書評

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〇航研長距離新記録樹立記録・解読

 さすが国会図書館である。昭和二十五年十一月号の「A二六長距離機・設計より記録飛行まで」として、木村秀政氏の論文があった。14ページほどのものだが、興味あるところだけ読み解いてみたい。項目は記事のものを採用した。全て旧かな遣いなので改めた。

●計画の発端

 まず驚いたのは「大東亜戦争」と書かれていることである。検閲によく引っかからなかったものである。この年位になると、あらゆるジャーナリズムが検閲されなくても、自己検閲で「太平洋戦争」と記していたからである。航研機と略称するが、陸軍と組んで朝日新聞が紀元二六〇〇年記念事業として、長距離飛行記録樹立を目指したものである。今の朝日新聞は頬かむりしているが、こんな計画をしていたのである。


●大きさの決定

 エンジン出力は公表値、離昇1,170馬力はあてにならず、計画段階で1,100馬力とした。これは、公表値とは最良の条件下で得られるものだから、という考え方である。一体、研究畑の木村氏は、案外正直なのである。すると予想離陸重量15tから逆算して翼面積80㎡が決まる、という当時の標準的プロセスを踏んでいる。


●主翼の平面形に関する諸問題

 大きな揚力係数を取るためには、全抵抗の3分の1が誘導抵抗となり、高速の戦闘機が10%程度であるのに比べ、著しく大きくなる。最近の旅客機にはやっている、ウィングレットは誘導抵抗減少の手法だとすると納得がいく。当時は縦横比増大しか手段はなかったのである。
 縦横比の変化と、それによる構造重量の変化による航続距離の変化値の試算のグラフでは、最適が12.5となるのだが、木村氏は11で妥協した。構造上の自信がないため、と説明している。ちなみにB-24とB-29は、アスペクト比11.5を超えているので、研究機たる日本の研究機よりも実用長距離機の方が理想的であったのである。そのことは次項の翼厚に関係する。


●層流翼の採用

 層流翼は表面の平滑度が必要だが、研究機のため職人仕事を期待したのだが、戦時に作られたので目算が外れ、パテ埋めするはめになったというのは残念だが、それでも予測以上揚抗比が得られたのである。翼厚は付け根で16%、翼端で9%というのは、日本機としては大きい値なのだが、米独が18%は当たり前でB-24では22%だったことを考慮すると、構造重量では不利となる。これを鳥養鶴雄氏は、軍が高速性能を要求したため薄翼にしたため、としているが、当時の日本では一般的傾向であったのだろう。

 興味深いのは、翼端にいくにしたがって、カンバー値が減るので、零揚力角が自然と減少するので、幾何学的に捩じり下げをつけなくても、空力的に捩り下げがついている、という記述である。製造上の手間を惜しまない研究機にしては、生産性上に合理的構造である。


●ナセル・胴体

 ナセルの抵抗が大きいことと、失速特性が悪いのに、既存の研究成果には、双発機のナセルに関する研究がない、と嘆いているが、風洞実験の段階でこれに気づいているのは流石である。川崎航空機の双発機は、ことごとく実用段階でナセルストールに悩まされているからである。何とキ-102では、尾脚の長さを増やして迎え角の低下を図ると言う姑息な手法をとっている。本機ではナセル上下面の形状に工夫をこらしているのが正解である。英米独では、この問題についてよく研究されている。ひとつはP-38のツインブームである。これではナセルストールは起きようがない。


●安定性・操縦性

 最大の疑問がこの点である。木村氏は縦安定の良好な重心の許容範囲は相当翼弦の25から30%の範囲だと言うが、小生が習ったのは空力中心である25%相当翼弦を重心の標準として、安定をより良くするには重心がそれより前方で、後方では悪化するが操縦性は良くなり、30%は限界である、と言うものであった何と本機では38%にとったというのである。
 一式陸攻は後方重量増加により、32%相当翼弦まで重心が後退したために縦安定対策を取った。それを考慮すると長距離飛行するだけなのだから、本機では縦安定の良さは必須と思われるのに、38%に置いたというのは意外である。ちなみに本論文で、縦安定の改善には、水平尾翼の上反角を増やして、主翼やナセルの後流の影響から除く、と書かれていて、一式陸攻が縦安定対策で水平尾翼に上反角をつけた理由が、ようやく理解できた。小生の不勉強も甚だしい。しかし本機の重心位置の疑問は解けないのである。

 風洞実験では重心位置35ないし38%までは縦安定が非常に良い、と書かれている。確かに本機のテールボリュームは大きい。それはコンパクトな機体に燃料を満載した対策と考えられるが、それにしても38%は常識的に大きすぎて、必然性が書かれていないのは、小生の理解力不足であるとしか考えにくい。読者の意見をお聞きしたい次第である。

 一応の小生の答えを書こう。安定を得るためにはテールボリュームの一部の、テールアーム長×水平尾翼面積のうち、抵抗減少のため水平尾翼を小さくすれば、テールアームを長くしなければならないが、一面で縦の静安定は変わらないが動安定は改善される。静安定が悪くても操縦でカバーできるが、動安定は発散する可能性があるので操縦ではカバーできない。

 ところが、テールアームを長くすると重心が後退するので、38%まで許容することにしたのだ。すると静安定が悪くなる、という悪循環となるように思われるのだが、設計は当初の設定から、詳細設計に移ると設定を変更する、といういたちごっこになるのだが、これは設計の宿命ではなかろうか、と思うのである。結局鶏と卵とどちらが先か、という話となる。どうしても小生には、長距離機であることが直接的空力的に重心位置を標準よりかなり後退させる、という理屈は考えられない。

 垂直尾翼の翼面積不足対策の背びれの効果は、教えられた。垂直尾翼の製作治具ができてから垂直尾翼面積の不足を発見し、上方に延長するとともに、背びれを付加することにした。その効果は、①横滑り時の垂直尾翼失速防止②小横滑り角時の垂直尾翼の効きが良くなる、という二点だそうである。九九艦爆は不意自転対策で背びれを付加したのとは違い、とにかく背びれはあった方が悪いことはない、ということになる。自身が飛行機マニアの木村氏は、その結果美しい機体となった、手放しで喜んでいる。

●ナセル計画の失敗

 前述のようにナセルの設計には苦労しているが、「・・・コマンドの設計を表面的に模倣したための失敗である。」と正直に言っている。





書評・プーチンとロシア革命・百年の蹉跌・遠藤良介

 この本で感じるのは、民族の性格と言うものは、100年や200年では変わりようがないから、国家の性格は外見が変わろうと実質は変わらない、という当たり前の事を思い知らされた、ということである。このことは共産党独裁の中共にしても大同小異だということである。支那に勃興する王朝は、常にそれまでを清算して一から始めるから、進歩はない。中共は、清朝の領土を引き継いだ上に、それまでになかった、言語や宗教の抹殺を始めたから、それまでの王朝より悪くなった。漢族には近代はなく、古代しかない。

 閑話休題。本書は1905年の第一次ロシア革命からプーチン政権までの変遷の経緯を、今日の目から見て、詳細に論じている、といってよかろう。ところどころにプーチンとの比較もちらつかせている。小生が得た最大の教訓は同時代に生きていたからといって、かえって見えないものがある、ということである。

 小生は、ソ連についてブレジネフ末期から、ゴルバチョフ改革とその失敗までを、同時代に関心を持って過ごした。ところが、ゴルバチョフ改革が本当は何であったか、ということは結局分からなかったし、ゴルバチョフの失脚とエリツィン登場と、プーチンへの政権移行、という過程は、同時代人としては複雑怪奇で分からなかった、と告白する。

 当時はソ連が「大好き」だった朝日ばかりではなく、反対の産経新聞も克明に読んでいたつもりだったからなおさら情けない。ブレジネフの停滞と言う評価は今も変わらない。しかし、ゴルバチョフ改革は嘘で、ソ連を維持しつつ西側から経済協力を得る、という騙しのテクニックだと完全に疑っていたのである。

 それは半分正しく、半分間違っていた。本書が指摘するのは、ゴルバチョフの目指すのは部分的な政治経済改革で、ソ連を少しばかりゆるやかな連合にして、イスラム系などの少数民族の不満を和らげて、ソ連自体は維持しようとしたということである。この改革は結局は、完全にソ連体制を維持しようとする勢力のクーデターにより阻止され、ゴルバチョフは軟禁されたが、エリツィンによって解放された。

 エリツィンの目指すのは、形式的には欧米流議会制と、直接選挙による大統領制であった。これは改革と呼ぶに相応しい。しかし、エリツィンの意図はどうであろうと、後継をプーチンを首相として指名することによって、ロシアの政治はロシア帝国やソ連の強権独裁政治に先祖返りしつつある、というのだ。

 次に第一次ロシア革命から、プーチンの登場までの間に起きた変革ないし、革命は民衆の支持はあったものの、民衆自身が起こしたものではない、ということである。第一次ロシア革命は民衆の請願行進への弾圧によって起こった「血の日曜日事件」がきっかけであったが、あえなく失敗した。

 1907年の2月革命は革命のプロによって行われ一応は成功した。しかし穏健なメンシェビキは、過激なボリシェビキによって倒され10月革命が起り、ニコライ二世一家を惨殺して、ソ連に至る革命は成就された。帝政に不満を持つ民衆の暴動は2月革命を支持したし、メンシェビキを倒すボリシェビキの方を支持したのも民衆であった。

 ブレジネフの停滞に不満を持つ民衆はゴルバチョフを支持したし、イスラム系民族の暴動も改革の後押しをした。エリツィンによるソ連崩壊のきっかけを作ったのも民衆の支持だった。だからゴルバチョフはエリツィンによって助けられたのである。

 しかし、後継に選ばれたプーチンの強権政治を支持したのは、ソ連時代を懐かしむ民衆であった。プーチンの強権政治を批判するジャーナリストたちは一部であって、結局はプーチンによって次々と抹殺されていった。これらの過程で共通するのは、民衆は傍観者であって当事者ではない、ということである。ロシアの民族的性格は、そう長くもないプーチンなきあとの、後継体制がどのようなものになるかによって明瞭になる。




〇書評・誰が第二次大戦を起こしたのか
 フーバー大統領「裏切られた自由」を読み解く・渡辺惣樹


 本書は副題にあるように、フーバー大統領の著書を基に、いかにルーズベルト大統領が、スターリンに操られて、必要もない第二次大戦を引き起こして、日本や東欧諸国を犠牲にして戦後のソ連帝国を作るのに利用されたか、という論証をしている。単にフーバーの著書に拠るばかりではなく、渡辺氏が調べた各種の資料により、FDRの犯罪とそれに加担したチャーチルの愚かさをも述べている。

 チャーチルは英国と戦争をしたくなかったヒトラーを、チェンバレンとともに、ポーランドを守ると言うできもしない約束をし、参戦して結局は大英帝国を崩壊させた。米国がFDRの愚かさと病弱による判断喪失ばかりではなく、周辺に送り込まれたコミュニストたちに操られて、スターリンに利用されたのは分かる。しかし、愚かにもチャーチルが結果的に加担していたということの動機が分からない。それは問うまい。しかし、最近になって、ヒトラーの侵攻に抵抗して英国を守ったという、チャーチルの伝記映画が作られたことをみると、チャーチルの愚かさを隠そうとしたい人たちはいるのだ。それはFDRの愚かさも擁護するという結果となっている。

 本書に書かれている多くの事実は納得のいくものであり、現代日本人の必読書と思う。しかし、どうしても本書で理解不能なのは、真珠湾攻撃が始まるまで、世論調査のように、80%を超える米国人が、本当に戦争絶対反対であったのか、ということである。小生が思うのは、その疑問は本書自身から発せられる結果となっているということである。ハル・ノートは公表されなかったし、数々の秘密協定も隠され続けていた。それにしても、本書が指摘する、FDRが実行した多くの公表された事実から、国民や多くの政治家、政治経済軍事の専門家筋が、FDRが戦争を欲していることは明白であり、隠しようもないとしか考えられない。

 まさか共産圏のような絶対秘密主義国家ならともかく、マスメディアも政治批判も発達していた米国において、大多数の米国民を完璧に騙しおおせる、というのは単純に考えて不可解過ぎる、というのが小生の根本的発想である。米軍の戦時下における、報道管制はシステマチックで厳格である、と言う点においては日本のように杜撰で恣意的でないことは知られている。

 それにしても、米国が参戦前の時点でドイツがデンマークを占領したときに、米軍がグリーンランドを保障占領したと言うことが公的に知られないはずはあるまいし、米駆逐艦が独潜水艦を攻撃したということが報道されていない、ということはあり得ない。中立法の改定による交戦国への武器輸出や日本に対する経済制裁は国民の知るところである。

 当時の米国は、経済制裁は戦争に準ずる、という国際法解釈であったから、日本に対して戦争を強いていると国際法の専門家が指摘してもおかしくない。本書に書かれている当時公表されている事実の全てを総合すれば、FDRか三選に際して約束したとされる、参戦しないと言う公約は破られつつある、と考えなければ国民はよほど愚かか、情報から絶対的に隔離されている、としか考える他はあるまいが、そんなことはあり得ない。

 だから小生は国民のほとんどが、世論調査のように本音で参戦絶対反対だ、ということを信じ得ない。そのようなことを主張する日本人の著書を、小生は寡聞にして知らない。そこで、そのことを傍証したい。

 チャールズ・リンドバーグの「リンドバーグ第二次大戦日記(角川文庫上巻)である。リンドバーグは「翼よあれがパリの灯だ」で有名な大西洋無着陸横断の英雄であるが、欧州大戦に参戦絶対反対のキャンペーンを展開したことでも有名な人物である。彼はパイロットとして有名だったから軍関係者とも知己があるが、一民間人であり、彼の知り得た情報は一般的に国民も共有していたはずである、ということを前提にする必要がある。

 リンドバーグはルーズベルトが欧州参戦に向けて画策しているということを、日記では随所に述べていることが注目される。その上、ルーズベルトは参戦しない、と公約していたにも拘わらずリンドバーグは全く信用しておらず、ルーズベルトの「三選は参戦」とすら断言している。「大多数の国民と同じく」一貫して世論に参戦反対を主張していたリンドバーグがこの調子である。リンドバーグが中立法改定その他の立法は全て参戦に向けたものだと判断しているのは、当たり前と言えば当たり前で、参戦前の米国の雰囲気が理解できるではないか。

 小生が重要だと考えるのは、ルースベルトが三選された後の1941年1月6日の次の記述である。


 こんにちはとりわけ、戦争前の暗い帳が頭上に重く感ぜられる。何の抵抗もなく戦争に赴こうとする人々が増えつつある。万端の用意が出来ていると主張する人たちが多い。国民の態度は前後に揺れている。最初のうち、反戦勢力が勢いを得ていたかと思うと、今ではそれと正反対の方向に振子が動いている。-国民の現実と態度と新聞の大見出しとは常に区別して見分けるように努めねばならぬ。が、全般的にいえば、アメリカの戦争介入に反対する我々の勢力は、少なくとも相対的に見た場合はじりじりと後退しつつあるように思われる。われわれにとり最大の希望は、合衆国の八十五パーセントが戦争介入に反対していると言う事実だ(最新の世論調査に拠る)。一方、約六十五パーセントが「戦争の危険を冒してまで大英帝国を助ける」ことを望んでいる。換言すれば、自ら戦争の代価を払わないでイギリスに勝ってほしいと望んでいるかのように思われるのだ。われわれはいわば希望的観測の類にのめりこんでおり、それは遅かれ早かれ、われわれを二進も三進も行かぬ状況に追い込むに違いない。

 この記述は見事に当時のアメリカの世論の状況を叙述していると思われるのだ。渡辺氏も含め、日本の歴史家等は、この記述のように、世論調査の85パーセント参戦反対となっていることと、国民の大多数が参戦反対でルーズベルト自身も三選の際の公約に参戦しない、と約束したことをもって、ルーズベルトの裏口からの参戦の陰謀を主張している。ところが参戦反対の闘士であったリンドバーグの記述は、米国の状況がそのように単純なものではないことを示している。

 多くの専門家は、「約六十五パーセントが『戦争の危険を冒してまで大英帝国を助ける』ことを望んでいる」という世論調査の結果には全く触れない。リンドバーグは国民が「自ら戦争の代価を払わないでイギリスに勝ってほしいと望んでいる」といっても、大英帝国を助ける以上、参戦せずに済むはずはない、という理性的判断をしている。米国民はそれが分からないほど愚かではない、と小生は思うのだ。

 しかもリンドバーグの感触では参戦反対派は賛成派に押されていると、と感じているのだ。65%という数字は中立法の改正等のルーズベルトの参戦に向けた布石の法案への議会の賛成投票の比率と案外似ているのだ。ここに国民の建前が参戦反対でありながら、参戦への布石が着々打たれても、大統領の弾劾が行われず、公約違反の声が多数派にならない、ということのカラクリがあるのではないか。

 リンドバーグは、国民の動向と新聞の大見出しは必ずしも一致しない、と言っているが、近年のトランプ大統領の当選の際にも選挙結果(国民の動向)と大手マスメディアの大きなかい離を眼前にしているのでないか。渡辺氏が論評しているフーバー元大統領は、政治の経験者だから、ルーズベルトの嘘を見抜く情報源を持っていたと考えられる。しかし、一民間人に過ぎないリンドバーグには、一般国民と同レベルの情報源しかなかっただろう。

 それでも、参戦反対と言う立場に立てば、ルーズベルトの参戦意図は見え見えだったことを「日記」は示している。「日記」はフーバーの著書のように後日書かれたものではなく、その時点での記録だから、後世からみれば、リンドバーグの叙述には間違いが多い。だからこそ、後知恵ではない、当時の米国民の心理が分かるのである。

 ちなみにリンドバーグは参戦反対であっても、参戦となると自ら戦うことを望む愛国者であり、兵士とはならなかったが、自ら軍用機を操縦して太平洋戦線で日本機と空中戦を演じているエピソードは有名である。もっともこれは戦時国際法違反であり、日本軍に捕縛されたら処刑ものであるのだが。ともかくもリンドバーグの「第二次大戦日記」は米国の一般市民から見た、米国参戦前後の米国の大衆の状況がよく書かれている。この日記は日本では、米軍の日本に対する残虐行為の記述が引用されることが多いが、その価値はそれにとどまらない、と言っておこう。

 次はルーズベルト大統領の日本爆撃計画である。これは「幻」の日本爆撃計画、に詳しい。ルーズベルトは「ラニカイ」というボロ舟を使って最初の一発を日本に打たせようとしたことは案外有名であり、米西戦争のメイン号爆沈事件と似た陰謀である。しかし「幻」の日本爆撃計画、に書かれているのは、日本本土爆撃計画であり、最初の大きな一発を米国が打とうとする、積極的な計画である。

 小生には検証能力はないが、著者のアラン・アームストロング氏はきちんと資料出所を提示しており、いい加減なものではないと考えられる。ルーズベルト大統領は戦闘機350機と爆撃機150機という大編隊により、日本の首都圏爆撃をする計画にサインしていた、というのである。もちろん中国空軍に偽装しての空襲だった、というのであるが、当時の日米国民の常識から考えても、中国がこのような戦力を持っていると考えるはずはない。

 実際には、米国から爆撃機や戦闘機とそれらに付帯する整備機材を送り、パイロットと整備クルー等は義勇軍として米国から派遣する、というものであるから、人員だけでも数千人に及ぶ。注意すべきは、この計画は計画倒れになったのではない、ということである。戦闘機部隊の一部は、実際にP-40戦闘機と所要人員が派遣されている。

 現在では、義勇軍として派遣されたとして有名になった「シェンノートのフライングタイガース部隊」である。計画の実行は長距離爆撃機が援英のため、調達が難しくなって実行が遅れているうちに、真珠湾攻撃が始まって、中止となった。しかし、フライングタイガース部隊は、実際に派遣されて、その後日本機と交戦している。つまり計画は実行されない机上プランではなく、実行途上にそれどころではなくなってしまったのである。

 85%もの米国民が本気で参戦に絶対反対であったなら、この計画が実行されたら、囂々たる非難をあびたであろう。ルーズベルトは国民の多数派の本音が参戦賛成であったことを知っていたから、どんな手段でも戦争を始めてしまえば、国民はついてくる、と踏んだとしか考えられないのである。渡辺氏の著書ではラニカイ派遣にも「幻」の日本爆撃計画にも触れていない。

 ルーズベルトの爆撃計画は、支那事変で疲弊した日本は、一撃で国力に壊滅的打撃を与えられ、日本が何年も戦うことができた、などとは考えられなかったと想定した節がある。日本を早いところ片付けて、対独戦に専念しようと考えていたのかも知れない。日本をなめていたのである。

 その意味では、最初の一撃が真珠湾であろうとなかろうと、どうでもよかったのであろう。一部には、米政府は真珠湾攻撃の可能性を知っていたから、真珠湾には、旧式戦艦だけを並べていた、と称するむきもあるが、そうではない。大和級などの日米の新戦艦はまだ就役していなかった。かつて長門級を含めてビッグセブンと呼ばれた現役最新の、コロラド級三隻のうち二隻は真珠湾にいて被害を受けた。しかし、爆撃で戦艦を沈めることはできない、というのは軍事常識であり、底の浅い真珠湾では航空雷撃は不可能であったというのも軍事常識である。

 1940年のノルウェー侵攻で、オスカーボルグ要塞を攻撃した、ポケット戦艦リュッオーと重巡ブルッヒャーを中心とする艦隊は、圧倒的火力を持っていたにもかかわらず、ブリュッヒャーは沈没し、リュッオーは大被害を受けて敗退した。真珠湾には陸上砲台のみならず、戦艦群や航空機もいて、抗堪性はオスカーボルグ要塞の比ではない。

 つまり真珠湾を航空攻撃しても艦砲攻撃しても大きな被害を与えることはできない、と考えるのは妥当なのである。意図的に空母を真珠湾から離しておいた、とすれば空襲を予知していたとしたら妥当である。空母は急降下爆撃で撃沈はできなくても、脆弱である、というのも常識だったからである。

 米軍が日本海軍による真珠湾攻撃を想定するとすれば、航空攻撃で制空権を確保し、艦砲で主力艦群を殲滅する、というものであろう。これならば、米海軍はさほどの被害を受けずに日本艦隊を撃退することは可能だった、と踏んでもおかしくはないのである。結果はメイン号事件に比べれば、桁違いの被害となってしまった。

 また「幻」の日本爆撃計画の引用にあったTHE UNITED STATES NEWSも調べてみた。一九四一年十月三十一日号には、BOMBER LINES TO JAPANという記事があった。図入りで、重慶、香港、シンガポール、フィリピン、グァム、ダッジハーバの6か所から本州を爆撃できる、と書いているのである。アームストロング氏は、この記事を日本本土空襲の予告に等しいと書くが、その通りである。類似の記事は、他の有名雑誌にも掲載されていたそうである。

 付記するが、実行されなかった「日本本土爆撃」と比較されそうなのは、関東軍特種演習(関特演)である。確かに陸軍はソ連攻撃を想定して関特演で、兵力を動員した。しかし、攻撃計画は、最終的に陸軍の判断で実行されなかった。一方で日本本土爆撃計画は大統領の裁可を受けた上で、実行が開始された。これは単なる計画に過ぎないものと、実行中のものという大きな差異があることを示している。いずれにしても、FDR政権は日本に先制攻撃をかけても、国民の賛同は得られると判断したことの、重大な傍証である。




ラストエンペラーの私生活・加藤康男・幻冬舎新書

 予想以上におぞましい内容であった。始めのうちは初めて知る、清朝宮廷の性的生活を興味本位で読んだ。しかし、宦官などの記述の連続で、吐き気を催しかけ、読了するに絶えるのかと思った。そのあたりで、満洲事変の勃発の記述に移り、何とか読み通した次第である。元関係者の「現中国人」にもインタビューしたとのことであるが、よくも調べたものと感心する。

 書評は内容の歴史的評価よりも、武弁だったはずの満州族の宮廷が、ここまで性的腐敗を極めたことに、やはり「漢化」したのではないか、という声に対する反論だけ述べたい。日本でも戦国時代の軍事的武力的合理性に富み、質素をむねとしたはずの徳川幕府が、結局は大奥に代表される女性群による腐敗をとげていったことを想起すれば、長期世襲政権は腐敗するものだ、と理解できる。

 戦国時代の日本でも主君と側近などの男色は珍しくないこととされていた。原則男子による世襲としたために、側室が戦国時代でも必要とされた。これが平和の時代が永く続くことによって、大奥なる組織が肥大化したのである。それが清朝程にならなかったのは宦官の存在がなかったからによることもあったであろう。

 宦官は元来狩猟民族の去勢より始まったとされるが、日本の基本は農耕であって狩猟ではなかった。「漢民族」は農耕が主とされるが、秦朝を始めとする多くの王朝は西方や北方から侵入した、狩猟民族であって中原の「漢民族」も狩猟民族の影響を受けていた。つまり、狩猟民族が「漢化」したのではなく、中原の民族が狩猟民族の影響を強く受けて、宦官の制度を受け入れる素地があつたのである。

 つまり本書に書かれた、清朝宮廷の性的腐敗は漢化したためではない。長期世襲政権によって、宦官と側室の肥大化した宮廷が成立したと言う、自然のなりゆきだったのである。本書には愛新覚羅溥儀が「ふおっ、ふおっ、ふおっ」という薄気味悪い女性的笑いをしたという。日本でも明治天皇は幼少期は所作言辞も女性的であったとされる。しかし、清朝のように腐敗しなかったのは、政治的権力を武士に奪われていたために、単に面倒を見る女性の影響を受けて、女性化したというにとどまっていたのである。

 つまり徳川幕府が大奥程度の腐敗で済んだのは、単に日本が尚武の気風を維持する努力をしたにとどまらない。宦官がなかったことと、政治権力しかなく、神的権威を持たなかったことによる。たとえ宦官がなかったにしても、権威と権力の両方を持つ、世襲権力を300年も維持すれば王朝は腐敗を遂げた事であろう。わずか60年の歴史しかなくても、北の金王朝は「喜び組」などの性的腐敗の兆候がある。日本は、権威と権力を分離することによって、宮廷と政治権力の双方とも清朝のような極端な腐敗を避け得たのである。

 清朝の腐敗は決して漢化などではなく、長期世襲王朝の腐敗の必然的結末に過ぎない。その証拠に、京劇や支那服、中華料理などは、清朝以前の伝統を継ぐものではなく、満州族のものである。ただ、漢字そのものが連続しているだけであるが、清朝滅亡ととともに漢字は残ったが漢文は古典としてしか残っておらず、書き言葉としては残ってはいない。北京語や広東語の漢字表記は、漢文と何の関係もないのである。繰り返すが清朝は300年の歴史で漢化したのではない




バカな経済論・高橋洋一・あさ出版

 数理を得意とし、経済学も学び旧大蔵省に勤めた氏ならではの痛快な談義である。その中で小生が感じた不満を述べたい。その中には氏が百も承知、ということもあるだろうとはわかっているのだが。


・組合問題

 「歳入庁」のない日本は変な国(P124)という項では、かつての財務省の消えた年金問題を例にとっているのだが、問題提起と直接関係がない、と言われればそれまでだが、この騒動の原因の重大のひとつに、社会保険庁の労働組合ぐるみのサボタージュがある、ということが書かれてない。本来は社会保険庁でも何でもよいが、とにかく国がやるべき仕事を、国民年金機構と言う特殊法人をわざわざ作らなければならなかった、という異常事態は組合問題の解消と言うことがなければあり得なかったことである。

 それを無視して歳入庁がない、とだけ主張するのは奇妙である。日産自動車が、カルロス・ゴーンなる外国人を雇ってまで社内改革を進めなければならなかった原因の根本のひとつは、日産の労働組合の強過ぎによって、社内がいびつになったためである。日産の労働組合のトップは「労働貴族」と呼ばれるほどの権力と豪奢な生活をしていたらしいのである。当然人事権はかなり組合が握っているだろうし、客サービスも低下する。それに対して会社幹部がどうにもできず、しがらみのない外国人をトップに据えた、という次第である。

 労働組合は労働者の権利保護等のために必要なものであるが、結局組合が権利を過度に持つと、組織自体を壊す、という話である。氏の他著書でも同様であるが、高橋氏が労働組合問題に着目することがないのは、体験のなさであろうか、関係のないことだと考えたのだろうか。


・バブルについて

 「じつは「まことに結構な経済状況だった」バブル時代(P120)という項を設けているように、氏はバブル自体を肯定的にとらえている。株価は四万円近くGDPは4~5%程度、失業率は2%台であるにもかかわらず、物価はさほど上がっていなかった、と客観的に評価している。悪かったのは日銀が「バブル潰し」とばかり不必要な急激な金融緊縮を行ったことであるという。

 氏の分析は正しいと思う。ところが欠けている視点がある、と思う。ひとつは何故バブル、と呼ばれたか、である。戦後の好景気の出発点は全て製造業のように、汗水流して働くことによる産業であった。石炭産業、繊維産業、造船などである。ところがこのときに起きたのは、株取引や不動産売買のように、「汗水流さない」で株や土地を転売するだけで好況が生まれた。

 それを後日バブル経済と蔑んだのである。この見方は正しくもあり正しくもないように思われる。バブルとは製造生産による新しい価値を生み出すことによって生まれたものではないものである、という実態の表現は正しい。小生は一般的には、株価はGDPに比例すべきものと考えている。当時の株価のグラフを見ると、米国ではその通りになっていたからである。ところが日本の株価はそうではなかった。

 4~5%程度の上昇どころではなく、株価がGDPと乖離していくグラフを見て、株取引に熱中する人たちに、おかしいではないかと言ってみたが聞く耳を持たなかった。私に堅実な製造業を説教・自慢する社長がいた会社が、株取引室を設置して本業をおろそかにし始めたと聞いてあきれたものである。

 氏の言うのは正しいのだが、バブル景気と言うのは、戦後好景気が訪れたことのない金融や土地取引といった分野が好景気のけん引役になった、ということに過ぎない。大きく見れば好況のひとつの形態に過ぎない、と言う点ではそれまでと変わりはない。バブル崩壊には経済の専門家はよほど懲りたものと見える。バブル崩壊以後、「好景気」「好況」という言葉はマスコミから消えた。

 好景気が続くと「いざなぎ景気を超える長期の『景気回復』」などという言葉に置き換えたのである。「回復」とはまだ完全には良くはなっていないが、改善しつつある、というニュアンスが垣間見え、すばり「好景気」ではないかのようだ。その癖IT産業が景気のけん引役になると「ITバブル」などと揶揄した。IT産業はハード、ソフトの製品づくりの産業だから、株取引のような「バブル」ではないのである。

 高橋氏は過去を顧みるように勧めている。しからば、なぜ「バブル」景気が起きたかを言わないのも片手落ちである。バブルのきっかけになったのはNTTの株の発売である。それまでは個人では一部の人しか手を出さなかった株を、主婦までが競って買うようになったからである。NTTの株は抽選で売り出され、みるみる内に2倍3倍となった。それに味を占めた個人の金が株式市場に流れた。製造業の資金も株取引に流れた。

 株の数量が一定で、金が株式市場に流れれば、株の単価は上がる。それだけのことである。地価も同様である。バブル期には税金すら余っていて、官庁はムードで「はこもの」を作った。現在使われている公共施設でバブル期に造られたか計画されたものは、無駄なスペースが多い「バブリー」なものが多いからすぐわかる、と言う次第である。

 高橋氏は1メートル先だけ見ていては、全体像は分からないというが、バブル期には柄にもない個人が株式に熱中していたのを見ていたから、小生にバブルの原因は分かったのである。株取引が景気のけん引役にならない限り、株はGDPに比例すべきものだとすれば、今のような低成長時代には、株価が三万円に届くのは当分先の話である。


・高度経済成長

 本書では、経済成長が2%以下ということが前提になっている。氏は海を渡れ、川を上れ、と叩きこまれたと書いている。それならば中国では低成長になっても、6%だし(実態は極めて怪しいが、かつては本当に二ケタ成長の時期はあったと思う)、日本でも高度経済成長期には二ケタ成長していた。

 現在の日本の経済成長が2%であれば上出来なのは実態として分かる。しかし海の外と比較し、川の上を見れば納得できない。かつては一ドル360円の固定相場だった。それだけ日本の経済力、ひいては物価や賃金も安かった。かの零戦の設計者は著書で、ずっと性能が高い米国機と比べ、生産工数は三倍だが対ドル換算するとずっと安い、ということを淡々と書いていたのを不思議に思った。

 要するに賃金が欧米に比べ格安だったのである。輸出する産業の場合、このことは有利になる。戦後は、この利点を生かして欧米に輸出して高度成長をした。ところが日本人の賃金が上がり、発展途上国も日本の輸出競争相手となると、そうはいかなくなる。そこで発展途上国では生産できないような製品にシフトしたり、製造拠点を海外に移すのだが、それでも高度成長期なみにはいかない。

 そこで行きついた結果が、現在の2%も成長すれば上出来、という時代になった。2%という数値を数値計算することは、要因が複雑すぎてできまい。できるのは2%ということを前提として、これにいかに近づく政策があるか、ということではあるまいか。相対的変化は計算できても絶対値は算定できないのである。


・やっぱり「英語」が重要だ

 英語の重要性も無前提に述べられているのだが、現実を追認したものに過ぎない。現代での英語の国際的価値の高まりは、単に米国の覇権の高まりばかりではなく、米国が同じ英語圏の「大英帝国」の覇権を継承し、かつての英語公用語圏の植民地だった国家が発展したことにてよることも大きい。インターネット自体が米軍により開発されたことも要因としては大きいのだろう。

 だからといって「天下り」が日本の特殊慣習で、英訳できないと嘆く必要もなかろうと思う。小室直樹氏は、戦後の日本は農業社会から工業社会への急速な変貌により、村落共同体が崩壊し、その受け皿となったのが「会社共同体」とでもいうべきものであると言った。天下りは官庁ばかりではなく、企業社会にもある。同時に、終身雇用制が発生し、それだけでは世代交代が出来なくなるため「天下り」なるシステムができたものと小生は考える。

 結局は戦後の特殊性によるものである。戦前の小説を読めば、サラリーマンとても、いつ辞めても故郷に帰れた、という風景が見える。当然だが、英語にも英語特有の言葉はいくらでもある。小生は英語は苦手だが、外国語に習熟する、ということは、単に文法的論理的に翻訳できない、その言語特有の表現に習熟しなければならない、ということでもあると理解した次第である。


・経済とは数字、数学の世界であり、各国の文化・歴史の独自性にあまり左右されるものではない(P229)

 これは真理であるとは納得する。しかし、それは表面に装われた文化や慣習、民族性等の属性をはぎ取って、純粋に数理や経済の世界だけに置き換える作業が必要なのだろうと思う。単純にGDP、人口や産業構成、外貨準備高等の公表された諸数値だけをピックアップして、数式や法則にあてはめれば良い、というものではなかろうと思うのである。むしろ、氏の言うように普遍的な数字の世界から眺めよう、とするのは案外に困難な作業ではなかろうか。高度成長との比較でも述べたが、氏自身の適用する経済論理も、このような文化の特殊性をはぎとった上で見ることが可能な現代日本だからではなかろうか、と思うのである。小室直樹氏は、数理にも詳しいが、中国の共同体論などの文化史的な観点からの批評にも長けていた。高橋氏にも数理や経済への洞察に加えて、このような文化史的観点にもっと視点を広げれば、論説に更に厚みが加わると思う。



〇みんなで学ぼう日本の軍閥・倉山満・杉田水脈

 平成27年の刊行だから、杉田氏がLGBT記事で叩かれない前の著作である。のっけから余談になるが、杉田氏の生産性云々の記事問題は、記事が不適切であるというより、左翼にとって杉田氏が手強い存在だから、ちょうどいい攻撃の口実を見つけられたのに過ぎない。例の菅直人もかつて、同性愛は生産性がない云々という発言をしたにもかかわらず、何の非難もされなかったからである。


 保守論客でも杉田氏の発言に対して、言論の自由を侵害する危機だとしてまともに擁護する人は少なく、本当に杉田氏が言いたかったことが誤解されているとか、LGBTも生物学的には生産性があるだとか言い訳をする輩がいた。つまり、自分が杉田氏のように非難の嵐にさらされることを恐れたとしか思えないのである。

 閑話休題。それにしても倉山氏も東條の事を、がり勉の秀才で典型的官僚と看做していることは残念である。「東京裁判」で東條が見せた歴史的見識と胆力は付け焼刃ではないからである。東條はこのとき真面目を発揮したのであって、追い詰められて人が変わったのではない。

 本稿では本書のうち、山本五十六についてだけ一言したい。倉山氏があれほど歴史に詳しくても、軍事にあまり関心がないことが分かるからである。運命の五分間に空母を潰されたとか、そんなレベルではない(P236)、というのだが、阿川弘之のおべんちゃらを批判しているのに、この見え透いた嘘を指摘していない。阿川の言う運命の五分などというものは、艦上機が発艦するのに、一機当たり一分程度かかることを知っていれば、すぐばれる話だからである。

 二十数機が五分で全機発艦するのは不可能だ位は、阿川氏のみならず軍事知識があれば知っている。阿川氏が嘘をついているのは明白である。それどころか敵空母攻撃隊の発艦開始後の五分であれば、発艦距離が短い直掩の零戦隊が発艦中で、艦爆と艦攻は飛行甲板にいるはずだから、急降下爆撃を受けたときには甲板上には爆弾、魚雷を満載した攻撃隊が待っている。米海軍の爆弾は瞬発に近い信管だから飛行甲板は兵装の連続爆発が起こったはずである。

 ところがいくつかの証言では、敵空母攻撃隊発進どころか、ほとんどの機体は格納庫にいたのだから、阿川氏は二重に嘘をついている。赤城が急降下爆撃を受けた時に飛び立った一機の零戦とは、急降下爆撃にあわてた第一次ミッドウェー攻撃で帰投したばかりのパイロットが、近くの零戦に飛び乗って発艦したものである。これは飛び立った本人の証言である。

 また、飛龍の敵空母攻撃隊が発艦したのは、三空母が急降下爆撃を受けてから30分以上たっている。もし、四艦同時に発艦していたのなら、こんなことにはならないことも、阿川氏らの説がいかにインチキかわかる。飛龍は3空母と離れて雲下にいたので同時攻撃を免れた、というのだから尚更敵空母攻撃隊を赤城と同時に発艦させているはずがない。

 阿川氏の山本五十六伝記には、マレー沖海戦で、山本五十六と幕僚が英戦艦を一隻撃沈するか、二隻かでビールを賭けたことが堂々と書かれている。敗北した英海軍のみならず、日本の攻撃隊も戦死者が出ている。この壮絶な戦闘を賭けで遊んでいた、というのはまともな神経ではあるまい。山本を神格化しようとした阿川氏も、戦闘を賭けにして遊んでいたことに疑問を持たずに堂々と書くのもどうにかしている。ちなみに倉山氏も山本も博打好きは徹底的に批判している。

 日本の艦砲の命中率が米海軍の3倍(P231)だという説を述べている。これは、旧海軍の黛治夫氏が出典であると思われるが、これは米海軍が新型の火器管制システムを完成しない、それこそ第一次大戦の延長の時点で、類似のシステムを使って日本海軍が訓練にはげんだ成果と考えられる。日米開戦時点では、米海軍は砲塔の制御等の火器管制システムの能力を大幅に向上しているから、日米の差は逆転している。

 海自出身の是本信義氏は「海軍善玉論の嘘」で戦艦大和級とアイオワ級が戦えば、アイオワ級の圧勝だと述べている。これはレーダー照準の精度も含めているが、それがなくても、火器管制システムの優劣により、アイオワ級の楽勝である。高角砲の命中率が米海軍が二~三発撃てば一発当たるのに、日本のは1000発撃って3発当たる(P196)、というのだが、これも火器管制システムの圧倒的な差による。

 ミッドウェー海戦の際の戦力を倉山氏は「連合艦隊 激闘の海戦記録」により(P236)日本側が圧倒的に優位な戦力であったとしているが、これもきちんと比較すれば逆で、米側の方がずっと優位である。戦力比較(P236)であるが、戦艦が日本が11に対してアメリカ0とあるが、これは作戦全体に含まれる数で、作戦に直接参加したのは二隻だけで、残りは作戦海域から遥かに離れたところで待機していただけで、戦力になっていない。

 重巡は8対7となっているが、8隻のうち参戦可能だったのは二隻だけである。戦艦と重巡の合計の砲戦能力からすれば、米側の方がやや上である。日本の残りの戦艦等は、空母部隊から500キロ以上離れたところにいたから、砲戦が起きても参戦できなかった。山本五十六は遥か遠くの戦艦大和にのんびり座上して将棋をしていたのである。

 それどころか、実際に対戦した航空機に至っては、日本が艦上機248機に対して米艦上機は233機であり、大して変わりはない(Wikipediaによる)。空母の比率が4対3なのに、この程度しか差がないのは米空母の一隻当たり搭載機数が大きいことによる。

 さらに、米側は陸上機が127機もあるから、航空機の戦力は米側の方が圧倒的に大きい。「弱い日本が巨大なアメリカに負けたのではないんです。・・・日本の方が圧倒的戦力です(P236)」とはならない。しかも、山本五十六は半数待機と称して、米空母が出現したときのために、108機を待機させていたというから、米側から航空攻撃を受けたときには、この機数しか対応できないのである。これに対して米側は空母戦力と陸上機の全力を投入できたから、実戦力の差はすごいものになる。

 だから日本側は運が悪かったのではない。それどころか、つき過ぎるほどついていたのである。米空母は攻撃隊に援護戦闘機を随伴できなかった上に、空母と陸上から発進した雷撃機はバッタバッタと落とされて、わずかにかいくぐった雷撃は見事な操艦でかわされてしまった。長時間にわたる米機の攻撃にもかかわらず、日本艦隊は無傷で済んだ。一隻や二隻は被害を受けても当たり前の、執拗な攻撃を受け続けていたのである。この幸運の連続を山本は生かせなかったのである。

 むしろ、わずかな急降下爆撃しか受けなかったことが不可思議な位な状況だった。そもそも敵空母攻撃に半数を待機させた、ということ自体が、本当に米空母の出現を想定していたとしたら不可解である。手順として、第一次ミッドウェー島攻撃隊が帰投すれば、飛行甲板にいた敵空母攻撃隊を格納庫に収容し、帰投した機を着艦させ格納庫に収容し、格納庫にいた敵空母攻撃隊を飛行甲板に並べ、発進させる。

 これらに要する時間は一時間や二時間では済まない。それだけの時間を費やしてようやく敵空母攻撃隊を発進させることができる。その機数はわずか108機しかないのである。実際に敵空母が出現したら、わずかな戦力を時間をかけて発進させなければならない、という不利があることは、艦長以下の実務担当者に聞けば分かるはずなのである。図上演習でも、敵空母が出現したら赤城と加賀が沈没した(Wikipedia)、というが当然の予測である。

 日本側が参戦不可能と見積もっていたヨークタウンが、予想通り参戦しなかったとしても、米側の航空圧倒的優勢は揺るがない。日本側が敵空母が出てくれば鎧袖一触などと放漫なことを考えていたのに対して、米軍は持てる全力を投入していたのである。米軍のこの態度は、日米戦力が圧倒的差になっても続いたから感心する。日本軍で最も驕慢になっていたのは、山本五十六そのひとだったのである。




〇未来年表 人口減少危機論のウソ・高橋洋一

 久しぶりに得心のいく本であった。小生自身が、少子化は防ぎようがなく、少子化に向けた対策はあり得るとしても、政府による少子化防止対策はあり得ない、と考えていたからタイトルに飛びついて買ったら、期待に応えてくれたわけである。明治以前はせいぜい四千万人程度の人口でそれなりに暮らしていた時期もあるし、人口が際限なく増えていった方が危険ではないか、と直感的に考えていたからである。日本の適正人口は、八千万人程度だという説もある。


 最近、水道設備の老朽化等による危険と、水道料金の地域格差が問題にされている。本書ではこれに直接答えてくれるわけではないが、読めば水道インフラを扱う自治体の規模を適切に大きくすれば、ある程度解消すると理解できた。ちなみに政府が考えている民営化は、単に公営より効率が良くなる、という姑息な考え方で、他国の失敗例を考えれば、薦められない。郵政民営化の原因は元々そのようなものではない、という理由を他書で高橋氏が説明している。国鉄の民営化は、共産主義革命活動集団化した労働組合による、国鉄破壊活動に対する対策であると小生は理解している。

人口減少危機論
 人口危機論で本質的に問題になるとすれば、減少のスピードが想定外に速くなるといった、不測の事態が起きることだけである、と述べているのは得心する。ただし、小生には現在想定している人口減少は、異常に速いのではないから問題ない、ということも考えなければならないと思われる。出生率が1.1を切るような急激な人口減が想定されるとしたら、予測できても人口減少への対応策のしようがないのではなかろうかと思うのである。

AIとは何か
 AIを「人工知能」と訳すことが誤解の元で、「AIに知能はなく単なるプログラムだ。・・・AIが人間を超えることは当面ない。・・・誰にも解けない数学の証明問題を解くといった作業は無理だ。(P168)」と断じているのは正しい。コンピュータによる将棋や囲碁などというものは、コンピュータの演算速度の速さと記憶力の膨大さを利用して、トライアルを無数に行っているのに過ぎず、一流の棋士などの知能を超えているわけではない。棋士等より将棋等の能力が低いプログラマーがプログラミングしたコンピュータが勝っているのである。現在の技術の延長である限り、AIが人間の頭脳を超えることはない

 しかし「ブルーカラーもそのうちAI化されてくるだろう。(P84)」というのは無理だろう。建設労働などで、運搬や溶接などのうち、繰り返しで定型的な僅かな種類の作業を除けば、大部分の現場作業のAI化は無理である。大量生産の工場におけるロボット使用とは訳が違うのである。その意味で「労働力という観点では、最終的に外国人は不要になってくる(P84)」というようにはならないと思う。コンビニや飲食店の店員や、街の道路工事の作業員をAIで置き換える、というのは当面無理である。

 しかし、移民につながる単純労働者の受入れは無理筋である。排日移民が日米戦争の遠因になったことを持ち出すまでもなく、欧米が移民により悲惨な状況になっている現状を見れば明白である。以前ドイツのテレビ局が公学校の移民被害を、潜入取材した番組を見たが、日本の学校崩壊どころではなかった。移民にかかる社会的トータルコスト増は、日本人の単純労働者採用に必要な給与増よりはるかに多くなる。文化の破壊や人種摩擦も激化する。

 「日米開戦の人種的側面」によれば、移民の国と言われるアメリカでも、「移民」とは「アメリカの白人社会に同化できる白人」というのが建国以来の本来の基本的要件だったのである。前掲書は排日移民法に批判的であるが、アメリカ先住民族については、はなから同化の対象の可能性の検討からさえ外している。日本人移民が迫害された戦前でも、移民の多数を占めるドイツ系やイタリア系の迫害はなかった。だからトランプ大統領がメキシコ経由での南米の移民阻止、というのは移民の国アメリカ、というスローガンに何ら反していない

 安倍首相が進めている外国人労働者受け入れ政策は、目先の利益にとらわれた財界の圧力に屈してのことだと推察する。政策を批判する野党も安倍政権批判の材料に利用するだけで、単純労働者不足、という主張に対する根本的対案を用意してないから、意味がない。

 根本的に考えれば、人口減少が労働人口の減少の原因と単純に考えるなら、現状の店舗数と規模を維持してコストが合うはずがない。つまり人口減少に伴い、必要労働人口も減るはずである。それでも無理して外国人の単純労働者の雇用を求めるのは、日本人より安く使える、という意図が透けて見える。冷酷に言えば日本人がやりたがらない仕事に、日本人をやらせたければ賃金を上げるか、それでも経営できなければ、その店舗はもはやニーズがないものとして、閉鎖するしかないのである。

 それでも小生は労働人口の不足対策は少しはあると考える。著者のような統計値は持たないが、日本人で働くことは可能でも、働いていない人がいるはずであるからである。この中には働く意思がない、という人が含まれているが、それは必ずしも働くことができない、という人ばかりではない、ということである。都内の某区では、半数近くが生活保護を受けている、という都市伝説のような噂がある。噂は真実ではなかろうが、生活保護が受けられるために働かない、という人々もいるはずである。

 つまり生活保護の受給資格を厳格に査定し、働くことができるのに、生活保護が受けられるために働かない、という人の中から労働人口を発掘することができるのではなかろうか。何せ最低賃金で働くよりは、生活保護の方が年収が多いと言われている時代である。

無人自動運転自動車は実現しない
 本書で小生が最大の間違い、と考えている箇所を指摘する。無人自動運転が可能になるから「・・・タクシードライバーという職業は真っ先に消えてもおかしくない(P171)」としていることだ。なるほど自動運転の研究開発は進んでいるし、実用段階になるのはそう先ではないだろう。航空機の世界では無人飛行機は既に実用化して多数が使われている。しかし、旅客機は自動操縦が可能で、離着陸の自動化も可能であるのに、パイロットは原則正副二人搭乗しているのは何故か。

 問題は安全性の確保なのである。旅客機パイロットの免許は一年更新で、その上免許は機種別にとらなければならないほど厳格である。大部分の飛行時間は自動操縦がなされている。それでも自動操縦中に常に一人は計器を見つめ、いつマニュアル操縦になってもよいように備えている。これだけの技量を持ったパイロットが乗っているにもかかわらず、万一の安全性確保のためにパイロットは必要なのである。

 まして、遥かに技量が低い運転者が乗っている自動車では、全自動運転が実用化したところで、運転手を無くすどころか、全自動運転システムが突如不測の事態の発生に対処できなかったり、システムにエラーが発生した場合に、普通の運転手が素早く対処できるとは、到底考えられない。運転手が乗っていてさえも万一の安全確保には疑問符が付く。危機管理の原則と同じでシステムとは不測の事態が発生したり、エラーした場合の対処は絶対に必要なのである。

 災害で「想定外の事態が発生したから」と言い訳されるが、危機管理では、想定外という言い訳は許されないのである。自動車の自動運転も同様である。有人運転なら人為的事故の場合、運転手個人の責任を追及するしかない、と皆本心では割り切っている。ところが無人運転の場合、システムが不完全なこともあるし、エラーも発生するものだ、とは割り切れないのである。もちろん現在の旅客機はほとんどが、機力(油圧などの機械力)操縦である。油圧などのシステムが完全に故障した場合にはパイロットは操縦できない。多くの旅客機は設計上機力操縦以外にしようがないから、システムエラーの可能性は暗に許容されているのである。

 前述の実用化されている無人飛行機とは何か。偵察や攻撃用の軍用無人機である。トラブルや敵の攻撃で墜ちようと、人命に被害はない。むしろ有人の軍用機よりも墜落した時の人的損害がないので、好まれるのである。現在では用途が戦闘機や爆撃機に拡大されようとしている。しかも無人とは言っても、人が乗っていないだけで、完全自動ではなく、地上でモニターして操縦している。機内に搭乗員がいないことが好まれるのである。副次的には、搭乗員の所要設備やサイズが不要になるなど、コスト面でも大きなメリットが得られる。

 小生の知る限り民生用の無人自動運転がされているのは、国内では「ゆりかもめ」だけであろう(他にあれば教えていただきたい)。それとて、常に車両外の固定局でモニター、運転しての半自動運転というわけだから、運転要員はいるのである。ただ各車両に運転手が搭乗していないだけのことである。これを可能にしたのも、運用区間が短く専用軌道上だけを走る、という特殊な事情から、不測の事態が起きにくく、対処も容易であること、トラブルへの対処も比較的容易であること、などの相当な特殊条件があって認可されているのである。

 以上のことを総合すると見通せる近未来では、一般道を運転手の乗らない全自動自動車が走行するなどは考えられない。もし、あり得るとしたら色々な事態に対処できる、本当の意味で人間と同じ知能を持った「AI」ができたときであろう。しかし、そのようなAIは「2001年宇宙の旅」のコンピュータのように、人間のような意志を持ち、人を殺そうとする可能性が発生する事だろう。そのような遠い先の可能性ではなく、現実にあり得るとすれば、専用軌道ではなく、一般道を走るゆりかもめ方式のタクシーなどであろうか。

フリーランスについて
 もうひとつは著者の持論に対する疑問である。それは「いざという時はフリーランスが強い(P216)」ということである。著者はキャリア公務員でありながら、天下りをしなかった。著者は天下りをしなくてよかった、といっているが、別の著書でその経緯を読んだ記憶があるが、自らの選択と言うよりは、成り行きであったように思われる。しかし、民間等が天下りを受け入れるのは本人の能力などではなく「・・・親元(省庁)との関係を良好に保つための・・・いわば『人質』で」ある、と言っているのは事実である。

 小生の知人のある省庁のOBたちで民間会社にいったのだが、何の仕事もなく「人質」であることに嫌気がさして、年金の受給年齢になる前に自主退職してしまった人物を何人か知っているから分かるのである。だが著者の言うように「自分の才能を信じ、スキルを身につけ、組織に属さなくとも自分の力で食べていけるだけの武器を身につけ」るのが最も望ましい、という持論は小生には例外的な理想論である、としか思われない。民間会社でも「天下り」は存在する。

 昔、小生は20歳も年上の大先輩に、君は虎の威を借る狐だと冷やかされたことがあるが、的をつかれた、と痛感している。組織にいるものは、組織がバックにあることによって力を発揮するものである。人はそのことを自分自身の実力だと勘違いするものである。大先輩はそれを戒めたのである。著者は確かに財務省で自分のスキルを磨き、今では組織に属さずに実力で生活しているのは事実である。しかし、それは例外であるのに違いない。

 小室直樹氏は日本は戦後天皇の絶対性信仰とともに、村落共同体を失って、急性アノミーに陥った。村落共同体を補ったのは「会社共同体」だったという。ほとんどの日本人(あるいは人間)には、共同体への帰属意識が精神の安定上必要なのである。

 著者は、会社を持っているらしいが(P217)、事実上フリーランスらしい。その方が気楽で稼ぎやすいらしいとも、言うのだ。しかし、彼のように、組織に属さずスキルや才能を発揮できる、という例は一般化できるわけではないだろう。前掲の小室直樹氏も著者と同様に事実上のフリーランスとして能力を発揮していたのであろう。しかし、小室氏は自身のあり方を一般化せず、共同体必要論を説いている。人間世界の洞察としては小室氏の方が深い、と言わざるを得ない。

 著者のフリーランス論は、従来の単なる実力主義論よりずっとまし、とは思うのだが。ちなみに著者自身は全く社会から疎外されている、というどころか、必要に応じて考えを分かち合えるグループのいくつかに所属していると推察する。これが共同体への帰属意識、とまでは言わないが、著者とて何らかの共同体社会から孤立して生きられるものではなかろう、と思うのである。

 明治維新は暴力や政治闘争を伴う大変革であった。しかし、村落共同体を破壊したわけではない。藩は解体したが、小室流に言えば、侍の忠誠は藩から国家(すなわち天皇)への忠誠に置き換えられた。仮に公務員や国家、地方の組織の大改革をするとしても、人間の業としての忠誠心や共同体への帰属心理への必要性は残るだろう。

なぜ日本はデフレか
 著者は経済等における数値計算の必要性と可能性を説いている。経済や年金の議論をする際に、あまりに定性的な議論だけで、定量的な議論が欠如している現状では著者の主張には説得力がある。ただし、日本はかつて10%を超える経済成長をしていたのに、現在は2%にも及ばずデフレだとすら言われている。そして賃金上昇の傾向も似たようなものであることの説明はできていない。というより、そのような比較はしていないように見える。

 これからする小生の説明は、数値計算できるしろものではない。もちろん本人に計算能力がないこともあるが、そもそも数値計算するには変数が多過ぎ、それですら確定できないものばかりだから、計算能力が人並みにあったとしても、計算できまいと思うのである。

 小生の定性的説明は単純なものである。いわゆる高度成長期、というのは主たる輸出先の欧米と日本にかなりな賃金格差があったのである。当時、日本の欧米への大量の輸出はソーシャルダンピングによって、格安の賃金により欧米より安くものを売っている、という非難をあびていたことが、その証明である。原材料は主として発展途上国から輸入するから元々安いし、製造コストに含まれるのは人件費の方が、遥かに比率が高いから、問題は日本人の賃金安にある、とされたのである。

 ところが欧米より高い賃金上昇率を続けた結果、東京は世界一物価が高い、と揶揄されるまでになったのである。その結果、日本の製造業は追いかける発展途上国に負けるか、製造拠点を賃金の安い海外に移すようになったのである。ブランドは日本だが、メイドイン・シンガポールなどという家電製品が珍しくなくなったのは、かなり昔の話である。

 米国でも同様である。日本の鉄鋼産業に押されて、米国の鉄鋼産業は消滅したのに近い。家電と異なり日本の鉄鋼産業の主力は、品質の安定性とコスト削減により、発展途上国に対抗し得たのである。現在でも普通鋼材などの低品質級の鋼材でも、重要な強度部材に関しては、品質の確実性から、日本製を好む発注者がいるが、発展途上国に押され続けているのは間違いない。アルミの精錬などは、国内の工場は無くなって久しい。

 現在、単純労働者で人手不足が言われているのが、建設業やコンビニ、飲食店などであることは偶然ではない。家電は日本メーカーの指導で海外生産ができ、自動車の組み立てはロボットでできても、まさか道路や建物の建設をロボット化したり海外で生産して日本に運ぶ、というわけにはいかない。コンビニ、飲食店も原料は輸入可能でも、コストがかかる店員は国内の店舗に配置しなければならない。

 というわけで、日本と発展途上国の賃金格差が企業努力では回収できないほど大きくなった結果、賃金は上げられない。製造業は海外で生産するようになって販売価格は上げられない、どころか劇的に安くなっている。それは量産効果ばかりではなく、発展途上国のメーカーが、日本メーカーに追いついたこともある。テレビや白物家電、と言われるものは海外生産でも日本ブランドも減りつつある。

 以上述べたように、日本が欧米並みの賃金となり、日本と発展途上国との賃金格差の拡大と、発展途上国の製造能力の拡大から、日本での賃金上昇や物価上昇の減速を招いている、という単純なことを言っているのに過ぎない。だから少なくとも、日本での賃金上昇率や物価上昇率は、発展途上国のそれより、ずっと少なくなければならないのである。それでも見通せる限り、多くの発展途上国が物価においても賃金においても、日本に追いつくという見通しはない。

 GDPにしても同様である。日本の十倍を超える人口の中国ですら、GDPでは、日本を超えたのは最近で、インドに至っては追いつく見通しはない。中国やインドの一人当たりGDPと、日本のそれは、まだそれほど大きな差がある。中国の経済成長率は低下して、6.5%程度と言われているが、これすら国家的嘘である、という陰口がなくならない。エネルギー消費量が減少を続けているようであるからである。

 だから、日本の経済成長率は4~5%どころか、人口が減少していることを考慮すれば、2%も相当困難な数字であることは、想像できる。この説明は本書への批判ではない。そもそも本書はこのようなことに言及していないからである。小生が書評を口実に言及したのに過ぎない。




中国と日本がわかる 最強の中国史・八幡和郎・扶桑社新書

 著者は、保守の論客の一人であると思っていたが、本書の論調は全体的に違和感がある。小生は大東亜戦争を太平洋戦争と呼ぶか否かを、ひとつのリトマス試験紙としている。筆者は汪兆銘政権のことを述べた後「(蒋介石は・・・小生注)その後の日本の大平洋戦争での敗北により、満洲や台湾を取り戻しました。しかし、この戦争で疲弊した蒋介石の国民政府は日本との戦いを避けて力を温存しましたが、ソ連から支援を受けた毛沢東との内戦に敗れ、台湾に退き、北京と台北に二つの政権ができました(P36)」と書いている。

 太平洋戦争と言う言葉のみならず、この記述全体が奇妙である。蒋介石が満洲と台湾を取り戻した、とか負けたはずの日本との戦いを避けたとか、あまり正確ではない言辞がある。本書には全体として、これに類似した違和感があるのである。

 そのひとつだけ指摘しておく。勿論著者の理解にそれほどの間違いはないのだろうが、予備知識のない読者には、全く違う理解になる可能性があるので指摘するだけのことであるが。P5にこうある。

 「漢民族と呼ばれる人たちは、互いに会話は理解できない場合もありますが、書きことばとしては、中国語を共通して使うようになった人たちです。たとえば「私は明日鶏を三羽買いたい」というなら「我想明天買三隻鶏」というように表意文字をほとんど並べただけですから、複雑な文法を勉強する必要もなく、漢字を習得すれば商取引や簡単な指示なら可能です。

 逆にもし複雑なことを表現するときには古典における表現例を学習しないと意味をなさなかったり・・・朝鮮半島の人々は北方系の言葉を話しますが、日本統治時代までは書き言葉はほとんど成立せずに中国語を使っていました。」

 ここでは、書き言葉としての「中国語」と言っている。それが誤解の元なのである。中国語と総称されるのは、現代では、普通話、広東語、上海語などの何種類かの漢語のことを言う。しかも、これらは話し言葉であり、清朝崩壊前後までは、これらに対応する書き言葉がなかった。普通話とは正確には北京官話(ないしは北京語)から作られた、現在の中華人民共和国(中共)政府が中共支配の全土に強制している、日本語で言えば標準語のようなものである。


 普通話、広東語、上海語などの相違は方言と言う程度ではなく、英語、フランス語、ドイツ語といった程度の異言語なのである。このことを著者は「漢民族と呼ばれる人たちは、互いに会話は理解できない場合もあります」というのだが、前掲の文章では何のことか分からないであろう。しかも清朝崩壊前後から行われた白話運動で「普通話、広東語、上海語など」の漢字表記が作られた。そして普通話、広東語、上海語などの漢字表記は話し言葉が相違することから、漢字表記そのものが異なる。

 それなら著者の言う「中国語」の書き言葉とは何であろう。実は高校で習った「漢文」の事である。筆者の説明を置き換えて「漢民族と呼ばれる人たちは・・・漢文を共通して使うようになった人たちです。・・・朝鮮半島の人々は・・・日本統治時代までは書き言葉はほとんど成立せずに漢文を使っていました。」とすれば誤解をまねかない。

 しかも漢文は筆者が言うように、「表意文字をほとんど並べただけですから、複雑な文法を勉強する必要もなく、漢字を習得すれば商取引や簡単な指示なら可能です。逆にもし複雑なことを表現するときには古典における表現例を学習しないと意味をなさなかったり」するものなのである。そして普通話、広東語、上海語などの話し言葉にはちゃんと文法もあるのである。従って漢字表記された、これらの言語にも当然文法もある。

 全ての誤解は漢文が「古代中国語の漢字表記である」と言う間違いが前提にあるためであろう。インターネットを調べても、それに似た間違った表現がされていることが多い。著者のいうように「中国語」ではなく「漢文」には文法もなく漢字を並べただけの原始的な表記法であって、古典の用法を参照しなければ正確な意味は理解しにくいし、厳密な表現は不可能である。少なくとも話し言葉程度の厳密さも表現できないのである。しかも漢文は音声を出して読むことはあるが、あくまでも書き言葉であって、話し言葉の漢字表記ではない事に注意されたい。

 著者の奇妙なのは、ここでは中国語、といっておきながらP45で突然「江戸時代に日本と朝鮮と中国のインテリ同士は、互いの言葉は知らないし、漢文も会話だと、日朝ともに独自の発音をしていましたから通じません。」と突然漢文と言い出すのである。これも説明不足である。漢字は表意文字であるから、読みは民族によって異なる。このことは重大である。

 漢民族とひとくくりにしても、普通話、広東語、上海語などの異言語を話す人々であることで分かるように、王朝が変わるごとに支配民族が変わったから、漢字の発音は変わっていくのである。日本では和式の漢字の発音を訓といい、中国由来の発音(もちろん正確なものではなく英語のカタカナ表記の程度のもの)を音、という。

 P49には、伝わった時代によって呉音と漢音があると紹介されている。しかしインターネットで「呉音」と引けばわかるように、日本に伝わったのは、呉音、漢音、唐音の3である。「行」を「あん」と読むのは唐音なのである。3種類の音が日本にあるのは、元々三つの読みがあったのではなく、著者が言うように漢字の読みが伝わった時代が異なることによる。ちなみに昔NHKの漢詩の講座で、漢文書き下し読みの他に、原語の中国語の発音の読みを紹介するラジオ番組があった。だが李白が読んだ漢詩を李白の時代の発音で読んでいなければ、原語で発音した、という意味はなくなってしまうことは理解できるであろう。小生には漢字の発音の知識がないので、当時の漢詩の講座の発音が正しかったか、判断しかねるのだが。

 小生は漢文の知識がないので確信はないが、著者が例示した漢文で、日本語の明日を明天と書いているのは、漢文として正しいのであろうか、という疑問がある。インターネットで明天と引くと中日対訳辞書に、日本語の明日のこと、とある。つまり明天とは普通話で使われるもので漢文では使われない可能性大である。漢文なら漢和辞典にあるだろうからと「明」と「天」を調べても「明日」という用法はあるが「明天」なる用法はない。実際、後述する語学入門書によれば、「あした」は北京語で「明天」、上海語で「明朝」と書くそうである。北京語とは普通話の事である。もちろんここでいう北京語と上海語は話し言葉を漢字表記したもので、書き言葉だけの漢文のことではない。

 漢和辞典の「明治」の意味には「明らかに治まる」という用法だけで、明治時代という用法は示されていない。恐らく漢和辞典は主として漢文用に作られているからだろう。とすれば、著者は普通話での明天の用法を例に使ったのであって、漢文での用法ではないように思われる。著者の意図は漢文(著者の言う中国語の書き言葉)とは漢字を並べたもの、と言いたいだけなのだから、そんなことにめくじらを立てる必要もないのだが。

 ただ、話し言葉としての「中国語」にはいくつかの異言語がある、というのは中国語の専門家に聞くまでもなく、以下の「トラブラないトラベル会話 広東語」という広東語の入門書に書かれている下記の監修者の序を読めばわかるであろう。曰く。

 「私は福建人の三世としてマレーシアで生まれ、福建語、福州語、マレー語、英語で高校まで教育を受けてきました。そして留学した一橋大学では日本語を学び、その後広東に渡り、広東語を学ぶという貴重な経験をしてきました。数多くの外国語に接してきましたが、中でも広東語は、単音節の声調の高弟で意味が変わり、また終助詞の使い方も複雑な、難しい言語だと思います。」

 なんとこの本の監修者は、福建語を母語としながら、福州語、マレー語、英語、日本語を学び、これらと並列して、広東語を外国語すなわち、異言語と言っているのである。著者はこの事実を説明しないから、とんでもない誤解を招くのである。つまり漢文を中国語の書き言葉、と言って見たり、普通話、広東語、上海語などを説明なしに、ひとくくりに中国語と呼ぶのも「中国史」を解説する本としてはおかしいのである。これらの「中国語」なる言語はいくつもの異言語のグループであって、方言にとどまるものではないことを銘記されたい。

 つまり、中国語とは、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語などの西欧の言語をひとくくりに、ヨーロッパ語、と呼ぶに等しいのだということを理解できるであろう。著者は、「民族とは言語集団でDNAではない(P39)」といいながら、日本民族と対置して、多数の異言語集団を含むグループを「漢民族」とひとくくりにしているのは矛盾である。本書には数多く傾聴すべき記述がある。しかし、根底にこのような矛盾が潜んでいることは、内容を理解するうえでも注意することが必要である。

 ちなみに、明日香出版社に「はじめての○○語」と言うシリーズがあるが、漢語の系統には「はじめての中国語」「はじめての広東語」「はじめての上海語」という三種の本がある。本シリーズの中国語とは「普通話」のことを言う。現在普通話が使われていない地域でも、普通話が強制されている、それは、香港のみならず、チベットでもウイグルでも同様である。香港では普通話強制反対のデモがあった位である。

 共産党政権以外の、過去の清朝などの王朝では、このようなことはほとんど行われていない。著者が言うように民族とは言語集団、であるならば、まさに共産党政府は民族抹殺政策を行っている。共産党による殺戮を含む民族抹殺の規模はナチスドイツのそれをはるかに上回る。その意味でもP239に書かれたチベットやウイグルの記述は承服できるものではない。

 「中国はチベットやウイグルを侵略した」というのは言い過ぎだ、というのである。「少なくとも近代になって外国を侵略して領土にしたのではありません」というから驚きだ。「チベットやウイグルはいちおう国際法の上で認められた中国の領土です」とも断言する。これはものごとの順を間違えている。中華民国内の一匪賊に過ぎなかつた中国共産党は、支配地域を拡大(侵略)して中華民国を追い出し、清朝の支配地域まで侵略を拡大した。

 その中共を国際連合に加盟させたから、国際法で認められたことになるのである。つまり国連は中共政権の侵略を是認したのである。どんな方法で獲得した領土でも、国際社会が追認すれば、国際法上合法となるのである。そして筆者は、チベットやウイグルでナチス顔負けの民族浄化が行われていることには、一言も言及しないのである。

 小生は中国共産党政府に媚びてのことだろうと邪推するが、最近の図書館では以前に比べ普通話(中国語)以外の広東語、上海語のテキストが激減しているようである。福建語のテキストなどは元々見たこともない。

 本書は中国史について、詳細な記述がなされている本であるが、縷々述べたような、大いなる誤解を招く記述が多いのは、誠に残念である。



〇さらば財務省・高橋洋一

 安倍総理辞任の真相、財務省が隠した爆弾、郵政民営化の全内幕、などの前半の章については、貴重な著者の体験に基づく貴重な話で納得がいった。特に郵政民営化には、財務省との関係でいずれ民営化しないと郵政も財務省も破綻する必然的なものだということは世間に知られていない情報であった。

 また、消えた年金の真実、では、年金記録がでたらめになっていたのは旧社会保険庁内部の労働組合のサボタージュが原因である、ということをはっきりさせてくれた。しかも以上述べた問題について、ほとんどのマスコミが真実を報道せず、表層的に安倍晋三氏、小泉純一郎氏、竹中平蔵などによる改革を妨害する役割しか果たしていないことも明らかにしてくれた。

 事あるごとに、報道の自由だとか、真実の報道は民主主義の根幹だ、などと叫ぶ日本のマスコミのインチキさについては、今更ながらあきれる他ない。日本のマスコミは多くが、建前に反して、特定勢力によって動かされる怪しげな存在である、という思いを深くした。

 ただ、公務員制度改革については、一部指摘したいことがある。まず著者は、民間には天下りがなく、公務員だけが天下りをし、天下り先のために働いている、という面があると言うのだが、これは事実ではない。天下りが公務員制度をゆがめているのは事実であるにしても、民間にも「天下り」は存在する

 特に民間でも大きな企業には必ず系列会社が存在し、定年の前後に系列会社の大手から、中小の会社に再就職をする、ということは稀ではないと思う。日頃公務員の天下りを批判している朝日新聞ですら、子会社のトップに再就職をしているではないか、という記事を書いた、雑誌があった。しかも再就職する人物は単に親会社だから再就職するのであって、必ずしも子会社の業務に精通しておらず、お飾りのトップに過ぎないというのだ。正に悪しき「天下り」の典型であろう。天下り批判の急先鋒の朝日がこの体だから、他はおして知るべし、であろう。

 著者の批判する公務員制度批判の多くは、日本の企業体質のかがみであって、年功序列も終身雇用も現代の日本の企業体質の反映である、といえる。

 小室直樹氏によれば、日本は戦後、高度経済成長と天皇の絶対性の崩壊により、村落共同体が崩壊したため、急性アノミーにおちいったという。そのため村落共同体の受け皿となったのが、会社組織である、というのだ。(「小室直樹の中国原論」による)小生はこの指摘は正鵠を得ている、と考える。小室氏は豊富な学識ばかりの人ではなく、人の精神構造にも理解が深いのである。日本の公務員制度は、多くの面で民の縮図である。

 個人のスキルによって、民から官、官から民、民民へと自由に転職することが可能であるべき、という著者の主張には一面の真理があるが、小室氏の言う視点が全く欠落している。日本の終身雇用制度は戦後に強固になったのであって、必ずしも戦前はそうではなかったことは、当時の小説を読むと分かるのである。戦前は必ずしも終身雇用でなくても個人の精神の安定が保てたのは、村落共同体が健在であったから、ある人が会社を辞めても村落共同体という安定した所属場所があったからである。あからさまに言えば、会社が嫌になって辞めても、帰って迎え入れてくれる村落共同体がある、という安心感があるのである。

 小生の田舎にもそのような村落共同体があったため、その安心感は理解できる。今でもその残滓があって、小生の子供の頃の同級生にも、東京で公務員勤めをしていたのが、定年で実家に戻り、家業をついだ者がいる。彼にとっては歳をとってから、田舎で暮らす、というのは当然であったようである。わが家は事情があり、そのような村落共同体から疎外されていた。だから小生は村落共同体を忌避する本能があるのだが、日本社会における村落共同体の重要性は理解できる。

 現代ではむしろ、都会にこそ村落共同体が濃厚に残っている、と感じることがある。例えば江戸市中であれば農村ではなく、隣近所が職業を異にする自営業なり職人の共同体であった。元々同じ農業を営む同一職業共同体ではなかったのである。だから農業村落共同体の崩壊は直接都市部には影響を及ぼさない。その結果代々、都会の地に住む家系の人々にとっては、共同体は存続し得たのである。ただし、小生のように田舎から仕事を求めて都会に新たに住むようになった新住民は、共同体の一員になるには日月を要するのであろう。何世代か定住しなければならないのではなかろうか。

 恐らく世界の社会的生活を営む人類には、民族等に拘わらず、何らかの所属共同体が必要なのである。民族によってはそれが宗教であったりするのであろう。欧米では、その主たるものがキリスト教であることは、夙に知られている。戦前までの日本では職業の大多数を占めた農業を基礎とした、農村村落共同体であったのである。

 このような観点の欠落した著者の公務員制度改革は夢想的理想主義の一面を免れてはいない、と考える。著者にしても、信念と運に基づいて行動した結果、財務省という共同体からはじき出されたが、実はその実力によって思想をともにする共同体の一員になっているのだろうと想像する。前川喜平元文科省事務次官にしても、左翼的言動をあらわにすることによって、何らかの居場所となる新しい共同体に安住したのであろう。

 そうでなければ、文科省を辞めた身分で、学校の講演会に呼ばれて謝金を得る機会を得ることはなかったはずである。しかし、つい先日までエリート官僚であった前川氏の新規に所属した共同体の構成員の大多数はそうではないだろうから、必ずしも安定した居場所ではなかろうとおもう。小生が聞いた、公共事業関係のエリート官僚で、突如公共事業罪悪論を振りかざして退職してしまった人物がいる。その人物はかつての所属官庁の現職からもOBからも嫌われている。前川氏を想像するゆえんである。

 本書も公務員改革の部分については、存外に旧来の公務員批判と大差ないように思われる。公務員とて終生、精神の安定を得る共同体は必要なのである。そこで小室氏の意見を克服できるようになれば、著者の公務員制度改革も現実的になる、と思う次第である。



書評・大東亜共栄圏 帝国日本の南方体験・河西晃祐

 本書評では、当時の日本人の現実的立場や理想などの観点から、本書を批判的に評しているが、本書が類書に比べ総合的かつ、資料を駆使している点で優れた研究である、というものである、と考えているということを前提としている、ということをまず述べておく。

 著者は現代日本の戦前研究者に見られる典型的なひとつのタイプの人である。つまり日本には完璧な道義性を求め、独立運動をするアジア人に対しては日本に対する裏切りを、無条件にありうべきこととする。また、日本が戦争遂行のためにアジアを利用したことに厳しい目を注ぎ、欧米の苛酷な植民地支配には言及しないことである。

 例えば、大東亜会議の後に、東條首相が次のように述べたことを引用している。

 「ビルマ」人は大東亜共栄圏の中にて割合良い方にて上の部に属すると云い得べく 之を秦国人に比するに秦人の方が扱ひ難し 併し我方として信頼するや否やを不問 兎に角政策としては怪しきものをも抱込む心算なり

 これを評して「・・・日本を指導者とするはずの大東亜共栄圏において、タイをはじめとする国々の民族指導者らが、東條をして『扱ひ難し』と述べさせるほどに抗い続けた証拠でもある。」

 国々と言うが、会議に参加したのはタイ、汪政権、満洲国以外は欧米の植民地であり、他の独立した「国」はひとつもなかったのである。大多数が独立国ではなかったものを「国々」と総称するのは適切ではなかろう。しかも「指導者」とはチャンドラ・ボースのような反西欧の独立の闘士であった。タイは西欧の植民地獲得競争の中で、バランスをとり独立保つほどだったから、外交的に「狡猾」であるのは当然であろう。しかもタイは日本の勝利に乗じて、「旧領土」を取り返そうとビルマに進軍するという、機会便乗主義を見せた。


 チャンドラ・ボースは大東亜会議に消極的どころか、インド独立のためにインパール作戦を要請し、作戦失敗が明白になった時点でも作戦継続を主張したのである。このように、アジア各地の「指導者」が様々な思惑を持って大東亜会議に参加していたのは当然である。これらのアジアの地域の指導者は各人、勇気や努力と辛酸の経験をした立派な人達であったのに違いない。だが敢えて言う。欧米の植民地獲得競争の中で、日本が独立を保持し得て西欧と伍したのに対して、なぜこれらの立派な指導者を出すような、ほとんどの地域は独立すら保持し得なかったのであろう、と。

 著者は東條の枢密院会議での発言を引用して「・・・東條がビルマやタイを心の底では『盟邦』だとも考えていなかった可能性」がある、とし枢密院顧問官の南弘の枢密院会議における発言から「・・・台湾統治を実地で経験していた南はビルマを『子供』と認識し、『日本の保護指導』が当然ではないかという質問を重ねた。」と批判する。余りにも偽善的な批判ではないか。

 現実の世界情勢に対する政治的判断として、ビルマやタイを心底から対等の盟邦と見ることが出来ないのも、台湾やビルマが当時の日本に比べれば「子供」に過ぎないと見るのも本音から言えば当然であろう。場所が枢密院会議であれば、国会に比べても本音に近い発言となろう。あまりに現実を見ない批判としか考えられない。

 また、アメリカ軍フィリピン再上陸に際しての次の記述(P254)は、事実関係としては正しいようであるが、結果的に倒錯していると思われる。

 「アメリカ軍の上陸に呼応して蜂起したフィリピン人「匪団」は、アメリカ軍を解放者として迎え入れた。大東亜共栄圏の理念なるものは通用しなかったのである」というのは事実である。だが米西戦争でフィリピンをスペインから引き継いで苛酷な弾圧をした米国を、単なる解放者として記述するのは浅薄に過ぎる。そもそも筆者はフィリピン人が米軍を解放者として迎えた、という「事実」に矛盾を感じないのであろうか。日本が占領したのは米国領フィリピンであって、植民地支配したのではない。それにもかかわらず、戦争中には米軍の手先となって日本軍をスパイしたフィリピン人は多数いる。

 フィリピン人は必ずしも米国に約束された独立を期待して日本軍に抵抗した訳ではない。そうであろう。米国は米西戦争の際に約束した独立を反故にした前科がある。それでも米軍に協力したり、「解放者として迎え入れた」のは単に米軍の強さに屈従したのに過ぎない。「理念」以前に現実的選択をしたに過ぎない。日本の大東亜共栄圏構想の真贋とは関係のない打算である。フィリピン人は表には出さないが、米国の苛酷な植民地支配や、マッカーサー再上陸の際に砲爆撃によって何十万人という無辜のフィリピン人を無差別殺害したことに、心底に怨嗟を抱いている者が少なくない。

 例えばミャンマーは、独立後英国の植民地支配の苛酷さを国際社会に訴えた。そのとたんに、軍事政権や独裁政権などとして制裁を受け、植民地支配の怨嗟の声はかき消されてしまった。このように、欧米の支配を受けた地域は独立後でさえ、本音を語ることは許されていないのである。現在でも欧米による過去の歴史を暴くことは、かつての被植民地の民には許されていない。著者には、その観点が欠落しているどころか、日本にだけ道徳的完璧を要求している。

 このように文章を読む限りは、氏の態度は公正である。例えば松岡洋右の評価などは資料によりきちんとしていて、これまでの偏見的常識にとらわれていない。しかし、結局のところ資料に現れた表面的論理的公正に過ぎないように思われる。日本人が西欧の植民地支配に憤りと危機感を持っていたのは、表面にどの程度出たかは別として、ほぼ全日本人の心底にはあったはずである。だが現実に国際社会に相対する時、完璧な道義的態度で、日本自身を一方的に犠牲とし、植民地解放に専心するなどということは、現実として選択できない行為である。

 アジアとの植民地解放は、あくまでも日本の国益の保持、という観点の範囲で行うのは当然であり、国益と矛盾する場合は抑圧する、という選択は当然ではないか。それでも搾取の限りを尽くした、欧米の植民地支配とは隔絶していることは間違いない。日本の明治以来の戦いの結果は無残な敗北に終えた。しかし、欧米諸国による植民地支配は日本の戦いによって終焉した。

 日本は世界史を一変させたのである。しかもその結果多数の独立国ができ、日本にとってもそれ以前とは比較にならないくらい自由な貿易が出来る、という有益な世界が到来した。それを日本が充分に利用できないのは、むしろ、日本の戦争を罪悪視する日本人が蔓延して、日本を政治的軍事的に独立することを妨害し、それを平和主義と標榜していることにある。

 根源的問題は維新から大東亜戦争までの日本の苦闘の拙さにあるのではなく、自らの闘いの成果を利用し得ない、現代日本にあるのではないか。

 批判部分ばかり書いたので、著者の貴重な指摘を紹介する。それは「戦争のカタチ(P97)」に書かれている。第二次大戦の戦争の形態が当時としては例外であった、ということである。本書によれば日清戦争は日清の闘いであるにも拘わらず、朝鮮半島を舞台にしたものであって、清朝が継戦能力を失って敗北したのではない。日露戦争も似たようなものであった。第一次大戦は、ロシア、ドイツともに対戦国の首都が占領されたのではなく、国内で革命が起き、戦争を継続できなかったため、講和したためである。つまりこれらは交戦国の話合いによって講和が成立したのである。

