

 民主主義の米国でも国軍が戦っているときに、軍の行動を大筋で支持する。少なくとも敵対勢力と組んで国軍を非難することはしない。それでも朝日新聞の戦争報道は扇情的であった。その体質だけは現在も受け継いでいるとしか思われない。
朝日新聞など左翼的マスコミに批判的な雑誌に、なぜ朝日新聞が満州事変について軍の行動を支援する報道をしたかという記事があった。

 事変当初は批判的な記事を載せていたのだが、在郷軍人などの不買運動にあって営業筋から論調を変えたという説が紹介されていた。そこで当時の東京朝日新聞の縮刷版を見たのだが、批判的な記事は見当たらない。少なくとも、不買運動に発展するような明確な反対論はないのである。


 東京朝日と大阪朝日とは確かに別物に近い部分が多いので、しからば大阪朝日ならと調べて見たが大して変わらない。そもそも批判的な記事がないならば、論調を変えたということはあり得ない。しかも当時の新聞には別の件で軍の姿勢に強硬に反対する記事は存在することも発見した。しかしこの不思議は何年も記事の見落としがあるのではないかといつまでもわだかまった。
すると疑問が浮かぶのは、自らの意志で満州事変を支持していたにもかかわらず、現在では都合が悪いため、新聞関係者がアリバイ作りとしてそのような説を流布しているのではないかということである。

一編 言論の自由とは
1.1 軍事に関する報道規制はどこの国にもある
 軍事に関する報道規制は必要
 戦前の軍部による言論圧迫なるものには誤解がある。すなわち平時でも戦時でも軍事に関することには、言論の自由を標榜する米国においても報道が規制されているという当然のことが等閑視されている。まして、戦時においてはこの規制は格段に強化される。独裁国家においては規制が厳しいことは勿論だが、民主主義国家においても程度の差こそあれ、同様である。

 むしろ民主主義国家の欧米諸国においては、独裁者の恣意により不当な言論弾圧が行われたり、逆に秘密にすべき情報が勝手にリークされないように、情報の制限と開示は極力正確な手続きが事前に定められているのが一般的である。個人においても組織においても古今東西秘密は存在する。戦前の日本の言論の自由を批判する個人であっても新聞社なりの組織であってもそれは当然である。問題はそれが不当に秘密にされているか否かである。

 本来言論の自由を語るには、自由にすべきこととそうでないことの相克があり、健全な国家にするためには、いかなる状況のもとにはいかなる自由まで許容すべきか、ということを真剣に考えなければならない。単に制限があったという事実を並べ挙げて、言論の自由がないと批判するのは、現実の政治や軍事を考える上で無意味である。戦前の日本を言論の自由がなかったと批判する新聞社や個人に聞きたいあなたやあなたの会社には一切秘密はないのかと。どんな情報の開示要求にも応じるのかと。

 誰が大本営発表を非難できる
 日本が行った戦時中の大本営発表は虚偽の誇大報道として常に非難の対象となる。虚偽報道の代名詞ともなっている。ところがその批判の急先鋒のはずの労働組合が「大本営発表」をしているのだから笑えない。メーデーの際の参加者数がその典型である。屋外のイベントで参加者を正確に勘定するのは難しい。そこでメーデーやデモなどの労働組合の大衆行動は常に主催者側発表と警察の発表の参加者数が大幅に異なるのが常である。イベントが盛り上がったことが労働組合幹部の得点となるのに対して、警察側では盛り上がりがあろうとなかろうと利害がないことから、これは主催者側の過大発表である可能性が高い。子蟹の横這いを注意する母蟹のごとくなのである。

 平成17年からプロ野球の入場者数は実数の発表に切り替えられた。それまでは実数ではなかったのかと驚くしかないのだが、その結果東京ドームの巨人戦の入場者数が大幅に減って、入場者一位の座を阪神に譲った。嘘がばれたのは常に満員御礼の出る東京ドームのはずなのに、テレビ中継では空席が目立つということであった。このように主催者側が誇大発表を行うのはある意味で当たり前の心理である。

 その意味で大本営発表が誇大であるのは当然とも言える。イベントを主催したことのある者で、そのことを道義的に非難できるものはまれであろう。単純に「大本営発表」をしてはならないとは言えないのである。大本営発表そのものに罪はない。米軍が真珠湾攻撃の被害を隠蔽しなかったのは、国民の士気鼓舞に役に立つと判断したからであって、事実米国民は日本に敵愾心を抱き、反戦から参戦に雪崩を打って転換した。

 戦争末期の神風攻撃に米海軍は何万という戦争ノイローゼと多大な被害を受けた。しかし米海軍は体当たり攻撃そのものを隠蔽した。日本軍の体当たり攻撃は米国の対日無条件降伏の方針を転換せざるを得ないほど深刻なものであったから当然である。体当たり攻撃と被害の事実をありのままに報道したら、米国民は日本の反撃はやむにやまれぬものであると悟って厭戦に陥る可能性すらあったのである。

 また、日本の体当たり攻撃が大きな戦果を挙げていると日本に知らせたら、さらに体当たり攻撃にみまわれて大きな被害を受けることになるからである。米軍の被害情報にも巧妙な情報操作がある。神風攻撃の被害には、輸送艦艇や上陸用艦艇の数は含まれていない。このような小型艦艇の方が体当たり攻撃の被害が大きかったから、三百隻といわれる神風による沈没艦船の数は実はもっと多いのである。

 また、米軍の被撃墜数は当該戦場で墜落したものだけが数えられ、被害を受けて戦場を離脱して基地にたどり着く前に墜落したものは含まれていない。かくいうように戦争の戦果と被害を都合のよいように報道するのは世界の常であり、そのような観点から大本営発表を単純に批判するのは意味のないことである。

 戦争末期の大本営発表の過ちのひとつは、国民を欺くために大本営発表の誇大な戦果を公表したわけではないという事実である。パイロットなどの戦闘員の技量の低下や敵の防空網の熾烈さから戦果の確認が困難になり、至近に落下したものを攻撃成功と誤認したり、一度の攻撃を複数の観測者が重複して戦果を報告することも頻繁に起きた。あるいは輸送船への体当たりを空母と誤認するなどの艦種をより大型の艦と誤認することも稀ではなかった。このようにして誇大な戦果が積み上げられていく。

 これらの報告は出撃した兵力と兵装などから冷静に司令部が判断すれば間違いをある程度修正できるはずである。ところが部下の決死の攻撃が実は失敗であった可能性が高いなどと冷徹に判断することのできない人情が災いして、おかしいとは思いつつ上層部に報告する。一般的に敗者は勝者の側より戦況が混乱することから、戦果の確認が困難となる。このように過誤が過誤を累積して誇大な戦果が出来上がる。多くの大本営発表は間違いではあっても、必ずしも故意にする嘘ではないのである。すなわち正確な戦果をつかみ得ないという欠陥が生んだ結果であるという問題を抱えている。

 過ちの最も重要なものは大本営発表の結果をその後の作戦に反映したということである。台湾沖航空戦では300機を超える航空機を喪失したにもかかわらず、空母と巡洋艦系三隻に大小破の被害を与えたに止まったのに、空母19隻を撃沈破したと発表した。この戦果は直後の敵艦隊への偵察で疑問視されたにもかかわらず修正されず、その後の陸海軍の作戦の前提にされたのである。

 大本営発表で誇大な戦果と過小な被害を発表することは、自らわきまえていさえすれば必ずしも間違いではない。本質的な間違いは誤った戦果を積み上げる過程と、その戦果をその後の作戦に反映させるという二重の錯誤にある。その意味で巷間で言われる大本営発表に対する批判は見当違いも甚だしい。

1.2 検討違いな軍事情報制限批判
 日米の軍事情報の制限
 軍事情報の秘匿についてはとんでもない意見がまかり通る。例えば半藤一利氏は(4)上海事変における海軍の情報規制について、「当時の言論の不自由さを理解するために、どんなものか、参考までに書いておく」として、艦隊と陸戦隊の派遣については上海到着まで新聞に掲載しないことと、連合艦隊と事変に関係ある海軍艦船の行動については掲載しないこととした海軍の指示をあげてさらに広範な禁止事項が追加されたとして、以下の項目をあげている。

1連合艦隊ならびに関係ある海軍艦船の行動に関する事項

2連合艦隊ならびに長江(揚子江)方面にある海軍艦船および部隊の将来の企図計画に関する事項

3 海軍の補欠召集に関する事項

4 事変に関連する船舶徴傭に関する事項

5 海軍工廠および民間会社等における事変関係作業増加の状況ならび工事の種類等に関する事項

 この禁止条項について半藤氏は事変の内容や海軍の動きについては何も書くなと命令されたに等しいと批判する。しかし、ここに掲げた事項を知りたい一般大衆がいるだろうか。それこそスパイが知りたい事項そのものである。戦争中の軍隊がこの程度のことを秘密にするのは当然のことである。海軍の動きを逐一報道して敵に知らせて、日本軍の損害を増やせとでもいうのだろうか。

 江藤淳氏
(3)によれば、昭和十七年の米国政府当局はマスコミに対して次の項目についての公表を禁ずるとした。

(1)兵員の移動、(2)艦船の運航と積荷等、(3)撃沈破された艦船に関する情報、(4)空襲情報、(5)航空機情報、(6)要塞等の防備状況、(7)生産関係、(8)天候気象、(9)流言蜚語、(10)写真と地図、(8)被害状況の報道(兵員の損失、軍事施設、艦船の損害)

 とあり、前述の日本のものに比べると具体的かつ詳細である。これをもって米国も報道の自由がなかったと批判するのであろうか。戦争中にこのように報道が制限されるのは当然なのである。情報の制限はできる限り具体的で詳細な方が、担当官の恣意による情報の流出や混乱が防げるのであって、米国の詳細な項目の提示はむしろ望ましいのである。