 これに対して大東亜戦争(著者は太平洋戦争と呼ぶ)は首都が壊滅する、という徹底した形で終わった、ということである。また戦争終結のプランとしても、日清日露戦争においても、第一次大戦当時においても開戦時に明確な戦争終結のプランがあったわけではなく、結果として終えたということである。

 これらを基に著者は、対米戦は戦争終結のプランを指導者が持たずに開戦したとしても、開戦自体は指導者達にとっては合理的選択であったという。それは必ずしも正しい選択であったとは言えないにしても、「・・・日本の国力を過信していた訳でも、アメリカの国力を過小評価していた訳でもなかった」とし「正しい情報と判断力があれば戦争が回避できるわけではない怖さ・・・」があると結論しているのである。

 これは多くの識者が、日露戦争当時は周到な戦争終結の準備をしていたのに、大東亜戦争では何の戦争終結の見通しがなく愚かにも開戦を選択した、と批判するのに対する明快な反論であるように思われる。直近のいくつかの戦争終結の様相に照らしてみれば「帝国日本のそれまでの戦争経験から照らしてみれば、成り立ちうるものである。」と指摘したのは慧眼である。第二次大戦の終結は、それまでの国際法上の常識を破る特異なものであったことは、深く認識すべきである。




書評・「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか・ジェームズ・B・ウッド著・茂木弘道・WAC

 こうすれば大東亜戦争は勝てた、という類の本がけっこうあるが、それとは一線を画していように思われる。その手の本は大抵、テクノロジーに重きをおくか、シベリア侵攻の実施や、インド方面に進出して、インドを攻めドイツ軍と提携するようなものである。本書はあくまでも実際に起こった戦闘をベースに、いかによりよく闘うべきかの戦略を分析している。もちろんワシントンで日本軍が米国と城下の盟を結ぶことができるとは考えてはいない。その中で、従来より批判が強かった、日本潜水艦の運用の失敗に、明快な解答を与えている主として五章を紹介する。

第5章 運用に失敗した潜水艦隊

 筆者は、日本のイ号潜水艦などは、装備上の欠陥などがあるものの、総合的には優れた水上速度、長大な航続距離や安定した高性能魚雷などを持っているのに、惨憺たる結果しか得られなかった、という。この手の批判は常識になっているのだが、著者が言うのは過去の批判がレーダー装備などの技術的側面中心なのに、戦略的運用面にしぼっていることである。運用は技術的欠点を、特に初期には埋め合わせる可能性が大であった。それだけ有力な潜水艦隊を持っていたのである。

 まずハワイ作戦後、修理のためにハワイから西海岸に帰投する航路に配置して襲う、ということと、そもそも西海岸からハワイへの航路は一本しかないのだから、一九四一年から一九四三年の期間に、この航路で商船を撃沈していれば、西太平洋の戦場の軍艦は補給を受けられず、戦力にならなかったと言う当たり前のことである。

 考えてみれば西太平洋への補給距離は米軍の方がはるかに長く、米軍は日本軍が何もしなかったのを訝しくすら思った、というのである。

 特に戦争後半では主力艦の攻撃や、輸送任務で潜水艦は損耗してしまっていたが、この時期なら自らを犠牲にして、日本側の防衛体制を構築できた、と言うのである。日本の潜水艦が戦闘艦の攻撃に固執して、輸送の妨害を何もしなかった、というのは罪悪的ですらある。一方で日本側は米軍による輸送妨害に苦しんだのである。日本の潜水艦指揮者すら初期の段階で、戦闘艦攻撃から、商船攻撃に切り替えるべきだと主張していたが却下された。

 本書は戦争初期に適切な行動を採っていれば、米軍の反攻は遅滞し、遅滞すればするほど日本側の防御体制が堅固になり、加速度的に日本が有利になる、ということが基調である。


結論

 日本は米国に勝てたのか、ということに対する本書の結論は、リチャード・オーバリーの言葉を次のように引用している。


 うわべを見ただけでは、一九四二年初め、論理的な人なら誰でも、戦争の最終的な結末を予想できなかったであろう。連合国にとって状況は-この連合体制も一九四一年十二月になって実現したばかりであったが-絶望的で、士気を失わせるものであった 。(中略)しかし、一九四二年から一九四四年にかけて、主導権は連合国に移り、枢軸国軍は、深刻な形勢逆転を経験することとなった。(中略)一九四四年までには、連合国の士気喪失は払拭された。当時の人々は、公算は今や圧倒的に連合国の勝利にあるとみることができた。(P172)

 そして筆者はこのことは、ヨーロッパ戦線のみならず、太平洋戦線にも適用できると言う。日本軍には一九四一年から一九四三年に起きた結果から逆転された。しかし、日本軍はこの期間、さまざまな形の最終的勝利のために必要な状況を創出する多くの機会があった。最低限でも「以前の」状態に戻る、ということを双方が受け入れるような勝利を得ることができたはずだ、というのが著者の結論である。本書はこの結論に至るための日本軍の戦略の間違いを述べるために書かれたようなものである。



古事記及び日本書紀の研究・津田左右吉

 うかつであった。研究と題している通りの研究書であった。専門書は通説を説明したものだが、その分野の素養がないと読めない。その専門書についてさらにつっこんだのが研究所である。その方面の専門書も理解せず従って、両書を通読したこともなく、散漫な知識しかない小生が到底読める代物ではなかったのである。それでも方法論のところには、素人でも理解できる考え方があったので、それだけ紹介する。

 「総論」の一の研究の目的とその方法にこうある。

 「・・・まず何よりも本文をそのことばのまま文字のままに誠実に読み取る必要がある。・・・神がタカマノハラに行ったり来たりせられたとあるならば、その通りに天に上ったり天から下りたりせられたことと思わなければならぬ。・・・草木がものをいうとあらば、それはその通りに草木がものをいうことであり、ヤマタノヲロチやヤタガラスは、どこまでも蛇や烏である。・・・」(P51)というのである。

 「しかるに世間には今日もなお往々、タカマノハラとはわれわれの民族の故郷たる海外のどこかの地方のことであると考え・・・」るのは「本文には少しもそんな意味はあらわれていず、どこにもそんなことは書いていない。それをこと説くのは、一種の成心、一種の独断的臆見をもって、本文をほしいままに改作して読むからである。」例えばヤマタノオロチを異民族の反抗の象徴などと合理的に解釈してはならないのである。

 どうしてそんなことがおきたかと言えば、物語が不合理だから、強引に合理的に解釈してしまった、というのが根本的理由である、というのだがその通りであろう。この類の合理主義者には新井白石らがいる。後代からみれば不合理な記述がある、というのには「・・・鳥や獣や草木がものをいうとせられたり、・・・人が動物の子であるとせられたりするのは、今日の人にとっては極めて非合理であるが、未開人にとっては合理的であったのである。けれどもそれは未開人の心理的事実であって、実際上の事実ではない。上代でも、草や木がものをいい鳥や獣が人類を生む事実はあり得ない。ただ未開人がそう思っていたということが事実である。だからわれわれは、そういう話を聞いてそこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。そうしていかなる心理によってそう思われていたかを研究すべきである。」

 「また人の思想は、その時代の風習、その時代の種々の社会状態、生活状態によってつくり出される。したがってそういう状態、そういう風習のなくなった後世において、上代の風習、またその風習から作り出された物語を見ると、不思議に思われ、非合理と考えられる。」

 このような津田の考え方は、ある意味素人にも納得できる。だが実際このような立場からの研究がいかなる結論となるのか、素人の小生には本書から読み通すことができなかった。ただ現代人が合理的事実と考えていることも、津田の論理を演繹すれば、現代人の心理や風習に基づくものであり、今から千年二千年後には未開人の非合理的なものと言われるようになるかもしれないのである。

 小生は旧約聖書の物語なども、古事記日本書紀の神代に類するものであろうと考えていたが、キリスト教徒の立場は津田とは違う。書かれていることは現代においても事実と認める、というのである。リアリストを自認する、元外交官の佐藤優氏は、キリストの生誕話やキリストが3日で復活したこと、この世の終わりの日にキリストが再臨することを本気で信じている、と書いている。キリスト教では奇跡を見た、ということに関しては認定の手続きが決められていて、奇跡を見たと主張しても、認定の条件をクリヤしない限り、奇跡とは認められない。逆にいえば現代でも聖書で書かれた奇跡は、そのまま起こり得るというのである。つまり聖書の奇跡などをそのまま現代でも事実と認めるのである。聖書の話を現代人流に合理的に解釈してはならない、と言う点だけに関しては津田の考え方と共通する。



新世代の国家群像・明治における欧化と国粋  ケネス・B・パイル著・松本三之介監訳・五十嵐暁郎訳

 俯瞰的に、維新後の明治の日本思想史をこれほどコンパクトにまとめたのには感心する。日本の思想の著書は概ね個人史によるものだから貴重であるが、欧米人がこれほど日本の事を研究していることは恐れ入る。


 大雑把に言えば、維新から三〇年位は、儒教などによる国の伝統的教育による立場と、西欧の文化文明の摂取の必要性のふたつのニーズに対して、このふたつをいかにミックスするか、という観点から様々な立場が派生して互いに論争していた、ということである。一つの極論は伝統的立場にだけたち、欧化を排斥する考え方、その対極が西欧一辺倒である。意外であったのは、かの徳富蘇峰がかなり長い間は後者の典型であったと言うことである。現在では、蘇峰は国粋主義の権化のように言われているから、現代思想も軽薄である。

 漱石などの漢籍による教育と西欧を受けた、明治育ちの文学者がこのふたつの極に対して苦悩した、ということについては、個々の文学者についての評論により書かれている。しかし本書の方が、明治思想家の流れを説明している中で、文学者が例示されるので、日本で言われる鴎外漱石などの文学者の「苦悩」なるものが明快かつ論理的に理解できる

 蘇峰を中心に書かれているにもかかわらず、明治も三十年を経て蘇峰が急速に国粋主義化したことについて、変化した内容の説明が極めて少ないばかりでなく、変化の理由や経緯についての説明がほとんどなされていないきらいがある。しかも維新三〇年を経て、日本全体が国粋主義化していった、という論調は単調かつ陳腐であるし、国粋主義化の理由の説明がほとんどなされていないように思われる。

 大正、昭和から敗戦まで、日本には議会制民主主義の根幹は崩れていなかったし、現在の中共等の残忍な独裁体制に比べれば、遥かに自由で民主的でもあり続けた。もちろん日本流ではあるが。それは欧米諸国の自由と民主主義がそれぞれの民族なり国家なりの伝統に基づくのと同じことである。そう考えるとパイル氏が、日本における伝統と欧化の相克は、現代の発展途上国のものと同じである、と断ずるのは見当違いに思われる。日本が未開文明から、突如欧化したという欧米人流の先入観であろう。

 日本の伝統の崩壊に関しては、「日本の古い価値観が、その情緒的な力を二十世紀まで保持し得たのは、ひとつには日本社会が持っている二重の性質のゆえである。産業の発達は都市部において伝統破壊的な態度を助長したにもかかわらず、日本の農業形態の並外れた継続性に助けられて、地方においては古い価値観が持続したのである。(P173)」と書いているがその通りである。

 しかし、戦後日本では急速に「日本の農業形態」は崩壊し、その受け皿となったのは小室直樹氏のいうように、会社社会であろう。だが会社社会は、農村コミュニティーの代替となっても、「日本の古い価値観」の継承には多くは寄与し得ていないように思われる。これは個人的感想で論をなしていないが、東京のような大都会の真ん中でも、古い価値観の受け皿たるコミュニティーは存在しているように思われる。

 以前、三社祭の日に浅草界隈を自転車で走っていた時である。裏町の角々に、老若男女がはっぴを着て車座になって雑談している光景があった。これは都会ですらコミュニティーが存在している証拠のように思われた。小生の近隣でもそうだが、このコミュニティーの中心となっている人たちの多くは自営業であろう。

 自営業であれば、地元に根をおろし生活をともにする、という意味ではかつての農業形態と同じであろう。我家の近所の町内会では、その中の裕福な自営業の経費持ちで、毎年豪華な旅行に行くそうである。これは農村社会の相互扶助と変わりはない。これなどはパイル氏の言う「古い価値観」の維持にどの程度役立っているか分からないにしても、日本の精神的継続性に寄与していることは間違いない。

 ちなみに小生は、古い農村コミュニティーにどっぷりつかりながら、たまたま憎悪を内包した同族コミュニティーに育った体験から、地域コミュニティーに本能的嫌悪を抱いているので溶け込めない。自慢しているのではない。僻んでいるのである。



真実日米開戦・隠蔽された近衛文麿の戦争責任・倉山満

 倉山氏は気鋭の論者であり、識見は尊敬している。当然のことながら、見解が異なることがたまにはある。本書には「裏道参戦論の嘘」(P192)があるのでこれだけ取上げる。別項で書いたことの繰り返しが多いが容赦願いたい。ルーズベルト大統領は、ヨーロッパ戦線に参戦するために、ドイツの同盟国である日本に最初の一発を撃たせることにした、というのが裏道参戦論である。氏の嘘説の根拠はシンプルである。

 第一に、日独伊三国同盟には、独伊が戦争を始めたとき、日本には自動参戦義務がないこと、ヒトラーは同盟の義理を守る人物ではないから、日米戦が始まっても、ドイツが日本とともに米国と戦うということは、結果は別として予測不能であった、という二点であると思われる。一方で、ルーズベルトは、日本が開戦しても当然なほど、真珠湾攻撃以前から、数年にわたり挑発をし続けた政治的狂人だと断じている。

 だが、日米戦直前の米国の行動について、この本で倉山氏が取り上げていないことがある。米国はドイツに対する牽制として、グリーンランドなどの保障占領をし、中立法を改正して、国際法の中立違反の、英ソという独との交戦国に大量の武器援助をしたこと、援英輸送の護衛をし、独潜を攻撃した、など国際法上は既に対独参戦していたに等しいが、対米戦を忌避するヒトラーに黙殺されただけである。

 氏は米世論が参戦反対のため、ルーズベルトは参戦反対の虚偽の公約で当選した、と素直に言っているが、信じられない。なぜなら、中立法改正は議員の多数の賛成で成立し、多数の議員には多数の支持者たる国民がついている。ルーズベルトの独裁ではない。対独挑発行為は米国マスコミで報道されている。熱心な反戦運動を展開したのは、かのリンドバーグらのマイナーな存在であった。世論調査が圧倒的反戦であったのは、建前に過ぎないか、世論を反映していなかった、と考えられる。最近では米大手マスコミで、トランプ氏がクリント氏に勝つと予測したものはなかったではないか。

 米国人の言葉は美しいが、恐ろしい本音が隠れている。「マニュフェスト・デスティニー」の美名のもとに、ネイティブアメリカンを殺戮し続けたではないか。戦争反対は美しい。しかしリメンバー・パールハーバーの美辞に、米国民は一瞬にして熱狂したのである。

 米国は第一次大戦で軍事力と経済力を飛躍的に伸ばしたのであって、戦場となった欧州に比べ厭戦感情が強いとは考えられないのである。ここに「United States NEWS」という米国週刊誌のコピーがある。トップページには、NEWS OF NATIONAL AFFAIRSを扱う、とあるから軍事専門雑誌ではあるまい。興味ある方は、大阪の国会図書館から取り寄せると良い。昭和16年10月31には、驚くべき記事がある。「日本爆撃ルート」というきな臭いものである。

 地図入りで、重慶、香港、シンガポール、フィリピン、グァム、ダッチハーバー、ウラジオストックから、日本本土を爆撃するための所要時間を図示した記事である。日本本土爆撃計画である。この週刊誌には、爆撃機、戦車、大砲などの製造メーカーのコマーシャルであふれ、なんと煙草のキャメルのコマーシャルには、陸軍、海軍、海兵隊、沿岸警備隊の4人の兵士が煙草を持ってにっこりしている。よほど戦時中の日本の新聞の方が、軍事と関係のないコマーシャルが多い。これが厭戦気分のあふれた時期はずの米国の週刊誌なのである。

 米国は、日米開戦前の、昭和16年に300機以上の大編隊で、日本本土を爆撃する計画を大統領が承認し、計画は実行が開始された。計画倒れではない。既に、爆撃機掩護の戦闘機部隊は機材や整備兵とともに派遣され、後にシェンノートのフライングタイガースとして、日本軍機と交戦している(幻の日本爆撃計画)

 幻の日本爆撃計画の著者は、爆撃計画はマスコミに公表されているので、日本政府が計画を知るのに、スパイすら必要としない、と断じている。さらにラニカイという海軍籍のボロ「巡洋艦」を太平洋に航海させて、日本軍に最初の一発を撃たせるべく挑発したが、成功する前に、真珠湾攻撃が始まった。中部読売新聞に、戦後の米艦長のインタビュー記事がある。

 以上例示したことから分かるのは、昭和16年時点で、米政府は対独戦も対日戦も参戦を欲していた。これらはほとんどが米マスコミに報じられ、大規模な反戦運動すら起きなかったことから、米国民も内心は賛成をしていた、ということである。ルーズベルト個人に限れば、昭和12年の時点で日独の隔離演説をしていることから、支那大陸における権益奪取などという国益と言うよりは、個人的感情であろう。正に「政治的狂人」である。

 倉山氏の裏道参戦論の嘘、の難点は、前述のように三国同盟の自動参戦義務のないことを厳密に解釈していることである。当時の世界情勢を考慮すれば、同盟国日本と戦争をすれば、米国が対独参戦することは、自然なことであり、条約の文言の厳密な解釈の問題ではない。しかも前述のように、散々米国はドイツ潜水艦を攻撃するなどして挑発しているのにも関わらず、ドイツは挑発に乗らなかった。米海軍の挑発を米国民が知らないはずはない、のである。ガソリンは太平洋にも大西洋にも、散々撒かれていて、日本は火のついたマッチを投じたのである。

 真珠湾攻撃が12月8日、その直後ルーズベルトとチャーチルは、電話で喜び合っている。日本の対英米開戦により、米国の対独参戦が確実となったと確信したからである。ドイツが対米宣戦したのは、その後の11日である。米英の政府と国民にとっては、三国同盟の自動参戦条項の有無など、どうでもよいのである。

 だから陰謀的に裏道参戦計画をしたとは言えない、にしても対独、対日両戦争を欲していた米政府と国民にとって、対独参戦に苦慮していた時、真珠湾攻撃が起きたのは、全面的参戦にとって好都合だったのである。全面的二正面作戦はタブーとされているが、既に支那事変を数年戦ってきて国力を相当消耗していた対日戦は、すぐに片付く戦争だったと考えたに違いないのである。小村直樹氏は、支那事変によって、数十隻の空母を建造できるだけの国力を消耗していた、と解説した。日本などチョロイ、と米国が考えていても不思議ではない。

 氏の説は一件混乱しているように見える箇所がある(P231)。緒戦で日本がフィリピンをとれば、取り返しに来る米海軍を迎え撃ち艦隊決戦を行うのが、永年の日本海軍のドクトリンであり、米海軍の想定も同じである、という。ところが(P215)では、石油が必要ならオランダ領インドネシアと、英領ブルネイを攻めればよいというのだ。英米一体ではないから、オランダが攻められれば、イギリスが出てきても、米国は出てこないだろう。日米が揉めるのは米国が関係のない中国に口を出すからで、ルーズベルトは戦争をしないことで当選したからであるという。

 だから日本が植民地のフィリピンではなく、いっそアメリカ本土のハワイあたりを宣戦布告なしに攻撃してくれることぐらいでなければ、参戦できない、という。P215の米海軍のドクトリンと、ルーズベルトの非戦とは、直接はリンクしない。しかし、米墨戦争以来の米国の開戦方法を考慮すれば、日本がフィリピンを攻撃すれば、米国民は雪崩を打って、戦争になだれ込むことが分かる。対独戦も対独戦も、もはや区別はなくなる

 米領どころかメキシコ領にアラモ砦を築き、砦が全滅すると「リメンバーアラモ」とばかり米国は戦争を始め、広大なメキシコ領を奪った。米国はメイン号爆沈の際に、スペインが共同調査を求めたのを拒絶して「リメンバーメイン」(P208)と叫んで米西戦争を始めてフィリピンを奪った。米国人のブロンソン・レー氏は、「満洲国出現の合理性」で氏自身がメイン号が燃えている際に乗船して、発火する可能性がある、特殊なヒューズが入った箱を発見した。スペインの友人が高額で買いたいと言ったのに断ったのだそうである。レー氏はメイン号爆沈が米国の仕業に違いないと確信しながら、米国のために隠しのである。

 以上の米国の開戦方法をみれば、植民地どころか、他国領に居座ってさえ戦争の口実にすることが分かる。ボロ舟すら開戦の口実にしようとしたのである。軍艦の中は米国領と看做される、などということは些末である。




○小室直樹の中国原論・小室直樹・徳間書店

 中国人の行動が矛盾していて理解できない、と言う人のために忠後軍の行動を分析したと言う。比較的単純な構成である。まず中国の共同体の特殊性について、宗族について、中国人の法律意識について、中国は歴史で分かるということが大きく分けて書かれている。付録のように中国市場経済本質について、書かれている。

 この本で基本となっているのは、著者の「中国」と言う言葉だが注意を要する。小生の知るのは、中国とは古来からの歴史的用語ではなく、中華人民共和国、ないし中華民国の略称である。歴史的用語としては、支那であると考える。すると現在の中華人民共和国と支那とは正確には異なる。中華人民共和国とは、ほぼ清朝の支配地域を引き継いだもので、ウィグルやチベット、内モンゴルなどを含むのに対して、支那とはこれらを除いた、いわゆる「漢民族」の生活圏である。

 小室氏の言う中国とは、読んでいる限り支那の範囲であると考えて差し支えない。チベットなどは古来異なる風俗であり、幇などという共同体はなかったからである。少なくとも本書ではこのことに言及していない、小室氏の態度には不満が残る。将来はいざ知らず、現在ではこの本の記述は全てチベットなどに適用されようとは思えないからである。だから本項で言う中国とは支那のことだと解釈する。

 中国における共同体とは結論から言うと、連帯が強い順に、幇、情誼、関係、知り合いであると言う。最も強い幇では、刺客のように、無報酬で命を捨てて、幇の内の人のために行動するというのである。この点で西欧の殺し屋のように契約で、殺人を行い多額の報酬を得ることを目的とするものとは、性格が全く異なるのだと言う。

 そして共同体の中にいる者と外にいる者とは規範が全く異なるのだと言う。日本人が中国人に対して、絶対に信用ができると言っている人もいれば、嘘つきばかりだと、正反対の意見が異なるのは、この二重規範のためで、話している日本人が、交渉相手と先の共同体のどこに属しているかによるかによるためである、と言う。これは明快である。

 ちなみに日本は戦前まで、村落共同体であったが、戦後高度成長等や天皇に対する絶対意識の喪失による急性アノミーで、村落共同体が崩壊したため、代替として、会社が共同体の受け皿となったというのだが、小生には実感できる。

 小生は今は東京の下町に住んでいるが、代々地元に住んでいる人々には共同体の残滓がけっこう残っているように思われる。小生のようなおのぼりさんには、職場に行けば気楽になれるのに、連帯が強い地元の集会などには到底入っていけないのである。

 次は宗族である。宗族も共同体同様、内と外とでは規範が異なる。中国の宗族とは当初は母系集団だったのが早くに父系集団になったという。中国の宗族とは特定の地域にいる血縁集団ではなく、中国中に散らばっていて、兄弟意識、同租意識が強くある、ということである。

 同じ宗族の者なら、苦楽をともにし、借金に証文さえいらないという。同じ姓でも必ずしも同一宗族とは限らないというから分かりにくい。例えば海外で同一宗族の男女が知らずに知りあって、恋愛関係におちいることがあるのではないか、という質問には、そもそも同一宗族の男女には恋愛感情が発生することはあり得ない、という答えだから日本人や西洋人には理解不可解である。

 日本や欧米は父系社会でも母系社会でもないのだという。日本では家、という枠組みがあって血縁社会ではないから、婿養子という制度ができる。小生の田舎では親戚同士が極めて仲が悪かったから、血縁社会というのは理解できる。田舎の近隣は恐らく戦国時代以前からの落人の住処であったから、親戚同士の表面上は連帯していたが、その実、実力社会であって、分家が本家をいびるなどということが公然と行われていたから、やはり血縁社会ではないのであろう。

 次は中国人の法律意識である。外国人には中国人は法律をやたら振り回す、という意見と法治ではなく、人治であるという正反対の意見がある(P176)というが、普通は後者の意見であり両者は矛盾するものではない。都合のいい時にだけ法律に固執し、都合が変わると法律を曲げて解釈するというだけであろう。


 中国人の法律意識は韓非子の法家に淵源があり、世界にさきがけて、法律はあるものではなく、作るものである、という考え方を発明したのも韓非子である、というのだが、中国人の法律意識の説明は込み入っているので単純化しにくいので、本書を読まれたい。

 強いて要約すれば、法律とは、役人が勝手に解釈していいものであり、それを指示するのは支配者の都合である、というところであろう。だから前述のように一見矛盾したようなことになるのであろう。 中国は歴史で分かる、ということである。中国人は良いことでも悪いことでも、歴史に名を残したいと言うのであり、それ故歴史は中国の聖典(バイブル)である(P150)。外国人が個人的体験で中国人について判断をするには、事例が少な過ぎて、豊富な事例がある歴史を学ぶのが最も良い、というのである。前述の共同体についても、法家思想についても、歴史より抽出した、ということであろう。

 中国経済では、そもそも資本主義の考え方がないから、今の社会主義市場経済はうまくいかない、というのが結論であろう。中国では一物一価すなわち定価の考え方がなく、外国参入企業に破産を許さない、資本金の概念もない、実質的な貨幣の流通がない、契約遵守の概念もないので途中で勝手に契約を変更する、など資本主義に当然あり得べきものがない、などの資本主義の要件が欠けているからうまくいくはずがない、というのだが、現に中国経済は外見上破綻していない。

 本書が書かれたのが1996年すなわち平成8年だが、これだけ経っていて、中国経済破綻を予測する論者は多いが、未だに破綻してはいない。小生にとっても不可解なことである。毎年政府が経済成長予測をすると、それに合わせて地方政府が辻褄を合わせてインチキ報告をするので、政府発表に全く信頼が置けない。

 現にエネルギー消費量は減っているので、実質的にはマイナス成長ではないか、という論者も少なくない。それでも経済破綻しないのは、何故であろうか。韓国は一度経済破綻を起こしている。小生は、未だに中国政府の宣伝で、安い労働力と巨大市場と言う幻想に騙されて、撤退した外国企業に替わって、新規に資本投資する外国企業が後を絶たないからであると考える。すなわち自転車操業状態である。

 いずれにしても、本書は小室氏らしい、論旨明快な書で小室氏が亡くなり、書かれて相当な年月が経っているが、読むに値する書であると考える。



この世界の片隅に・こうの史代 双葉社

 今年の正月、暇つぶしに映画を見に行った。候補は三つあって、アニメの「君の名は」と「この世界の片隅に」と洋画の「バイオハザード・ファイナル」である。結局、日本映画のようなわざとらしい平和主義がないのをかって、バイオハザード・ファイナルにしたのだが、意外にもハッピーエンドに近かったのと、主人公のそれまでの剃刀のような切れ味鋭い容貌が、やや衰え気味だったのには少し失望したが、見るには充分耐えた。

 残りのアニメには、宣伝の画のやさしそうな主人公「すず」の姿と、なんと敗戦時の巡洋艦青葉がクライマックスに登場する、というので、この世界の片隅の方に興味を持った。そこで、本屋に行くと、オリジナルのコミックと、映画の場面集とノベライズ本の三種があった。ノベライズ本は小生にとっては論外である。小生にとってノベライズ本は論外である。それで、オリジナルのコミックを買った。映画化されたアニメには、製作の都合で原作の画が壊されているケースが多いからである。

 画は期待通りだった。ストーリーも日本の戦争映画によくみられるような、後知恵の平和主義がないのが良い。しかもあとがきのように「戦時の生活がだらだら続く様子が」描かれているのが好ましい。主人公のすずの幼馴染みの水原とは、二人とも何となく惹かれるところがあったのに、親が決めた見合い結婚を素直に受け入れたのも、むしろ時代のリアリティーを感じさせた。

 生の母も、父が50代で亡くなってから、地元の護国神社に、戦死した私の叔父のために家族に内緒で毎年体が不自由になるまで通い続けていた、ということを知ってから、そんなこともあろうかと思うのである。すずが女郎のリンさんという人と普通に付き合っていたこともリアルである。

 雑誌にも紹介があったが、玉音放送を聞いたすずが「最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?」と怒るシーンも、うまく描かれたひとつの真実であろう。評判になった巡洋艦青葉の、実写真をもとに描かれた、大破着底した画も風雅である。すずが呉湾を航走する軍艦の名前を全てきちんと識別できたのは、意外だが、ストーリーの展開上はむしろ自然に思える。

 余談だが、青葉の終戦時の艦容と名前は、小生には独重巡のプリンツ・オイゲンを彷彿させる。実際には艦容に似たところはなく、艦名の由来も全く異なり、戦歴すら似てはいないのだが。人の気分とは不思議なものである。

 作者が軍事用語の知識の少ないのは、青葉の説明書きで知れる。青葉は「・・・負傷して帰港・・・」「・・・呉沖海空戦に参戦、切断・着底。」とある。「負傷」は「損傷、中破、大破」のいずれかで、「切断・着底」は「大破・着底」であろう。そんなことは何の問題でもない。現代女性が戦時をこのように描けたのには感服した次第である。



書評・日本人のための世界史(宮脇淳子著)と韓民族こそ民族の加害者である(石平著)

 「韓民族こそ民族の加害者である」、の主意は、「韓民族の歴史は、中国や日本などの外国の侵略軍を招き入れて、外国製勢力を半島内の勢力争いや内輪もめに巻き込んで利用した」というものであろう。この結果利用された外国勢力は、内紛に巻き込まれるたびに、かえって多大な被害を受けている。韓民族の争いに巻き込まれて滅亡した、支那王朝さえあった。外国勢力とは朝鮮戦争における米中も含まれる。

 本書は全編、その例証にあてられているといってよいだろう。事実関係から言えば、それは正しい。支那の夷を以て夷を制するどころではない、凄惨な韓半島内部での争いが外国勢力を利用して行われたのである。しかも外国侵略を招いた張本人は、不利になれば住民や部下を放置して逃げ出してしまうのである。

 だが、「日本人のための世界史」を読むと、別な見方もできる。本書ではモンゴル帝国と大日本帝国、という今では世界史では(故意に)忘れさられた帝国が、世界史に果たした重大な役割を説明するのが主意である。

 終章に面白いことが書かれている。日本人による新しい世界史をつくるときには「日本列島だけが日本で、外地は日本ではなかったのだから、大日本帝国を日本史として扱わない、という思想は「日本書紀」に起源があり(P269)」この枠にとらわれるべきではない、というのである。


 日本は維新後、欧米人に劣らない能力があることを示すためもあって、海外の植民地経営をし、現地に投資し居住してきた歴史がある。ところが、敗戦によって自己保全のため、日本の歴史を再び日本列島に限定し、外国に進出したことは悪いことだった、と否定するようになった、というのである。この結果、国民国家日本が存在する以前からの日本の歴史を、日本列島だけがあたかもずっと国民国家のように存在し続けた、という前提で限定的な歴史にしてきた、というのである。

 このことは、石平氏の著述にも適用できるのではないか。すなわち、北朝鮮と韓国と言う韓民族が居住する現在の地域が、元々歴史的普遍的に存在する、というのが石平氏の著書の前提にあるからである。

 そういう枠を外してしまえば、事は日本の戦国時代で、戦闘ばかりではなく、姻戚関係や成功報酬と言った調略をも使って争っていたことともなぞらえることもできるだろうし、日本が半島に出兵したのを、日本列島という本来の日本固有の逸脱した、外征ととらえることの、狭量さも浮かび上がってくる。

 ただし、石平氏の言うのは、韓民族と言う内輪の争いに、異民族を引き込んだのであって、韓半島と言う領域から外に出ずに、韓民族での内輪争いに留まっていた、ということである。そして異民族を使っての韓民族同士の卑劣な争い、というのは他の民族に見られない凄惨なものであった、ということも事実である。

 この二人の著書にモンゴル人の楊氏の書いた、「逆転の大中国史」、岡田英弘氏の「世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統」などを併せ読めば、世界史の見方が一気に広がるだろう。我々日本人の歴史観は、東洋は四千年の中華王朝史、西洋はギリシア、ローマの流れをくむ、欧米諸国、といった、中共や欧米のそれぞれに都合のいい狭量な歴史観に囚われている。

 また、日本を日本列島に限定して、昔からずっと存在してきたかのごとき歴史観は、英米仏独といったヨーロッパ諸国は歴史的経過から、結果的に成立したのに過ぎず、今後も続くものかさえ怪しいのに、あたかも普遍的存在として、過去から未来まで存在している、といった日本人の狭量な歴史観を形成している。

 ユーラシア大陸東部は中華王朝がずっと支配していたものではなく、現在中東と呼ばれている地域や、ヨーロッパ大陸の歴史とも錯綜して、単純ではない。もちろん、宮脇氏の言うように、モンゴル帝国や大日本帝国がかつて世界史に果たした重大な役割はすっかり忘れ去られ(故意に無視)されている。



「カエルの楽園」が地獄と化す日・百田尚樹・石平共著

 実は、百田氏のカエルの楽園はまだ読んでいないのだが、この日中関係をテーマとした寓話小説について、実際に起きていることが、如何にこの寓話小説の通りになりつつあるか、ということを両氏が対談したものである。カエルの楽園は、中国であるウシガエルの国が、日本であるナバージュというカエルの楽園をいかに侵略していくか、という物語である。

 日本の多くのマスコミ、特にテレビでは、中国軍艦や軍用機が尖閣付近で挑発行為をしても、自衛隊を出動させて中国を刺激してはならず、対話をすべきだと一方的に日本の自重を求めるだけなのだが、これらのセリフが、カエルの楽園に登場するディスブレイクというナバージュのカエルの言葉にそっくりで、石平氏によれば、一種の予言の書となってしまっている、という。

 国際法では、軍用機がレーダー照射を受けた場合、攻撃を受けたものとみなして、反撃撃墜することが一般的権利なのに、自衛隊は絶対そのようなことをしてはならない、と法的にも政治的にも規制されているし、多くのマスコミもこれに同調している。また、他国の侵略を受けても話し合えばいいし、最後は降伏すればいいのだ、と多くの左派言論人は主張しているし、テレビマスコミも本音はこの論調である。

このことを二人は、日本が米国に負けたときの占領で残虐な行為を行わなかったし、平和憲法という有難いものさえ与えてくれた経験から、中国などの他の国の占領も同様だろうと思っている日本人が多いからであろうというのだ。米軍の占領が比較的平和的だった原因は、特攻隊や硫黄島などの日本人の勇敢な戦いを経験した米国は、非道な占領をすれば日本人は決死の戦いを挑んでくるから、平和的に占領し日本人の精神を改造してしまうしかないと考えたからである。

 だが、小生は一見平和的な占領だったかに見えても、米占領軍による強姦、略奪、殺人などの不法行為は今伝えられているよりも、遥かに多かったのだが、GHQによるマスコミ検閲や、嘘の日本兵の残虐行為の宣伝などで、日本人が騙されているために、日本の被害が矮小化されている、というのが真実だと考える。もっとも中国に侵略されたら、これより遥かに非道な行為が行われる、というのは両氏の言う通りである。

 その例として本書では、チベットやウイグルで行われ、現在進行形で行われつつある残虐行為を具体的に書いているが、おぞましいものである。これらのことが信じない日本人が多くいる。インターネットでチベットを調べたら、「解放」前のチベットがいかに野蛮な風習に満ちていたことが書かれていたサイトがあった。ダライ・ラマがCIAの手先として働かされている、という本さえ書店にあった。

 チベットやウイグルで実際に起きたことを信じない、反日日本人は、常に中共からのこのような情報を教え込まれて、信じこまされているのであろう。中共のプロパガンダと言うのは、昔から物凄いものがあることは自戒しておかなければならない。

 「南京大虐殺」などの嘘宣伝がいきわたった結果、日本が反撃さえしなければ、中国は侵略するはずがないし、仮に占領されても中国人による残虐行為もない、というのが「ディスブレイク」のような日本人の精神の根底にあるのだ。侵略や残虐行為をするのは日本人の軍隊だけだ、という思い込みが牢固としてある。

 たまたま「歴史群像」平成294月号に「尼港事件」の記事があった。シベリア出兵の際に、ニコラエフスクで、白軍兵士や現地ロシア人、日本軍守備隊や民間人などが赤軍パルチザンに数千人が惨殺された事件である。この顛末は日本が自重すれば安全である、というのがいかに間違いかを証明している典型である。

 尼港は、主要海産物の鮭を日本に輸出するために、約400人の日本人が居留していた。そこを後のソ連軍となる、赤軍パルチザンが2000人で包囲した。北海道にいた師団長は、救援に行くのはできないので、無理をせずに平和的に解決し赤軍と和平しろ、と現地部隊に命令した。これに対して、日本に味方した白軍の指揮官は、赤軍との合意は必ず裏切られる、と反対したのだが、現地の指揮官は師団長命令を拒否できるわけもなく、尼港を開城し停戦した。

 開城の条件は日本軍が白軍の武装を解除すること、白軍元将兵の過去の行動は免責する、市民の財産と安全を保障する、赤軍入城後も日本軍が居留民の保護を続けること等であったそうである。警告通りこの約束はすぐに反故にされた。白軍の将兵の拷問虐殺はもちろん、一般市民も殺害された。

 尼港の住民の訳半数の6000人が殺害され、そのうち日本人(守備隊も含む)は分かっているだけで、730人が惨殺された。筆者は結局は力の裏付けのない約束は無意味、と結論している。このような赤軍の蛮行は、ロシア各地で行われたが、隠蔽されて白日の下にさらされはしなかった。

 その中でこの事件だけが有名になったのは、生存した日本人が証言したからである。ひどい話はまだ続く。この蛮行の指揮官のトリアピーツィンは、日本による非難で責任をとらされ、「共産主義に対する信頼を傷つけた反逆者」として銃殺されたそうである。小生は子供の頃、雑誌で尼港事件の顛末を読み、壁に「共産主義はわれらの敵」というような意味の血書が犠牲者によって残されていた、とあったことが忘れられない。これ以来、小生は共産主義は残虐非道なものだと知った。

 いずれにしても、日本が反撃さえしなければ、中国は侵略するはずがないし、仮に占領されても中国人による残虐行為もない、というのが「ディスブレイク」のような日本人の言い分が間違っていることは、尼港事件の例でも明瞭である。不可解に思えるのは、同じロシア人でも赤軍(共産党系)が約束を守らず残虐行為を平然とするのに、白軍は必ずしもそうではない、と思われることである。

 同じ支那人でも、毛沢東率いる共産党の残虐非道や民族絶滅政策は、必ずしも全て清朝などの王朝の慣行を引き継いだものではない。少なくとも中共以前の多くの支那王朝は残虐行為は珍しくはないが、宗教や民族言語に関しては比較的寛容であったように思われる。ベトナムやカンボジアなど、共産主義の直系政権は、やはり残虐行為をしているから、共産主義教育そのものにも問題があると思われる。

 それは必ずしも、マルクス・エンゲルスの主張ではなく、それを敷衍して実現した、トロッツキー、レーニン、スターリンあたりに淵源を発しているのだろう。敢えてトロッツキーを例に入れたのは、彼が亡命してソ連政府により暗殺されたから、日本人はトロッツキーを同じ共産主義者でも、比較的自由主義的である、という誤解があるようだからである。トロッツキーは単に政争に負けたのに過ぎない。

 百田・石平の両氏は「反中分子たちの一斉逮捕」と「共産党に入党して、苗字も一字に変えて中国風にし、中国語を操ってうまく生き延びる。いまマスコミで活躍している反日文化人はそうやって転身を図る人が続出するでしょう。」(p246)と書くが、これはあまりに甘い考え方であろう。

 確かに日教組や左派知識人や左翼マスコミは、日本侵略の過程では活用できるであろう。支那には漢奸という言葉がある。支那人を裏切った支那人のことであり、平和になれば極刑にされる。同様に日本を裏切った反日本人などは、自らの祖国を裏切る到底信頼できない人物である。中共に言わせれば、漢奸ならぬ日奸というべき、最も信頼できない人たちである。真っ先に処刑しなければならない。

 いずれにしても、中共の日本侵略は、日本を不幸(地獄)にするばかりではない。永遠に支那大陸に住む人々も幸せにはしない。中共幹部は子弟や親戚を欧米に送り込んで国籍を取得させている。いざとなったら大陸から逃げ出す算段である。中共の幹部自身が中共政府を信頼していないのである。



書評・日本陸軍とモンゴル・楊海英・中公新書

 最近読んだ「逆転の大中国史」の著者の作なので大いに期待した。期待に反せず小生の「満洲国」の考え方に大きな一石を投じた。アメリカ人のブロンソン・レー氏は、戦前「満洲国出現の合理性」を書いた。満洲国建国を全面的に擁護しており、最近、新訳が出版されている(ただし邦訳のタイトルは異なる)

 だが、レー氏が言うのは、満洲国を否定する当時の米国の対日対支政策が、レー氏の考える米国建国の理念に反している、という主旨で書いているのであって、日本の対支、対満洲政策の擁護になっているのは、その結果に過ぎないのである。結果として、それが米国にとって正しかったのは、米国の政策の結果支那は共産化し、米国の多大な投資と宣教師の犠牲は無駄になり、朝鮮戦争という厄災に襲われる結果を招来したことでも分かる。

 米国が対日戦など企図せず、日本と協調の道を歩めば、戦後の米国の厄災はなかったのみならず、大英帝国も保全されたのである。皮肉なことに、そうなっていたなら、欧米の植民地政策は続き、日本は白人国際社会で、有色人種国家として孤立の道を歩み続けなければならなかったであろう。

 レー氏の支持した日本の満洲国建国、というのは日本の当面の政策とも合致している。日本の利益ともなるはずのものだった。ところが、というか、だから、というべきか、楊氏のようにモンゴルの独立を願うモンゴル出身者にとっては、満洲国は希望ではなかったというのだ。

 「満洲国の版図の三分の二は昔から云うと蒙人の土地であり、満洲地域の原住民はこの蒙古人と漢人の両民族であった。(中略)ところが満洲国が出来て見ると五族協和の旗じるしのもとでも人口が多く三千万に近い漢民族の民政となってしまい蒙古人は少数民族の悲しさ、自然と軽視されがちとなり、日本人で蒙古関係に熱心な指導者はいわゆる蒙古狂扱いされる傾向となり・・・」という興安軍の経理だった斎藤実俊の著書を引用している(P207)

 これを米国に適用すると恐ろしいことが分かる。蒙古人はネイティブアメリカン(アメリカインディアン)が蒙古人に相当する。元々の住人のインディアンは広漠とした居留地に住むしか、民族のアイデンティティーは維持できない。それどころか、飲んだくれ荒れた生活をして自滅しつつある。

 満洲人は皇帝が溥儀となったからまし、とモンゴル人に比べれば言えないこともないが、内実はそうでもなかろう。日本が支那本土に比べたら人々の安寧の地を作り、多数民族として将来実権を握る可能性まで含めれば、一番得をしたのは漢人である、といえないこともない。しかも日本の投資は、毛沢東のでたらめな経済政策にもかかわらず、満洲を食いつぶすことによって、鄧小平復権の時代まで中共を持たすことができた。

 移民と自由と民主主義の国という、レー氏の建国の理念は、結局アングロサクソンのものであって、黒人やインディアンのものではなかった。同様に満洲国建国は根本的には、軍事的経済的に日本のためであった。楊氏は肯定しにくいだろうが、欧米諸国の対外政策に比べれば、日本の五族協和政策などは、良心的なものであった。

 蒙古の土地はまた、日本人には想像できにくい特殊なものであり過ぎた。「草原を掘れば、たちまち砂漠と化してしまうことを経験的に知っているから(P207)」モンゴル人は土地を掘ることを嫌い、草原にそのまま大便をするのだという。日本流を押しつけるばかりではない。日本の対支政策の方便として蒙古独立を、蒙古自治に置き換えたりしたのだという。

 日本の敗戦によって多くのモンゴル人がソ連を頼り、ソ連の傀儡政権とはいえ独立国家の体裁をとっていた結果、ソ連の崩壊とともに独立国となることができた。これはソ連の共産主義の毒牙にかかった多くのモンゴル人犠牲者を出し、現在にも残るであろう共産主義の残滓があるとはいえ、北半分だけでもモンゴルは独立の故地を持つことができたのは、楊氏には幸運な結果といえるのであろうか。

 少なくとも、中共に支配され、草原は耕かし尽され民族のアイデンティティーも喪失しつつある南モンゴル(著者はそう呼ぶ)に比べればよほどよい、といえるのだろう。本書によれば多くのモンゴル人闘士が、独立のため、ソ連を利用し日本を利用した。結局独立は自らの手で勝ち取るものである。

 そのことは、民族のアイデンティティーを喪失しつつある、我々日本人にこそ当てはまる。理屈はともかく、元来保守の心情を持たない小生が言っても詮方ないことではあるが。楊氏の文言は日本人に対しても辛らつではあるが、根底で日本に対する同情あるいは信頼があるように思われる。




書評・経済で読み解く明治維新・上念司


 この本は話題になった原田伊織氏の「明治維新という過ち」のシリーズに対する回答のように思われる。原田氏のシリーズに対する小生の疑問をかなり解いてくれているからである。副題は「江戸の発展と維新成功の謎を『経済の掟』で解明する」である。この副題は反面でかのシリーズの真逆になる。

 江戸時代は通説と従来の評価とは異なり、案外明るい良い時代であった、というのは定説になりつつあるように思われるが、それを経済学の立場からきちんと説明しているのが面白い。原田氏の著作では不明瞭だった、こうすれば江戸幕府が改革を達成して日本政府に脱皮して、列強に伍していく可能性があった、という点を説明している。

 江戸幕府が変革に失敗したのは、成長していった日本の身体(経済)に、幕府という衣服が合わなくなったので、脱ぎ捨てて新しい衣服(明治新政府)に着替えた(P101)というたとえは絶妙である。実質的に貨幣経済に移行しているのに、税は年貢米という金本位制ならぬ米本位制を維持し、徴税権もほとんどが各藩が持ち、幕府はわずかしか持たないために、政府としての事業を行おうとする時に、各藩に強制せざるを得ない、という歪が拡大していったのである。

 田沼意次のように、これらの改革を行おうとする幕閣は失脚させられる、という始末で、討幕と言う大変革なしには、江戸幕府の政治的欠陥を修正することはできなかったのである。この本は「経済で読み解く大東亜戦争」の続編であるが、繰り返すが原田氏の維新否定説に対する回答でもあるように思われる。

 それは「・・・公武合体では、結局揺り戻しのリスクは排除できない。長州は直観的にそれに気づき『気合(狂気)』で国を変えようとし、薩摩は持ち前の『リアリズム』によって途中でそれに気づき、一桑会から寝返ったと私は推測します。(P273)」と書いているからである。原田氏は維新政府を薩摩と長州の藩閥に過ぎないと批判し、特に長州のテロの狂気を問題にしているのである。




書評・「満洲国」再考・原子昭三

 満州国の正当性を論ずるものであり、小生も読んだブロンソン・レーの「満洲国出現の合理性」などを援用しているが、内容はバランスがとれているので、満洲国論を考える座右の書として適している。しかし、最も興味があったのは、色々な民族による異民族弾圧(自国民の場合も含む)をいくつか例示していることである。そこだけ紹介する。

 ひとつ目は、ソ連によるシベリア抑留である。その項の最後にシベリア抑留日本人は65万人、死亡6万人という定説を破る、「諸君」に掲載された抑留250万人、死亡37万人説が紹介されている(P173)。小生は抑留条件の苛酷さから、死亡率約10%というのは不自然だと長い間考えてきた。

 だから、諸君でこの説を読んだとき、思いついたのは定説の
帰還者65-6=59万人と言うのは、恐らく帰国手続きで数えられた、比較的信頼できる人数であろう。抑留者が定説と異なり、250万人とすれば、250-59=191万人が犠牲者数ではないか、という仮説である。この数字だと死亡率76%という恐ろしいものとなる。少なくとも定説の死亡率は少なすぎ、本当の抑留者数は65万人どころではない、と考えるのが自然だと今でも考えている。

 次はロシア革命である。ロシア革命とそれに関連する、内戦、農民の反共暴動、恐怖政治、農村共産化、大飢饉、第二次大戦などにより、1億1070万人が犠牲になった(P181)という。そこには革命ソ連の苛酷な政治が書かれている。またドフトエフスキーが「悪霊」の中で「将来ロシアに共産国家が実現されるとき、一億の人間が斬首されることになろう」、と書いていると紹介して、果たして偶然の一致と片付けられるだろうか、と原子氏は自問している。

 日本では共産主義の恐怖が過小評価されている。小生自身も共産主義にのめり込んだ人物が、日本人らしからぬ冷酷な性格を持つようになった例を何人か知っている。もし一部の日本人思想家が望んだように、日本国家が共産化されていたとしたら、良き日本人も豹変したはずである。

 次は中共の例である。毛沢東時代の苛酷な農業政策が書かれている(P184)。また、チベットにおける民族抹殺政策も書かれている(P195)。弾圧と殺害ばかりではなく、宗教とチベット民族のアイデンティティーの抹殺がある。「内モンゴル自治区」の民族政策も同様である。これらは正に「エスニック・クレンジング」である。

 米国は黒人差別ばかりではなく、インディアンの抹殺政策が書かれているのが貴重である(P208)。黒人差別を語られることは多いが、インディアンの抹殺政策について書かれることは少ないので貴重である。インディアンの迫害政策は現在でも行われているのである。ナチスのユダヤ人迫害は声高に語られるが、それに匹敵するか、それ以上の非道な行為がひっそりと語られるのは、あまりにバランスを欠いている。


 これらの事例に対して、日本が台湾統治で行った政策も書かれているが、これについては比較的有名であり特記しない。



パネー号事件論争

 昔話に属するが、雑誌「正論」で、パネー号事件を主題とした、中川八洋筑波大学教授(当時)と海兵出身の元エリート軍人奥宮正武元中佐との論争があった。論争のテーマは中川氏の主張する、①パネー号事件は誤爆ではなく、海軍の上司の命令による米艦船攻撃であり、攻撃部隊の奥宮氏は相手が米艦船であることを、国旗の表示によって視認していたにもかかわらず攻撃した。②奥宮氏は南京にいて、「南京大虐殺」の現場を見たと主張するのはねつ造である。③海軍の多くのエリート軍人の多くは、戦後まで海軍の名誉を守るため、日本民族に不利な偽証をし、それが大東亜戦史の定説となっている。これに対して一般の認識と異なり陸軍のエリートは、一部のコミュニストを除けば、見識ある人物が海軍より多い、といったものだろう。

 最近、この論争をたまたま再読する機会があったが、読後感は、論争は中川氏の圧勝であった。中川氏はエキセントリックな性格であるが、論理は明晰である。これに対して、奥宮氏は中川氏が軍人でない素人だ、という点に依拠して反論しているに過ぎないように思われる。この論争は、旧海軍のエリート軍人のひとつの典型を示すものとして興味があるので触れたい。

 論争は「良識派軍人奥宮正武氏への懐疑」(以下甲1と略す、H12.9)、これに「中川八洋氏に反論する」(乙1と略す、H12.11)が続き、「ふたたび奥宮正武氏に糺す」(甲2と略す、H13.1)、奥宮氏の「ふたたび中川八洋氏の詰問に答える」(乙2と略す、H13.3)、の4回で終わっている。

 この論争の中で、奥宮氏は信じられない間違いを書いている。それも海兵出身者という頭脳明晰な人物とは思われないミスである。甲1で中川氏は奥宮氏が「さらば海軍航空隊」で当時視程50キロの快晴で、高度500mの低空に急降下して攻撃していたから、甲板上の星条旗がみえたはずだ。(P293)という。

 これに対して乙1で、地上を視認できるのは搭乗員のうちほんの一部だという事実を、軍用機に乗ったことのない中川氏には分からない(P293)、と反論する。ところが甲2で、「さらば海軍航空隊」で、奥宮氏自身が「私は、下方の(パネー号等)四隻の甲板上に濃紺の服装をした中国の軍人らしい人々が満載されているのを見て・・・()内は中川氏による注記。」と乙1と矛盾することを書いていると、中川氏が反論する。

 これに対して乙2で、奥宮氏は何と「私の著書のいずれにも、パネー号上に中国人がいた、とは書いていない。(P321)」というのだ。その上「他人に質問するのであれば、当人の著書をよく読むべき・・・」とさえ書く。小生は図書館から「さらば海軍航空隊」を取り寄せたが、そこには確かに、「私は、下方の(パネー号等)四隻の甲板上に濃紺の服装をした中国の軍人らしい人々が満載されているのを見て・・・」と書いてある

 甲板に星条旗が書いてあったのは、パネー号以外の船ではないか、というのは奥宮氏自身によれば、あり得ないという。なぜなら乙1のP295に「最初の爆撃で、パネー号の甲板が破損していたので、ますます甲板上の国旗を見分けにくくなっていた。」と書いているのである。

 中川氏によれば、国旗が分からないほど破損している甲板に、中国兵がいられるはずもなく、搭乗員のほとんどが地上の様子など見えない、というのも真っ赤なウソなのである。

 私には奥宮氏がこのように調べれば簡単に分かる、自らの著書の記述について間違えるのが不可解である。中川氏が指摘した「さらば海軍航空隊」のページと小生の手元の本のページは数ページずれている。このようなことは本の版が変わると珍しいことではない。当然該当箇所を小生ですら簡単に見つけた。

 このような奥宮氏の自著の読み忘れ(?)は軽いものではない。「さらば海軍航空隊」には爆弾投下した瞬間に英国旗のユニオンジャックが見えたので、あせって、友軍機の爆撃をやめさせようとした、と書いている米英は中立国だから艦船を爆撃してはならない、という戦時国際法を準用すべきことを思い出したのである。にもかかわらず、星条旗を視認しても撃沈してしまったとすれば、それは誤爆ではない。中川氏も小生もそう思う。つまり著書に書いてもいないことをねつ造するな、という勘違いな主張(あるいは嘘)はパネー号事件の本質を指摘されたからのように思われる。


 まだ奇妙な間違いはある。乙2のP319に朝日新聞の児玉特派員の記事で、海軍機が、陸軍部隊に急降下攻撃を見せる姿勢を示したので、陸軍の部隊長が皆に日の丸の旗を振れ、といって皆で旗を振ると、先頭機は通過していったが、次の機は爆弾を投下していって爆発音が3回聞こえた、と書いている、という中川氏の指摘に対して、奥宮氏は「これも全くのつくり話である。しかも前大戦後に、私の著書をヒントにして書かれたものと思われる。」と説明している。

 ところが、中川氏の指摘するこの記事は、甲2によれば(P282)、昭和十二年十二月二十五日の支那事変の最中の記事であり、中川氏はそのことを明記している。しかも中川氏は、これに関連する一連の記事が嘘なら、なぜ当時の海軍は「虚報」として抗議しなかったかと言っているのである。


 奥宮氏は昭和十二年当時海軍大尉である。それ以前に奥宮氏が文筆活動をしていたとは寡聞にして知らない。国会図書館のデータベースでは、奥宮氏が世に著作を出したのは昭和26年の淵田美津雄氏との共著「ミッドウェー」が最初である。なぜ児玉特派員が昭和十二年の記事に、奥宮氏の戦後の著書をヒントに「つくり話」の記事を書くことができたのだろう。なお、中川氏が指摘する、児玉特派員の記事が実在することは国会図書館の東京朝日新聞のデータベースで確認した。

 自著に明白に書かれているものを、書いたことはない、と否定したり、戦前の記事が戦後の著作をヒントに書いた作り話だなどといったり奥宮氏の頭脳には論争以前の問題がある。繰り返すが、海兵出身の明晰な奥宮氏がどうしたことだろう、と首を傾げる次第である。

 また、奥宮氏は国際法に理解がないふりをいるか、知らないかである。国際法に関する奥宮氏の反論について、中川氏はあえて一切触れていないようである。奥宮氏は乙1(P299)「投降の意志が示された敵兵を捕虜にするか否かは交戦相手部隊の自由である。」という中川氏の説明に「そのようなことを認めている条約はない。」と断言する。


 そのようなことを明記した条約がないことは事実である。だが、国際法とは、条約だけで成立しているものではない。その多くが、その当時確立されている国際的慣習によるものが、国際法のほとんどである。日清戦争当時、東郷艦長が起こした、英商船の高陞号撃沈事件は、東郷が国際法に則って実行したとされているが、英国では東郷の処置にごうごうたる非難が起きた。しかし、当時の英国の国際法の権威が、東郷の処置は国際法上正当である、という見解を発表したとたんに、英国世論は東郷の処置の正当性を認めて収まった。

 もし、国際法が条約だけで成立しているものとすれば、条約の説明だけで済み、権威者の見解など必要ないのである。もとより帝国海軍軍人たる奥宮氏がそのようなことを知らぬはずはない。奥宮氏はためにする議論をしたのである。

 また、中川氏がハーグ条約などというものはなく、外務省の正式文書には必ず、ヘーグ条約と書かれている、と中川氏は知識不足である、と断じている。小生の持っている「国際条約集」という本にも確かに「ヘーグ条約」とかかれている。だが、戦前の国際法の権威の一人の立作太郎氏の「戦時国際法論」(昭和6年刊)には「ハーグ」條約と書いてあるし、同氏の「支那事変国際法論」には、ハーグどころか「海牙」と書かれている。

 これも中川氏の知識不足を印象づける操作に過ぎず、議論の本質ではない。これら国際法関連については、中川氏はばかばかしくもあり、議論の本質にも触れないので無視したと、小生はよきに解釈している。奥宮氏は国際法の本質を知っていることを、中川氏は百も承知しているので、国際法の講義をするまでもないと思ったのであろう。

 公平のためにも、1点、中川氏も奇妙なことを書いていることを指摘しておく。甲2のP286に「南雲忠一中将の機動部隊はハル・ノートが手渡される二十五時間前のワシントン時間十一月二十五日に択捉島を出撃した。中学生でも知っている有名な史実である。」と書いている。いくらなんでも「中学生でも知っている」はないだろう

 以上は、正論誌にかつて載った中川VS奥宮論争の一部を抜き書きした。再読して見て、改めて中川氏の圧勝と感じた。日米間では誤爆という事で決着しているが、パネー号事件は誤爆ではなかったのであろう。しかし、全貌は不明である。また、中川氏が甲2で論争を離れて、国家や軍人のあり方について、奥宮氏を真摯に諭しているように見えるのに、奥宮氏は弁明に汲々としているのは、奥宮氏が身命を賭して日本のために戦った軍人であるのに、残念だと思う次第である。



西尾幹二のブログ論壇・総和社

 最後の方に書いてあるが、西尾氏はパソコンや携帯が苦手な人らしく、ブログも原稿を書き、パソコンでブログにするのは、代行してもらうらしい。それでもインターネットの世界に西尾氏は飛び込んだのである。

 最初は一時話題になった西尾氏の皇室批判の話題であるが、小生はまともに読んだこともない。西尾氏は皇室に対して諫言をしている。それを読んだことがないので論評はしない。ただ、「・・・皇太子殿下が雅子妃殿下を迎えられたことについて私は近代日本の学歴主義との結合と書きましたが、ここで天皇家は学歴主義を新しい権力と誤解したのではないでしょうか。(P291)」という。この指摘は「天皇は権力に守られる。それにより権力は勢いを増す。」ということと関連している。

 戦後は皇室はアメリカという権力によって守られている、ということでもある。確かにその通りである。だが、単にアメリカを、かつてから皇室が守られていたような権力と同列に考えるのは疑問ではないか。また、雅子妃殿下以前に、美智子妃殿下という民間人を受け入れた、というのは昭和天皇ご自身ではなかったか。

 それはかつて藤原家などから皇室に入った、ということとは異質な気がする。戦後民間人が皇室に入った、ということは英王室などによる影響ではあるまいか。つまり開かれた皇室というものに影響された結果であるような気がする。つまり西欧を入れたのは昭和天皇ご自身からではないか。それについて、どうこう言うつもりはない。事実関係として言いたいだけである。

 北岡伸一の田母神論文批判である。「日米開戦直前にアメリカが示した交渉案のハル・ノートを受け入れたら、アメリカは次々と要求を突きつけ、日本は白人の植民地になってしまつたことは明らかだと(田母神氏は)いう。・・・ハル・ノートをたたき台に、したたかに外交を進めることは可能だった。その結果が、無条件降伏よりも悪いものになると考える理由は全く分からない。(P100)

 これに対して西尾氏は「思い込みと野蛮な非合理感情に動かされるアメリカの開戦への驀進は、イラク戦争でも目撃ずみです。・・・今の時代感覚でハル・ノートの時代を判断している楽天的幻想です。ルーズベルトの高まる対日敵意とアメリカの年来の中国大陸への野望、欧州戦線とのかね合い、そしてなによりもあの時点でのアメリカの自己過信がもたらした尊大横暴です。勿論アメリカにも理性的な人はいたでしょう。ですが、そこにだけ目を向けて、日本の『負ける戦争を始めた当時の指導者』の『責任』を言い立てる北岡氏のもの言いは、・・・最初から旧敵国アメリカの側に身を置いて歴史を見ている姿勢です。厳密にいえば客観的な歴史の事実は把握不能です。ことに現代史は実証的な歴史そのものが不可能です。」と断言する。

 北岡氏の言説は、国際関係の厳しさと複雑さを知らない、幼稚なものとしか言えない。西尾氏の批判以前に、保守を自称する人物にも、ハル・ノートは無視するか受け入れたふりをすれば、戦争をしなくて済んだ、という者がいるから救いようがない。

 ハル・ノートは日本が受け入れる事ができないで、開戦せざるを得ないようにする目的で出されたのだから、事実誤認も甚だしい。米国は交渉する気はなかったのである。もし、日本が米国民にハル・ノートを公開していたら、米国民は米国政府に怒って、反戦機運が盛り上がり、開戦を回避できた、という説も同様である。ハル・ノートより前から公然と石油禁輸などの経済制裁に近い挑発を行っているのである。それらの公然たる挑発を米国民も知っていたのだから、米国民の反戦感情を利用するなどと言うこともあり得ない。

 「現代史は実証的な歴史そのものが不可能」だというのは、日本では定説とされてきた張作霖爆殺の真相が必ずしも正しいとは断言できない証拠がでてきたことや、カチンの森のポーランド将兵殺害がナチスドイツの仕業ではなく、実はソ連軍の仕業だと逆転したことが、それほど昔ではなく、歴史が現代に近いほど皮肉なことに事実が隠蔽されやすいということでもある。

 鎖国の理解であるが、通例では江戸時代にヨーロッパ文明を警戒していた、とされるが、「もう一つの側面は、中華文明に対する土着文化の長い時間をかけた、静かな拒絶反応の表現であった(P115)」というものである。これは菅原道真が遣唐使の廃止をして、支那文明の導入をやめたことを言うのではない。

 日本は、それ以前から漢字などの支那文明を取り入れながら、同じ姓の者とは結婚しない、イエを守るための形式的養子を認めないなどは、日本の都合でこれらの支那の制度は採り入れないできた。

 「何から何まで日本社会とは異なることを少しずつ知ったのは、江戸時代を通じ、儒教以外に学ぶもののなかった学習時代を経て、日本人が自己認識を深め、一つの自立した日本文明が成立していった結果に外なりません。日本は江戸時代にある意味で文明化していたと考えます。ゲーテが見た、神と自然が調和した秩序は、新井白石や本居宣長が見ていた世界に重なります。明治になって『文明開化』したのではありません。」ということである。

 西尾氏は歴史家の秦郁彦氏を批判する。小生も以前は、慰安婦問題で吉田の嘘本を実証的に暴露した秦氏の功績を評価していたこともあったのだが、「南京事件」について、秦氏が被害者数の大小に相対化する態度を取っていたことに疑問を持った。

 「秦 ・・・西尾さんは欧米の『意志』を悪しざまにおっしゃるけれど、この時代、どの国もみな互いに謀略を仕掛けあっているわけですね。ワルはお互いさまで、負けたからといって『騙された』と泣き言をいうのはみっともない。・・・

 西尾 秦さんは日本も覇権争いに加わった一国にすぎなかったと、当時の各国を相対化されたが、世界史観において、私は全く立場が異なる。西洋のキリスト教原理主義からくる裁きの思想、・・・善と悪を自分の頭上に掲げ、自らに対する裁判官にもなり、処罰者になる。日本人にも中国人にもこういう発想はありません。この思想は・・・スペインとポルトガルが帝国主義的拡張をつづける過程で全世界に飛び火していく。・・・パリ講和会議の時点で、すでに第二次大戦後のニュルンベルグ裁判とまったく同じような『裁きの意志』が露顕していました。(P127)

 このようなやりとりがあり、秦氏は西尾氏に同感です、と言いながら、結局は相対的な発想は崩さないばかりか、東京裁判を「ほどほどのところに落ち着いた、比較的、寛大な裁判だった」というのだから何をかいわんやである。だから西尾氏に「秦さんはどうも旧敵国、戦勝国のような立場に立って・・・日本を裁いている。」と論難される。

 東京裁判の裁判官らですら、後日東京裁判を批判しているから、秦氏はそれ以上に戦勝国的立場に立つのである。西尾氏が秦氏を保坂正康氏と同類扱いするのも分かる。

 民主主義教育について、「どんな社会にもエリートは存在するし、必要とされる。問題は、教育への機会均等という美名の下に・・・正しいエリート教育の在り方が一度も真剣に討議されなかったことにある。エリート教育とは、精神の貴族主義を養成することであって、権力への階段を約束することではない(P228)」と喝破している。官僚でも実業界でもこの点に大いなる誤解があるが、無理からぬことであろう。

 受験勉強はなぜするか、と言えば「快適な生活、安全な身分保証、適度の権力欲」という自己逃避であるのに、自己逃避せずに勉学するという受験生の態度は、「明らかに矛盾である。」というのは本当である。

 小生のかつての知人で、自らの人生経験をあからさまに語る人がいた。必死に勉強して一流大学に入ったが、その時点でエネルギーを使い果たしてしまったというのだ。だから自分は卒業した大学の割に、不本意な地位にいるのだが、同窓会に出ると皆一流会社の役員や社長ばかりだと言っていた。卑下したり嫉妬するでもなく、あまりに有体に言うので、嫌味も何もない。西尾氏の言説の裏面の真実を聞かされていた気がする。

 大江健三郎は不自然な人物である。大江が新制中学時代に憲法を習った頃の思い出を語っている。(P232)その文章を西尾は「符牒や暗号を一度叩きこまれたら、もう二度と疑うことのできない人間改造の見本のようなものである。これはまた子供はどのようにでも教育できるし、大衆の意識はどのようにでも改造できる・・・大江氏が別のエッセーで『天皇は、小学生のぼくらにもおそれ多い、圧倒的な存在だったのだ』と戦時中の自分の姿勢を書いていることである。

 昨日まで戦争をしていた若い先生に、修身の代わりに平和憲法を教えられたことを後年まず矛盾と考えるとのが正常な感覚だと私は思う・・・大江健三郎氏には〈主権在民〉や〈戦争放棄〉はモラルではなく鰯の頭、疑ってはならない護符、呪文、要するに天皇と同じように『おそれ多い圧倒的な存在』であったということでしかあるまい。

 大江さん、嘘を書くことだけはおよしなさい。私は貴方とまったく同世代だからよく分かるのだが、貴方はこんなことを本気で信じていたわけではあるまい。ただそう書いておく方が都合がよいと大人になってからずるい手を覚えただけだろう。」と辛らつだが本当である。

 大江の天皇陛下に対する敬意と、その後の言動の矛盾から分かるのは、大江は単にそのとき受けのいい言動を繰り返しているのに過ぎない。国粋主義的風潮が世に蔓延すれば、簡単に「主権在民」などいう「呪文」は捨て去るであろう。

 そして「民主主義は政治上の、相対的な理想であって、決して教育理念にすべきではない。・・・民主主義の名において民主主義のために戦いたがる青年たちが、民主主義を事実上許さない政治体制につねに従順であるのは、戦後民主主義の七不思議の一つである。民主主義が再び抑圧されはしないかとたえず警戒し、いきまいている青年たちは、間接的に自分たちの抑圧されやすいことを告白しているようなものである。(P234)

 青年たちばかりではない。大江のような年寄りまでもそうなのである。中共や北朝鮮のように民主主義どころか民衆が限りなく抑圧されている国家に従順なくせに、日本政府に対してだけ、民主主義の危機だなどといきまくのである。



ナポレオンと東條英機・武田邦彦・ベスト新書

 小生としては初めて、米国は対独戦参戦のためばかりではなく、日本を潰すための戦争を企画していた、という小生の考え方と一致した論考を発見したのは幸甚である。しかも、小生の考えは、単に日本本土爆撃計画、その他の米国政府や民間の動向から、この主張を導き出したのに過ぎない。

 本書が貴重なのは、米国の動機を論証したことである。欧米人は日本が支那と同様に、白人、すなわちアーリア人種のルールと秩序に従って行動すれば、日本を受け入れて戦争になることはなかった。しかし、日本は白人と有色人種は平等である、という抜きがたい思想を持っていて、満洲国建国など、白人の既成の植民地秩序を破壊する意志と能力を有する、唯一の有色人種の国であった、ということである。

 それ故、ルーズベルトを始めとする欧米人は、アーリア人種が造り上げた秩序を守るためには、結局日本を叩き潰すしかない、という結論になったというのである。大航海時代以降、世界で欧米に支配されなかったのは、日本以外には、エチオピア、タイ、支那だけであった。(P76)

 しかし、エチオピアは風土病がひどく、ヨーロッパ人は入りたがらなかったため、タイは外交上手だったのと、英仏の対立の緩衝地帯として残され、支那は唯一「白人に寝返って」(つまり蒋介石はアメリカの、毛沢東はソ連の傀儡であった、など)、完全な植民地化を避けられた、というのである。その他のベトナムなどは果敢に戦って敗れ、植民地化され、唯一日本だけが軍事力、すなわち実力で独立を保持したのである。

 次に本書の主題である、東條英機がナポレオンに比べ貶められているが、初めての有色人種の国際会議である、「大東亜会議」を主宰するなどして、多くの植民地の独立を促し、白人優位の秩序を壊した、立派な指導者だった、という論考にも大いに共感する。大東亜会議については、深田祐介氏が好著(黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち)を出しているので読まれたい。

 小生は昭和史、あるいは日本近代史の人物では、トップが昭和天皇で、次いで東條英機を推しているので、東條の再評価は喜ばしい。

 ここで、間違いを指摘しておく。「フランスはアメリカが独立するのを嫌って」独立戦争に介入した(P51)というのだが、これは逆ではないか。「対大英同盟を率いたフランスが勝利し、アメリカの植民地は独立します。(嘘だらけの日英近現代史P128)」というのが事実ではないか。

 米西戦争の原因となった米国船を「メリー号」と書いているが実際はUSS Maine なので、普通日本語では「メイン号」と表記される。繰り返し書かれているので、表記ミスではなく、記憶違いであろう。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが「・・・日本軍が敷設した魚雷を避けつつ・・・」とあるが、機雷の間違いである。

 以上、本書の本質と関係ない、些末な間違いを指摘したが、単純なものなので版を改める時、訂正したらどうかと思う次第である。



大西郷という虚像・原田伊織


 まず結論から言うと、本書はその目的であろうと思われる、西郷伝説が間違いであり、狡猾で人望のない人物に過ぎない、ということを読者に納得させることに成功していないように思われる。西郷が鷹揚さの反面で、陰謀などをめぐらす二面性のある人物である、ということは西郷を称賛するほとんどの人もが指摘するところであり、今更言われるまでもない、というのがひとつの理由である。

 もうひとつは、「もともと粗暴である点を以て全く人望がなかった西郷が・・・(P103)」等の粗暴で人望がない、と一方的な指摘をしているのに、「『田原坂』とは、中央政府という大人社会に怒った若衆たちの宿の『稚児』たちの蜂起を『二才頭』として放っておくわけにいかなかった西郷の仕上げの舞台・・・(P302)」というように何回か「二才頭」であった経験から人の上に立つことができた、と具体的論証では人望があった、ということを証明している。このように西郷の批判に関しては、具体的証明のない決めつけに近いのに、具体的な指摘となると、西郷を持ち上げる、結果しか生んでいないように思われる。

 小生は西郷などのように、世に立派な人物として称賛される人たちが、他の人たちと異なる特異な性格を持った、神のごとく立派な人物である、とは考えていない。称賛される人たちにも欠点もあり、人としての悩みを抱えた普通の人間であって、ただ、結果として大きな事績の代表者として、その人物にスポットライトが当てられたのであろうと思う。

 太田道灌が江戸城を作った、というような言い方は、太田道灌が江戸城建築と言う大事業の象徴である、という意味である。太田道灌が設計から建設作業の全てを行ったわけではもちろんない。道灌という象徴的名前の下に、無数の人たちの功績や努力が隠れているのである。西郷も明治維新という大事業の象徴の一人であると小生は考える。

 西郷を有名にしているひとつの本に内村鑑三の「代表的日本人」がある。そのドイツ語訳版後記に面白い記述がある(ワイド版岩波文庫P181)。「何人もの藤樹が私どもの教師であり、・・・中略・・・何人もの西郷が私どもの政治家でありました。」というのである。内村は著書に書かれた人たちを特殊な人物ではなく、日本人の中に西郷などに比すべき人物は多数いる、と言っているのである。正に代表的日本人あるいは典型的日本人なのである。こう考えれば「大西郷」などは虚像である、などといきり立つ必要はあるまい、と思うのである。

 故意としか思われないエピソードの無視がある。西郷の記録として重要な資料に「南洲翁遺訓」がある。これは、敗戦にもかかわらず、西郷によって寛大に扱われた、庄内藩の人たちが書いたものである。このことを著者が知らぬはずはない。それはこのエピソードを書いたら、それは「大西郷」は虚像である、という説明と対比して、都合が悪いからとしか思われない。

 本書は「明治維新という過ち」の完結編であると著者自身が言っている。そのシリーズに共通して、繰り返し述べられている維新の過ちというのを大ざっぱに三つ挙げると

①明治維新を行った尊皇の志士とは狂暴なテロリストに過ぎず、新政府の構想などの展望を持ってはいなかった。

②幕府には有能な外交経験者と政策能力のある有能な人材がいて、明治政府を支えたのはこれらの人物である。これに反して薩長には、新政府を支える人材はいなかった。

③薩長が討幕したのは、尊皇攘夷などのためではなく、関ヶ原の戦いなどで敗れた藩の復仇に過ぎない。

というものであろう。統治する側の内部での政権交代なのだから、著者の言うように、明治維新とは革命ではなくクーデターである、というのはその通りである。この観点も含めて、上記三点を考える。

①について:クーデターにせよ、革命にせよ、暴力によって実行される。平和的革命などと言うものは比喩に過ぎない。だから、現政権側からいえば、暴力は違法なのだから、単にテロとしか言えない行為も含まれている。それを全くなしにクーデターができるはずがない。問題は他のクーデターや革命と比べ、暴力や非道な行為の程度が不必要に多いか否か、である。

 クーデターを行う側の人物にも色々いるから、全く非道な行為はあってはならない、とうのは現実的には無理な注文である。日本は治安がよい、といっても犯罪が全くない、というのはあり得ないのであって、他の国と比較しての相対的なものである。この点著者は、薩長の非道なテロ行為を挙げるが、世界史的にどうか、という視点が全くない。これでは論証にならない。ロシア革命後のボリシェビキによるクーデターの悲惨非道と比べればよい。権力闘争としての文化大革命と比較するがよい。明治維新が世界史的に見て、犠牲が少ない大変革であった、というのは事実である。

 また新政府の構想の展望については「五箇条の御誓文」をあげればよいであろう。幕府が行おうとしていた、公武合体その他の構想も、そのような政治体制で、当時の西欧諸国と伍していくことができたであろうか、という疑問は消えない。

②について:他の国の革命やクーデターと異なり、榎本武揚のように、幕府側の有能な人材が明治政府では活用されていた。これはむしろ誇るべきことであろうと思う。ルーツは同じでも、日本の将棋だけが、相手から取った駒を味方にすることができる。これは日本人の性格の長所であると言われているのである。

 著者が指摘するように、伊藤博文は女癖が悪かった。だが時代背景を考えると異常とは言えまい。また、伊藤の帝国憲法作成については、素晴らしい功績である。これだけをもってしても、薩長には人材がいなかったとは言えまい

③について:尊皇攘夷がいつのまにか、開国になっているということの不可解さについては、多くの識者が分析を試みて納得できる答えを出しているので省略する。なるほど中西輝政氏も書いているが、薩長は関ヶ原の敗者である。それは討幕のエネルギーのひとつが敗者による復仇だった、ということでありそれが全てではない。それが全てであったなら、明治政府はあのような体制とはせずに、薩長の支配が永続できる体制としたであろう。

 現に藩閥政府打倒の運動があり、それは徐々成果をあげて政府や陸海軍における薩長閥のカラーは払拭されている。大東亜戦争当時の代表的人物で言えば、東條首相も米内海軍大臣も山本五十六連合艦隊司令長官も薩長閥ではない

 著者はひとつ奇妙なことを言っている。「・・・学校教育で受けた印象として、徳川幕藩体制とは、幕府が強力な軍事力=力で統御していた中央集権政権体制であったように受け取られているようだが、それは明白な誤りである。中央集権体制とは、幕府を倒した薩長新政権が目指した体制である。」(P247)

 小生は子供の頃どういう歴史教育を受けたか記憶はないが、幕藩体制は藩の独立性が比較的強い封建体制で、明治政府はこれに対して中央集権政府を目指した、というのは小生を含め通説である、と思っている。ちなみに、学術的に正しいか別に置くとして、通説の代表格である、Wikipediaで中央集権を調べると、日本については明治政府を代表格としている。著者の認識は不可解としかいいようがない。

 著者は出自に依拠してものごとを判断する傾向が強い。例えば「・・・薩摩の田舎郷士であった西郷という男の・・・」「もし、西郷という男が上級の士分の者であったなら、こういう手を打っただろうか。」という繰り返される出自を根拠に人物の良し悪しを評価する記述がある。このシリーズに共通するが、西郷のみならず、薩長の維新に参加した人物に対して、品性の悪さを出自の悪さに起因しているとしていることが多い。小生は建前で出自の悪さと品性の悪さの相関を否定しているのではない。

 出自が悪いために、品性の悪い人各となった人物もいる。逆に出自が悪いために、高潔な人格となった人物もいる。ケースバイケースである。ある人が出自が悪いために品性が悪いと言いたければ、それを証明しなければならないが、本書にはその論証は薄弱のように思われる。出自は変えられないのだから、著者のような単純な論理なら、出自の悪い者に救いはないのである。

 これに類似した記述がある。「・・・私のような浅学の徒が『子分』と表現してもさほど重みもないが、博士号を持つ学究の徒である先の毛利氏でさえ『子分』という表現を用いている。(P263)」という。「博士号を持つ学究の徒」であれば言説の信頼性は高まるものなのだろうか。

 著者のように「博士号を持つ学究の徒」ではなくても、きちんと知識を重ねて論証をしていれば、小生は納得するし、西尾幹二氏のように専門がドイツ文学であっても、その歴史など専門外の論考には小生は信を置くことができる。逆に、専門家としての博士号を持つ大学教授に専門の範囲の論考で、全く信頼のおけない人物は山といる。繰り返すが、著者には出自と肩書きで人を評価していると言われても仕方のない記述が目立つ。

 「・・・西欧近代というものを金で買いまくった(P252)」というが、例えば技術にしても金で買いまくれるものではない。これは技術の深みを知らない言説である。清朝末に軍艦などを買っただけで使いこなせなかった清国艦隊と、日本海軍が国産化の努力と運用をしたのと比較すればよい。技術は金で買いまくれるものではない。受け入れる側の組織や教育などの努力と素地が必要なのである。

 その素地は多くの識者が指摘するように、江戸時代に準備されていたものである。著者が幕藩体制の人材の豊富さを強調するように、幕藩体制と明治政府は全く異なる外見をしていても、日本と言う国は江戸時代やそれ以前から連続して断絶がないのである。

 「戦後、オランダがヨーロッパの中でも有力な反日国家となった(p138)」原因として、大東亜戦争時の捕虜の扱いばかりではなく、文久三年のオランダ船砲撃が根にある、という永年の友好国であったにもかかわらず、突如砲撃されて四人が死亡したからだ、というのだ。

 だが戦後、というのは大東亜戦争後のことであろう。日本兵捕虜の虐待については、オランダ人が連合国で最も残虐非道だったことが書かれていない。オランダ兵の日本人捕虜虐待は、虐待などと言う程度ではない恐ろしいものであった。このような反日は、幕末の事件より大東亜戦争の緒戦で敗北し、欧米人が人間扱いしていなかったかつての植民地の民の前で恥をかかされた上に植民地大国から三流国に転落した、という説の方が妥当であろう。小生はこの説の方がよほど腑に落ちる。

 白人が有色人種に惨めに負ける、という驚天動地のできごとがあったのである。第二次大戦初頭に政府は亡命したうえに、蘭印の植民地まで奪われたのである。

 著者は明治維新の日本の行動を、誤った海外膨張としている。それ以上の言及がないので判然としないが、日清日露戦争、大東亜戦争をそのような観点だけから見ているのであろうか。だとすれば、結局著者も維新以後の戦争を侵略戦争と考え、維新以後の戦争は対外膨張と言う国内的要請から発生した、と考えているのであろうか。

 「明治維新という変革が創り出したものは国民であったのか、そうではなく皇民であったのかという問題は明治維新解釈の前に現れた二つの道である。今日の市民社会を構成する市民に通じる道を歩むと・・・(P11)」としている。明治維新は大日本帝国と言う国民国家を作り出し、その国民が同時に皇民であっても矛盾はしない。日本は天皇を基底に持つ国家である。吉田茂は臣茂と称した。自分は皇民である、という意味である。

 気になるのは市民と言う言葉である。これは左翼の使う「国家」を消去した、地球市民と言う言葉につながる。国民国家であればいいのであって、ここに市民と言う抽象的な言葉が登場するのは不可解である。○町に住めば○町民であり、△市に住めば△市民であって、固有名詞をなくした抽象的な「市民」と言うのは考えにくいのである。それに対して国民国家における国民、という抽象概念は存在するから、市民と国民と言う言葉を対等に並べるのは変である。

 氏は左翼どころか昔は右翼と呼ばれた、と何度か言う。しかしこういう言説は左翼の影響から逃れていないように思われる。

 イギリスに利用されて明治政府は成立し、有能なパーストマンが急死しなければ、日本は英国に支配される属国となっていた可能性が大である、という。(P153)これには中西輝政氏の説を以て答える(国民の文明史P442)。英国の国際戦略研究所を務めた大学教授は、アジアで日本とタイと中国だけは完全には植民地化できなかった、とソウルで講演したという。

 タイは外交手腕によって独立を保ちえた。中国は広大すぎて部分的な支配にしかならなかった。日本はタフだったから、というのである。「日本列島のこの南の島(九州)のその先端を攻めるだけでも、こんなに手こずったのだから、この国を占領するのはまったく容易なことではなく、ほとんど不可能に近い、とそのとき多くのイギリス人は感じたという。そこでイギリスの対日政策として植民地化することを諦めて、『文明開化』させ、イギリスと親密な関係を持つ国として近代化に協力し利用する、という方向に持ってゆく、と決めたといわれる」のである。こちちらの方が事実に近いのではあるまいか。

 パーストマンは英国にとって有能な政治家であったことは認める。ただ著者はパーストマンの存否と日本の植民地化の可能性という重大な指摘について、何の論証もしていない。

 最後にこのシリーズの全般的な印象を言う。意外なことだが、日本人らしいことを強調しているにもかかわらず、氏は郷土に対する強いシンパシーを持つ反面、「日本」に対するシンパシーが何かしら薄いように小生には感じられる。



書評・第二次大戦の〈分岐点〉・大木毅

 第二次大戦の分岐点の定説について、独自の観点からとらえている、というような趣旨の書評につられて読み始めたが、よく調べられているのは流石だが、衒学と情緒的書きぶりに少々嫌気がさして放棄した。読み込めば価値はあるとは思うのだが、気分的にどうにもならない。また簡単な間違いや思い込みが目につくのも気になる。

 典型は第三章の「プリンシプルの男」である。書評にはならないが、本項ではこの点の批判だけする。「プリンシプルの男」とは零戦の設計主任の堀越二郎のことである。設計者として必要な資質としての、自分の立てた原則を曲げないという性格を持っているというのだ。本書に書かれている頑固さの例は、安全率の規定を部材によっては緩和すべき、と主張して担当官をねばり強く、説得したというものである。

 本書にはないが、類似の例では堀越氏が、艦上戦闘機烈風が要求性能に達しないことが判明したとき、色々な実機のデータから、設計より以前に、誉エンジンに問題があることを立証して、ついに会社のリスクでエンジンを換装することで海軍を説得したのであった。官が民に対して高圧的であった当時にあって、その行動力は物凄いものである。だがこれらの例はプリンシプルと言えるのだろうか。自分が正しい、ということを主張したのであって、何かの原則に基づいて主張したものではない。

 逆に、海軍の要求仕様について、戦闘機の性能では格闘性能か高速力が優先すべきか、というような議論を軍のパイロットが議論を始めたとき、堀越は傍観者として見ていた。正否はともかく、二人のパイロットには、戦闘機のあるべき「プリンシプル」があったのに、堀越は持ち合わせていなかったのである。堀越のプリンシプルは別なところにあった。それは重量軽減である。本書にも書かれているが、その執念は尋常ではない。

 戦後防衛大学で堀越から航空工学の講義を受講した人物が、堀越教授は重量軽減についてばかり講義して、毎回機体の重量計算ばかりさせていた、ということを小生はある資料で読んだ。それだけで一年の授業が持つのかと不可思議であるが、別な資料でもう一人の同様の証言があり、両人とも堀越を尊敬している風はあっても、非難する様子ではなかったから、事実なのであろう。

 堀越自身が、「一キロの重量軽減は多量生産時の工作時間三十時間に値する」(零戦)と述べている位である。当時は一万機に達する大量生産は予期していなかったから、仕方ない、という説もあるが、千機であっても工数低減の影響が大きい多量生産の部類である。その程度の生産量は想定内だし、堀越の言わんとするのは工数が増えても重量軽減の方が大事だ、ということだけである。現に堀越自身の著書によれば、生産工数比較では零戦は、かのP-51の三倍である。

 工員の賃金をドル-円換算して比較すると、コストにすれば、零戦の方がP-51より安い、と堀越は言うのだが、人的資源の消費という観点からすれば、工数の大小が問題である。工数が多ければ、他の軍需物資の生産に回せる人員を零戦の生産が食ってしまうことになる。人口が余っていれば問題とはならないが、当時でも人口は日本の方がアメリカよりずっと少ない。

 マスタングは生産中にも工数低減の努力をしているから、この差は縮ってはいなかったどころか広がっていたであろう。堀越は七試単戦から5種の戦闘機設計をしており、海軍の要求のシビアさから戦闘機設計のプリンシプルとして、重量軽減に到達したのだろう。しかし、戦後航空工学の講義でそれを教えた、ということは飛行機一般の設計の原則としたということだろう。

 しかし、飛行機が空を飛ぶ以上、どんな設計者にとっても重量軽減は原則のひとつであるのは当然である。そして、飛行機設計には他にも色々な要求があり、機種によっても要求の優先順位は異なるので、それらのバランスが設計の妙であろう。それを、重量軽減しか教えない、というのは余りにバランスを欠いている。それは技術者に必要なプリンシプル、というものではなかろうと思うのである。

 また、零戦の技術的特徴をいくつか列記しているが、引込み脚や翼の捩じり下げなど、そのほとんどが日本でも外国でも既知のものである。捩じり下げの効果の説明は間違いであるし、沈頭鋲を「ネジ」としているのもいただけない。簡単に確認できるミスである。

 零戦は客観的に見れば、隼などの同時期の日本機に比べても格段に優れたものではない。大東亜戦争緒戦の日本戦闘機の優位は、支那事変で実戦を経験した、熟練パイロットの技量に負うところが多い。また隼の戦果さえ米軍は「ゼロ」と恐れていた節さえある。要するに著者は零戦神話に眩惑されている。前述のように書評にはなってないが、これでやめておく。



書評・国民の文明史・中西輝政

 中西氏は小生の尊敬する識者の一人である。その大著のひとつが国民の文明史である。その中でも注目すべきは、日本文明の基底としての「縄文」と「弥生」であり、もうひとつは、日本はアジアではない、ということであろう。

 氏は日本が繰り返す、縄文化と弥生化の発現について考察している。その考察は深い学識に支えられていると考える。ただひとつ気になるのは、氏ですら現代日本の表面的なできごとに過剰に反応し過ぎ、の感があることである。

 具体的にいえば、現代日本の政治状況は江藤淳が論考した「閉ざされた言語空間」に支配されている、特殊な状態にあるにも拘わらず、日本文明の基底より発しているが如き議論をしているように思われることである。もうひとつは、平成元年頃のバブルとその崩壊も日本文明の発現として考えていることである。

 前者は例えば、「いまの日本はまさに『歴史の危機』に立っている(P65)」とか「治安大国から犯罪大国への転落(p67)」といった主張である。今の日本の危機とは、ほとんどが占領政策とそれへの埋没によるものである。憲法問題も変な平和主義もほとんどこれに起因するもので、日本文明の基底から発する要因は僅かである。もちろん江藤氏の業績を氏も大変評価しているのだから不思議である。

 他国による日本の全面的占領支配、といった状況は日本の歴史上かつてなかった特殊現象なのだから、その点も考慮されなければならないが、あまりなされていない。正確にいえば、「・・・チャーチルは、日本はこの約七年の連合国の占領によって、今後百年、大きな影響をうけるだろう(P384)」と言う言葉を引用しているのを始め、占領政策の恐ろしさを繰り返し述べている。にもかかわらず、具体的な現代の問題を論じる時、憲法以外、占領政策との関係はあまり述べられていないように思われる。日本の犯罪が悪質化し増えている、というのも他国と比較し相対化すれば、とてもそうは言えないであろう。マスコミ報道に過剰に反応し過ぎである、と思う。例えば、かつては尊属殺人という特殊な法律があった。これは、親殺しなどの悪質な犯罪が昔から、法律が必要なほど起きていたということである。

 言葉じりを捉えるようだが、戦後の平和主義も「換骨脱胎の超システム」の誤作動によるものである、という(P194)のも妙である。一方で日本の「フランス料理は」フランス人には、こんなものはフランス料理ではないと言わしめる程、換骨脱胎されたものであり、日本では外国の文化文明を取り入れる時、このような換骨脱胎が必ず行われる如く言う。


 ところが「日本の戦後の『平和主義』の全貌を知るやいなや、『そんなものは平和主義ではない』と言う。自分の国を自分で守らない平和主義など、世界のどこにもないからである。」すると、平和主義とは世界各国で普遍的一義的であって、換骨脱胎が誤作動したのではなく、換骨脱胎はしてはならないものだと言っているに等しいのである。

 これは矛盾である。しかも誤作動によって平和主義が日本で歪められたのは、単なる誤作動ではなく、占領政策によって人為的に作られたものである。つまり普遍的日本文明論を論じるには適切な例ではなく、より慎重に分析すべきと小生は考える。

 トインビーの言葉を引用して「成功裏に成長が一定期間続いたあと『指導者たちが、追随者にかけた催眠術に、自分もかかってしまう』(P141)」として、「大東亜戦争やバブル期の日本のリーダーはまさにこの『文明の陥し穴』にはまっていったのである。」という。大東亜戦争とバブルごときを同列に並べる、というのはどうしても納得しかねる

 大東亜戦争の原因は日本の国内的要因よりも、遥かに国際的要因があり、小生はマクロに見て大東亜戦争を戦ったのは決して間違いではなかった、と考えるからである。大東亜戦争の原因について左翼の史家と同様に、氏も軍部の国内政治支配などの国内的要因だけで見ているとは信じられないのである。

 バブルなどというものは、景気変動のひとつに過ぎず、バブルといわれた好景気は、物の生産などの実体あるものではなく、金融や土地取引などと言う、架空のごときものから発した好景気だから、当時は泡のように中身のないという意味で「バブル」と称したのである。バブル崩壊以後はショックのせいか、マスコミなどでは「好景気」という言葉は使われなくなった。

 バブル以後、失われた20年などといい、一度も好景気がなく、日本の経済は停滞していたごとく言うが、平成11年頃には「戦後最長の景気回復」と言われる「好景気」があったのである。最長と言う比較は「いざなぎ景気」のような戦後の「好景気」と比較してのことである。にもかかわらず、「好景気」とは言わず「景気回復」という消極的言葉しか使われなかった。

 この本で欠けているように思われるのは、大東亜戦争によって日本は人種平等という世界史的新天地を開いてしまったという観点である。それに対応する世界観が必要である。過去の経験もいい。しかしそれに匹敵する世界観を中西氏には提示していただきたいと考える次第である。ただ必ずしも文明論にはならないから、欲張り過ぎというものであろうか。

 疑問をひとつ。いまの日本はまさに『歴史の危機』に立っている、と氏はいう。危機が来ると、日本は弥生の特性を発揮し、危機を劇的な手段で回避するというのだ。その典型が明治維新だと言うのだ。しかし、今の日本が本当に危機に立っているのなら、弥生的特性を発揮しているはずである。氏の説は間違っているのだろうか。

 氏が正しいとすれば、恐ろしい話だが日本文明の弥生という基底が、占領政策によって破壊されてしまったのではなかろうか、とも考えられる。現実にGHQの政策で、多くの皇族が臣籍降下させられたために、天皇と皇室の継続すら怪しくなっているのに日本人は無策でいる。それどころか、保守を自称する小林よしのりですら、臣籍降下した皇族の皇籍の回復に猛烈に反対し、女系天皇に賛成している。しかも、それを指南している保守系識者がいる。

 だが氏の説により希望もある。日本を破壊したいと言う現代の一部の日本人の自己破壊的情念は、マルクス主義ないし、マルクス主義がソ連崩壊で公然と主張できなくなったことにある。そのマルクス主義は、必ずしもGHQによるものではなく、旧制の帝大において、外国の新奇な物なら何でも正しいと信じた知識人が、無批判に受け入れ大衆にまで拡散したことが淵源である。

 そのようなことなら、氏の言うように日本の文明史で繰り返し起されていたことである。つまり、初めての事ではなく、何度も克服してきたことである。ならば、日本の現在は、その危機のレベルに達していない、とも考えられるのである。だが、日本がゆでガエルになる危険なしとは思えない節もあるから怖いのである。

 この書評は大局的に氏の業績に納得しているのであって、例証したのはミクロのいちゃもんに過ぎない。だからここで、流石、と言いたい例を挙げる。元通産官僚が中西氏に語った言葉(P398)として「戦後の経済成長というものを、一人当たりGDPをいまの半分くらいにしておいて、もっと精神のしっかりした国をつくるようにすべきだった」と書く。

 この対比として「明治の日本を訪れた多くの西洋人が書き残したのは、『たしかに貧しいが、精神の世界をしっかり持った国民だ』との言葉だった。それと比べ、日本の国柄・文明の本質が変わってしまった、ということなのであろうか。」と述べている。これを氏は戦後の日本がおそらく未曾有の経済成長をきっかけにして長い「縄文化」のプロセスに入ってしまったように思われる、と述べている。

 確かに氏が指摘するように、「精神の世界をしっかり持った国民」ではなくなってしまっている、としたら、その主因を占領政策だけに帰するべきではないであろう。この指摘は我々が心に刻むべきものであると小生は考える。



「ドイツ帝国」が世界を破滅させる エマニュエル・トッド 文春新書

 
読もうと思っているうちにもう一年以上がたってしまった。ぱらぱらとめくって、読む前の内容を下記のように想像をしてみた。{ }内。

 {ロシアはソ連が崩壊して普通の国になった。要するにロシア帝国の時代のヨーロッパに戻ったのである。違いは、大英帝国が見る影もなくなった代わりに、強大なアメリカと言うイギリスの庇護者が登場した。英国が考えるのは昔日と同じく、大陸と一線を画し、大陸に強大な一国が登場することを防ぐことである。
 
だが西欧は相変わらずロシアを強大なソ連と同じと錯覚して、対抗のためにNATOとともにECをEUに発展させて、ソ連圏だった東欧も取り込もうとした。大陸と一線を画す英国は通貨統合にはのらなかったために、ヨーロッパ経済の中心は図らずもドイツになったのである。EUでドイツは一人勝ちしている。EUはドイツ帝国のヨーロッパ支配の道具になったのである。

以上である。

 筆者は英国はEUを離脱する、と予言しているが実現しつつある。筆者はフランス人である。だから伝統的思考に従えば、普通の国ロシアとフランスの親近感は普通であるし、フランス人がロシアより強大なドイツを恐れるのも自然である。

 ただ本書にないと思われる視点がふたつある。域外からの移民問題で一番悩まされているのはドイツである。ドイツ国内は移民問題で荒廃している。またイスラムの勃興にもヨーロッパは悩まされている。イスラムとの確執の歴史は長い。イスラムによるヨーロッパ支配と、ヨーロッパによるイスラム圏蹂躙で、お互い様なのだが、結果は確執を生んでいる。

 内容を大雑把に見よう。やはり「新冷戦ではない」(P22)というタイトルがあるように、ロシアはソ連の再現ではない、と考えているのだ。そこで「紛争が起こっているのは昔からドイツとロシアが衝突してきたゾーンだ・・・アメリカが、クリミア半島がロシアに戻ったことで体面を失うのを恐れ・・・ドイツに追随した」という。要するにソ連以前の伝統的な独露関係に戻ったと言うのだ。

 ただ「言語と文化とアイデンティティーにおいてロシア系である人びとが東ウクライナで攻撃されており、その攻撃はEUの是認と支持と・・・武器でもって実行されている。(P33)」というのは、ウクライナだけではなく、バルト三国など旧ソ連に支配された国々には看過できないだろう。これらの国々にロシア系住民が多いのは、ソ連帝国支配のため、ロシア人が政策的に送り込まれているケースがあるからだ。

 その犠牲としてバルト三国などでシベリアに強制移住させられた人々が多数いるのだ。不思議なのは筆者が「一九三二~三三年にかけてウクライナで旧ソ連が行った人工的大飢饉により数百万人が殺された(P96)」とウクライナの被害を知っているのに、前述のようなことを書くことだ。ソ連がロシアに変身した途端にソ連時代のこれらの行為が免責されるとでもいうのだろうか。

 これに対してドイツについては「・・・二度にわたってヨーロッパ大陸を決定的な危機に晒した国であり、人間の非合理性の集積地の一つだ。(P142)」と断ずる。これはドイツに対する偏見が強すぎまいか。確かに今の常識では第一次大戦はドイツの、第二次大戦は日独の責任に帰されている。いかにヒトラーが狂気を秘めた人物であるにしても、両大戦をドイツの責任に帰するのはあまりに単純化し過ぎ、それ故今後の政治の糧とはなりにくいであろう。

 ソ連の崩壊については、「ロシアはかつて人民民主主義諸国を支配することによって却って弱体化したのであった。軍事的なコストを経済的な利益によって埋め合わせることができなかったのだ。アメリカのおかげで、ドイツにとって、軍事的支配のコストはゼロに近い。(P41)」これは米国を軍事的盟主としたNATOのことを言っている。しかしその反面として、いくら軍事コストが少ないため、経済的利益を得てドイツが強くなったとしても、軍事の後ろ盾のない経済と言うのは脆い。だから今のドイツをドイツ帝国とは言いにくいであろう。

 米独の比較においても筆者の見方はバランスを欠いていると思われる。「大不況の経済的ストレスに直面したとき、リベラルな民主主義国であるアメリカはルーズベルトを登場させた。ところが権威主義的で不平等な文化の国であるドイツはヒトラーを生み出した。(P63)」というのも図式が単純過ぎる。リベラルな民主主義国である「にもかかわらず」、と言い換えるべきであると思われる。

 大恐慌の克服は、リベラルで民主的な政策により実現したのではない。米国の理念とは相いれない共産党独裁ファシズム国家のソ連と組むことさえ辞さないことによって、大戦争に国民を扇動して克服したからだ。ニューディール政策で恐慌を克服したのではない。

 EU内でドイツが有利なのは、ドイツ国民間の経済的不平等は小さいが、「・・・東ヨーロッパの低賃金や南ヨーロッパにおける給与の抑制を加味して考察すれば、現在英米に見られるよりも断然いちじるしく不平等な支配のシステムが生まれつつある(P64)

 つまりEUではドイツ人が支配する側にあるというのである。EU域内ではドイツ人は高賃金を維持しながら、低賃金の周辺国国民を使って利益を上げるシステムとなりつつある、というのはその通りだろう。

 日独仏の比較論は面白い。「日本社会とドイツ社会は、元来家族構造も似ており、経済面でも非常に類似しています。産業力が逞しく、貿易収支が黒字だということですね。差異もあります。日本の文化が他人を傷つけないようにする、遠慮する・・・のに対し、ドイツはむき出しの率直さを価値付けます。(P157)」経済面についての類似性は高度成長以後のことで、戦前の日本の経済基盤は弱いものであった点がドイツと違う。遠い国日本の過去を見ない近視眼であるのは仕方ないだろう。日本への評価は本書の論旨には影響ないからである。

 フランスは「遺産は男女関係なく子供全員に平等に分け与えられました。このシステムが培った価値は自由と平等です。(P158)」と手放しで賛美しているようにしか思われない。フランスの自由と平等は国内の白人にしか適用されないように思われる。現在フランスでは女性イスラム教徒が着る水着を禁止する動きさえある。いくらテロにさらされているにしても、日本人から見れば不寛容に過ぎるとしか思えない。

 EUについては、筆者は単一通貨にはもともと反対で、容認するに至ったのは、ヨーロッパが保護主義を採用することを促す可能性があるからだ(P217)という。正しいのであろう。単なる通貨統合と自由貿易は矛盾するからである。著者のこの主張について小生には充分読解する能力がないが、ヨーロッパ保護主義とは、EU域内における経済統制と、域外に対する半鎖国政策のことであろうか。

 全体的には伝統的なフランスの親露感情とドイツ危険視が根底にあるように思われる。またアメリカについてはかなり書かれているのに、英国にはあまり書かれていない。これは英国のEU離脱を予言しており、そもそも帝国ではなくなって、ヨーロッパに対する影響力が少なく、他方で米国は軍事力等でヨーロッパに対する影響力が大きいという現状認識からだろうか。なお、編集後記には編集部によって、全体がうまく要約されていることを付記する。



リンドバーグ第二次大戦日記(上・下)

 リンドバーグの日記は相当の昔から、米軍による日本人に対する残虐行為の証言として有名であった。だから図書館の古本のその箇所だけをコピーして持っている。仕事帰りに駅前商店街の、ごく小さな本屋に寄った。駅前で1番大きな本屋が潰れたからである。意外なことに目立つように「リンドバーグ第二次大戦日記」の上下巻が置いてある。平成28年7月のピカピカの新刊の文庫である。

 この際全部を読み通してみようと買った。日記は昭和12年から20年だけである。つまり第二次大戦直前から終戦であるが、途中日記がつけられていない部分があるのが残念である。それでも開戦前の米国の世論の様子が書かれている、というのが貴重で大きな収穫だった。小生は「米国の世論は徹底した厭戦で、ルーズベルト大統領は英国を救うために、対独参戦を画策し、日本に最初の一発を撃たせた」という定説に近年大きな疑問を持っている。しかし、現代の日本人にとって、当時の米国の世論の動向と言うのはなかなか掴めないものであったが、本書は大いに参考になった。

 リンドバーグは有名な反戦活動家であり、そのため当時の米国ではナチ好きと誤解されている。たしかにドイツ人自体に好意は持っている。「両国(独英のこと)が協力すれば、ヨーロッパでは来たるべき長い歳月にわたり、大規模な戦争を行う必要がなくなるのだ。両国が再び戦えば、収拾のつかぬ大混乱が生ずるだろう。」「ドイツ人の船員は極めてよく気がつくし・・・これではドイツ人が好きにならざるを得ぬ(p22)

 この後も独英戦によるヨーロッパの混乱と西欧文明の衰退を憂える記述がよく見られる。結局戦後の冷戦と、冷戦後のヨーロッパの混乱を暗示しているようだ。現に「東方に対するドイツ支配の拡大を阻止する好機は早くも数年前に過ぎ去っている。現時点であえてそれを行うのは、ヨーロッパを大混乱に陥らせることだろう・・・ヨーロッパの共産化を招来するに相違ない。(P62)」とずばり言い当てている。

 ヒトラーが当時から狂気じみた人物として知られていたのは「彼が当面の状況によってヨーロッパを大戦争に巻き込むとは到底信じられぬ。狂人でなければ、そのような真似が出来るはずはない。ヒトラーは神秘的な狂信者である。が、過去の行動とその結果に徴してみれば、彼が狂人だとは信じられぬ。(P67)」というので知れる。

 ヒトラーが融和策で調子に乗ってラインラントからポーランドまで行ってしまったのは、欧州大戦を起こすつもりではなかったろうというのは、当時でも判断できたのであって、ヒトラーの領土拡大を平和的に「阻止する好機は早くも数年前に過ぎ去って」いたのである。それでもリンドバーグは反戦を訴えた。

 リンドバーグはソ連と日本とを問題視した。「ソヴィエトの内情は悪すぎて永久に持ち堪えられぬし・・・先の大戦からこの方、ロシアで数百万の人間が処刑され、また革命の結果、三千万から四千万の人間は命を落とした(P94)」とロシア人シコルスキーから聞いた。また彼は「ソヴィエトで最高のもてなしを受け、大勢の好感の持てるロシア人にあった。・・・ソヴィエトのホテルは西欧のそれに比べて施設が良くない。・・・民衆も腹いっぱい食べ、幸せな毎日を送っているとは考えられなかったと。P102)

 リンドバーグはわずかなソヴィエト訪問でも騙されなかったのだ。このような共産主義国家に肩入れした米政権と日本の共産主義者はなんと愚かだったのだろう。政治に素人のリンドバーグすら、東欧の共産化を危惧したのだ。

 またカレル博士と談話し「カレルの見るところではドイツが勝てば、西欧文明が崩壊するという。私見ではドイツもフランスやイギリスと同じく西欧文明の一部を成す。カレルはソヴィエトがドイツより比較にならぬほど悪いと認めながらも、私がソヴィエトを見るのと同じ目でドイツを見ているのである。(P261)

 フランス人のエマニュエル・トッド氏は平成27年の著書で現在のロシアはドイツよりましだ、と書いた。正反対である。やはりソ連は現在のロシアより悪かったのだと思う。世界にとってもソ連国民にとっても。

 同じパイロットで片や冒険飛行の英雄、片や著名な作家の有名人だからだろうか。著書「星の王子様」で有名なサン・テグジュペリとは知り合いだった。テグシュペリは星の王子様というやさしいタイトルに反していかつい男だった。ふと二葉亭四迷を思い出した。

 二葉亭に一度だけ会った漱石は「「其の當時『その面影』は読んでゐなかったけれども、あんな艶っぽい小説を書く人として自然が製作した人間とは、とても受け取れなかった。魁偉といふと少し大袈裟で悪いが、いづれかといふと、それに近い方で、到底細い筆などを握って、机の前で呻吟してゐそうもないから實は驚ろいたのである。」(長谷川君と余)と書いた。

 昭和14年の10月にテグジュペリがフランス空軍に入ったと記されている。(P220)そして「サン・テグジュペリのような人物が無残に殺される。」とも記している。テグジュペリがP-38の偵察型で出撃し、帰らなかったのは5年も経った昭和19年の7月のことである。

 ユダヤ問題での真実は分かりにくい。ドイツの高官ミルヒはリンドバーグに「最近の反ユダヤ人運動は『ゲーリングが指示したものでもなければヒトラーが指示したのでもない』」(P122)と言ったそうで、これはゲシュタポ長官のヒムラーや宣伝相のゲッペルスに原因があると言う意味だとリンドバーグは推定している。

 リンドバーグはドイツ訪問をしたため、アメリカの新聞にスパイ説を書かれた。(P128)「責任のない、完全に自制心のない新聞は民主主義にとり最大の危険の一つと考えざるを得ぬ。完全に統制された新聞が、これまた危険であるのと同じことだ。(P131)」これはまた現在の日本のマスコミにも通じる至言である。

 ポーランドは独ソの秘密協定により分割された。ドイツがソ連に先行してポーランドに侵攻すると英仏はドイツに宣戦布告した。しかし、リンドバーグは新聞の、ソ連軍がポーランド国境に集結しつつある、という情報を先に記している(P199)にもかかわらず英仏はソ連に宣戦布告しないどころか、その後の独ソ戦には米国を巻き込んでソ連に膨大な支援をしたことは不可解ですらある。

 リンドバーグはルーズベルトが信用できない人物だと繰り返し書いている。「ルーズベルトには何か信頼しきれぬものがある。(P162)」「・・・ルーズベルトはたとえ戦争が自分の個人的な利益に適っても、この国を戦争の犠牲にはしないという発言に確信がまったく持てぬのだ。ルーズベルトはやがて戦争が国家にとって最高の利益になると自分に言聞かせるになるだろう(P209)」「ルーズベルトは何としても国家を戦争に引きずり込みたがっているとフーヴァーは見る。(P217)

 宣戦布告がされたといっても、英独仏はまだ戦火を交えていないのに、ルーズベルトに対独参戦の意志があると、政治家でもないリンドバーグさえ知っているのだ。マスコミ人や政治家、国民が知らぬとは考えにくい。しかも何回かラジオなどで反戦演説をしたリンドバーグに「脅迫状が舞い込み始める。(P232)」というのだ。戦争したがっている米国民は多かったのだ。

 1941年となり戦争が本格的になると、最初のうちは反戦が有力であったが、今では逆転しつつあり「・・・アメリカの戦争介入に反対するわれわれの勢力は、・・・じりじりと敗退しつつあるように思われる。・・・最大の希望は、合衆国の八十五パーセントが戦争介入に反対しているという事実だ(最新の世論調査に拠る)。一方、約六十五パーセントが『戦争の危険を冒してまでも大英帝国を助ける』ことを望んでいる。(P322)

 これをリンドバーグは「戦争の代価を払わないでイギリスに勝ってほしいと望んでいる」と総括しているが、文言を素直に読めば「戦争の危険を冒してまでも」と言っているのだからニュアンスは違う。六十五%の国民が参戦に賛成しているのだ。

 さらに4月のギャラップ調査の「八十パーセントが戦争に反対しているかの如く思われるのに、七十一パーセントはイギリスが敗北するならばという条件で輸送船団の派遣に賛成。(P345)」という一見矛盾した発表にリンドバーグは困惑している。しかし、結局米国民は英国の敗北を軍事的に助けたいと言う気持ちに変わりはない。直接米兵の血を流すのに躊躇しているだけなのだ。

 「何時ものことのように、ルーズベルトは戦争について何か隠しているように思われる。成算ある介入のチャンスに立ち遅れたと恐れているのだろうか。・・・何としても世界の檜舞台をヒットラーから取り上げたがっているのだと確信する。この目的が必ずや達せられると思った瞬間に、この国を戦争に導き入れるだろうと思う。・・・この国を戦争に導き入れて勝利をつかめば、彼は人類史上最も偉大な人物のひとりに数えられるようになるだろう。(P323)」これは昭和16年1月の日記である。

 リンドバーグによればルーズベルトは、ヒットラーより偉大な人物と呼ばれるために参戦を望んでいるのであって、英国を助けるためばかりではないのだ。

 対英援助が3月に始まる。「・・・報道によれば武器貸与法案が六十対三十一票で上院を通過した由。(P333)武器貸与法は明白に国際法の中立に反する。換言すれば国際法上米国は参戦したのである。

 「・・・アメリカの世論が徐々にルーズベルトの公約は当てにならぬこと、またしばしば二枚舌を用いていることを悟り始めたということが最大の希望の一つだ。(P359)」ところが1940年の大統領選挙では、ルーズベルトは三選を果たした。

 米海軍が公式な参戦以前に、独潜を攻撃したことは知られている。それは大統領の命令だったのである。ルーズベルトは昭和16年9月のラジオ演説で「・・・アメリカの利益に必要とあればどこでも敵の軍艦を一掃すべしと合衆国海軍に命令を下したと結んだ。(P382)」大統領は自ら命令した、と言ったのである。

 しかし、これに対して厭戦気分にひたっていたはずの米国民が猛反発したとは、日記には書かれていない。それどころかリンドバーグが大統領演説の直後に開いた反戦集会で大統領の「演説が終わって一分もたたないうちに幕が開き、われわれは壇上に並んだ。一斉に拍手と野次を浴びる-これまでにない非友好的な聴衆であった。しかも、反対派は組織されており、野次がマイクに入りやすい桟敷席には一群の演説妨害者が巧みに配置してあった。閉会後、これらの一群には雇われ“野次屋”がいることを教えられた。・・・私が戦争扇動者として三つのグループ-イギリス人、ユダヤ人、そしてルーズベルト政権-を挙げた時、全聴衆が総立ちになり、歓呼するかに見えた。その瞬間、どのような反対派であれ、熱烈な支持により打ち消されたのであった。」

 ルーズベルト政権が反戦どころか戦争を扇動していたのは米国民の常識なのだった。しかも組織的にそれを支援するグループすらいて、反戦の言動は圧迫されていたのだった。何度でもいうが、現在の日本の常識である、「ルーズベルト政権はチャーチルに頼まれて密かに参戦を計画していたのだが、公的には隠し、国民も参戦反対一色であった、」というのが間違いであることをリンドバーグの証言が証明している。日記には米国の世論の状況がよく描かれている。

 ちなみに1941年の日記の副題は「ファシスト呼ばわりされて」である。米国ではこの頃、対独反戦はファシストと罵られていたのである。換言すれば、民主主義者ならドイツとの戦争に賛成すべきだ、ということである。(以上、上巻)

 以下下巻に簡単に触れる。リンドバーグは一流パイロットとして、何種類もの米軍機に搭乗した。日本では米軍機は信頼性があり、稼働率が高いと考えられているが、案外な欠陥もある。ある部隊のF-4Uは六機に一機が過度の振動に悩まされていたので、リンドバーグが試乗するととんでもないものだった。(P190)

 またコルセアが突如原因不明の急降下に入って海に墜落し、遺体すらみつからなかったケース、300時間持つと言われたエンジンが60時間しか持たないものが何台もみつかったというのもある。軍用機は民間機より信頼性より性能を重視し、最新技術を導入するため、信頼性を熟成するゆとりがない。航空技術が優れた米国も苦労しているのだ、という思いがする。

 戦争が始まった時の反戦活動家のリンドバーグの言葉である。「祖国が戦いに入った以上、自分としては祖国の戦争努力に最大限の貢献をしたい。戦争になれば、祖国の全般的な繁栄と統一のために、自分の個人的な見解を押し殺す覚悟はできていた。しかし、問題は今になってもルーズベルト大統領が信じきれないという点だ。(P33)」小生は祖国の戦争に対する彼の態度は正しいと考える。ただ、繰り返し述べられる、ルーズベルト大統領に対する不信感は極めて強いことが印象的である。

 それから太平洋戦線に行き、その後ドイツの敗北した光景を見る。ひとつ日本軍の名誉を守るエピソードがある。日本軍がフィリピンを攻撃する際に「日本軍は米袋の中に通信文を入れて投下した。明日、病院に隣接する放送局(発電所?)を爆撃するので、病院を引き払うようにと勧告してあった。(P109)」患者は病院から連れ出されて爆撃の巻き添えを受けずに助かったのである。

 日本軍の人道的な方針を示すエピソードであった。ところが、リンドバーグの知る限り、米国の新聞には病院が爆撃されたことだけ書かれていて、本当の標的は放送局であり退避勧告をされたという話が抜けていたのである。この結果日本軍は病院を目標に爆撃した、という非人道的な話になってしまったのである。

 そういえば真珠湾攻撃を米国人が描いた映画で、日本機が行いもしなかった、病院銃爆撃の国際法違反のシーンがあった。同じ米国人だからプロパガンダの発想が同じなのである。本書にも書かれているが、連合軍が日本の野戦病院を襲い、傷病兵を皆殺しにしたことは例外ではない。やはり自らしそうなことをプロパガンダとして使うのである。

 信じられないのは、オーストラリア軍が、ビアク島で戦友の人肉を料理中の日本兵数名を捕らえたと言う告知をだした、ということである。(P263)また性器を切り取ったりオーストラリア兵をステーキにして食べた、というのもある。

 もちろんこれらは全て伝聞である。性器を切り取ると言う趣味は欧米人にあっても日本人にはない。人肉食も極めて例外である。日本兵がひどいことをするから、オーストラリア兵も残虐行為したという、言い訳として書かれているので、妄想かでっちあげの可能性が高いであろう

 また、戦争初期には投降しても殺されるので、それを知った日本兵は投降せず極限まで戦うようになったと言う記述は何か所にも書かれている。捕虜は取らない、とリンドバーグに放言する指揮官すらいたというのである。これは他の米国人の著書にも書かれている。

 下巻には連合国が行った非人道的な行為が書かれているのが有名であるが、一読をお薦めして紹介は省略する。ただ、戦争の非道についてのリンドバーグの有名な言葉が最後に書かれているので、紹介して終わる

 「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行ってきたのである。・・・地球の片側で行われた蛮行は反対側で行われても、蛮行であることには変わりがない。・・・この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃をもたらしたのだ(P370)



やがて哀しき憲法九条・加藤秀治郎

 タイトルに惚れ込んで衝動買いしてしまった。GHQにより日本国憲法が制定された過程について、従来の本とは別な視点で説明を加えている。これを読んでも狂信的憲法九条護持論者の意見は変わるまいが、まともな理解力を持っていれば、日本国憲法なるものが、いかにインチキで日本に有害か分かる。

 GHQが自由と民主主義を唱えながら、厳しい検閲をしていたことは、江藤淳らの研究により、広く知られるようになった。皮肉なのは昭和天皇がマッカーサーを訪問した写真のエピソードである。かの写真は翌日掲載されず、二日後掲載された。(P18)それは外務省が掲載差し止め命令を出し、検閲に気づいたGHQが外務省に抗議して掲載されたから遅れたのである。

 「不思議な話はさらに続きます-その間の事情を知らなかった日本政府の情報局が、なんと写真を掲載した朝日、毎日、読売の三紙を発禁処分にしたのです。もちろん新聞社側も黙っていません。GHQに事情を説明して、救済を求めると、GHQがすぐに日本政府の発禁処分を取消すように命じた、というのが顛末です。」という情けない話である。

 情けないのは新聞社がGHQに頼った、ということばかりではない。日本政府が差し止めすれば掲載を止め、GHQに命じられれば掲載する、という姿勢が第一である。そればかりではない。新聞社の営業に関係のない指示には、外務省にでもGHQにでも唯々諾々と従うが、発禁処分という営業の死活問題となると、なりふりかまわずかつての敵国のGHQに泣きつく、という新聞社の姿である。

 検閲されようが、掲載を強要されようが、真実はどうでもよい。ただ新聞の営業が第一なのである。まさに緒方竹虎の言う「新聞は生きていかなければならない」のである。

 戦後、検閲が廃止され自由になった、という感想の例証として高見順の「敗戦日記」が挙げられる。(P18)GHQが政府の検閲を廃止したことを知り、昭和20年9月30日に「これでもう何でも自由に書けるのである」と書いていることを示す輩が多い。ところが高見はそのすぐ後の10月3日には、米軍の非行を批判した「東洋経済新報」が没収になったことを知り「アメリカが我々に与えてくれた『言論の自由』はアメリカに対しては通用しないこともわかった」と書いている。

 護憲派の主な人士は、高見のGHQによる検閲批判を知っていて無視し、米軍の検閲がなかったかのように振る舞っているのは、自己欺瞞も甚だしい。しかし彼らの修正は「紫禁城の黄昏」の翻訳で、溥儀が自ら強く清朝復活を望んでいた箇所を、意味不明な理由をつけて大量に削除して出版したなどの事実を知れば、彼らと違う事実を隠ぺいする悪癖があることは知れる。

 しかし、小生は、根本的に高見は軽薄であると言わざるを得ない。GHQが日本政府の検閲を廃止したことを手放しで喜んでいるからである。これではGHQが作っても日本国憲法は内容が良いから改正すべきではない、という護憲派と同様である。

 日本国憲法は芦田修正によって、自衛権を放棄しないことになった、という通説も本書によれば真相は複雑である。マッカーサーノートには、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。」という文章があったが、マッカーサーの部下がGHQ草案をまとめる際に削除した。(P45)これをマッカーサーも黙認しているから、芦田修正以前にGHQ草案は自衛戦争を認める意図があった、というのである。

 「前項の目的を達するため」という芦田修正を提案していた時点では、実は芦田には自衛戦争肯定という変更になる、という含みは考えていなかった、というのである。(P59)ところが、この文言を見た法制局官僚が、自衛戦争肯定という変更になるという考えを持ち、芦田に話したところ、それを認めて憲法公布の際にその解釈を公にした、ということだそうである。

 結局のところ芦田修正は、GHQの意図を明示したに過ぎない、ということになる。後に吉田首相は、軍隊絶対不保持の見解を示しているからややこしい。

 かの白洲次郎は、昭和27年の文芸春秋に再軍備の問題で「・・・憲法制定当時の米国の対ソの見通しは、日本に関する限りまちがっていた」としアメリカ人らしく「率直大胆に政策の失敗を認めて貰うわけには行くまいか」と書いているそうである。直言居士と言われる白洲らしい発言である。

 ところが実は米国は白洲が書いた翌年、明白に謝罪している。(P67)当時のニクソン副大統領は「もし非武装化が1946年(制定の年)においてのみ正しく、1953年の現在、誤りだとするなら、なぜ合衆国はいさぎよくその誤りを認めないのでしょうか。・・・私は合衆国が1946年に過ちを犯したことを認めます。」と演説した。

 演説は来日した際に日米協会で行われた。演説の原文は「日米関係資料集」に掲載されている。ところが「定訳がないらしく、そこにも日本文はありません。・・・ただ当時はそれなりに知られていたようでして・・・丸山眞男が同じ年の講演でこう語っています。ニクソンが『戦争放棄条項を日本の憲法に挿入させたのはアメリカの誤りであった、という有名な談話を発表した』と」あの丸山の言だから不思議なものである。当然護憲派はこのエピソードを知っても無視するであろう。

 なお、国会図書館で、「日米関係資料集」を確認したら間違いなく、ニクソンの演説の原文があり、内容は筆者の指摘通りであったことを付言する。

 ただ本書では西ドイツの「憲法」が再軍備を想定していた内容となっていたことについて、制定が遅れて米ソ冷戦が起きてからの作業であったこと(P65)と書いているのは単純すぎる。さらに憲法改正への関与を米国は日本には検閲で隠したことについて、ドイツではもう少し穏便にやっていたとして「ドイツについては法治国家の伝統がありますから、そういう小手先の方法は通じない(P27)」という判断だとしているのもいただけない。日本を法治国家と認めず、検閲も強引にしていて、憲法も強制した、ということについては、日本人に対する人種偏見という観点もあることが欠けているように思われる。

 納得できない点をもうひとつ。侵略戦争の定義である。(P40)筆者の言う通り国際法の問題として考える。すると「侵略はインヴェイジョンだと思うでしょうが、・・・アグレッショョンだという」というところまではいい。「単純化して言いますと、侵略戦争は領土などを奪うため、他国に攻め入る戦争です。」と述べているのはいただけない。

 インヴェイジョンではない、と言いながら「領土などを奪うため」という道義的判断を使っている。アグレッションは文字通り「先制攻撃して開始された戦争」のことを言うだけであり、意図とは何の関係もないのである。「不戦条約」の侵略戦争の概念の反対の自衛戦争とは当事国が自衛か否か判断する、という留保がつけられている、有名無実なものであることはよく知られていることを付言する。

 さらに「交戦権が認められ、捕虜となった場合、人道的待遇を受けることができる(ゲリラなどはそうではない)(p87)」と書かれているが、これも間違いである。1977年のジュネーブ条約の追加議定書で現在はゲリラも、武器を公然と携行することを条件として捕虜となることが認められている。

 すなわち同議定書第四三条の1に「紛争当事国を代表する政府又は当局が敵対する紛争当事国により承認されているかいないかを問わない」とされている。(出典:国際条約集、有斐閣)正規軍と非正規軍との区別をなくしたのである。これは条件付きであるが、ゲリラも捕虜となる資格のある戦闘員とみなされると解釈されている。侵略の記述といい、これだけの知識のある筆者がこのことを知らないという事は不可解である。

 面白いのは人の変節である。安保法制の議論で立憲主義に反する、として反対論を展開した小林節慶応大学名誉教授は護憲派学者として有名になったが、平成8年頃「憲法守って国滅ぶ」と言う本が改憲論として出された。(P88)この気の利いたタイトルで護憲派を揶揄したのが、小林節氏だったのである。護憲派はそのことを知っている。しかし、変節漢であろうと、都合のいい人物は利用するのが護憲派である。

 ドイツの憲法学者のヘッセの「憲法は、平常時においてだけではなく、緊急事態および危機的状況においても真価を発揮すべきものである。憲法がそうした状況を克服するための何らの配慮もしていなければ、責任ある機関には、決定的瞬間において、憲法を無視する以外にとりうる手段は残っていないのである」(P94)と書く。

 至言であるが護憲派は、日本が侵略戦争をはじめない限り「危機的状況」すなわち戦争は起こらない、と考えているのである。瀬戸内寂聴氏はクェートに侵攻したイラクを撃退しないと、クェートはイラクに併合されるがいいのか、と質問されると答えは、かまわない、とのことであった。その理由はソ連に併合された東欧諸国も、現在は独立をしている、ということであった。彼女にはソ連に併合された東欧の辛酸と、未来にまで残る東欧の苦しみに思いをはせることはできないのである。小生は湾岸戦争に賛否はあっても、東欧の例を引く彼女の無神経は信じられない。

 共産党の便宜主義は昔から有名である。元々共産党は憲法九条改正派であったが、今は護憲派のごとく振る舞っているのに、天皇制廃止論はあくまで捨てていない。ご都合護憲である。日本の共産主義の大御所だった向坂逸郎氏は、非武装中立論を唱えていた。ところが雑誌「諸君」でのインタビューで、社会主義政権でない間は非武装でいくべきか、と質問され、イエスと答え、本音は軍備を持つべきだが、当面は非武装でいくべき、という本音を言った。(p143)

 共産党と同じ便宜主義である。向坂氏は恐ろしい人である。昔小生が見たテレビのインタビューで、共産主義政権になると政治思想がひとつだから、共産主義以外の思想を持つ人がいたらどうしますか、と言う質問に対して向坂氏は「弾圧する」と断言したのが忘れられない。共産主義者の本音である。共産主義国家の思想弾圧は、共産主義の本質からきていることの証明である。



習近平よ「反日」は朝日を見習え・変見自在・高山正之


 高山氏の持論は中国人も欧米人も、日本人に比べれば異常に残忍な民族である。ある日本人漫画家は「中国人が攻めてきたら戦わずに素直に手を上げる。中国人支配の下でうまい中国料理を食って過ごした方がいい」といったそうな(P33)。ところが「中国人は逆に無抵抗の者を殺すのが趣味だ。蒋介石も毛沢東も村を襲って奪い、犯し、殺し尽す戦法をとってきた。クリスチャンの蒋は毛と違って、時には村人全員の両足を切り落とすだけで許した。毛より人情味があると言いたいらしい。ただ相手が日本人だと彼らの人情味は失せる。盧溝橋事件直後の通州事件では中国人は無抵抗の日本人市民を丸一日かけていたぶり殺した。(P35)

 この後通州事件の凄惨な殺人方法が、具体的に書かれているのだが、転記するに忍びないほどひどい。なるほど憲法九条改正に反対し、自衛隊は憲法違反だと言う輩の本音は、絶対中国が攻めてくるはずがない、万一せめて来たとしても、降伏して安穏に暮らせばよい、というものである。それもこれも、かつての戦争は全て日本の侵略が原因であって、日本が侵略さえしなければ戦争は起きない、という思い込みが骨の髄まで染み込んでいるからである。

 ついでに改憲反対論者の嘘をもうひとつ。朝日新聞は中米のコスタリカは「・・・憲法で軍隊放棄を規定し、その分を教育に投資し、おかげで中南米では最も安定した国のひとつになった。隣国にも働きかけて今ではパナマも軍隊を廃止した(P117)」この文章自体には「隣国に働きかけ」という箇所以外に間違いがないからたちが悪い。

 コスタリカは内戦を収めた独裁者フィゲレスが、軍隊はクーデターを起こし反抗する可能性があるから、軍隊を廃止してしまった、というのだ。その上、この地域は米国の裏庭で、国境侵犯が起きたら米国が許さないことを見込んだ悪知恵だというのだ。

 パナマはもっと悲惨である。パナマは米軍に奇襲攻撃された。「奇襲の目的はCIAで昔働いていて米国の秘密を知る実力者ノリエガ将軍の拉致だった。米軍は将軍を捕まえると、パナマが無作法な米国の侵攻に怒って武力報復に出ないようパナマ国軍そのものを解体してしまった。広島長崎の報復権を留保する日本から軍隊を取り上げたのと同じだ。(P119)

 日本の改憲反対論者は、このようなパナマとコスタリカの例を本当の事情を隠して、自衛隊廃止論を主張するから、本質的には哀れな存在なのである。軍隊廃止を押しつけてくれてありがとう、と日本市民を大量虐殺したアメリカに感謝するのである。

 ノリエガの件は日本では、独裁者ノリエガは米国に麻薬を密輸出した件で、アメリカ国内法で裁くため米軍が急襲し、アメリカに拉致して裁判にかけて懲役刑に処した、という説明がなされている。ノリエガが独裁者で麻薬の密輸の件も事実である。だが、裏に前記のような事情があるとすれば、アメリカの無茶なやり方も腑に落ちる。いくら憲法九条擁護のためでも、ここまで詐欺に等しい嘘をつく人たちの性根はは絶対に信じがたい。

 また米国によるパナマの無力化は、パナマ運河の存在も大きいだろう。また、パナマ運河拡張工事は、経済的意味ばかりではなく、米国の軍艦の大型化による運用拡大と言う意味もあるのだろうと、小生は思っている。戦艦大和のライバルだった、アイオワ級の戦艦の幅はパナマ運河の運用限界によって決まったし、46cm主砲の大和級の開発もパナマ運河の制限からアメリカが、同級の主砲の戦艦を開発できないと目論んだからである。

 イラク戦争の発端となった大量破壊兵器の存在の件は、もっとややこしい。イラン・イラク戦争の当時、高山氏はイラン軍野戦病院に行ったそうである。(P121)そこにはイラク軍のマスタードガスを浴びたイラン軍兵士が治療を受けていた。毒ガス弾は使われていたのである。「ブッシュが『イラクには化学兵器がある』とあれほど言い切ったのは、当の米国がそこでずっと製造に当たってきたからである。」

 ところが、化学兵器は発見されなかった。ところがところが、ずっと後になってISがサリン弾を使った。何と米国の指導で作られた毒ガス弾が使われたのである。イラク戦争はこの痕跡を潰すために行われたのだが、手落ちで残ってしまった。米国はイラクで毒ガス弾を作ったのをばれないようにするために、恥を忍んで大量破壊兵器はなかったと発表したのだが、何とISが隠されていた兵器廠を見つけて再利用していたので、ばれてしまったというのだ。

 毒ガス弾本体の製造は西ドイツで行われていた、というのも驚きだが、それを敵なら平気で使うフセインもISもどういう神経だろう。高山氏はアメリカ政府が、イラクは「毒ガスなど大量破壊兵器を持っている」と発表したとき、イラク軍による毒ガスの被害を現認していたから「丸っきりの当てずっぽうとも思えなかった」という。さもありなんである。

 国際法で捕虜や非戦闘員の殺害を禁止する、陸戦条約を提議したのはアメリカだそうである。「しかし同じ時期フィリピンの植民地化戦争をやっていた米国はすぐ抜け道を作った。『陸戦条約は正規軍のみが対象でゲリラには適用されない』と(P148)」米西戦争に協力したらフィリピンを独立させる、という約束を反故にされて、反抗したアギナルド軍をゲリラと認定し、捕虜を拷問し、処刑したのである。

 フィリピン人を殺すには「1週間銃殺」を発明したそうである。月曜から木曜まで毎日1か所づつ撃ち、苦痛と恐怖を味あわせたうえで、ようやく金曜に心臓にとどめをさすのである。以前も書いたが、映画「ロボコップ」でも警官が同じことをされて殺されている。それが再生利用されて、主人公ロボコップが誕生するから怖い話だ。ただし、1週間もかけず、数時間でとどめをさされている。やはりアメリカ人は同じ残虐行為をした記憶があるからフィクションの映画でも同じストーリーを書くのである。

 同じ項に、中国人の残虐な処刑も書かれている。日清戦争や支那事変ばかりではなく、戦前の多くの日本人が兵士民間人を問わず、同じように苦しんで処刑されている。それを大抵の日本人は忘れさせられたのである。

 P151の欧米人が好きな「性器の破壊」はボスニア紛争などにまつわる、性的残虐行為の話だが、人間とはここまで非道になれるものか、と驚いた、とだけ紹介する。ただ朝日新聞がボスニア紛争におけるこのような問題を「慰安婦問題は今日的な性の問題でもある」と引用したのはあまりにもバランスを欠いている。おぞましい性的残虐非道の行為を売春と同等に扱うのだから。それならば、今でも日本で行われている、売春すなわちソープランドの廃止運動をしなければならない。

 最近でも白人警官による無抵抗の黒人射殺など、アメリカは人種問題で揺れている。日本の服部君がハローウィンで間違えて白人の家に入って射殺されたが、無罪どころか逮捕もされなかったとして、日本人は驚いた。(P160)日本ではアメリカの銃社会の怖さが話題になったが、本質はそこにないことを証明するエピソードが紹介されている。

 ドイツからの女子留学生が忍び込んできたのを発見した家人が射殺した。モンタナ州には「身の危険を感じた者は非難したり警察に通報する前に銃を使っていい」という法律がある。にも拘わらず射殺した家人は、最も重い謀殺罪で刑期70年の有罪となった。

 理由は服部君と違い、被害者が白人で、加害者がモンゴロイド系のモンタナ・インディアンだったから。「ABC放送は判決の瞬間、正義が勝ったと喜ぶ白人の声を伝えていた。(P162)」アメリカでは今後も人種問題による殺人などの混乱は続く。白人が少数になる趨勢からすると、混乱は収束するどころか拡大するだろう。黒人が公民権を獲得してから何十年もたつのにこの有様なのだから。



書評・有事法制・森本敏/浜谷英博・PHP新書


 自衛隊は軍隊かを論じるために引用するので、一か所の抜き書きだけなのは悪しからず。それでは自衛隊は軍隊だろうか。

 「本来、軍隊には任務遂行のための国内法的規制はない。任務の目的が、国家の独立と国民の安全確保にあるからである。唯一の制約は、国際法の禁止事項だけである。そのため昨今、国際法上認められている諸原則や基準が、自衛隊にはストレートに適用されないなど、多くの矛盾が指摘されている。(P35)

 それは自衛隊が「警察予備隊」として始まったために、法整備が軍隊としてではなく、警察として整備されたためである、という。また、当然のことながら本来の軍隊は敵国の国内法の拘束を受けることもない。

 倉山満氏が、自衛隊は軍隊ではなく、軍隊並みの異常に強力な武器を持った警察である、と書いたのはこの意味である。しかし、一方で自衛隊は軍隊であると国際的には認知されている、という矛盾がある。安保法制がかろうじて制定されたが、上述のような国際法の適用に関する矛盾は全然と言っていいほど解消されていない。

 野党は「戦争法」と罵り、日本はアメリカのために外国で戦争をする国になった、と非難する。しかし、自衛隊は未だ、法制度的には軍隊にさえなっていないのである。

 本書は日本の有事法制の在り方を詳細にチェックしているので、安全保障法制の議論には役立つ。決して「戦争法」などと切り捨てるアジテーションの本ではないから、左翼の諸氏には読むに耐えまい。




サンデルよ、「正義」を教えよう・高山正之・新潮社


 高山氏の「変見自在」シリーズは意外な視点で、特に白人の悪辣さをえぐり出しているのが面白い。この本は比較的おとなしいのだが、その中ではアウンサン・スーチー女史の話は白眉ものである。目についた話をいくつか書いてみる。

 アメリカのO.J.シンプソンの白人妻殺人事件は、刑事裁判で無罪、民事で有罪と言う捻れ判決で有名なのだが、彼の高校時代までは米国には「異人種間結婚禁止法」があった(P50)。この法律が廃止されていなければ、事件は起きなかったから皮肉である。自由の国アメリカなどという標語がいかに空疎なものかが分かる。自由と民主主義は常に白人間にだけしか適用されないと分かれば納得できるのである。

 米国が昔は油を採るためにだけ鯨を捕獲していたのに、必要なくなると鯨は人間に近いから、捕鯨は禁止すべきだと日本を非難し始めた。米国流の捕鯨は「のたうつ抹香鯨の頭をかち割り、中から脂を汲み出し、胴体は吊るして『オレンジの皮を剥ぐように』皮下脂肪層をはぎ取り、赤裸の胴体はそのまま海に捨てた(P67)」という無残なものだった。

 ところが石油が利用できるようになると捕鯨を止めたと思っていたのだが、実は量は大きく減ったのだが、「・・・酷寒でも凍らない潤滑油として一九六〇年代まで」捕鯨は続けられていたのである。白人の自己都合による反捕鯨がいかにインチキなものか。


 生協は「今でこそ『配達するスーパー』のふりをしているが、本性は共産党系の資金集め組織だ(P84)。」小生は何の根拠もなく直観的にそう考えてきたのだが、高山氏のつっこみがそこで終わってしまっているのが残念だ。もっと真相を知りたい。昔官公労系の労働組合員から、選挙があるたびに組合費の特別徴収がある、と愚痴ったのを聞いた。

 当時これは社会党と共産党の選挙資金になったと思っている。今でも共産党は政党交付金に反対し、受け取りを拒否している。その癖選挙のたびに落選確実でも多数の候補を擁立している。何故か共産党だけには潤沢な政治資金がある。それは新聞赤旗の売り上げだけではあるまいと思うのである。

 当時、奥さんが近所付き合いで赤旗の日曜版を一年ばかり購読した。そこには、ソ連とその「衛星国」を薔薇色に描いていたのを覚えている、奥さんに赤旗を勧めた女性は記事を読んで、是非素晴らしいブルガリアに行ってみたい、と言っていた。五年ほどして、ソ連が崩壊して衛星国の悲惨な国情が明らかとなった。ブルガリアに憧れていた女性は何を思ったのだろうか。

 米西戦争の発端となったメイン号事件は、米国の陰謀説が消えない。米西戦争の開戦は「・・・一万キロも離れたマニラ湾で米艦隊とスペインの極東艦隊」が戦って始まった(P110)メイン号沈没から二か月後に米国は宣戦布告した。そのわずか十二日後にマニラ湾で戦争が始まった。

 それはおかしい、と高山氏は言う。米国からマニラ湾に攻撃に行く準備だけでも、最低一か月はかかり、補給などを考えれば最低三か月前にはマニラ湾攻撃計画を策定開始しなければならない。メイン号爆沈は、その間に起ったと言う奇妙なことになるというのである。

 ある本の紹介で、戦前の米国人のブロンソン・レー氏が書いた「満洲国出現の合理性」という本を読んだが、そこに興味深い記述がある。「・・・米国はメイン号爆沈の際に、スペインが共同調査を求めたのを拒絶して「『メーン』号を記憶せよ」(P208)と叫んで戦った。その後本著を書いている時期までメイン号爆沈の原因は不明だそうである。著者はなんとメイン号が燃えている際に乗船して、発火する可能性がある、特殊なヒューズが入った箱を発見し、スペインの友人が高額で買いたいと言ったのに断ったのだそうである。この話はレー氏はメイン号爆沈が米国の仕業に違いないと断定できる物証を発見しながら、米国のために隠した、ということであろう。つまりメイン号爆沈が米国のやらせだという物証はあったのである。

 レー氏は著書で満洲国の建国の正義を説いている。しかし決して日本の味方をするためではないことは、通読して分かった。レー氏が満洲国の誕生を擁護するのは、建国以来の米国の理想に合致しており、反対に満洲国を否定する米国政府は理想に反すると考えているからである。

 レー氏がメイン号爆沈の真相を明らかにする物証を隠したのは、メイン号爆沈がただちにスペインの仕業だと報道された時点で、米国の謀略を明らかにするのは、たとえそれが正義であれ、米国の国益に適さないと考えたからである。つまり戦争に反対する立場であっても、戦争が始まれば祖国の勝利を願うのが正しい、というのと同根である。レー氏は単なる偽善者ではなく現実家で愛国者であり、その立場から満洲国を擁護していることは明白であった。

 閑話休題。朝日新聞は奇妙な新聞である。「ひと」欄で関西空港建設の理由について伊丹の周辺の住民問題だと書いたそうである(P134)。それは、「ここの住民は『戦前、空港拡張のため朝鮮半島から集められた人々』で『戦後一転して不法占拠者にされた』と」書き、伊丹周辺の朝鮮系住民は、いかにも強制連行(徴用)の朝鮮人のように書くが「それは嘘だ。現に朝日自身が徴用朝鮮人はほぼ全員が半島に帰ったと書いている。」コメントはいるまい。

 かのダグラス・マッカーサーの父、アーサー・マッカーサーは米国からの独立の約束を反故にされて反抗したアギナルド軍の討伐司令官である。米軍はアギナルド軍一万八千人と家族など二十万人を殺害した(P172)。戦中マッカーサーは、パトロール中の米軍に被害が出た報復としてサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた

 「ただし十歳以下は除けと。・・・作戦終了が伝えられた。『十歳以下は一人もいなかった』と報告している。」何というブラック・ユーモア。ある精神科医は「苛めは反発を呼ぶが、徹底した残忍な殺戮や拷問の恐怖は逆に従順さを生む(P173)と書いたそうだ。

 「原爆や東京空襲、戦犯処刑と、これでもかというほどの無慈悲を見せつけた米国に対し、朝日新聞が見せる恭順の姿勢『マッカーサーさんのおかげです』はその典型だろう。フィリピン人もこの一連の米軍の無差別殺戮で反発から服従に転換していく。」

 フィリピン討伐の先頭に立たされた、黒人米兵の脱走者の一人はフィリピン人に首を切られ米軍基地に送り届けられた。その時のフィリピン人は「裏切り者を処刑しました」と米軍に言ったそうである。西欧の植民地だった世界中の国々が、未だに欧米の植民地支配の非をならさないのは、裏に白人の無慈悲な殺戮に対する恐怖の記憶があるのであろう。

 ただし、朝日がマッカーサー様と言ったのはもっと低俗な話であるのは有名である。朝日新聞は米軍による戦後の強姦事件や原爆投下などを、批判する記事を書いた。すると二日間の発刊停止を命ぜられ、逆らうと廃刊にすると脅されたのだ。命を賭しても言論の自由を守るなどと言うマスコミの言葉は信じるものではない。

 何回でも書く。有名な朝日の緒方竹虎副社長は、戦時中軍に抵抗しなかった理由として「何か一文を草して投げ出すか、辞めるということは、痛快は痛快だが、朝日新聞の中におってはそういうことも出来ない。それよりも何とかひとつ朝日新聞が生きていかなければならない(五十人の新聞人)と書いて左翼の人士からも痛烈な侮蔑の批評を受けた。

 さて苛酷な支配に対して、戦後非をならした例外の国が「ビルマ」なのだそうである(P189)。「まず大英連邦から脱退し、英国式の左側通行も、英語教育もやめた。・・・英国がビルマから奪ったものの返還を訴えた。英国は奪った国王の玉座や宝石を渋々返したが、ビルマは英国の植民地統治の責任も国連の場で糾弾を始めた。その中にはアウンサンの暗殺もあった。表向き彼は元首相ウ・ソーに殺されたことになっているが、国民の多くは英国が仕組んだことを知っていた。」

 ちなみにウ・ソーはアウンサン殺害の罪で処刑されている。つまり英国に都合の悪い者二人をまとめて処分できたのである。英国に逆らったビルマつまりミャンマーのその後は悲惨である。アウンサンの娘、有名なアウンサン・スーチーは十五歳の時に英国に連れ出され、英国式教育を受け、英国人と結婚した。外見以外は心根まで英国人になったのである。スーチー女史が見事なクイーンズイングリッシュを話すのをテレビで見たことがあるだろう。

 何と彼女は「植民地支配の糾弾」事業を潰した。米英はミャンマーを軍事政権と非難して、世界中から経済制裁させた。スーチー女史は軍事政権非難の先鋒に起ち、軍事政権への抵抗と民主化のシンボルとなったのを我々は知っている。

 経済制裁により、ミャンマーは貧困にあえぎ、中国に助けを求めた。悪魔に救いを求めたのである。ミャンマー経済は中国のカモにされ、政治は腐敗し賄賂が蔓延する。中国化したのである。この後欧米植民地支配を糾弾する国はあらわれないだろう。スーチー女史の役割は終えたのだそうである。

 小生は何故ミャンマーが突然軍事政権と欧米の非難を浴び、日本まで経済制裁に加わり、ろくに自国のことも政治も知らないはずのスーチー女史が、ミャンマー民主化の英雄となったのか、納得できなかったが、高山氏の説で充分に腑に落ちた。日本の敢闘にもかかわらず、白人の世界支配はまだ終えていないのである。



書評・戦艦「大和」副砲長が語る真実・補遺

 前回の本書に関して書き残したことがあるので追加したい。ガダルカナルの飛行場は昭和17年8月4日に完成したとして、設営部隊から「滑走路完成 諸般の事情から考えすみやかに戦闘機の進出を必要と認む」と発信され、ラバウル司令部は翌日零戦12機をガ島に進出させた(p97)

 ところが6日に進出した零戦隊の隊長は、居住施設があまりにお粗末なので、任務に差し支えるから施設が完備するまで、ラバウルに待機するとして帰ってしまったというのだ。常時米軍機の監視下にあるあるガ島飛行場は、いつ空襲されてもおかしくないのに「寝場所がよくない」というだけで900キロも後方に帰ってしまうのは、重大な命令違反である、と慨嘆する。

 深井氏は、このエピソードは他の戦記には記録された例がない、としている。米軍のガ島上陸作戦開始は8月7日、すなわち零戦隊がついた翌日と言う、きわどいタイミングであった。ミッドウェーの敗北の後なのに、日本軍の士気がいかに弛緩していたかを証明するエピソードである。零戦隊はあっという間に上陸米軍に蹂躙壊滅させられていただろうから、結果に変わりはない、という問題ではない。

 次の問題は前回示した雑誌「丸」の記事である。レイテ沖海戦特集として、栗田艦隊の反転は、止むを得ずとする記事(Aと呼ぶ)と栗田艦隊は単に逃げたとする、深井氏や小生と同じ考えの記事(Bと呼ぶ)のふたつが掲載されている。

 特に記事Aを批評してみる。「・・・栗田艦隊は小沢艦隊が米機動部隊の誘因に成功したことを十分に認識していなかった。このためもあり、彼らはサマール沖で遭遇した護衛空母を正規空母と最後まで認識していた。」深井氏によれば、大和では旗艦が大淀に変更したことにより、囮作戦誘導成功と判断できた。しかも、大和には我空襲を受けつつあり、という小澤艦隊からの情報もあった。

 まさか小澤艦隊は「囮作戦成功」などというずばりの無電を発するはずはないから、これらの無電から囮作戦成功を判断するしかない。しかも大和司令部と栗田司令部は別組織で、栗田司令部にだけ情報が行っていないかのように言われる。これはおかしい。深井氏によれば、栗田司令部はこの時大和艦橋にいたから、大和の受信無電も共有していたはずである。

 大和の通信科の受電情報を栗田司令部が共有していないことはあり得ない。あり得るとしたら、栗田司令部は、旗艦変更の大和通信科の情報が都合悪いので黙殺したのである。また大和艦橋にいた栗田司令部は、沈没しつつあった護衛空母を間近に見ていた。艦形図などで米艦艇の識別訓練をしていた軍人たちが、わずか300mの眼前の空母を正規空母と誤認していたとしたら、無能力の極みである。

 Aでは第一次大戦でフランス野戦軍を撃破できれば、パリは容易に陥落したことを例に挙げて、敵艦隊主力を撃破すれば、米軍のレイテ侵攻を頓挫させる可能性もあるだろう、としている。筆者は三川艦隊が米艦隊を撃滅しながら、ガ島上陸の米船団を攻撃しなかったために、その後の米軍の跳梁を阻止できなかったことを知っているであろう。

 敵主力艦隊を撃破するのも重要かも知れないが、上陸船団と米上陸部隊を栗田艦隊が、攻撃しなければ、誰が攻撃するというのであろうか。確かに栗田艦隊は全滅したかもしれない。それと引き換えに、少しでも米上陸部隊に被害を与えるのが任務だったはずである。

 Aでは、どうしてもレイテ湾に突入すべきだったという主張は「有力な艦隊を全滅させても作戦目的を実現すべきだと言う、合理性と狂気の共存する発想のように思える」と指弾する。それならば、小澤艦隊全滅を前提で囮にして、栗田艦隊に米上陸部隊を攻撃させる、という捷一号作戦自体を、最初から否定しなければならないのである。


 A論文は、ろくに搭載機のない空母群を犠牲に、栗田艦隊の成功を期する、という小澤部隊の行動は始めから徒労だったと言っているのである。B論文では、ジブヤン海の対空戦闘でレイテ湾突入の予定時刻が遅れることとなったにも拘わらず、なぜ西村及び志摩艦隊に予定時刻の変更を指示しなかったかと、疑問を呈している。

 Bでは「うがった見方をするならば、同時突入による戦果拡大を狙うのではなく・・・偵察機によりレイテ湾に所在が判明した敵水上部隊を西村・志摩両艦隊に向けさせておき、我にその脅威を及ぼさないよう離しておくつもりだったのではともとり得るであろう。」とまでいう。

 だが、栗田司令部が偽電をねつ造までして逃亡した、という事実が判明した以上、この見方も真実味を帯びてくる。西村艦隊は任務を確信して絶望的な進撃をし、わずかな生存者しか残さず全滅したのに、である。マリアナ沖海戦で、空母航空戦力を喪失し、残りは航空支援の期待できない有力な水上部隊でフィリピン戦を支援するしかない、連合艦隊最後の組織的作戦だと軍令部は判断していたのに違いない。

 現にその後は、帰還した艦艇は瀬戸内海で次々と米艦上機の攻撃で無力化されて、組織的作戦行動をとることができていない。何のために大和は生還したのだろう。大和と乗組員は、戦果を期待されず水上特攻として死にに行かされた。レイテ湾で沈没した方が、まだ米軍に被害を与える可能性はあったのである。




○書評・戦艦「大和」副砲長が語る真実・深井俊之助・宝島社

 レイテ沖海戦の栗田艦隊の謎の反転について、当事者であった著者が明白な結論を出している、貴重な証言である。深井氏は単なる一乗組員ではなく、「『大和』の兵科将校のうち、軍令承行令に定められた『大和』の指揮権を継承する資格のある士官(P258)」だった。

つまり艦長以下が次々と死傷して、指揮能力を失った時に、大和を指揮する軍人の順番が規定されている。深井氏は、その序列に含まれる重要な士官だった。だからこそ、謎の反転命令が下った時、驚いて艦橋に走って、栗田中将、宇垣中将以下の艦隊司令部におけるやりとりの一部始終を目撃したのである。そこで深井氏が見たのは宇垣中将が誰に言うでもなく「南に行くんじゃないのか!」とただ一人繰り返し怒鳴っているが、他は無言である、という異様な光景だった。

深井氏の推測は衝撃的なものである。栗田艦隊の反転の根拠となった有名な「ヤキ一カ」電は栗田司令部の大谷参謀が捏造したものだというのだ。「ヤキ一カ」電とは、北方に敵機動部隊がいる、という情報電報で、栗田艦隊はこの機動部隊を追撃する、と称してレイテ湾突入を断念し、帰投してしまった。


 しかも深井氏が抗議すると、大谷参謀は「敵 大部隊見ゆ ヤキ一カ 〇九四五」と書かれた電報を見せたが、発信者も着信者も記されていない、奇妙なものであった(P218)。深井氏が捏造と断言するのも当然であろう。しかも電報に記載されていたのは、通説で言われる「敵機動部隊」ではなく間違いなく「敵大部隊」であったという。

 雑誌「丸」平成27年11月号「栗田は結局はいずれかの情報を理由としてレイテ湾突入を放棄して反転したであろう」と書いてあったが、深井氏の証言は、そのことを裏付けている。同じ記事に、「栗田司令部内での正確な状況は残念ながら今日に至ってはどこからか新たな資料でもひょっこり出てこない限り、直接の関係者の死去と共に永遠に未解明のままとなるであろう」と嘆いているが、深井氏の著書はまさにその、栗田司令部での内部の状況の直接の関係者の証言である。栗田が逃げたと言う真実は、ほぼ確定したのである。

 証言を続けて聴こう。深井氏は大谷に「・・・さっきは追いつけないから敵空母の追撃をやめたんじゃないですか。追いつけると思っているんですか!?」と怒鳴り、喧嘩になったが、どうにもならない。空襲が始まったので、深井氏は持ち場の指揮所に帰ったが、司令部の決定が覆るわけもない。

 深井氏は捏造説の根拠として、以下のことを証言する。まず、「ヤキ一カ」電は、各部隊の戦闘詳報、発着信記録などのあらゆる記録を精査しても、存在せず、栗田艦隊司令部だけにある不可解なものである。大和は通信施設が充実しており、50~60名の要員がいる。さらに大和には、栗田艦隊司令部専用に同じ通信機器をもう1セット搭載しており、「ヤキ1カ」電はこの通信機器で受信していたということになっている。

 しかし、栗田艦隊司令部は旗艦愛宕沈没のため、通信要因のうち、大和に移乗できたのは、15、16名しかいなかった。これに対して大和の通信科は優秀で、敵潜水艦の通信を楽々傍受していたと言うほどだった(P222)。これで大和の艦内に、栗田艦隊司令部の通信科と「大和」通信科が別個に独立して存在していたことの意味が分かる。

 大和通信科の機材と通信要員以外に、栗田司令部用の別の通信機材がワンセットあって、これを愛宕から移乗してきた栗田司令部の通信要員が使用していたのである。だが栗田艦隊司令部の通信能力より遥かに充実しているはずの大和通信科は「ヤキ一カ」電を受け取っていない

 だから捏造なのである。大谷参謀は飛行機からの発信と主張したのに対して、深井氏らは「大部隊は我々のことで、飛行機乗りは新米だから見間違えたんです」と反論したが、大谷は「そんなバカなことはない」と言ったきり黙ってしまった(P224)。大谷参謀はさらに嘘を重ねて、嘘をつきとおしたのである。ということは、丸の記事のように機会を見て逃げ出そう、というのは単に栗田個人ではなく、栗田司令部の総意だったのに違いないのである。

 一般には栗田艦隊司令部は、小澤艦隊の囮作戦成功を受電していなかったから、作戦成功か否か不明だったと言われている。しかし「小澤艦隊については、『旗艦を軽巡『大淀』に変更』との電報から、空母が沈められた代償に囮任務をまっとうしたと私は確信していた(P217)」というのだからしようもない。当初の小澤艦隊の旗艦は空母瑞鶴である。囮作戦成功の判断はできたのである。

 さらにばかばかしいのは、栗田艦隊はサマール沖海戦の空母が護衛空母に過ぎなかったのを正規空母と誤認していた、というのも嘘だった可能性が高いと言うことである。「置きざりにされた『大和』『長門』は・・・各部隊に合流すべく一路東南東へと走り続けていたが、途中『大和』の砲撃を先刻受けた空母『ガンビア・ベイ』を300メートルほどの近距離に見ながら通過する場面があった。(204)

 沈没寸前だったが、「この空母は商船を改装した護衛空母であることは一目瞭然たる事実であって・・・この空母集団は護衛空母集団であることは容易に推察できたのである。」正確には、ガンビア・ベイのカサブランカ級は初めて最初から護衛空母として建造されたものであるが、それまでの型は全て商船等を元に空母になっているから、深井氏の認識はほぼ正しい。少なくとも正規空母ではない、ということは分かるのである。そう考えれば、航空支援のない栗田艦隊に、空母が補足されてしまったという、間抜けな米空母部隊の状況は、栗田司令部でも納得できたはずである。

 蛇足をふたつ。武蔵の猪口艦長は、他の艦とは違い、敵機は対空射撃で墜せるから、対空射撃の妨害となる転舵を極力避けたために、初期被害が大きくなって、被害担当艦になってしまった(P189)という。小生は他の資料でも同じ意見をみたが、逆にそんなことはなかった、という資料も見た。真相はどちらであろう。

 射撃盤の構造である。氏は大和の副砲長であったが、砲撃のデータは「数万個もの歯車を用いたアナログコンピュータである射撃盤」が処理する(P134)。つまり大和の副砲の射撃盤は機械式のコンピュータだったのである。主砲の射撃盤もそうだったのであろうか。

 世界初のコンピュータは弾道計算のために作られたアメリカのENIACであると教わった。終戦直後に完成した真空管式のデジタルコンピュータである。しかし、それ以前にも米国にはデジタルコンピュータの萌芽はあったという。またデジタルコンピュータ以前に電子式か電気式のアナログコンピュータはあったはずである。

 従ってコンピュータ先進国の米国の戦時中の射撃盤には、電子式ないし電気式のアナログコンピュータは、部分的にでも使われていなかったのであろうか、というのが目下の疑問である。少なくとも機械式よりは、遥かに演算速度や精度も良いと思われるからである。



最後のゼロファイター・井上和彦

 最後まで生き抜いたエースの本田稔少尉の戦記物語である。痛快な話ばかりで、素直に読んでいただきたいが、意外な指摘をひとつだけ挙げる。海軍での体罰の話である。特に海軍の暴力による制裁は甚だしいと言われている。

 それについて、本田氏も「海軍精神注入棒」で尻を叩かれて気合をいれられた(P10)のだが「・・・こうした制裁は、士官連中のわかったような説教よりも打てば響くものがあり、リンチのような私的制裁とは全く意味が違うとのことだった。したがって、こうした体罰に対して反感を持つものはいなかったはずで、いたとすればそれは進路を誤った者であろう」とまで断言する。


 本田氏も戦後の多くの戦記が、ほとんど軍隊はつらく厳しいところだと実例で批判しているのを知っている。それに対して「・・・戦闘に参加してここぞ精神力という場面に出くわした。根性がなかったら命はいくつあっても足らなかったであろう。その根性こそこの予科練の間にみっちり叩き込まれたのである。」と反論している。

 命のやりとりをする軍隊の訓練が厳しいのは当然なのである。私見だが、軍隊の制裁を批判する者の多くが、大卒者ないし学徒兵であるように思われる。今より遥かに進学率の少ない時代の彼らには、無意識にエリート意識があり、制裁に反感を持ったというケースが多いように思われる。もちろん学徒兵にも勇敢な戦いをした者も多くいたことも承知している。

 父は旧制の中卒で出征したが、厳しい訓練に耐えられないのは、平素楽をしていたからで、百姓上がりの自分には少しも辛くなかった。今でも若者は一度は軍隊に行って根性を養うべきで、軍隊は金持ちも貧乏人も区別なく公平なところだと、どこかで聞いたようなことを言う癖があった。

 もちろん小生も、「注入棒」で骨折して一生まともに歩けない体になって帰省させられた兵隊がいる、という悲惨なエピソードも読んだことがある。西欧列強に囲まれて、日本は苦しい時代を生き抜いてきたのだ。既に戦後育ちの我々には、当時の厳しい世界情勢を実感できないのである。


 ひとつ苦情を言わせていただくと、イージーミスがこの手の本にしては多いように思われることである。一例だけ挙げる。昭和17年の8月から9月にかけて、日本の潜水艦が、米空母サラトガとワスプを雷撃し、サラトガは米軍によって海没処分された(P30)とある。沈没したのはワスプである。このことは、日米海戦史を少しでもかじっていれば常識なので、不可解なミスだと思った次第である。



書評・三島の警告・適菜収

 論旨はともかく、正直、論理の立て方に違和感が多過ぎ、途中で読むのを放棄した。例えば「保守は『主義』など信仰しない。(P12)」と言うのだが、筆者は保守であることを自称し、最高の価値だと認めているようである。そこで保守と言う言葉が乱用されていることに警鐘を発する。それ自体は正しい。だが保守主義と言ってしまうと、イデオロギーになるからよろしくないようなのである。

 ところが江藤淳の「保守とは何か」という文章を引用して、江藤の保守主義は共産主義のようなイデオロギーではない、イデオロギーがないことが保守主義の要諦である(P22)という言葉を紹介する。筆者は保守主義と言う言葉を嫌うと言いながら、明白に保守主義と言う言葉を使う江藤の言葉を紹介していいながら、江藤の論を否定しない。

 小生にはこうした、小矛盾がそこいら中にちりばめられている、筆者の論理についていけないのである。筆者は・・・主義と言えば必ずイデオロギーのひとつだと言っている。しかし江藤は・・・主義と称しても、必ずしもイデオロギーだとは限らぬ、と・・・主義と言う言葉を説明しているのである。江藤は「主義」といっても使い方次第でイデオロギーにもなれば、そうでもないと言っているのである

 筆者は保守の定義を「人間理性に懐疑的であるのが保守」(P17)だとする。そして伝統の擁護と言った保守の性質もこれから発する、という。それは正しいのであろう。イデオロギーは教条主義的なものであり、保守主義はそうではない、と江藤氏は言っているのであろう。だから保守主義という言葉を否定しない。ところが筆者は・・・主義と言ったとたんにイデオロギーとなる、と考えている、という相違があるように思われる。

 これは小さなことには違いない。だがこのような相違を、あるときは無視し、あるときは重要視して論理を進める筆者の思考方法には、ついていき難いのである。もちろん筆者の説を間違いだと言っているわけではない。「単なる反共主義者、排外主義者、新自由主義者、国家主義者、ネット右翼・・・」などのわけのわからない人たちが保守を自称している(P20)と批判する。

 だが「単なる」と形容してしまうことによって、これらの自称保守主義者は、インチキだと始めから言っているのに過ぎない。そんな当たり前のことを言うこと自体が理解しがたいのである。例えば「単なる」でなければ、保守の故に反共になるのは当然であろう。筆者の論理に注意しなければ、反共は保守ではないと言っていると誤解されかねない。こんなことはもっと簡明に説明できるのに、ややこしいレトリックを弄んでいるとしか思われない。こういう論理を混乱させやすい言辞が多くある、と言うのである。