 ところが、日本海軍の情報制限を批判する半藤氏は、著書の対談で(5)ミッドウェー海戦の直前に海軍関係者が一般市民に作戦のことを漏らしていて、情報管理がなっていない、そんな油断が敗北につながったのだとする批判を共著者と断じているのだから恐れ入る。この批判自体は当然のことであり、同様の指摘は多くの識者からなされている、いわば常識となっている。しかし言論の自由を語ることになると、同一人物がそれは言論の自由の不当な抑圧であるかのごとく説明する。半藤氏のように軍事にある程度知識のある作家にしてこれである。

 江藤氏によれば米国の検閲はもっと徹底している。国内の検閲のための検閲局は昭和18年の時点で、14462人であった。ラジオでのリクエスト番組や街頭録音もスパイの交信に利用するというので禁止され、個人の郵便も開封検閲された。郵便開封の際の個人リストを作り、抽出のための統計的手法も使用された。ここまでくれば日本の検閲などいかにずさんかわかる。

 米国内における検閲の成果のひとつがノルマンディー上陸作戦の秘匿であったというから、ミッドウェー作戦時の情報制限のずさんさが浮き彫りにされる。日本関係の取引の仕事をしていた米国婦人が見事に検閲に引っかかって逮捕され、禁固10年と罰金刑をくらったほど徹底していたのである。半藤氏らの日本の言論制限批判がいかに見当違いかわかる。

 
日本は言論の自由がなかったのではなく、言論統制がずさんで言論の自由がありすぎたのが敗戦の一因ともなったのである。さらには戦後の米軍による言論統制にみごとに敗れたのである。ただ米国では、言論は自由であるという国是の建前から、実際に検閲するときの相克に悩まされたと言うから、日本の識者の見識とは一段の差がある。

 情報規制は正確に行うもの
 山中恒氏は戦時中のくだらない言論弾圧の例として(2)昭和20225日の朝日新聞のコラム「青鉛筆」に40年ぶりの大雪がふったことを書いたことが内閣情報局の情報官からクレームがついたとして、クイズ仕立てで面白おかしく批判している。だが前記の米国の公表禁止条項にも気象情報は含まれているのだ。航空機の飛行には天候は重要である。山中氏は知らずとも軍事に気象は重要なのである。桶狭間の豪雨が信長の不利を逆転勝利に導いた。

 三日前のことをと批判するが、40年ぶりということは当分ありえないということの、天候予測でもある。なによりも情報はどのように使われるかわからないのである。担当者の判断で目こぼしをすれば原則が崩れる。それでは情報管理はできないのである。かくのごとく戦前の日本の言論の自由に対しては、どの世界にもありようもない無制限な自由を当然のありようとして批判するからほとんど批判として意味をなさない。

 言論の自由は世界と比較すべき
 戦前の言論の自由について論じるときは、当時の世界の他国と比較すると同時に、現在の世界の言論状況とも比較すべきであるのは当然であろう。戦前の日本に言論の自由がなかったという主張に対しては二編で検討するが、ここでは現在の世界においても言論の自由のない国が数多く存在するということを指摘するだけで十分だろう。

 言論の自由のない国の典型は共産主義と呼ばれる体制の国である。共産主義というものが、ひとつの思想から生まれてそれを国家体制に選択した瞬間から、それに反対する者を抑圧しなければ体制が成り立たないという必然と、共産主義を受け入れる素地のある国には言論の自由のない伝統があったという事情が複合する場合が多い。

 典型は中国である。中国では古来王朝の正統を主張するために、それまでの歴史を破棄して、現王朝に都合の良い歴史に書き換えるという習慣が存在する。被支配者(必ずしも国民ではない)はこれを唱道することだけが許され、反する者は抑圧ないし処刑される。現在でも政府にわずかに抗議するだけで多くの場合処刑され、運よく欧米に知られた知識人だけが、欧米の抗議を恐れて国外追放の処分という寛大な措置がとられる。

 ソ連でも形は違うが言論統制は徹底していた。鉄のカーテンといわれる情報鎖国がそのパターンであった。それも知らず、すばらしい理想社会ソ連を信じた戦前の日本人はあわれにもスパイとして処刑された。そのことは日本では未だかつてそのように徹底した言論統制がなかった証拠でもある。自由な言論のある日本では、知識人は言論統制による宣伝の嘘など思いもよらないから、すばらしい理想社会と言われれば本当に違いないと信じてしまったのである。

 ソ連崩壊の直前に民放でロシア国民と日本国民の討論会が行われたことがある。そのときですらロシア人の言動は一糸乱れず一致していた。ところが日本の司会者は言論が統制され、発言が強制されていることに疑念すら抱かなかったのである。大抵はロシアのように国民の民度が高まるにつれて、言論の自由は拡大するものである。ソ連の崩壊の原因のひとつにはそれがある。