 曾野綾子氏の「・・・強いて言えば、現在の日本の現状を、いい国だと感じている人が保守で、そうではない、日本は世界的レベルでもひどい国だと信じている人が進歩的だということだろう」(P15)というのは意味不明で「保守」思考停止の典型である、としている。前段の文脈は分からないが、曾野氏の普段の言説から考えれば、理解不能ではない。

 日本をいい国だ、と考えるのは日本人の心象のあり方を肯定する、すなわち隣近所を大切にしたりする日本人の自然な特質を肯定するものが保守である、と言いたいのだろうと思う。逆に日本はどうしようもないから、革命をしなければならない、と言うのが進歩的、すなわち反保守だと言うのも当然であろう。

 三島は愛国心という言葉を嫌っていたという(P67)。官製のにおいがするし、内部の人間が自国を対置して愛する、と言うのがわざとらしい、というのである。理屈としてはその通りである。だが三島も筆者も言わない重大な視点がふたつある。三島の当時も今も、GHQや日教組の洗脳により、日本を根源的に悪い国、として否定する風潮がある。まして自国を愛するということを否定する癖に、どこかの外国に媚びる。それも最悪の独裁国であることが多い。

 いかに不自然であろうと、日本が国家として存立する、すなわち日本と日本人を守るには、このような風潮に対抗して、敢えて愛国心が必要だ、とわさわざ言わなければならないのが悲しい日本の現状なのである。三島は「のがれようのない国の内部にいて」というが、元々はそうではない。確かに現在の日本は典型的な国民国家である。


 しかし維新以前は日本人の帰属意識は日本国ではなく、藩であった。民百姓に到っては、藩でさえなく、村落共同体への帰属意識しかなかったろう。だから郷土の為に、と言う意識はあっても、日本国の為にと言う意識はなかった。それを開国して列強に伍するには、日本国に帰属するという意識を国民が持つことが必要であった。そのようにして愛国心とは作られたものであって古来より自然に存在したものではない。しかし、グローバリズムが闊歩する現代には、ますます必要なものである。

 筆者の論理が分かりにくいのは、全否定ではない愛国心嫌いの三島の言辞を延々と紹介し、ご本人も愛国心はよくないかのよう聞こえそうな、物言いをしながら、結論となるや「国の根幹を破壊しようとしているのが真の愛国だろう。(P70)」というから混乱するのである。もちろん仔細に読めば筆者は愛国心を肯定しているとしか思えない。何度も繰り返すが、その論理が実に分かりにくいのである。もっと直截に論証できるのに、ややこしく、読みにくくしているとしか思えない。この本は内容的に価値はあるとは思ってはいるが、70ページのこの言葉を読んで諦めた。疲れたのである。

 バカ官僚などと言う、無遠慮で鋭そうな言辞を使うのが、一見倉山満氏に似ているが、倉山氏の論理展開は案外簡明で、すとんと腑に落ちることが多いので、実際には大いに違うと思った次第である。




日本戦艦の最後・吉村真武他

 大東亜戦争に参戦した、十二隻の戦艦の最期を、乗組員が個人的体験をつづったものの集大成である。滅びゆく者の物語だから凄惨なことは致し方ない。

 ただひとつレイテ沖海戦の総括で、米海軍のハルゼー提督が戦訓として意外なことを語っているので、それを書くにとどめる(P54)

 「この戦闘から学びえたもっとも重要な教訓は、海上を自由に行動する大艦隊を、飛行機だけで無力化するのは事実上困難である。」と。

 マリアナ沖海戦で、日本の空母航空兵力は壊滅し、本海戦に参加した4空母は航空戦力を持たない、囮そのものであった。米空母は栗田艦隊本隊、西村艦隊、小沢艦隊に自在に航空攻撃を加えた。それでも沈没した戦艦は、栗田の武蔵、圧倒的な米艦艇軍に正面攻撃を加えた、西村艦隊の二戦艦だけであった。

 日本側から言えば目的である敵上陸船団の攻撃に失敗し、満身創痍になって柱島に帰投した、完敗である。だが、米側からしても、航空機が戦艦に勝つ時代になったと言われても、航空攻撃だけでの、大艦隊の殲滅がいかに困難かをかみしめていたのである。そのことを考えれば、マリアナ沖海戦時点はもちろん、フィリピン沖海戦も戦略の立て方はあったのであろう。戦略の間違いは戦術では補えない、という。冒頭のパルゼーの言葉に、敢闘した日本海軍将兵は以て瞑すべしであろう。



蒼海に消ゆ・祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯・門田隆将


 本論に入る前に一言する。門田氏は本書以外でも「大東亜戦争」ではなく、「太平洋戦争」と書くのを常としている。小生は太平洋戦争と呼ぶ日本人を、東京裁判史観の影響から脱し切れていないと判定している。氏は多くノンフィクションを書いているが、戦史が主ではないからかも知れないが、本書の内容が申し分ないものだけに残念に感じる。

 ところで、以前「神風特攻隊員になった日系二世」という本を読んだのを思い出した。改めて、その本を手にしてみると、著者の今村茂男氏こそがタイトルの二世で、自伝でしかも英語で書かれたものを、他の日本人が翻訳したものであった。今村氏は志願して特攻隊員になったものの出撃せず、人生を全うしている。


 本書の主人公は二十三歳で特攻隊員として出撃して戦没している。若くして亡くなりながら、短い人生をせいいっぱい生きたことがよく書かれているが、その点は読んでいただくしかない。そこで、本書に書かれた意外な情報を少しだけ紹介する。従って書評にはなっていない。主人公松藤と同じく日系二世で、日米の二重国籍を持つタンバラ氏は戦時中一度だけ特高警察に呼び出された(P171)

 国籍を聞かれるから「アメリカです」と答えると、親はアメリカに住んでいるのか、と聞かれ「はい、私はアメリカ人です。」と答えると、取り調べはそれで終わったというあっさりとしたものだ。戦後流布されている伝説からすれば、とてつもなく意外である。鬼のような特高警察なら、アメリカ人と知れば、厳しく取り調べ、その後も監視されるのであろうという想像をしがちである。我々はいかに、日本人に対する悪意に満ちた情報に囲まれているのか。

 それどころか、タンバラ氏は戦時中に普通に東京に住み続けていたというのが、事実である。松藤は二重国籍の日本人として、学徒兵で徴兵されたが、アメリカ国籍である、ということで拒否することができたのだそうである。現にタンバラ氏は早稲田の経済に通っていたが、徴兵されていない。文系なので学徒の徴兵猶予の対象ではないのである。

 二世の仲間から一緒に海軍に入らないか、と誘われると「何を言っているんだ、頭がおかしいんじゃないのか?」と答えたそうである。その後大学を出て日本の電機関係の会社に就職した。戦時中の日本人はかくもおおらかだったのである。米英では学徒出陣などと言う大仰なものはしていないが、それは自ら休学して志願した学生が多かったからである。彼等は強制されなくても、エリートの義務として自発的に出征したのである。

 この意味で、米英の方がこの時代は、より軍国主義的だったのである。これは悪い意味で言うのではない。国民に総力戦と言う自覚ができていて、積極的に戦争協力したのである。アメリカが日系人を全員強制収容所に入れたのは知られているが、本書では「全部監獄に入った(P280)」と証言されている。

 松藤の弟リキはアメリカ人だとして、強制収容所を出ることができ、ナイトクラブでミュージシャンとして働いたが、マネージャーが危険だからと「君は今日からディック・ウォングだ。君は中国人だ」と言ったそうである。リキは「お客さんは全部白人だし、私も日本人とバレたら怖かったよ(P281)」と証言した。日本国内の大らかさに比べ、米国内の人種差別のひどさが想像できる。

 ちなみに先のタンバラ氏は、特高警察に調べられている。戦後では、一般市民を憲兵が取り締まるようなことが書かれたり、映画等になっているものがあるが、ほとんどは嘘である。憲兵はmilitary policeすなわち、軍隊の警察であるから、取り締まり対象は軍人である。特高警察に調べられた、というのは証言が事実であることの傍証である。

 海軍兵学校出の宮武大尉や田中中尉は特攻の際に、自ら部下を率いて突っ込んでいった(P218)が、これは例外で、兵学校出でこのような人は少なかったという。それどころか、皆を送り出して自分は芸者遊びばかりして、あげくに戦後航空自衛隊の幹部になった兵学校出の人物さえいたという。

 海軍兵学校出身の幹部に武人というより、官僚というにふさわしい人物を多く見かけるが、やはり兵学校の教育や選抜方法に問題があったのだろうか。鍛錬自体は相当に厳しかったはずであるが。もちろん山口多聞のように、武人と言うにふさわしい人物もいたのであるが。



官賊と幕臣たち~列強の侵略を防いだ徳川テクノクラート・原田伊織

 意外な着眼点で反響が大きかった「明治維新という過ち」の続編であろう。氏の人物評価の癖などについて気になる点があるのと、マクロに見た結論に疑問があるので書いてみるが、本書の本質には触れていないのはご容赦願いたい。

 筆者は人物の出自と人物評価を関係づける傾向が強いように思われる。出自と人物評価の因果関係を説明しないから、納得しがたいのである。例えば「土佐の坂本龍馬という、郷士ともいえない浪士がどういう人物であったかについては、幕末史を語る上でさほど意味のあることとは考えられない・・・(P250)」という。郷士とも言えない浪士、と身分が低いことを明らかに侮蔑的に述べるのはいただけない。

 井伊直弼暗殺を批判するのは、筆者が井伊が彦根育ちだからだけだ、といわれたそうである(P201)。これに対して、彦根の歴史的経緯を詳しく述べ、その結果として筆者の少年時代は、もともと浅井領内の者であるという意識があり、井伊は「憎っくき敵であった」のであって、彦根育ちだから、というのは屁理屈だという。確かにその通りだが、井伊が彦根を治めたことを口実に批判するのと、氏が浅井領内の者意識があったことだけを以て反論するのは、屁理屈を言った者と同列の屁理屈で反論しているのに過ぎない。

 出自によって思想が影響されている、ということはあるのに違いない。しかし、それを指摘するには、因果関係を説明しなければならない。説明できなければ、仮説に留めておくべきであろう。

「日米戦争を起こしたのは誰か」と言う本には、「アメリカ人を論ずる場合、そのエスパニック・バックグラウンドを正確に見ておく事が必要である。」と述べ米軍のウェデマイヤー将軍が父はドイツ系、母はアイルランド系であるとして、将軍の主張が単純に血脈か生じたのではなく、「・・・このような背景から生まれ育っていなかったならば、イギリスやドイツを冷静かつ客観的に評価することはできなかったであろう。」と述べ更に出自と将軍の主張との因果関係を検証している。本書にはこのような観点が欠けている、と小生は言うのである。

 氏は薩長のテロの凄まじさをことあるごとに強調し、単なるテロリスト集団だと断言する。しかし、それは日本史の上から見た比較であって、欧米の変革期に行われたテロや粛清、といったものに比べればものの数ではない。米英仏はもちろん、スターリンや毛沢東が権力奪取や権力維持のために行った、テロや粛清は質、量ともにもの凄いものである。氏は、現代日本人の倫理観で当時を見、諸外国との相対的比較というものも忘れている。現にロシアや中国では、政権によるテロが、今も行われている。

 目明しの猿の文吉を殺した残忍な手口を描写しているが、日本では例外である。現に西欧の書物には、処刑の手段として同じ手口が図版で描かれている。つまり例外ではなく、標準的処刑の手段のひとつだったのである。同じことをしたにしても、この差異は大きい

 大東亜戦争の評価について、「・・・薩長政権は、たかだか数十年を経て国家を滅ぼすという大罪を犯してしまった。(P184)」とか「・・・大東亜戦争という無謀な戦争であった。(P8)」というから大東亜戦争の全否定である。父祖の苦闘を無視して、断罪する姿勢には大いに違和感がある。それに、明治以降藩閥打倒が呼号され、薩長政権色は消えていった。昭和初期の大物政治家にどの程度薩長閥があったというのか。

 維新政府は薩長閥であるにしても、その後大きく変質していき、裏で薩長が糸を引いていた、という痕跡もないのである。大東亜戦争の頃の人材を見よ。東條英機、米内光政、山本五十六といった著名人は、全て薩長出身ではない。

 垂加神道を持ち出して「・・・後のテロリズムや対外膨張主義が示した通り・・・(P195)」と言って、日本は明治以降、対外膨張路線を走って、結局は大東亜戦争で破綻した、というのである。日本が清国、ロシア等による侵略の危機に対して戦ったとは考えない。これは姿を変えた東京裁判史観である。

 また、オランダが昭和になってヨーロッパの中でも有力な反日国家になったのは、大東亜戦争時の捕虜の扱いばかりが原因ではなく、文久三年にオランダ軍艦を砲撃して、4名を殺したこともきっかけになっている、というのだ(P229)。だがこの時同じく砲撃されたアメリカやフランスは報復攻撃を行い、オランダが参加しなかったのは永年の友好国だったからではないか、と言うのである。

 これは、全くの間違いではないにしても、長州のテロ行為を際立たせる手法であるように思われる。なぜなら、オランダが戦後日本の捕虜を最も過酷に扱ったのは有名で、その原因は蘭印(インドネシア)に侵攻する日本軍に簡単に敗れ、インドネシア人の前で恥じをかかされたことが大きい、という面が忘れられている。

 またオランダは旧植民地の再植民地化に欧米諸国では最も熱心で、長い独立戦争で80万人のインドネシア人を殺した上に、独立の代償に賠償金まで取った。独立に大きく寄与したのが、日本の支援で成立したPETA(郷土防衛義勇軍)や残留日本兵、日本軍の兵器であった。反日の最大の原因はこれらの敗戦やインドネシア独立への二本の貢献であろうと思う。また、オランダ軍の捕虜の扱いは日本軍の誇張されたそれより、遥かにひどいものであったことには言及しない。これらのことは、やはり氏が東京裁判史観に囚われている面があるとしか思われない。

 以上閲したように、本人は全くそんな意識はないのだろうが、マクロに見るといわゆる東京史観、すなわちGHQが日本を断罪して、あらゆる手段で日本人の歴史観を洗脳した目標に合致した思想を、結果的にであるが筆者が持っていると言う結論になる。それどころか、GHQは満洲事変の以降の日本の対外政策を断罪しているのに対して、氏は維新以来日本は一貫して対外膨張を企図し、そのあげく大東亜戦争の敗戦になったと言う、より徹底している考え方である。


 司馬遼太郎が、日露戦争までの日本を称揚しているのは、せめて日本の歴史の全否定から免れ、日本人に勇気を与えているのは間違いない。なるほど昭和史を罵ってはいるものの、それを具体的に書いた小説は残してはいない。司馬氏が称揚した維新以後の部分は、読む者に、司馬氏が罵った時期の日本を肯定する結論に至らせる余地は大いにある。

 なるほど坂本龍馬は実像より大きく評価され過ぎているのであろう。そしてグラバーなど英国に使われたのも事実であろう。しかし、幕府がフランスの傀儡にならなかったごとく、維新政府は英国の傀儡ともならなかった。薄氷を踏むが如くにして、政治の変革は成功した。

 維新政府が英国の力で作られ、英国は利用しようとしていた、というならば、一旦は日英同盟を結びながら、日本が反英に急旋回したことはどう説明するのだろうか。氏によれば幕末から敗戦まで、薩長政権は一貫した対外政策を持っていたごとく言うから、こう批判するのである。

 維新政府は徳川幕府のテクノクラートを多く採用しているのは、薩長政府に人材がいなかったため、使わざるを得なかった、と言う。しかし、戦争が終わって敵方の人材を活用するのは、一種の日本の伝統であり知恵である。それは、将棋の駒が相手に寝返るという世界的に例外的なルールを持っていることに、よく喩えられるではないか。


 大きく見れば日本は総力を挙げて闘ったのであり、人材の有効活用は良いことではないか。現に徳川幕府のテクノクラートを活用したのは薩長政権であり、維新後30数年にして、日露戦争に勝利する力をつけている。

 また、氏は英国の対日侵略意図に言及するが、倉山満氏によれば、英本国にとって清朝は征服の対象だが、日本などは視界にも入らない存在だった(嘘だらけの日英近現代史P167)のである。パークスやグラバーなどの出先が勝手にやったのであって、本国の意図ではない。薩長に武器を輸出したのも商売に過ぎない。もちろん隙あらば英仏の餌食になった危険もあるが、それは英仏の企図したことではなく、チャンスがあれば、ということである。

 欧米の侵略は相手が対応を間違えたき、機会があれば実行した、という計画的ではない機会便乗の面も多い。その意味で日本はうまく立ちまわったのである。不完全であるにしても、ともかくタイも、そのバランスの上で一応の独立を継続した。日本はそれ以上に経済力軍事力を充実させ、単に欧米に伍してうまくやる以上に、欧米植民地の解放と言う世界史上の奇跡を起こした。それが大日本帝国の滅亡と言う途方もない犠牲を払ったにしても、である。

 戦争は勝たねばならない。しかし、大東亜戦争に突入した日本には、戦争回避という選択肢はなかった。大東亜戦争の戦略の失敗を反省する必要はあるにしても、戦争したこと自体を現代日本人に批判する資格はないと思うのである。

 小生は原田氏の著書の欠点を指摘しただけで、全否定する意図は毛頭ない。それどころか、氏により指摘された多くの新しい視点は、維新史の見直しに大いに役に立つとさえ思っている。



世界史から見た大東亜戦争_アジアに与えた大東亜戦争の衝撃・吉本貞昭

 副題から分かるように、大東亜戦争が、アジア各国に独立ばかりではなく、その後の国家にも与えた影響を各国ごとに詳しく述べている。類書もあるが比較的丁寧に書かれた方であり、辞書的に読むこともできるだろう。西欧列強の世界侵略のスタートから初めて、幕末から日露戦争までが、前史として書かれているのは、一見蛇足だが、全体の流れを考えると納得できる。

 そのなかで、いくつか初めて知ったことを紹介する。マゼランは太平洋を横断しフィリピンに達して、セブ島のマクタン島で原住民と戦って死ぬが、日露戦争以前で白人に有色人種が勝った、最初の戦いなのだそうである。そこでセブ島では、この日を記念して毎年「・・・マゼラン撃退の記念式典や模擬戦闘を行っているという。(P22)」いつから始まったか書かれていないが、アメリカ大陸「発見」などという言葉に最近異議が唱えられているのと同様、よい傾向である。


 日本は清国と朝鮮の独立と改革について争ったのだが、欧米列国の公使に対して、朝鮮の中立化のための国際会議を提案していたが、清国から琉球問題を持ち出されて、頓挫した(P84)というのだが、いい発想である。ただ、当時は清国の力が大きいとみなされていたから失敗したのであろう。日清戦争に勝ったから、この構想は現実化しそうだが、清国弱しとみたロシアが南下して来たのだから、日清間の調整がうまくいっても結局はダメになったのであろう。

 日清戦争の日本の勝利は、フィリピンの独立の闘士のアギナルドにも刺激を与え、日本の国旗や連隊旗を真似た革命軍旗を作って戦った(P97)のだが、日露戦争以前に日本の勝利に勇気づけられたアジア人はいたのである。

 司馬遼太郎が、乃木大将を無能よばわりしていたことが間違いであった、という説は最近定着しつつある様に思われるが、本書でも「第三軍が強襲法」をしたことで、無駄な戦死者を出したと批判する司馬に対して、乃木が坑道戦術に切り替えたのは、ヨーロッパで同じ戦術が広く使われるようになったのは、10年後の第一次大戦中盤からであったから、乃木の戦術転換は「かなり先進的なものであった(P112)」のだそうである。二百三高地などの映画でも、坑道戦術が描かれているが、画期的なものとしては描かれていないが、やはり戦史を確認しなければならないのだろう。

 シンガポールのファラパークで、五万人のインド兵に対して、F機関の藤原機関長がインドの解放と独立を呼び掛ける演説をしたが、INAを裁くデリーの軍事法廷で、弁護側が最も活用したのが、このファラパーク・スピーチであった(P244)のだが、インパール作戦とともに、インド独立にいかに日本が貢献したか、の証左である。インパール作戦が悲惨な面ばかりではなく、インド独立に貢献したこと大である、と日本で公然と語られるようになったのは、そんなに昔からではない。

 南機関はビルマ独立義勇軍(BIA)を編成して、日本軍とは別行動でビルマ領内に入ることを、第十五軍に協議したのだが、機関長はビルマで徴兵、徴税、徴発をしながら進むと主張した。軍はこれらは住民に迷惑をかけるからと反対した。BIAがビルマに入れば徴兵しなくてもどんどん人は集まると説得したが、徴発に対してはあくまで反対で、軍票をやるから勝手に徴発するな(P324)と言った。誠に日本軍は軍規厳正だったのである。

 大東亜会議は重光葵が東條首相に提案した、という事になっていると思う。少なくとも日本人自身の提案だったと考えられている。ところが本書によれば「・・・この国際会議は、東條首相がフィリピンを訪問したときに面会したマニュエル・ロハスの発案によるものであった。(P511)」というのである。これはチェックしてみたい。


 ちなみに不思議なミスが1か所ある。山下奉文将軍の名に「ともふみ」とルビをふってある。「ともゆき」と読むのであることは、大東亜戦史を少しでもかじったことがあれば知っている。だから筆者のミスではないかも知れない。ちなみに歴史書で、最近西郷従道の名前を「つぐみち」とルビをふってあるのを見て意外に思ったのと同じである。もちろん「じゅうどう」である。

 谷干城にも似たような話がある。戸籍上の名前は「たてき」なのだが、本人も国家干城の意味から「かんじょう」の読みを好み、子孫もそう読みならわしている(谷干城・小林和幸)そうである。もっとも西郷は名前の読み方に無頓着で、どう呼ばれても間違っているなどと言いもしなかったそうだから、うんちくを述べる小生の方がせこいのである。だから本書のミスも本質的なものではないから、どうでもよい。



沖縄の不都合な真実 大久保潤・篠原章 新潮新書

 あとがきで書いているように、既得権益を守る公務員を中心とした「沖縄の支配階級批判」だそうである。沖縄の支配階級とは、保守革新を問わず政治家、マスコミ、大手建設業者などの大企業、公務員及び公務員の労働組合、などと言ったところである。この顔ぶれを見てみると、一見不可解である。

 確かに沖縄の政治家は皆同じ、というのは辺野古移設に反対して、自民党政府と対立している、翁長知事が自民党県連の重鎮だ、という珍現象を説明できる。ところが労働組合も支配階級に入る、という認識は本土ではあり得ない。そして沖縄基地撤去一色の沖縄マスコミも、沖縄自民党も含めた政治家全部と組んでいる、というのだ。

 本書を手にしたときに、基地反対を訴えて実は撤去よりも、政府からの振興資金や借地料を増やす魂胆の矛盾を単純に言うのかと思った。もちろん、その側面もある。だが一方で、「閉鎖的な支配階級が県内権力と一体化しているため、沖縄には県内権力を批判するマスコミや労組、学識者などの左翼勢力が育ちませんでした。(P90)」と書いてあるのには驚いた。

 筆者は左翼が健全な思想の持ち主だ、というのである。この点に違和感を感じる以外には、筆者の姿勢は客観的であろうとしていることが、良く分かる。何せ、現実の沖縄の労組は支配者側だと言うのであるから。ただ一点、日本の安全保障の観点がほとんどないが、筆者のえぐり出したい、沖縄の実相と言うテーマから離れるからであろう。

 沖縄の最大の問題は、基地があることによって、沖縄が一体となって反対運動をし、それにより振興資金が投入され、減税が行われるが、潤うのは支配階級だけだから、格差が広がるだけである、ということである。実は日本一危険なのは普天間ではなく、厚木基地である(P72)。その上、普天間で危険な、普天間第二小学校は、基地が出来て24年後に、危険を承知でわざわざ建てた(P75)というのだから、たちが悪いとしかいいようがない。

 筆者らが他の「左翼」と一線を画している点がいくつかある。そのひとつは「いつのまにか、沖縄人は大江健三郎と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りにふる舞うクセがついてしまった」「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」(P142)という、沖縄県民の言説を紹介していることだ。

 常識では左翼は、大江や筑紫をこのように批判するどころか、二人の言辞を持ち上げるのが普通である。また沖縄在住の作家、上原稔氏が、連載物に慶良間諸島の集団自決について「軍命」はなかったことを実証した文章を載せようとすると、掲載を拒否されたことを批判している。(P176)

 同様に、渡嘉敷、座間味における集団自決について、大江が「軍命による集団自決」と書いているのは嘘だ、という訴訟が起こされ、原告は曾野綾子氏の文章を根拠として、実は、戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用申請(年金受給)のために、「軍命による強制」という虚偽が必要だった、と主張した裁判の件を紹介している。(P179)

 本土であれば大江や筑紫の応援団になるのは左翼であり、沖縄の集団自決は軍命によった、と主張するのは、左翼である。典型的な左翼を日本共産党や社民党とするならば、両党は、沖縄の集団自決は軍命によると、主張している。ところが、筆者たちによれば、沖縄ではこれらの主張をするのは、沖縄の支配層であり、エリートたちである、というのだ。

 本土に住んでいる人々は、これらの主張は沖縄において、左翼的言論界が主張しているものだと考えている。ところが、筆者の言うように、そうでないとするならば、沖縄の状況が外部から分からないのも当然であり、沖縄自民党の幹部であるはずの、翁長知事が、辺野古移設に強硬に反対するのも分かる。

 沖縄の知念氏が中学生たちとの対談で、結果的に沖縄独立を示唆しながら、独立について明言しないことを批判している。(P209)だが、筆者自身は沖縄独立論は、単に自発的なものばかりではなく、中共による工作の影もある、ということには言及しない。これは片手落ちだと思う。沖縄の事態は相当に複雑なのである。




書評・この国を滅ぼさないための重要な結論・倉山満・ヒカルランド

 倉山氏は、日本の思想状況を理解するため、として独特な4分類を提示する。それによれば(P16)

右上:日本が好きだからこそ、政府の誤りを批判する。
右下:日本が好きなので、政府を批判しない。
左上:日本が嫌い・政府が好き。
左下:日本が嫌い・政府が嫌い。

 左右の分類は日本が好きか嫌いか、である。左上の政府が好き、というのは、正確には政府が持つような、権威や権力好きだそうである。反体制を主張する大学教授の類であろう。


 ここで、一見不可解な感じがするのが、日本が嫌いな日本人の存在である。嫌い、というのは感情レベルまで染み込んでいなければ本当ではなかろう。だが本当に日本が嫌でたまらない日本人がいるのだろうか。左下の日本人は本気で日本を滅ぼしたい人、で少数である、というのだが、そんな日本人は存在するのだろうか

 国労の元書記長で、国鉄が悪くなれば国力が落ちるから、革命がやりやすくなる、とうそぶいた人物がいたそうだが、この人は一見左下である。しかし革命とは日本を滅ぼすことではなく、自分が考えた理想の社会にすることである。だから根本的には日本が嫌いなのではない。しかも、革命によって権力を得たいのだから、権力大好き人間である。このように一見、左下の典型に見える人でも、必ずしもそうとも言えないのである。

 中共や韓国にすり寄ってでも、日本を貶めようとする日本人はいる。しかし、彼らは実は自分の行為で日本が滅びるとは思ってはいない。このような人物は、究極には日本を好きなのである。だが、過去の刷り込みによって、日本を糾弾することが正しく、日本を良くする道だと信じているのである。

 加藤登紀子氏はかつて、日本と言う言葉を聞くと嫌悪感がする、とコメントした。彼女は本当に日本が嫌いだった訳ではなく、そういうことが、知的だと、いわばファッションで言ったのに過ぎないと小生は思う。彼女の歌は、いかにも日本情緒あふれていることが売りである。日本を本当に嫌悪する人物が歌う歌ではない。

 祖国を徹底的に批判した人物に、石平氏と呉善花氏がいる。結局彼等は日本に帰化した。日本人になったのである。彼等は祖国に残って改革するような道を選ばなかった。国籍を捨てず、外から祖国を変革する道も選ばなかった。祖国が嫌いになったのである。日本国籍の方が都合がよいからだ、というのは彼らに失礼であるし、事実にも反している。

 外国かぶれで外国に帰化した日本人はいる。そのうち日本が嫌いで外国に帰化した人間は極度の例外であろう。とすれば、左の「日本が嫌い」というのは分類として意味を成すのだろうか。意味を成すとすれば、皇室や神道精神の存在など日本の根幹を成すものが無くなれば良い、と考えるのが、日本が嫌いだということの意味である場合である。

 そうなった日本は、三島由紀夫が言うように、日本ではない。彼等は意図せずして日本の滅亡を望んでいるのである。だが本人の意識の上では、日本は良くなるのであって、滅びるのではない。

 思想家の他に、夏目漱石にも言及しているが、「・・・写真や根暗な文学だけ見ていると神経質そうに思えますが、講演は基本的に江戸落語のノリで、しゃべるのが得意でした。わかりやすくユーモラスな語り口で、聴衆の笑いを取りまくる人でした。(P184)」というが、これは漱石の一面しかとらえていない。泉下の漱石の奥さんや息子の伸六氏が聞いたら、さぞ不快に思うだろう。「漱石の想ひ出」で漱石の精神状態の悪さを書いているが、それが事実である故もあり、高名な弟子の漱石崇拝者たちは、中傷に近い漱石夫人悪妻説を吹聴しているのはひどいものである。

 漱石が典型的な躁鬱病なのは有名である。その上DVもした。躁状態の時は、氏の言うように落語のノリだが、鬱の時は講義中、ずっと呆然と佇んでいたことを自ら書いている。鬱の時は、弟子や家族が話しかけることもできない、ピリピリしたオーラを発していた。漱石は無類の落語好きで、鴎外のように正確な日本語に拘泥することなく、自在に造語していたことでも有名である。このことが躁状態の漱石のユーモアの源泉である。

 こう述べたのは、氏が吉野作造や河合栄治郎について、思想的業績だけでなく、女性関係にだらしのないことまで書いて「・・・こういうところは顔をしかめるしかありません。(P232)」と二面性についても言及していて、漱石についてだけ片手落ちだからである。



こんなに弱い中国人民解放軍・兵頭二十八・講談社+α新書

 久しぶりに兵頭氏らしい、明快な評論を読んだ。何故中国が欧米の科学技術を獲得できないか、を小生の理解と同じように書いていたので納得した。ただ、パリ不戦条約の解釈は相変わらずおかしい。氏は「中国」の地理的概念をシナと書き、中華人民共和国の略称を中共とする、と書いているのは正しい。(P11)いつの間にか保守の人間ですら、中共から中国に乗り換えている。

 AWACSさえあれば、前世代戦闘機でも十分最新鋭機と戦えるので(P33)、コピーなど色々な方法で中共は入手しようとしたが、4機製造したきりで終わった。つまり失敗作で、まともなAWACSを持てないのだ。

 兵頭氏は中共軍を旧日本軍と比較して批判するのだが、当たりも外れもある。日本の文官指導層や宮中が陸軍を掣肘牽制するために、海軍を大きくしてバランスさせたのと同じ方法を中京政府はとっている(P68)というのだが果たしてそうだろうか。

 軍事指導体制の本来の姿をとっていて、海軍が陸軍の下にあったのを対等にしたのは、山本権兵衛の執念であって、陸軍が暴走するのを掣肘するためではなかった。本書でも氏は陸軍の横暴独裁を言い募るが、それは戦後誇張された風評である。満洲で関東軍が暴走したと言われるのは、政府の無策で、関東軍が起たざるを得なかった、と小生は考えている。満洲における支那人の無法に対しては、国際法上合法なやり方で、満洲を保障占領することも、親日政権を樹立することも可能だったのであるのに、政府は無策だった。


 中共が大海軍を目指しているのは、氏自身が指摘するように(P68)、大陸周辺の資源に目をつけたことや、台湾併合などの役に立つからであろう。また改革開放で、金のかかる巨大な海軍を持つゆとりができたと考え、本来の覇権思考が頭をもたげたのである。

 井上茂美の「新軍備計画」を持ち上げて、太平洋の島々を本土から近いところから逐次占領、航空基地化して、資源航路を確保する戦略を取れば良かったので、中共も似た構想を推進している、というのだ(P77)。このアナロジー自体は正しいとしても、太平洋上の島々に作られた日本の基地は、米軍によって次々と無力化されるか、あるいは玉砕していったから策としては間違っている。島嶼の航空基地は、自在に動き回る、空母機動部隊に歯がたたなかったのは、戦史が証明している。

 中共についても、氏自身が、大陸周辺の浅海やマラッカ海峡は機雷などによって容易に封鎖され、中共の体制自体が崩壊するきっかけになる(P94)と書いているのである。中共海軍には、対潜作戦能力と、掃海能力が全くない、というのだ。これらの地味な能力の整備を後回ししたのは、確かに日本海軍に似ている。戦後、日本周辺や朝鮮戦争で日本が掃海に尽力したのは、必要性の賜物である。

 日本海軍の大間抜けは、「西太平洋域にやってくる連合軍潜水艦の出撃基地が、豪州西岸の『フリーマントル港』であったという事実すら、戦争に敗れるまでつかんでいなかったのだ。もし分かっていたら、こちらの潜水艦で機雷を撒くことにより・・・(P83)」というのだからあきれる。日本海軍はやはり、本気で対米戦などを考えていなかったから、この程度の情報収集すらしなかったのだ。


 小生に理解できないのは、氏が戦前の日本も現在の中共も文民統制国家ではない(P114)」と断言していることである。中共は軍隊が政府の言うことを聞かない国である、ということの証拠を提示している。本当だろうか。ソ連のシステムを導入した中共は、党が国家の上に立つという典型的なファシズム国家である。戦前の日本はファシズム国家ではなく、最後まで憲法が機能していた、文民統制国家である。毛沢東や東條英機の真似をするしか能のない習近平(P140)というのは認識間違いも甚だしい。東條は独裁者ではない。合法的な権限を行使しただけである。独裁者が合法的に倒閣されるものか。

 中共は、ニクソン時代に毛沢東が米国とICBM競争をしない核秘密協定を結び、米国に届くICBMの数を実戦用にはならない程度の数に限定していて、その方針は毛沢東以後のトップも引き継いでいるのだという。それは毛沢東が中共にとって神の存在であり(P117)、変更できないからだそうである。本当に毛沢東のカリスマは残っているのだろうか。

 パリ不戦条約で先制攻撃による侵略戦争が違法化された(P145)というのは氏の持論だが、何回も別稿で書いたように、不戦条約では米英ともに自衛戦争か否かは当該国自身が決める、と留保している。つまり不戦条約は成立当初から有名無実である。しかも、米国自身が経済制裁は戦争行為だ、と言明しているから、先制攻撃をして侵略したのは米国であって、日本ではない。

 氏は正当な軍事行動であることを広報しないと、国際的に不利になるという例として、国連から軍事制裁が決議されることすらある(P146)とする。軍事制裁は国連軍が編成されて、北朝鮮や中共軍と戦って実現した実例がある、と言いたげなのだが、朝鮮戦争で安保理での軍事制裁が決議されたのは、ソ連が故意に欠席して、拒否権を発動しなかったための、例外中の例外である。従って、侵略行為に対して、国連軍が編成されて、被侵略国を助けてくれる、などいうのは絵空事であることは、兵頭氏のみならず、世界の常識であろう。

 前述のように支那の科学技術に関する氏の認識は正しい。「・・・幾世代も超えて、技術者が経験とノウハウを蓄積しなければならない最先端のエンジン工学のような分野で、シナ企業は、世界に何も貢献できないのである。(P159)」ということである。中共や韓国に日本の技術者が行くから、日本の先端技術が盗まれる、ということは、このような訳であり得ないことである。

 彼等は外国の技術者の指導の下、外国製の生産設備を設置してもらい、指導されるままに労働者が働いて、教えてもらった製品を作るだけである。欧米や日露の最新技術のノウハウが中韓に定着することはない。技術の伝承は、教育や社会組織などのシステムが整備されていないと、できないことである。中共軍が保有する、最新の戦車も中身はソ連のT-72なのだそうで、外見だけ違って見えるようにしてあるのだそうだ。だから日米欧露の戦車には歯が立たない。


 最終章は「弱い中共が軍が強く見えるカラクリ」という気の利いたものである。結局シナは近代国家にはなれず、シナ本土は匪賊の聖域(P204)だというのは本当である。「中共軍は戦えば弱い・・・逃げようとすれば、彼らの反近代的なルールが勝利を収めるだろう。逃げずに受けて立てば、それだけで中共体制は滅び、アジアと全世界は古代的専制支配の恐怖から解放されよう。(P206)」というのは、兵頭氏らしい卓見である。



鴎外の恋人・今野勉・NHK出版

 隅田川神社の近くにある、「医学士須田君之碑」の写真から書き取った漢文を訳してみようと思い立った。この碑に注目したのは、撰が鴎外との確執で有名な上司の、石黒軍医総監だったからである。これは「医学士須田君之碑」という以前の文章を見ていただきたい。確執の原因の大きなもののひとつは、鴎外のドイツでの恋人を別れさせたことだったと記憶して居て、それをブログとホームページに書こうと思ったが、確信がないので、鴎外の本を図書館に探しに行った。


 そこでズバリこの本を見つけたのである。本の意図は鴎外の恋人の特定であったが、結果的に鴎外の一部の伝記となっていた。読み進むと小生は二葉亭や漱石に比べ、鴎外の肝心の部分をほとんど知らないことを実感した。女性に対してやさしかったはずの鴎外が、わずか一年で離婚したのは、恋人(以下アンナという)が忘れられなかったからであった。

 普請中などに淡々と書かれている、日本でのアンナとの出会いは、単にアンナが押しかけてきたのではなく、軍を辞めてでもアンナと日本で結婚することを固く決意した鴎外が、アンナと示し合わせて、鴎外の一便後の日本行きの船にアンナが乗っていたのだということ。そのことを知らされた石黒は、帰国の船で鴎外と漢詩のやりとりを繰り返しており、石黒は軍人は外国人と結婚してはならぬ、と説いたのだった。

 鴎外は、日本に戻るや、家族にアンナとの結婚を許すよう説いて回り、一度は陸軍の大物が進める縁談を断るが、結局は母・峰子の強い意思に挫けてしまった。一度断った女性と結婚させられたのだから、この結婚は互いに不幸の元だったのは当然であろう。

 特定された鴎外の恋人の名はアンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルトだった。ところが鴎外は関係を隠すため、アンナを普段からエリーゼと呼びならし、舞姫の主人公の名に、似た響きのエリスとつけたのもそのためであった。鴎外は全て、子供にドイツ風の命名をしているが、後妻茂子との間に生まれた子供の名を杏奴と類と名付けたのは、アンナとルイーゼの名を刻みたかったのだというが、その心情は小生には解せぬ。

鴎外の有名な遺言

 死は一切を打ち切る重大事なり。奈何なる官憲威力と雖、此に反抗することを得ずと信ず。余は石見人、森林太郎として死せんと欲す。・・・以下略

という激越な遺書は単なる反骨ではなかった。アンナとの結婚を邪魔した軍関係者に対する反感と、自身の無力に対する激しい悔恨であったろうと小生はようやく理解した。鴎外とアンナとの関係を軽く見ようとする通説は、妹喜美子などの縁者や石黒ら陸軍関係者の言説によるものであろう。生涯アンナを深切に思うことができた鴎外は、大きな不幸の中にも一縷の幸せを見いだしていたのだと、小生は思いたい。



操られたルーズベルト 大統領に戦争を仕掛けさせた者は誰か

 カーチス・B・ドール著・馬野周二訳

 奇妙な構成の本である。第一部が外題として、訳者が相当なページを割いて、ドール氏の考えと、それにほぼ同意する馬野氏の考えを書いている。第四部も同様に馬野氏の文章である。従って馬野氏の訳と言いながら、巻末には著者として紹介されている。全般的に中川八洋氏あたりが賛同しそうな、イルミナティなる国際陰謀組織や、国際金融組織などが世界を操っている、というのが大きな筋書きである。また、多くの指摘が具体的な事実関係によって充分に立証されていないように思われる。

 この本の二人の著者の指摘は、国際陰謀説が事実であろうとなかろうと、興味深いものがある。なお、ルーズベルトは愛人と一緒にいたとき死んだ、というのは定説であろうが、「ルーズベルトの死-その真相」という項さえ設けられているのに、小生の不注意でなければ、その点については触れられていない。ルーズベルト夫人は国際陰謀団体の手先となって、ルーズベルトを操っていたかのように書かれており、著者が好感を持っていなかったからであろうか。


解題:魔性の二〇世紀


 「最近になって我が国の二、三の評論家から全く別の見方が提出されている。それは攻撃の最終立案者であり、命令者であった山本五十六大将が、実はアメリカに操られていたのではないかとするものである。(P21)」として一見「不遜な売文の徒の根も葉もない奇説に見えるが、私は少なくとも検討に値する見方ではないかと考える。」

 小生は山本が、結果的に英米を利したことになったとしても、少なくとも「直接」操られた、ということは考えられない。この説はドール氏の説ではない。ドール氏は日本を対米戦に追い込んだの者達の一部には、日本人も含まれている、という事は明言していない。

 「ヒトラーは操られた」として、ヒトラーは戦争を開始しようと言う意図はなく、単にダンチヒとその回廊と言う旧ドイツ領の回復を意図しただけで、チェンバレンもその真意を知っていた(P38)。そしてドイツとともに、ポーランドに侵攻したソ連に対して奇妙なことに英仏は不問にしていることだ、というのはその通りである。現在の世界史の共通の常識は、ポーランド分割をした独ソのうち、ドイツだけを第二次大戦の開始者としているのは、確かに不公平である。

 氏も言うのだが、ドイツ軍はベルサイユ条約下で、開戦当時軍備は大したことはなかった。戦車の性能も数も不足していたし、海軍に到っては話にもならなかった。確かにヒトラーが英仏と開戦したがる、というのは不可解である。

 満洲事変についても、張学良が圧倒的多数の兵士がいたにもかかわらず、日本軍に抵抗させなかったのは蒋介石の命令という説があるが、それを素直に張が聞き入れたはずもなく、この点を究明した者はおらず、「この謎にこそ、東アジアの陰謀を解く鍵があるのだが。(P45)

 つまり、「関東軍の独走は、日本政界の入っている英米の秘密勢力によって抑えられ大したことにならぬ」から抵抗をして兵力を失うな、と指示されていた。ところが満洲事変が成功してしまったのは、関東軍の決意と日本軍の強さを分かっていなかったから、というのである。確かに張学良が本気で反抗したとしても、精強な日本軍は蹴散らしたであろう。ドイツに指導された、後年の蒋介石軍とは違っていたのだろう。


第二部:パールハーバーの謀略

 ここからがドール氏の著作である。第二部はヒルダー氏との対談である。ドール氏は日独も米国民も戦争を望んでいなかったのに、「世界金融勢力」がルーズベルトを使って、日独に開戦させた、というのであるが、読む限りでは対日戦と対独戦を切り離して考えている。対独戦参戦のために日本を挑発したとは考えてはいないようである。それどころか米国はドイツのポーランド侵攻から対独戦に入ったかのようである。それは、英独戦が本格化すると、中立法の改正や米駆逐艦が独潜を攻撃したことからも、事実であると言っていい。

 事実関係で十分立証されてはいるとは思えないが、ドール氏の見解で最も興味深いのは、日独がともに敗色が濃くなってかなり早期に和平を望んだのに、ルーズベルトとチャーチルがこれを拒絶して、日独を完全に破壊し軍事力を絶滅させるまで戦った、という考えである。

 日本がソ連に講和の仲介を依頼していた、という話は愚かなエピソードとしてよく知られている。それどころか日本が講和を目的として「独自にアメリカとの接触を試みていた証拠がいまになって、ますますはっきりしてきました。(P95)」としてアレン・ダレス、ハリー・ホプキンズ、フーバー、グルーなどの証言やアドバイスを紹介している。これらは原爆が投下されるまで、トルーマンが無視したのである。

 ルーズベルトがチャーチルに、「私は決して宣戦はしない。私は戦争を作るのだ。」(P71)と言ったのは結構日本でも流布されているが、本書が出典であろうか。またチャーチルが議会で「アメリカは自身が攻撃されなくてさえも、極東の戦争に加わり・・・私がルーズベルト大統領とこれらの問題を語り合った太平洋会談(一九四一年八月一四日)(P72)」でルーズベルトが約束した、という指摘は現在なぜ注目されないのであろうか。

 これは米国が対独戦の裏口から参戦する為に日本からの攻撃を望んでいた、という説を真向から否定している。米国が先に日本を攻撃すれば、それが対独戦参戦の理由になるはずはなかろう。それどころか、戦争をしないと約束したはずのルーズベルトは嘘つきだ、と自ら言っているのである。

 本書にはある米国の上院議員がこれについて、米国は真珠湾攻撃以前から対日参戦をしようとした、と指摘していると書かれているが、この指摘は文脈から明らかに開戦後のものである。なぜ戦争に反対していたはずの米国民は、チャーチルの演説に注目して、ルーズベルトを非難しなかったのか、と小生は思う。米国のマスコミは間抜けではなかったし、米国民も同様であったはずである。


第三部 操られたルーズベルト

 ドール氏は次々とアメリカの悪事を書いている。しかし「わが国民の他の国民に対する博愛精神は疑いようもなく、世界の歴史を見ても並ぶものがない。(P108)」と述べているように、無邪気な愛国者である。

 ドール氏によれば、1929年の株の大暴落(大恐慌)でさえ陰謀である。「ヨーロッパやアメリカの有力資本家グループが、一時的な儲けのため、いわば利益を『刈り取る』ために、各地の取引所で株式相場を崩壊させる絶好の時期と考え、それによってハーバート・フーバー大統領を排除する決意をした(P230)

 そして陰謀には大統領夫人まで加担している。ルーズベルトは「どんどん『ロボット』になっていった。だが夫人は始めから終りまで、国際主義者のゲームをあからさまに演じた。(P266)」ウィルソン元大統領ですら国際組織に利用されていて死の直前に、ある軍人に「私は一番不幸な人間だ・・・知らず知らずに自分の国を破壊してしまった」(p267)と無念の気持ちを漏らした。


 ドイツとの和平工作は1943年の春に既にイスタンブールで行われていた。(P272)アール中佐はイスタンブールでドイツ諜報部長と会って、アメリカがドイツ軍の降伏を受け入れると示唆するだけで、降伏しドイツ軍は「西洋文明の真の敵(ソ連)」の進撃から西洋を守る、と語った。これにはパーペンドイツ大使も絡んでおり、背後にはヒトラー暗殺を計画した反ナチグループがいたのである。結局はこの会談もヒトラー暗殺も失敗した。

 それどころかイスタンブール会談とそれに対する大統領の拒絶の回答を知っていたパットン将軍、フォレスタル国防長官は早死にしたが、それも陰謀の一部であるように書かれている。「・・・マッカーサー将軍は確実に知っていた。(P279)」のだが、殺されなかったのは、マッカーサーが戦争の早期終結を望んでいなかったから、とでも言いたげである。

 真珠湾軍港は厳重に守られていて攻撃は困難だった、という説がある。リチャードソン提督は「真珠湾は現在ある兵力だけで防御するのは難しい。三六〇度海に囲まれ、艦隊の補給も難しく、潜水艦の攻撃にも弱いし、陸軍の対空砲火も足りない」(P290)とスターク海軍作戦本部長らに言ったが埒があかないとして、ルーズベルトに「太平洋艦隊にもっと安全で戦略的な態勢をとらせるよう」言ったが無視されて、テーブルを叩いて怒って帰ると、まもなくリチャードソンは解任された。このことも真珠湾の太平洋艦隊への警告を遅らせたのとセットの陰謀になっている。

 ドール氏によれば、国連ですら国際陰謀団(ここではイルミナティ)のによる超世界政府への布石だという。(P309)その過程で共産主義者を利用する為に、東欧をソ連にくれてやったというのである。そのために、後にソ連スパイとして告発されたアルジャー・ヒスが国連憲章の起草者の一人になっている。(P309)


第四部 本書に寄せる私の思い

 これは馬野氏による総括である。氏はドール氏と同じく、国際陰謀組織である、「統一世界勢力」なるものの存在とその陰謀によって近現代史が動かされている、ということを信じている。前述のように、その真偽はさておき、本書に書かれたことは、陰謀説を別にしても面白い指摘が多い。本書におけるドール氏と馬野氏の違いは、米国における黒人差別の問題を取り上げないか、取り上げているかのように思われる。それはドール氏が米国民を世界一博愛精神に満ちていると信じていることによるのであろう。



書評・石原莞爾・渡辺望

 よく整理された石原莞爾論である。一読を勧める。石原に知己のある人物の書物は貴重だが、結局、石原の思想を十分整理しているとは言えないものが多い。

 二二六事件で石原は、討伐論を唱えた数少ない陸軍軍人として知られているが、事はそう単純でない。二十六日当日深夜、「・・・反乱軍にきわめて好意的な橋本欣五郎大佐と満井佐吉中佐の二人と帝国ホテルにおいて時局収集についての話し合いの席をもった(P206)」のだが、石原の考えは「・・・政局混乱に乗じて、石原の理念にとって有利な政治体制を作りあげようとした。」のであって、「天皇の鎮圧意思が強固なのを知るや否や」鎮圧派の急先鋒になった、という日和見なものであった。

 ただし、天皇の意思を杉山元に告げられた時、事件の首謀者が天皇や宮廷に事前に手を打っていないと悟って計画の稚拙さに驚き、方針の転換をしたのであろう(P210)というのである。石原には天皇の政治的利用、という思想があるため、もし、このことを最初から知っていれば、当初から鎮圧を主張し、真崎排斥にも利用したであろうという。

 満州事変の英雄となった石原は、二二六事件によって、さらに名声を高め、陸軍の影の実力者となった(P213)。その結果、「国防国策大綱」を作り上げ「世界最終戦争論」の具体化に前進した(P221)。具体的には、対ソ戦の準備をし、戦争によらずソ連に対日戦を断念させる、東亜諸民族を独立させるが米国とは中立状態を維持する、対中関係は満洲国建設に邁進するに支障ないようにする、ということである。

 それらの結果、日本はアメリカとの最終戦争に勝てるよう、対外環境や軍事力を涵養することができるようになる、というのである。著者の論によれば、最終戦争論とは石原にとっては夢物語ではなく、実現すべきものであったということになる。

 これに関連して石原は「重要産業五カ年計画」をまとめたが、「これはもはや軍拡計画というより、産業革命計画というべきもので(P224)」膨大な予算を必要とする途方もないものであった。産業界は呆れるかと思いきや、結城豊太郎や鮎川義介らの財界人は非常な関心を示したのは、石原のスケールの大きさを理解したのである。


 その結果石原は前にも増して、言いなりになる軍と内閣が必要だ、と考えるようになった。ところが石原のロボットたる広田内閣が総辞職すると、宇垣一成に大命が降下する。宇垣内閣は宇垣軍縮に懲りた陸軍が反対して流産となった、というのが小生の知る定説である。

 実際に宇垣が行ったのは、四個師団削減と言う一見軍縮だが、この予算を陸軍の装備開発にまわすという策をとり、実は陸軍の予算は増加していて、軍縮と見せかけて、「実は軍の近代化を進めるのに成功した(P227)」というしたたかなものであった。

 ところが石原は宇垣内閣阻止にはしる。石原は宇垣の政治的有能さを嫌い、ロボットを好んだ、というのである。「石原は軍事面についての謀略・策略については天才であったが、政治力に関しては多分に凡庸だった(P239)」ことが石原の凋落を招いた。無能なロボットは結局、トップであるが故に、愚かな結果を招く、と言うことに思いをいたすことができなかったのである。

 宇垣の代わりの林内閣は無能ですぐに退陣し、近衛内閣が登場して、発生した支那事変は長期化し、それが世界最終戦争構想をだめにした。石原が有能な宇垣を利用する懐の深さがあれば、「・・・宇垣・石原連合のパワーにより短期で解決できたろう・・・この想像はおそらく間違いではない(P238)」というは、小生は初めて聞く説である。

 一般の世評は単に宇垣を政治的野心家、としか見ていないのだと思う。だが宇垣が如何に有能だとしても、支那事変の解決はもちろん、適切な陸軍の大陸政策が可能であった、というのには、小生は無理があると考える。宇垣内閣以前から、英米ソは日支の争いを計画していて、その意志は変化していない。しかもソ連は日本の南進による日米戦争を企図していた。要するに非白人の唯一の大国日本は、白人国家に常に狙われていたのである。


 このような国際情勢が不変である限り、国防国策大綱すら始めから画餅であった。そもそも、国防国策大綱は外国が日本の都合よく動く、と言う無理な前提に立っている。

 石原に比べて、著者が政治力を評価するのは梅津美治郎である。梅津は高く評価する識者がいると同時に、存在を無視する者が多いのである。梅津の功績は「後始末」にあるという。

 満洲事変の決着としての梅津・何応欽協定、ノモンハン事変後の関東軍の下剋上の風潮の後始末、終戦工作などである。ノモンハン後の関東軍の件と終戦工作に関しては藤井非三四氏の説を引用している(P241)

 石原は理想としていた、満洲建国大学を開設するにあたって、教授候補としてオーエン・ラティモア、パールバックなどの親中反日人士をあげ、トロツキー、ガンジー、胡適、周作人などを招聘することを主張した。後世の我々は、こんなところに石原の天才とスケールの大きさを見るのだが、同時代人としては、危険人物に映ったのに違いない。石原は著作が多い割に説明的ではないからでもある。小生の読後感としては、石原は自己の才能に適した時代に生まれ、それ故大成することもなかったということにある。


 本書評は敢えて二二六事件以後に限定したが、本音はそれ以前を語ると長くなることであるが、満州事変についても仔細な点に独創的な見方がある。また小生は石原の宗教関係については興味が薄い者であり、石原観としては偏波であるが、本書にはよく書かれている。

 余談であるが、国際関係から無理としても、元々軍事力としては世界に冠たるものがある日本だから、もし、日本が対米戦に勝てば、世界最終戦争論は正解となり、世界に恒久平和がきた可能性はある。その場合、欧米の植民地の日本の助力による解放と言う必要性がある。ただし、イスラム問題について日本が解決する能力があるかは大いに疑問である。救いとしては、キリスト教徒と違い、日本にはイスラムとの対立の経験がないことである。これは現在の対イスラム国家群への対応の際にも顧慮すべきことであろう。



書評・明治維新という過ち

 タイトルが刺激的で、図書館で何か月も待って借りた。ただ、興味があったので、結局読後に書店で買ったのだった。本を買う場合には、引用するため辞書的に使うため手持ちにしておきたい場合が多いが、本書はチェックして確かめたいところが多かったからである。意見は異なるが、ともかく面白い本だった。

 確かに巻末に参考文献等があるが、結論が断定的で、どういう検討を加えたかが不分明で、正しいかどうか俄かには分からない。その点西尾幹二氏のGHQ焚書図書開封シリーズは、焚書されたものを紹介するのが目的なので当然であろうが、論拠が明確である。そして幸い、シリーズの11で「維新の源流としての水戸学」、というのが刊行され、色々な文献から水戸学について述べている。結論から言うと本書の対極にある。

 ところで吉田松陰がロシア軍艦に乗り込もうとしたのは、プチャーチン暗殺説があり、アメリカ軍艦に乗り込んだ件もペリー暗殺説が根強い(P120)と述べるのだが、論拠が不明で、真偽を閲した様子がなく、言いっぱなしである。これが、吉田松陰がテロ思想が強かったと言うひとつの論拠になっているから、軽々に扱うのはおかしい。読者への印象操作と言われても仕方ない。ただ、ロシア軍艦乗り込み失敗と、米艦密航失敗を幕府に自首した経緯を推測しているだけなのである。

 水戸学批判は強烈なのだが、水戸学の歴史改竄の例として、神功皇后を実在の皇妃として扱ったこと、壬申の乱で敗れて死んだ大友皇子を天皇として扱って「弘文天皇」という諡号を作ったことを例に挙げている(P186)。しかし神功皇后が実在ではない、という説は、朝鮮出兵で活躍したために、戦後の歴史学会が韓国などに遠慮して、実在ではないと変更したものである。

 それなのに実在ではないと言う証明は一言もしていない。光圀が実子を兄弟同士で交換したことが、史記列伝の故事を真似したことが、支那かぶれであり、かぶれ体質が諡号を勝手に作ったことに繋がるかのような印象操作をしていて、大友皇子が即位していない、という証明もない。西尾氏の焚書シリーズ11にはこのあたりの経緯がきちんと書かれている(P90)のに比べお粗末である。同書によれば諡号を賜ったのは明治天皇だそうである。

 同書によれば、大日本史の三大特徴は、先の2件と、南朝正統説だそうである。もし、水戸学が明治維新のため薩長に利用されたとすれば、明治天皇も含め、北朝の系統であるから、矛盾している、と言わざるを得ない。ちなみに大日本史を献上された「北朝」の天皇はお褒めの言葉を賜ったそうである。

 水戸の浪士による井伊直弼暗殺を狂気のテロだと断言し、司馬遼太郎は一切のテロには反対するが、桜田門外の変だけは歴史を進展させた珍しい例外、とするのを「驚くべき稚拙な詭弁(P186)」とする。薩長による暗殺事件も同様に狂気のテロリスト、として断固として非難する。それもこれも全て吉田松陰のテロ教育や水戸学の影響だとする。

 これはテロの定義と維新の意義次第であろう。著者によれば維新政府はだめで、幕府には有能な官僚がいたから、幕府改革で立派な国が作れたはずだと主張する。つまり維新自体を否定することが、テロと断定する根拠になっているように思われる。だが、現代国際法では、ゲリラによる戦争を認めている。もちろんゲリラが単なる民間人を殺害すればテロである。

 井伊直弼は政治家であると同時に武士、すなわち軍人である。しかも警護の武士を排除して暗殺したのである。これはゲリラによる戦闘行為であり、単なるテロではないと言えまいか。現代の国際法のゲリラが戦闘を認められる条件のひとつは、公然と武器を携行していることである。井伊大老を殺害した武士たちは公然と切り込んだのである。また明治維新を革命と考えればよいのである。著者のいうごとく、維新政府はだめで、幕政改革が正解であったと仮定しても、薩長が幕藩体制はもうだめで、討幕しかないと判断して行動したのなら革命である。革命は成功すれば正統となるのである。


 単なるクーデター説も、西尾氏は下級武士が上級武士の体制を覆したから革命と言える、というがその通りである。維新の志士と呼ばれる者たちの多くは、元々武士ではなかったり、辛うじて武士の末端にいたのである。その点、著者は下級武士や成り上がり武士の、残忍な行動を非難し、そのようなことをするのは、正統な武士ではないからと断ずる。

 残忍な行動は絶対に肯定すべきではないが、正統な武士なら品性のある行動をするとは言えないのである。現に武士の頂点にいるはずの、水戸光圀の女癖の悪さや殺人癖を、著者は口を極めて非難しているではないか。

 著者自身が昭和30年代の子供のころ、母から切腹の作法を教わって、恐怖に慄いた、という体験(P240)を記している。武士の躾は、常に死を前提としたところから始まる、というのだが、前述のように著者は武士の身分の高低を、人間の品性の上下に関連づけている。P264には、会津における。政府軍の酸鼻極まる行為を述べている。それを「奇兵隊や人足たちのならず者集団」も行ったという。奇兵隊にも武士上がりでは無い者がいるというのだ。

 そしてはっきりと「明治維新とは、下層階級の者が成し遂げた革命であると、美しく語られてきた。表面は確かにその通りであるが、下級の士分の者であったからこそ、下劣な手段に抵抗を感じなかったといえるのではないか。平成日本人は、この種のリアリズムを極端に蔑視するが、これは否定し難い『本性』の問題である。(P60)」と断ずる。

 下層階級の本性は下劣な手段を平気でする、とまで言っているのだ。ところが、これに続けて「動乱とは概してそういうものであろう」と述べているのは、かえって奇異に感じる。下賤のものの本性はともかく、動乱は綺麗ごとばかりではないのは当然で、綺麗ごと以外は絶対にするな、というなら動乱はあり得ない。いかな結果が正しい変革であっても、醜いものは潜んでいる。政治は綺麗事だけではないのは当然である。著者は会津の人間は完全無欠であるかのごとく言うが、そうではあるまい。確率は低くても会津武士にもろくでなしはいたのである。

 西郷隆盛は赤報隊を結成した。その赤報隊は江戸で蛮行を行った。ところが西郷に関しては、福澤諭吉は「・・・武力による抵抗は自分の主義とは違うとしながらも、西郷の『抵抗の精神』を評価している。・・・西郷の『抵抗』については、一度御一新と言う形で成功したものであり、その際は最大の功労者としてもち上げながら、新政府に反旗を翻すや一転『賊』として非難するとは、何を根拠にしているのかと怒る。・・・西郷という"天下の人物"を生かす対処の仕方があっただろうが、と嘆く。」

 赤報隊の件のように、西郷も権謀術策を用いる人物であったことはよく知られている。赤報隊の蛮行を口を極めて非難しながら、西郷を称揚しているのは矛盾も甚だしい。久坂玄瑞や高杉晋作などは、「・・・松陰の「遺志」を継いだ跳ね上がり”(P123)」と断ずるのと大きな違いである。薩長同盟して維新をしたのに、薩摩、特に西郷については格段の配慮をしているとしか思えない。

 確かに、最初の方のP60には西郷が「上級士分の者であったなら、こういう手を打っただろうか。」とか「西郷隆盛という人物は、本来正義感の強い男であるとみられている。但し、それは一定以上の安定がもたらされた場合に発揮される、ごく普通の良心程度のものであったということになる。」とけっこうこき下ろしている。ところが、その後で福澤諭吉を引用して評価を変えているように思われるのである。いずれにしても著者には、下層階級は品性が卑しいと言う持論がある、としか思えない。

 維新以後の日本を侵略国呼ばわりしているのも理解不能である。何故侵略国呼ばわりするのか、説明がないので何とも言いようがない。この本の範囲内では、侵略国呼ばわりしているのは、維新が「過ち」であると言いたいがために使われているのである。「私たちは、明治から昭和にかけての軍国主義の侵略史(P125)」と断言している。

 その淵源を松陰が「北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有すべき」と主張していたことに求めている。「松陰が主張した通り・・・軍事進出して国家を滅ぼした(P124)」というのである。

 この北海道以下の進出説は著者が書くのとは異なり「余り語られていない」ものではなく、後述のように松陰侵略主義説は余り語られていないものではない。ともかく、松陰の主張によって維新以降の政治軍事外交が決定された訳ではない、というのは事実を閲すれば分かる。どう考えても日本は主体的に動いたのではなく、世界史の中の駒として動いたのである。

 この点については、桐原健真氏が「吉田松陰」で論じている。氏は原田氏が引用した部分について、松陰の侵略主義と一般には非難されることに反論している。「・・・カムチャツカからルソンにいたるこれらアジア地域の多くが、当時、主権国家の境界がいまだ明確に確定されていない、いわゆる辺境の地あったという点である。」(同書P94)

 無主の地とはいえ、先住民がいて、その地に「進取の勢を示す」ことは侵略である、と留保するのだが、紹介した部分は同氏が敷衍しているように重要な指摘であって、日本が近代国家の仲間に入らざるを得ないとすれば、周辺の国境を画定していかなければならないのである。何も欧米諸国がしたように、経済的利益を目的に地球の反対側まで侵略に行ったのではない。

 「・・・慶喜が想定したようなイギリス型公議体制を創り上げ、・・・これらの優秀な官僚群がそれぞれの分を果していけば・・・長州・薩摩の創った軍国主義国家ではなく、スイスや北欧諸国に類似した独自の立憲国家に変貌した可能性は十分に(P180)」あるというのだ。倉山満氏らの言う通り、日本は軍国主義国家ですらなかった。軍部独裁、というがドイツと異なり憲法は最後まで機能していた。

 なるほど幕府の根本的改革による国造りの可能性はあったのかも知れない。しかし、その理想がスイスや北欧である、というのはいただけない。著者も国際関係とは関係なく、日本の意思次第で、日本の政治外交がどうにでもなつていった、という考えを無意識に持っていると思われる。スイスや北欧は共通点のある、ヨーロッパ諸国の中に位置している。そのことを無視して、日本がスイスや北欧のような国を目指すのは無理なのである。

 日本の今日があるのは、悪戦苦闘の結果、欧米の植民地がほとんど解放された、という結果による。日本だけがアジアの諸地域を無視して、理想の国を創ろうとしても、そうは欧米やロシアはさせてくれない、という地政学的条件がある。維新から大東亜戦争の敗戦と、その後のアジアの独立運動への参加など、日本人の苦衷と努力と成果にあまりにも、同情がなさすぎる、と言わざるを得ない。同情とはお可哀そうにということではない。厳しい境遇に共感する、ということである。長谷川三千子氏が林房雄の「大東亜戦争肯定論」を後世の日本人に勇気を与える、というようなことを言ったのとは、大違いである。

 そもそも、大日本史を中心とした水戸学がテロを正当化したものであり「『大日本史』が如何にナンセンスであるか、如何にテロリズムを助長したものであった(P147)」という断定の根拠が分からないのである。根拠と言えば大日本史の発案者の水戸光圀が女狂いであり、人殺しを趣味としていたとか、水戸藩の人間がテロを行ったとか、水戸藩の財政が苦しく藩政は苛斂誅求であった言うことが、延々と書かれているだけであろう。水戸学の内容について検討した形跡がなく、山内氏や中村氏、その他の学者や識者が、水戸学を批判している結論だけ引用しているのである。

 本書では藩主斉昭について、横井小楠や竹越三叉が「道理を見極めない」「無責任な扇動家」その他色々な言葉で口を極めて非難している(P159)という。ところが、西尾氏の前掲書によれば、「小楠の如きは、『当時諸藩中にて虎之助(藤田東湖)程の男はなかるべし』と感嘆している。」と絶賛に近いことを言っている(P207)という。

 東湖はある時期水戸学の中心人物で、斉昭はその上司であり、一時は讒言により斉昭から疎まれたが、最終的には信頼されているから、斉昭と東湖の評価がこれほど違うのはおかしいのである。なお、西尾氏は水戸学を手放しで称揚しているわけではなく、テロの問題も、水戸学の狭量で貧しい面があることも指摘している。評価が単純ではなく、重層的なのである。

 前述のように、慶喜が想定したようなイギリス型公議体制を称揚していながら、P145などで「武家の棟梁としての低劣さ」と言って慶喜批判をしているのがよく分からない。確かに政治家と武家の棟梁としての資質と言うのは、イコールではないが、「低劣」とまで断言される部分が多いと言う人間の政治的資質を理想化するのは、奇異である。面白い本ではあり、得るところも多いが、ともかくも根拠の薄い、一方的断定の多すぎるのも事実だと思う。

 当たり前だが、人間というものは善悪で一刀両断できない。時代背景というものもあろう。後年人格者と称揚された乃木希典も若い頃は飲んだくれて、女遊びに明け暮れるろくでなしの毎日であった。鬼平こと長谷川平蔵も、若い頃は似たようなもので、多分泥棒やそれ以上の犯罪に手を染めていた。

 この本を読まれた方は、紹介した西尾幹二氏のGHQ焚書図書開封11と桐原健真氏の「吉田松陰」をあわせて読んで、自ら考えることをお勧めする。



「戦後」を克服すべし・長谷川三千子。國民會叢書八十九

 何とも意外だったのは、厚さ五ミリになるかならないかの薄い冊子だったことである。昭和二十一年の「年頭詔書」、いわゆる人間宣言、についての講演録である。長谷川氏にしては珍しく現代仮名遣いである。なるほど日本国憲法は、GHQが草案を作り、日本側が翻訳しても、気に入らなければ直させる、という到底一国の憲法とは言えないものである(P3)

 ところが、詔書の方は微妙で、GHQは天皇への絶対的な信頼を崩すために、天皇ご自身から神格を否定する詔書を出させたい、という意向を政府に伝える。(P9)すると、命令の書類もないにも拘わらず、教育勅語の廃止と同様に日本側は抵抗するどころか、GHQの意向を忖度して、内閣が作業をしてしまう、という情けない顛末なのである。

 天皇陛下ご自身のご見解を「民間人の言い方で言い直すなら『神格の問題についてはあの詔書は全くダメでした。だから私なりの修正として五箇条の御誓文の追加を指示しました』ということになる。(P19)」。つまり、間違っていると否定することは、天皇のお立場としては、してはならぬので、文の追加の指示によって実質的に間違いを直そうとしたのである。

 西洋流の民主主義は上と下が争うものだが、日本型民主主義では上と下とが心を一つにして政治と経済の活動に励む、というのだが、その国体を表現したものが、五箇条の御誓文であるということである。(P25)

 ところが、「天皇ヲ以テ現人神トシ・・・」と続く神格の否定の部分がまずい、というのである。現人神とは一神教の絶対神ではない。かといって単なる人ではない。かの吉本隆明が想い出話を語って「私はとにかく家族のため、祖国のために死ぬというのは、これは中途半端だと思った。しかし生き神様のためなら命を捧げられると思って戦争中を過ごしていた」と語った(P27)のだが、生き神様こそが伝統的な言葉で「現人神」というのである。

 天皇が現人神である、というのが詔書のように「架空の観念」だとしてしまえば、吉本少年の生き方は架空の観念によるものに過ぎない、ということになってしまう。結局、神という言葉を、日本にないGodと言う言葉と混同したことによるものである。著者は、この間違いは、幣原喜重郎の英文草稿のdevineと言う言葉に発していると言う。

 devineとは「神的な・神の」とは訳すが、西洋人の感覚では人間と一神教の神とは別なものである。だから明確にGodと書いて「天皇を以て絶対神とし・・・」と訳せばよかったのである。たしかにそうすれば、国民が天皇を生き神様でないと言われてしまった、と誤解することもなく、GHQにしても唯一絶対神以外に神はいないのだから、納得したであろう。

 長谷川氏は、結論を導くのに旧約聖書の話を持ち出しているのだが、長いので引用せず、結論だけ要約する。西洋の神様は人間に命を差し出すよう要求する。しかし日本の神々はそんなことはしない。しかし、「大君の辺にこそ死なめ」と自分で犠牲になる。戦争で多くの人が死に、終戦の時、国民が死の決意を固めていた。それを受け取るのを天皇陛下は拒否したのではなく、気持ちは確かに受け取った。

 だから「いくさとめにけり身はいかにならむとも」とご自身の命を投げ出すこともいとわなかった。「それが『終戦』の意味なのです」(P39)と言う。三島由紀夫の書いたように、人間宣言を聞いて英霊が「などてすめらぎは人間となりたまいし」と質問したら、答えは「人間であるからこそ、朕は命を投げ出すということが可能になった」とお答えになるのだろうというのである。

 絶対神は自分の命を投げ出すことができない。ところが日本の神はできる。確かに記紀でも神々は死んでいる。だから前述のように、この詔書はとんでもない間違いがある、と同時に敗戦後の日本の大逆転の可能性をも秘めている、というのが著者の結論である。ということでこの本のタイトルにつながるのである。相変わらず長谷川氏は、深読みの得意な人である。だからこの書評も充分に著者の意を現してはいない。

 ひとつ付言する。東大法学部の出身で、論理的に見るトレーニングをしてきたはずの、三島由紀夫ともあろうものが何故「などてすめらぎは人間となりたまいし」と誤解して怒ったのだろう、というのである。長谷川氏は三島が究極的には、人間宣言に怒っているのではなく、本当の意味は分かっているのだ、という。

 だが、東大法学部の出身で、論理的に見るトレーニングをしてきた人間が、物事を正確に把握できるはず、ということ自体がおかしいのである。東大法学部の出身であるから、ということはどうでもよい。論理的に見るトレーニングを十二分にしてきたはずの、多くの左翼人士は、見事にGHQの洗脳にひっかかって、憲法九条を絶対視するなど、多くのとんでもない間違いをしている人たちは珍しくはない。

 そもそも論理と言うものは、絶対的真理を必要としない。例えば公理系というのは、仮説の一種であるいくつかの命題を提示するが、これを公理という。それを論理的に展開して作られた世界が公理系である。論理が整合していれば、公理系が成立して定理が導かれる。前提となる「公理」が絶対的に正しいか否かは問題とはならない。だから二乗したら負の数になる、とう虚数の数学の世界も成立するのである。ところが、実世界にはあり得ない虚数の世界を使えば、流体力学その他各種の現象の解析に有効で、航空機の設計をはじめとする色々な、実世界方面に利用できるのである。

 人が誤判断するのは、必ずしも論理的に考える能力が劣るからではない。論理構成する前提となる事実に誤りがあることに気づかなければ、誤判断する結果となる。ある書物に書いてある間違ったことを正しい、と信じてしまえば、いくらその後の論理展開が正しくても、間違った結論が導かれるのである。



膨張するドイツの衝撃 西尾幹二・川口マーン恵美

 エマニュエル・トッドというフランス人が書いた本とよく似た内容を思わせるタイトルである。ところが、読んでみると、意外やドイツが膨張して帝国化する、ということはたいして書かれていないのである。それどころか、ドイツがホロコースト後遺症に悩まされていて、悲惨な状態にある、という印象の方が強い。それでも、二人はドイツの事情に詳しいから、本としては興味深い。ドイツの事情を日本人がいかに知らないか、よく分かる。

 ナチスドイツが第三帝国と呼ばれたのは、神聖ローマ帝国、ビスマルクのドイツ帝国の次だからだ(P4)そうである。神聖ローマ帝国がドイツ帝国だとは、迂闊にも知らなかった。しかも、フランスなどを含み、現在のEUとかなり重複し、帝国を統括する行政機関もナショナリズムもなかったこともEUに似ているのだそうだ。

 だが帝国というものは、行政機関はともかく、ナショナリズムはないものであろう。元朝も清朝も、モンゴルや満洲と言う中央行政機関はあったが、元人や清人と言えるナショナリズムはなかった。米国は多人種国家ではあるが、ナショナリズムらしきものはある。中共は中華民族と言うナショナリズムを鼓吹しているが、成功はすまい。米国と中共の違いは、元や清と同じく中共は、地域別に民族が分布しているのに対して、米国は各地に多民族が入り混じっていることである。だから米国は分裂の可能性は少ないし、ナショナリズムの涵養の可能性はある。

 さて本に戻ると、EUでダントツなのは、ドイツである。残りはドイツのおまけか、利用されているだけであり、ギリシア人のドイツ憎悪は危険な水準にある(P4)のだという。なるほどドイツはホロコーストなどの補償はしたが、戦時賠償はしていないから、ギリシアが苦し紛れに賠償金をよこせ、というのも一理ある。日本と違い、ドイツはどこの国とも講和条約を結んでいないのである。

 日本でドイツに好感を持っている人は多いが、ドイツ人は日本嫌いが多いそうである。日本にある「ドイツ東洋文化研究会」なるものは反日的ドイツ人の集まりで、西尾氏もかつてはよく行ったが、人気のある日本人は反日の知識人、例えば大江健三郎、加藤周一、小田実が歓迎された(P26)そうであり、ドイツ人は彼等を神のように持ち上げていたのだそうだ。

 ドイツと中国の関係については、戦前の軍事顧問派遣など、協力関係があった。ドイツから現在も接近している。にもかかわらず、ドイツを訪れた習近平主席が、ホロコーストの記念館に行きたいと打診した時、メルケル首相は断っている。それは、中国の日本叩きに利用されたくない、という意思表示(P36)だそうである。ドイツが中国に接近するのは、ドイツが中国で被害を受けていないからである。日米は共に、人的経済的に多大な被害を受けている。イギリスなどは、香港人なる人種を作った位だから、儲けていたのだろう。

 情けないのは日本で、岡田克也民主党代表は、メルケル首相と会談した時、メルケル首相が「日韓関係は和解が重要だ」と発言したと述べた。ところが、ドイツ政府は「そんな事実はない」と否定したのだ(P37)。外国政治家の発言を使って嘘をついてまで、自国を貶めようとする岡田氏は、国際水準からは政治家失格である。


 ドイツはユダヤ人虐殺のレッテルを貼られ苦しんでいる。しかし、ドイツも恐ろしい被害を受けている。「ドイツ全体では、ソ連兵による婦女暴行が五十万件、米兵によるものが十九万件とされます・・・ドイツの敗戦が決まってからは、追放されたドイツ人の逃避行がそれに加わり、・・・死者と行方不明者は合わせて三〇〇万人と推計されています。(P107)」 すさまじい数字ではないか。米軍は人道的である、というのは宣伝に過ぎないのだ。

 ところがドイツでは最近、マスコミが突如として、敗戦後に受けたドイツ人の迫害を語り始めた、というのだ。それまでは、そういうことを言うと、ホロコーストを持ち出されるので、絶対に言えなかった。ドイツの反撃は始まったのである。川口氏の子供たちはドイツ人だと言うから、ドイツ国籍があるのだろう。ドイツの公式な立場としては、ホロコーストはナチスの犯罪で、法的に一般のドイツ人には関係はないが、同じドイツ人として賠償する責任だけはある、という立場である。

 しかし川口氏の子供たちは、自分が生きた時代ではないし、自分がしたわけではないから、なぜ自分たちに賠償責任があるのか、というのだそうである。まして日本人とのハーフである。そして、外国から移民して帰化しても、ドイツ人だから賠償責任がある、などと言われたらたまったものではない、というのは当然であろう。

 日本の戦時の慰安婦問題が、性奴隷として米国で中韓と反日日本人によって宣伝されている。ドイツ国防軍が日本と異なり、直営の売春宿を経営していた(P120)ばかりか、そこで使う売春婦とは、占領地域から女性を拉致して使っていた、というからまさに性奴隷である。ドイツは「『慰安婦』の苦しみの承認と補償」という国会決議をしようとしたが採択されなかった(P119)。それは決議をしようものなら、ドイツ軍の慰安婦制度の悪質さの全貌が出てしまうから、だというのだ。

 ドイツ軍直営の売春宿で、拉致された女性が性奴隷同然に働かされている、という翻訳本は、反日で有名な明石書店からも出されている。それなら明石書店関係者や同書を読んだ反日日本人は、ドイツのひどさと日本の慰安所とは違う、と分かるはずだと思ったが、逆なのであろう。ドイツ軍にもあるのだから、日本軍も同じシステムだろうと思い込むのである。誤解が解けるのではなく、日本軍の「悪逆」をますます確信するのである。

 この本では「EUは明らかに『難民の悲劇』に責任がある(P147)」というのだが、この時はまだシリア難民の大量流入という事態が発生していなかったから、EUは既に難民問題で苦しんでいたのである。EU、特にドイツという豊かな国があれば、水が高いところから低いところに流れるように、自然に難民が発生し、助ければ助けるほど期待して、難民は増える、という。ボートの難民が何百人も死ぬ、という事件が頻発しているのである。

 当時の難民はリビアが多く、予備軍は百万人はいるのだそうだが、リビアから難民が発生したのはNATOが介入してカダフィ政権を倒し、国家が消滅し密航の基地になっているからである。治安は乱れに乱れて、「殺人事件の発生率はカダフィ政権時代のなんと五万倍(!)といいます。こうした現象にEUは責任がないといえるでしょうか?なにが民主主義かと思いますね。(P150)


 西洋人の発展途上国に対する人道的干渉は、実にエゴイスティック、かつ惨憺たる結果になっている。世界で最も独裁的で、異民族の迫害を大規模に行っている中共を、経済的利益が得られるから丁重に扱っておいて、小悪魔に過ぎない、カダフィやフセインを殺すのである。ドイツは難民問題とともに移民問題もかかえている。帰化したものも含めたら、移民は膨大な数になる。しかも、移民は下層にいるから貧困にあえいでいて、すさんだ生活をしている。だから、移民のいる下層の子供の通う学校は崩壊している。ドイツ人も格差が大きく、そんな学校にしか通えない家庭も多いのである。

 ドイツの膨張を言いながら、ニーチェが「ヨーロッパの没落は二百年後」(P95)と予言し、それは2100年になるのだが、ヨーロッパの終焉が来つつある、という。終焉とは「乱れ果てた廃墟のような土地、貧しく荒れた世界・・・移民になって出稼ぎに外国へでていかねばならないような土地になる」ことだそうである。


 福島原発が被災すると、保守系では反原発を珍しく唱えたのが、西尾氏である。メルケル首相は原発問題でも狡猾である。反原発のSPD政権が野党になると、メルケル首相は原発の稼働年数を12年延長する、という法律を通した。ところが野党ばかりか、国民の反発がすさまじかった。

 これでは以後の選挙にも勝てないし、かといって法律も引っ込められない窮地に陥っていた時起ったのが、福島の事故である。これを奇貨とばかり、メルケルはSPD以上に過激になって、2022年までに全原発を停止すると決定した(P201)。ドイツの脱原発は票欲しさに促進されたのである。

 西尾氏の脱原発の理由には興味があった。川口氏は原発必要論者である。西尾氏は即原発停止ではないが、放射性物質が無害化される技術がない限りは、地震国日本では危険で、各種発電方法のベストミックスを求め、40年後に廃炉になったら、おのずと原発はなくなる、というのである(P211)

 原発は安いと言われるが、国税による研究開発費、地元対策費、廃棄物処理コストを加えると決して安くはない。西尾氏の不信感の根本は、地震にあるのではなく、原発にかかわる人たちの人間的劣悪さにあるのだという。原発にかかわる人たちとは、東電の幹部、東大の原子力科学者、経産省の幹部、原子力安全委員会委員長、原子力保安院幹部、原発メーカーの幹部など、全てが東大工学部原子力工学科出身者であり、いわゆる東大原子力村の面々だということである。


 米国の原発は元々軍事技術からきているため、「アメリカの原発はそうした軍事システムのうえで稼働していますから、常に最悪を想定し、警戒し、用意しています。(P214)」日本は「軍事的裏付けなしで、ただひたすら「原子力の平和利用」という掛け声のもとに進められてきた日本の原発は“戦後平和主義のシンボル”以外のなにものでもなかった・・・」

 つまり「日本の原発の『安全神話』は、その意味で、戦後日本の平和思想と国防への無関心・・・で形成された一種の“幻想”でした。(P215)」と言われると、保守の権化の西尾氏の言う理由は分かる。ちなみに韓国では海に面して原発があり、外壁に機関銃座があるのだという。テロリストに対して軍隊が守っているのである。これに対して日本の状況はお寒い限りである。

 西尾氏の反原発には興味があったが、一冊わさわざ読むのも、と思っていたので、うまく要約してあって助かった。だが、冒頭に書いた通り、ドイツに関しては、膨張するという迫力よりも、衰退に対してEUによって抗い、ナチスの後遺症で苦しんでいるのが、ようやく脱することを始めた兆候がある、ということが書かれている。小生は、ドイツ統一が成されたら、即動き出すと思ったが、ドイツは慎重だった。

 ドイツと英国が理由は異なるが、EU強化をめざしているが、行き着く先はEU崩壊か、神聖ローマ帝国型に落ち着くか、二択だという。世間の大方の予測は、EUの崩壊であろう。ドイツの利益が大きすぎるし、本来入れるべきではない異質な国家まで入れ過ぎたのである。西尾氏自身も、かなり前から、ドイツはマルクに回帰する、と言っているのである。



書評・ルーズベルトの責任

   日米戦争はなぜ始まったか チャールズ・A・ビアード・藤原書店


 翻訳に一点だけ気になることがある。「戦艦」という言葉がよく出てくるのだが、これが軍艦を意味していると思われる場合が多い。ルーズベルトが戦艦ポトマック号に乗って出かけたと書かれているが(P171)、ルーズベルトが使用した、海軍のUSSポトマックはわずか600t余だから、戦艦どころか駆逐艦ですらないかもしれない。明らかに軍艦と訳すべきものであろう。

 ところが、駆逐艦や巡洋艦と書かれている箇所もあるばかりではなく、実際に戦艦と訳すべきところを正確に戦艦と訳している箇所もあるからややこしい。最後の戦艦アイオワ級さえ退役して、現役の戦艦は世界中に存在しないにもかかわらず、どこどこの戦艦がと呼ぶ人たちがいまだにいる。彼らは軍艦のことを言っているのである。ちなみに、軍艦はwarshipで戦艦はbattleshipである。

 本書は精緻な学術研究書の如くである。実証のために議会とマスコミの報道をこれでもかという位に並べている。最初は武器貸与法が、欧州での戦争に参戦するきっかけになるから反対である、という意見と、その反対に英国を強化するから参戦を阻止すると言う議会でのやり取りである。後者は詭弁に等しい。

 かつての国際法は交戦国への戦争関連物資の供与は国際法違反であったが現在はそうではない、などととんでもないことを主張しているからだ。現に同時期の支那事変の日本への石油や鉄くずの輸出は、国際法上の戦争ではないから許される、という立場をアメリカはとっているのである。

 ドイツが国際法違反を主張しないのは、アメリカの本格的な参戦を恐れていたからである。中立法の改正というのは、武器の交戦国への輸出は中立違反ではないとする、とんでもないものである。中立法は国際法の中立違反を、国内法で勝手に合法としたものである。米国は一般的に西欧諸国に比べ、国際法に対して厳格ではなく、自己都合で行動する節が今でもある。

 倉山満氏によれば、ロシアは国際法をよく知りながら、あえて無視するという。この流儀で言えば米国は、国際法を自己の正義に従って、都合良く解釈するのである。さらに英国に支払い能力がないから武器を「貸す」ということにしたのが武器貸与法である。武器は消耗品だから貸すとほとんどが返ってこない。それどころかソ連などは武器貸与法で借りた軍用機などが残っていても全く返していない。

 次は物資の英国への輸送に、パトロールと称して、実質的に護衛をしていることへの議会での賛否両論である。これも賛成派は武器貸与法と同様に詭弁を使っている。ルーズベルトとチャーチルが会談した大西洋会談も同類で、ルーズベルトが参戦の約束をしたのか否かという論争があった。パトロール部隊がドイツの潜水艦を攻撃したのは、潜水艦の攻撃以前に、政府からの命令があったのではないか、という議論もされている。真珠湾攻撃を受けた時の海軍のキンメル大将と陸軍のショート中将を職務怠慢として政府が攻撃し、退役せざるを得なくなったことについても議論があった。

 戦争中に二人を軍事法廷で裁くことは、軍の機密を漏らすことになるので、戦争に不利をもたらすと言うので訴追されなかった。戦争の勝利が確実になりつつある時期にも訴追されないのは、政府や陸海軍上部では日本の真珠湾攻撃の可能性がある情報を持っていたにもかかわらず、故意に両将軍に知らせなかったためではないかという疑惑があったからである。

 また来栖特使との交渉が始まると、太平洋艦隊はずっと真珠湾に集結停泊していた(P375)という。これは戦争準備だと言うのだ。真珠湾攻撃の72時間前にオーストラリア政府は日本艦隊が真珠湾に向かっていると本土の米政府に警告し、警告は再度行われたが、この情報はハワイのショート中将には伝達されなかったと、ハーネス議員が陸軍委員会で追求した(P377)。

 さらに太平洋艦隊を真珠湾に集結するのは、日本に艦隊を全滅させられる危険がある、と反対した海軍作戦部長を、ルーズベルト大統領は通常の半分の任期で解任したと言う(P391)のだ。疑惑は武器貸与法の賛成者やパトロールの賛成者が、欧州戦争に参戦したがっているのではないか、ルーズベルト大統領も同様だったのではないか、ということである。真珠湾攻撃情報の隠匿も疑惑である。結局、上巻では全てが状況証拠による疑惑に過ぎず、文書等による決定的な証拠は提示されていない。

 ひどいのは、米軍がグリーンランドを占領した件である。米政府はドイツに利用されるのを防止するために、グリーンランドを「侵略」したのである。ところが記者会見でこのことを聞かれると「それは初耳だな!私が眠っている間の事に違いない(P31)」と笑ったと言うのだ。この当時のアメリカ大統領はマスコミも歯牙にかけない独裁者であったのだ。

 多くの日本の識者は日本の北部佛印進駐などをアメリカを挑発したというが、これは米英による武器輸送の仏印ルートの阻止であり、本国のフランス政府とも協議している。グリーンランド占領はもっと乱暴で、ドイツに宣戦布告したも同然である。日本の対支政策を米国が批判するのは勝手だが、禁輸などの戦争行為を実施されるいわれはない。当のアメリカはドイツを直接挑発していたのである。

 なお、昭和16年3月のギャラップ調査では米国民の83%が外国の戦争に参戦するのに反対(P111)であったというのだがあてにはならない。人は戦争に賛成か反対かと言われれば、無反対というに決まっているからだ。現に国際法上の参戦となる中立法の改正や武器貸与法は圧倒的多数の賛成で成立した。この背後には多くの支持者がいるからである。

 アメリカの政治家、有権者、法律家やマスコミはこれらの法律の意味を知らないほど愚鈍ではない。戦争には反対だが、英国の崩壊とナチスドイツの台頭は許さないのである。即ちこれは参戦を意味する。現に駆逐艦への独潜の攻撃に対して反撃したと大統領が発表するとホワイトハウスに膨大な反響が届き、8対1で好意的だったというのだ。ここまでが上巻である。

 下巻だが、これも結局は状況証拠であった。例によって色々な報道や関係者の意見を倦むことなく提示する。ニューヨークタイムズ紙の昭和20年9月1日付けの新聞にハルノートについて「・・・合衆国政府が意図的に日本を、高圧的で独断的な難題でもって挑発し、戦争に追い込んだのであり、日本がわが国を真珠湾で攻撃したのは、この「最後通告」に対して唯一回答可能な返答をしたのだった、という結論を下しても、許されるのかもしれない」(P453)と書く。

 戦後もアメリカではルースベルトの開戦に至る政策を擁護する多数派と、故意に日本を戦争に追い込んだという少数派の議論があった。多数派は真珠湾攻撃は、いわれなき侵略行為であり(P480)合衆国の外交政策と行動は、日本のこの国に対する攻撃を正当化するような挑発行為にはまったくあたらなかった(P481)というものである。

 これに対して議会の委員会で少数派はスティムソン、マーシャル、スタークらの陸海軍首脳の会議で「次の月曜日(12月1日)にも攻撃される公算が高いとし、わが国にさほど甚大な危険を招くことなく、奴ら(日本)が最初に発砲するように誘導するか、という問題を議論した(P496)という結論を提示した。

 だが、多数派ですらルーズベルト政権は、単に対日戦絶対反対ではないと考えている。当時の国務次官補のパーリーは中立と孤立主義からの転換を1938年頃だと見ている。その証拠は1937年10月のルーズベルトの隔離演説である(P561)としているが、隔離演説は秘密でも何でもない。

 何とルーズベルトの追悼演説にすら、武器貸与法などの連合国への支援があきらかな参戦行為でありながら「大統領はこの一連の込み入った動きに携わりながらもわが国による侵略行為が外観として現れることすら回避すべく巧みになされたのである。」(P564)としているのは当然であろう。武器貸与法やグリーンランド占領などが参戦行為だと言わないのは児戯に等しい。単にドイツ軍と砲火を交える本格的参戦ではないだけである。

 親日派として知られるグル―大使ですら「・・・日本の制度、政治、党利、そして調和を重んじる日本国民と好戦的な軍国主義者の間の激しい対立によく通じていた」(P669)と書くのは著者の見解でもあろう。知日派と言われる人たちですら、日本人を理解してはいなかったのだ。興味深いのは、日本の外交暗号は解読されて「マジック」と呼ばれ、日本側の日米交渉の意向は全て米国に筒抜けになっていたことは以前から知られていたが、このことを公式に認めたのは1980年であったということだ。

 著者の独自性は、これらの状況証拠を執拗に追求したことではない。多数派は、「ヒトラーの専制政治を打倒するために」必要だと言われた戦争を開始するためには国民を欺くことさえやむを得なかったということを念頭において詭弁を弄した。少数派は「ヒトラーに対して中立であるという考え方自体が一九四一年に恥ずべきものだったとするならば、テヘランやヤルタで平和と国際的友好の名のもとに交わされた約束はどう評価されるべきなのか。」(P757)として結局は「ヒトラーの体制に劣らず、専制的で非情な新たな全体主義政権」(P756)を強化したことを非難する。

 著者がこの本で追求したかったことは、ルーズベルトが詭弁を弄して国民を欺き戦争を開始したこと自体にあるのではない。目的が違法な手段を正当化することにより、憲法のもとで議会に与えられた権限を欺瞞により実質的に大統領が奪ってしまったことを言いたいのだ。そして議会制民主主義を破壊しかねないことだ。こうしたことがかえって専制の危険をまねいたことである。そのことをエピローグで執拗に訴える。

 「・・・合衆国大統領は再選を目指す選挙の議会の運動期間中に、この国は戦争に参加することはないと国民に対して公の場で約束しておいて、選挙に勝利した後、国に戦争をもたらすための、あるいは戦争をもたらすことが事実上必至の行動に密かに乗り出してよいことになる。」「合衆国大統領は、その秘密の目的を推進する法律を成立させるため、連邦議会と国民に、その法律の趣旨を偽ってもよいことになる。」「アメリカの軍隊を投入して第三国の領土を占領することを、実際に合衆国大統領として約束しておきながら、公式発表では新たな約束は交わされていない、と宣言してもよいことになる。」「・・・いかなる条約の同盟よりも、合衆国の命運にとってはるかに重大な影響をもたらす秘密合意を外国政府と結んでよいことになる。」「合衆国大統領は、特定の外国政府を合衆国の敵であると勝手に決めつけて、そうした国に対してこれまでのところ、合衆国で受け入れられ強制されてきた国際法の原則と国内法に違反して、随意に戦闘を起こす権力を求めることができ、連邦議会も従順にこれを大統領に付与できるということになる。」(p762~763)

 引用はこれで充分だろう。この著書を書く以前からルーズベルトの政策に批判的であったビアードは、第二次大戦戦勝のムードから大きな批判を受け、中傷もされたという。当然であろう。このような米国人を見るたびに思うのは、日本では異論は受け入れられない雰囲気がある、というのは嘘だということである。米国でも異論はビアードのように排斥される。

 しかし、それを恐れない強烈な個性があるかどうかが違うのである。かのミッチェル准将は、軍艦に対する航空機の優位論を唱え空軍の独立を強烈に主張したために、ある事故を口実に陸軍を追放された。もうひとつ感じるのは、西洋人の唯我独尊の考え方である。米国は勝手にグリーンランドなど他国の領土を占領しても平然としているのに、日本が協定により仏印に進駐するなどの行為をしても侵略とみなすのである。ビアードにもこの放漫はある。今の日本人は、これらの不条理を感じないように洗脳されつくしている。

 ビアードの検証を読んであらためて、当時の米国民の大多数は実は、欧州への参戦に賛成であると考えていたことを実感した。なるほど大統領選挙の際には不参戦は約束された。世論調査も圧倒的に参戦反対である。戦争に参加したいか否かと聞かれれば、反対と答えるのは人情であり建前である。ところが、本書が論証したように、実質的に参戦である武器貸与法や英国への物資輸送の米海軍のエスコートに賛成し、グリーンランド占領に賛成した議員やマスコミは、戦争への道ではないと明らかな詭弁を弄した。

 しかもこれは多数派だったのである。多数派だから法律は成立したのである。国民はその議論は詭弁であるとは非難しなかったし、反対派もその点を突きはしなかった。国際法の中立違反、すなわち正確には参戦行為であることを充分に知っている、国際法学者も非難の声を上げることはなかった。少なくとも世論を動かすような発言はしなかった。

 できるはずなのに、米国民の特性である激しい批難はしなかったのである。議会の多数派の支持者は国民の数に於いても多数派である。つまり建前は戦争反対だが、暗黙の了解のもとに戦争への道を支持したのである。

 それではなぜ世論調査は圧倒的に戦争反対の声をあげたのか。多数派は戦争にはならないからというのは嘘だと知りつつ、武器貸与法などの法律に賛成したのであり、少数派は戦争になるから反対した。つまり、どちらも上っ面だけみれば、戦争に至らない道を求めていた、と言うことになる。だから多数派も世論調査では戦争反対の声を上げた。世論調査が戦争反対の結果を出すのは当然である。

 多数派でも少数派でもなく、公然とヨーロッパへの戦争に介入すべきだと主張した人たちがごく一部にいる。彼らだけが、世論調査で戦争賛成の声を上げたのである。これが世論調査では戦争反対が圧倒的であったのに、実は米国民の多数が参戦すべきであったと考えている、という一見矛盾した事態のからくりだと小生は考えている。

 脱線するが、ブロンソン・レ―という米国人は、戦前、満洲国出現の必然性、という著書をあらわし、米国流の正義を敷衍して、満洲国の正統性を主張した。その中で、何と自身が米西戦争の原因となったメイン号爆沈の犯人がスペインではなく、限りなく米国自身であったと言う証拠を現場で発見しながら、スペイン人に渡すのを拒否したと告白している。これが米国人の正義の一端を示している。小生はレ―氏の欺瞞を非難しているのではないことを付言する。

 閑話休題。戦後も同じである。多数派は、キンメル大将とショート中将が真珠湾攻撃の責任を取らされて解任されたのち、訴追されなかったことについて追及をしなかった。少数派は、ホワイトハウスにやましいことがあるから訴追しなかったと追及した。開戦直後は軍事機密があり、法廷での証言は戦争の遂行に支障をきたす、という弁明がなされたが、戦争が終わるとそれも通用しなくなった。両司令官が解雇ではなく、自発的に退職したことにさせられたことについても少数派は疑惑の目を向けている。解雇という不名誉な措置は、両司令官の何らかの反撃に出ることになるとホワイトハウスは恐れていたというのだ。

 私はこの本の上巻を読み終えてルーズベルトが戦争への道を裏で画策していたということについては、この本は結局は、他の本と同じく状況証拠しか提示できないであろうと推測したがやはりその通りであった。私はある時から米国民の多数派は欧州への参戦に賛成であったという確信をもつようになったが、世論調査は参戦の直前まで圧倒的に戦争反対であったと言う矛盾を解消できなかった。しかし、本書で米国での戦前戦後の論争を読んで、この矛盾を解くことが出来た。これが最大の収穫である。



昭和の精神史・竹山道雄・講談社学術文庫

 昔読んだことはあるとは思うが憶えていない。大東亜戦争肯定論(番町書房版「続」のP297)に引用されていることから、再度読んでみた。当然ながら、意外な部分とそうでない部分があり、不思議な感じである。竹山氏といえば、生前に朝日新聞の投稿で、ビルマの竪琴を書いた人が、こんな発言をするなんて、という非難があった。どんな案件か忘れたが、竹山氏が反戦主義と思ったら、それに反する発言をしたという非難である。

 講談社学術文庫には昭和の精神史と手帖というふたつがおさめられている。林氏が引用しているのは「昭和の精神史」の、軍部ファシストの反乱の失敗が、かえって強力な軍部ファシズム機構の完成に導いた、という左翼の見方の矛盾の指摘である。最初から日本の軍部はファシストで、最終的に軍によるファシズム支配が完成した、という結論があって、それを二二六事件と言う、軍部による軍部に対する反乱の側面もある、現実の出来事に無理やり適用したことによるインチキな結論である、というのが竹山氏の主張であり、正しいのである。

 だが、全体を読み通すと、さすがの竹山氏も、時代の風潮を乗り超え切れなかった風がある。昭和の精神史からいくと、上からの演繹の間違いを否定するが、それは結局マルクス主義の批判である。結論が先にあって、それに都合のよい事実だけ取り上げる、という昔からの日本のマルクス主義者の決定的間違いを否定したのである。

 二二六事件に関しては小生には素直に納得できる解釈がされている、と感じた。最近の論者でも北一輝などの関係者が隠れ共産主義者で、首謀した軍人も似たようなものである、などとも言い得るように、二二六事件は考えれば考えるほど複雑怪奇な事件である。竹山氏の見解はもっと素直に、首謀した軍人たちは、全員が窮乏した農民の出身などではなく、単に彼等に同情し政財界の腐敗に憤慨しただけなのである、というものである。

 複雑に見えるのは、それに便乗した軍首脳や政治家などの関係者がいて、それらが連携しておらず、連携していない人たちは当然思惑が違うから、二二六事件は矛盾だらけに見えるのである。だから、矛盾を強いて解こうとすれば複雑怪奇な迷路に入っていって、どんな陰謀説も出来てくる。だが事件が起った直接の原因と首謀者の意図は、彼等の遺書や言動をそのまま読めばよいのである。竹山氏は直截にそうは書いていないが、そう言いたいのであろうと思う。

 竹山氏は、もし戦争をせずに内乱が起きて、主戦主義者が覇権を握ったら、結局戦争への直線コースとなっていた、という緒方竹虎の意見を紹介して賛意を表明している。竹山氏は林房雄氏と異なり、大東亜戦争を国内的要因だけに帰し、外的要因の巨大さを考慮しないと言う、現在の日本人にも共通する倒錯をしている。

 確かに昭和三〇年に書いたという、林氏の10年前の時点である限界を免れなかったとは言うものの、大東亜戦争に突入するときに既に壮年に近かった人の意見としては、大東亜戦争に至るまでの、世界情勢に対応する日本の苦衷を後世の若者に残してもよかろうと思う。長谷川美千代氏が「からごころ」で大東亜戦争肯定論を、同時代の若者を元気づける、と言ったのは正鵠を得ている。小生自身も維新以後の日本の正当性をようやく主張してくれた人が出てきた、と思ったのである。

 竹山氏の世代は知識人としてそれをなすべき世代だったのである。だが、GHQの策謀に容易に絡めとられた。竹山氏の世代は戦前戦中の日本の正義、というものを知っていたはずである。軍部の相克や政財界の腐敗があったのは事実であるが、世界史的に日本が苦衷にあったと言うことに比べれば、些末であり、本筋に据えるべきではない。

 竹山氏の誤謬は、「手帖」のローリング判事への手紙、という項に如実に現れている。ローリング判事は、日本人の美徳を知っているからこそ、「この日本人がどうしてああいう残虐なことをしたのだろう?」(P280)と質問したのに対して、ある日本人が日本は封建制が清算されていないから、と答えると、日露戦争の日本軍将兵は欧米では敬意を持たれていたのに、日本は今度の戦争ではどうして?と反論した。

 それに対し日本人は、温存された封建性が明治以後増大した、と答えたのだ。まるで司馬遼太郎のようである。しかし竹山氏は、そんなことがあろうか、と反問する。むしろ封建性が衰弱して日本人を支えていた精神体系がくずれていって、邪悪なものをときはなったのではないか、と結論する。原因はともかく、結論は司馬と同じなのである。竹山氏はGHQが宣伝した、バターン死の行進、南京大虐殺その他の、ねつ造された日本軍の残虐事件について、何の疑問も持たずに受け入れているのである。

 日本人の心の中には、元々邪悪なものがあって、精神体形が崩れれば、邪悪なものが顕在化する、という竹山氏の考えは、憲法九条を改正すると日本は侵略戦争を始める、危険な民族である、という日本人不信の護憲論者と、結論は同じとしかみえない。

 ローリング判事は西洋人だから当然としても、同時代の日本人として、何かおかしい、と疑問を持たないのだろうか。むしろ、ローリング判事は、日露戦争などの結果から、日本人が残虐性のない民族だと信じていて、今次大戦で言われている残虐行為なるものをにわかに信じられない、というわだかまりが、心の奥にあるのではなかろうか。小生の若い頃、終戦直後の日本では手紙を米軍に検閲されていた、と話してくれた年寄りがいて、当時は半信半疑だったが、今思えば本当だった。米軍による検閲や洗脳、ということを、同時代人は常識として知っていたのである。さすがにパル判事は日本軍の残虐行為というものを全て真に受けることはしていなかった、と思う。その根底にはインドでお前ら英国人がしていたことは何だ、という気持ちがあったのだろう。

 記憶違いでなければ、大東亜戦争肯定論には、一切巷間言われていた日本軍の残虐行為には触れていなかった。読後感の一つとして、言われている日本軍残虐行為に対して、弁護や弁解が欲しかったと言う記憶がある。巷間流されている情報に対して、裏を取れない現在では触れるべきではない、と思ったか、大東亜戦争肯定論の本質とは関係なし、と思ったかのいずれかか、両方かである。いずれにせよ、触れなかったのは林氏の見識である。



未完の大東亜戦争・渡辺望・アスペクト
 
副題・日本の戦後をゆがめ続ける本土決戦の正体

 久しぶりに大東亜戦争論で、衝撃を受けた本である。従前の本土決戦についての論考とは、どこに米軍が上陸を予定していて、日本もそれを読み切っていたうえで、上陸後の住民を巻き込んで、凄惨な戦いを続け、結局は松代の大本営が降伏する、という戦闘シミュレーションものがほとんどであった。


 本書では、そればかりでなく、思想方面に展開し、現代に到るまで未完の本土決戦思想が影を落としている、ということまで言うのである。だが、最後に本土決戦アニメとしての「宇宙戦艦ヤマト」をもってきているのは、小生にはいただけない。むしろ、冒頭にこの文章を持ってくる方が、カルチャーショックも含めて、現在も日本人は、どこかに未完の本土決戦に対する思いがある、という刺激的な表現が強くなると思うからである。

 勿論、この文章を相当修正しないと、トップに持ってくることはできないのだが。アニメを結語的な部分に持ってこない方が良い、というのは偏見によるものではない。小生は活字の書籍とともに、漫画でも本に親しんだ世代で、アニメも初期から見ている。活字でなければまともな本ではない、という世代ではない。

 松本零士の戦場もののコミックは好きだし、宮崎駿などのように、相当な武器マニアの癖に強い反戦、戦争忌避の思想を持っている、という性格ではないからである。ただ松本も少々日本的リベラルの影響は受けていることは否めない。しかし、宇宙戦艦ヤマトの元の発想が、ブロューサの西崎義典でアニメが先行しており、その後松本の他にも、豊田有恒が加わっていた、というのは知らなかった。

 しかも軍艦は、三笠、長門、大和と変遷していたというのも知らぬ話だった。この順番は、想像するに、絶対的な勝利者、国民の憧れの軍艦の象徴、秘密のベールに包まれて密かに悲劇の敗北をした、というように、期待の星から段々悲劇性を増していったということであろうか。

 考えてみれば、「世界的には当たり前の『本土決戦』」というのは確かに当たり前で、世界史上、戦争の9割以上が本土決戦の形で戦われているそうである。以前ブログなどにも書いたが、現在の日本人は特に本土決戦、ということに拒否感情を持つ。しかし、そういう人ほど専守防衛を言うのだが、専守防衛とは本土決戦そのものである。

 日本が講和を受け入れたのは、原爆投下が原因ではなく、ソ連の参戦が大きな要因を成していた(P163)というのも本当であろう。逆に言えばソ連が参戦しなければ、原爆が投下されても、講和はなかった可能性があるということである。

 ひとつ異見がある。東郷外相が「天皇の国法上の地位を変更しないという条件のもと宣言を受諾する」という穏当な回答案を書いたのに、平沼枢密院議長が「天皇の国家統治大権を変更しないという条件のもと宣言を受諾する」という強硬な文面に強硬に変更させた。そのため米国は疑心暗鬼になって「天皇は連合国最高司令官に従属する」とでも訳すべき文章を追加した、というのである。

 もし東郷案が「受け入れられていたら、ポツダム宣言受諾条件に拘束されたアメリカは平和憲法の押しつけなどはできなかったかも知れないのだ。(P170)」というのだが、甘い考え方であると同時に、論理矛盾である。ポツダム宣言に拘束される、ということは国際法を守る、ということである。アメリカが国際法を守るなら、そもそも憲法を変えてしまうという、より重大な国際法違反を犯すはずはないのである。その上、ポツダム宣言受諾と言う条件付き降伏であったのを、国家の無条件降伏であるかのようにすり替えて、その後の占領政策を行った。この意味でも米国がポツダム宣言に拘束されようはずもない。

 もし、日本が本土決戦を行ったら、戦後はどうなっていた、と言うことに関しても興味深い見方を提示しているので、ぜひ読んでいただきたいと考える次第である。ひとつ不満を言うと、アメリカにも日本本土上陸で相当の損害が出る、と予測されていてトルーマン大統領になってから、それに対する恐怖心から本土決戦を避ける動きが大きくなっていった(P101)というのであるが、もし日本がポツダム宣言を拒否した場合にでも、米国が本土決戦を避けて、講和したという可能性について書かれているかと期待した。

 しかし話の展開はマッカーサーが誇大妄想的ヒロイズムから、本土決戦に固執して、やり残した本土決戦の代替として、朝鮮戦争に臨んだ、となっている。ベトナム戦争についても、やり残した本土決戦と言う見方もある、という考えを書くのだが、こうしたマクロな見方が本書の魅力でもある。



最後の勝機・小川榮太郎

 昭和40年代生まれにしては、珍しく歴史的仮名遣いで通している。小堀佳一郎氏はもちろんのこと、長谷川美千子氏ともずっと、年代が若いのである。歴史的文献として鴎外の「仮名遣意見」をあげているのは懐かしい。ただし、同じ歴史的仮名遣いの本でも、戦前のものに比べれば遥かに読みやすい。理由には文体もあり、漢字が略字であるからでもある。徹底するなら漢字も略字を止めたらとも思うのである。この書評では引用も現代仮名遣いにした。パソコンで、歴史的仮名遣いにするのは面倒だからである。


 閑話休題。氏は安倍総理に期待することが大きく、この本もそのために出したようなものであろう。街の商店街が駄目になったのも、農業の衰退も過保護や無気力のせいである、(P78)というのはその通りである。だから大型店が来る前から「商店街の店先には、ステテコ一丁で日がな一日パイプ椅子に座って時間を消している親爺がわんさかいた。」と言うのは痛快である。

 アメリカ問題についても、根本は日本人の側にあるのだ、ということでGHQの対日政策のせいにするのは間違いである、というのもその通りである。だが「大東亜戦争当時の日本は、アメリカにとって本当に怖かった。国力で一〇倍以上差があるのに、一歩、いや二歩位間違えたら敗北しかねなかった。(P84)」というのは事実であるにしても、だから精神的武装解除をして叩きのめしたのは、勝った側からすれば当然、というのは少々いただけない。現にドイツに対しては日本ほど徹底していない。

 単に氏が「やられた日本の側の思いを私が今なお、どれだけ痛切に感じ、今でも無念と復讐心に駆られて慟哭する」というだけの問題ではない。負けた側の法律や制度等を変えてはならない、という国際法の要請は、普遍的理念、と言ってもいいと考えるからである。アメリカの「当然」はある、というのだが、ここまで言うと「中国の当然もある。」と茶化したくもなる。確かにアメリカに頼ってアメリカの批判だけするのは、真のアメリカからの自立にはならない、と氏が言うのは事実である。それが戦後日本のジレンマである。

 靖国神社について「梅原猛氏などは『靖国神道は自国の犠牲者のみ祀り、敵を祀ろうとしない。これは靖国神道が欧米の国家主義に影響された、伝統を大きく逸脱する新しい神道』だからだ、怪しからん(P112)」と言うのだそうだが、小川氏の言う通りもし伝統から外れるとしても、近代日本が緊急に必要としていたから、それが歪んでいても仕方ないのである。


 そして靖国神社を批判する人たちは「靖国を断罪し、無い物ねだりしながら、文体や論法に、靖国の祭神のみならず、戦死者全般への慰霊の心情が、嫌になるほど感じられないことです。(P114)」というのは当然であろう。彼等は戦争は絶対悪なのだから、そもそも戦死者を慰霊することなど考えられないのである。

 保守の思想を江藤淳が理論的な「イズム」ではなく「感覚」である、と言っているのに対して、中川八洋氏は防衛するという「自覚」に強く立てば明確なイズムでなければならないと批判した(P159)というのだが、日本の現状に即して見れば微妙な話である。

 「江藤のいう『感覚』は保守の基盤、しかしイズムとしての保守主義は、中川氏の云うように、それを守る為に主として英米で形成された思想だ。(P161)」と総括して見せて、こんな基本合意すらないことが保守層内部の紛糾の原因になっている、というのである。これで納得はできるのだが、中川氏は小堀桂一郎氏すらインチキ保守だと断言したことがあったと思う。とにかく論理は明晰であるがエキセントリックな人物である。

 中川氏で思い出すのは、パネー号事件のことだったと思うが、旧海軍の奥宮正武氏と雑誌で誌上論争をしたことである。月ごとに交代で相手の意見に反論するのだが、奥宮氏が戦争とパイロットの経験を持ち出して、素人には分からんだろうが、という調子で反論するのに、コテンパンにやっつけてしまって、どう見ても中川氏の圧勝だった記憶がある。

 日本は元来保守的であるが、保守政治思想の研究が皆無である、といい、「・・・日本の近代思想を、幕末水戸学、福沢から、福田恆存、桶谷秀昭、江藤淳、西尾幹二らに至る骨太の系譜として押さえておく必要がある。・・・中川氏の『保守主義の哲学』が取り上げているような西洋保守思想の古典的な理論書の共有も必要だ。(P181)」と書くのを見れば、氏が幕末以来の誰に信頼を置いているかが明瞭となる。


 北方領土問題について「最近の安倍氏が、北方領土返還と日ロ平和友好条約締結への強い意欲を言葉にし始めたことだ。(P235)」と言うのは贔屓の引き倒しである。「首相にそれなりの感触があるか、領土問題と平和条約をセットにして解決するならば、ロシアにも大きな利益になるぞという強いサインかの、いずれかでしょう。(P235)」というに至っては、氏はなぜここまで甘い考えを持てるのであろうか、と不思議でならない。

 沖縄ですら、米軍基地の恒久化という実を与えて、施政権の返還と言うメンツを日本は交渉で得た。注意しなければならないのは、施政権の返還と言っているのであって、領土主権の返還とは言っていないことだ。ましてロシアは平和条約がなくても、日本との関係は維持している。領土返還する理由がない。断言する。北方領土はロシアの経済破たんや政府崩壊による混乱、あるいは戦争などがなければ、いくら交渉してもただの一島ですら帰ってこない。これが歴史の常識である。

 小川氏は安倍氏に絶大な期待を抱いている。佐藤内閣以降、このような期待を抱かせる宰相はいなかったから無理もない。賛成である。だが安倍内閣も永遠ではないし、全ての懸案を解決できるものでもない。第二第三の安倍氏を国民が育てる必要があるのだろう。まともな政治家が出てくると、右翼のレッテルを貼る、多くのマスコミには期待はできない。



大東亜戦争肯定論異見

 長谷川美知子氏の「からごころ」という評論集に収められた「大東亜戦争『否定』論」に刺激され、久しぶりに、続・大東亜戦争肯定論の一部を読み返して、特に中国及びそのナショナリズム観に両氏に共通した違和感を感じたので、これを書いた。大東亜戦争肯定論は、当初雑誌の連載ものだったものを番町書房が、大東亜戦争肯定論と続大東亜戦争肯定論の二分冊で出版したもので、最近ではまとめて、大東亜戦争肯定論として文庫になっているので入手しやすい。

 からごころの書評にも書いたが、大東亜戦争肯定論で敗戦後のアジアで林氏は中共に大きな期待をよせていた。相当昔に読んだのに、小生にその記憶が微かに残っていたのは、他の点については、学ぶことばかりだったのに、その点にだけ違和感があったからだろう。

 手元にある「続・大東亜戦争肯定論」(昭和43年版) にはこんなことが書かれているから、間違いではなかろう。

 「アメリカは決して決定的にアジアに侵入し得なかった。ソ連もまた中共に反撃されてアジアからの後退を余議なくされつつある。今は北鮮も北ベトナムもインドネシアも必ずしもソ連の衛星国とは言えない。(P436)」「新しい『アジアの英雄』となった中共が、彼らの轍をふまないことを望む。宇都宮君がこんど毛沢東、周恩来、陳毅、廖承志の諸氏に会ったら、ぜひその点を忠言してもらいたいものだ。(P458)

 彼らの轍とは、ナショナリズムは必ず膨張主義に転じ、アメリカもソ連もそれゆえ、アジアを攻撃している、というのだ。それにしても中共がアジアの英雄だと言うのは、今の東アジア情勢をみれば、ただごとではなかろう。そして毛沢東ら政府首脳にこれだけの期待をしているのだ。しかも、ソ連の衛星国とは言えまいとして、アメリカやソ連に対する反撃の旗手として示されている三国のうちに、北ベトナムや北朝鮮も入っているのだ。

 面白いのは、中国や朝鮮民主主義人民共和国、と呼ばずに中共や北鮮あるいは北朝鮮と呼んでいたのは、これらの国に批判的な人士であって、共産主義には反対してはいても、これらの国に期待していた林が、このような略語を使っていたのには、少々奇妙な感がある。

 小生の思想遍歴の事始めとして、歴史について考えるようになったのは、小学校の終わり頃からで、なぜ今の世界では日本とドイツだけが悪い戦争をした、と言われるのだ、と不可解に思った。

 答えはすぐ出た。両国とも戦争に負けたからである。しかし、それを裏付けるものは何もなかった。巷間の刊行物で読んだものは、英米は人道的で、日独は残虐な侵略戦争をした、というものしかなかった。テレビや映画の戦争ものも同様だった。

 そんな時、昭和史の天皇という連載記事が読売新聞に掲載された。大いに期待したのだが、従来よりはまし、と言う程度で納得できるものではなかった。そこで、昭和43年頃、偶然本屋の棚で見つけた、大東亜戦争肯定論は衝撃的であった。今読み返してみると当時の小生に、それを読みこなすだけの素養はなかったのだが、それでも基本的には小生の期待を全て受け入れてくれていたのである。

 そこで長谷川氏の評論で思い立って読み返すと、別の違和感があった。ナショナリズム観である。日本についてだけいえば、国民国家の形成、という維新の成果は、ナショナリズムの勃興と言えよう。林は日本のナショナリズムについて「圧迫されたアジアの諸民族に対する愛情はたしかに深かったが、同じく英米露の武力制圧のもとに苦しんでいる日本への愛情はより強く、日本の生存のため、満蒙占領の必要をまず認めざるを得なかった。(P449)」というのである。

 その結果ナショナリズムが勃興した国々の指導者が反発した、というので、例として孫文とガンジーの日本への反発を挙げている。長谷川氏も中国のナショナリズムを挙げているのだが、両氏の見解とも小生には異論がある。ナショナリズムを国民国家の形成の原動力と考えれば、今も辛亥革命当時も中国という国家全体を覆うナショナリズム、というのはあり得ないからである。

 脱線するが、孫文は当時の日本人には、支那の救世主として期待されたが、単に革命の旗印に過ぎず、実態を伴っていない。また、ガンジーの非武装抵抗も、結果的にインドの独立を達成した者ではなかった。欧米人がガンジーの非暴力抵抗を称賛するのは、実は植民地支配からの独立に力がなかったからである。つまり、平和的にインドが独立したかのようにみせるには、ガンジーは欧米人には都合がよかったのである。

 マクロに見ても、現代中国の国民と言うのは、漢民族と少数民族と呼ばれる人たち、チベット、ウイグル、モンゴルなどを代表とする「少数民族」から構成されている。国民国家を言語、文化、歴史等の共通の要素で構成され、国民としての紐帯意識がある国家、だとすれば、中国が国民国家ではないと同時に、漢民族ですら、ひとつの国民国家を形成し得ないのである。

 漢民族が居住する地域ですら、現在のEU位の民族の幅がある。EUがひとつの国民国家に成り得る、と考えるのと同じ位、漢民族によるひとつの統一された国民国家とは荒唐無稽である。

 林は「・・・ネールの指摘したとおり、ナショナリズムは自己解放と国内改革に一応成功すると、膨張主義に転化するおそれがある。(P427)」として、前述のように中国を自己解放と国内改革に一応成功した段階と看做したから、毛沢東などに膨張主義に走らないよう、忠告してほしい、と言うのだが、中国の戦後史を今の目で見れば見当違い、という他ない。

 第一、ネールの説自体実証的ではない。南北統一したベトナムが、フィリピンやインドが独立して安定した時、膨張主義に走ったと言う事実はない。膨張主義に走ったと言う事例は、アジアでは戦後唯一中国だけである。その他の国は、自国の領土を保持するのに汲々としているだけである。

 しかも、中国の膨張は、歴代王朝の歴史的法則をなぞっただけなのである。林が毛沢東に忠告してほしい、と言った時、遥か以前に、チベットその他で国土の膨張を終了していた。忠告を聞く耳を持つはずはないのである。だが小生も当時は中国の統一幻想にとらわれていた。

 正直に告白すると文化大革命の騒ぎの時も、毛沢東の行動を変だとは思いつつも、毛沢東は混乱の中から中国の統一を成したから偉大である、と規定していた。文章を読む限り、林も同レベルではなかったろうか。なぜなら、毛沢東の統一とは、先に上げたようにチベット、モンゴル、ウイグル等の非漢民族地帯を含む清朝の版図である。

 昭和40年の段階では、既にこれらの侵略を完了していたのである。その時点で今後の膨張をしないように忠告する、というのは、清朝の版図まで拡大するのは、ナショナリズムの行き過ぎによる膨張ではなく、本来の領土を取り返す、当然の権利と看做していた、ということである。だが現在の知識で見れば、明らかに、これらの非漢民族地域では、民族浄化というべき、異民族の抹殺が行われている。当時は明らかに林も小生も、そしてほとんどの日本人もそれを考えずに、毛沢東を偉大な指導者に擬していたのである。

 ナショナリズム論に戻ると、漢民族に、本当にナショナリズムが勃興したとしたら、広東語、上海語、北京語などを話すいくつもの国民国家に分裂しなければならない。それらの地域は地域ごとに、確かに言語、文化、歴史等で共通する要素を持つからである。「漢民族」地域の分裂が、百年どころか五百年のスパンで起るとは思わないが、中国に住む民衆に真の安寧と幸せを齎すには、それしかない。大東亜戦争肯定論の欠点は、アジアの近現代史を俯瞰するのに、ナショナリズムというキーワードに重きを置きすぎていることである。

 余談だが、同書で息子と同世代の評論家から新鮮な衝撃を受けた、として西尾幹二氏と江藤淳氏の論文を紹介しているのは、林の慧眼である。

 この時林は62歳だと書いている。それだけ若かった時期の二氏を絶賛しているのだから、よほどのことだったのだろう。二人を息子になぞらえて、新世代への期待として「息子たちは決して日本民族の歴史と父祖の理想と苦闘をうらぎらないであろう(P474)」とさえ書いている。

 小生は最初に本書を読んだとき、この指摘に注目した形跡はない。その時両氏の論文をチェックしたり、その後をフォローしていなかったからである。両氏に注目したのは、既にその方面での地位が確立されて、知名度が高くなってからである。この点は不明を恥じるというより、小生の思想遍歴にとって相当な損であり、遠回りをした、と考えている。



からごころ・長谷川三千子・中公文庫
 副題・日本精神の構造

 5編の文章があるが、読めたのは3編「からごころ」「大東亜戦争『否定』論」「『国際社会』の国際化のために」である。残りは川端康成と井伏鱒二の作品に関連するので、興味が持てなかったのである。読んだ範囲で言うと、全般的に難読と言うこともあるし、くどい繰り返しが多く、もっと明快に書けないかと思った次第である。小生、かつては長谷川氏を、西尾幹二氏の後継者に擬していたことがあった。


 だが、西尾氏の仕事の広さ、分析の明快さには未だに及ばない。もちろん、西尾氏になく、長谷川氏ならではの鋭い視点も数々ある。それをもっと明快に論じられないかと思うのである。直感が鋭い分、論証の不足を感じることもある。小川榮太郎氏が、解説で「処女作に、作者の全てが現れるという言い方があるが・・・寧ろ、既に、完璧な問いを最も完全な形で出すことに最初の著作で成功してしまった」(P245)というのだか、皮肉な意味でその通りと感じた。

 彼女の最近の「神やぶれたまはず」を読んでも、その問いかけと答えに変化はなく、しかも明瞭な答えを出そうとしているようには思えない。つまり処女作から進歩がないようにしか思われないのである。最初の作に全てが現れる、とは言っても通常は深化がある。学識なき者の失礼な言い方かも知れないが、しかし氏の作品には、ずっとそれがないように思われる。

 しかも意表をついた見解がいくらでも出てくるのだが、それらの統合がなく、分裂しているようにすら思われる。それはお前の読解力と素養のなさである、と言われそうで、当たってもいるのだが、やはり西尾氏の統合力と、奇を衒わない明晰な分析には及ばない気がしてならない。

1.からごころ

 これを充分に評論する資質は小生にはないのであろうが、敢えてする。ひとつの手掛かりとして「・・・中国語という言語がまずあって、それが漢字、漢文で書きあらわされるようになってきた」(P40)というのであるが、「支那論」で書いたように、中国の専門家かの言うところでは、漢文は情報伝達の記号に過ぎず、中国語すなわち漢文ができたころの、古代中国語の文字表記ですらない、ということである。

 これは決定的な認識の差であるように思われるが、その後の氏の展開を読むと必ずしもそうではない。国を治めるのは文字を持つ言語だから「・・・自然に、『漢籍』を中国語として受け入れた結果は」実際に離されるのは受け入れた国の文字を持たない言語だが、漢籍すなわち中国語が、その国の中枢を握る、という結果となる、というのである。


 これは中国語を漢文、と置き換えれば済む話である。日本でも長い間、漢字仮名混じり分ではなく「漢文」そのものが公文書として使われてきたし、朝鮮などは日本がハングルを普及させるまで、文章は漢文しかなかったのに等しい。氏は「・・・発音の大きく異なる北京語と広東語がほぼ同一の表記でまかなえるのも」一字一字の音を指す強制力は弱いからだ、といっても音声を無視してよい、というわけではない(P45)、というのだが、これも北京語や広東語の漢字表記と、漢文とは全く異なるものである、という前提が忘れられている。

 漢文の読みには日本では、呉音、漢音などがあるが、これは導入した時代の支配民族の漢字の読みを音読みとしたものである。ところが氏の言う広東語と北京語の音の違いと言うのは、地域の相違による、話し言葉の音の差によるものである。つまり漢文の時間的に相違することによる、漢字の音の違いと、話し言葉の発音の違いとは、全く同じとは言い切れないのである。同時代にあって地域が異なるから、発音が相違することと、呉音、漢音のように時代が相違するから、発音が相違することを同列に並べるのが変だと言えば分かるだろう。

 例えば北京語の漢字表記は、話し言葉を文字表記した、清朝崩壊の頃からの白話運動の結果であって、漢文との共通点と言えば、漢字を使っている、ということしかない。このことは前述のように、小生のホームページの「支那論」で書いたから、これ以上は述べない。

 日本人は漢文を読むのに、他の民族が成し得なかった「訓読」という「放れ業」をしてのけた(P42)。漢文を返り点などを打つことによって、日本語の順番に並べ替えて読んだのである。しかも、漢字の読みは「音読み」と「訓読み」を使い分けた。

 その上、訓読では原文の持つ音を無視してしまったのである。それは、単に訓読みがある、というだけではなく、漢字の順番を変えたことによることも大きいのだと言う。その例として氏はDig the grave and let me die.という英詩の一行を日本語の語順に並べる訓読、という奇妙なことをして見せる。勿論、「digシテ」のように漢文訓読の際に使う日本語の助詞も付加してみせる。

 こうしてしまえば、確かにアルファベットをきちんと発音したところで、元の英詩の格調は失われる。原文の音を無視する、というのはこのような意味が大きいと言うのである。前記のように、英詩を単語ごと分解して見せた、ということは漢字一字が英単語ひとつに相当する、という意味でも正しいのである。だが「・・・我々の祖先は、そもそも漢文を、『言語』をあらわすものとは見ていなかったのである。何と見ていたのかと言えば、純粋の『視覚情報システム』と見たのである。(P46)」というのはいただけない。

 前述のように、漢文とは元来そのようなものであったというのだから、我々の祖先の理解は正しいのである。多分漢字を導入した際の日本人は、当時の中国人の話し言葉を理解できるものは大勢いたのである。とすれば、その話し言葉が漢文とは同じではない、と気付いたのは当然である。漢字は表意文字だとは言っても、音声とリンクしていないわけではない、と氏は言うのであるが、実際に表意文字を使って、音声と意味とを矛盾なく同時に表記させることなどできはしないのである。

 だから「犬」をdogと発音する民族が漢文を読めばdogと読むのであって、イヌと発音する民族が読めばイヌと読むのである。支那では王朝が変わると多くの場合、支配民族も変わる。すると漢字の発音も変わったはずである。それが日本に導入される時代の相違によって、日本の音読みも、呉音、漢音などと変わった原因である。例えば「行」は音読みでも「ギョウ」と「アン」という、まったく異なる二つの音読みがあるのが、その典型的な例である。

 ただし、実際に祖先が漢文を「純粋の『視覚情報システム』と見た」ことが間違っていて、本質は古代中国語の文字表記だったとしても、問題はない。祖先がそのように看做していたことが、結果的に他の中国の周辺民族のように、漢字に拘ったり反発したりして、日本人のように滅却することができなかったのとは、別の画期的な道を切り開いたからである。

 新羅では漢字を万葉仮名のように使って自らの言語を表記する「(ヒャン)(チャル)」が生まれたが、いつの間にか消えてしまった。ベトナムでは漢字を基として漢字もどきの文字(擬似漢字)を発明したが現代では使われていない。(P52)


 これらは本来中国語を表すべき漢字で、自らの言語を表記するという不自然が見えてしまったからだ、(P52)というが、そうではあるまい。現在ベトナムではアルファベットが使われている。これはヨーロッパ系の言語を表すのに使われているのが基本のはずである。それが問題なく使えるのは、純粋な表音文字だからであって、元々ヨーロッパ系の言語を表記していたことは、ベトナム語をアルファベット表記することに何の問題もないことは事実が証明している。

 それどころか元来アルファベット自体が、ギリシア文字などの別の民族言語を表記していたものが、歴史的に時間をかけて変化したものである。毛沢東は漢字による中国語表記を止めて、アルファベットを使うことを考えたが、そうすると北京語、広東語などが全くの異言語に近いのがバレてしまうので諦めて、漢字表記に拘ったと言う説もある。漢字という文字だけが、漢民族の紐帯だと知らされたわけである。

 万葉仮名で問題なのは、漢字を使っているから、文章の意味とは関係がない漢字を当てるから、漢字の意味が見えてしまうことである。漢字を音としてだけ捉えようとしても、意味が見えてしまうから、音が表す意味と漢字の表意性が表す意味とは、ほとんどの場合、合わないから精神的には不愉快である。漢字漢文の意味を解することが深いほど、不愉快は甚だしくなる。

 例えば、古今集の和歌の最初の十二文字の万葉仮名表記の例で

「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」

 と書いて「難波津(なにわづ)に咲くやこの花」と読むのだそうである。「花」を「波奈」と書くのだから、波という漢字は、単に「は」の音を表すのであって、漢字の本来の「なみ」の意味は頭の中で意識して消し去らなければならないのである。不愉快、と言った意味がお分かりいただけるだろう。

 結局日本人は漢字を崩すなどして、原型を留めないくらいに簡略化して変形することによって仮名を発明して、表意性が全くない表音文字を生み出したのである。氏は指摘していないと思うが、アルファベットなどの純粋な表音文字も、類似した過程で生まれたのだろうと小生は考えている。文字と言うものは、その始めは物の形を表したことから始まるしかありえなかったのであろう。「いぬ」の意味を現す文字は、犬の絵だとかそういう具体的な形である。それを「いぬ」という言語の音声で読んだのである。

 しかし、いつまでもそれを続けていると、話している言葉や伝えたいことを文字で表すことにすぐ限界に達する。どのような過程なのか想像はつかないが、そのようにしてほとんどの文字は生き残りの為に、意味を捨象して表音文字となったのである。ところが漢字は表意性を喪失しない、という頑固な道を選んだ。つまり漢字は進化を停止した文字なのである。従って漢文を原始的な文字表記だというのは、その通りなのである。

 蛇足が多すぎた。氏の説を敷衍しよう。ここからが本筋である。以上のように漢文を「純粋の『視覚情報システム』と見た」ことは、中国語と言う言葉の無視から来たものである。つまり日本人が「・・・現在のように日本語を読み書きすることが出来るということそれ自体が、この『無視の構造』に支えられている。(P60)」というのである。

 だから無視の構造と言うのは、単なる国語表記の問題ではなく、小林秀雄氏の言う「私達の文化の基底に存し、文化の性質を根本から規定」しているものである、というのだ。「からごころ」とは「漢意」の読みである。なかなか辛いのは「・・・漢意は単純な外国崇拝ではない。それを特徴づけているのは、自分が知らず知らずのうちに外国崇拝に陥っているという事実に、頑として気付こうとしない、その盲目ぶりである。(P60)」という論理展開である。

 こういう物言いが、氏の論理を小生にとって分かりにくくしている。それは後述しよう。維新の際に、日本は西洋の蒸気機関車や二十八サンチ砲などのテクノロジーばかりでなく、憲法や帝国議会と言った政治システムも取り入れた。「・・・すべて所詮は毛唐の発明した道具にすぎず、制度にすぎないではないか、と、ひとたびそういう風に見えてしまったらば、もう、それを大真面目で学ぼうということは不可能になる。いくら、それが自分達の国家と文化を守るのに必要であると分かっていても、それだけでは人は心から学ぶことは出来ない。・・・明治時代の日本について驚くべきことは、むしろ、すでにあれ程高い水準の文化と技術を持ちながら、それにもかかわらず、あれ程すばやく西欧の文化を消化し、同化することができた・・・ただの『欧化政策』などというものではない、『文明開化』である、と自ら信じ込むことで、危機の脱出に成功したのである。(p64)

 その功労者は「からごころ」であり、その本質は上述のような「逆説」であり、「漢意それ自体が、或は日本文化それ自体が、そういう逆説をなして出来上がっているのである。」と敷衍する。しかしこのことは論証できないのではなかろうか、と小生には思えてならない。氏のいうことは状況証拠すら見出し得ないとさえ思える。

 例えば、氏は幕末に西洋と出会った時、高い水準の文化と技術を持っていた、というのだが全面的に正しいとは言えない。軍事技術に関しては明らかに劣っていたことはいくらでも実証できる。しかも軍事技術は周辺の他の分野の技術に支えられなければ成立しない。従って他の分野の技術についても、明らかに劣っていたのである。長州藩などが西欧諸国との戦争に負けたことで、技術の遅れが明白になったからこそ、西欧技術導入に転換していったのである。

 政治制度の導入についても、たかが毛唐のものではないか、という軽蔑もなかったと同時に、無視するという氏の言う漢意によってではなく、伊藤博文らが憲法を作った過程を見ても、西洋の制度を深く勉強し、日本に導入できるように翻案したのである。伊藤らは単に政治制度などを洋化することによって、不平等条約を解消しようとしたのではない。

 西欧の制度の中にある、日本にとって良きものを取り入れようとしたのである。そして悪しき物は決して入れようとはしなかった。そのことは、氏の言う「無視」とは違うのであろう。誠に不思議に思えるのは、氏はこれらの事情について、小生より遥かに詳しいのに、そのような事実をもって自説を論証しないことである。

 そう考えた上で「無視の構造」と言うのは、小生の理解の及ばない考えがあるのだ、としか考えられないのだが、そのことを本書できちんと説明がなされているようには思えないのが不思議ですらある。

 さらに日本国憲法について言及すると、「・・・何時かは、この憲法を貫く精神のおぞましさ、或はむしろ、全体を貫く精神のないことのおぞましさが、人の心を蝕み始める時が来る。その時に如何したらよいのか、その時我々は如何生きたらよいのか-我々には全くその備えが出来ていない。(P69)」と言うのはいいのだが、別項で日本国憲法について、意外な考えを述べるので、後述する。

2.大東亜戦争「否定」論

 このタイトルが林房雄の大東亜戦争肯定論をもじったのはもちろんである。林が「攘夷と文明開化とは、相反する二つの主義主張ではなく、同じ一つの認識-『東漸する西力』の脅威の認識であった(P163)」と考えていたのは正しいという。

 その証拠に「・・・実際には、百年間にわたる文明開化は、やはり百年にわたる『攘夷』の決意に裏打ちされて進んできたので、『インテリ』でない普通の人々はそれを忘れたことはなかった。もっと正確に言えば、日本を取り巻く力と状況とが、片時もそれを忘れることを許されなかったのである。(P165)」から。

 氏の言うインテリとは本気で英米協調外交を考えていた、愚かな幣原喜重郎らが代表格であろう。敗戦してインドネシアに残って、独立戦争に参加した名もなき何千の兵士がいた。例えばそのことを以て「普通の人々」は攘夷を忘れなかった、という証拠のひとつに数えればよい。外見的には、文明開化や大正ロマンに酔っていたはずの庶民が、いざとなると、そんな大事業をやってのけたのである。

 例えばハリマンの満鉄共同経営を受け入れていれば、英米協調路線を守って、日本は英米との関係が破たんすることなく過ごすことができた、ということは正しかったのかも知れないが「・・・それは余りにも偏狭な「国家主義」である。(P168)」というのである。

 「日本は『日本国』という国境を守る為に百年間戦ったわけではない。もしそうであったら、かえって後の世にはその『防衛戦争』たる所以がはっきり見えることになっていたであろうが、この百年の戦いにとって、国境などというものは枝葉末節のことであった。・・・国境が真剣な意味を持つのは、同じ文化圏に属するもの同士の間である。われわれは国境よりももっと切実に大切なもの-われわれの文化圏を脅かされていたのである。(P169)」という氏の見解は林房雄氏と同じである。

 実際に、一部の英米協調論者以外のほとんどの日本人は、この見解であった。だから頭山満らをはじめとする日本人は、辛亥革命を支援するなどしていたのである。しかしどうだろうか。大東亜戦争肯定論で敗戦後のアジアで林氏が期待を抱いていたのは、私の記憶違いでなければ、中共であった。

 支那は現在では、日本とはあまりに異なる文化の国としての相貌を現し、日本を脅かしている。否。振り返ってみれば支那とは、かなり昔から日本と同じ文化圏に属してはいなかった。日本人の一部には、当時それに気付いていた人物はいたのである。

 だが「…『日本論』を聞いていると、まるで日本一国で『文化圏』が出来上がっているような気さえしてくる。けれども、現実にアジアという文化圏が危機に瀕していた当時の日本人には、それが潰れれば、もはや自分達も自分達自身でいられなくなる(p169)」というのだが、小生はいささか違うと考える。

 支那や朝鮮がロシアなどに脅かされれば、日本も安全でいられなくなる、というのは文化圏の問題ではなく、地政学上の問題である。日清戦争のときに既に、日本人は支那兵の残虐さに驚き、現代の支那は孔子孟子の支那ではないと悟ったのである。だから支那がロシアに脅かされれば、日本も安全ではない、というのは文化圏の問題ではない。

日本がインパール作戦でインドの独立を助けようとしたが、これはアジアと言う地域から英米を追い出すことによって、ひとまず日本の安全を英米から守ろうとしたのである。インドと日本は同じ文化圏である、という人はなかなかいまい。アジア、と言うのはヨーロッパに対応する地理的概念にしか過ぎないのは明白である。だから英米の植民地が無くなると、支那や朝鮮が日本と対立するのは不思議ではない。

 日本が目先の小さな利益に目が曇っていたのと同じく「・・・ナショナリズムに目覚めた中国、朝鮮もまた「大きな敵」よりも目先の敵にこだわりすぎたと評することはできよう。(p171)」というのも、その意味では間違いである。特に支那などは、一種の歴史の法則で、清という王朝が崩壊して、中共と言う次の王朝が成立するまでの混乱期に過ぎなかったが、これは歴史上何度も繰り返された出来事であって、ナショナリズムに目覚めたわけではない。氏のアジアのナショナリズム観は林房雄氏のそれとよく似ているように思われる。

 清朝崩壊後混乱を引き起こした主たる原因は、地方に乱立した軍閥である。一部の学生ら知識人の呼応があったから、ナショナリズムと誤解されたのである。一般民衆は軍閥の搾取の犠牲者であったし、多くの民衆は日本軍さえ支那軍閥の一種と勘違いしていた。「軍閥」たる日本軍が、宣撫工作によって地域に平和をもたらせば、日本軍の占領は歓迎されたのである。

 ただし、当時の日本人のほとんどが、支那のナショナリズムの目覚めと解釈したのも事実である。石原莞爾らですら、支那人にまともな国家を運営する能力はない、と言ったが、これも歴史的な一時の混乱を永続的なものと見た近視眼である。だが、現在の支那の統一も永続的ではないのも支那における歴史の法則である。

 周辺の夷敵が支那本土に入って来て、混乱に拍車をかけるというのも歴史的法則である。それが、かつてと違い、欧米が加わったと言うことに過ぎない。それ以前との大きな違いは、過去の夷敵と違い、欧米と支那の軍事技術の水準は隔絶したものがあり、いくら経済発展したように見えても、半永久的に追いつくことは出来ない。小生はこの意味では、本質的に中国が欧米と対等の軍事プレーヤーになる日は、何百年経とうと来ない気がする。

 軍事技術を支え、さらにそれを支える工業技術のバックグラウンドとなる、教育、組織文化、社会構造、といった根本的なシステムが、欧米と違い過ぎ、それを地道に変革するつもりもなく、外国の工作機械等の道具の使い方を教えてもらって、目先のコピーで済ませているからである。

 閑話休題。現に大東亜戦争の結果、アジアは解放されたが、大東亜戦争によってアジアが解放されたとは、言ってはならないと言う「奇妙な論理(P175)」がある。それが、如何に奇妙な論理であるかの例証として「南北戦争」を挙げる。「南北戦争が単に『奴隷解放』という理念をめぐっての争いだったのではなくて、むしろ南北の経済体制の相違に基づく争いだったことは、すでによく知られている。北軍の兵士達が、何で俺達が黒人(ニガー)のために死ななきゃならねェんだと不平たらたらであったことも知られているし(P176)」リンカーンの奴隷解放宣言も、もともとは苦戦する北軍に少しでも内外の同情を得て、戦局を有利にするために行ったものである。

 「・・・だからと言って「『奴隷解放宣言』は空疎な茶番であり、『奴隷解放』の理念は好戦的な一部の北部人(ヤンキー)が自らの侵略的意図を覆いかくすため一般市民に押しつけたものである。この美名の名のもとに何万人の若き青年の血が流されたかを思うとき、このような危険な軍国思想は二度と再び許してはならない」などと演説する者は、余程南部(ディープ・)田舎(サウス)にでも行かなければならないであろう。(P176)

 そして問う。「何故か?-北軍が勝ったからである。戦争に負けたからと言ってその戦争で自らの掲げていた理想の旗までおろしてしまい、自らの成しとげたことに目をつぶってしまうのは、まさに『勝てば官軍』の裏返しに他ならない。そういう人達は、万一勝っていたらばどうやって戦勝国としての責任をとるつもりだったのであろうか?・・・何故もっと歴史と言うものを素直に眺めようとしないのか-『大東亜戦争肯定論』の『肯定』とはそういう意味である。」なるほど、悲惨な戦争はどんなことがあってもしてはならない、と絶叫する現代日本人は、戦争に勝っていれば好戦的な言辞を絶叫する人たちである。

 ここまでは納得する。「戦後の日本人が、あの戦争について、非はすべて我方にあると考え、林房雄氏の説くような『あたり前』のことをむしろ奇説とみるようになった」原因を七年の占領と検閲にするのは簡単だが、キリスト教の布教の失敗にみられるように、日本人は本来の在り方を脅かすような思想は絶対に受け入れてこなかったのだという。

 だから「『大東亜戦争』のかくも理不尽な断罪が、われわれの『大和魂』を本当に危くするものであったとしたら、マッカーサーが何と言おうとクレムリンがどう言おうと、日本人はすべて聞き流したことだったろう。(P178)」と言うのだが、初めて聞く論理である。だが、不可解にも、倉山満氏との最近の共著「本当は怖ろしい日本国憲法」では、この論理は登場しない。

 石原莞爾が「一億総懺悔」と言ったのはもちろん占領軍に阿ったのではなく、「幕末以来この百年間、日本が本来の日本らからぬ振舞を余儀なくされてきたことへの反省である。・・・敵を『敵』と認じて、自らを常にそれと対峙させて眺めるという極めて欧米流の世界観を持つことであった。・・・戦後、危機の去ったのを肌に感じたとき〈もうわれわれらしく生きても大丈夫だ〉と人々は思った。(P180)」のであって石原将軍の真意を理解して心の底に収めた、というのである。

 だから日本人本来の「和の世界観」に戻り「われわれは、もう二度と再びあの血腥い『欧米式国際社会』には住むまい。」として戦後は欧米への復讐にではなく「復興」邁進できた、というのである。だがこれらの長谷川氏の考え方には、越えがたいパラドクスが潜んでいるように思われる。

 第一に、維新以来欧米流の力による流儀でなく、和の精神で対応したら日本民族は居なくなっていたであろう。そうしなかったからこそ、今和の精神に戻ることができたといういちゃもんをつけることができる。氏は、パラドクスを「からこごろ」という言葉で解消しているのだと思う。

 第二に、占領軍の検閲の影響力をきちんと分析したり、大航海時代という欧米による大侵略の理不尽を充分に認識したからこそ、長谷川氏は前述のような結論に至ったのであって、無自覚で無意識でいたら、そのような結論は得られなかったのである。

 また不思議に思われるのは、実際に石原莞爾が「一億総懺悔」と言う言葉をそのように考えていた、という論証がなされていないことである。また新聞に「一億総懺悔」という言葉が躍った時、国民がどう考えたか、という論証もしていないことである。ただ「インテリ」ならざる普通の人々は、そう考えていたはずだ、というのであろうか。現在に至るまで、長谷川氏は、これらの立論を修正する必要性を感じていないように思われる。従って、まだ小生には氏の論考を読み解く必要があるのだろう、というのが当面の結論である。

 日本国憲法についての論考も同じ論理が貫かれているのは、当然と言えば当然であろう。憲法の前文にいう「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という言葉についての言及である。

 多くの保守論者、いや全てと言っていいだろう。この文言は米国が日本を侵略者と決めつけるために、押しつけたものだ、と。ところが氏は、「ここに表されているのは、まさに『和の世界観』である。『国際社会』というものがここでは、他人を思いやり、互いに睦み合うことをその本質とするもの、と考えられている。これは、『東亜百年戦争』を通じて日本がその真只中で生きてきた、あの修羅場のことではない。(P183)」というのだ。

 もちろん「敗戦国が戦勝国に対して、二度と再び立ち上がって脅威となることがないように」したというのだが、「・・・そうはさせじと必死で押し返す日本側の人々の血の滲むような努力がようやくこれだけの形に食い止めてくれたのである。」として「日本精神」と矛盾しない「国際社会」という言葉を発明して挿入したことが、その例である、という。

 だから、先人のこれらの努力に敬意を払うどころか、努力があったことすら思い出してはならないことになっているのが現状である、というのだ。それは、思い出すことによって「国際社会」という夢を破るのではないかと無意識に恐れているからだ、という。この見て見ぬふりは、国際社会は現実には力の社会であるのに、それに無知なままで渡っていかなければならない、という唯一の深刻な厄介を抱えている、と初めて問題視する。

 ところが「目をつぶることによって自分自身であることを守る時代は終わりつつある。(P186)」という平凡な結論に到達する。ひどく婉曲な言い方をしているが、敗戦によって米軍に守られていたから、古来の和の精神にひきこもってもいられたが、冷戦終結以降の国際情勢の変化によって、そうもしていられなくなった、と言っているのに過ぎないのではないのか。

 「和の精神」さえ持ち出さなければ、普通の保守論者の言い分と変わらないのである。そして日米安保で国防を忘れて、経済成長だけに邁進したことが日本人本来の「和の精神」であったとすれば、それは土台、国際社会には通用しない、と言っているのに等しい。

 そして「・・・戦うために益々われわれ自身ならざることを余儀なくされた百年間」だから大東亜戦争を「否定」することによって、新しく歩み始めることができる、と言っているから、ようやく「否定論」と銘うった理由である、ということが分かった。私は本稿の途中で「否定論」というのは、氏が、負けたからと言って大東亜戦争の理想の旗を降ろすのは、勝てば官軍の裏返しだと論じたとき、大東亜戦争を否定する者に対する揶揄をタイトルにしていると勘違いしていたが、そうではなかったのである。

 だが最大の矛盾は、日本人は無意識に肝心なことを忘れ去る、という特技があるといいながら、「目を開けて、自らを知り、しかもなお自分自身であり続けるという難題に、いよいよ本格的に取り組むべき時が来ている。(P186)」と断じていることである。これは単純な小生には、日本人本来の和の精神を捨て去れ、と言っているのに等しいとしか思われない。日本人本来の精神を捨て去れ、というのは、日本人ではなくなれ、と言っているのとはどこが違うのか分からない。結局本稿の難点は「先人の努力」にしても「和の精神」にしても全て、事実による論証がなされていないことである。

3.「国際社会」の国際化のために

 
イントロから、ある日本人の書いた記事を引用して、日本人は国際化、という言葉をよく使うが、英語にはない意味で言っているらしくて、理解できない、とアメリカの友人に言われた、と書いていることを紹介している。

 例によって氏の論理展開はややこしいが、まず第一義的には英語のinternationalizeというのは他動詞で、辞典で引くと「(国、領土等を)二ヶ国以上の共同統治又は保護のもとに置くこと(P195)」とあるという。日本人なら、これは特殊な用法だと思うであろうが、この言葉が十九世紀後半に初めて使われるようになったとき、この意味であったし、主たる用法は今も同じである、というのだから先のアメリカの友人の言うのはもっともである、というしかない。

 この違いを氏は「大学の国際化」ということで説明している。「大学を国際化する必要がある」と日本語でいう場合、対象となる大学とはあくまでも日本の大学であって「・・・フランスの大学に対して、もっと日本人スタッフを増やすように要求して「大学を国際化する必要がある」と迫る-そういう言い方は日本語には存在しません。(P193)」と例示しているのはその通りである。「国際化する」という日本語自体は他動詞的に聞こえるが、実は日本人自らだけを国際化する、という自動詞的用法しかないのだそうである。

 西洋人の言う国際化、とはいかに苛酷なものであるかを言う。コンゴの国際化の例とは、欧米の複数国の共同統治下に置こう、という意味である。要するに、コンゴがベルギー一国の植民地になりそうな趨勢なので、コンゴと言う地域をベルギーには独占させないようにする、というのが目的なのである。

 つまりコンゴをまともな国ではなく、単に植民地としての対象としてしか見ていないから、コンゴをどうするか、と言う場合に、コンゴに住む人々は交渉の対象とはならない。これは、九ヶ国条約で欧米が支那に取った態度とよく似ている。実体として存在もしない「中華民国」というものを勝手に認めて、これを維持すべきだ、というのだが、その結果もたらされたのは、各国に支援された乱立する軍閥による、支那の混乱と支那住民の窮乏である。

 さて氏の説明に戻ろう。「・・・当時のコンゴはそんなものだったのではないか、と言う方があるかもしれません。それから百年近く経って独立した後でさえもが、あのていたらくだったのではないか、と。しかし・・・コンゴをはじめとするアフリカの各地域とも、少なくとも十五、六世紀の頃までは、決してそんな風だった訳ではない・・・その形態は近代欧米諸国とは異なれ、さまざまの王国が栄え、すでに高度な文明が各地で発達をとげていた。それを決定的に破壊したのは他ならぬ白人達であります。三百年にわたる奴隷のつみ出しと、それに伴う諸部族の抗争と扇動によって、いわば内と外の両側から、アフリカ大陸の「文明」を崩壊させていった(P199)」というのである。

 例えれば、原野を開墾する場合、現に青々と茂っている草木を根こそぎにするようなものだと。だからコンゴの国際化が言われていた1883年には、コンゴには国と称するに足るものがなかったのではなく、なくされていたのだと。

 この説明で思い出すのは、テレビで、ユニセフが行っているコマーシャルである。アフリカの栄養失調や病気で死にそうな子供を映して、この子たちをあなたの僅かな寄付で助けましょう、と募金を呼び掛けている。小生はこれを見るたびに不愉快になる。確かにアフリカの子供たちの人道支援は現時点での状況下では、必要であり尊ぶべきことである。

 しかし、西洋人が長谷川氏の言うように、健全な王国であったアフリカを三百年に渡って破壊しつくしたから、外部から援助しなければ、子供すら育てられないような状態の地域になったのである。西洋人が来なかったら、アフリカは、子供たちすら自ら育てられないような国々ではなかったのである。それを壊した当の西洋人が作った、ユニセフなる国際団体が助けて、人道支援だと自己満足しているのである。

 マッチポンプと喩えることすら許されないような、悲惨な状態を招来したのは、人道支援しようと言った人たちの祖先であり、そのことに人道支援の名のもとに責任を取るには、ことは重大過ぎる。

 そして日本人が明治以来大切にしてきた「国際法」の概念のinternationalという国家間の範囲とは18世紀までは「ヨーロッパ」でしかなかった。(P203)」それが1856年のパリ条約においてトルコが、はじめて非ヨーロッパとして国際法の世界に参加した。トルコの参加は「ヨーロッパ公法と協調の利益への参加」と言われたが、実態はクリミヤ戦争の戦費の負債への返済の約束であり、19世紀末にはトルコは一切の財産権を英仏に握られてしまった、というのである。(P213)

 そのために、かのケマル・パシャが近代化改革を行ったのだが、カリフ制廃止や、イスラム聖法を無効とすることを始めとする、大胆な西欧化政策であった。それは国際社会の侵入という苛酷な強制力による「悲しい大偉業」だったというのであるが、何やら維新の日本を思い出させるものではある。明治維新は、国民国家の形成の過程、すなわち西欧化の過程としては、世界的にも例外的に平和的に行われた。

 だが、結局は西欧化でしかなかった。日本が失ったものは大きかったのではないか。例えば、現代で日本らしいもの、と言えば歌舞伎などの伝統芸能や寿司、城郭といったものが挙げられる。しかし、これらは全て江戸時代に完成したものの継承でしかない。つまり、維新以降、日本らしい、と言うことができる文化的遺産と言うものはないのではないか。

 確かに軍艦島や富岡製糸場などのように世界遺産として登録された、維新以後のものはある。しかし、それらは全て西欧文化を日本的にこなしただけで、日本の独自性に至っていない。アニメにしても、まだまだ前途は遠い。

 閑話休題。前述のように、国際法はスタートからヨーロッパ限定で、トルコの改革もある意味、それに合わせるために行われたものである。だが「本来『国際法』というものは、そこに参加するすべての国々の慣習や文化を考慮し、その社会を損なう恐れのないものでなければなりません。したがって、理想を言うならば、国際社会が一人新しいメンバーを迎え入れるたびに、国際法体系の全般的に渡っての再調整が必要となる(P218)」のだが、そこまでとは言わなくても、多くの新興国が参入してきたのだから、「劇的な変更・調整が必要となる」と言う。

 しかし先進国側はこれを拒否している、というのである。もちろん、語義だけ論理的に抽象化していけば正論である。ヨーロッパ側が拒否する理由は、国際法のごく初期の学者の説く「普遍」という考え方である、というのである。つまり国際法は普遍的原理を基にしているから、地域も民族も文化も異なっても通用するはずだ、ということである。

 なるほどそういう理屈もあるものだ、とは思わせる。だが例えば西洋人が言う「交通の権利や通商の権利」という言葉からして、西洋人のように、大洋を渡る交通手段を持ち、自分達本来の土地以外の土地を求めて、世界を荒らし回る人たちと、そんな手段も必要も感じない非西洋人たちにとって「普遍」の原理ではない(P225)のである。つまり、西洋人たちは、他民族が住んでいる地域であろうと、世界を勝手に通行し、他民族のものを好き勝手に手に入れる権利がある、ということの美しい表現なのである。結局普遍と言う言葉で自分たちの都合を押しつけているのに過ぎない、というのであるが、この例に関してはその通りである。

 これを解決するのに参考となるのが、日本人の言う「国際化」なのだというから、またまた、面倒である。日本人は西欧と言う国際社会の外にいて、自分たちの社会が狭いと考えることによって、国際社会の本質的な狭さから目をそむけて、それに合わせようとしている(P230)という。しかし国際化ということを、「・・・ただもっぱら既存の『国際社会』の先住者達に従うものであることを止めて、本当に、すべてのあらゆる民族、国家に向けられるようになる時、それは『新しい原理』となりうるのです。(P230)」というのだ。

 だが結局これは前述の「国際社会が一人新しいメンバーを迎え入れるたびに、国際法体系の全般的に渡っての再調整が必要となる」ということと同じことではなかろうか。だが日本流の国際化、という考え方を西洋人自身はもちろん、発展途上国自身ですら受け入れることは困難であろう、と思うのである。日本にだけ、西洋人が考えられない「国際化」という観念が存在するのだから。

 結論として書かれている、国際化が日本だけのものではあってはならず「・・・『国際的標語』として-国際社会それ自体の国際化として-叫ばれ、高々と掲げられなければならない(P235)」というのは正しい。しかし、これを世界に広めよう、というのは前述のように、原理的にとてつもなく困難なことであろう。

 確かに観念的に考えれば、今の国際法や国際社会なるものが、西欧中心の限定的な考え方であろう。しかし、長谷川氏が例証している、大航海時代の理不尽な西欧の論理の押し付けによる国際法と、現状における国際法の適用状況は、かなり状況が異なっているように思われる。つまり、氏は自分の論理に合わせて、現在起きてもいない論証に都合のよい、過去の事例を挙げているように思われる。元々国際法が西欧世界以外に適用され始めた時は、自己都合としか考えられない場合ばかりだから、今でも根本にそのような危険をはらんでいる、と言える。だが、相対的にその問題は減少しているのではないか。

 実際に現代の領土問題などを個別に考えると、中国や韓国が実際に国際法を無視して行っている事例を考えると、中国や韓国の国際法へのきちんとした参加をさせるために、彼らの異質な文化などを考慮する余地は少ないと思われるのである。つまり、かつての傍若無人な西欧に比べれば、現在の国際法には確かに「普遍」を主張できる部分は多く存在するようになった。

 例えば、竹島や尖閣について、せめて既存の国際法に従わせることができれば、日本の正当な権利は得られる、という点に限ってみれば、国際法は西欧のみならず、日中韓にも普遍性を持つのである。日本は狭い国際社会から目を閉ざしているから、領土問題を国際法に則って解決すべきと言っているのではない。その逆である。氏は「目をそむける」という日本人の特性を「からごころ」と同じ文脈で使っているが、実証的ではなく観念的なために、論理が強引に思える部分が見え隠れしていると思う。



なぜ外務省はダメになったか

 著者の村田氏は独自のエリートの定義(P118)をしている。それは身分、学歴、試験などとは一切関係がなく、精神上の貴族と呼ぶべき人たちを言うのだそうである。知識以上に教養と節操を持ち、国家と社会への貢献を義務と考え、ものごとを行うに際して報酬を求める考えがなく、世論に留意するが決して大衆に迎合しない、そのような人達。それが日本の必要とするエリートだと、村田氏は定義する。

 だが、このことを例えば外務省に適用して考えてみよう。現在は頂点にキャリヤ制度があり、一定以上の役職者はキャリヤと呼ばれる、試験制度の中から選ばれた人たちから採用される。逆に言えば、ノンキャリと呼ばれる人たちは一定以上の役職にはつけないのが現実である。

 村田氏は、試験どころか学歴すらエリートとなるのには関係がない、という。然して、外務省にはキャリヤやノンキャリも、そこまでいかない役職者もいる。村田氏の定義によれば、その中のどのグループに属する人にもエリートにふさわしい人間はいるはずである。

 元々は、試験制度も帝大もエリートを養成するために作られたはずであるだから、村田氏の定義とは相違している。村田氏が冒頭のようなエリートの定義をしたのは、エリートの養成のための制度がうまく機能していないと考えたためであろう。そうすると、村田氏の定義するエリートであるならば、身分、学歴、試験などとは一切関係がなく外務省のどんな高位の地位にもつくことができるべきだと、考えているのか分からないのである。今は建前は身分は差別できないから、官僚を考える上では除外してよい。

 だが、高卒と大卒を比べただけでも、与えられたカリキュラムだけで学問をしていれば、学識、専門的素養というものは異なる。異なるものを同一条件で採用はできまい。だが本人の努力によって学識、専門的素養を大卒者以上に身につける者はいる。それを評価するのが、「試験」であろう。これは村田氏に言わせれば、狭い意味でのエリートの選抜になってしまうので、本来のエリートの選抜法ではない、というのだろうか。

 だが村田氏がいくらエリートの定義をしたところで、そのエリートなるものを人事考課にどのように反映させることが、外務省、ひいては日本国の国益になるのかならないのか、答えは出ないのである。村田氏は誰も反論できない、理想的な命題を提供した。しかし、それと現実の官僚のあり方との落差は無限と言っていいのである。むしろ、村田氏のエリート論は一部民間会社にはあてはまるように思われるから皮肉である。

 村田氏のエリートの定義を別読みすれば、学歴や試験で高い地位にいても、その人の品格によってエリートと呼べない人もいるし、たとえ地位や職務に恵まれていない人でも、エリートと和ベル品格の人はいる、ということになる。つまり世間的にエリートである、といわれることと、村田氏の本質的なエリートとは異なる、ということである。しからば、何故村田氏が、わざわざ独自の定義をしたのか、説明していただかなければ分からないのである。



なぜ中国は覇権の妄想をやめられないのか・石平
 副題:中華秩序の本質を知れば「歴史の法則」がわかる


 さすが総合的には的確であると思うが、違和感のあるところなしとはしない。中華世界で天子と認められる条件は、「・・・周辺の『化外の民』や野蛮国を服従させて『中華秩序』を打ち立てることである。(P60)」として隋が統一後、高句麗討伐に全力をあげた、という例をあげる。二代の皇帝が高句麗討伐に失敗した結果、天命に見放されたものとみなされ、崩壊したというのである。

 また、毛沢東が朝鮮戦争を、鄧小平がベトナム国境戦争を、ともに政権を握ってからすぐに行ったのも、この延長にあると言うのだが、隋の件に関しては異論がある。隋は明らかに「漢民族」と呼ばれる人たちとは異なる範疇の民族支配による王朝である。この論法だと、たとえ異民族であっても中華社会に入ると、中華社会の天命の論理に従う、ということになる。実際はそうではないのでないのか。隋にとっては危険な大勢力であった隣国は倒さねばならず、結局その征服に疲れて崩壊したのではないか。

 清朝は満州族の王朝である。外部から北京に入って明を倒したが、モンゴルやチベットを支配したのは、天命の論理ではなく、各々の民族の長を兼ねるというソフトな方法で支配した。隋とはケースが違うのである。元もまた違うパターンである。ヨーロッパにまで侵入する大帝国を作ったが、モンゴル本土においては、モンゴルの論理で動いたのであって、天命の論理ではなかった。


 なるほど、毛や鄧は石氏の言うことが適用されるのかもしれない。だが、中華世界を支配した全ての民族に適用されるのではなく、「漢民族」と呼ばれる範囲の民族に限定されるのではなかろうか。つまりドイツやフランスなどと民族は異なっていても、「西欧人」、という共通項はあるのと同様に、「漢民族」と言う共通項はあるのである。