 しかし中国に民度の向上ということは見られないようである。平成十七年の日本大使館や商店などに対する投石やデモ行為は政府により統制された行動であった。これは義和団事件やその後の排日運動による暴力行為と何ら変わらない。すなわち百年たっても少しも民度は向上しないのである。それがインターネットという情報手段の向上した現在でも変化ないように思われる。変化がないどころではない。国民がそれを利用して民度が向上するならまだしも、インターネットなどの情報手段の進歩は、国民の統制に利用されている。インターネットは自由に利用できるのではなく、政府に都合の悪い情報が流れないようにうまく利用されている。

 それは軍事技術の向上が反政府活動がやりにくくなることとよく似ている。小銃ならナイフでもうまくやれば勝てるし、それを奪って利用することが出来る。しかし戦車や機関銃、装甲車といったものに至ると、到底太刀打ちできない。運よくそれらを奪ったところで、利用する技術がない。仮に利用できたとしてもそれらの最新機器は組織的なサポートがなければ、たちまち使い物にならなくなる。

 北朝鮮などははるかな論外である。このように現在でも戦前の日本に比べてもはるかに言論の自由のない国は多い。しかし戦前に言論の自由がないと声高に主張する連中は、これらの国に比べればささいなとしか言いようのない「弾圧」に過敏に反応する。そして中国のように現代でもはるかに言論の自由のない国に対しては何らの批判もしない。しないどころか、国民を抑圧している政府の声は聞き、国民の声なき声に耳を傾けようともしない。これらの人士は言論の自由を主張しているのではなく、日本批判のために言論の自由というキーワードを使っているようにしか思われないのだ。

2章 共産主義者の言論の自由
2.1 共産主義者の二枚舌
 共産主義者の言論の自由とは不可解なものである。多くの日本の左翼の言論人は戦前の日本に言論の自由はなかったといい、現在でも自民党の政治家がマスコミ批判をしようものなら言論弾圧だという。日本の政治家のマスコミ批判などは投獄など実効性を伴わない、とるに足らないものである。これに比べれば共産主義諸国、旧ソ連、中国、北朝鮮などはわずかな政府批判でも、露見したら強制収用所送りか命を奪われる。

 中国で政府批判を行ったものが簡単に殺されずに刑務所送りになり、あげくに米国に追放されるなどというケースは、彼らの嫌いな米国など西側に弾圧が判明した場合だけであり、さもなければ誰も知られず処刑されている。というわけで公然と母国中国を批判できるのは米国に亡命した者ばかりである。


 中国の趙紫陽共産党総書記は天安門事件の際に学生たちに同情的な立場を表明しただけで失脚し、裁判もなく軟禁され一生を終えた。政府幹部でさえ、反政府の言動を行ったわけでもないにもかかわらず、悲惨な末路を過ごさなければならなかったのである。
自由主義社会であるはずの最近の韓国でも大学教授などの親日的な言論により社会的に抹殺されたり、批判や声明の危険から国内にいられないという状況が発生している。日本を対象とした場合、韓国には反日以外に言論の自由はないのだ。また韓国民が北朝鮮に拉致されたことを被害者家族が抗議や政府による支援を要請しようとすると弾圧されるので、日本よりはるかに多くの拉致被害者がいるにもかかわらず、拉致が問題にもされないという奇妙な状態にある。

 それでも韓国は共産主義国と異なり言論弾圧の多くが民間によるものであり、政府による抑圧はまだ徹底を欠いている点でまだましであるとは言える。ところが日本の共産主義者やそのシンパはこのような過酷な言論弾圧があるにもかかわらず、韓国や共産主義諸国における言論の自由には言及もしない。一体かれらは本当に言論自由を求めているのであろうか、と思わざるを得ない。

 日本の共産主義シンパは実は言論の自由を求めているわけではないという証拠がある。かの家永三郎教授である。有名な教科書裁判である。家永教授は自分の執筆した教科書が検定を受けて修正を要求されると、検定は憲法違反であるとして長期間の裁判闘争を行った。ところが、左翼的な記述が多い教科書の現状を憂いて国書刊行会が「最新日本史」を出すと韓国や中国から修正するよう要求された。

 なんと検定に反対していたはずの家永教授は文部省が「最新日本史」をこれら外国の要求に従って修正させることを主張したのである。家永教授は検定に反対していたのではなく、自分の言論は絶対的に正しく、それに反対するものの言論を弾圧すべきだと考えていたに過ぎなかったのである。彼は自分が検定されることに反対し、他人を検定させるべきだと主張することに何の矛盾も感じていなかったのである。

 余談であるが、家永氏は戦後一時期まで熱烈な尊皇主義を主張していたが、あるとき忽然と左翼的な言論に転向しその生涯を終えている。戦後しばらく戦前の思想を継続していたのは様子見をしていたのであろう。彼は尊皇であれ左翼思想であれ、過激な表現をするという一点だけで、かろうじて人格の統一性を維持していたように思われる。要するに彼は世間の思潮の動向に敏感だったのに過ぎない。

 信念の持ち主ではなく、いわゆる風見鶏である。現在韓国ではかつて親日であった人物の過去をあばく運動が行われている。もし日本でも同様な運動が行われていたなら、家永氏の戦前の思想は現在とは正反対であったとして糾弾されていたであろう。


2.2 言論は弾圧する
 さて左翼言論人のこのように矛盾した言論の自由に対する考え方はどこに由来するのだろうか。その答えを向坂逸郎が明瞭にしてくれる。向坂逸郎は当時九大教授であり旧社会党の社会主義協会派の指導者であった。ゴリゴリのマルクス主義者といわれる、戦後日本の典型的共産主義者である。向坂は田原総一朗との対談で(*1)次のように述べる。いわく「ソ連は自由です。日本とはくらべものになりません。」という。

 プロレタリア独裁政府に反対するとどうなる、と聞かれて「反対を行動にあらわせば、それは弾圧されても仕方がない。」と答える。行動とは文
章に書いたりグループを作ることも行動だという。「・・・政府に反対する言論・表現の自由はない、ということになるのですか?」と聞かれても「それは、絶対にありません。それはまずいですからね。」と明瞭に答える。

 その後で「思想の自由も、日本とは比べものにならないくらいある。」と平然として答える。この対談を読めば共産主義者の思想・言論の自由の意味とは何か明らかであろう。家永氏の検定に対する態度も、これを踏まえれば矛盾でも何でもない。共産主義者はわれわれとは異なる言語を話しているのである。現在の日本の左翼すなわちかくれ共産主義者が戦前の日本に言論の自由はなかったと主張するときは、彼らはこのような言語を話していることに注意しなければならない。

 後述するが戦後、日本のマスコミなどの言論が米軍に徹底的に検閲、弾圧されたことを左翼言論人は一切言及しないことも、彼らの話す言語から考えれば当然のことである。ちなみに私もテレビで向坂教授のインタビューを見たことがある。共産主義の実現した社会では異なった意見についてどうすべきかを問われたとき、教授は「弾圧する」と簡潔に述べた。これが全てを語っている。


 GHQによる占領期の日本に対する言論統制は、マスコミの検閲や発行停止、統計的抽出手法による親書の開封など完璧とも言えるものであり、戦前の日本の言論統制など間抜けにしか思われないものであった。それにもかかわらず、彼らにはその比較あるいは批判をする必要すら感じないのである。

(*1)「諸君」昭和527月号

3章 批判されないGHQの言論統制
3.1 日本政府による言論統制廃止は言論の自由の招来ではない
 「戦争を美化せよ」では米軍が新聞紙法を廃止したことを持って、言論自由がやってきたと歓迎した。明白な嘘である。昭和二十年九月の占領軍の指示で新聞紙法など、マスコミを統制した各種法律は廃止された。しかし占領軍による検閲はさらに強化されたのである。前掲書ではそのことについて故意に触れないという嘘をついている。新聞紙法は天皇とマッカーサーとの会見の写真を載せた新聞の配布を禁止した内務省に対して新聞が日本政府に従わず、占領軍に従うよう指示するためにこれらの法律を廃止したのである(*)

 朝日新聞などは自らこの写真をのせようとしなかったにもかかわらず、結局のせるよう占領軍に強制された挙句、新聞の配布を禁じられたというわけである。

 しかも新聞紙法等の廃止には、米軍は言論の自由を妨害してはならないなどと宣言した。マスコミは政府の批判の自由はあるが占領軍や連合国の批判の自由は一切なかった。この点を山本氏は全く触れず、言論の自由が到来したと歓迎している。日本政府の検閲には抗議し、外国のそれには一切黙する。これは卑屈と呼ぶべきか、卑劣と呼ぶべきか。

3.2 批判されないGHQの言論統制
 日本の戦争について新聞が協力した、あるいは協力させられたなどとする文献や論文は多い。しかしそのほとんどが、GHQの言論統制による言論統制についてはほとんど触れないか、触れたとしても批判的態度を取るものが多い。江藤淳氏の労作、「閉ざされた言語空間」などは例外に属するといってよいだろう。

 
しかも不思議なことに日本の侵略戦争と非難し、日本政府による言論統制を追求批判する立場の論文はGHQの言論統制を批判しない。例えば「侵略戦争と新聞」(14)がその典型である。「はじめに」で「『言うべきとき』『言わなければならないとき』、そして『言えるとき』にものを言うことこそが、ジャーナリズムであろうとするかぎり、なによりも大事なことである」と大言壮語する。