 似た違和感を「四十数年後、アジアに生まれた『日本版の中華秩序』(P92)」という話にも感じる。日本が清国を崩壊させたのも、満洲国を建国したのも、西欧の圧迫というやむにやまれぬ必要からであって、天命の論理ではない。日本の危機感はロシアや英米に向けられていたのであって、支那に向けられていたのではない。ここで石氏は自己の結論を拡大解釈し過ぎているように思われる。

 日米戦争では、米国が中国にほとんど利権を持たないのに、対日戦を始めて多くの犠牲を払ったのは、「すべての国々は大小問わず平等な権利がある」、というアメリカの正義に従ったものだ、という(P110)のだが承服できない。その証拠がハルノートであると言うに至っては尚更である。石氏がハルノートの原則として示している、一切の国家の領土保全云々、といういわゆる普遍的正義は、一方では本気であると同時に、アメリカ得意の本音を綺麗な言辞で包むやり方である。

 日本国憲法が、日本だけが侵略国家で他国は侵略しないから、日本さえ軍備がなければいいのだ、ということを言うのに「・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という一見美しい言葉を並べるのが、米国流である。この米国流の美辞麗句を、護憲主義者は額面通り信じて真意を知ろうともしないからいるから恐ろしい。石氏ほどの碩学が、満洲事変よりかなり前から、日本が有色人種唯一のまともな主権国家であることに、米国が悪意を抱いていたことを知らないのであろうか。アメリカは常にダブルスタンダードで動く国である。


 「『民族の偉大なる復興』を掲げて登場した習政権(P156)」というのは、その通りなのだろう。かつての中華帝国によるアジアの秩序の再建をめざす、というのがその中身である。そして「アジア安全保障会議で発揮された安倍外交の真骨頂(P199)」というのは、石氏が中国に抱く危機感と、それに対抗できるものとしての安倍内閣に対する大きな期待を示している。だがまたしても「戦前の『大東亜共栄圏』を復活させるような野望を抱いてはならないのだ。(P213)」というのは大きな誤解である。

 なるほど戦前の一部の日本人には、国力への過信から放漫になっていた者もいる。しかし、全体的に見れば例外であるし、英米の方が過去も現在も、遥かに放漫であり続けている。中国共産党政権に至っては桁違いに放漫である。大東亜共栄圏とは、日本の弱い国力を何とかするために必死でとった政策を、大袈裟な言葉で表現したもので、実質は実に地味で防衛的なものであった。日本軍が精神主義だと批判されるのは、武器弾薬の質と量の重要性を無知により無視したのではなく、日本の工業力と経済力が、戦争に絶対必要なこれらを満足できないことを熟知した、絶望の果てに生じた結果によるものである。

 本書で全般的に感じるのは、石氏の米国に対する信頼が強い、ということである。例えば「・・・他国を抑制するような中華秩序と、アメリカが『警察官』となって共通した法的ルールを守る秩序とでは、天と地ほどの差がある。海洋の問題に関しても、アメリカが提唱する『航海の自由を守る法的秩序』は誰の目からみても、覇権主義的な中華秩序よりもはるかに公正で正義に適ったものだ。(P194)」というのが、その典型である。

 むろん中華秩序は論外である。石氏がアメリカについて説明していることも、一面では真実である。しかし、米国は中東政策だけを見ても、明らかなダブルスタンダードを犯しているし、謀略も敢えてする。それは国益、という観点からは当然なことである。だから米国の多面性を一方で理解しながら、同盟するなりの関係を持たなければならないのも当然である。


 長年私淑されているという、中西輝政名誉教授にしても、米国に対しても冷徹な目で見ているはずであって全面的に米国に依拠すべきだと考えてはいない。明晰な石氏がそのことを理解していないとは到底思われない。前記のような米国の正義論を述べるのも、中国の最近の覇権主義的な活動が、あまりに危険な水準を超えているための、焦燥感の現れだと小生は考える。



嘘だらけの日中近現代史・倉山満・扶桑社新書

 「まじめに中国の政治史を書こうとしたら、モンゴル語や満州語ができなければ話になりません。」(P14)というのだが、漢文では土地制度史だけしか書けないから、漢文しか読めない、今の日本の「世界史」は中国の政治史ではなく、土地制度史しか書かれていないから歴史になっていない、というのである。

 モンゴル語と満州語の必要性の理由はこれしか書かれていない。これを小生なりに解釈するに、漢文は文字表記としては不完全なものだから、モンゴル語と満州語のような普通の言語の文字表記が必要だ、ということがひとつ。清朝では、漢文の歴史書等の文献が解釈を含めて満州語にほとんど翻訳された、という事がふたつ目であろう。世界の言語に関する書物で、西洋の中国研究家は、漢文の古典を読むために、満州語を学ぶと書いてあったのが、このことであろう。漢文は言語の文字表記としては、相当に不完全である。だから解釈が必要なのである。清朝は、文法があるノーマルな文字表記である、満洲語に漢文の古典を翻訳する際に、解釈も含めて翻訳し、漢文の古典が普通に読めるようにしたのである。

 岡田英弘氏だったと思うが、世界史はモンゴル帝国から始まると書いた。これはモンゴル帝国が、世界帝国になることによって、ヨーロッパ文明と中国文明が接触することによって世界史が始まった、というのである。これが三つ目であろうか。

 戦前の人物評価で「どうも『日中友好』を唱えながら、孫文を助けた頭山たちを罵る日本人を見ると、阿Qを思い出して仕方がありません。」(P111)というのであるが、阿Q正伝は列強に何をされてもへらへらしている中国人を風刺しているというのである。孫文を助けたのは他でもない、今中国侵略者呼ばわりされている、戦前の右翼である、ということを親中派の人士は故意に忘れているのである。


 ただし、今でもそうであるが、中国にシンパシーを抱く人たちは、現代中国人を古代中国文明の後継者とみなして、現実の中国を見ずに幻想を抱いている。当然であるが、日本の要人を接待するときは、中国政府はその誤解を利用しているのである。

 興味があったのは、倉山氏がいわゆる「南京大虐殺」なるものにいかなる判断を下しているかである。結論から言えば「こんなものはまじめな研究者ならば相手にする必要のない与太話です。」(P199)と明快なのであるが、その理由づけたるや不分明で参考になるものもならないものもあり、とにかく整理されていない。要するに定義をきちんとしている議論が少ないとして、九つの論点を提出しているだけである。だけである、といったら失礼だが、もう少し論理的帰結が明瞭になる書き方をしていただきたいと思う次第である。

 例のリットン報告書であるが、「日本には実を取らせ、中国には花を持たせよう」として形式上は中華民国の主権を認め、日本の満洲における権益を認めようとしたもので「中国政府は党の一機関に過ぎず、として「・・・蒋介石政権をファシスト国家だと指弾している反中レポート(P171)」だというのである。


 事実はその通りである。しかし、リットン報告書を日本が受け入れて、英国の思惑通りに解決したとする。しかし、米中の考え方からすれば、その解決は暫定的なものに過ぎない。結局は日本が大陸に権益がある限り、日中は争い、その結果として対米戦は惹起したであろう。しかも大陸における日本の権益と言うものは正当なものであり、安全保障上も経済上も、日本の生存に必要なものであったから、守らなければならなかった。日本は絶対矛盾状態にいたのである。それに想いをいたして、父祖の労苦を理解しなければならないのではないか。

 その意味で「ルーズベルトが中国問題で、日本の死活的利益にかかわるような介入をしたので、アメリカは日本と戦争になったということです。(P211)」と言っているのは、倉山氏が言う通り「明らかな事実」である。

 他の著書でも気になるのだが「帝国陸海軍は恐るべき強さですが、そこらじゅうに喧嘩を売るような戦争をするなど、政治と統帥は無能の極みです。(P211)」と言うのは氏の持論である。ひとつの疑問は何故、日清日露の時代の政治と統帥は健全で、昭和になって無能と言われるようになったのか、ということである。この倉山氏の考えは司馬遼太郎と同じである。果たして維新の元勲が昭和の政治と統帥を司っていたのなら、果たしてうまく立ち回れたのか、という疑問に小生は、はっきり「そうだ」と答える自信がないのである。

 また、帝国陸海軍は無敵であった、と述べるが大東亜戦争開戦の時点で、あり得ないことだが支那事変での疲弊がなかったとして、やはり無敵であったのか、と言うことについては大きな疑問がある。日露戦争以後、戦争のハードとソフトは急速な発展を遂げた。中でも、第一次大戦後の米国のそれは著しいものであった。

 日本の軍艦の装備は、日露戦争のそれを直線的に高めてきたのに過ぎない。陸軍の装備についても同様なことが言える。だが欧米、特に米国の進歩は直線的発展ではなく、飛躍的発展を遂げているように思われる。真珠湾攻撃は、半戦時体制下の完全な奇襲であるという、圧倒的に優位な条件であったにも拘わらず、特殊潜航艇は日本の空襲より一時間も前に全て撃沈されている。

 延べ約350機の攻撃隊は1割弱の、29機が撃墜されている。巷間言われるのと違い、この被害は軽微なものではない。ドーリットルの日本初空襲では、戦時体制下であるにも拘わらず、1機のB25すら撃墜できなかった。B29の空襲では体当たり攻撃しても、3%の撃墜率も達成していないのにである。具体的には言わないが、戦記を読む限りにおいて、戦争の初期においてすら日本軍は楽勝してはいない。戦勝の多くが、犠牲を厭わない兵士の勇敢な攻撃に支えられていた。

 マレー沖海戦などの英海軍の間抜けな戦いに比べて、米軍は違ったのである。米軍の戦闘能力の飛躍は第一次大戦以後のことであると、小生は仮説を立てている。現在ではノモンハンでの損害は、実はソ連の方が大きかった、という事実が判明しているが、それも「肉弾」という恐ろしい兵器を使わなければならなかったのである。

 なるほど、日露戦争の二百三高地攻撃は凄惨なものであったろう。だが当時としては標準的なものであり、10年後の第一次大戦の塹壕戦は、それを量的にも遥かに上回る凄惨なものであった。だからその後米軍は変わったのではなかろうか。覇権が英国から米国に移ったのは当然であった。少々脱線したが、日本も強かったが米国はそれ以上に遥かに強くなっていたのである。

 この点の認識が小生は倉山氏とは異なる。日露戦争で、ロシアの生産力は日本より遥かに高かった。しかし、戦争に関する総合力では、日本が僅かに上回っていた。開戦時点で日米の生産力の差は隔絶したものがあった。小生はそれを言うのではない。米軍の戦争に関する総合力が、日本を遥かに上回っていた、ということを言っているだけなのである。



書評・零式艦上戦闘機・清水政彦・新潮選書

 他の本で著者の名前を聞き、図書館で検索したら、この本が出てきた。類書は数えきれないだろうからと、期待をかけずに借りたが、予想に反して新鮮な視点から書かれていた。名の売れた航空ライターの常識にとらわれず、自ら検証している

 最大のものは、常識になった感のある、20mm機関砲の小便弾説である。20mm機関砲弾は威力はあるが、初速が低いので命中するまでに落下するために命中しにくいので、弾道が直線的なで命中しやすい7.7mm機銃をパイロットは好んだ、というのである。

 氏は簡単明瞭に「・・・たった200mばかりの射距離では、発射された弾丸が空中で『曲がる』ことなどあり得ない」(P93)というのである。小生などもそんな簡単な物理の問題に気付かなかった。

 煎じ詰めれば、敵の後上方から角度を以て追撃し射撃すると、相手は前進するから、照準器の真ん中に敵を捕らえていると、少しづつ機首上げの運動になる。すると敵機に対して相対的に弾丸は下方に向かっているように見える。それが曲がって見えるのだ。7.7mm銃はパイロットの正面にあるから、同じ錯覚があっても見えにくい、ということである。

 簡単な計算をしてみよう。上の図は本書P88の図の一部を切り取ったものである。図で、水平に飛行する速度400km/hの敵機に対して、後方200mの距離から、水平に対し角度10度で降下しながら400km/hで攻撃に入り、照準器の真ん中にとらえていたとする。その瞬間20mm機関砲を初速600m/sで発射する。この時間を基準T0時とする。

 以下次のように考える。弾丸がT0時の時の敵機の位置に到達したとき、前進してしまった敵機を相変わらず、照準器の真ん中にとらえ続けているとすれば、弾丸が照準器中の敵機のどのくらい下に見えるかを計算すればよいのである。

 弾丸は初速プラス自機の速度で減速しないで200m移動するものとすれば、0.28s後にT0時の敵機の位置に到達する。その間に自機はわずか31mしか移動しないから、自機の降下角度は相変わらず10度としても誤差はほとんどない。簡単な幾何学計算をすると、敵機の下5.5mの位置に最初に発射した弾丸が見えることになる。

 この間に実際に弾丸が水平軌道からどの位自由落下しているか計算する。計算は落下距離h、落下時間t、重力加速度をg=9.8m/s2とすれば

  H=gt2/2

 というのが物理の公式であり、h=0.38mとなる。この数字は「・・・この程度の時間では、ほとんど重力で落下することはなく」(P88)というのでもなく、案外大きいのだが、それでも実際の落下高さよりも15倍近く下に弾丸が見えるのだから、小便弾に見える原因は確かに目の錯覚である。降下角度を15度、20度と増やせば小便弾の錯覚は大きくなる。

 子供のころ、道路から数メートル離れて、走る車に粘土を投げたことがある。山の中の県道で車は滅多に通らない。ど真ん中を狙ったつもりが、車に近づくと粘土は急に曲がって、車の後方に逃げてしまう。走っている車を目で追いかけてみるから、このような錯覚がおきる。本書の説明はこれとほぼ同じ原理である。子供も考えるもので、思い切って車の数メートル前に向かって投げたら、見事に当たった。怒った運転手に追いかけられ、田圃の中を友達と必死に逃げた、というのが落ちである。

 これも余談になるが、本書でまともに取り上げられた零戦のエースは坂井三郎だけであるが、岩本徹三という坂井よりもスコアが上だったに違いないエースがいる。彼は最初の空戦前から、50mの射距離による射撃を地上で練習し、初陣で実行したという。岩本は坂井と違い零戦の軽快な機動は使わず、優位な高位からの垂直に近い降下による、いわゆる一撃離脱に徹している。しかも20mm機関砲の破壊力を生かしたというのである。

 例えば500km/hで水平飛行する敵機に500km/hで垂直降下して、20mm機関砲を初速600m/sで50mの距離から発射すると、命中までに敵機は約9m進んでいる計算となる。100mからなら行く17m程度進む。敵前方を見越し射撃しなければ当たらない。岩本は操縦ばかりではなく、射撃もうまかったのである。

 本書には書かれていないが、零戦は軽快に機動して空戦していたばかりではない。支那事変では敵はI-15のような複葉機が多く、零戦より遥かに旋回性能が良いから、零戦の方が一撃離脱戦法を多用したという記録もある。岩本は一撃離脱戦法を支那事変で学習して身に着けたのであろう。特に高位からの攻撃に徹して、無理な攻撃せず、合理的な戦闘方法に徹していたことかが自伝で読める。本書で言う、カタログデータより運用次第で零戦も勝てる、という見本であろう。

 次は無線機が役に立たなかった、という常識である。「・・・軍はメーカーにその代金を払っている。もちろん使えない装備に予算を使うわけはない」(P94)という当たり前のことをいうのだ。だから納品時には使えないはずはないのだが、なぜか前線では全然使えない、と言われるのも事実である。

 結局南方基地の超高温・超多湿環境で、進出直後故障してしまい、部品の供給ができない外地では修理ができなかったというのである。ソニーが戦後トランジスタ・ラジオを輸出したら高温多湿の船倉内でほとんどが腐食してだめになった例を挙げて証明にしている。以前、九六式艦戦の無線機はよく聞こえたのに、零戦のは全く駄目だった、という記事を不可解に思ったが、主として補給も整備もよい本土近くで使われていた九六式ならそうだったのかも知れない。

 また無線封止のため調整できなかったことや、周波数帯が狭く設定されていることに原因があったことから、運用のまずさがあったらしいことも突き止めている。それ以外にも、氏は空戦の敗因にも、運用のまずさが起因しているものが多く、初期には米軍もミスを犯していたが、次第に改善されていたことを指摘している。

 防弾装備については、米軍機も8mm厚の装甲だったから7.7mmには有効でも、13mm機銃弾に対しては終戦まで防弾しておらず、日本陸軍機と独軍機は対13mm装甲を施していた、(P181)というのであるが、陸軍機の場合には防弾板の有効性に優劣があったと言うことを米軍のレポートで読んだことがある。隼あたりでも防弾装備により、大戦後半では零戦より米軍の評価が良くなっていたそうである。

 本書は139ページ以降は戦闘についての描写がほとんどになっている。その中で一般的には、戦闘方法や作戦等の考慮や後方支援により、飛行性能よりも重要な結果がもたらされている、ということが強調されている。氏のいうように、日本の航空ライターはカタログデータにとらわれ過ぎているのである。

 ただ全般的には、小生の持論である、対空火器の効果の優劣がほとんど評価されていないのには疑問が残る。珊瑚海海戦の海軍の戦訓についても、この点の言及はないが、パイロットの記録には、対空砲火の凄まじさが書かれている。ただミッドウェー海戦の戦訓として対空砲火が極めて不正確で10002000mもそれていた(P221)と書かれている。また、ガダルカナルでも、米軍も食料が尽きかけ、重火器もほとんどない、という状態の危険な時期があった(P240)と述べられているが、海軍の航空攻撃と陸軍の攻撃との連携のなさについては言及されていないように思われる。

 ミッドウェー海戦については、簡単に述べる、と言っている割には陸上機と艦上機の連続攻撃について時系列的によく整理されている。これを読めば、いくら防空隊が連続攻撃をうまく排除し続けたとしても、日本艦隊はいつかミスを犯して、致命傷を負う確率大であると納得できる。巷間では作戦がばれていたことや索敵がお粗末だったことばかりがいわれているが、ミッドウェー攻略は土台強襲だったのであって、リスクは元々大きかったのである。米軍の上陸作戦が艦艇、航空機ともに圧倒的優位な条件で戦っていたのに対して、ミッドウェー攻略では航空戦力ですら日本軍の方が劣っていた

 最後に「紫電改」にも負けない活躍(P343)と書かれている。氏の言うように巷間の紫電改伝説はあまりに出来過ぎなのであろう。紫電改は優秀ではあったとしながら「・・・集団戦では飛行性能と戦果は直結しない。戦果を決定する要素は、運用・戦術とチームワーク、そして火力。」として五二型丙では火力では紫電改に劣らなかったので、戦い方次第では新型機と同等かそれ以上のスコアを上げることができた、と述べているのが本書の結論なのである。

 現に隼や五式戦なども、カタログデータは圧倒的に米軍機に劣っているが、使い方次第では米軍機に優位に戦っている。恐ろしく鈍足のはずの隼で檜与平氏は低空で逃げるP-51を追いかけ回して、逃がさず撃墜している。いずれにしても従来の航空ライターにない視点は実に面白い。



○零戦と戦艦大和・文春新書

 ありがちなタイトルだが、案外他にはないようである。九人の論者の討論形式である。タイトルにふさわしいと思われたのは、前間孝則、戸高一成、江畑謙介、兵頭二十八の四氏であった。小生は普通は半藤一利氏は忌避するのだが、本書では比較的まともなことを言っている。

勝てるはずだったミッドウェー(P54)

 重巡・筑摩からの索敵機が米機動部隊の上空を飛んだが、索敵の原則に反して雲上を飛んで見逃し、有名な利根四号機が帰りに発見して初報を出した。秦氏に言わせれば、雲下を飛んでいれば勝てた、という。確かに米雷撃隊は、護衛戦闘機を連れずに行って、零戦にほとんど撃墜されて戦果皆無であったなど、当時の米軍の攻撃は勇敢だったが拙劣であった。

 だが急降下爆撃隊は判断も適切であった。珊瑚海海戦の結果を見れば、零戦の強さは別として、米海軍は対空防御は強く攻撃も積極的であった。珊瑚海海戦は祥鳳が滅多打ちで沈没、ヨークタウンと翔鶴が中破し翔鶴は戦列を離れたが、ヨークタウンは飛行甲板を修理して戦線に留まった。瑞鶴はスコールに隠れた幸運で助かった。レキシントンは被害は大きかったが、戦闘航海に支障のなかったのだが、ガソリン誘爆という不運で沈没した。

 そして日本艦隊はポートモレスビー攻略を放棄した。この戦訓から考えられるのは、双方で攻撃隊を出して交戦していれば、日米叩き合いで同程度の被害を出したであろう。そこに陸上機が日本艦隊に襲い掛かっていたら、日本の大敗である。いずれにしても、ミッドウェー攻略は放棄したのに違いない。

 先制攻撃しても必ずしも米艦隊には勝てない、という傾向は既に珊瑚海海戦からあったのである。搭乗員の損失は日本側の方が少ない、ということを澤地久枝氏が検証している。しかし日本が全力で先制攻撃できなかったからそうなったのであって、攻撃していたら搭乗員の被害は惨憺たるものになったであろう。

 マリアナ沖海戦では、米軍は先制攻撃せずに待ち構えた。これは仮説だが、米軍は自軍の防空能力に自信を持っていたばかりではなく、ミッドウェーの戦訓から日本艦隊も米軍程ではないにしても、それなりの防空能力があるから、先制攻撃すれば攻撃隊に、かなりの被害を受けるだろうと判断したのではあるまいか。現に南太平洋海戦も、もろに叩き合いになったが撃沈戦果だけは日本の勝ちである。

 しかし、搭乗員の被害は甚大であった。以上閲するに、巷間言われるようにミッドウェー海戦は、索敵が適切で驕慢さがなければ勝てた、というのは妄想である。単にこれらのミスは空母全滅という、一方的敗北というさらにひどい結果を招いたのに過ぎない。現に作戦前の図上演習でも日本軍敗北という予想が出ていたのに連合艦隊司令部、すなわち山本五十六以下は強行したのである。



◎勝つために必要な覚悟(PP113)

 福田和也氏がドイツの暗号を解読に成功したので、コヴェントリー空襲の日時を正確に知っていたにも関わらず、避難命令を出せば暗号解読がばれる、というのでチャーチルはコヴェントリー市民を見殺しにしたという、比較的有名なエピソードを語っている。それに反して日本では平時の論理を戦時に持ち込んで、人事でも戦略でも失敗したというのである。特に山本五十六の人事は日本的である。ミッドウェーの敗北の責任も取らなかったばかりか、部下にも情けをかけすぎている。その癖黒島人という異常な人物を好んで使っている。情実が客観的判断に遥かに優先されているのである。

◎エリートがパイロットに(P155)

 父ブッシュは名門出身なのに真っ先に海軍に志願して二回も日本軍撃墜されている。ブッシュはアベンジャー雷撃機のパイロットで撃墜され、同乗者は戦死したとは聞いたが、二度も落とされているとはしらなかった。だから「・・・日本では、中学にも行けないような貧しい人々が兵隊としてパイロットになり、逆に学徒動員が悲劇として語られる文化です。本当は悲劇ではなく、ようやく欧米並みになっただけでしょう」というのが真実である。

 後年大統領になった人物では、ブッシュは撃墜され、ケネディーは撃沈され後遺症を負い、ジョンソンだったと思うが、B-26に乗っていて、撃墜王坂井三郎機に発見されて撃墜されかけた、というエピソードがあるが、米軍記録によれば、その時ジョンソン機はエンジン故障で引き返したということになっている。フォード大統領も志願し、太平洋戦線で軽空母に乗り組んでいて、台風の被害で危険な目にあっている。これらは全て対日戦であり、欧州戦線ではこのようなことはなかった。やはり対日戦は米国にとっても熾烈だったのである。

 ちなみに、後の大統領で、若かりし頃第二次大戦の前線に居た経験がある者は、ケネディー、ジョンソン、ニクソン、フォードの四人であるが、いずれも太平洋戦線であったのは偶然であろうか。将来のエリートは楽な大平洋戦線に配属されたとは言えまい。そのうち二人は戦死してもおかしくなかったのだから。

◎造船と航空産業の差(P179)

 兵頭二十八氏が堀越氏の「零戦」を読んで烈風の誉エンジンのプラグが汚れてうまく動かないのは、ガソリンのオクタン価が低いからだ、と書いてあったことに初歩的な疑問を感じた、というのである。プラグが汚れる原因には、ピストンリングやシリンダーの工作精度が低かったことによる、外部潤滑油の混焼もあったのではないか。

 とすれば堀越推薦のMK9Aエンジンでも同じことが言えるのではないか。堀越氏は、実際のものつくりの最前線や量産ラインを知らずにいたのではないか、というのである。一般的には堀越氏が生産現場に通じていない、というのは言えると思う。ある機械設計者に聞いたのだが、工場に製作図面を出すと、こんなもの作れるかと突っ返されることが、ままあったというのである。

 図面上では書けるが、溶接しようとすると、そこに手が入らないようなことが、あるのだそうである。設計者はこうして鍛えられているのだが、機体の設計者がエンジンの生産ラインに通じている、というのはトレーニングの場がないので困難であろう。またシリンダー内に潤滑油が入り込み混焼するのは、程度の差があれ避けられないことである。

 ピストンリング等の精度が悪ければ、混焼がひどくなるのも当然である。しかし、その潤滑油というのはクランクケースに貯められたものであって、「外部潤滑油」という別なものを想定しているのか意味不明である。別の著書で兵頭氏は、レシプロエンジンにはオクタン価というものが大切なようです、という明白な間違いを書いている。オクタン価の意味を知らない兵頭氏が堀越氏の意見を批評するのも異な気がする。

 小生は、さらに堀越氏の説明を兵頭氏より深読みしたい。オクタン価が低すぎるガソリンで運転すると、エンジンはブースと圧等の使用制限をしないとノッキングにより使えないので、性能が下がるのは当然である。加えて堀越氏が低オクタン燃料でプラグが汚れてうまく動かない、と言っているのは、使用制限による性能低下に加えて、異常燃焼によるプラグの汚れによって、さらなる性能低下をもたらす、と言っているのではなかろうか。とすれば堀越氏は使用現場を知っているのである。

◎後継機ができなかった(P178)

 ここでも兵頭氏はの高高度爆撃機を迎撃するエンジンは、空冷ではだめで液冷が必要である、という持論を言っている。しかしP-47のように空冷大馬力のエンジンに高高度飛行用の排気タービンをつけて成功した例は珍しくない。むしろ多気筒化による大馬力化が可能なエンジンは、空冷の方が作りやすい。なるほど液冷は冷却は確実であるが、V型12気筒が限界で、24気筒にするためにH型、X型、W型というエンジンが試みられているが、成功例は稀であり、皆例外なくトラブルにあっている。

 それでは、V型14気筒ならば、というがエンジン配置には振動に対するバランスが必要であるのと、クランクシャフトが長くなり過ぎて精度が確保できないのである。V型12気筒のシリンダ容積を増やせば良いのだろうが、冷却に必要なシリンダ面積は寸法の二乗に比例し、発熱量はシリンダ容積だから、寸法の三乗に比例する。つまり発熱に見合った冷却可能な限界が存在するのである。当時の液冷エンジンは、当時の技術水準で冷却可能なシリンダ容積の限界に達していたのである。

 本書の兵頭氏は、いつもの冴えが見えない。アイオワ級は33ノットまで出るのに、大和は27ノットしか出ないから高速空母艦隊に随伴できない(P119)、と言ったのを清水氏に、サウスダコタ級は同じく27ノットだったが、必死に空母について行っているから、作戦次第だと反論されている。その通りであろう。一体空母が全速を出すのは発艦作業するときなのだから。

 米海軍で33ノットが出せたのはアイオワ級4隻だけで、ノースカロライナ級、サウスダコタ級6隻だけが27~28ノットであり、その他大勢は23ノットがやっとの鈍足だった。ただし、大和級とアイオワ級の対決となった時の速度差は、間合いの主導権を取られたであろう、という指摘は正しい。一体東郷艦隊は、優速と比較的小口径の多数の砲の、多量の射撃でバルチック艦隊を撃破した。

 日本海軍はその後の大口径砲の威力の魅力に負け、常に保っていた米艦隊よりの優速というセオリーを放棄した。そもそも大和が30ノットを放棄したのは大口径砲搭載の他に、主機の温度と圧力が低く、小型で高出力の主機を設計できなかったことにある。その原因はひとえに技術力の差と言うしかない。



知られざる空母の秘密


・艦上機と艦載機

 艦上機と艦載機の違いについては、流石に正確に書かれている。以前航空雑誌にも書いてあったが、曖昧だったと記憶している。要するにこの区別は日本海軍によるもので、艦上機は空母で使うもの、艦載機は戦艦その他の空母以外で運用されるもので、一般には水上機であるということである。

 ただ現代では、ヘリコプターやVTOLなどが登場し、強襲揚陸艦などのように空母の姿をしているものなど、艦種も曖昧になっているので、艦上機と艦載機と区別を厳格にする意味がないので、この本では全て艦載機と称するとしている。

 それでも疑問に思われることはある。例えばF-14トムキャットは日本では艦上戦闘機、と呼ぶのが一般的である。艦載機と言ってもおかしくはないが、艦載戦闘機とは言わないだろうと思うが、枝葉末節のことだろう。

 また、戦時中の報道では新聞でもラジオでも、「敵艦載機が・・・」と呼び慣らされていて、艦上機という言葉は使われていない。まさか水上機が本土空襲をするはずがないから海軍用語から言えばすべて艦上機である。その影響もあってか、国語的には艦上機も含めて、全て艦載機と呼ぶのが一般的であろうと思う。

 これは小生の推測だが、海軍の広報担当が、プレス発表するとき、艦上機と知っていても、国語的に分かりやすいと判断して、あえて艦載機と言ったと思われる。それで艦載機という言葉が定着したのであろう。


艦橋が右舷にある理由


 不思議に思ったのは、本書には空母の艦橋が右舷にある理由が書かれていないことである。そもそも空母は一部の例外を除き、艦橋が右舷にあることすら書かれていないようなのである。右舷にある理由は簡単で、レシプロエンジンのプロペラは前方に向かって時計まわり回転するので、トルクで機体が左方向に進みたがるから左舷に艦橋があると危険なのである。ところが国内で刊行されている出版物で、そのことを書いたものを見たことがない。

 そこでホームページにも書いたが、同じ趣旨のことを「世界の艦船」に投書したら採用された。同誌の編集関係者にも意外だったのであろう。



書評・山本五十六・田中宏巳・吉川弘文館


 この本を読んだきっかけは、ある本で米内光正・山本五十六・井上成美の3人が日独伊三国同盟に反対した、という事実はない、と本書に書かれていると読んだからである。

 「吉田の三国同盟反対論は、第一次交渉に反対した山本や米内に比べてずっと激しいものであった。ところが戦後の所作によって、吉田の反対活動が山本、米内、井上らが強く反対した話にすり替えられたとしか思えてならない。損な役回りをした吉田は自殺未遂までし、文字通り命をかけて三国同盟に反対したにもかかわらず、歴史上注目されないまま今日に至っている。」(P153)

 残念ながら、この程度であり事実と言える程度のものはなく、心証に過ぎない。いずれにしても山本が三国同盟に反対したとしても、しなかったとしても、その動機は海軍官僚としての省益確保のためであったとしか考えられない。

 珊瑚海海戦は世界初の空母機動部隊による海戦で有名である。当然「戦訓は報告書の形でまとめられて、第四艦隊司令部から連合艦隊司令部に上げられた。」(P219)のであるが、連合艦隊司令部では、この攻略作戦の失敗は第四艦隊と第五航空艦隊が未熟であったことがすべての原因であったとして何の戦訓も得ようとしなかった。

 それどころか、報告書に「バカめ」と朱書されていたというのである。問題は「井上の司令部から上がってきた報告書を彼(山本)がじっくり読んだという記録がない。部下たちが第四艦隊と第五航空艦隊を罵倒するのを止めようともせず、それを黙認した。あとで山本は、指揮官として失格の井上は、江田島の校長に転出するだろうと部下に冷ややかに語っていた・・・(P220)」というのだから話にならない。

 しかし、このエピソードはマレー沖海戦の戦果に部下とビールで賭けをしたとか、ガダルカナルで陸軍の兵士が餓死するのをトラック島の大和で知りながら、平然と豪華な食事をして何ら救出策を講じなかったことを考えれば、意外ではない。

 はしがきに書かれているように、山本の生涯を綴った伝記は少なく、原因は書簡以外の記録が少ないためである。本書はこれを歴史学的方法論によって、山本伝説を再検討することにつとめた、としているがある程度成功しているように思われる。過度に批判的になるか、顕彰的になるかの中庸をいっているように思われる。



日本列島防衛論・中西輝政・田母神俊雄・幻冬舎

・日本と英国の類似点と相違点について

類似点:島国という閉鎖社会だから信用が必要となる。狭いから逃げ出すところがないから、同じ人たちと長く付き合わなければならないからである。信用で生きているから慣習法のようなもので、物事が決まる。だから日英人共に大陸の人間から本音が分からないといわれる。(P47)

相違点:大陸を隔てる海峡が、英国では狭く流れも緩く、周辺の海も穏やか。日本はその逆。そのため英国人は外洋進出したのに、冒険心の強い日本が日本に閉じこもった。外国から攻めにくいが、外にも出にくい。(P62)イギリス人やスペイン人たちが、海洋に出たのは、陸路がイスラム圏に抑えられていたからだ、と説明するのも納得できるが、この説明も正しいのだろう。

・日本は戦後戦争している

 日本は朝鮮戦争の時、海上保安庁が掃海に行って死者が出ている。(P88)その通りで、平和憲法を唱える人たちが、このことを看過し、拉致問題も長く無きことにしてきたのである。戦後は憲法9条のおかげで戦争もしなければ、犠牲者も無かったという虚構が壊れるからである。竹島も奪われた。日本は戦後「平和憲法」のもとで侵略されたのである。

・アメリカは衰退する(P172)

 中東に手を出して、生きのびた島国帝国はない、というのが中西氏の命題である。英国の衰退の原因のひとつは、中東に関与し過ぎたためである。英国はインドを支配した時、通過点である中東は部族の首長を買収して間接支配していた。ところが石油時代になると本格的に干渉に言って失敗した。アメリカも中東で失敗しつつある。

 もうひとつは過度に国際化すると、国家の中心が拡散して老化する、というのである。田母神氏は、自衛隊が状況を説明する時日本地図を持ちだすが、アメリカは自国が中心にある世界地図を持ちだすと言う。中西氏は、これがアメリカが過度に国際化した証拠であり、ベトナムでの敗戦で限度を悟ればよかったというのである。世界中がアメリカである、という意識になっているのが「終わりのはじまり」だという。

 ちなみにアメリカは巨大な島国だというのであるが、かつてアメリカは中南米に閉じこもろうとする、モンロー主義とヨーロッパや支那に干渉する、国際主義に揺れ動いた。現在のオバマ大統領は世界の警察官は止めた、と言ってモンロー主義を目指しているように見えるが、アメリカの政治経済は国際主義から逃げるつもりはないようである。

・中国という「共通の敵」出現は日本の幸運(P216)

 今、中国が外洋進出しようとしているのは、島国としてアメリカと対決することになろうとしている。大島国は並び立たずの原則から、日本は大東亜戦争で負けたが、冷戦の終結で再び米国と対峙しなければならなかったのかも知れないが、中国の進出は日本にとって幸運だった、というのである。



嘘だらけの日露近現代史・倉山満・扶桑社新書

 例によって冒頭からロシアの法則をぶち上げる。

一、何があっても外交で生き残る

二、とにかく自分を強く大きく見せる


三、絶対に(大国相手)の二正面作戦はしない

四、戦争の財源はどうにかしてひねりだす

五、弱いヤツはつぶす

六、受けた恩は必ず仇で返す

七、約束を破ったときこそ自己正当化する

八、どうにもならなくなったらキレイごとでごまかす

というのである。確かに日独との2正面作戦は避けたし、日本が敗戦確実になって突如攻め込んで、日ソ中立条約を破った時、かつての日本の関特演を持ちだして正当化し、日本にもその支持者すらいる。倉山氏の慧眼はロシア人は国際法に無知だから国際法を破るのではなく、深く理解しているから破るのだと喝破した。

 日本が幕末にうまく立ち回れたのは付け焼刃ではなく、江戸幕府の二人の政治家のおかげであるという。一人は徳川吉宗で、キリスト教と関係のない洋書の輸入を解禁したのが、1720年で、これにより洋学が急速に進歩した。キリスト教と関係のない西洋の書物はほとんどないから、この条件はあってなきが如しであった。

 清朝でも同時期に乾隆帝が似たような策を実行するが続かなかったのが、日清の運命の差を決めたのである。もう一人は田沼意次である。田沼はロシアが日本の脅威であると明確に認識し、公儀隠密を蝦夷地に派遣し、報告書を書かせている。択捉や得撫島の探索も行わせる。(P65)日本が明治維新に成功したのも長年の情報の蓄積があったのも事実であるが、これを可能にしたのは日本人の生来の好奇心であろう。

侵略という概念を考えた時、国際法上の意味について考える必要がある。国際法すなわち「外交のルールはウェストファリア体制です。三十年戦争の講和条約である一六四八年のウェストファリア条約は、近代国家社会のルールを形づくりました。・・・ウェストファリア体制の肝は『戦争とは国家と国家の決闘である。』という考えです。」

ところが「・・・ヴェルサイユ体制でルールそのものが変わったと説明されます。・・・目的を達成したら戦いをやめる決闘から、相手を抹殺するまでやめない総力戦への変更です。」(P166)というのだが、パリ不戦条約はその結実である。侵略戦争の禁止である。だから米国は日独に対して、無条件降伏を要求した。

 かつての国際法のように勝敗の見通しがついたら、講和するというのではなく、相手の政府そのものを倒すまで戦うというのである。現にドイツはベルリンまで攻め込まれて政府が崩壊した。しかし、日本はポツダム宣言という条件付き降伏をしたから、サンフランシスコ講和条約を締結した。

 この意味で日本はウェストファリア体制に基づいて戦争を終えたのであって、大東亜戦争が終えたのは、国際法上はサンフランシスコ講和条約が発効した、昭和27年ということになる。国際法上の終戦が昭和27年であるというのは、常識であるといっていい。朝鮮戦争は終結したのではなく、休戦中である、という論理と同じである。

 現在は、と言えば国連憲章は不戦条約を継承していると考えられるが、第二次大戦後の戦争の状況を考えると、ウェストファリア体制は消え去ったとも言えず、かといってヴェルサイユ体制に移行したとも言えず、中途半端な状態が続いている。この意味で戦争の国際法上の地位が不安定になり、強い者勝ちという国際法の本質がむき出しになった、不幸な状態ともいえる。大規模なテロの横行がこれに拍車をかけている。

面白いのは「・・・北一輝は当時から右翼思想家として知られ、とくに陸軍の青年将校に影響力を持ちました。狂信的までに、反英米を煽ります。・・・研究が進むにつれ、北がソ連に奉仕していたことがどんどん明らかになってきて」いるし、ソ連のスパイだったと断言する人さえいる(P171)というのである。

 北の「国体論と純正社会主義」を読んだことがあるが、天皇は「国民の天皇」であり、私有財産の限度額を設ける、というものである。ソ連のでは貧乏人ですら実態として個人資産がない、などということはあり得ず、党幹部に至っては国家資産を私有化している、という無理かつインチキな社会主義で、私有財産の全面否定などはあり得なかったから、北が「純正」社会主義を標榜したのは、実現可能という意味で正しい。

 北の国民の天皇などというのは、天皇を否定する訳にはいかないための方便とも言える。天皇の権威と天皇に対する畏敬を本質的に否定しているからである。当局が発禁にするのも、当時としては当然であった。ソ満国境で日ソが衝突しているにも関わらず、ソ連に対する危機意識を言わず、反英米だけを言うのは、明らかにソ連を利するものである。ソ連スパイ説があっても不思議ではない。

 日本政府や軍の中枢にソ連シンパやスパイがいた、という事自体はゾルゲ事件でもはっきりしているが、全貌は分からない。しかしノモンハン事変の「・・・第二十三師団を率いた小松原道太郎中将は、ハニートラップにかかっていたことが、日露の研究者により指摘されています。」(P201)というのには呆れる他ない。ただ倉山氏の本全般に言えるのだが、出典を明記しないことが多いのは少々困る。

 P220に「韓国人の研究者が発見した資料でわかったのですが、スターリンはわざと国連総会を欠席して、アメリカが提案した国連軍を組織することを邪魔しませんでした。」というのも、なるほどと思うだけ、出典を知りたいのである。

ファシズムとは、党が国家の上位にある体制のことです。」(P227)という定義は明快で、巷間言われるように、全体主義だとか、軍国主義だとかいうのは定義になっていない。ナチスドイツもソ連も中共も、確かに党が国家を支配しているからファシズムであり、日本は大政翼賛会の時代ですら、政府が最上位にあった。ポツダム宣言受諾は軍や政党が決定したのではなく、日本政府が御前会議で決定したのである。

 すると「ソ連はロシア帝国を乗っ取って成立した国家です。」(P243)という言辞も理解できる。だからゴルバチョフがソ連共産党書記長になってその立場で大統領に就任したとき事実上、ファシズム体制が崩壊したから最終的にソ連帝国が崩壊したというのも納得できる。

 読後感であるが、相変わらず知らされることが多いと感じた次第である。



技術者たちの敗戦・前間孝則・草思社文庫

 堀越二郎をはじめとする、主として兵器設計に携わった技術者たちの戦中戦後を各章ごとに記述する体裁となっている。

 最も興味深いのはやはり、堀越二郎であった。それは、小生の堀越観をさらに深めてくれるものであり、一般に堀越が伝説的な名設計者であると言う、最近の零戦神話と組み合わさったものと、ほど遠いものである。兵頭二十八氏だったと思うが、現在の日本の零戦神話は、戦後の奥宮正武氏との共著が始まりであったことを指摘しているが、本書も全く同じことを書いている(P41)。

 さらに零戦神話は、戦った米パイロットの語られる零戦の強さによって伝説と化していった。そうすると、堀越はそれまでは、「零戦に対する欠点や自己反省を口にしていた頃とはかなり異なる姿勢をとるようになっていく・・・零戦をポジティブに語る姿が目立つようになった。物静かな紳士であるとともに、技術者として絶対的自信を深めているかのように見受けられた。(P60)というのである。堀越は一貫した信念の持ち主であったように思われているが、実はこのように評判に敏い普通の人物であったのである。

 戦後の飛行機設計技術者として信頼のおける論評をしている、鳥養鶴雄氏は零戦を通じて憧れた堀越にYS11の設計で接して、的外れのクレームをつけられたばかりではなく、「実際に接した堀越さんは、われわれには、この子供たちになにがわかるのか、という態度でほとんどコミュニケーションが成り立ちませんでした」と語る。この印象はYS11に関係した若い設計者全般に共通していて「堀越さんはちょっと冷たくて、近寄りがたいところがある人だった。・・・」(P53)というのである。

 「緻密で融通がきかない職人的スペシャリスト」という項を設けて、「・・・堀越の性格を簡単にいってしまえば、専門性に徹して没入するタイプの、航空機設計の職人的スペシャリストである。・・・自ら集団に溶け込もうとする性格でもなく、・・・自分の世界に閉じこもって思索するタイプだっただけに管理者向きではなかった。」と論評している。戦前一緒に働いた後輩たちは、三菱重工の副社長や三菱自動車の社長まで歴任する人が何人も出たのに、堀越はラインの部長にすらなれず、顧問的立場の技師長どまりだった。

 何で読んだか忘れたが、堀越が防大教授をしたときの教え子が、彼の授業は、飛行機の重量軽減のことばかり言い、毎回機体の重量計算ばかりさせていたと書かれていた。しかも、別のものに載せられた二人の証言だから間違いではあるまい。もちろん批判的な言い方ではなかったと記憶している。不思議な授業もあるものである。

 職人的設計者とは堀越について以前から感じていたことである。職人気質というのは、自分自身で物を加工する、ものづくりでは素晴らしい資質であるが、技術者に冠すると間違いなく欠陥があると言っているのに違いない。堀越に限らず、戦前の飛行機設計者は設計技術の多くを欧米の技術に依拠していたにもかかわらず、それについて語ることは極めて少ない。

 ところが「堀越さん自身、米極東軍がおぜん立てしていた戦前の航空技術者のあつまりでは、零戦の欠点や欧米機の真似をしたことを正直に吐露していたりした。」(P38)というのだから驚く。著書の零戦では日本の基礎工業技術力や海軍の航空行政については辛辣な批判を展開しているものの、米軍による会合で述べたであろうことは書かれていない。

 また、米軍が零戦の空戦性能を高く評価していた、というのだが、ある証言によると朝鮮戦争で来日した第二次大戦時の米パイロットに、零戦と同じ空冷星型で低翼単葉樹の写真を見せると、零戦以外でも全て「零戦だ」といったと言う。(P38)これは案外知られていることで、隼などの陸軍機についても、米軍の専門の技術者はともかく、米軍の現場のパイロットは大戦初期にはけっこう苦しめられていて、これを一羽ひとからげに、「零戦」として恐れていたのである。

 また大本営は昭和十九年秋に、大本営が「海軍・零式戦闘機」として国民に広くアピールした(P35)というのだが、陸軍の一式戦闘機などは早くから「隼」の呼称が宣伝され、飛行六十四戦隊歌、いわゆる加藤隼戦闘隊の歌や、昭和十九年に公開された映画「加藤隼戦闘隊」で実機を使った空戦シーンなどもある名画で、戦時中から国民の知名度は、零戦に比べ、遥かに高かった。意外でもないが、海軍は一般的には秘密主義で、広報に関しては陸軍の方がよほど積極的であった。



大平洋戦争 最後の証言 第一部 零戦・特攻編 門田隆将

 タイトルからして「太平洋戦争」は気に入らないが、仕方ない。目についたエピソードだけピックアップしていく。真珠湾とミッドウェーで戦った艦攻乗りの前田は「・・・山本長官の部下から聞いたんですよ。艦攻は何があっても、魚雷をおろして爆弾を積みかえるのは禁止する、とまで山本長官は厳命していたことも聞きました。出航する時の打ち合わせでも、赤城と加賀の二隻は絶対に魚雷攻撃以外を考えちゃいかんと、言われていた。・・・」(P65)として兵装転換の責任は源田参謀と南雲長官にある、と言うのだ。

 これは眉唾ものである。これによれば、赤城と加賀が対艦戦闘専用で、飛龍と蒼龍は地上攻撃専用と言うことになる。赤城と加賀は、陸上攻撃禁止だというのだ。左近允氏のミッドウェー海戦では、運命の五分間の嘘を明白にしているが、南雲長官は連合艦隊司令部から半数の艦上機は敵艦隊に対する攻撃に備えよと指示されていたと、この説と似たような見解である。一般的にもこの説が流布されているが、この説を裏付ける証拠はない。

 元々山本長官がミッドウェー攻撃に執着したのは、ホーネットによる本土空襲に狼狽して、こんなことがないようにハワイ占領の前哨戦としたかったからである。つまり敵空母撃滅はおまけであって、本命はミッドウェーの占領であった。あたかも米空母を釣りだすために、ミッドウェー攻略を企画したごとくに言うものがいるが、空母を釣りだす陽動作戦に、これだけの攻略部隊まで編成すると言うのは、本末転倒である。

 そもそも、米空母が出てくるから、半数を対艦攻撃装備にしておく、という発想がおかしい。米空母の攻撃に備えるばかりでなく、あり得る米海軍の上陸作戦阻止攻撃に備える、ということのはずである。つまり上陸作戦を成功させるために、あらゆる敵艦隊や陸上部隊の反撃に備えると言うことである。連合艦隊司令部の米空母に備えよ、という指示は、従来の艦隊決戦の発想に囚われていて、上陸作戦と言う目的を忘れている。少なくとも日露戦争までの日本海軍は、そのような間違いはなかった。

 前田氏は、海兵出身の偵察機が、利根機より先に米艦爆と空中戦をしているのに、報告していないと言う怠慢をしたのに、利根の索敵機のミスにされているのは、海兵に責任を負わさずに、利根の甲飛出身のせいにしたのだ(P66)としているのは、あり得る。どうも海軍のエリートの保身には、あきれる他ない。その上、この海兵出身者は戦後海自で出世しているというのだから。旧海軍のエリート幹部には、国なくして海軍があるのである。

 特攻隊の嫌なエピソード。葉桜隊は、全機が体当たりに成功すると言う戦果を挙げたが、命令した中島飛校長以下の士官たちが、その夜、西洋館でビールを開けて大宴会をしていた(P121)というのだ。特攻は必要であったとしても、大西長官のように特攻は「統帥の外道」という苦悩すらない。

 その反対に、鹿屋にいた岡村司令は、たとえ1機でも、出撃の別杯式の時は必ずやって来るが、他の士官や指揮官は誰も来なかったという(P196)。戦後岡村は、鹿屋から沖縄の基地をずっと回り、海に花束を投げて慰霊していたが、終わると千葉の自宅近くで鉄道自殺をとげたという。せめてこういう話は救われる気がする。

 この証言をした長浜氏は、桜花を積んだ1式陸攻で出撃した。(P190)直援機がいないからグラマンにすぐ襲われ、次々と機銃弾が命中するが墜落しない。図体が大きい1式陸攻だから耐えられるが、小さな零戦ならバラバラにっなっていたろうという。出直すために桜花を投下するが、グラマンに攻撃され、ようやく基地に帰投した。このエピソードから分かるのは、1式陸攻のタフさである。発火さえしなければ、簡単に堕ちないのである。

 パイロットの角田は、零戦に乗り換えたときの感想で「・・・支那事変当時の九六式艦上戦闘機の場合は、お互いの飛行機同士や、それから母艦、戦艦、巡洋艦あたりとも交信できました。でも、零戦になってから一回も通信できなかったですね。これはうちばかりではなくて、どこの部隊でも、そうだったようです。(P134)」というのは実に不思議な話である。何せ新型機の無線機の性能が旧型機より相当悪化したと言うのだから。



帝国憲法の真実・倉山満・扶桑社新書

 もちろん倉山氏の著書を読むのは、教えられることが多いからである。だが時々論理をきちんと説明しないことと、言葉使いに違和感を覚える。後者は例えば本書で、アメリカを評して「これは、『余裕ブッこいている』以外の何ものでもありません」(P60)あたりです。もちろん「」なので例えではあろうが、余りに言葉が粗野である。ですます調で通しているから、ますます奇異に感じる。

 このことは、歴史上の人物に一方的に悪罵を加えるのと軌を一にしている。だからといって小生にとって氏の著書の価値を下げるものではない。ただ理解を妨げることがあろうことを恐れる。品のいい物いいをすればいいというものでもない。しかし、文章を公にする以上、最低限度の格調と言うものがあろうと思うのである。

 閑話休題。最大の興味ある命題は、自衛隊は軍隊ではない、ということである。護憲派の人たちに言わせると憲法九条では、戦力の保持が禁止されているから、自衛隊は違憲の軍隊だから廃止すべき、というのが本音である。だが倉山氏は、九条を改正したところで軍隊にはなり得ない、というのである。

 国際法上の軍隊の定義は①責任ある指揮官のもとに、②識別しうる標識を有し、③公然と武器を携行し④戦争法規を守る集団であること(P54)であるから、自衛隊は確かに国際法上は軍隊である。自衛隊は警察官僚が大勢参加した結果、法体系が警察型になった。警察は許可されたことだけしかできない、ポジティブリスト型で、国際的には軍隊とは、禁止されたこと以外は何をしてもよい、というネガティブリスト方式である(P58)。

 例えば、領空侵犯されると自衛隊機は2機でスクランブルし、1機が攻撃されるとようやく、正当防衛で反撃できる、というものである。国際法上、軍隊は警告射撃し、それでも領空から退去しないと、撃墜するのだが、自衛隊法で禁止されている。つまり自衛隊は軍隊もどきであって、戦車や戦闘機といった、普通の警察が持ち得ない威力が大きい兵器を持つモンスター警察なのである。つまり倉山氏が言う通り、国内法の立場で考えるなら、日本に軍隊はないのである。

 憲法とは何か。(P123)憲法とは国家体制そのものであるから「国体」である。英語のconstitutionは憲法と国家体制の二つの意味に訳される。正確には二つは同じ意味なのである。国体とは、その国の歴史、文化や伝統に則っている。すると日本国憲法のような成文憲法とは厳密には「憲法典」と呼ぶべきである。自民党の赤池参議院議員は「現行憲法は憲法違反の憲法だ」と言っても誰も意味がわからなかったそうであるが、憲法を国体と解し、成文憲法である日本国憲法と区別すれば、この見解は正しい。すなわち占領軍は日本の歴史、伝統、文化を破壊する目的で現憲法を作ったからである。(P126)

 本書の主意のひとつは、日本国憲法の前文には「暗号」が隠されている、ということであろう。日本国憲法の前文は英語の原文の直訳だから、極端に醜い日本語である。自然な日本語にこなれたものにすればできないことはなかったのに、敢て当時の日本人は、下手な直訳にしたか。それは「この憲法は日本人の手によるものではなく、アメリカ人が押し付けてきたので、日本政府は嫌々受け入れているのだ」(P26)というのである。

 だが人間の心理とは不可思議なものである。戦後の日本人は、子供の頃から長い間、日本国憲法とは、平和と民主主義、国民主権の有り難いものだ、と教育された結果、この暗号を読み取れなくなってしまっているのが現実である。アイドルが読んだ日本国憲法なるヨイショ本まで出ている位だから、病膏肓に入ったというべきであろう。あたかも翻訳調であるかのような見苦しい日本語の大江健三郎の作品が売れ、欧米言語に訳しやすい結果、ノーベル文学賞をもらったのも、大江が日本国憲法に膝まづく人であることとも関係はあろう。



戦犯虐待の記録・佐藤亮一・国書刊行会

 文字通り、大東亜戦争後に練護国の捕虜となった方たちの虐待の記録である。もちろん戦犯などと言うのは、嘘でっち上げであり、捕虜を虐待するための口実である。連合国は、緒戦で敗北した姿を植民地の人々に見られる屈辱を味わい、その結果、植民地が独立してしまったための復讐をしたのである。有名な会田雄次氏の「アーロン収容所」とは桁違いの連合軍による残虐行為が書かれている。

 それも戦中、怒りや恐怖に駆られての虐待なら、心情として理解できなくはない。だが戦後冷静になってから平和な時期の非道を極めた虐待である。虐待のあげくの殺人などは珍しくもない。これらの行為は、欧米の植民地で日常に行われていたことと同一であろう。欧米の植民地支配に対する、現代日本人の無理解には、とんでもないものがある。結局、辛くて読破できなかったのは、著者や犠牲者の方々に申し訳ない次第である。

 だひとつ「旧来の国際慣例からいっても、講和成立とともに戦犯者に対しては大赦が行われ、たとえ大赦条項が適用されなくとも、当然のこととして戦犯は放免されるのが常であった。第一次大戦後のベルサイユ条約でも、ドイツ戦犯者の引渡し要求は事実上空文と化し、ドイツみずから、国内裁判で、きわめて少数のものを軽い刑に服させたのみである。(P31)」と指摘しているのも重要である。結局第二次大戦後は、連合国はこの慣例を無視するという時代に逆行することを行ったことが書かれていることを指摘しておく。



日本軍の敗因 「勝てない軍隊」の組織論 藤井非三四 学研

 近年の著書なので、意外性を期待したが、従来の日本軍批判と大差なかった。根本が戦後流布された日本罪悪史観に汚染されている。ポツダム宣言が無条件降伏を言っているのは国際通念に対して異常だから、説明を求めて有利な条件を引き出すことができたはずた、(P38)というのだが、これは一部の人と同じく、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏を求めているのに、国家の無条件降伏と混同しているとしか考えられない。それに、向こうは交渉する気がないのに、この期に及んでどんな有利な条件が引き出せたのか、不可解な論としか言いようがない。

 ・・・ほとんどの日本人はアジアの人々を蔑視していたのが実情で、そのアジアの人々のために死んでも構わないと考えているものがいたとしたら、それはごく少数の奇特な人だけだったろう(P35)。現実にはインドネシアですら、3千人の日本兵が残留し、戦い千人が亡くなっている。これだけの人たちは残ったが、現地に心を惹かれても望郷の思いから帰国を選択した人々が多かったのは当然である。

 奇特という言葉には、もの好きだと言う厭味が感じられて仕方ない。これだけの多数が他国の独立運動に敢て残ったと言うのは、歴史上稀であろう。現在では無視されようとしているが、アジア各地ばかりではなく、支那でさえ日本兵と現地人との心温まる交情はあった。著者はこれらを無視するのである。ものごとは相対的なものである。欧米人が有色人種を人間ではなく、獣扱いして残虐行為を繰り返していたのとは、日本人のアジア人蔑視とは桁が遥かに違う。幕末の西欧の接触と共に、ほとんどの日本人がアジアの植民地化に憤ったのは事実である。

 そして対米開戦と共にその気持ちを明確にしたのである。母は尋常小学校出であるが、対米開戦と聞いて、それまでの曇った気持ちが晴れ晴れとしたという意味の事を言ったが、子供の頃だったから聞いた当時は意外であった。今にして思えば、アジア人同士が戦う支那事変でなく、真の敵である米英と戦うことの正々堂々の気持ちを実感したと理解できるのである。一部知識人は例外として多くの庶民はそう思ったのである。勝てない戦争が始まったと思って暗澹たる気持ちになったなどと言うのは、ごく少数の例外に違いないか、嘘つきであろう。

 昭和十八年に東條首相が海外放送で「・・・正に戦いに疲れ、前途の不安に襲われ、焦燥する彼ら指導者が・・・洵に笑止の至りである」と語ったのは、国内向けとしてはいいが、戦争は理念の戦いだから、海外に対しては「大東亜新秩序」について鮮明に語るべきであった。(33)というのだが、日本を叩きつぶそうとして日本人の言葉など無視している欧米に、大東亜新秩序の理念を語ったところで「笑止」されるだけである。

 日本は大東亜会議においてアジアの植民地の独立を鼓舞した。日本の理念を聞いて行動してくれるのは欧米諸国ではなく、非植民地民族なのである。そして日本はそれを語ったと共に戦った。その結果日本が負けても、非植民地民族は決起して成功したのは歴史的事実である。結果論に過ぎないと言うなかれ。西欧の産業革命は、西欧の欲望と有色人種の搾取の結果である。

 日本兵が捕虜ではなく、降伏敵国要員として扱い「・・・戦争捕虜として抑留されているのではないから、イギリスには最善の待遇をする義務がない。そのためイギリスが与える休養は最低限のものとなり、しかもその代償として課せられた労働は、苛酷かつ恥辱にみちたものとなった」(P100)と書くのだが、一見英軍の非人道的扱いへの非難に聞こえるが、実は日本兵に対して酷薄で英国の非道をを擁護する記述である。

 降伏敵国要員と言う言葉は使われたことはあるが、ハーグ条約などの戦争放棄にはない言葉である。なんという用語を使おうと降伏して武装解除されて、相手国に収容されたら、それは国際法所「捕虜」なのである。捕虜ではないから苛酷な扱いも国際法違反ではない、と著者は言っているごとく聞こえる、とんでもない記述である。英国の苛酷な扱いの例として「アーロン収容所」という本の例を出すが、会田雄次氏が書いたのは、降伏敵国要員だから苛酷な扱いを受けたから仕方ないと書いたのではない。

 降伏した日本兵を故意に死に至らしめたり辱めたりする、英国人の残虐行為を非難しているのである。のみならず、会田氏の体験は一兵士の体験だから、氷山の一角より遥かに少ない事例である。例えば佐藤亮一氏の「戦犯虐待の記録」にはいかに連合国が日本人を虐待したかが読むのも辛いほど書かれている。これですら欧米兵士の残虐行為の氷山の一角に過ぎないであろう。

 小生は悲しく思う。日本人は、維新以後、世界で最も善意を尽くして生きていたにもかかわらず、支那や欧米に残虐非道な目に合わされ続けた。だが、逆に日本人が残虐非道なことを行ったと言うプロパガンダに洗脳されてしまった。そして自らの思考で考えている、とまで信じきった悲しい状態である。この本はもちろん読む価値はないとは言わない。しかし、ここに至って読むのを放棄した。


陸軍中野学校 秘密戦士の実態・加藤正夫・光人社

 中野学校卒業者が自ら書いた貴重な本である。本書による中野学校の大東亜戦争への貢献の範囲の広さから、著者が昭和13年ではなく、昭和3年以前に設立されていたらと嘆くのも(P220)納得できる。

 本書には一応中野学校の沿革や教育についても書かれているが、それよりも大東亜戦争における謀略活動以上に、戦闘にも多方面に参加していたのが、意外であった。F機関などの東南アジアでの独立運動は当然として、インドのINAのサポートを通じてのインパール作戦、義烈空挺隊、シベリア抑留、終戦工作等、活動が広範なのには驚かされる。

 また、現代の我々が再認識しなければならないのは、P59やP93に書かれているように、インドやインドネシアの日本軍への協力が、自発的なというより、彼らの独立への熱望から為されていた、という今の日本史から故意に削除されている事実であろう。前述のように、多分中野学校出身者自身の著書としては唯一であるから必読である。



「坂の上の雲」では分からない、日露戦争陸戦・別宮暖朗

 著者を信頼して読めば面白い視点の好著である。しかし、学術論文に匹敵すべき内容を包含している、という観点からすれば、学術論文としては論証に精緻を欠くし、かといって一般図書として読めば、難解である、というのが小生の読後感である。

 カバーの裏の短評にあるように、日露戦争は兵力に劣った日本陸軍が、作戦能力の良さでカバーしたという司馬遼太郎の持論は間違いで、参謀本部の出来の悪い作戦計画を現場でうまく修正した優秀な指揮官と献身的な兵士がいたから勝てたと言うのである。そもそも兵力量では、ほぼ対等であったと言うのである。

 確かに司馬の見方は一般的に偏見と先入観に満ちている。その意味では、今後実証すべき指摘である。以前横須賀の三笠記念艦に行ったとき、艦内の講話で、元海上自衛隊員だったと思うが、日本海海戦での日露の兵力は、日本の方が多かったから勝てるのは当然だ、と話していたのを思い出す。ただし、秋山眞之が述懐しているように、あれほどの完全勝利は奇跡には違いないのである。

 児玉源太郎が奉天会戦の勝利後、帰国して、戦争を終結させるために来た、と語ったことを司馬が、日本軍は辛勝したのに過ぎずこれ以上の経戦能力はなく、今後も常勝する保証はないと判断した結果で、適切なアドバイスであるとしていて、多くの識者も同意している。しかし、本書では児玉の判断は根本的に変だと言う(P197)。別宮氏の言うのは、そもそも勝者が停戦をすることは、圧倒的に勝利して屈伏させる例外的なことなのだから、相手から講和を申し込ませるなら徹底的に経戦するしかないはずで、講和は敗者が先に申し込むものである、と言うのが大きな理由である。

 小生は別な意味で児玉の講和工作に違和感を感じる。それは山本五十六が、米国には勝てないから戦争に反対した、と称揚する意見に対する違和感と同じである。児玉も山本も軍人である。軍人が政治に口を出せる最大限度は、戦争の見通しであって、開戦や終戦の判断をするのは政治家である。山本を称揚する理由や児玉の講和工作は、その限界を超えている。別宮氏が、政治家は優れた軍事知識を持つ必要がある、と書いているのはその意味で正しい。

 サッチャー首相が、アルゼンチンのフォークランド島占領に対して、軍の最高指揮官に、この戦争に勝てるか、と質問し勝てると断言したので開戦を決断した、というエピソードを聞いたことがあるが、これこそ理想的に近い政治と軍事の関係であろう。ただし、日本が対米開戦を決断したことは、この理想からは例外ではあるが、正しいと言わざるを得ない。あの時点で開戦しなければ日本民族は本当に滅びていたのである。

 別宮らしきユニークな指摘はまだある。それは、伊藤博文らが開戦に反対していたという通説は、誤解による間違いで、開戦に積極的だった人々と、消極的だった人々は通説は全くひっくり返しの評価であると言う。このことを無隣庵会議に言及して証明している。恐らく指摘は正しいのであろう。



保守の心得・倉山満・・・倉山氏の経済考(2)

 戦後日本が高度成長を続けた結果、欧米に追い付けば、当然外国、特に東アジア諸国との物価差も表面化してくる。平成5年頃、アメリカに短期出張した時、一緒に行った他の会社の人は、日本製のゴルフのクラブや高級カメラなどを買って日本に送っていた。運賃を払ってもよほど安かったのだそうである。日本では同じものを高く買わされていたのである。当然、日本には物価を下げるべき圧力がかかる。小生はデフレは、根本的にはこれが原因であると考えている。世界水準からは、今でも高い物価がこれ以上上がったら、発展途上国との物価差が埋まらない。特に外国との競争のある商品は、物価差は重大な障害になる。これがひとつのデフレ圧力であると思う。つまり金融政策ではデフレはなくならないと思うのである。

 倉山氏は、日本の借金は国債として国民に借りているから心配ない(P111)というが果たしてそうだろうか。国債発行残高は千兆円を超えた。この大小はさておくとしても、問題は国債つまり国の借金が増え続けていることである。このままでは無限に増え続けて行くことになる。これはどう考えても無理がある。少なくとも国債発行の残高を減らすことは必要である。建設国債を除く赤字国債の発行はそもそも法律で禁じられているのであり、現在の赤字国債は特例として一時的に認めたのが延々と続いている違法状態である。

 赤字国債を発行して均衡財政から離脱したのが、昭和四十年でそれ以来国債残高は増え続けている。つまり、それまでは健全財政、財政均衡を続けていたのである。赤字国債を続けよというのなら、健全財政から離脱し続ける理由を説明してもらわなければならない。

 若槻禮次郎は「・・いざ戦争となれば、増税をしなければならず、外国から借金もしなければいけない、したがって平時は健全財政を行うこと」(P116)と回顧録に書いている。これが正論だと倉山氏自身が言っているのである。ところが今の財務省は田中角栄によるトラウマから「金融緩和や積極財政は悪い者。増税だけが正義」(P117)と主張している。しかし倉山氏が何と言おうと若槻はあくまでも健全財政を行い、借金はしてはならない、ということを前提としている。

 ところがこの前提がいつの間にか飛ばされて、増税は戦争のような緊急事態でしかしてはならない、ということだけをピックアップしているから話が理解できない。倉山氏はなぜ国債残高が無限に増え続けてもかまわない理由を説明をしないから、小生にはその説の真偽が判断できない。倉山氏は若槻の主張を是としている。それならば、「平時は健全財政」を行うべきである。支出を減らさないとすれば増税しか道はないのである。現に欧米の高福祉国家は消費税10%とは低い方である。

 また、国債は日本国民が持っているから、というがその状態がいつまで続くのか。また金利がゼロに近いからいいが、その状態がいつまで続くのか。国債発行が多くても構わない、という説明は現在の条件が無期限に続くことを前提としている。この世界では、何かの原因でハートのエースがジョーカーに化けるか予測が出来ないのである。

 維新直後の政治家は立派で、大正昭和の政治家はだめになったというのは倉山氏ばかりでなく、多くの論者も語るが皮相的ではあるまいか。確かに近衛首相のようにマルキストに取り囲まれた愚かな政治家はいた。そのため、支那事変は終わらなかった。しかし、日本が孤立したのは、非白人国家で大国の仲間入りした、というのが根本的理由であった。明治の日本は弱小であり、欧米には利用すべき価値があったが、大国となった日本には、その価値が無くなったのである。小生は思う。大日本帝国が滅びんとする時、体当たり攻撃をも辞さなかった昭和の日本国民の指導者が、根本的には愚かであったはずがないのである。

 現在では評判のかんばしくない、永野軍令部総長ですら開戦決定の御前会議後「戦うも亡国、戦わざるも亡国である。だが戦わざれば魂も滅び、真の亡国である。」という主旨のことを語ったのは有名である。現在の日本の指導者でこれだけの見識がある者がいるであろうか。

 増税でアベノミクスが腰砕けになり、景気が悪くなり国力が低下するから外交にも悪い、というのは飛躍している。景気が上下変動するのを阻止するのは不可能である。景気変動があることは当然である。だからといって国力は低下しない。現に日本は世界三位のGDPがある。戦後の高度成長期の間にも、好景気も不景気もあった。

 景気は良くなったり悪くなったりするものであるが、長いスパンでGDPが漸増すればいいのである。いつも好景気を維持するのは不可能である。だから目先の増税で景気が悪化するから増税はすべきではない、という理屈には無理がある。景気が悪化局面にはいってしまえば、減税すれば必ず景気が良くなると言うものでもない。世論を見よ。景気が良ければ、好景気維持のため減税せよといい、景気が悪ければ景気を良くするために減税せよと言う。自分勝手なものではないか。



保守の心得・倉山満・・・倉山氏の経済考(1)

 ここでは倉山氏の経済の見方に対する異論を述べる。「二十五年連続の不況に耐えながら世界第三位のGDPを保ち」(P35)なのだそうである。つまり倉山氏はバブル崩壊以来、日本は不況が続いている、というのである。これは政府の発表する、景気動向指数による景気動向判断によれば、明白な間違いである。時期についての正確な記憶はないが、戦後最長とされる、いざなぎ景気を超える長期の好景気がバブル以後に、確かにあったのである。

 不可解なことに、その当時の報道の文言は「戦後最長のいざなぎ景気を超える、長期の景気回復」であった。いざなぎ景気は「好況」あるいは「好景気」である。それをなぜか「景気回復」と置き換えたのである。まさか倉山氏はそれに眩惑されたのではあるまい。とにかくバブル崩壊以後、好景気と言う言葉は使われなくなった。事実平成十一年には平均株価は二万円を超えていたときがあったのである。

 ところで、倉山氏は「嘘だらけの日韓近現代史」で、景気について次のように書いている。

 小泉政権によって景気は回復軌道にあったとはいえ、根本的にはデフレが続いていました。「史上最長の好況」と言われても、平常に戻るまでに時間がかかりすぎ、・・・日銀総裁が量的緩和の解除という形で裏切り、景気回復策を続けられなくなったのです。(P229)

 これはどういう意味だろう。冒頭に引用した文では、二十五年連続の不況と言いながら、ここでは一転して好景気があったことを認めているのである。次の「平常に戻る」とは何のことだろう。それにしても、好況が長く続いたのは氏も認めているのである。しかも景気が良い状態を維持している時に「景気回復策」が続けられなくなった、というのは言葉の使い方として変ではある。好況が続いている時にすることは「景気回復策」ではなく、「好景気維持策」というのであろう。

 さらに不可解なのは、「おわりに」で

 しかし、二十年続いた不況がさらに二十年続いたら。私と同い年のロストジェネレーション世代は、人生の最も重要な四十年かを希望のない時代として過ごすことになります。(P247)

 と書くのである。再びバブル以後、好景気はなかったと言っているのである。小生は揚げ足取りをするつもりではない。だが矛盾は明白過ぎる。前述のようにバブル崩壊以後、日本の景気報道は、「好景気」という言葉を使うことに極度に慎重になって「景気回復」という言葉で誤魔化している。戦後からバブル崩壊以前までの長い期間は、好況が来たと言ってどんちゃん喜び、不況になったと言って、政府何とかせいと文句を言った。戦後その繰り返しだったのである。それがバブル崩壊で人々の意識は確実に変わった

 変わったのは単に実態のないバブルという状況にはしゃぎ過ぎたことへの反省ばかりではない。バブル期より少し前から、日本経済と世界経済との関係が、それまでとは変わってきたのである。それまでは、戦後のどん底から好況不況の波はあっても、マクロには経済成長まっしぐらだったのである。

 それがとうとう世界のトップランナーの一員になってしまったのである。賃金は上がって相対的に近隣諸国より遥かに高給取りになってしまった。しかも、中国が改革開放政策で、外国資本の導入を始めると、安い賃金で中国人が使えるようになって、国内の製造業は中国にシフトしていった。つまり戦後の高度成長期の日本を取り巻く環境は、バブルの直前から変わっており、バブルとは環境の変化の象徴である。つまり、バブルより前の好景気とは、製造業が、安くて品質のいいものを国内外に販売した結果である。

 しかし、日本の賃金水準が高くなり、物価が高くなると、そのような好景気を作るのが簡単ではなくなった結果、土地の転売や株式投資という、生産ではなく金融で儲けるのが一番手軽な好景気の作り方となった。その結果がバブルである。バブルのきっかけは皆様忘れたろうがNTT株の公開である。プロしか株に手を出さなかったのが、主婦までが株を買い漁れば、株への投資資金が増加するから、株価が上がるのは理の当然である。倉山氏は政治や歴史についてのついでに経済を語っているので仕方ないが、それにしても、上述のような単純な矛盾を犯しているのは不思議である。


保守の心得・倉山満・扶桑社新書

 憲法問題など、得られることが非常に多く、是非一読を勧める。ただ、倉山氏には自分の都合のいい論理を展開する悪癖がたまにあるように思われるのが残念である。三章で財政の重要性を説き、「ゼニカネの話は卑しいのか」と言って保守派言論人には、経済を「ゼニカネの問題」と蔑む人たちがいる(P95)と批判している。ところが、最後に来て「もともと私も経済など「ゼニカネの問題」だと考えていました。今でも心の底では、そう思っています。」(P205)と書き、たかが「ゼニカネの問題」を片付けられないものが、さらに大きな問題を片付けられないと続ける。

 一方でゼニカネの問題と言う人たちをこき下ろしておきながら、自分もそうであるというのは、自分勝手に過ぎまいか。確かに後段では自分自身についての理由を説明しているから、論理の破綻はない。だが自分にだけに弁解する身勝手に感じられる論理展開は不快である。倉山氏の論理にはこのような面が散見されるのである。

 また「保守系論客であることを売りに講演ビジネスに勤しむタレントさんがいます。」(P90)として櫻井よしこ氏を商売のために保守の論陣を張っていると言う。これは侮蔑的言辞でしかない。小生も櫻井氏の言説は特段に得られるものが少ないから、めったに著書を読んだことがない。櫻井氏の意見の変節や矛盾も指摘の通り事実であろう。だからといって、櫻井氏を偽物だとか、営業保守だとか、人格までも誹謗するのはよろしくない。

 「嘘だらけの日米近現代史」でも、リンカーンは極悪人、と断定して解説する、といいながら極悪人とまで断定する根拠は示していない。保守と自称するには、まず紳士であるべきであると小生は思う。それは人を酷評するなと言うことでも、人格をあげつらうなということでもない。それらのことをする場合には明瞭に根拠を示すべきである、と思うのである。

 櫻井氏が保守であるなら、私は保守でなくても結構、と言うのだがこれは狭量に過ぎまいか。あらゆる用語はある意味で「定義」の問題である。倉山氏は当然のことながら保守の定義をしている。その定義から櫻井氏は外れている、という意味なのである。だが保守と言う言葉は、倉山氏の定義するものをも含んだもう少し、幅広い概念も世間では通用している。その概念を使えば櫻井氏も保守に入る。

 保守でなくても結構、というのは、櫻井氏が保守という通念の対極にある、という意味になりかねない。つまり左翼であろう。そんな奇妙なことにはなるまい。倉山氏の論述に論理の破綻はないが自分勝手である、というのはそういう意味である。倉山氏の狭量さが、対極にある陣営に分裂をきたし、結果として自虐的日本人を利しかねないから、私はそんな屁理屈を持ちだすのである。

 自虐的日本人たちも、実際には同じ考えで統一されているわけではない。それでいて、彼らは反日的言動をするとき、仲間内でお前の考えは違う、と内輪もめは決してせず、相互批判をしない。あたかも一枚岩の如くである。だから強いのである。それらに反対すべき人たちは、一枚岩である必要はないが、あまりに内輪もめが過ぎると言わざるを得ない。それで倉山氏を論評したのである。例えば中川八洋氏などは、奥宮正武氏の嘘を正論で論破するなど、明晰な頭脳と見識を持ちながら、小堀桂一郎氏を偽保守だと言わんばかりだから、困ったものである。

 20~30年以上前は、保守と言えば思想界では悪の代名詞のごとくであった。我こそは保守であると堂々と言う人たちが増えた、という風潮はマクロに見れば良い傾向になったのである。そして保守と言いにくかった時代こそ、日本には、日本の侵略行為を海外に向かって反省するような愚かな政治家はいなかった。ところがそんな時代には、バターン死の行進などの嘘を証明する論評もなければ、インパール作戦が、インド独立の契機となったとする論評もなかった。

 ところが近年、日本軍の残虐行為の宣伝が皆嘘ばかりである、と次々と証明されつつあるようになったのに、逆に外交では自虐的傾向が強まっているという不可思議な現象が起きつつある。

「・・・明治の教育を受けた人たちは、昭和の大愚策を行っています。」(P137)と維新直後の政治家は立派で、大正昭和の政治家はだめになったと単純に言うのも皮相的ではあるまいか。第一に、よく言われるように、だめな人間を作った明治の教育システムを作ったのは維新の政治家である。

 マクロに見れば、日清日露戦争の時代と、大東亜戦争での外交環境の違いを無視し過ぎている。前者は二カ国間だけの限定戦争で、講和の調停者がいたのである。後者は世界がほぼふたつに割れていたので、講和の調停者はいようはずがないのである。まして原理主義と言うべきアメリカが主敵であったから、ウェストファリア流の戦時国際法が通用せず、無条件降伏しか選択肢がなかったのは明瞭である。日露戦争の指導者は講和の調停まで手を打ったと賞賛されるが、大東亜戦争の開戦時点では、維新の元勲でもそんな手を打つ余地はなかった

 それを特攻隊や硫黄島、沖縄の敢闘で、辛うじて、ポツダム宣言と言う条件付き講和に持ち込んだのは日本人全体の底力というべきである。それならば、第一次大戦以降、日本が世界から孤立するように外交的選択をしたのが、最後に講和のできない戦争に自ら追い込んだ、というのであろう。確かに幣原外交は愚かであった。しかし、そこでうまく切り抜けたところで、国際社会とは日本を除けば、白人国家社会である。いずれ日本は白人社会にとって不都合な存在となったのである。

 日本が真に国際社会から孤立しないようになるためには、国際社会が有色人種国家を含めた、真の意味での国際社会にするしかなかった。そして日本はそれを成し遂げたのである。小生は、それを偶然の選択だとは思わない。記憶違いでなければ倉山氏は愚行だったと評したと思うが、戦前のフィリピン独立を助けようとした馬鹿な民間人がいたこと、それに類する色々な日本人の潜在的心理や動向の積み重ねが結局大東亜戦争と言う、植民地解放戦争に結実したのである。

 なるほど右翼の大アジア主義などは、現実の外交としてまともに考えたら愚行である。しかし、その愚行も植民地解放戦争への道の一つであった。開戦後インドネシアを占領すると、陸軍中野学校出身者を中心として、PETA(強度防衛義勇軍)を設立したのは、インドネシア解放の情熱を日本陸軍軍人をはじめとする日本人は、持っていたのである。アジア各地の西欧植民地でも同様なことが行われたのは他に説明しようがない。瑣末な巧拙は無視すべきである。これら全ては、アジア解放と言う幻想から生まれたものであり日本だけの立場を考えた狭い意味での政治外交的合理性からは、拙劣と言うべきなのは承知している。

 日本は結局、白人による国際社会でうまく立ち回ることは不可能であった。眼先でうまく立ち回れば立ち回るほど、白人の嫉妬と人種差別観は増大し、結局は日本の政策は破綻したのであろう。倉山氏の外交感覚は素晴らしいと思う。だがそれは過去を分析評価した上で、今後の日本外交で生かすべきことであろうと思う。なぜなら国際社会が白人だけのもので無くなった現在こそ、日本はその中の1プレーヤーとして知恵を発揮できる条件が整った。現代日本の最大の障害は外国にあるのではない。日本軍の残虐行為をこれでもかと宣伝する、狂った日本人の存在である。

 付言すれば、石原莞爾を含む多くの日本人は支那を見誤っていた。支那大陸史を俯瞰すれば、王朝が成立しても平和な時代は、せいぜい百年しか平和は続かず、最後の百年などは、王朝などは名ばかりとなり、王朝が崩壊してもすぐに新政権は成立せずに、混乱が続く。日本が明治維新以来相手にしてきた支那は、王朝末期と王朝崩壊後の混乱期であった。王朝の範囲はどうなるにせよ、混乱の後にはいずれ、統一する、という繰り返しであるのが歴史が示している明白な事実である。

 当時の日本人は支那の混乱をもって、支那人には国を治める能力がない、などと見誤ったのである。支那大陸は永遠に他の有色人種国家とは異なる地域である。この見誤りこそ、戦前日本の最大の間違いである。いずれ支那大陸は混乱に陥る。それへの対応がいずれ必要になる。当面はイスラム圏への対応が重要課題である。対イスラム政策は、アメリカと同調するふりをして、独自に立ち回るべきであるとだけ言う以上の知識が小生にはない。イスラム研究の泰斗である大川周明博士の再評価をすべきであろう。



米軍が恐れた卑怯な日本軍

 最初タイトルを見たとき、内容を誤解した。バンザイ突撃を繰り返した、と言われる対米戦での日本軍の戦法は、実は、罠などを巧妙に使っていて、それが米軍を悩ませた、というだけの内容かと思ったのである。全くの見当違いではないが、やはり違った。

 戦訓からバンザイ突撃から地雷などの罠や米兵へのなりすましによる、工夫された攻撃に転換して、それが米軍を悩ませたとは書かれている。だが、それ以外に、このような工夫は、かなり支那事変で支那軍が使った戦法を真似たものであり、皮肉なことに米軍が卑怯とみていたように、支那事変当時の日本軍も同じ見方をしていたことである。

 戦法の転換は、単なる工夫ではなく、支那軍が劣勢であったから用いていたように、火力と機械力に劣る日本軍が、弱者の戦法として用いざるを得なかったというのである。ただ日本軍も便衣を使ったように、支那軍も便衣を使ったから南京事件が起きた、ということを書いているのはいささか見当違いである。日本軍も便衣やなりすましを使った対米戦闘はあったにしても、それは相対的には小規模であり、その時の応用動作としての臨時のけ戦闘の手段であった。