 ところがこの本はGHQの言論統制については、あったことすら論及しない。この本では占領軍の「改革指令」については論及しているのだから故意に触れないのである。GHQの言論統制は「言うべきとき」でないとすれば、言うべきときとはいつなのであろうか。著者は自らの大言壮語を平然と裏切っているのだ。「言論の不自由」(20)においては、満洲事変から現在までの各種の言論規制を扱っている。当然事変で朝日新聞が軍部や右翼の圧力で論調を変えられたことに言及する。そして国家による言論統制ではない、戦後に起けるいやがらせなどの圧力も各種記述する。ところが、発行停止処分はもちろんGHQによる言論統制、検閲については一切触れない。この本は朝日新聞社会部編なのである。

 朝日新聞販売百年史には、GHQによる検閲は書かれているものの、9月に二日の発行停止になったことは全く書かれていない。朝日新聞の百年の歴史でたった一回の、公権力による発刊停止という言論の自由を徹底して奪われた事件について、何の記述もないという神経は理解できない。後藤氏の著書(1)は表題の通り辛亥革命から満洲事変を扱っているのだから、戦後のGHQによる検閲を書かないのは仕方ないともいえる。しかし戦前の日本の言論弾圧を詳細に追求し、ある程度満洲事変以後も扱っているのだから、都合がよく触れないでいることができたと考えるのも邪推ではなかろう。

 「歴史の瞬間とジャーナリストたち」(8)の扱いは面白い。この種の著書ではかなり詳細にGHQによる言論統制を扱っている。「宣言『国民と共に立たん』GHQの新聞統制下で苦闘」という一章を設けている。ところが内容はといえば、日本政府による言論統制は一般的にすべきではないもの、という態度であるのに対してGHQに対しては結構淡々として批判的言辞は少ない。

 「・・・正確な客観報道という新聞として当然の原理も含まれていたが、基本的には戦勝者としての占領軍の立場からの統制・指導であり、占領軍の解釈しだいで言論弾圧の武器としても使われた。」として「・・・総司令部の新聞統制の方が薄気味悪かった」という関係者の証言を引用している。また、米軍の指示に反して写真を焼いて米軍の憲兵隊に連行され、留置中に自殺した事件について「ついに朝日から犠牲者を出した」としながらも事実関係を述べて「太田は責任感から自殺したと思われる」と結んでいるに止まる。このように、自社の社員から弾圧の使者が出るという事態に対しても、GHQの言論統制については日本政府のそれに対して比較的淡々としている。

 これに対して強く反発している事件もある。ひとつは用紙配給権の件である。「GHQは、用紙配給権を実質的に握り、新聞統制の武器とし、中央紙の影響をそごうとして、地方紙や新興紙に用紙を優先的に配給していた」という。言論統制に対する怒りよりも、よそに用紙が回されるので自社の新聞が売れなくなるということを怒っているのだ。この怒りには地方紙や新興紙に対する中央紙としての優越感が見え隠れしている。

 次は朝鮮戦争についての社説である。「日本が占領軍の命に服し占領行政に忠実でなければならぬということと、進んで日本が米軍の軍事行動に協力するということは、建前として厳密に区別されねばならぬ」などと米軍に協力するなと呼びかけたことに対して、洞ヶ峠をきめこんでいると「攻撃した」と反発する。その後朝鮮戦争の原因について北朝鮮側に立ったことと軌を一にしている。自社のエゴの優先といい、その後の社の立場からの反発といい、そこには言論弾圧そのものにまず怒るという姿勢はないように思われる。

 山中恒になるともっと露骨である(2P843)。比較的淡々とした前掲書に対して、山中はもっと戦前の言論統制に怒って見せる。この著書でもGHQによる言論統制に言及するのだが、批判というより理解を示す。GHQの検閲担当官が声明を出したのに対して、「これははっきりいって新聞の責任というよりも、新聞が抑圧されてきた惰性から脱出できていないこと、さらには内務省などの権力機関がこの問題について積極的な姿勢を示さず、サボタージュしていることへの、占領軍側のいらだちによるものであったろうと思われる。」「しかし、相変わらず皇室関係記事がトップであり、天皇=至尊の別格扱いが行われており、これを見る国民はやはり、そのマインドコントロールから解き離たれることはないという点も見逃せないだろう。」などとコメントする。

 同書では(2P840)では、昭和二十年九月十四日の同盟通信に対するGHQの業務停止命令についての見解を述べる。同盟通信は結局GHQの措置により解散に追い込まれるのだから、重大な言論弾圧のはずである。なぜなら「反軍」新聞と主張する朝日新聞ですら、解散されたことはないのだから。山中は同盟通信の「通信社史」が業務停止になった原因について「・・・当時『同盟』や各新聞は、アメリカ兵の頻々たる暴行を、警視庁の発表するままに報道していたが、これは軍当局をはなはだしく刺激していた。マッカーサーはそうした事情をおそらく知っていなかったが、ベイリーから聞いて急に硬化したのではないかと想像される。」と述べるのに対して「これは説得力に欠ける」というのだ。