 支那軍の場合には、子供や便衣に隠れて攻撃をしたにしても、それよりはるかに大規模に何万という人数が、一斉に便衣を着て民間人の中にいたのである。いうなれば大規模かつ組織的であって、戦闘の手段ではなく、国際法の想定外の異常事態である。この意味でも国際法違反の南京事件などはなかったのである。

 著者は米軍の大戦末期の対日戦マニュアルのタイトル、直訳すれば「(ボクシングで相手のベルトの下を狙う)卑怯な一発」を意訳して「卑怯な日本軍」として、本書のタイトルにしたので、この本の紹介が大きなウエイトを占めている。このマニュアルは「自軍の士気向上のため日本兵の文化的異様さ、頭の悪さを強調したいし、・・・あまりやり過ぎても油断による生命の損失につながり不都合だと判断されたのである。」(P61)という。

 意外なのは、狙撃兵の能力は日本軍より支那軍の方が高く、指揮官を狙うので対策を取らざるを得なかったということである。(P128)そしてある部落の掃討に「焼却戦法」を使ったが、「敵の唯一の狙撃戦法を封じたることが出来」たと報告しているのは、「部落の焼尽という非民心収攬的行為に対する後付けの正当化の可能性もある」というのだが、実は、支那軍が使った清野作戦などは、日本軍にとっては、余程やむをえなければ、すべきではないと考えていたから言い訳したのである。

 陸軍は一般的には非合理の軍隊と見做されている。しかし、P146に示されているように、昭和十六年時点での、戦死傷者の原因を比較的詳細に分析して戦訓としている。陸軍が相手の火力機械力を無視して精神力に頼っていた、というのも正確には違うという。日本の生産力では、ソ連やアメリカのように豊富な物量に頼ることが出来ないのが分かっていたから、重火器をふんだんに使った正攻法が取れないのである。山本七平氏は、対ソ戦法は研究していたが、対米戦法は研究していなかった(一下級兵士の見た帝国陸軍)というのだが、その意味では対ソ戦法すらなかったというのである。(P169))実は対ソ戦法も研究されていたから、なかったわけではない。ただ、圧倒的火力や戦車などの機械力の差から生まれた戦法は、肉攻などのまともな戦法と呼べるものではない。倉山満氏は「負けるはずがなかった大東亜戦争」で陸軍の強さについて、ノモンハン事変は日ソ両軍の大敗だと書いている。それは、勝ったはずのソ連軍ですら一挙に満洲を蹂躙することができなかったから、というのである。しかし、その戦果は陸軍は機械力に対する人力という凄惨な戦いで得たものである。

 兵頭二十八氏だったと思うが、日本海軍は軍艦撃沈などの兵器の損耗を狙っていたが、本当に米軍が恐れているのは人命の損耗である、と書いている。ところが昭和十八年に大本営陸軍部が出した戦訓マニュアルには「米軍の弱点は『人命喪失』にある」(p165)と明記されている。だから「・・・補給の要点などへの潜入により『特に人的損害を求める如く工夫』することか・・・推奨されている」としている。この点海軍は、対米戦法として人的損害より、より大きな艦艇の撃沈に固執しているから、この考え方は陸軍だけのものであったろう。だから、より人的損耗が期待できる輸送船攻撃より、戦艦、巡洋艦の攻撃を重視した。

 一説として「手榴弾を発明したのは日露戦争時の日本軍という話がある。・・肉弾戦を繰り広げるなかで、最初は石を投げていたが代わりに爆弾を投げてはという話になり、」急増の導火線付き爆弾を自作して投げたのが効果的で普及したというのである。(p225)

 日本軍も同様であるが、米軍は地雷や仕掛け爆弾を恐れていた。(p263)日本軍は自分自身に仕掛け爆弾をしている場合があった。そのため、米軍のマニュアルには、「・・・投降して来たら裸にするか、あるいは撃て」と書かれているそうだ。米軍が日本兵の投降者を射殺したのは比較的早い時期からだから、「捕虜を取らない」というのはこのような戦訓によるものではあるまい。

 フィリピン人ゲリラや米軍は、罠に仕掛けたダイナマイトのスイッチを子供に押させていた(p306)。日本軍も米兵の死体に罠を仕掛けたり、便衣や米軍服で攻撃するという卑怯な行為をした。しかし、沖縄戦で米軍は獲得した民間人女性を洗脳して侵入させ、爆弾などで攻撃した。日本軍が女性や子供を囮にして攻撃した事実を寡聞にして小生は知らない。女性が自発的に前線で戦うのとは違うのである。著者は卑怯においては日米どっちもどっちに近い書き方をしているが、米軍や支那軍の卑劣さと日本軍のそれは同等ではない。日本人は米軍が人道的だったと一般には考えているが、米軍の計画的非人道的戦闘法は日本軍の及ぶところではない。日本軍は敵国の女性を使って攻撃したり、民間人をターゲットにした無差別爆撃を実施したことは、対米戦はもちろん、支那事変でもない。



日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと
  高橋史郎・致知出版社


 本の内容はタイトルがよく示している。ただし、内容のかなりの部分が子育て問題に咲かれているのには、いささか辟易した。日本の教育問題の多くが直接間接に、GHQの占領政策に淵源を発しているのは事実である。だが、私の父母や知り合いの、相応の年代の人をみると、それに関係のない元々の問題もあると思うからである。

 また、せっかく江藤淳の「閉ざされた言語空間」に匹敵するテーマでありながら、頁数を教育問題にさかれたせいか、肝心の期待した主題への言及が少なくなっていると思わざるを得ないのである。

むしろ独自で面白いのは、占領政策が日本人に対する極度の、というより異常な偏見によって立案されている、という指摘で詳しく例示された人物の日本人への見方である。それで思い出すのが、平成12年頃に作られた「パールハーバー」という映画の日本軍の描き方である。この映画の日本軍の指揮所の様子などは、どう考えてもアメリカ人ですらこんなことは考えてはいまい、というほどの滑稽でグロテスクな表現である。そんなことはあり得ないと知って、こんな表現を行うのは、日本軍がこうであったという想像によるものではなく、アメリカ人が内心に持っている日本人へのグロテスクな偏見を映像にしてみせた、ということであろうと思う。

 当たり前だが「占領軍が東京入りしたとき、日本人のあいだに戦争贖罪意識はまったくといっていいほど存在しなかった。彼らは日本を戦争に導いた歩み、敗北の原因、兵士の犯した残虐行為を知らず・・・日本の敗北は単に産業と科学の劣勢と原爆のゆえであるという信念がいきわたっていた」と昭和二〇年のGHQ月報にあるそうだ「(P91)

 それが現在の日本の体たらくになってしまったのは、まさに日本に贖罪意識を植え付ける「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の大成功が原因である。そのことを著者は義眼を埋め込まれた、と適切に表現している。「挺身隊問題アジア連帯会議」で、インドに住むタイ人女性が「日本軍さえたたけばいいのか。インドに来た英国兵はもっと悪いことをしたのに」と泣きながら訴えると、「売春問題ととりくむ会」事務局長の高橋という女性が、「黙りなさい、余計なことをいうな」と怒鳴ったという記事を読んだ。(産経新聞平成26525)ちなみに平成26年になって慰安婦を挺身隊と呼んでいたのは間違いであった、と報道した御本家の朝日新聞が認めたから、この会議の名称は詐称であるという皮肉なことになった。

 この女性は日本軍より英軍がアジアで行った残虐行為がひどいということが信じられず、そんな発言も許せず逆上したのである。しかも善意のやさしい人であるはずのこの日本人女性は、人間としての最低のマナーすらわきまえられなくなっていたのである。理性的に考えれば、タイ人女性の発言が事実かどうかも検証すべきなのだが、できないのである。このように日本軍の残虐行為に異議をとなえると逆上するパターンは、自虐史観の人に多い。それは、心の表層ではなく深層にまで「日本軍の残虐行為」への憎しみがしみ込んで理性を跳ね返すのである。つまり完全に洗脳されたのである。日本にはこうした人物が教育界や政界やマスコミに跋扈していて、日本の思想をリードしている。そういう恐ろしい状態にある。

 昭和天皇を裁判にかけないことにした裏の理由のひとつとして、国民からのGHQ宛の膨大な嘆願書の存在があった。(P116)ところが「不思議なことに、いわゆる右翼の人たちはこういう嘆願書を出していません。(P120)」というのだが、考えてみれば当然かもしれない。GHQは日本を支配している外国人である。勝利に驕ってもいる。嘆願書を書くということは、頭を下げてお願いすることである。それができなかったのではあるまいか。プライドが許さないのである。嘆願書を書いたなかで最も多かったのが婦人であると言うのも、それを裏付けている。婦人たちはどんな手段でも天皇陛下を助けたい一念から、プライドを捨てて嘆願書をかいたのであろう。高橋氏の言には、天皇を最も助けようとするべき肝心の右翼が、嘆願書を出さなかったことに対する、言外の非難があるようにも思われる。

 左翼勢力が占領政策に協力していたと言うのは事実である。それにしても、GHQの下部組織であるCIE(民間情報教育局)羽仁五郎が密談して日教組を作ったり、共産党の野坂参三も毎日CIEに会って何らかの成果を上げていた(P154)、というのもグロテスクな話である。たとえ共産主義政権実現のためとはいえ、自国を弱体化する政策の実現に信念を持って積極的に参加していた、というのは、ゾルゲ事件の尾崎秀実同様、醜悪である。特にGHQ支配下の日本には、このような人物はいくらでもいた。ルーズベルト政権下で活動していた、コミンテルンの米国人スパイに比べて、質も量も甚だしいであろう。


「南京事件」の探究・その真実を求めて・北村稔・文春新書

 南京攻略の際に何があったか客観的に探究していこうとしたもので、いわゆる「虐殺派」からも反論がなかった冷徹なものである、という評価を見て読んだ。確かに著者の態度は慎重かつ綿密なものである。南京大虐殺を告発したとして知られているティンパリーが、実は国民党の「中央宣伝部顧問」であったことに、日本で初めて言及したのは鈴木明氏であるが、同氏が『近代来華外国人名辞典』で発見し、英国の新聞の死亡記事で裏付けをとったのに止まるのに比べ(P31)、著者は更に各種の調査を周到に行い、ティンパリーが東京裁判に出廷しなかった訳など、この人物の素性や行動を調べて付帯的な事実まで発見しているのは流石である。

 例えば、ティンパリ―は、上海から電報を送って日本の検閲に引っ掛かって止められた。これを虐殺派は、日本側が隠そうとしていた証拠であると声高に言うのだが、著者は上海が既に日本側の占領下にあったのを知っているから、わざと検閲に引っ掛かって日本側とトラブルを起こす目的であった、(P50)というのである。日本側の検閲官はこのような情報管理の重要さは考えずに、単に職責に忠実であったに過ぎないの、というのだから情ない。もちろんティンパリ―は日本の検閲に引っ掛からずに記事を欧米に持ちだす手段があったのに使わなかったというのである。現代の日本の史家もこのトラップに引っ掛っているから大したものである。

 著者の冷徹な態度とは反対に「虐殺派」は資料の意図的な誤訳すら平気でする。それは希どころか頻繁で周到なのである。例えば筆者によれば、These areThere areと読み誤ったものと考えられる誤訳がある。その結果、「報告は全て中国人報告者によるものだ」と訳されるべきなのに、誤訳は「報告は一部が中国人報告者によるものだ」と読み取れるようになっており、他の報告は全て欧米人により「目撃」されたように読み取れることになっている(P118)。これは意味が逆転する、意図的かつ重大な誤訳である。他にも、軍服を着ていない哀れな男を処刑した、と訳すべきところを、平服の一市民を虐殺した、と誤訳している(P120)。平服とはin civilian clothesであるが、原文には市民とは書かれていないし、市民ならわざわざ平服と断る必要もないから、軍人が便衣を着ていたというのが正確な意味なのだ。

 岩波書店の翻訳本「紫禁城の黄昏」は自虐史観に都合の悪い部分が故意に大量に翻訳せずに出版された。また、溥儀は絶対に蒋介石を頼らない、と訳すべきところを、溥儀が最後に頼るのは蒋介石である、と高校生の英文和訳問題の典型を、真逆に訳してあるのは有名である。自虐史観の人たちは、自分の主張を通すためには、平然と嘘をつく癖があるのは、承知している。私自身、左派の労働組合の若者から、自分たちは正しい目的で行動しているのだから、少々の悪いことをすることは手段として許される、と個人的に聞かされて、ぞっとしたことがある。彼らのメンタリティーには何らかの共通する部分があるようだ。

 「軍服を脱ぎ潜伏した中国兵の処刑」(P96)は重大な争点である。問題は、戦闘中に便衣兵を発見してとっさに射殺したケースではなく、難民の中に逃げ込んで摘発され、集団で処刑されたケースである。虐殺派は、便衣兵ではなく、戦意を喪失した敗残兵であるというが、反対に、中国人自身が小型の武器を隠し持つ兵士のグループもいて、日本兵を殺傷したケースもあると証言している(P100)。

 東中野氏は、処刑された兵士は、便衣に着替えて偽装していたのだから、そもそも捕虜となる資格を喪失した、すなわち国際法の保護の対象となる非捕虜であったと論じている。しかし、当時の日本の国際法の専門家たちの間でも、便衣に着替えた者たちの処刑は慎重であるべきだといい、裁判の手続きが必要であると判じていたとして、虐殺派に優勢に展開されている(P101)と著者は言う。

 しかし著者の考究はここに止まらない。当時の欧米の観察者たちは「ハーグ陸戦法規」を認識していたにもかかわらず、日本軍の便衣兵の処刑に対して非をならすことをしなかった。それは、兵士が多数の集団で武器を捨てて、軍服を脱ぎ捨て、民間にまぎれこむなどということなど戦史になく、それゆえ、積極的な判断を下しようがなかっただろう(P102)というのである。問題は戦史に前例がなく、従って陸戦規定の想定するところではない事態が大量に発生したことにある、というのである。

 国際法は当該国に有利に考えるべきものであるという暗黙の了解がある。だから、便衣兵の処刑は陸戦規定のらち外であって、自由に行ってもかまわない、という解釈も成立する。現に銃殺に立ち会って日本軍の説明を受けたふたりの欧米人は、非能率的で残虐だと言いながらも、合法的な死刑執行と述べている。(P102)相変わらず、たちが悪いのは洞富雄編の英文資料編は、誤訳して欧米人が国際法違反として批判している、と書いてあることである。

 ただ、大量の捕虜を捕獲した下級部隊の問い合わせに対して、「適宜処理せよ」と上級士官が応えて、日本的責任放棄をしていることに問題はある(P108)。戦闘行為に支障をきたす緊急の場合は捕虜の処刑も容認できるという国際法解釈(戦数理論)がある。ただこれは当時の陸軍関係の国際法学者の信夫淳平氏ですら、捕虜の処刑に関しては、これを殺さざれば自らの安全を保証しがたい場合に限る、としている(P109)。「南京虐殺のまぼろし」には兵士よりはるかに大量の捕虜を捕獲して、おびえながら監視していたら、暴動が起きて逃亡し、日本兵の死亡者もでたというケースが示されていたと記憶している。これがそのケースだから捕虜であっても処刑してもいいというケースであろう。また、東中野氏は、「捕虜」になる資格がない、と言っているのだから信夫氏の指摘するケースとは一致しない

 著者は「便衣兵として処分したいのなら、『ハーグ陸戦法規』を意識して、少なくとも何がしかの裁判の手続きを踏んでおくべきなのである。たとえ後になり、形式的裁判と非難されようがである。」(P107)これは一見よく考えられものである。しかし、日本軍とて便衣兵を摘発する際に、何の弁別もせずにやったわけではない。中国人の態度や銃によるたこ、言葉などをチェックして便衣兵か市民かを判別する手続きを、一人一人に対して踏んで、市民と判断された者には「安居之証」を交付している。これを著者の言う簡易な裁判と考えることも可能である。

 確かに著者の言うように、日本軍には兵站の不備など捕虜に十分な給与ができないなどで、処分しなければ危機に陥ることもあったであろう。しかし、兵站の不備は日本軍の必ずしも兵站軽視の故ではない。急速に拡大する戦線と、ろくに戦いもせずに逃げ回る支那軍の逃亡速度の速さのために、補給はいくら頑張っても追いつかない、という面もあったのである。

 ベトナム戦争では米軍が国際法違反の虐殺を行ったとされる事件がいくつかある。これも北ベトナム軍が、国際法に想定されていない非正規戦を行ったことに起因するものもあるのである。米国は支那での日本軍の苦しみをベトナムで味わされた。有名なソンミ村虐殺では、軍事法廷で隊長のカリー中尉が終身刑になっただけで残りは全員無罪である。しかも、カリーは減刑され、数年で釈放された。つまり米政府は、これらの国際法違反事件を自国に都合よく軽視したのである。これらを事件とすれば、「南京事件」は歴史上の事件ですらなく、南京城攻防戦で起きた戦史上のエピソードに過ぎない。

 「・・・『まぼろし派』にとっては、食料調達の極端な困難は、監視要員の不足や戦局の緊迫などとともに、捕虜の大量処を弁護するさいに依拠すべき『これを殺さざれば自らの安全を保証しがたい』を立証する重要な要素となろう」、としてヒントを出しているのは正しい。

 多分、他の著書では問題にされていない「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」なる資料が紹介されている。虐殺派の洞富雄氏「国際軍事裁判関係資料編」に翻訳収録されているものである。(P142)この資料は南京市民を1945年の冬から46年の2月まで聞き取り調査したというのである。ところが「欺瞞妨害工作激烈ニシテ」住民が「冬ノ蝉ノ如ク口ヲ噤ミテ語ラザル者、或イハ事実ヲ否認スルモノ」ばかりであり、日本軍の殺人を告発するものが極めて少ないと書かれているのである。市民は調査官が誘導しても黙っているか、否定するというのである。

 既に日本が負けた時点だから、市民に日本軍が妨害工作をできるはずもないから、実に奇妙な事態である。だから著者はこれを大量殺戮など無かった証拠の一つであると示唆しているのであろう。だが私には別な見方がある。日本は確かに負けた。しかし、国共内戦は逆に本格化し始めたのである。調査された南京の市民は、支配者が真実を調査しているのではなく、自分たちに都合のいい情報を収集していることを、過去の経験から知っている。しかし、日本の占領時代は例外的に良かったとも考えている。

 つまり日本軍がいなくなったから、真実を話せなくなってしまったのである。今調査している人たちだって明日は敗退するかも知れない。だから相手の誘導にも乗れないし、真実は喋れないのである。市民にとって真実などはどうでもいいのだ。彼らは現在の中国のように支配者が確定すれば、堂々と話すであろう。それは真実ではなく、支配者が望む証言をである。これが今も続いている支那の社会である。

 第四部の「三十万人大虐殺説」の成立にはいかに日本の虐殺派が、資料の都合の悪い部分を改ざんしたり、中国側が調査データを誤魔化して三十万人虐殺説となったかを論じている重要な部分であるが、読んでいただくしかないので省略する。ただ、その最後に筆者が、結局はこの事件は中国側の感情の問題であるとして「はたして『南京事件』を含む日中戦争の歴史記述に関して、『感情の記憶』を組み込んだ新しい歴史学の方法論が日中双方の思想界において確立されうるであろうか」としているのはいただけない。

 著者はティンパリ―ら欧米人の活動が、中国政府のバックアップに依って行われたことを、他書に見られないほど綿密に論考し、南京大虐殺なるものが、中国の謀略であることを示したのに、最後にはあたかも中国人の歴史方法論や感情の記憶の日本人との相違によるものであるかのような不可知論に到達してしまっている。南京大虐殺なるものは、あくまでも政治的目的のために行われた膨大な中国と欧米の謀略の複合の産物である。支那の大衆の感情などというものは、今も昔も真実は吐露出来ない。それは未来も変わらない。そんな事情に依拠することは無駄であり、日本人はこの国際的謀略から脱却しなければ、永遠に敗戦の亡霊から抜け出せないのである。なるほど、筆者の叙述は冷徹だから感情は抑えるべきだというのは分かる。しかし、中国人の心情には言及して見せたのである。それならば、日本人の心情も顧慮しないというのは、片手落ちである。

 そこで最後に付言するが、本書の長所は資料を丹念にチェックし、冷徹に論考していることにある。しかし、忘れられている側面もあるように思われる。著者自身が論考しているように中国政府は、南京大虐殺を政治的に利用するために活動しているのであって、自国民が大量虐殺の犠牲にされたという、人道的観点から様々な研究資料を作成しているのではない。彼らの主張する南京大虐殺より、はるかに大量の殺人と身の毛もよだつ残虐行為を自国民にしているのは、彼ら指導者自身である。それを隠蔽して日本の戦争を批判しているのである。その嘘に引っかかった欧米人、自国によるホロコーストから眼を日本にそらしたい米国人やドイツ人が利用していて、いかに理性的に論じても欧米人にも通じがたい状況にある。

 最悪なのは、その洗脳に引っかかった日本人が大量発生し、嘘までついて日本の戦争犯罪を告発することが正義だと確信していることである。日本は四面楚歌にある。このような状況で、一面では著者のような冷徹な議論が必要である。しかし、そればかりではなく、何としても日本の名誉を守るという信念から、国際法などは有利に解釈できるものは、利用する、などの手法も絶対に必要である。

 著者は便衣兵の処刑に際して、後日非難されようが形式的にでも簡易な裁判をしておくべきだったと書いた。しかし、日本人の裏切り者は、そのようなものは裁判ではない、と否定するに違いない。本質的には彼らの狂った頭を正常にするしかないのである。日本は大陸での戦争を望んだのではなかった。それにも拘わらず、多くの兵士が非道なやり方で支那人に殺された。その無念を思うことも必要だと思うのである。頑健だった小生の叔父も満洲に派兵されて1カ月も経たずにコレラで戦病死した。だから大陸では七三一部隊のような防疫部隊が必要だったのに、今では人体実験をするための部隊だと宣伝されている。

 そして空襲で計画的に何十万の民間人の大量殺戮をした米国が何も非難されず、南京大虐殺などという法螺話が世界に通用するのは、日本が軍事的に徹底的に負けたからに過ぎないことをしっかり再確認する必要があると思うのである。また、筆者の冷徹な観察は、一方で大切であるが、維新以来戦前の日本人が、いかに支那人に悩まされていたかという事実をも没却したものである。支那大陸という場所は、平均的国民に平等な幸せをもたらす日本と異なり、常に一握りの支配者に恐ろしいまでの富裕をもたらす場所であることも忘れてはならない。



○皇室の本義(日本文明の核心とは何か)・中西輝政・福田和也・PHP

 著者の二人とも、多くの保守の論客と同じく、日本文明の中心を皇室だとしている。それを敷衍した書である。いつものように論述を素直になぞっていくのではなく、興味のある指摘を散漫ではあるが取り上げることにする。

 皇室の祭事は、現代日本では宗教に絡むと考えられるものは、皇室の私的行事とされている。一方で、現在は歴史的に見て皇室の祭事をきちんと行っている方であろう。江戸時代には長くにわたって、多くの祭事が廃絶されていた。それを孝明天皇の二代前の光格天皇が積極的に復興され、古い形式に復活された(P72)。時期から言うと幕末に近づきつつある時代であったから、何かしら危機感のようなものがあったのであろう。

 同様に今上天皇陛下は橿原神宮その他に御親拝するなど、祭祀に極めて熱心に取り組まれており、これは陛下が日本の現状に強い危機感を持たれているのではないか(P73)、というのである。これは中国などの東アジア情勢に対する危機感と言うものもあろうが、最大のものは、皇室の安泰に対する危機感ではなかろうか。皇室が安泰であれば、対外的危機は日本は乗り越えてきたのである。

 日本国憲法は国民主権をうたっている。しかし、ヨーロッパでイギリスやデンマークなど、王室をいただく国の憲法は、「国民主権」ではないというのである(P109)。イギリスは議会と王室が国家主権を分かち合っており、両者の合意により主権行使がなされる。デンマークでは、「行政権は国王に属する」とされている。国民主権と言うのは、そもそも皇室の存在とは矛盾するのである。国民主権の概念を強引に持ち込んだのは、GHQではなく、ソ連がGHQを通して入れさせたものである(P110)。

 我々の世代と異なり、このことの重要性に気づいていた当時の国会議員は「国民の至高の意志」などと言葉を変えるよう抵抗したが、結局GHQに押し切られてしまった、というのである。このことはノー天気に国民主権と喜んでいる多くの日本人がいかに不見識かの象徴である。日本人はお仕着せの思想を自らのものと信じてやまないほど洗脳されたのである。

 日本人は洗脳されたばかりではない。当時の指導層自身は愚かと知りつつ、占領軍に迎合した。その典型が憲法学者で最高裁の長官になった横田喜三郎である(P118)。彼は昭和二十四年に「天皇制」という本を書き「天皇制は封建的な遺制で、民主化が始まった日本とは相容れない。いずれ廃止されるべきである」という意味の事を書いた。ところが、その後勲一等を受けている。昭和天皇に頭を下げたのである。なんと横田は東京の古本屋を回って「天皇制」の本を全部買い集め、世間の目に触れないようにする、という恥ずべきことを行ったと言うのだ。戦前の教育を受けた人間にしてこの体たらくである。まして現代のエリート層にはこの手の人間が増えている。

高橋是清伝・津本陽・幻冬舎

 今の僕らの常識から考えたらすさまじい人生である。宮澤元総理が総理大臣になりながら、大蔵大臣にカムバックしたことをもって、平成の高橋是清と自称したが、優等生で平穏に過ごした宮澤にはふさわしくない。ぜんぜん似ていないのである。

 アメリカに語学留学したつもりが、いつの間にか奴隷に売られていた。憤然と相手の不正を正し、何とか切り抜けて日本に帰ってくると、英語優秀ということで、わずか十六歳で大学南校の教授手伝いとなる。正規の語学留学者よりも英語優秀であったというが、ものすごい努力をしたのであろうが、この点が一切書かれていないのが残念。この時代の人は豪放磊落の一面もあるが、努力は尋常ではない。命をかけているというに等しい。

 ところが遊びたい生徒にだまされて大学からカネを持ち出して、一緒に遊ぶうちに芸者遊びに熱中する。これがばれると敢然辞職するが、同情した芸者に囲われて吐血するまで飲み続ける。一晩3升飲むというからすごい。「日露戦争物語」というコミックに、是清が芸者の襦袢を羽織って、昼間から飲んだくれている描写があったが、本当の話だったのだ。

 ところでビッグコミックスピリッツに連載された、このコミック、いつの間にか連載が消えてしまった。中国人、朝鮮人の敗北を描くので、その筋からの抗議で小学館が連載を打ち切ったのだろう。今の出版社は根性なしである。この漫画、明治の偉人をけっこうリアルに描きバンカラな風潮を良く表現していて秀逸だったのに残念。日本の国もだめになったものである。予言する。日本は滅びる。


 閑話休題。そこで友人に同情されて、株屋、牧場経営など点々とする。みな頼まれると断れないので、せっかく財産や地位を築いても簡単に職を変えてしまうのである。ペルーの鉱山経営に行ったときは、ろくに調査もせずにインチキ鉱山をつかまされてしまう。すると連れてきた鉱夫たちを救うために、相手をだまし返して損害を最小にして逃げ帰るのだが膨大な借金をする。これも自宅を全て売り払って返済に充て、借家住まいになってしまう。

 高橋のすごいのは、転職したり遊んだりするのに多額の借金を繰り返すが、きちんと自分の責任で返済していくことにある。その後日銀副総裁から総理大臣に登りつめるのは有名な話だが、その間信念に合わなければ簡単に辞表を書いてしまう。しかし、ただ逃げるのではなく、後に問題なきよう処置していくからたいしたものである。最後に大蔵大臣となったとき、経済政策のために軍人に嫌われてテロに倒れるのは周知のことだが、これは時代のなせる業でしかない。かつて緒方竹虎が喝破したように、政府部内の軍人はサラリーマンに過ぎない。政府の軍人が予算獲得で頑張れば、それに対して予算削減で対抗するのは、当時の風潮では当然のことである。


○日本人に「宗教」は要らない・ネルケ無方・ベスト新書

 日本人には「宗教心」がないのではなくて、キリスト教のような教義がなくても、自然に宗教心を体現しているのだと自然に語っている。キリスト教をよく知っている元プロテスタントの言うことだから、真実味がある。そしてキリスト教やイスラム教は他の宗教や神を否定し、争うが日本人は寛容であるという。

 平易に説明しており一読の価値はあり、具体的な説明は必要はない。日本人よりも日本の宗教心を理解している、とは言えるが、ドイツ人らしい残滓はある。ヒトラーを徹底して否定して、ドイツ民族を擁護する。ドイツの移民問題も、極めて軽く扱っているのは故意が感じられる。

 人生の苦しみを受け入れよ、とか独善を否定しているが、この手の立派んな人格の宗教人に共通する疑問がある。道徳心や正義感に基づく怒りをどうしたらいいのか、ということである。例えば「『大心』とは、海のような深い心、山のような大きな心のこと。海が、『綺麗な川だけ流れてきてほしい。汚い川はこないで!』と選り好みしたら、大きな海にはならない。海は、すべての川を自分の中に受け入れている。」(P208)と書くが、これを実践できるのだろうか。

 ここには汚れの原因は書いていない。従ってネルケ氏は違法な廃液を工場が垂れ流しても受け入れろ、といっているに等しい。そんなことは寛容な日本ですらしてこなかったし、対策をしたのは正しい。もし、違法でないにしても健康上の限度というものがあるから、法律で規制するように運動するであろう。それには、正義感による怒りも後押ししているであろう。そうでなければ、昭和40年代の公害はなくならずに健康被害はなくならない。人間にはこうした最低限の正義感というものは必要なのである。

しかし、確かに正義というものは相対的なものである。ある人には正しく、あるものには正しくない、ということはある。相対的なものだから諦めよ、というわけにはいかない。現実には怒りもある。それを貫徹したことが日本の公害を減らし、暮らしやすい日本を作ったのも事実である。

例に挙げたメルケ氏の言葉では、これにどう対処したら分からないのである。実は多くの仏教関係の本を読んでも、この点に言及しないので役に立たない。むしろ過激かも知れないが、キリスト教の方が神の名のもとにおける正義を認めるから、行動規範となれると言えないこともないのである。


日本兵を殺した父・デール・マハリッジ・原書房

 太平洋戦線で戦った、元海兵隊の息子が書いたもので、父の部隊の戦友たちにインタビューなどしてまとめたものである。公式文書は残っていないものの、多くの図書でも明らかにされているように、太平洋戦線で米軍は、上官から捕虜をとるなと命令され実行している。特に海兵隊は徹底していたと言われている。しかし、著者の父は戦闘でただ一人の日本兵を射殺しただけである。読後の全般の印象だが圧倒的戦力で日本軍を蹴散らしたと考えられている、ガダルカナル、グァム、沖縄などの戦闘で米地上軍は苦しい戦いを強いられていたということである。

 海兵隊には日本女性を強姦する癖のあるものがいる。(P62)強姦は2人が証言しているが、ばれても絞首刑にもならず、上官の教唆などにより足を撃って病院送りになって刑を免れている。12人の証言者のほとんどが、投降した日本兵を殺害したり、負傷して息のある日本兵を撃ったりナイフでとどめをさしたことを証言している。「アメリカ軍は日本兵が最後のひとりまで闘ったと宣伝し、多くの歴史家もそれを信じている。」(P87)というのが嘘なのだ。日本兵にも白旗や手を挙げて投降したものが多くいたが、皆殺してしまった。それが知れ渡ると当然投降者は減って死に物狂いで闘うしか無くなる。

 捕虜の殺害には、皆で石をぶつけて殺したと言う非道なものさえある。誤解による殺人もある。陰部を切り取られて胸の上に置かれている海兵隊員を発見した。近くにいた日本兵を犯人として撃ち殺した。(P106)同様な事件が起こったが、調査隊が調べると海兵隊員は手劉弾で死んだこと、陰部は手榴弾で吹き飛ばされたことが分かった。(P122)日本人には死体の陰部を切り取る趣味はない

 人種偏見も露骨である。「捕虜が極端に少ないのは、こちらが生きのびるにはそうするしかなかったからだ。敵は確実に殺せと部下に教えこむ必要があった-やつらは異教徒みたいなものだ。ジャップを殺すのは、油断のならないガラガラ蛇を退治するのと同じだった。ヨーロッパではこんな気持ちにはならなかった。ドイツ兵でも、こいつにも家族がいるんだと思ったよ。だけどジャップは別だ。ガラガラ蛇を殺すような気持だった。」(P143)というのだから日本人は獣扱いである。そもそも「アメリカ軍のほうも捕虜を連れて移動する体制をとっていなかった。」(P144)のだからバターン死の行進どころではない、移動させするのが面倒で殺してしまったのだ。

 反対に日本人に好意的な見方をする兵士もいた。中国の青島に行って、日本兵の降伏に立ち会うとホフマンという兵士は、「中国人は泥棒や詐欺師の集団だった。だが日本人はひたすら礼儀正しく、私たちが正式に引き継ぐまで秩序をしっかり維持していた。」(P256)前に紹介したのは黄色人種に対する、あらかじめ刷りこまれた偏見であり、後者は現実の中国人と日本人に相対したときの感想であるから当然であろう。

 アメリカ兵士の多くがしている不可解な行動がある。既に知られているが、米兵は日本兵の死体から、金歯を抜いて集める者が多いのだ。酷いのは、生きているものから抜く場合もたまにある。いずれにしても、偶然ではなく多くの兵士が、このような行動をとるのは理解不能である。また死体から耳を削ぎ取るのも例外ではないようだ。これはベトナム戦争でも行われたが、自分の戦果を誇示するための様である。戦後欧米の行動の間違いに気付く者もいる。「アメリカ、ヨーロッパ諸国、イギリスがみんな中国を狙っていて、ジャップをのけ者にしようとした。日本人はこう言いたかったんだ-おい、なんで俺たちを締め出すんだ?パイのひと切れをもらったっていいだろう?資源の取り合い、要するにそういうことだ。戦争はそこから始まるんだよ。」(P268)と戦後勉強したブラザーズという元兵士の言葉である。

 沖縄で闘った米兵は、ワセリンではないと消せない白燐手劉弾を使った。「燐の炎は衣服を燃やし、肉を焼いて骨に達した。その苦しみようはすさまじく、とくに子供は見ていられない。二人の海兵隊員が大声で笑っていた。極限の恐怖に耐えきれず、残忍さをむき出しにしている。」(P210)これが人道的な米兵の姿である。消す手段がない、燐という「科学的」兵器で合理的に残虐行為を行うのが米軍の特色である。

 著者はアメリカの過去の批判も厳しい。グアムを征服すると、ある上院議員は「我々は世界の交易を手中に収めてしかるべきでありましょう・・・これはアメリカが果たすべき神聖な使命であり、我々に利益をもたらし、人間に許される最大の栄光と幸福を実現するものであります。」(P82)と演説した。すなわち世界征服宣言を公然と行ったのである。白人のマジョリティーの精神とは、今もかくのごときものである。

 米西戦争でフィリピンを騙して奪うと「アメリカ支配を良しとしない人びとが反乱を起こしたが、アメリカ軍兵士は彼らを虐殺し、囚人を処刑し、水責めの拷問で何千人も死に至らしめた。」(P82)イラク戦争でも米軍は水責めの拷問をした。水責めはアメリカ人の得意技であるようだ。「この国は戦争が好きなんだ・・・土地を手に入れるためにインディアンと闘った。カリフォルニア欲しさにメキシコを敵に回して、まんまとものにした。」(P182)と著者がインタビューした元海兵隊員が語っている。

 これらの米兵の残虐行為に対して、沖縄の日本人の証言は全く異なる。アメリカ兵に連れられて行った日本人は応急措置を受けたことを感謝して「これが日本兵だったら、殺されるか、放置されて死ぬかどっちかだったな。」(P315)というのだ。どの日本人の証言も似たようなものである。この日米の認識の落差が沖縄の反戦運動の淵源である。だが矛盾であろう。米兵は人道的であり、日本兵が非人道的であるのなら、なぜ反米基地闘争をするのであろう。もちろん中国の謀略に踊らされている面もあろう。だが本当は米軍も残忍に日本の民間人を殺したことを心底のどこかに、記憶しているのではなかろうか。

 筆者はある沖縄女性のインタビューに関して「直接会って話を聞いたときにはあえて反論しなかったが、アメリカが近代戦で民間人に配慮していたという大西正子の主張は誤りだ。大国アメリカの歴史を振りかえると、軍部も市民も民間人の犠牲は看過してきた。沖縄でもそうだったし、いまも変らない。」(P363)という。これが事実である。だからこそ、多数の父と同じ部隊の元海兵隊員をインタビューしたなかから信憑性のおける12人の証言だけをセレクトしたと言う、検証をおろそかにしないはずの著者が、でたらめな、アイリス・チャンの本を読んで、南京大虐殺について疑いもしないのだ(P364)。つまり、米軍だってグアムで、沖縄で、イラクで民間人を虐殺した。だから日本軍だって同じなのだと思うのだ。筆者はアイリス・チャンの友人だったそうである。ピューリッツアー賞を受けたほどのジャーナリストで、本書の証言に慎重にチェックをしたものを選んだほどの著者ですら、彼女のでたらめを信じている。まして他の米国人一般は推して知るべしであろう。



○GHQ焚書図書開封9・アメリカからの「宣戦布告」西尾幹二

 西尾氏ほどの知識人がどうしてこんなに誤解をしているかと不可解に思うことが一点だけある。日米戦争や日独戦争を望んでいたのは、ルーズベルト大統領と、政府中枢だけであり、国民はこぞって反戦であったと信じていることである。

 以前「ルーズベルトの責任」という本の紹介で、欧州大戦が始まって英国が危なくなると、米国は中立法を改正して、武器貸与や独潜攻撃などの行為をしたことを批評した。これらの事は完全な戦争行為であって、マスコミでも堂々と公表されているが、国民も議会もマスコミもこれに反対した形跡は極めて少ない。国際法学者ですら、米政府の行為が戦争行為だと批判していない。つまり国民も議会もマスコミも政府が次々と打ち出す戦争行為を是認していたと言うことは戦争に反対ではなかったのだ。確かに世論調査をすれば戦争反対の声が強かったのは事実である。これは単に戦争に賛成しますか、と聞かれれば国民は、建前で反対というのである。

 本書でも西尾氏はルースベルト政府が次々と援英のために戦争にのめりこむ政策を実行していることを書いている。また日本爆撃の準備をし、実行のためにフライングタイガースという戦闘機部隊を送り込んでいたことも知られている。それでもなぜ国民は戦争反対であったと言う結論が出るのか、聡明な西尾氏にしては不可解なのである。ルーズベルトの戦争政策はマスコミや議会を通じて公表されているのである。武器貸与法などは多数の議員によって支持されている。それならば議員の支持者は戦争反対だと議員を追求しないのだろうと考えればことは簡単である。

 この本の主眼は、国際連盟は結局英国の世界覇権の維持のためにあったのであって、そのバックには連盟に入っていもしないのに、英国の世界覇権のあとがまを狙う米国がいたということであろう。それにしても、日本は連盟脱退後もしばらくは分担金を払っていた(P156)というのだから今も昔も日本人の性格は変わらないのだと考えさせられる。

 もうひとつの眼目は、米英はヒトラーのドイツ憎し、のためにソ連と手を組んだことは許し難い誤りであった(P310)というのである。日本に対しては合法的平和的仏印進駐にさえ禁輸政策をとったのに、バルト三国併合やフィンランド侵略という阿漕な事をしてもかえってソ連に対して融和的にでているのである。


大東亜戦争と「開戦責任」中川八洋

 鋭い思考力の持ち主ながら、エキセントリックで一面的見方しかできない著者であることを知っている。そう思ってこの本を読めば、近衛文麿が共産主義がぶれで日本を敗戦革命に追い込んで国をソ連に売ろうとしていた、という見方もおもしろい。中川氏はある雑誌のパネー号事件についての奥宮正武との論争で、徹底的に奥宮の欺瞞を論破したのも、この鋭さの故で魅力でもある。不可解なのはタイトルとは異なり本文ではほとんど大平洋戦争ということばを使っていることと、「」付きながらA級戦犯という言葉を最も罪が重い者という意味に使っている(P68)ことである。

 他にも「ロシアの侵略主義の永遠性を小村寿太郎は喝破した。(P212)」というが、ハリマンの満洲進出を阻止したことについて何も言及していない。その上で「加藤高明/小村寿太郎の功績は、日本外交上、不朽といわざるをえない。(P213)」というのもよく分からない。とにかく中川氏は徹底した反共反ロで親欧米である。

 「一人の日本兵も死んでいない盧溝橋事件からたった四日しかたっていないあの一九三七年七月十一日に「北支派兵声明」を発案し強引に発表に持ちこんだ張本人は、時の近衛文麿総理その人であって他の何人でもない。この時の軍の主流(多数派)は、派兵を強硬に反対している。(P77)」と書いているのは事実である。しかし、近衛の意志などというものは関係国の意志に比べれば取るに足りない。英米もソ連もドイツさえも日中戦争を画策して軍事支援と外交を展開しているのである。中川氏の見方が狭量であると言うのは、このような例が証明している。

 私は戦後のどさくさで、満洲をロシアが日本軍を攻撃して占領しながら、珍しく戦後中共に与えてしまったのを不可解に思っていた。しかし本書によれば、事はそう単純ではない(P174)。満洲を南満洲と中部満洲と北部満洲に分ければ「満洲国」は南と中部である。黒龍江省と呼ばれていた地域の北部と沿海州は満洲国ではないが旧満洲である。この地域は現在もなお、ロシアに侵略されたままであることが地図で示されている。

 近衛らが、日本もソ連共産党式の政治体制にしようとしたのを阻止したのは、実は明治憲法であって「大政翼賛会」を作った程度で済んだのはましであった(P132)という。そもそも、大政翼賛会自体が当時の貴族院議員の岩田氏によれは、明治憲法違反なのだ。(P132)中川の言うように、戦前の議会制民主主義が守られたのは昭和天皇と明治憲法によるものなのだから、戦後の学者が明治憲法を軍国主義の元凶のように言うのは、事実を等閑視した悪質なデマである。

 戦後教育は明治憲法は天皇が国民に与えた欽定憲法であり、日本国憲法は国民が作った民定憲法などと教えているが、護憲論者ですら、米定憲法ではないと主張するのは、今は稀である。改定の手続き論を言えば、日本国憲法は明治憲法の改正手続きに従って定められたのだから、形式論から言えば、欽定憲法である。


松本清張の陰謀・「日本の黒い霧」に仕組まれたもの

 「日本の黒い霧」は戦後起きた下川事件などの一連の事件がが、在日米軍などによる謀略であることを証明したノンフイクシヨンであるとした、一種の陰謀史観で書かれた本である。

 「・・・五〇年代前半、共産党と、それを応援した知識人が、その犯した誤りを明確にして正さず、極力隠蔽に努めたことが、『日本の黒い霧』出現に繋がった。内部は『霧』のように希薄、単に推理に過ぎないものを偽って事実と擦り替え、論理的歪曲を重ねて、大仰に占領軍謀略を叫ぶ」(P278)と書いているのが、この本の言わんとしたことを全て語っている。

 清張の戦後史観は反米思想、共産主義シンパシーに貫かれている。そのために、ろくろく調査もせずに、下川国鉄総裁は在日米軍に殺された、と強引に推理、松本は初手から結論ありきで、でたらめな話を書いていており、筆者はそれを丹念に検証している。こんなことが可能になったのは日本の権威主義とそれを利用した進歩的知識人や共産党にある。当時歴史家や思想家という学問的権威の中心を占めていたのが左翼的傾向が強かったから、学問的権威に弱い松本清張は主流の彼らの言うことを盲信したのである。

 清張のフィクションとしての推理小説は確かに緻密で魅力的なものであった。そのために大衆的人気が出て、推理小説の大御所になった。その清張が自殺説と他殺説のあるフィクションではない現実の下川事件を推理した。推理の大御所が現実の事件を解決したと言うわけである。ところが、ここに陥穽がある。推理小説を作る過程は、結論を最初に決めていて推理はそれに合わせて逆に積み重ねていく。

 つまり推理小説家は創作の過程で推理をしているのではなく、答えを知っているものだけ書くのが習い性になっているから、日ごろから推理のトレーニングはしていない。従って推理小説家だから現実の事件の推理が得意だとは限らない。むしろ初めから答えを決めていて、推論は辻褄合わせに過ぎないことに何の抵抗もない。森村誠一は中共政府の協力で「悪魔の飽食」なる日本の細菌部隊を糾弾する「ノンフイクシヨン」を書いた。これは中共の用意した材料をそのまま使い、事実の検証を行っていないと言う点で、日本の黒い霧と同断である。


英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄・ヘンリー・S・ストークス

 大晦日に本屋で何か買おうと思って、タイトルでパラパラと見て買った。この手の本でも西洋人のものは、案外日本に対する偏見が見え隠れするものだが、この本には不思議な位ない。それは日本での滞在が長く、三島由紀夫などのいわば特異な人物との付き合いが深かったことも一因であろう。南京大虐殺を全否定するのも、経験などから日本人がそのような事をする民族ではない、という心証が背景にある。「戦場で女を強姦し、男を惨殺するというプロパガンダはまちがっている」(P216)と断言するのである。

 子供の頃の体験で、故郷を進軍する米軍の戦車と米兵を見て、「アメリカの若造が戦車でやって来て、まるで王であるかのように振る舞っていた」のに嫌悪を感じ「本能的にアメリカ軍がわれわれの国を支配するように感じた」(P20)ことも影響しているのであろう。実際米国は、大英帝国を破壊し、世界の覇権を握ったから子供の頃の直感は正しかったのである。

 本人は「私がユダヤ人や日本人に親しみを感じるのは、クエーカー教徒だからかもしれない」(P209)という。クエーカー教徒は少数者であり色々な差別を受けてきた。日本人やユダヤ人は優秀であり異端だから他の民族から嫉妬される。だからいわれなき「性奴隷」や「南京大虐殺」などのレッテルを貼られるのだという。

 東京裁判についても単純明快である。西洋諸国が世界中を侵略してきたのになぜ日本がアジアを侵略したと言われるのか。それは侵略戦争が悪いのではなく、「有色人種が白人様の領地を侵略した」からだ。白人が有色人種を侵略するのは『文明化』であって、その逆は神の意向に逆らう「罪」であるというのだ。(P39)

 ついでに日本軍の収容所に入れられた従妹から、一家が3年半悲惨な生活をしたと聞いた話がある。悲惨な生活とは、やわらかいトイレットペーパーがなく、聖書のページを破って使わなければならなかった、という程度のものだったそうである。小生の体験によればトイレットペーパーがなかったのは、当時の日本ではごく当たり前のことである。

 ユダヤ人を救ったシンドラーは実は金目的であった(P203)のだが、実際シンドラーは工場で使うユダヤ人を確保する目的だったのである。「ゴールデン・ブック」には、ユダヤ民族に貢献した外国人の名が記載されているのだそうだが、日本人としては樋口季一郎中将と安江仙弘大佐が記載されている(P202)。

 著者によれば本当にゴールデンブックに記載されるべき人物は東條英機であるというのだ。樋口少将が関東軍参謀長に二万人のユダヤ難民の満洲入国の境を求めたところ、「民族協和と八紘一宇の精神」に従って許可を与えた。この参謀長が東條である。東條は単に許可を与えたばかりではない。ドイツ外務省が日本政府に強硬な抗議を行ったが、東條は「当然な人道上の配慮」だとして一蹴した。東條は巷間言われるごとき思想なき有能な官僚なのではなく、信念の人であった。大東亜会議を積極的に推進したのも同じことである。

 意外だったのは、白洲次郎の人物評である。GHQとも対等に交渉したプライドある人物というのが一般的である。しかし、著者の見た白洲は少しばかり違う。「僕はボランティアではない」というのが口癖で、金儲けに目がない人物であった(P223)「私は白洲が傲慢で威張ってばかりいたから、好きにはなれなかった。自己顕示欲が強くて、いつも自慢話を言いふらしていた。・・・映画俳優のように男前で、流暢なイギリス英語を、反り返って、まるで人を見下すように話した。自分が関心を持たない人物がそばに来ると、無視するようにそっぽを向いて、無礼な態度をとった」(P223)。著者によれば唯一の長所はイギリス人が驚嘆する博覧強記である。


真珠湾攻撃の真実・太平洋戦争研究会[編著]

 研究会編著とあるように、多数の執筆者の文章を集めたものである。ただ「太平洋戦争」というのが情けない。

 真珠湾攻撃隊の艦爆が爆撃体制をとってからわずか10分で、米軍将兵が銃座にとりつき迎撃態勢をとったのはみごとである(P131)というのは同感である。半年後のドゥーリットル爆撃隊の接近をしりながらなすすべがなかった日本の失態と比較しているのだが、それだけではない。戦争が近付いているという雰囲気はあったにしても兵士には平時であった米軍に対して、日本はドゥーリットル空襲時には戦争の真っただ中にいたことを考えると日米の差は甚だしいというのである。以前から、完全な戦時体制ではないにもかかわらず、真珠湾攻撃で攻撃隊の損失率が10%もあったのは、世評と異なり大きいものだと書いていたが、初めて似た意見を聞いた次第である。

 攻撃隊の派手な塗装についての有名な記述もある。艦爆で高橋少佐機が通商「ドラネコ」と呼ばれ胴体が橙色、江草少佐機は通商「ジャジャウマ」と呼ばれる胴体が真紅のまだら(P176)だそうである。

 山本五十六が条約派ではないことが書かれている。すなわち首席全権若槻が、随員に黙って米英との妥協案を請訓したことにショックを受け、特に潜水艦量について強硬な反対論を展開した。「この時の山本の論調には『日本全権団員の息の根をとめるような猛烈果敢さがあった』と伝えられている。」(P233)ワシントン条約で主力艦を制限され仕方なく補助艦艇でバランスをとろうとしたらそれもロンドン条約で制限されて山本は怒り狂ったのである。

 一般には山本は艦隊派ではなく、良識派として条約派であるがごとく伝えられているが、行動を検証すれば全くそんなことはないから不可解としか言いようがない。山本が軍縮条約に反対で、財政問題を説明する大蔵省の賀屋興宣を恫喝した話も有名である。山本が航空重視をしたのは、不利になった主力艦比率を航空機で補うためであった。すなわち、山本が陸攻で一生懸命攻撃したのは空母ではなく、もっぱら戦艦や巡洋艦などの主力艦であった。戦艦無用論を唱えていたように言われるが、山本はが大切にしたのは空母ではなく、無駄と揶揄したあの戦艦大和であった。それは単に軍楽隊の演奏つきのフルコースのフランス料理を食べるためだったのだろうか。

 特攻を提案したことにされている大西中将は、本来航空に関しては合理主義者だったことは知られている。一式陸攻に防弾装備を計画段階からするように強く主張したのは大西である。その大西が「米本土に等しいハワイに対し奇襲攻撃を加え、米国民を怒らせてはいけない。もしこれを敢行すれば米国民は最後まで戦う決心をするであろう。・・・日本は絶対に米国に勝つことはできない。・・・ハワイを奇襲すれば妥協の余地は全く失われる。・・・」という反対論を部下に語ると共に、山本にも計画を止めるよう進言した(P292)。その後も真珠湾作戦は失策という自説を変えなかったという。小生は真珠湾攻撃をやるべきではなかったとは考えない。しかし、やり方は考えるべきであったと考える。なぜ攻撃後、真珠湾口に機雷敷設をして封鎖すること位考えなかったのだろう。常に米本土から艦艇を真珠湾に回航していたのだから。

 外務省が前夜に宴会をして海戦の通告が遅れたのは、過失ではなく故意であるという説がある。海軍が奇襲を完璧にするようにするために、外務省に申し入れたというのである。これならば、実直な日本人がそろいもそろって、こんなへまをやらかしたと言う理由が説明できる。前日から明らかに重要な文書だと分かっているのに馬鹿な事をしたとこぞって非難するのだが、馬鹿なことをしたのではない、と納得できる。

 彼らは失態のふりをして職務に忠実だったのである。もし彼らが故意に開戦の通告を遅らせるよう本省から指示されたのだ、とばらしたら、外務省は赤っ恥である。だから、戦後失態をした外務官僚を皆出世させたのである。海軍にしても彼らが黙っていれば責任を外務省の現場に押し付けることができる。外務省も海軍も日本より自分たちの組織が大切だったのである。真珠湾の奇襲を強引に推進したのは山本で、軍令部は皆反対だったのだから、宣戦布告の遅延工作に山本の関与の可能性はある。


未完のファシズム・片山杜秀
 昭和の陸軍軍人たちは必ずしも今考えられているように、武器の質や量より精神主義を重視したわけではない、ということを立証している、という書評につられて読んだが、期待は裏切られなかった。

 第一次大戦の青島攻略は一般に、弱い防備のドイツ軍に勝った、と信じられているが、そう単純ではないというのである。(P52)そして指揮官の神尾将軍は、「慎重将軍」と呼ばれ、弱敵の攻略に時間をかけ過ぎたと言われるが、そのゆえんは、総攻撃前に徹底的に砲撃し、ほとんどかたをつけてから歩兵を突入させる、という近代戦を先取りする攻撃をしてみせた、というのである。

 その反対に第一次大戦前の独仏両軍、特にフランス軍に甚だしかったのが、歩兵による突撃主義であった。(P86)その原因は何と日露戦争での日本軍の戦い方であった。つまり日本軍歩兵の勇敢な肉弾攻撃に幻惑されたというのである。その逆に第一次大戦を観察した日本軍参謀本部はその戦訓として書いた書物で、「火力対肉弾の戦法は、今日より見る時は其不合理なること、敢て喋々を要せずと雖、大戦前に於ては之を不合理と認めざりき」(P87・カタカナを平仮名に変換)と断じているほどの合理的精神であった。

 そしてこの精神は本質的には昭和の陸軍にも共有されていた、というのである。著者は、この事実を認めた上で、その対応は3派に分かれたいったと分析しているようである。その3派に共通する認識は、青島攻略は小規模な戦闘であったから充分な大砲と弾丸を存分に使えたのであって、ソ連や欧米のように圧倒的な国力差がある国との戦いには通用しない、ということである。この点でも日本陸軍は今考えられているような不合理な夜郎自大な軍隊ではなかったのである。

 そこで第一のパターンの典型は小畑敏四郎らの皇道派である。小畑は表向きは、即戦即決で小兵力でドイツ軍が勝った、タンネンベルグの戦いを範として、外交など顧慮せずに将帥の独断専行によって短期戦で勝つべきである、と主張し(P123)がこれが「統帥綱領」となった。ところが小畑ら皇道派の本音は、「持たざる国」日本は、精神力と奇策で勝てる弱い敵としか戦うべきではない、というのであった(P140)。さらに「勝てる筈のない米国に宣戦布告するなど、小畑将軍の眼から見れば、まさに「狂気の沙汰」であった(P151)。

 第二の主張は石原莞爾その人である。石原は有名な「世界最終論」を講演した(P193)。実は戦争は第一次大戦に見られるように、軍需産業ばかりではなく民間の経済力や生産力がいざ戦争という時には、軍事力に転換する。だから日本自体が持たざる国から持てる国に進歩しなければならない。それには数十年の時間がかかり、その基礎は満洲にある、というので満洲事変を起こしたと言うのである。小畑らの合理性は、日本が経済発展しているのならその間に「持てる国」も経済発展するから追いつけない、と考えた所にもある。(P250)これに対して石原は持てる国にしようと言うのである。

 第三が中柴末純というあまり有名ではない軍人である(P247)。陸士出身の工兵出身者である。第一次大戦の観察から、近代戦は物量戦であると書いた本を出版している理性がある(P248)ところが中柴は、小畑も石原も、戦いを選んだり、国策に口をはさんだりする思想の人物で「政治に容喙するとは、天皇大権を干犯し、国体を破壊し、軍人の本分を滅却する」者たちで断じて許されない、と考えるのである(P251)。これは正論であろう。軍人が政治に干渉するのを反対すると言う点で、シビリアンコントロールに近いとも言える。軍事の輔弼は軍部が行い、政治の輔弼は政治家が行うのである。

 総力戦を知りぬいているにも拘わらず、中柴は、結局戦えと命じられれば、今の兵力で戦わなければならない、として精神力を最大限に発揮すべきである、という結論に至る。その思想は仔細に論じられているがここでは省略する。結局は全滅するまで戦う、つまり玉砕の思想に到達した。

 しかし、著者はアッツ島などで現実に日米戦で玉砕が行われたとき「本当におののいてしまったのは・・・中柴本人だったのでしょう」(P293)。と書くのは中柴の合理的精神を理解しているからであろう。ただし、中柴が戦陣訓作成にかかわったことを持って日本兵が玉砕していった(P276)と書くのはどうだろうか。玉砕は戦陣訓のゆえんではない。紙に書かれたもので人が死ぬと考えるのは浅薄である。日本兵が国を故郷を家族を思い、火器兵力の圧倒的な差の中で必死に闘った敢闘の結果が玉砕である。また、別項でも述べたが米軍、特に海兵隊は日本兵の捕虜をとるのを嫌い、傷病兵を殺戮した結果も玉砕を生んだ。いくら銃弾の雨の中を突撃しても、多くの兵士は怪我をおい人事不省に陥ったはずである。九分九厘の兵士が死亡するはずはないのである。米兵は、死体の山の中で生存していた日本兵にとどめを刺していったのである。

 あらゆる日本の矛盾を承知で戦い、戦死した象徴が東條英機であり、大西瀧治郎である。もちろんそのもとには、数百万の素晴らしい日本人が闘っていた。曾祖父母、祖父母、父母の時代の日本人は、世界史に冠たる人たちであった。その意味で私は東條英機を昭和史で最も尊敬する人物と言うことを躊躇しない。東條英機を単なる思想なき優良な官僚という歴史家の気が知れない。小生は、東條英機の百分の一の見識と胆力を持たない人間であることを百も承知しているからである。

 戦前戦中の陸軍軍人が、軍事的合理性を百も承知の上で、精神主義を鼓吹しなければならなかった苦衷を詳述した好著である。戦前戦中の日本人の置かれた世界に冠たる、孤独な地位も証明している。



凡将 山本五十六・生出寿

 軍人としての山本五十六を評価しないのは生出氏の持論である。海兵出身の氏だから意外である。山本や海軍を強引に贔屓にするのは、海兵出身でも戦時に高官であった人が多いようである。生出氏の結論は、山本は軍政家に適していて、軍人としての資質はない、ということであろう。

 真珠湾の工廠や重油タンクを破壊しなかったのは失敗であったというのは間違いで、燃料はタンカーで運べばいいし、艦艇の修理や整備は工作艦でかなりできるから、不自由するのは3,4カ月に過ぎない(P89)、というのだがどうであろう。これは日本海軍が真珠湾への補給阻止、ということを全く考えていなかったことを是認するからである。

 山本は戦艦無用論に近い発言をしながら、戦艦を狙ったのは、日米両国民に戦艦に対する尊敬新があるから、これを屠った際の心理的効果が大きい(P94)といったが、山本の心理としては納得できる話である。ただし、真珠湾にいたのは旧式戦艦ばかりで、アメリカは、開戦後ノースカロライナ級、サウスダコタ級、アイオワ級と10隻も次々と竣工させ、大和級2隻しか完成させえなかった日本とは建艦戦力が違う。もちろん日本海軍同様に途中でアイオワ級もモンタナ級もキャンセルしてこの数字である。

 珊瑚海海戦では多くの戦訓が得られた。米海軍機攻撃精神は強い、索敵が重要である、米軍の迎撃戦闘機と対空火器の威力は大きい、雷撃機は遠距離から攻撃するので回避が容易である半面、急降下爆撃機は突然出現し命中率は低くない、などである。これについて、意見具申したにも拘わらず山本や伊藤軍令部長は無視した(P136)。山本が戦訓を全く取り入れようとはしない、というのは戦死するまで続いた。ハワイ・マレー沖海戦、珊瑚海海戦というのはいずれも、日本海軍にとって史上初めての航空機による艦船攻撃だから、必死に戦訓を得ようとするのが普通の軍人である。それをしなかった山本は指揮官失格である。

 ミッドウェー作戦の主目的は敵空母の誘出撃滅で、攻略はその方便だったというのは、連合艦隊司令部の責任回避の方便で、後からのメイキングだったろう(P153)というのはいつもながらあきれた話である。山本は搭載機の半数を敵空母出撃に備えよ、と言ったという証言は怪しいというのである。そもそも山本ら連合艦隊司令部は、米海軍は珊瑚海で2空母を喪失し、空母の主戦力は豪州方面にいた、という判断であったのである(P154)。海軍の幹部は当時も戦訓を取り入れようとしなかったばかりではなく、戦後も嘘をついて事実を隠ぺいしようとしている。

 そればかりではない、巷間言われる、山本が半数を敵空母に備えさせろ、という指示をしていたが南雲艦隊が無視したと言うことを言われる。それが事実なら、南雲艦隊にそれなりの体制を事前にとらなければならない。単に陸上爆撃を実施する各艦の艦上攻撃機の半数に常に雷装をさせよ、というのでは爆撃作戦中も空母攻撃実施時にも混乱が生じる。空母攻撃には艦戦も艦爆も待機していなければならない。山本の指示が出ているのなら、空母の編成を陸上爆撃用と、空母攻撃用の二部隊に分けなければならない。山本は事前に艦隊の編成を確認しているから、そのようになっていないことを知っていたのである。指示に違反した艦隊編成にしていたのなら山本は激怒して直させたはずである。つまり山本は半数を空母出現に備えさせよなどという、指示など出していないのである。この言葉は山本シンパが後からでっち上げたのに違いない。

 米海軍はウェーキ島攻略でとらえた監視艇から暗号書を捕獲し、暗号を解読していた。同じ暗号書前海軍で使われていたから、それ以後の作戦は全部ばれていた。これに対し陸軍では、トイレットペーパー方式といい、暗号のキーも使用規定も一度限りであった。海軍から海軍の暗号方式を聞いたある陸軍将校は、必ず解読されるとあきれていた。陸軍の大演習の時は甲軍と乙軍の暗号書をちがえ暗号解読も演習に含まれていたが、海軍では敵味方とも同じ暗号書を使っていたから暗号解読の必要はない。

 結局米軍も陸軍の暗号は解けなかった。さらに陸軍では、士官学校の成績優秀者を暗号担当将校にし、海軍では兵学校の成績の中くらいのものをあてていた。(P159)不合理の塊のように言われる陸軍はここまで情報を重視していたのである。戦前、山本は駐米大使館付武官をしていたとき、補佐官たちに「成績を上げようと思って、こせこせ、スパイのような真似をして情報なんか集めんでよろしい」といっていた(P160)位だから山本の情報軽視の程度が分かる。

 ミッドウェー作戦に対して軍令部作戦第一課が、攻略はできても、ミッドウェーは直近の日本軍の基地よりハワイの方が近く、機動部隊で簡単に奪還されると理路整然と主張し反対した。これを軍令部にも山本長官にも伝えたが相手にされなかった(P113)。結局山本は山勘や思い込みでものごとを決定する人であったのだ。緒戦の大戦果に海軍軍人は慢心していた。その頂点に山本がいた。しかし、緒戦ですら米機動部隊は、ゲリラ的に出現して意外な戦果を挙げている。海軍がその点に不安を持った節はない

 山本は、ミッドウェーの敗戦で司令部の南雲、草鹿、源田らの幹部を馘首どころか責任追及もしなかった。生出氏は、山本が部下たちの責任を追及しなかったのは自身も問われない道を選んだ(P180)、と酷評しているが当然であろう。

 米国側は、日本の行動を知り意表をついて攻撃し、運もあり勝てないはずの作戦に勝利した、という元防衛研修所職員の、ミッドウェー海戦の評価を紹介している(P181)がどうだろう。艦上機数ですら米海軍より圧倒的に戦力が大、というわけではなく、陸上機まで含めた航空戦力は米軍の方がかなり優勢だったのである。氏も南雲艦隊の練度に幻惑されているように思われる。小生は南雲艦隊が空母攻撃隊を全機発進させることに成功したところで、相打ちに近くなっていたと考える。前述のように米軍の迎撃戦闘機と対空火器の威力は大きく、明らかに日本海軍を上回っていたからである。


 日本の敗因は、航空過信、偏重であったと言うが(P203)まさに山本五十六はその通りであった。昭和九年に駐米武官をした山口多聞はスパイのデータから、米海軍の36センチ砲以上の大口径砲の命中率は日本の1/3であり、他の調査でもこれは裏付けられている。その他零戦隊が制空権を奪って日本だけが艦載機による弾着観測ができる、などの有利な要因がある。従って対米6割の兵力でも艦隊決戦には勝利できる(P205)、という。

 結局海軍は伝統の邀撃作戦で戦った方がよかったというのだが、そうだろうか。氏も、戦争は陸軍による陣取り合戦で、海軍はその補給や補給阻止をする補助者である、ということを忘れて単純かつ抽象的に艦隊決戦なるものが生起すると考えている。日本海海戦もバルチック艦隊がウラジオに回航されて、日本が大陸への補給線を断ち切られるのを防止するために、艦隊の回航を待ち伏せた結果として起こったのである。米海軍もその後、指揮統制システムや火器管制システムの飛躍的向上によって、大東亜戦争当時は主砲弾の命中率は向上していた。ただし、航空偏重よりは艦上戦闘機により制空権を握って敵空母機の攻撃を阻止している間に、主力艦の砲撃力で攻撃する方がましであった、という説には賛成である。なぜなら航空機による敵艦船攻撃による損失は米海軍に比べ日本海軍の方が大きく、損失の補充も困難であるのに対して、当時は砲弾自体を迎撃するのは不可能だからである。

 山本の機上戦死に関する記述は実に奇妙なものである。なんと、「山本は後頭部から額に抜ける銃弾で即死していた」(P218)というのである。検死その他の調書では、頭部に傷があっても僅かなものである、と言う点では全て一致している。そもそも撃墜したP-38の機銃はほとんどが12.7mmで、少しの20mm機銃もある。12.7mm機銃弾が頭部を貫通したら、頭部は粉砕されている、というのが武器の専門家の一致した見解である。小生のごとき素人の知る知識を元軍人の生出氏が知らぬはずはないのである。

 また、山本のラバウル視察は、戦争の前途に悲観したために、故意に少数の護衛でわざと危険なところに行ったという「自殺説」が案外根強い。だが、この計画は宇垣参謀長が強く主張して実現したもので「・・・陣頭指揮ということがはやっているようだが、ほんとうをいうと、僕がラバウルに行くのは感心しないことだ。むしろ柱島に行くなら結構なのだがね。・・・」(P213)と語っているから、視察は本意ではなかったから自殺ではない。結局山本はい号作戦の成功の誤報を信じて楽観していた。小沢、今村、城島のような実務家が視察中止か護衛を増やすように行って聞かせなかったのを聞かなかったのも、いちどこうと思いこむと他人の意見を無視する性格が表れたのだ(P221)という。


真実の中国史1840-1949・宮脇淳子・李白社

 西暦からわかるように、清朝末から中共成立までの中国史である。過去の通説を否定することから始めているが、元の時代から中国が世界史に組み込まれた(P68)というのは西尾幹二氏も似たようなことを言っていたと思う。すなわち、それまではバラバラだった世界が元の統一帝国によって世界史が始まったというのである。明は漢民族の歴史に戻った、と言うのだが、それまでに入ってきた異民族は中国に居残った(P69)から日本人には訳が分からず明朝の研究は疎かになったというのである。

 清末の洋務運動は、中国自身が何かしたというものではなく、英仏などの外国資本が金儲けのために入ってきて工場を運営したのに過ぎず、結局、現代中国と同じことをしているのに過ぎない、という指摘(P98)は、結局漢民族と称する連中は自分たちで地道に技術開発や西洋の勉強をする気はなく、外国を利用してその上に乗っかっているだけ、という体質を表わしている。

 清朝の正規軍である。八旗軍やモンゴル軍は太平天国の乱などの討伐には役に立たず、結局自衛のために各地に軍閥が発生した。李鴻章の北洋軍閥などはその典型で、清朝の軍隊ではない。「李鴻章は全権大使や欽差大臣を歴任しますが、清国として工場を建設したわけではありません。そうではなくて、逆に一番強く、大きな軍隊を持っているから大臣をやらせて、外国と交渉させたというのが正解です。日清戦争では日本は国民軍ですが、清国側は李鴻章の私兵が戦ったと考えればいいのです。」(P98)というのであるが、このことは、清朝崩壊以後現代中国に至るまで、その体質を残していることを忘れてはならない。現代中国行けば、地方では軍隊が通行税を取ったり、工場を経営したりして、半自給自足の経営をしている。そのことと同じなのである。

 十三世紀に元朝になると、朝鮮半島はモンゴルの支配下に入った。代々の高麗王はモンゴル人を母としている。それどころか、李氏朝鮮の始祖は女真人であるというのだ(P119)モンゴル時代の朝鮮には世界の文物が入って豊かになっていったのに、李氏朝鮮になったら、中国にのみこまれないために自給自足の経済としたため、進歩が止まり退化し、車も足るも作れなくなり、文明が退化した、というのは現代北朝鮮と同じだというのである。中国も朝鮮も体質は変わらないのである。韓国も高度成長期は日本の保守政治家はほめていたが、現在は様変わりである。これは、日本時代に育ったまともな人たちがいなくなって、先祖帰りしたのである。

 日清戦争の際の英国対応は意外であった。英国は中立を宣言するが、実は英国は日本艦隊の動きを清国艦隊に連絡したり、英国商船が清国陸軍を輸送するなどの中立違反をしていた(P159)。この商船を東郷平八郎が砲撃したと一時英国内で紛糾して、結局東郷の行為は合法であると認められたというエピソードは有名であるが、それ以前に英国が国際法違反をしていたのだ、という指摘は初めてである。

 案外有名なのが、辛亥革命当時の中国には共通語がなかったので、日本留学組だった革命を起こした地方軍の長官たちは、お互いに日本語で連絡を取り合っていた(P204)ということである。二十一カ条の要求についての正当性の宮脇氏の説明は簡単明瞭である。満洲や関東州において日本が清国と結んだ条約について、清を滅ぼして成立したはずの中華民国は、条約を認めないと言いだしたから、それを認めさせるための交渉だというのである(P218)。孫文のインチキさについては、他の本より具体的に書かれているが、省略する。日本の共産党もそうだが、創立期の中国共産党はコミンテルンの中国支部である(P261)。いうなればソ連の傀儡である。

 中国で最初に外国と対等な条約を結んだのは、阿片戦争後の南京条約である、と言うことになっている。しかし事実はそれ以前にロシアとネルチンスク条約を結んでいる。ところがネルチンスク条約は満洲語とラテン語で書かれており、南京条約は漢文で書かれているから、最初の条約だというのだそうである(P208)。どちらも清朝だからいい加減な話である。清朝の支配者の満洲人は、漢字の使い方を知っていてわざと書かなかった(P209)というのも康熙帝や乾隆帝のエピソードで理解できる。しかし康熙帝も乾隆帝も漢文は理解したが、話し言葉としての漢語はできなかったはずである。なぜなら宮廷では漢人も、北京官話と呼ばれる宮廷用の満洲語を使ったのである。

 国民党は、多くの軍閥を束ねて大きくなっていったというのは間違いである、という(P293)。蒋介石自体が一軍閥に過ぎず、他の軍閥との合従連衡であったという。各地の軍閥はけっして国民党の傘下に入ったわけではない、というのである。そもそも中国共産党からしてが、秘密結社である、というのだ。「中華ソビエト政府というのは・・・やくざの根城が各所にあったと考えるのが正しそうです。やはり『水滸伝』の世界で一旗あげたい乱暴な連中がネットワークを作り、力のある連中が山々に根城を作っていった感じなのです(P203)。」

 そして有名な毛沢東の長征とはライバルを殺す旅だった(P306)というのは刺激的である。通説では、延安に行きつくまでに、色々な戦いがあり、当初の10万人が3万人にまで減ってしまった、というものである。実は、ライバルの部隊が死ぬように遠回りしたというのである。ソ連帰りのエリートの指導する部隊はゲリラ戦に向いていなかったこともあるが、彼らを毛沢東が助けなかったという。当初は下っ端でモスクワ帰りのエリートではなかった毛沢東が、ライバルを抹殺した結果長征の終わりにはトップにのし上がっていたのである。

 日本の識者同士が集まって話をしたとき、高山正之氏がなぜいい加減なロシア人がコミンテルンの謀略は巧妙で成功したという疑問を出した(P316)。宮脇氏の曰くは、コミンテルンの指導者は皆ロシア人ではないというのである。マーリンはオランダ人、張作霖の暗殺に関係したのはブルガリア人である。そしてロシア以外の外国のコミンテルンの人間が活躍したというのである。

 蒋介石は日本軍の矢面に立たされて闘わされた。ところが毛沢東は、共産軍で真面目に日本軍と戦った将軍がいると、激怒して止めさせたというのである。そして、共産党はアヘン貿易をして金を貯めて、裏で遊んでいた。共産党本部の延安でもアヘンを作っていた。アヘンが必要なのは金儲けばかりではない。当時まともに流通する通貨がないから、阿片が通貨として一番信用があった(P326)のだそうである。

 この本は、孫文や中共成立までの毛沢東の正体を余すところなく描き、蒋介石などの軍閥や中国共産党の出自などがうまく描かれていて、いかにも中国らしいと納得させてくれる好著である。現代中国の実相を理解するのにもよい。



○中国人に対する「労働鎖国」のすすめ・西尾幹二・飛鳥新社

 シンガポールなどのように、厳格かつ冷酷に扱わない限り、労働力不足だからといって単純労働者を安易に外国から入れることは、ヨーロッパ、特にドイツで起きているような悲惨な事態を招くというのが本書の主旨であろう。その通りで、経済人は目先の利益で後進国の人も助かるなどという嘘まで並べている怪しさは小生も感じていた。多くの事例を挙げて労働移民の危険性を立証している、必読の書である。

 上記の主旨とは直接には関係ないがP202には、面白い指摘がある。「・・・インドや中国やアラブ諸国が工業文明を急速に見につけ近代化への離陸を果たす時期は来ないのではないか、と私は考えている。イギリスの産業革命から百年程度までが近代化へ向けて離陸するぎりぎりの潮時ではなかっただろうか。NIES諸国の内シンガポールと香港はイギリスの、韓国と台湾は日本の統治時代に、離陸への予備段階を完了していたのである。」というのである。

 これは小生の考えとほぼ同じである。小生は昔の機械製作法の授業で、ロシアの大型プレス機にかなうものは日本にはないということを聞いた。ロケット戦闘機Me-163をコピーするのに、日本の技術者は無尾翼と言う、ロケット技術の本質と関係のないリスクのあるものまで物まねしなければ気が済まなかった。ロシア人は本質が分かっているから、主翼は直線翼で通常の尾翼付きの形態とし無用のリスクを避けた。現在の状況を見ると意外に思われるかも知れないが、工業技術に関しては日本はロシアに半歩遅れているのだと、未だに考えている。ロシアは西欧に地理的にも近く近代工業技術の導入も早かったからである。

 西尾氏と違い、シンガポール、香港、韓国、台湾に関しては離陸は困難なのではなかろうかと考えている。統治時代に予備段階があったといっても、宗主国から与えられた受動的なものだからである。これらの国は、車のエンジンと言う現代では最新技術ではないものすら、与えられた生産設備でしか製造できない。自主開発などは思いもよらないのである。ついに中国は無人探査機を月に着陸させた。こんな技術を中国が自力で開発できるはずがない。その秘密は中国の宇宙開発が、ソ連崩壊の二年後に開始されたことにある。

 それにしても専門から正反対の工業技術論にまで高度な見識を持てる西尾氏は、現代稀に見る天才である。思想家としては本居宣長を超えているのであろう。


○大東亜戦争は昭和50430日に終結した・佐藤守・青林堂

 要するに、大東亜戦争は昭和50年の南ベトナムのサイゴン陥落で終結したというのである。日本軍は米軍には負けたが、東南アジアに日本軍兵士が残り、各々の地で独立戦争を指導し戦い欧米からの独立を果たして大東亜戦争が終結したという意味である。筆者の指摘するように、戦後の日本人は米軍との戦いにだけ注目し、本土空襲の惨禍などから惨敗したとしか考えないが、ビルマやインドネシアに残った日本軍は終戦まで負けをほとんど知らずに健在だったのである。

 つくづく思うのだが、日本は戦後嘘で固められた戦史を教えられている。例えば、日本軍がマニラを占領した時撤退した米軍は市内を砲火破壊した上に、土民の略奪が横行していたが、日本軍の侵攻と共に、治安と秩序は回復されたのに、米軍とフィリピン人は破壊の全てを日本軍の行為にしている。(P28)蒋介石が国民に「徳を以て怨みに報いよ」と言ったとされるが、蒋介石の演説には、そのような文言はなく、後日意図的にすり替えられたものである。(P36)


 ベトナムで戦時中二百万人の餓死者がでた、とされるが、当時はヴィシー政権下であるから責任があるのであり、仏軍の規制と天災が食糧不足の原因であった。ところがホー・チ・ミンはそれを日本だけのせいにする演説をした。(P280)筆者は弱肉強食の世界にあることを自覚しない、気の優しい日本人の特性であるとする。しかしそれと同時にやさしいホーおじさんのイメージがあるホー・チ・ミンも残虐非道の共産主義者であることは間違いない。ホー・チ・ミンは偽りのイメージで真の姿が隠されているとしか思われないが、毛沢東のように実態があばかれることはないだろう。

 インドネシア独立に対する日本の貢献は有名である。単に軍事的ばかりではない。「当時のインドネシアには、一二〇種類の言葉があり、・・・そこで日本軍は全力を挙げてインドネシア語の普及をやりました。そして三年半でインドネシア語がどこでも通じるようになった」(P85)というのだから、日本はインドネシアという国家・民族を作ったに等しい奇跡を短期間に成し遂げたのである。

 知られていない一〇〇年前の日米戦争(P116)には米国のフィリピンにおける悪辣な行為が書かれている。米西戦争でアメリカはフィリピンを独立させると騙し、戦後裏切り米比戦争が始まったが日本政府は公式には支援できない。そこで何人かの壮士がフィリピンに渡り支援し、三〇〇人の在比日本人が戦闘に参加している。これを日米戦争といっているのである。この戦争でフィリピンの人口は一〇分の一に減ったというから恐ろしい。米国が本当に恐ろしいことをしたからこそ、独立した現在でもその恨みを言えないのである。戦後の中共も日本軍と戦った人たちは強さを知っていたから文句を言わなかったが、今の指導者は知らないから平気で過去に因縁をつけていると小生は思う。

 似たようなエピソードが書かれている。(P192)ある研究会で韓国人ジャーナリストが日本人に、日韓友好は絶対あり得ない、と言った。その理由は「日帝の支配三六年、米帝の支配五〇年、しかし、支那による支配は一〇〇〇年、その恐怖はわれわれの血の中にDNAとして組み込まれているからです。」と言ったというのである。

 さて日本が昭和十八年にフィリピンの独立を承認したのだが、当然日本の学者を呼んで憲法を起草した。この憲法には、戦争終結後一年以内に普通選挙を実施し、六〇日以内に新憲法の起草および採択の会議を開催すると謳っている。米国によって作られた日本国憲法にはこんな規定はない。(P126)日本人は国際法に律儀に従い、占領下で起草された憲法の無効を織り込んでいたのに対して、米国はあたかも日本人が日本国憲法を作ったかの如く嘘をついたのであ。その尻馬に乗った愚かな日本人は占領が解かれても日本国憲法を破棄しなかった。それどころか、米国製憲法だということが常識となった現在でも、憲法破棄どころか改正すら行えないで立ちすくんでいる。

 東南アジアの共産主義国家成立には残念なことが書かれている。「日本は開戦前の北部仏印進駐以来、ベトナムに関わってきた。しかし『明号作戦』までは、〈親独的な〉ヴィシー政府との協定に縛られて、直接的に日本の政策が反映されることはできなかった。」(P210)というのである。すなわち、フィリピン、インドネシア、ビルマのように自由行動をとって現地人と共にフランス軍を一挙に壊滅させ、PETAなどのような義勇軍を作って独立の礎を築いていた。そうすればベトミンのような共産主義勢力はこの中に吸収されてしまい、ベトナム、ラオス、カンボジアなどが共産化することもなかった。そうすれば、凄惨なベトナム戦争もなく、ポルポトの虐殺もなかった。一党独裁の政権下で国民が呻吟することもなかった。実にフランス領であった地域が、親中ソの共産主義独裁国家となったのは偶然ではなかったのである。


日米開戦の人種的側面・アメリカの反省1944

 内扉には、真珠湾攻撃以後の日系アメリカ人の強制収容所の詳細な経緯を示すとともに、日系人への激しい偏見を描きだし、人種偏見による日本との戦争は1900年にカリフォルニア州との間で始まっていて、それが国家的規模に発展したことを詳説した書であると書かれている。確かに戦争中に自国の批判をするのは大変な事であろう。そこで読み始めたがうんざりした。素人の読む歴史本ではなく、学術書に近いのである。

 だが少し読んだだけで、やはりアメリカ人らしい嘘と偏見を発見したのでそれだけ記しておく。アメリカ政府が強制収容所を作って日本系アメリカ人を隔離したことについて「わが国の歴史上初めて、わが国民の一部にひどい仕打ちを加え、それを人種が違うという理由のみで正当化したのである。(P21)」という。そして同じ敵であってもイタリア人やドイツ人にはこのような扱いはなされなかったというのである。