 それは「同盟がナチのDNB同様の国家通信社として、日本の軍部の庇護のもとに通信業務を行い、強力に国内外に対する情報操作に手をかしてきたことを、ベイリーによって指摘されたからではなかろうか。」というのである。その根拠を同盟の古野社長が戦犯の指名を受けたことに求める。日本のマスコミは同盟通信を失うことによって、海外との情報を失うことになり、日本は米軍が企図した「全世界的な対日情報封鎖」(3P394)されて、日本が情報操作されるという重大な言論の危機であることを山中は問題にもしない。そしてアメリカ兵の頻々たる暴行」については話題にすらしない。ひたすらGHQの言論統制に理解を示す。

 要するに言論統制の影響をなくすための言論統制だから、GHQの言論統制はむしろよいことだというのだ。日本人のジャーナリズムはそのように愚かであったというのだ。そして天皇を尊敬するような洗脳がされていたというのである。戦後多くの新聞関係者がGHQの言論弾圧は過酷であったはずにもかかわらず、触れることを避けてみたり、批判的態度をあまりとらないことは、この山中の書きぶりに要約されているように思われる。戦前の日本は悪い国で、国民は愚かであったからそれを否定するものなら何でも歓迎するのである。

 そしてその傾向は今でも続く。平成17929日の朝日新聞の天声人語である。60年前に昭和天皇とマッカーサーが並んで写った写真が新聞に掲載させられた経緯を説明する。この写真の掲載を内閣情報局が発売禁止とすると怒ったGHQは「日本政府の新聞検閲の権限はすでにない」と処分の解除を命じたという。このことを天声人語子は「戦時中の新聞や言論に対する制限も撤廃も即決したのだ」と歓迎する。

 あげくは高見順の「敗戦日記」を引用する。つまり「これでもう何でも自由に書ける・・・生まれて初めての自由!」なのだそうである。そこには江藤淳が明らかにした完全な言論統制に対する批判もなければ、日本政府も行わない計画的な私信の開封検閲や朝日新聞が
GHQの逆鱗に触れて二日間の発行停止にされたことも言わない。GHQによる言論統制はなかったかのごとくである。

 このことは共産主義者の向坂一郎が共産主義社会では反政府の言論は弾圧すると述べる一方で、共産主義のソ連には日本よりはるかに言論の自由な国だと平然と述べたのと軌を一にする。すなわち自分と相違する考えの表明を弾圧することは言論の自由に反しないのである。だから
GHQの行った言論統制の方向が気に入れば、言論の自由がないとは言わないのである。

 実は天声人語子は本末が転倒している。天声人語子の気に入った考え方とはGHQの言論統制により形成したものである。だからGHQが言論統制をやった事実を突きつけられても何ら不自由を感じていない。金魚蜂で泳ぐことに慣れきった金魚が、金魚蜂の中に閉じ込められていることに何の不自由を感じない如くにである。

3.3 わずかな抑圧におびえる言論人
 日本に言論弾圧はない
 日本の言論人は本当の弾圧を知らない。日本の統治者はかくもやさしかったのである。GHQによる「日本政府による言論弾圧」なるものを教育されると、そうだそうだとばかりに他国では取るに足らない言論の抑圧まで特筆大書して「弾圧」だと叫ぶ。そうでもしなければ日本の歴史に過酷な弾圧など発見できないのである。

 例えば悪名高い治安維持法である。施行以来、ただの一人の処刑者すらいない。拷問による死者すら一桁に止まる。旧ソ連や中国などの共産圏においてはその何千万という人間が粛清された。拷問による死者などは数え切れないであろう。米国においてすら、黒人の抑圧による死者は数限りない。抑圧というよりは憎悪による殲滅というに等しく、日本で言う黒人差別などという言葉で表すのは生易しいというより、虚偽に近い。


 米国民が自由を称揚するのは単なる気風ではない、激しい抑圧に打ち勝った経験があるからだ。日本にはそのような経験がないから、他国における過酷な弾圧を信じることが出来ない。ソ連や中国、北朝鮮をすばらしい社会だと言われると無批判に信用する原因のひとつである。
かの有名な左翼思想の大御所、丸山真男がいる。

 昭和
40年代に学園紛争が始まると、当然ながら丸山はこれを支持した。しかし全共闘は丸山の教室に乱入して丸山をつるし上げたのである。その結果、丸山は全共闘をナチよりもひどいと語った。丸山は虐殺されたわけではない、拷問されたわけでもない。それにもかかわらず、たかが学生のつるし上げにおびえてナチと口走ったのである。

 彼の考えるナチのような弾圧とはその程度のものであった。彼はその程度で拷問にあった如く脅えたのである。日本にはその程度ですら想像を絶する弾圧としか考えられない平和な社会であったことをこのエピソードは示す。ソ連や中国かつての台湾、北朝鮮の人民に聞けば笑うであろう。だが丸山がせめて最低限度誠実であったと言えるのは、それ以後教育に徹して決して言論活動を行わなかったことである。自らの誤りを行動で反省して見せたことである。

 戦争反対の言論の自由もあった
 満州事変が始まっても、日本の新聞には戦争反対の主張は可能であった。朝日新聞の森恭三は「私の朝日新聞社史}(20)で言う。

 ・・・その頃の大阪朝日新聞社内の空気は、関東軍にたいして批判的であるように私には思えました。ところが、それがいつのまにか弱まっていった。・・・
 そういう情勢を考えると、かりに大阪朝日新聞が「満洲事変反対」の論陣を張ったとした場合、かならずしも孤立無援ではなかったのではないか。と ころが、それをやらなかった。朝日の内部で、論説委員室や編集の部長会が、社運を賭しても関東軍独走を批判し、事変に反対の姿勢をとれというよう な意見を出したという話を、私たちはついに聞かなかったし、また私たち若い記者がこの問題について上部の説明を求める、ということもしませんでした。

 森は事変反対はできたがしなかったというのだが、これは政財界など周囲の情勢を慎重に見回して自らの処世を決めるという、信念のなさの裏返しだが、ともかくも反対はできたはずだというのだ。そして戦後の著作であり事変は悪いことという常識に立っているので、誰も反対論を言わないのが本心であるかどうかということを確認することなく、きょとんとして不思議がっている。彼にとっては本心から賛成したとは言いたくないのだが、そうでなければ、この状況は説明できないのではないか。
 リベラルで知られた東京朝日新聞の緒方竹虎は「五十人の新聞人」(6)で言う。

・・・中央の大新聞が一緒にはっきりと談合が出来て、こういう動向を或る適当な時期に防げば、防ぎ得たのではないか。実際朝日と毎日が本当に手を握って、こういう軍の政治干与を抑えるということを、満洲事変の少し前から考えもし、手を着けておれば出来たのじゃないかということを考える。軍というものは、日本が崩壊した後に考えて見て、大して偉いものでも何でもない。一種の月給取りにしか過ぎない。サーベルを提げて団結しているということが、一つの力のように見えておったが、軍の方からいうと、新聞が一緒になって抵抗しないかということが、終始大きな脅威であった。

 ああなんという証言。これが戦前の新聞界を代表するといわれた緒方竹虎の弁である。掛川トミ子女史がこの言葉を引用して「・・・という発言に至っては何と評すべきか言葉を知らない。」(10P67)とあきれ返るのも無理もない。ともかく当時は事変に反対する言動は可能であったと緒方は証言している。ついでながら掛川女史は戦後の新聞人の弁明について「『・・・それを述べることは当時の状況が許さなかった・・・』とか『行間の文字』が『叫んだ』とかの常套語の羅列によって、どこまでも自己の主体的責任に直面することを回避する」と評している。朝日新聞の大山千代雄の戦後の談話で「朝日全社内に満洲事変を不満とする空気がみなぎっているものだから、自然に紙面にもにじみ出てくる。(1P384)のような証言がある。

 まさに掛川の言うように「空気がみなぎって」とか「紙面にもにじみ出て」などと実証の出来ない常套語で下手な自己弁護をするのだ。結局のところ事変に反対するつもりが毛頭なかったことを、戦後の世論に合わせて反対したかのように言おうとするから無理が出る。


 政府は不当な圧迫を加えていない
 だが戦後になっても、時勢に迎合しない立派な新聞人はいたことは銘記しなければならない。戦前ジャパンタイムズ、中外商業新報などに勤め新聞協会会長を務めた田中都吉の証言である(6p60)

 ・・・戦時中に言論統制で政府と争うことは結局徒労に終わることは各国の事例でも明らかであり、従って此の面では控え目にするより外ない。・・・世上では他の方面の事例に誤られ新聞に対しても政府は不当な圧迫を加えたと盲信する向もあるようであるが、私の経験では、軍部は勿論情報局内務省等、新聞関係の諸君は新聞聯盟当時は却て如何わしい言動もあったが、新聞会になった後で接触した限り、誠に友好的協力的であった。


 これを先の緒方竹虎の弁明と比べるがよい。時流に阿らず、戦時中でも不当な言論圧迫はなかったと堂々と証言している。田中は同書で戦時中言論統制の道具として批判される用紙配給問題についても、新聞聯盟当時の出来事として、配給の基礎を公正化するために、各社で全国に渡り出張調査して決めたと、公正であったことを証言している。

 この間には各社の発行部数は秘匿されていたために乱闘騒ぎまであったそうである。現今言われる戦前の弾圧なるものはこうした正当な証言が埋もれ、自己弁護のための虚偽に近い証言により歪められているものが多いことが、この証言で推測できる。ちなみに田中は外交官出身で生粋の新聞人でないことが、新聞社のしがらみを免れた公正な証言ができる所以であろうか。

続く・A suivre.
・・・このソフトにはアクサン・グラーヴがありませんので

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