 何という厚顔であろう。筆者にとって黒人とインディアンはアメリカ国民ではないのだろう。インディアンは無毛の荒地を選んだ居留区に隔離され、その後インディアンは事実上絶滅され、民族浄化されてしまった。第二次大戦後20年もたって公民権運動が成功するまで、参政権がなかったばかりではなく、白人が気に入らなければ切り捨て御免の如くリンチで殺されても警察は何もしてくれない。米国籍の黒人が人間扱いすらされていなかった時代にこの本は出されたのである。

 また、「およそ五十年前までさかのぼって、日本の軍関係者が反米感情を日本の民衆に植えつけたことを示すのが本書の意図である。日米両国のあいだには、それ以前に培われた深い友好の絆があり、日本国民もアメリカには好感情を抱いていた。・・・こういった日本の軍関係者の企みに、わが国の軍国主義者や人種差別主義者の言動がどれほど役に立ったか示すつもりである。彼らは日本のゲームに加担したともいえるのだ。」(P25)本書を読む気が無くなったのは理由のひとつには、筆者のこれらの嘘と偏見がある。

 筆者は、日本人への人種差別の根本原因は、日本の軍関係者の企みがあり、米国側の一部が、結果的にこれを後押ししたのに過ぎないと考えているのだ。換言すれば、日米戦争のスタートは日本の軍関係者によるものであるというのだ。これが米国人らしい傲慢ではなくて何であろう。戦時中に刊行できたのも、こんな特色があるからであろう。ただし、本書は読むに値しないものではなく、日系米人に対する差別の事実関係を子細に検証しているものである、という価値はあろうということは付言する。嘘と偏見のベールをはぎとれば事実は明らかになると思うからである。


書評・日中戦争・戦争を望んだ中国 望まなかった日本・北村稔・林思雲

 本書は中国人の林氏が中国軍が青年を拉致して兵士を調達することを書いている、と紹介されているから読んだのである。小生は太平洋戦争と書くものを信用しない。太平洋戦争はアメリカ側の呼称であり、アメリカの作った史観を受け入れている証拠だからである。ところが本書では一貫して「太平洋戦争(大東亜戦争)」と書く。確かに内容は中途半端なのである。例えば鉄道王ハリマンが日本との共同経営を提案したのを、一旦は受け入れたのを破棄した。もし、この時受け入れていれば、アメリカが蒋介石をコントロールして満州開発しただろうから、日中戦争は起こらず、日米戦争もなく中共の支配もなかっただろう(P54)と書く。

 だがアメリカは一貫して満洲の経済支配をねらっていた。日本の大陸権益は早期にアメリカに奪われていたのに違いない。筆者はアメリカの支配欲に鈍感過ぎる。ただ、捏造された「南京大虐殺」という項(P39)を設けているように、南京大虐殺は、ナチスのホロコーストと対比するために連合国がでっち上げたと語るのだが、戦闘に伴う民間人の被害を誇大にとりあげた、としているのは感心しない。南京での民間の被害はほとんど全部が支那軍人の掠奪、殺人、放火などによるものであり、味方の軍人さえ殺している。

 せっかく、南京市内で日本軍が米と小麦を支給している時期を、東京裁判の判決では「南京大虐殺」の最中であったとされている(P37)と書いているのにである。平和的人道的とされる米軍の日本占領でさえ、東京、神奈川では初期の一年に何万あるいは何十万という婦女子が強姦され、多数の殺人も行われた。その実態は分からないのである。日本軍の南京占領は、これに比べてはるかに平和的なものだったのである。

 1900年代初めにの満洲の人口の9割以上が漢人種だから、五族共和を唱えて満洲人の皇帝を立てるという論理は根拠が薄弱となる(P56)という意見は首肯しかねる。シンガポールがその見本であるが、これは力の論理であって、領有権の主張の正当性があるわけではない。固有の領土であったものを異民族が押し掛けて多数になったからといって、固有の領土という主張が根拠薄弱になるわけではない。戦乱に明け暮れた支那本土とは別に、満洲族の故地に五族協和の国を作るというのは、日本人が初めて考えた壮大な理想であった。

 清国滅亡当時の支那は、国際的には中華民国と呼ばれているが、一つの政府により統一されていたわけではないことが書かれている(P58)。袁世凱が大統領となった中華民国を本書では中華民国北京政府と呼ぶ。蒋介石が率いる国民党は南京を首都として中華民国国民政府と呼ぶ。その後北京には張作霖による中華民国軍政府が立てられる。(P60)その間も実態として支那全土は軍閥の割拠する世界であり、統一政権など無い。辛亥革命以後の支那を、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の対立だけと見るのは、単純化などというものではなく、実態を全く反映していない。

 「満洲事変後の一九三一年十一月に、中国共産党は江西省の瑞金で中華ソビエト共和国の成立を宣言し、ソビエト共和国政府の名義で日本に宣戦布告した(P85)」というのだから、もし支那事変を抗日戦争として一貫して中共が戦ったと言うなら、支那事変を開始したのは中共であった、ということになる。日本では盧溝橋事件が中共の仕業だとか、盧溝橋事件開始直後に毛沢東が全国に抗日を宣言したことが計画的であった状況証拠にしているが、国際法上は1931年に支那事変は中共により開始され、盧溝橋では軍事衝突がスタートしたのに過ぎない。この間の戦闘なき空白の期間は、朝鮮戦争が国際法上は終わっておらず、休戦状態であるのに類似している。

 支那事変は、陸軍が事態を拡大したという軽薄な定説があるが、トラウトマン工作で、中国側の煮え切らない回答で、交渉打ち切りを主張したのは政府であり、陸海軍は反対した。特に陸軍は参謀次長が安易に長期戦に移行することの危険を力説し、政府を追及した。これが大本営による政府不信任の表明だという議論にまで発展した(P109)和平追求が逆に批難されたのである。結局譲歩ぜざるを得なくなったのは大本営であったというのだから、どこが軍部の横暴だというのだろうか。陸軍における不拡大派と拡大派との対立というのは、慎重に対応すべきか一挙に大兵力で決着をつけるかの相違である。事変の長期化を望む陸軍軍人はいなかったのである。

 父は大東亜戦争中、北支に出征した。村民は日本軍が来ると日の丸を掲げて歓迎し、国民党軍が来ると、国民党政府の旗を掲げて実にいい加減なもので、日本軍を外国の軍隊と思っていなかったのではないか、と言った。本書にも「農民の中には、日本軍は何処かのく先発の軍隊だろうと思う者までおり、ある地方では日本軍は東北(満洲)の張作霖の軍隊の一部だと思われていた。(P131)」というのだから、父の直感は正しかったのである。漢民族同志ですら言語が通じないのだから、言葉が通じないと言って外国人だとは思わなくても不思議ではない。

 さて四章は、期待の林氏が担当している。「ナチスの悲惨を極める状況が伝わってきたころ、中国では徴兵がクライマックスに達していた。当時、徴兵された壮丁たちを収容する施設である、成都の壮丁営に勤務していた医者たちは、ドイツでの恐ろしいやり方に驚くどころか、「ナチスの強制収容所の様子は、我々の所と全く同じである」と語っていた。成都のすぐ近くにあった壮丁営の一つでは、四万人を収容して兵士にする訓練をほどこすはずであったが、多くの人間が連れて来られる途中で死んでしまい、生きて訓練を受けたのは八千人であった。」(P139)その後の本書には、いかに兵士にするために拉致された若者が悲惨な待遇を受け、同胞に殺されていくか延々と書かれている。何も毛沢東だけが残忍な殺人鬼なのではない。

 林氏は、劉震雲の小説を引用にして国民党のやり方を非難している(P156)が、日本軍をも批難している。それでも、河南省が干ばつで五百万人が被災し、三百万人以上が餓死したと言われるが、国民党は納税と軍用食糧の負担は変えなかった。この頃河南省に進出した日本軍は軍用食糧を放出し、多くの人が餓死を免れたというのだから、何をかいわんやである。劉は共産党を持ち上げているが、これは現代作家の建前で仕方なかろう。それでも日本軍の人道的措置は書かざるを得ないのである。林氏は中国の色々な小説や資料をチェックした結論として「・・・日本軍占領下の大都市で餓死者が発生したことを示す資料はない。」と断言している。

 袁世凱の系統の中華民国北京政府は、蒋介石に滅ぼされた。これを林氏は旧北洋政客という。林氏に言わせると、満洲人、蒙古人と旧北洋政客たちは、「中国近代史上全ての厄災は孫文の三民主義が作りだしたのであった。中国共産党の誕生であり、蒋介石政権の樹立であり、欧米の利益に屈して抗日を行うなど、これらの根源は全て三民主義にあった。」と考えている(P167)。三民主義にそんな威力があったとは思われないが、欧米に利用されたのは確かである。それにこれらの三つは中国近代史上の厄災であることも事実である。ただひとつ蒋介石政権は、大陸から逃亡することによって、蒋経国と李登輝を経て民主義国家になったかに見える。適正規模であれば、漢民族も国民を幸福にできる国家を作れる可能性があるという証明である。ただし金美齢氏が台湾に絶望したように、台湾の民主化の成功はまだ歴史の検証を経ていない。


江戸のダイナミズム・西尾幹二

 本居宣長などの江戸の思想家を高く評価して論考している。特色は、西洋の思想と時代的にパラレルのものがある、としながらも、西洋の思想との類似性があるから日本の思想も優れているという西洋を基準とした評価の方法を徹底的に排除していることにある。また万葉の時代には日本語の音は88位あり、平仮名が奈良時代に生まれたら、仮名は88個位になったであろうと、という面白いこともかかれている。(P446)とにかく大著であり、小生が批評するには到底手に余るので止める。ただ、一点だけ疑問を呈したい

 それは漢文を中国語の文字表記と捉えている節があることである。他の評論でも繰り返し述べたが、岡田英弘氏によれば漢文は中国語の文字表記ではなく、もちろん古代中国語の文字表記でもなく、表意文字による情報の伝達手段である。文字表記の方法としては原始的なものである。荻生徂徠が支那の古典を返り点を打たずに、文字の順に白文として中国語の音として読んだ、という。そのために徂徠は中国人から漢字の音を学んだという。

 だがこれは二重の意味で奇妙である。西尾氏は中国は漢唐の時代以前とそれより後では断絶しているという。従って、呉音、唐音などというように漢字の読みも変わっている。徂徠の時代の清朝の音と支那の古典の音とは異なる。徂徠は古典当時の読みではなく、現代の音で読むという奇妙な事をしていたのである。また白文とは言っても、古典の漢文は古典の時代の支那人が話していた言語の文字表記でもないのである。恐らく徂徠は白文を声を出して読むことで、古代の支那の言語を語っていたつもりなのである。

 清朝においても、支那本土でも漢文は読まれ、文字表記として使われていた。漢文は支那古典に記された漢文が基準とされていた。だから科挙では漢文の作文などがされたのである。ところが清朝でも既に支那本土では、広東語、福建語、北京語などのいくつかの言語を話す地域に分かれていた。これらの言語の差異は方言などという程度の差ではなく、フランス語、ドイツ語、スペイン語と言った程度の異言語である。これらの異言語を話す人々が漢文という共通した文字表記を使っていたというのも奇妙な話なのである。清朝ではまだ、広東語、北京語などの漢字による表記法がなく、漢字による文字表記法と言えば漢文しかなかった。例えばフランス人、ドイツ人、スペイン人が各々の言語をアルファベット表記する方法がなく、これらの3国人が共通して読めるアルファベット表記法があったら、と例えたらこの奇妙さが良く分かるであろう。だが、これらの漢文に対する西尾氏の誤解は、この本の論考に根本的な間違いを生じるものではないことを付言する。さらに言えば岡田英弘氏が言う、漢文には文法がない、ということは西尾氏は薄々承知している節がある。「中国語のシンタック」と言っていて決してグラマーとは言わないからである。その意味では、漢文の評価について西尾氏は明瞭ではないと思われる。しかし、これだけの博識の西尾氏が、岡田英弘氏の、漢文は古代中国語ですらないという説を知らないとは思われないのが不思議である。


地球日本史1・日本とヨーロッパの同時勃興・西尾幹二編

 この本のテーマは副題が自ずから示している。何人もの筆者が各テーマで分担しているので、純に紹介していこう。執筆者は必ずしも紹介しない。以下の番号は本書にふられたものであるが引用していない項があるので、番号は抜けている。

①日本とヨーロッパの同時勃興
 日本が有力文明の域に達した時、同時にヨーロッパがイスラム文明を破って海洋に進出したのがほぼ同じ17-18世紀である。(P27)日本の歴史は、明治維新や敗戦などで断絶しているのではない。江戸時代の文明の熟成が維新のヨーロッパ文明の導入を可能にし、戦前の軍需産業が戦後の高度成長を可能にした。農地改革ですら戦前から始まっていたというのである。(P29)

②モンゴルから始まった世界史
 タイトルには4つの意味がある。(P40)モンゴル帝国は、東の中国世界と西の地中海を結ぶ草原の道を支配して、ユーラシア大陸をひとつにまとめたので世界史の舞台ができた。モンゴルがユーラシア大陸の既存の政権を全て破壊して、あらためてモンゴル帝国から新しい国々が独立することによって、今のアジアと東欧の諸国が生まれた。北支那で生まれた資本主義経済が、草原の道を通って西ヨーロッパに伝わり現代社会が始まった。モンゴル帝国がユーラシア大陸の貿易を独占したので、日本と西ヨーロッパが活路を求めて海上貿易に進出したために、歴史の主役が大陸帝国から海洋帝国に変化した。

 意外であったのは、資本主義経済が発生したのは北支那である、ということである。元朝以前の北京は女直の金帝国の都で、以前から中国ではもっとも商業が盛んな地域であった。ところがここでは銅が取れないため通貨が作れない。そこで金帝国では手形取引が盛んになり、信用の観念が発達した。信用は資本主義経済の基礎である(P48)というわけである。

 念を押すように、フビライは中国皇帝の伝統を継いで、中国に入って中国式の元朝を建てたというのは誤解で、元朝はほとんど中国に入っていない。元朝のハーンは一年の大部分をモンゴル高原を移動して過ごし、冬だけ避寒のため大都(今の北京)に滞在したという(P48)のである。これは清朝が首都を北京として常駐し、真夏に避暑のためにだけ故地である、熱河に滞在したのと真逆であるのが小生には興味深い。それゆえ、モンゴルは帝国を倒されても故地に戻り今に至るまで存続し、満洲族はそれ以前に支那本土を支配した外来民族と同様に、支那本土に土着して漢民族のひとつに分類されるに至ったのである。

 支那大陸に侵入した外来民族は、漢民族に同化吸収されたのではないことは、元朝の中国に反乱が起きて、ハーンはモンゴル高原に戻ったが、後継の明朝の制度はモンゴル式をそのまま引き継いだ(P50)、というのだから、「漢民族」が変わったのである。東ヨーロッパの森林地帯には、スカンディナビアから来たルーシ人の街が点在するだけであったが、モンゴル帝国の高い文化にはじめて触れて、低かった文化が成長した。ロシア正教もモンゴル人の保護で広まった。モスクワ大公イワン四世は母が多にチンギス・ハーンの血をひいているといい、ハーンのスラブ語訳のツァーリを自称した。(P51)全てのことが元々支那本土から野蛮人扱いされていた民族の文化が高く、「漢民族」もそれを受け入れて発展したことを証明している。

④中華シーパワーの八百年
 現在の中国は大陸国家であり、近年海軍力を増強しつつあるが、長い間の体質は容易には変わらないだろうというのが一般的見解であろう。ところが、本項では、中国は十二世紀から十九世紀の間にはアジアでも傑出した「シー・パワー」であったというのだ。その結果としてアジアの至る所に商業コロニーとしてのチャイナタウンができた。また、中国のシー・パワーの強さについては欧米人はよく知っているというのだ。(P72)

 だが小生には、中国は大陸国家であるという常識を簡単に変更することは百年二百年というスパンでは変更する必要はないように思われる。なぜなら、十九世紀までの中国人と今の中国人には文明文化の断絶がある、と考えられるからである。民族のDNAに海洋民族としての体質が残されているようには思われないからである。それをいうならむしろ日本の方が海洋国家としての体質を残していると考えられる。日本の民族には変化はあれ、断絶はないからである。世界各地のチャイナタウンには既に商業コロニーとしての機能はなく、本国との連携もないのである。

⑥西欧の野望・地球分割計画
 スペインとポルトガルが地球を二分割する許可を、ローマ教皇から得たというとんでもない話は有名である。その根拠は、イスラム教徒はキリスト教徒の国土を不当に占拠していて、東洋や南米は、宣教師の現に耳を傾けなかったり迫害し、北米の原住民は布教は妨害しないが、自然法に反する悪習を守っている。従ってこれらの人々に対する戦争は正当である、という(P126)のだから、根源はキリスト教の独善的傲慢にある。

 アジアについては、日本は貧しいが国民は勇敢で軍事力があり征服できないが、支那人は臆病で国は富んでいるから征服する価値がある、という。そして支那は人口が多いから死体で城壁で築いても通さないといっているから、日本人を利用するのがよい、という。そしてある日本人の研究によれば小西行長らの複数のキリシタン大名から、援軍を用意する旨の意思表示があった(P128)、というからひどい話である。

 岩波文庫に「インディアスの破壊についての簡単な報告」という本がある。この本はスペインが南米で行った残虐行為をこれでもかという執拗な調子で書いたもので、これが世界に流布した結果、スペインは自虐的になり、世界一元気のない国になってしまった。スペイン人は自らスペインの悪口を言いたがるというのである。ところが、1985年に「憎悪の樹」という反論の書が出た。それによれば、インディオの殺害数は到底勘定が合うものではないし、当時著者は反論を受けた際に一言も有効な反論ができなかった。従ってかの本は虚偽、歪曲、のでたらめな書であるという(P131)。

 ここで思い出すのは日本の自虐史観である。東京裁判や支那から宣伝された「日本軍の残虐行為」は定着してしまい、嘘までついて日本軍の残虐行為を証言する日本人が続々と出るに至った。この状況が続けば、日本も第二のスペインになる恐れが極めて大である。現に政治家でも経済人でも学者でも、中国に対しては以上に卑屈になっている。

⑦秀吉はなぜ朝鮮に出兵したか
 秀吉の朝鮮出兵は、昔から彼の征服欲だとか乱心の果てだとか言われている。本項によれば、征服欲説は江戸時代からであり、徳富蘇峰ですらも賛同し批難の言説を述べている。(P139)もちろん朝鮮は明への通路に過ぎない。この項では村松剛の説を引用して、秀吉はスペインとの同盟を考えていたという説を紹介している。同時に明が西欧に支配されれば、将来日本の脅威になるとも考えていた。従って同盟が不可能なら単独でも明を日本の支配下に置くしかないというのである。(P144)

 さらに日本とスペインの思惑が異なるのは、秀吉は明を支配するのは日本であってスペインには布教の自由を与えれば良いと考えていたのに対して、スペインは明の支配権は自分にあり、日本は傭兵扱いであったと論ずる。しかし、秀吉は宣教師は西欧の侵略の尖兵であるという認識があったことを考えると簡単には信じがたい。布教を許すことは脅威の種をまくことだからである。

 筆者の独創は、朝鮮征伐を「ミニ大東亜戦争」だったとする考え方である。(P146)スペイン人が日本を利用したのと北清事変に日本出兵を利用したのとの類似性。満洲の共同経営のハリマンの提案を断って独力でしようとしたこと。そして大陸で衝突して敗れたことである。いずれにしても、朝鮮征伐を偏狭な征服欲に帰すことは、日本が西欧と接触し、世界史の中で動いていたという、巨視的な視点が欠けている、むしろ偏狭な見方である。それと朝鮮征伐の段取りが拙劣であったのとは次元が異なる。

⑧フィリップ二世と秀吉
 ここでは、秀吉のキリシタン弾圧の根拠が明瞭に書かれている。(P160)1596年スペインの貨物船が浦戸に漂着した。罪には押収されて乗員は尋問された。彼等は世界地図のスペイン領を示し、国力の大きさで威嚇しようとした。どうして広大な領土を獲得できたかと聞かれると、征服したい国に宣教師を送り込み、住民の一部を回収させると次は軍隊を送り込み、改宗者と合同して簡単に征服したと語った。この話はただちに秀吉に伝えられ、長崎の26人の処刑に始まるキリシタン弾圧が始まった。

 だが秀吉がキリスト教を禁止したのは1587年である。この理由はP143に書かれている。神父コヨリエが外洋航海ができないボロ船に重装備をして秀吉に見せて、軍艦の威力を誇示した、というのである。秀吉が起こることを恐れてキリシタン大名がボロ船を秀吉に渡すよう説得したが果たせず、秀吉が激怒して禁教がなされたというのである。神父の馬鹿な行動で禁教が始まったとはにわかには信じられない。そして、船員の証言でキリシタン弾圧が急に始まったというのも同様である。もともと秀吉には宣教師が送り込まれた地域は征服されている、という情報があって、これらのエピソードは、その判断が確定的であると、ダメを押したのだと小生は考える。そうでもなければ、秀吉の行動は過激で素早過ぎる。P141にも書かれているように「・・・秀吉はキリシタンに概して好意的で宣教師たちと親しく交際していた期間が長い」のである。

 P175にはキリスト教に関する恐ろしい考察がある。「・・・フィリップ二世時代のカトリックの統治哲学の中に秀吉が直感した狂気への洞察である。ドフトエフスキー「大審問官」が告白した通り、あれはニヒリズムの極北というべき「人神思想」であって、後の世にナチズムやスターリニズムとして再来する政治的狂気とも決して無関係ではないであろう。」というのだが、このグループにはアメリカ先住民の民族抹殺や黒人奴隷なども入れるべきであろう。彼等はカトリックではない。キリスト教を西洋人が纏った時に人神思想は発現したものと考える。キリスト教が根源的に悪いのではなく、キリスト教と西洋人との組み合わせが狂気を生んだのである。

⑩鉄砲が動かした世界秩序
 ここでは、西洋から鉄砲を導入すると瞬く間に日本中にひろがり、世界一の鉄砲保有の軍事力を持った日本が、江戸時代に急速に鉄砲を放棄し、刀剣に立ち返った謎について説明している。城の構造や兵農分離など鉄砲本位の社会になったのにである。(P206)一般には、西洋が火縄銃から更に進化を遂げたのに、日本では火縄銃で停滞したと説明されているが、ここでは刀剣に退化し、「軍縮」がなされたと評価している。藤原惺窩は「治要七条」に戦国の世が終わったので、これからは文治出なければならないとして、徳治を説いた。これは西洋の覇権主義とは対極である。刀剣は武士の魂としての象徴的なものとなり、武士は筆を持って城に詰めるようになった。(P213)

 西欧では戦乱により、十七世紀前半にグロチウスが戦争を世界観の中心として国際法の柱とした。従って西欧は覇権に基づく軍拡の道を歩んだ。(P215)要するに西洋はヨーロッパの内戦で、武器の進化が進み、戦争の調停などの手段としての国際法が生まれる必然性があった。国際法の出自は戦争にあったのである。ところが現代日本では戦時国際法は極めて軽んじられて、戦後未だまともな戦時国際法の著述を知らない。以前論考したが支那事変の当時ですら、支那事変の戦時国際法考察されていた。かつて日本人は国際法に無知ではなかったのである。

⑪キリスト教創造主と日本の神々
 新井白石と司祭シドチとの対決は有名な話である。白石はシドチの博聞強記に感嘆するが、キリスト教の教義の話になると愚かな事に呆れた。デウスは天地創造したのなら、デウスを作りだした者がいるのであり、もしデウスが自ら成り出ることができたのなら、天地も自成しうることに何の不思議もない、というのである。(P237)なるほど明快な論理である。西尾幹二氏は「江戸のダイナミズム」という著書で、本居宣長が、天の神が占いで教えを請おうと仰ぎ見る神は何者か、と詮索するのは支那にかぶれて歪んでいるのであって、神代の事は疑わしくても、古代の伝承のままに受け止めれば良い、と言っていることを紹介している。これならば、新井白石も納得するのであろう。

⑬日本経済圏の出現
 清朝は17世紀半ばに、銅不足で日本の銅輸入に頼っていた。ところが、中国の膨大な銅需要に応じられないので、信牌を持つ中国人にだけ制限した。信牌には日本の年号が記されているので、信牌は全て寧保で没収されたために、その後二年間は中国船は日本に来られなくなった。しかし、困った清朝は、信牌を政治的な意味のない、商業的手続きであると強引な解釈をして信牌を承認に返し銅を輸入させた。これは結果的には公式の朝貢貿易以外の現代的意味での貿易が成立した、ということである。(P271)中国流の立場からすれば、日本の年号を用いたということは、中国が日本に朝貢したと考えられるのである。



天皇と原爆・西尾幹二・新潮社

 今まで読んだ西尾氏の本とかなり重複している。同じ傾向の本を選択して読んでいるのだからそうなっても仕方ないだろう。ただ、要約されて総花的になっているような気がするので、頭を整理するにはいいのかも知れない。できるだけ重複しないものをピックアップしてみようと思う。

 サモアの分割、という話がある(P47)。19世紀後半にアメリカとイギリスが、南太平洋のサモアの領土保全を協定する。ところがドイツがサモア王にドイツの主権を認めさせたので、米英独が争った後にベルリンで話し合いサモアの独立を宣言する。ところが内乱が起こると、米英独が対立競争をするのだが、競争から英国が逃げると、米独で分割統治する。この事件は米西戦争、ハワイ併合のわずか二年後である。西尾氏は、これを太平洋における領土拡張の始まりの象徴である。と書く。米西戦争は一気に太平洋を越えてフィリピンまで行ったが、ハワイ、サモアと着々と太平洋の領土を拡大しているのだ。ドイツ領は第一次大戦に負けたため、信託統治領を経て、第二次大戦後独立をしているが、東サモアはいまだにアメリカ領である。この頃のアメリカは英国と同じく典型的な力による帝国主義の膨張国家である。

 豊臣秀吉や江戸幕府のキリシタン弾圧は今では非難を込めて語られる。長崎には日本二十六聖人殉教の地というのがある。しかし西尾氏が書くように西欧のキリスト教宣教師は海外の侵略の手先であったのが事実である。例えば中国では日中の離間を謀るために、宣教師は反日スパイの役割を演じていた(P54)。経費からすれば「アメリカがキリスト教伝道に使った額は全体投資額の四分の一というほどの巨額です。」と言うのだからすさまじい。

 ついでに最近のアフガニスタンへの介入やイラク戦争も、アメリカの西進の一環であると断定する(P55)。多くの保守論客が日米同盟のゆえにこれらの介入を支持し、反対するのは左翼である。しかし西尾氏のこのような観点は、一方で常に考えおかなければならない。知っていて同盟するのはいいが、盲従するのは政治家のすることではない。また、政治家なら日米同盟と言う現実的妥協の理由はあるが、思想家だけの立場なら別である。アメリカの「闇の宗教」(P74)という項はこの本の重要なテーマである。本書では繰り返し、日本と米国はともに神の国であり、それゆえ衝突したのは必然であるということを論じているからである。

 アメリカには、ヨーロッパ以上に強固な宗教的土壌が根強く存在します。ヨーロッパで弾圧された清教徒の一団がメイフラワー号に乗って新天地をめざしたという建国のいきさつからみても、それはあきらかです。・・・非常に宗教的な土壌から、「きれいごと」が生まれてくるのではないというのではないかというのが、私の仮説なのです。アメリカの唱える人権思想や「正義派」ぶりっこは、非理性的である。(P75)

 アメリカ人のやることは非常に乱暴であるが、言葉は実に綺麗事に満ちている、というのは多くの体験で分かるはずである。日本国憲法からして、よく読めば論理的には日本は禁治産者だから軍備を持ってはいけない、ということを言っているのだが「諸国民の正義」とか綺麗な言葉が並べられている。それはアメリカ国内でも同様である。西尾氏は言う。占領政策で日本に持ち込まれた、グレース・ケリー主演の「上流社会」という映画は金持ちのアメリカ人の優雅な生活を紹介して、復興しかけの日本人を圧倒した。しかし、同時にインディアンへの無法や黒人へのリンチは公然と行われていた、ということは戦前には日本ではよく知られていたのである(P80)。

 ヨーロッパの魔女裁判は有名であるが、アメリカでも1692年にマサチューセッツ州でも行われている。これは硬直した宗教思想が欧米人にあり、異なった宗教や意見を許さないのである。アメリカの信教の自由と言っても、それは聖書に基づく宗教の範囲に限定されている。これに比べ日本は思想にも宗教にも一般的には寛容である。キリシタン弾圧は、キリスト教宣教師が侵略の尖兵であったためであり、防衛問題であるから宗教弾圧ではない。幕府の教学は朱子学であったが、それに反対意見を述べた荻生徂徠は罪に問われることもなかった。本居宣長は朱子学も幕府が保護していた仏教も排撃したが問題にされなかった。十八世紀のヨーロッパでは、キリスト教の神の絶対性にカントやフィヒテがほんの少し疑義を提出し、人間の立場を主張しただけで、大学の先生を辞めさせられたりするなどされた。(P81)日本には思想の自由がなく、欧米とは違う、というのも戦後吹き込まれた幻想である。

 アメリカが宗教に立脚した国であるということは、大統領が就任の宣誓をするときに、聖書に手を置くことでも分かる。そればかりではない。レーガン大統領は就任演説で「われわれは神のもとなる国家である。これから後も、大統領就任式の日が、祈りの日となることは、適切で良きことであろう」という一句があった。ところが演説を細大漏らさず翻訳した朝日新聞の記事には、この一句だけがすっぽり抜けていた。(P118)西尾氏は意図的だろうと考えながらも、宗教の事は個人的なものであり、枝葉だから省略したとして好意的に解釈している。森首相が『日本は神の国』と発言して問題にされたのは、この演説のよほど後だから、関連はないのだが、朝日新聞は、戦前、神国日本などと言っていたと批判しているのだから、アメリカ大統領が、公然と米国は神の国だと言っているのは都合が悪いから意図的に削除したのである。

 戦時に神国日本を強調した急先鋒は朝日新聞である。朝日新聞のコラムは戦前から「天声人語」である。ところが、昭和17年の1月から、昭和20年の9月まで、何と「神風賦」となっている。戦争が始まった翌月から「神風」と煽り、戦争に負けた翌月、すまして元に戻しているのである。変わり身の早さは見事である。

 森首相を批判したのは、神国という軍国主義を思い出させる、という理由の他に政教分離、という憲法の原則を持ち出している。ところが西尾氏によれば、国により政教分離の意味は欧米でも国によりかなり異なる。(P138)ヨーロッパでは、教会による政治に対する圧力が強過ぎた経験から、宗教権力から国家を守る、法王庁から近代市民社会の自由を守る、という意味である。信仰は個人の内面にとどめ、信仰が異なる人々の間でも政治の話が出来るようにする、という意味である。アメリカでは、建国の経過から聖書に依拠した宗教ならばどの教会派も平等である、という意味である。ところが、唯一日本のように厳格な政教分離を行っているのはフランスであるのだという。それは革命国家だからであり、学校にキリストの絵を飾ってもいけないし、教室で聖書を朗読することも禁止されている。

 西尾氏は日本がフランスのように厳格に政教分離を行っているのが問題である、とするのだが小生に言わせれば、実は日本でも厳格に政教分離が行われている訳ではない。日本でも比叡山など、宗教が政治力を持って騒乱を招いた時代があるから、むしろ宗教が国家に干渉することを防ぐ歴史的必要性はある。ところが、公明党が支持母体の創価学会という宗教団体に操られていることは問題にされてはいない。問題にされているのは、玉串料を自治体が払ったなどということである。つまり政教分離を口実に神道だけが排撃されているのである。家を建てるとき地鎮祭をするように、神道は深層で日本人の生活に密着しているから、神道の行事に自治体が費用を負担するということが起きるのである。日本の左翼は可哀そうに、GHQに国家神道が軍国主義の支柱であり侵略戦争を起こした、などと吹き込まれて、忠犬のように従っているのである。彼等は日本人としての心の根幹を破壊されたのである。

 大統領の宣誓に見られるように、アメリカが政治に及ぼす宗教の影響が大きいのは、アメリカ社会が、ヨーロッパの十九世紀や江戸時代の日本のように、脱宗教の洗礼を受けていないからだ(P140)と言われると納得する。同じイギリス出身でもヨーロッパ人とアメリカ人がかなり異質な理由はこれで納得できる。アメリカの移民が始まってから、ヨーロッパとは歴史的に分離されたのである。アングロサクソン中心で純粋培養されたアメリカ。一方で多数の国民国家が競い合い、それにローマ法王庁が絡み合う、という複雑な歴史が妥協的な社会を作っていったのである。それはアメリカ建国後のことだから、アメリカは取り残されている。それでも、西洋人は一般的に日本人より原理主義的な傾向があることは否めない。

 同様に日本の政教分離は、歴史的には日本は独自の観念を持っているのだという。心や魂の問題は仏教に頼り、国家をどう考えるかという公的な面は天皇の問題になる、というのである。日本は江戸時代から迷信が乏しい国で、西欧の魔女裁判は元禄時代までも行われており、その時代に日本では現世を謳歌していた(P141)。日本人は現実的なのであり、だからこそ、万能の神があらゆるものを創ったなどという夢物語を信じられないのである。

 皇室への恐怖と原爆投下(P187)という項は、本のタイトルのゆえんであろう。アメリカにとって日本は「神の国」に反抗した悪魔だから原爆投下をやってのけた。天皇の名の下に頑強に抵抗した日本に畏怖を感じたのである。その後、意識が変化して原爆投下に対して罪の意識を感じるようになってきた。日本の統治に利用するために、天皇を残したというのは間違いで、天皇を倒すことはできないことがアメリカ人にはわかってきたのである。それで長期的に皇室を弱体化し失くす方法を講じてきた。ひとつの方法は皇室の財産を全部なくし、皇族を減らして皇室を孤立させた。もうひとつは教育である。今上天皇陛下の皇太子当時にクエーカー教徒の家庭教師をつけ、今の皇太子殿下にはイギリスに留学させた。(P191)頭脳を西洋人に改造しよう、というのである。

 さらに、皇太子妃殿下はカトリック系の学校出身で、現地体験から欧米趣味をもっておられ、洋風ではない皇室の生活がストレスになっている、というのだが、妃殿下との結婚までアメリカの陰謀だというのは出来過ぎた話のように思われる。ただ、西尾氏は雅子妃殿下について厳しい論調で批判している論文を世に出している。大日本史や、新井白石、福田恆存、会田雄次、三島由紀夫などの例をひいているが、元々民とて皇室は批判すべきことはきちんと批判すべきという考え方の持ち主(P231)なのである。

 いずれにしてもイギリスが建国の英雄の娘であるアウンサン・スー・チーを長く英国で暮らさせて英国人と結婚させ、ソフトの力でミャンマーを支配しようとしているのと同類の高等戦術を使っている。(P190)西尾氏はそれでも日本は必要に迫られれば「神の国」が激しくよみがえる可能性がある(P192)と希望をつないでいる。

 和辻哲郎は高名な倫理学者であるが、昭和18年に「アメリカの国民性」という貴重な論文を書いている。(P211)その書でバーナード・ショウの英国人の国民性についての風刺を引用している。「イギリス人は生まれつき世界の主人たるべき不思議な力を持っている・・・彼の欲しいものを征服することが彼の道徳的宗教的義務であるといふ燃えるような確信が・・・彼の心に生じてくる・・・貴族のやうに好き勝手に振る舞ひ、欲しいものは何でも掴む・・・」のだという。これがアメリカに渡った英国人の基本的性格なのである。ショウは皮肉めかしているが内容は事実である。

 和辻によるイギリス人のやり方はこうである。土人の村に酒を持ち込んで、さんざん酔っぱらわせ、土人の酋長たちに契約書に署名させる。酔っぱらった酋長は彼らに森で狩りをする権利を与えたのだと勝手に解釈するのだが、契約書にはイギリス人が土人の森の地主だと書いてある。酔いが覚めた土人は怒りイギリス人を殺すと、契約を守らなかったと復讐し、土地を手に入れる。こうして世界中で平和条約や和親条約を使って領土を拡大する。(P217)和辻はこの説明をするのにベンジャミン・フランクリンを引用している。

 そしてインディアンの文明は秩序だっており、イギリスからやってきた文明人と称する人たちのやりかたのほうか、むしろ奴隷的で卑しいものだと、インディアンたちは考えていたであろうと、フランクリンは気付いていた、というのである。これは西郷隆盛が西洋人は野蛮である、と断定したのと共通するものであろう。ところがフランクリンは、そう考えながらも、気の毒ながらインディアンには滅びてもらわなければならない、(P219)と考えたというから西洋人というのは怖しい。和辻に言わせると、フランクリンは良識的なのだそうだ。

 和辻氏は別のエピソードも紹介する。あるスウェーデンの牧師が、聖書についてアダムとイブの話からキリスト受難の聖書の話を土人の酋長たちにした。非常に貴重なあなた方の言い伝えを聞かせてくれた、お礼にと言って酋長が、トウモロコシとインゲン豆の起源についての神話を話すと牧師は怒りだす。「私の話したのは神聖なる神の業なんだ。しかし君のは作り話に過ぎない。」というのだ。土人も怒って、我々は礼儀を心得ているから、あなたの話を本当だと思って聞いたのに、あなた方は礼儀作法を教わらなかったようだから、我々の話を本当だと思って聞けないのだ、というのである。これは西洋人の独善をついた貴重なエピソードである。この性格の基本は今でも変わらないことをわれわれは心するべきである。

 そして和親条約を締結してからが、アングロサクソンの侵略の始まりである、ということは日本にも適用されていると和辻氏はいうのだ(P252)。ペリーは大砲で威嚇しながら和親条約の締結を迫ったが、拒めば平和の提議に応じなかったとして武力で侵略するつもりであった。対支二十一箇条の条約は、武力の威嚇の下になされたとして、欧米に批難された。不戦条約を作り一方で自衛か否かは自国が決める、と言っておきながら、満洲事変以後の日本を不戦条約違反であるとした。

 しかもこの身勝手な欧米人の行為を正当化したのがトーマス・ホッブスの人権平等説であるというのだ。ホッブスの人権平等説とは、あらゆる人間は自然、つまり戦いの状態に置いて平等に作られているというのである。簡単に言えば強い者は弱い者を叩いてもいい、という平等なのである。もちろん、インディアンや原住民にした行為が「正義」や「平和」のもとに行われることの矛盾は、欧米人も承知している。だが、原住民からあらゆるものを奪い取ることの欲求を抑えることが出来ないから、こんな理屈をこねるのである。

 荻生徂徠が「・・・『古文辞学』と言って、前漢より以前の古文書にのみ真実を求め、後漢以後の本は読まないと豪語し、ずっとくだった南宋の時代の朱子学の硬直を叩きました。」(P233)というのであるが、小生はこの言葉を西尾氏とは別の意味に受け取った。本来の漢民族は、漢王朝が崩壊すると同時に滅亡した。古代ローマ人が現代イタリア人とは民族も文明も断絶しているのと同じ意味で、秦漢王朝の漢民族と現代中国の自称漢民族は文明的にも民族のDNAも断絶している。儒学などの支那の古典は漢王朝までに完成したものである。それを異民族が勝手にひねくり回した南宋の朱子学などというものは偽物だと思うのである。徂徠は内容から、後漢以後のものはだめだと判断したのだろうが、小生は歴史的に判断したのである。



GHQ焚書図書開封3・西尾幹二

 本書の前半は、兵士や家族の心情についての本の紹介が中心である。「生死直面」という本には、息子の戦死を悲しむ父母の姿が書かれている。

 「私の一人息子が戦死を致しました。悲しみのどん底に居ります。毎日毎夜眠ることも出来ません。このまゝ居れば気狂ひになりさうでございます。死にたいが死ぬことも出来ません。・・・」(P68)

 このように父親が電話で話したということが書かれている。極めて直截に悲しみを表現している。そんな文章が昭和15年に出版されているのだ、として「当時の軍も『そんなことを書いちゃいけない』などとは言ってはいない。」とした上で「どうしてそんな本をGHQが焚書しなくてはならなかったのか、私にはさっぱりわけがわかりません。戦争中の日本より敗戦後の日本により多くの自由が与えられたと簡単にいえるでしょうか。」と西尾氏が言うのは当然である。

 その一方で同書は、ある俳句について「『死にてあり』、とは甚だ無礼である。死にたくない若者を殺してゐるとでも考へるのだらうか、・・・むやみに犬死することは誰も望んでは居らぬ。けれども、意義ある戦闘に戦死することは名誉である。・・・この名誉ということは、自由主義国に於て、他人を蹴散らして自分一人が成功する・さういふ場合に得る名誉ではない。・・・」(P78)と親の悲しみを赤裸々に書く筆者が、他方で名誉の戦死ということを書く。

 西尾氏は同じ怒りを小泉元首相の靖国参拝の際の言葉に感じている。例の「戦争によって心ならずも命を落とした方々の・・・」という言葉の「心ならずも」である。戦争に行きたくないと思いながら行かされた、というのは一面の真実ではあるかもしれないが、自ら進んで戦地に行った兵士も多くいたのだから、英霊を十把ひとからげにして「心ならずも」と言ったというのはとんでもない、というのである。小泉元首相のようなことを言う人は戦前にもいたのである。

 5章では、中国兵の実態を記述するために「敗走千里」という本を紹介している。日本に留学していた陳という中国人が、支那事変が始まると故郷の様子を見るために一時帰国したのだが、帰ってこない。すると彼の世話をしていた日本人に留学生から手紙と大量の原稿を送ってきた。彼は中国につくと強制的に入隊させられて前線に送られたのだが二カ月ほどで重傷を負って入院したが傷も癒えたので脱走して原稿を書いた。出版する価値があるなら本にしてくれ、と書いてあったのでこの日本人が翻訳して出版したというのである(P149)。

 P164あたりから、中国軍の便衣や督戦隊、といったものが書かれているが、中国軍では当然のことなので省略する。ただ西尾氏がいわゆる「南京事件」で南京の城門にたくさん積まれている中国兵の死体が日本軍の残虐行為だといわれているが、これは督戦隊のしわざだと指摘していることだけ言っておく。

 西尾氏は「日本と中国は国家同士で戦争をしていたのでしょうか-。主権国家同士の対戦であったといえるのかどうか・・・(P185)」として支那大陸で歴史上繰り返されてきた内乱を紹介する。太平天国の乱では清の人口四億人のうち8千万人が殺された。その後イスラム教徒を皆殺しにする内乱が発生した。フランスの研究者の「共産主義黒書」によれば毛沢東と中国共産党によって六千五百万人の人々が殺されている。何ともすさまじい数字である。只今現在でも年間十万件から二十万件の暴動が起きている。(P188)

 西尾氏はドイツに留学したことがあり、多くの学識経験者と出会ったが、みんな立派な人たちであった。「しかし、日本に来ているドイツ人はダメです。例外はありますが、概して教養も学問もレベルが低くて、いたずらにドイツを高みに置いて日本を見下げる風があり、とんでもない人間が多い。」(P282)菊池寛氏の「明治大衆史」には「然も当時日本に在った外国領事は、多く学問も教養もない者が多く、その裁判は偏頗であり、わが国の威信を傷つける処置が少なくなかった。」(P282)と書かれているのだが、西尾氏の経験と同じである。父は敗戦で支那から帰還して、港で米兵のチェックを受けたのだが、米兵は日本兵の時計を片っ端から巻き上げて、沢山腕に着けて喜んでいたのだそうである。それを見て父はアメリカ人は何と馬鹿な奴らだと思ったそうである。要するにヨーロッパに比べ程度の悪いのが日本に派兵されていたのである。

 最後に焚書にした理由などが整理されているので見てみよう。GHQが焚書の対象とする時期が昭和3年から始まっていて、東京裁判が、日本が侵略を開始したと定めた時期と一致する(P322)のは当然であろう。著作の対象となった人物が、天照大御神から始まって乃木希典の様な偉人であるのも当然である。対象となった人物の本で最も多いのが乃木希典であるのは分かるとしても、山本五十六が比較的多いのに対して、東條英機や板垣征四郎が1冊もない、というのは山本五十六が時の人であり戦時に出版された本が多かったのだろうか。腑に落ちない話である。

 本の内容からすれば国体や神道に関するものが最も多く、次が東亜、支那、満洲などに関するものが続き、三番目が、戦争、聖戦に関するものである(P324)。本のタイトルに「侵略」とある本は全て欧米が侵略した、というものばかりである(P330)。ところが侵略戦争という言葉は一切使われておらず、この言葉は昭和二十一年にGHQが発表した「A級戦犯起訴状」の新聞発表で初めて登場する(P335)。当時は国際法上の侵略戦争という概念が明確でなかったから、日本では使われていなかったのであり、東京裁判が勝手にでっち上げたという事情がはっきりする。焚書の対象とならなかった人物の著作は、小林多喜二、三木清、尾崎秀実、河上肇などというから(P335)、思想的傾向は明瞭である。焚書の対象となった著者で二番目に多いのが長野朗という、このシリーズで西尾氏が最も高く評価している人物の一人である。要するに焚書にされた著書が多かったのは、日本を正しく記述し、焚書の対象とならなかった著者は誤って記述していると読めばいいのである。



GHQ焚書図書開封4「国体」論と現代・西尾幹二

 この本の場合にも、ひとつの論究にかなりの紙面を費やしているために、飽きる部分があるのは仕方ないであろう。

 国体論だから、民族の出自が問題にされる。辻善之助という人の「皇室と日本精神」という本の引用である。「或る時代に大和民族が出雲民族を併合して、或る程度の文明を持つてゐたらしい。出雲民族の文明といふのは即ち朝鮮の文明であるが、大和民族はその文明を受入れ、更に石器時代であつた時から、直接に支那文明を受入れて支那文明の非常に優秀なものを受取つて居る。かやうにして我が大和民族は比較的早くより、かなりの文明を作つて居たらしい。(P19)」と引用して、今の歴史書にもこういうことが書かれていて納得できるだろう、というのだが、そうだろうか。

 支那の文明を朝鮮経由ではなく、直接に受け入れていた、という話はともかく、出雲文明が朝鮮の文明だと言うのは一般的に書かれていることだろうかとは疑問に思う。出雲の人たちの出自は朝鮮系であると言うのではあるまい。天皇家が朝鮮から渡ってきたと真面目に言う人がいるが、それもあるまいと思う。元寇や鑑真の例に見るように、日本海を渡るのは至難の業である。大量の人間が日本海を比較的短期間に渡ってくるのは無理だろう。石器時代から支那の高度な文明を受入れていたとすれば、少数の渡来人が日本を支配するに至るのは、極めて困難であると思う。

 皇位継承の三条件(P90)の項は西尾氏にしては意外であった。山田孝雄の国体の本義にある、皇室の純一性を守るための三条件を紹介しているのだが、「・・・中断を認むべからず。一旦中絶して皇位をつぐ系統を除かれ、後に復興する如きはこれ純一系の本義にそむくものなり。(P91)」と引用して、GHQによる臣籍降下の強制があったのを復帰させよとの意見があるが、山田の意見では、駄目だと説明する。単に山田の意見をそのまま説明して自分の意見は述べないのだが、暗に賛成しているように思われるのが意外であった。

 しかし、かつての臣籍降下というのは皇族が増え過ぎる、などの事情によるものではなかろうか。少なくとも皇室を根絶しようとの外国勢力の強制によるものはなかったのである。しかも皇族に復帰した例は少なくはない。これらのことを考慮すれば、私は旧皇族の復帰を杓子定規に否定するべきではないと考える。少なくとも女系天皇への道を開こうという遠謀深慮の女性宮家の創設とは全く異なる。山田氏とて、存命で皇位継承の危うくなった現状を見たとき同じ意見に固執するとは思われない。

 中国には宗教がない、と思っている。ある人は、アメリカ人からキリスト教を取ったのが中国人だと言った。彼らには到底信仰心がある、とは思われないのである。西尾氏は「・・・中国には神話がありません。神話があったのを全部孔子が無しにしてしまった。・・・天子は「天」という概念に依拠します。それはややキリスト教の神に似たようなものでありますが、天は抽象概念であって人格神ではない。・・・天に祈ることができるのは皇帝一人なのです。(P142)」確かに1神教であれ、多神教であれ人格神がないところに宗教はない。

 だがその原因が孔子一人だけとは合点がいかない。神話を否定する素地があって、孔子はそれを整理しただけなのではなかろうか。部族社会の初めは神話があった。だが支那大陸の部族闘争で統一への過程で、人間不信の社会が生じ、その結果神話などという他愛もないことは信じられなくなったのではなかろうか。そういう現実的な支那の理論として儒教が生まれる素地があったのではあるまいか。

 これに対して、西洋、中国、日本のうちで「・・・神話と直結する点で日本の王権だけは違うのだ、ということをしっかり書いた本が必要だと思います。(P143)」といって新しい「国体論」が書かれるべきだと言う。その通りである。今の日本の混乱は皇室を中心とした新しい国体論が議論できないことに原因がある。GHQの策謀と、戦時中の過激な国体論への反発から、国体を論じる事すら忌避されている。西尾氏の言うように戦時中の過激な国体論は、追い詰められて戦争をせざるを得ないために勃興したもので、英米でもソ連でも、戦争遂行のため国民を鼓舞する宗教を利用した。(P143)

 私は兵頭二十八氏の本を批評して法輪功は民主化運動ではなく、支那の歴史に繰り返し見られたように、現体制から権力を奪って政権を簒奪する革命運動に過ぎないと書いたが、西尾氏も全く同様の見解を述べている(P146)。天安門事件での民主化運動の指導者も同様である。彼らの民主化要求は権力の奪取が目的であり、日本人や欧米人が考えていの用民衆とは関係もない。その証拠に、チベットやウイグルで行われている虐殺や民族浄化について彼等は何のコメントもしない

 よく言われる話だが、捕虜になった時に日本人だけが団結しない。敗戦時の満洲では、朝鮮人でも満洲人でも、仲間の一人がやられると、守ろうとして大勢が押し寄せてくるが日本人だけは、仲間を置き去りにしてこそこそ逃げてしまう。シベリアのラーゲリでも、抑留たちはソ連当局に媚びて、むしろ日本人が日本人を虐待しているケースが多かったという(P157)。国体の本義には、「和」と「まこと」が書かれているが、まさにこの和が村八分の論理であり、ラーゲリで日本人が日本人を虐待した論理である、と西尾氏は言う。まことも日本人だけに通用する論理である。日米貿易交渉でも、米国は自分でルールを決めて日本に押し付けると、日本の外交官は善処しますと言って結論を先延ばしにするが、しきれずにアメリカに押し切られて、自動車の輸出は年間○○万台に制限しますと押し切られた。結局まことも和もしたたかさがなければ世界には通用しない(P158)。

 日本民族の起源を探る(P230)という白鳥博士の説を引用した項は興味深い。西尾氏の言うように、天孫降臨について、戦後は高天原は朝鮮であり、日本を最初に支配したのは朝鮮民族であるという説が有力視されている。しかし、白鳥博士は、アイヌもギリヤーク族もツングース族も朝鮮民族も、文化レベルが低いから、日本民族の祖先とはなりえない(P233)という。文化が高いことから高天原が外国であるとするなら支那しか考えられない。すると、日本語は中国語に似ていなければならないし、思想も似ていなければならないが、そのようなことはないから高天原は支那でもない。結局高天原は外国ではなく、「心の世界」「信念の世界」であるという。そして出雲民族、天孫民族、熊襲といっても列島の中の部族のようなものであって、外国から突然来たものではない。もちろん元々は大陸や南方など色々な方面から来たものであっても、それは日本の歴史や神話以前の三万年あるいは十万年前というずっと古い時の事である(P236)と説明する。すなわち神話が形成された時から日本民族が始まったのではなく、神話が形成されるはるか以前から日本民族は存在した、というのである。日本人の言語や考え方、性格などを考えると小生にはこの説は真に腑に落ちる話なのである。騎馬民族だの天皇家は朝鮮から来て大和朝廷を作った、などという説は到底納得できるものではない。

 日本人の宗教は「万世一系の皇室」である(P244)というのも白鳥博士の説である。キリストは神の命令で生まれ、仏陀は法身仏の化身として生まれたのと同様に、天照大御神の命令によって、その子孫がこの世にあらわれた。それが天皇の系譜である。だから日本の宗教は皇室であると言うのである。仏教などの他の宗教には経典があるのに、日本にはないのは、キリストや仏陀は一回生まれただけなのに、天皇は連綿と続くから必要がない、それが長所であるというのである。強いて言えば五箇条の御誓文などの聖旨勅語が経典に相当するのだと言う。西尾氏は、そのことには賛同するものの、経典を持たない「天皇教」というべきものは、それゆえに弱点を包含している、というのだ。白鳥博士がそこに弱点を見なかったのは、皇室が盤石だと信じられていた時代に生きたのに対して、西尾氏は皇室の安泰に懸念がある現代を見ているからであろう。

 宗教については、キリスト教や仏教は「普遍宗教」と言われ、国境を越えた広範なものである(P118)といわれる。これはどちらも発生の地から外国に展開して行く間に普遍性を獲得したと言うのである。これに対して神道は日本の国内でしか通用しない閉鎖的なものである、という。しかし、日本人も普遍的な宗教を求める心があるので、仏教を受容したというのである。その結果、神仏習合という宗教となったと言う。これは神道と仏教が日本に併存するということの説明としては合理的であろう。しかし、神道に似た土着の宗教は元々世界中にあったのであって、それが普遍宗教に駆逐されたと言うのが世界の宗教事情であろう。小生には、日本だけが神道が追い出されなかったところに特殊性を見ることができるのであるし、その原因は恐らく宗教としての皇室が連綿と続いていたために、追い出されなかったということであろうと思う。

 戦前の国体観も、ある時期すなわち満洲での権益の喪失の危険性が発生した時期から、国民の団結の必要性から、バランスがとれた知的な意見が語れなくなっていった。西尾氏は戦後の言説として、逸脱した思想があったから日本は間違った道を歩むことになったと言うものがあるが、これは本末が転倒しているというのだ(P316)。「・・・思想が人を逸脱させ、国家を誤らせることはありません。」として思想などというものは灯篭のようなもので、必要があれば火を点け、なければ消すだけで、国体論というものは灯篭自体のようなものでなくなることはない、というが言い得て妙な喩ではないか。

 「大義」という言葉は戦後忌避されていているのだが、その結果「・・・あの時代の青年たちはどうして死を選ぶことができたんだ、なぜ死地に進んで赴くことが可能だったか(P366)という頓珍漢なテーマ設定になってしまうのである。そこで西尾氏は「戦前の日本人は『歴史』が自分たちの運命だということを知っていたんです。だから死ぬことができたのです。死ぬことは生きることだったのです。」と語る。特攻隊が志願であったのか強制であったのか、などという議論はこの点をわきまえないから発生するのである。周囲の制止を振り切って、妻とともに出撃した特攻隊員がいた、ということはそうでもなければ説明はできまい。我々は大義ということを忘れてしまったのである。大義ということに生きなければならない時代があった、ということを忘れてしまったのである。

 あの城山三郎さえも、「大義の末」という本を書いている(P353)。ここに紹介されている皇太子のエピソードはユニークなものである。城山らしき主人公の大学に皇太子つまり今上天皇陛下がやってきた。まだ少年である。帰り際皇太子は手を挙げて挨拶しようとしたが、学生たちが反応しそうになかったので、手を小刻みに震わせながら下げてしまう。「人ずれしていない素朴な一少年-その当惑のさまが、また烈しく迫ってくる親しみを感じさせた」と書いて、それが城山に残した気持ちは「・・・柿見の胸にあたたかなものがぐんぐんひろがって行った。何ひとつ解決されてはいない。だが『大義』つづく世界を考えていく上で安心できるきめ手を与えられたのだ。・・・いまとなってみると、皇太子を見るまでの心の混乱が、涙が出そうなほど滑稽に思われた。・・・『大義』の世界は仮構でも空虚でもなかった。・・・いま、あの皇太子に危難が迫れば、身を賭けるかも知れない。理屈ではない。」というものであったというのである。この時の城山はまだ、戦時の気持ちを忘れていなかったのである。

 それを西尾氏は「説明できないものを皇太子殿下に感じた。・・・日本人は皇室に何かを感じているんですよ。それが信仰なんです。」と説明する。私も若き皇太子殿下を目の当たりにしたことがある。中学生のころあるイベントに参加するため皇太子殿下が車でゆっくり眼前を通った。イベントに行けなかった小生は近所の同世代の子供と自転車で道路の端をうろうろしていたらパレードに偶然出会った。当時はそれほど警戒も厳重ではなかったから、車に手が届く距離であったと思う。手前に美智子妃殿下が載っていたのは光の具合でよく見えた。皇太子殿下は奥にシルエットだけが見えた。その瞬間何とも言えない感情が走った。その気持ちは後にも先にも感じることはなかった。それが西尾氏の言う信仰なのであろう、と今は思っている。

 城山三郎の落日燃ゆ、に死刑着前の皆が天皇陛下万歳、をしたのを主人公の広田弘毅が「今、漫才をしたのですか」と聞く場面がある。これは広田が天皇陛下万歳をしたのを皮肉ったのだという意味で書かれている。一方で博多訛りでは万歳をマンザイと発音するのだ、ということから間違いだという説もある。いずれにしても城山は広田が故意に万歳をするのを皮肉ったのだということを言いたいのである。ここには既に皇太子殿下に大義の根拠を見る城山は消え失せている。戦後日本人の変節の典型としか言いようがない。まこと皇室は危ういのである。


○GHQ焚書図書開封5・ハワイ、満洲、支那の排日・西尾幹二

 ハワイと満洲については、各々アメリカと支那により侵略されたことを描き、支那に関しては排日の実相と原因について述べている。アメリカは、東洋進出のための基地としてハワイを併合した。併合の手続きは手が込んでいる上に複雑である。多くの米国人を送り込み経済と行政を牛耳った上で、王政を廃止独立を宣言した後に米国併合を申し出る、という訳だ。バルト三国の侵略のように軍事力で威圧して併合を申し出させるという直截な手段に比べると対照的である。


 ところがいったんは併合を承認しながら、大統領が変わると否認するが、結局は併合する。「強硬論があるかと思うと、リベラルな論もある。・・・ただし国内調整のための正論の登場は最初の国家意思を変えることなく、ひと皮むくとそれが、“仮面”にすぎなかったことも次第にわかってくるのが常です。」(P64)というのである。専制独裁ではないから、ソ連のように直截にことは運べないから、異論は言うだけ言わせて結局は国家意思を通す。この欺瞞には日本も日米開戦で大いに使われていて、あたかも米国に対日開戦の考えなど無く、無謀な戦争に日本自ら突入したという考え方の補強になっている。

 ハワイ王家が断絶されて最後に併合されてしまった運命を見て「もし、天皇家が無くなり、精神的支柱を失ったら、日本は本当にアメリカの州のひとつにならざるをえないような事態に追い込まれるでしょう。ハワイと同じように、アメリカの軍事力に支えられているという・・・」という。当然であるが重い指摘である。だからアメリカは皇統が断絶するように長期スパンの仕掛けをしたのである。

 満洲についてである。「・・・支配階級として北京にいた満洲人はどうなってしまったのか?私は満洲研究家の専門家にそれを尋ねたことがあります。すると、「まったくどこにいったのかわかりません。ちりぢりになってしまいました」という答えが返ってきました。要するに、侵略して民族浄化のようなことまでしているのは中国なんです。」(P160)という。この発想の転換は面白い。西尾氏は満洲人が北京に行ってしまい、希薄になってしまった所へ、封禁が解かれロシアや日本のおかげで支那本土より平穏だった満洲に大量に流れ込み、あたかも漢民族の土地であるかのようになったことを侵略と言っている。

 そして共産党支配が始まると満洲人を強制移住させてしまい、他民族のなかに埋もれさせて民族の痕跡をなくしてしまったことを民族浄化と言っている。一面その通りであろう。元々外国であった土地に多数乗りこんで圧倒的多数になったから、俺の国のものだなどというのが通ったら侵略は簡単にできる。今満洲族であると自称するのはようやく増えて1000万人程度であると言われている。中共政権ができた当時は迫害を恐れて自称しなかったが、今はそれを恐れる必要が無くなったのだというのだが、支那北部と満洲にいる人たちは北京語すなわち満洲語を話す。この人たちは間違いなく満洲人と満洲化した漢民族である。満洲人は消えていなくなったのではない。西尾氏は言語は民族の根幹をなす、という考えのはずである。

 隋も唐も支配者は漢民族ではない。それならば、当時の支配民族はどこに行ったのだろうか。漢民族の中に埋もれたのであろうか。そうではあるまい。清朝の直接支配した北京と満洲が満洲人と満洲化した漢民族の生息地であるように、漢民族を自称しながらいずれかの言語を使い、どこかの地域に棲息している。本来の漢民族は五胡十六国の時代に絶滅に瀕し、少数民族に落ち込んだ。今漢民族と称している民族のほとんどは、漢民族絶滅後支那大陸に繰り返し侵入した民族が支那本土に定住したものである。侵入は何回も繰り返された。だから漢民族と呼ばれる人々は、広東語、北京語、福建語、上海語その他などの多数の異言語を話すのである。これら言語の相違する人たちは同じ漢民族ではなく、出自が全く異なる人たちである。これらの過程はローマ帝国崩壊以後、ゲルマン民族大移動や、ペルシア帝国の支配などを通していくつかの言語の国家に分裂したヨーロッパにそっくりである。相違するのは適正規模の国民国家に収斂しなかったことである。

 辛亥革命が成立してからは、支那は対外的には中華民国という政府があったことになっているが、実態は軍閥の分割支配する状態で、それも一定していたわけではない。例えば昭和3年に暗殺された張作霖のある時代は、例えば満洲から北京にかけては、張作霖、揚子江上流は呉佩孚、馮玉祥が西安の奥の支那北西部、大陸南方には蒋介石の国民党軍(P177)といった具合である。注意しなければならないのは、軍閥の意味である。日本の近代史では「軍閥支配」などといって、国軍である軍部の事を言っている。

しかし支那の軍閥とは事実上の私有の軍隊のことであり、悪く言えば匪賊である。パールバックの大地には金儲けが目的で、個人が「経営」する軍隊に入る若者が描かれている。清朝末期には清朝の軍隊が衰弱して支那国内が乱れたので自衛のために農民などが武装集団化したものが、統廃合を繰り返して規模が大きくなっていったものである。共産党政権になっても国軍というものがなく、共産党の軍隊となっている。ところが、軍管区に分かれていて軍事ばかりではなく、徴税したり農耕したりでかなり自活的である。そこで欧米では軍管区が軍閥化しているのではないかと見る向きがある。そのため、天安門事件が起きた時などは、各軍管区が独自の行動をとり、北京政府と敵対するのではないか、ということが注目された位であった。

 植民地について「・・・植民地主義というと、悪いことの代名詞のように今はいわれています。しかしイギリスが世界に率先して進めた『近代植民地主義』は、元来は一種の解放の理念でした。後れた民族を生活指導し、近代化を推進し、文明のレベルにまで引き上げてあげ・・・イギリスは最初そういうことをいっていたのですが、実際には遅れた国々を隷属させ、そこから搾取することになってしまった。イギリスだけでなく、フランス・・・みな、そうです。ところが日本だけは、当初のイギリスの理念に近いことを実行したのです。」(P243)というのであるが、これは黄文雄氏の考え方に近い

 それどころか黄文雄氏は、イギリスが香港をまともなところにしたように、植民地主義の理念がかなり実現された場合がある、と主張している。香港を例に挙げると正しいかもしれないが、他の大部分では理念倒れになっていると言わざるを得ない。支那大陸のように何千年たっても民度が向上しない地域については当たっている面もあったのであろう。それとて搾取が目的で近代化は結果に過ぎない。アフリカのようにまだ部族社会であった地域が植民地支配された結果は、国家が成立しない古代以前の状態にいきなり近代文明を持ち込んだから、自然な進歩が阻害され、混乱を引き起こした結果になったのが大部分である。部族社会に殺傷効率がいい近代兵器を持ち込んだものだから、部族間の争いは凄惨なものになったのである。部族社会の時代には、殺傷効率の悪い兵器で穏やかに闘い、何万年もの時間をかけて部族統合から統一国家に自然収斂するのが本来の姿であるが、西欧の介入はそれを阻害した。アフリカの混乱の原因は欧米による植民地支配の結果である。アジアアフリカの現在の混乱は、欧米が介入した時点における現地社会の進化の程度が遅いほど大きいのである。

 がっかりしたというか、納得したのは、宮崎市定である。宮崎の中国の通史を読んだことがあるがどうも中国の実際の姿が見えないきれいごとのように感じていたのだが、権威に押されていたのだろう、批判する気になれなかった。西尾氏は簡単に、中国大陸には蠅一匹いない、毛沢東の革命は成功したなどという「・・・デタラメをバラまいた張本人のなかに吉川幸次郎や宮崎市定や貝塚茂樹といった名だたる中国研究家がいた・・・」(P286)と言ってくれた。宮崎も底の浅い中国礼賛者のひとりに過ぎなかったのだ。

 満洲は本当に独立できるのか(P358)というタイトルは重いテーマである。ある雑誌の増刊号である「満洲事変の経過」という本の末尾に長野朗という人がこの問題を考えている。それには「もし、支那本部が強力なるものにより統一された場合にはその力は満洲に働きかけてその独立を困難にするから日本が絶えず実力を以てこれを防いでゐなければ独立は保たれないが、支那の時局が各地分立に向ふならば、満洲の分立も亦容易となる。(P358)」とある。

 この考察に西尾氏は注目している。多くの識者は満洲事変は昭和8年の塘沽協定で終わったと考えているがそうではなく、長野氏は「もう少し深く、シナ本土と満洲はほとんど一体だと考えていたようですね。(P359)」というのである。つまり満洲は封禁が解かれて漢民族が流入し、漢民族が満州族を圧倒するようになったとき、満洲は支那本土と一体になってしまったと言うのである。現に蒋介石が支那本土をほぼ統一した時点でも、日本が満洲を守っていたうちは独立していたが、引き上げて国共内戦で毛沢東が統一したとたんに、満洲は支那に吸収された現実が長野氏の先見の明を示しているというのだ。日本のバックなしに自然体で満洲が独立するのは、支那本土が小国に分裂するしかない、という見解は悲しくも事実であった。当時の世論は、支那本土の状況にかかわらず満州国独立を支持していて、長野氏のような冷徹な考察は例外であったから、いくつかの論文の最後に控えめに載せられていたのである。このような異論を許容していたのも戦前の日本であった、ということにも注目すべきである。


GHQ焚書図書開封6・西尾幹二

 このシリーズは眼を開かれる記述が多い。本書の要旨は一言で言えば、戦前の米国の戦争のターゲットはドイツなどではなく、日本であった、ということであろう。小生も平成24年に真珠湾攻撃以前のアメリカの日本本土爆撃計画を知り、それを検討していくうちに米国は対独参戦とは関係なく対日戦争を計画していたと確信するようになったから、本書はその考えを深めてくれた。なお焚書の引用は旧かなはそのままに、漢字だけ当用漢字に改めた。

 焚書の引用で「・・・米国海軍当局の計画せる即戦即決戦法に狂ひが生じて・・・。・・・日米開戦となっても無条件にイギリスが参戦するとは考えられていなかった。・・・それに欧州政局よりもアジアのほうがきな臭い。(P108)」という。これは昭和7年の出版である。この時点で既にヨーロッパよりも日米戦争の可能性が高く、しかも米国単独でも戦争をすると考えられていたのである。満洲事変直後で、支那事変はまだ起きてはいなかった。それでも短期決戦を考えていたとすれば、昭和16年の時点では長期化する支那事変で日本が弱体化していたと判断でき、対日戦は短期で犠牲も少なく容易に勝てると考えていたのであろう。P300にも、「日本疲弊せりと盲断」という項目を紹介している。

 しかも昭和五年のロンドン条約の効果が残り、無条約時代になっても有利であった昭和16年の時点というのは米国自身が有利であったと判断していたとしても不思議ではない。海軍軍縮に固執したところから、日本の脅威は海軍であったと米国は判断していたのに違いない。事実、米海軍軍人で東郷元帥を尊敬していた人は多いが、米陸軍では乃木大将については案外知られていない。

 米国の日本人差別のついでに、黒人差別について語る。「アメリカで黒人の参政権が認められたのは東京オリンピックよりあとなんですよ。一九六五年です。しかも、投票に際しては『文盲テスト』がありましたから、多くの黒人はこれで弾かれた。実質的な選挙権は長い間無かったにも等しいともいわれています。文盲テストが廃止されたのは一九七〇年、発効されたのは翌七一年・・・」(P119)現在でも黒人差別はある。黒人のスポーツ選手の差別は減りつつあるが、米国で有力選手が未だに出ないものがある。水泳である。黒人が参加するとたちまち白人を駆逐する場合が多い。

 陸上競技はその最たるものである。水泳も参加すればそうなるであろう。だがアメリカの白人は黒人と一緒の水に入るのを病的に嫌うのである。以前紹介したように「ダイバー」という映画に軍艦では週に一度だけ黒人が海で泳いでよい日が決められていることが紹介されている。だが白人は一緒に泳がない。これは病的である。P186には、無実の黒人を有罪と勝手に決め付けた白人群衆が、橋から吊るして殺す場面が紹介されている。西尾氏はアメリカ南部ではこのようなリンチは普通に行われていたと言う。アメリカでの黒人差別というのは差別という言葉はあまりに誤魔化しが過ぎるように思われるほどの非人間的なものである。

 アメリカ世論は戦争に反対であったと西尾氏も考えているが、これには賛成しかねる。「『ハル・ノート』という最後通牒を突きつられたとき日本は悠然と構えていたらよかったのに、ということもいえそうです。ルーズベルトが日本を威嚇して戦争をしたかったのは確かですが、・・・ルーズベルトの後ろにはアメリカ議会があるし、戦争はイヤだというアメリカ世論もあったわけですから、こちら側が「議会に訴えかける」という手を打てばよかったのではないか・・・」(P142)というのである。

 ハルノートをアメリカ議会にバラセバよかったという意見は案外あり、西尾氏もその陥穽に嵌ったように思われる。米国が武器貸与法や物資輸送の船舶護衛により公然と英ソを軍事支援したり、Uボートを攻撃しても世論も議会も多数が支持した。法律は議会が成立させるのである。日本本土爆撃計画は有名マスコミで公表されたのに議会も世論もブーイングの声はなかった。米政府の公式見解では経済制裁は戦争の一環であると以前から言われていたのに、政府は対日経済制裁を実施した。P227には、一九四〇年に米国が英国の肩代わりをして、ドイツに奪われないようにアイスランドを保障占領するという軍事行動を公然と取っていることを紹介している。どう考えても戦争を企画していたのはルースベルト政府だけで国民やマスコミは戦争絶対反対であったとは考えられない。戦争反対は国民にとって建前のスローガンに過ぎなかった。第一次大戦の惨禍を受けたのはヨーロッパであって米国ではない。米国は利益だけを得たのである。

 西尾氏の民主主義の定義はユニークであるが、妥当であろう。「・・・民主主義というものは、観念でも理念でもない。外国にモデルがあるという類のものでもない。独裁ではないそれぞれの民族の暮らし方-それが民主主義です。・・・老中民主主義・・・守護大名民主主義・・・日本は中国とちがって昔から専制独裁には縁遠い民主主義国家だったのです。とすれば、アメリカのデモクラシーというのはアメリカ型民主主義にすぎないわけです。・・・民主主義を至上のもののように考えるのも間違いです。(P182)」まあその通りである。

 「イギリスを助けるというのは名目で、じつはイギリスがもっていた遺産-領土にしても、権益にしても、貿易にしても、それを奪い取ろうという意図があるのではないか」(P229)ということを「英米包囲陣と日本の進路」という焚書から読み取っている。西尾氏が書く通り当時の日本人は日本の国際的位置を知らずにいたのではなく、現在の日本人より遥かに正確に知っていたのである。やはり日本人は戦後盲目にさせられたのである。

 今日の日本では大東亜会議を侵略を糊塗するものとして評価しない向きがあるが、その対照として評価されている太西洋憲章の方がインチキである。大西洋憲章のインチキを前掲書はきちんと語っている。また支那事変に対するチャーチルの日本軍批難演説の前夜に英印軍がイランに侵攻し「少数民族の保護」の美名で糊塗している(P248)。米英はタイを軍事力と在米英資産凍結の脅迫で、対日経済制裁に加わるようにさせた(P268)。欧米のやったことは正義で、同じことを小規模でしても日本は侵略と非難される理不尽が多数紹介されている。

 確認できないことがある。「日米開戦の日は以来、十二月七日ではなく、十一月二十六日であるというのが時の日本政府の見解です。日本側も最終覚書(帝国政府対米通牒)を同日にハル長官に手渡しています。(P290)」というのだが、日本政府の見解も対米通牒もこれから調べてみたい。これが事実なら、最後通牒の遅れと騙し打ちなどは問題にならない。軍事的奇襲攻撃などは戦術的には当然のことである。



日本をここまで壊したのは誰か・西尾幹二・草思社

 最初の2,30頁を読んでいていやな気分になってきた。事実だが嫌な事ばかり書かれているからだが、そればかりではないようである。ようやく通り抜けて何とか読み切ることが出来た。日本の経済人は政治に口を出すな(P56)という項では、キャノンの御手洗社長などの、日本の経済人が日本に不利益になっても自社が世界で金儲けができればよい、という発想でしかないことを批判する。本当は経済人は政治に口を出すなと言うのではなく、日本の国益無視で会社の利益しか考えられないような経済人は政治に口を出すな、と言いたいのである。日本の経済人でも、まず国益ありきの姿勢を貫いた人たちはいたのである。

 第一次大戦では日本海軍はオーストラリアを支援したのにもかかわらず、日本を敵視し恐れた。極度に不安がるのでイギリスの植民大臣が、日本は南シナ海以南に進出することはないから安心せよと打電したと言う(P67)のだ。戦後もことごとく日本に敵対した。 それは心の問題である、という。オーストラリアはイギリスの囚人の捨て場だったのが後に自由移民がやってきてトラブルとなり囚人を差別し、原住民を絶滅させた。支那の移民を受け入れたがレベルが低いので日本移民を入れたが、アメリカ同様排斥が始まった。こうして非白人の差別感情が発生した。全てはかつて悪事を働いていた集団であったという、オーストラリア人の暗い心の闇が原因である(P70)。

 ドイツでは私の想像の範囲の事態が冷戦終結後起きている。占領軍がドイツに加えた数々の不法に対して、これまでは「ヒトラーの犯罪で帳消しだ」と言われるのを恐れて黙っていた。それが戦後五〇年祭の1995年を契機に、赤軍による暴行、ボヘミアからの逃亡ドイツ人虐殺について、ヒトラーの犯罪では帳消しにはならない、という声が挙げられた。また、バルト三国、ポーランド、チェコスロバキアのズデーデン地方に定住していた千数百万人のドイツ人が追放されたことについて、「土地や財産を返せ」と言い始めたというのだ(P103)。

 そんな声は例えばエストニアにも「われわれを苦しめたのはロシア人だ。バルト三国は1941年6月に侵攻してきたナチス・ドイツ軍を解放者として歓迎したはずだ」(P104)という意見が出てきたと言うのである。日本人は連合国と枢軸国を善悪の単純二元論でしか見られない。そしてヒトラーの罪を謝罪してヨーロッパに受け入れられているドイツ、という単純極まりない主張を信じている。そうではないことなど、少し考えれば分かるのだ。

 鈴木敏明氏の「逆境に生きた日本人」と言う本を紹介して、思いもよらない物事の見方があるものだ、ということを考えさせる(P199)。南北戦争は死傷者百万人に対し、戊辰戦争はわずか三万人に過ぎず、いかに新政府に簡単に寝返ったのか、というのだ。第二次大戦で日系人は強制収容所に入れられるが断乎拒否して刑務所に入れられたのは例外である。ところが無法にも財産を奪い、強制収容所に送られたのに、アメリカに忠誠を誓い、志願して二世部隊としてヨーロッパ戦線に行き、多大な犠牲を出して活躍したのは、理解できないし、情けないと言うのだ。

 これに対し西尾氏は、戊辰戦争のケースは欧米の圧力に挙国一致で応えるために、御公儀の国から天子様の国に国民の心が切り替わったのだ、と反論するがその通りである。日系人部隊のケースは従前このような見方が示されたことがなく、意外性に西尾氏も驚いている。日本の武士道は郷に入らば郷に従えで、新しい共同体への忠誠心においても公平に発揮できる普遍的なものだと考えて納得していたが、鈴木氏の見解を聞き、西尾氏は混乱し判断を保留すると書く。多大な犠牲を出して戦った日系二世については、それなりの信念を感じるが、マッカーサーが来てから一月も経たずに、英会話本がベストセラーになったと言うそれこそ情けないエピソードが同レベルで語られると考えさせられる

 肝心なのはここである。「・・・日本に起こったことは、一国による『征服』であった。その後アメリカは戦争を世界各地でくりかえしたが、朝鮮戦争でも、中東戦争でも、湾岸戦争でも、日本に対してなされたような戦後の社会と政治まで支配する征服戦争は一度もなかった。ドイツに対してもなかった。ドイツに対しては連合軍の勝利であり、戦後は四カ国管理であった。・・・大東亜戦争ではなく『太平洋戦争』という名の戦争が仕掛けられ、戦争は引き続き継続していたのだが、誰もそのことを深く自覚しなかった。史上最も穏健な占領軍という評価だった。だからそれを『進駐軍』と呼び、敗戦を考えたくないので『終戦』と言った。そして経済復興だけに力を注ぎ、さらに反共反ソの思想戦だけに熱心だった。後者はアメリカとの共同行動だった。それが保守と呼ばれた勢力の主たる関心事だった。」(P260)

 本書の意図がここに凝縮されている。日本はアメリカに征服されて、文化、社会、政治まで破壊された上に改造されたのである。従順な日本人はそれを言葉の詐術でごまかし続けた。保守と呼ばれる人たちですらこの体たらくだから、戦後ソ連や中共の手先となって働き続けている者たちは最早日本人ですらない。勇猛果敢と讃えられていた日系二世部隊の働きの評価を、先に鈴木氏の著書で覆されて、判断を留保せざるを得ない気持ちは分かるのである。


予言日支宗教戦争・兵頭二十八・並木書房

副題: 自衛と言う倫理

 例によって、不戦条約を根拠に日本は米国を侵略したと言うのだが、相変わらず自衛戦争の定義は自国に決める権利があると言う英米の留保条件を無視する。国際法の相互主義からはこの留保条件には日本にも有効である。そして外交交渉中に南雲艦隊が出撃したと非難する(P14)。それを言うならば、米国は大規模な日本空襲を大統領が承認し、その一環として義勇空軍と称して現役軍人と戦闘機を支那に派遣して日本機と交戦した。これは明らかに戦闘行為である。極秘に出撃して戦闘準備したのを侵略と非難するなら、現役の軍人と機材を義勇軍と偽って戦闘した米国の行為も侵略である。米国は自衛という嘘さえつけなかったから、義勇軍と誤魔化したのである。これは米軍の戦争ではない、と。

 そして日本人は公的約束を守らない(P12)と言うのだが、米国人はインディアンとの数百の条約を全て破ったのは米国人が認めている。日本人は愚直であり、欧米人のような狡猾さがないのに過ぎない。欧米人は前言を翻しても堂々と偽善をいう狡猾さがあり、日本人は正直に現実対応しないから、表面的には約束を守れないように見えるのに過ぎない。中国の主権の尊重を日本が犯した、と批難されるが、それは九カ国条約の前提であることを守らず、排日などの違反行為を支那が行い、九カ国条約が空文化しているからであった。即ち条約は既に米英支により廃棄されていたのである。

 そこをきちんと声を出して言わないから、上げ足を取られる。欧米だって日本の行動が正当だと分かっているが、そもそも日本を条約破りにするために排日を煽ったのであるから理解を示すはずもない。氏にそこの機微が分かっていないとしたら、戦前の日本の悲劇を分かっていないのである。そして教育勅語は支那宗教の一種としか思われない(P38)と断ずる。氏には一生懸命西欧と伍して生きてきた日本人に対する同情と言うものがなく、高見からつき放している。ここまで読み来たって、この本を読んでも無駄と気付いた。あらゆることが根拠なしに断定されているとしか思われない。西尾幹二氏はくどいまでに実証的で読み疲れることもあるが、本来の論考というものはそういうものである。

 最後にもうひとつだけコメントする。対談で加藤と言う人が、「僕は中国共産党を告発していますが、中国人を民族として敵視しているわけじゃないのです。あの国のなかで、命懸けで闘争している民主派活動家や、地下キリスト教会、あるいは法輪功などのメンバーに、理屈抜きに尊敬の念を抱いているのです。(P210)」と言う。これは、中共における民主活動家に対する欧米人と同じ誤解である。

 私は民主派活動家や、地下キリスト教会、あるいは法輪功などのメンバーは西欧の観念で言う自由や民主主義、人権を尊重する人たちではないと考えている。過去の歴史は、彼らが自己のエゴの拡大や、あわよくば権力を奪取しようと言う連中に過ぎないことを教えている。例えば清朝末の義和団などと大差ないのに違いない。彼等はチベットやウイグルでの民族浄化には何の関心も同情もない。目的は漢民族と称する自分たちのためだけなのだ。彼らが政権につけば、チベットやウイグルに同じことをするだろう。反日暴動の中国人を見よ。漢民族なるものは残虐非道のエゴイストである。ろくでもないのは中共政権ばかりではない、ろくでもない政府しか作れないのは中国人自身なのである。



○日本人は何に躓いていたのか・西尾幹二・青春出版社

 外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の7分野に分けて、日本の問題点を記述したものである。外交、防衛をトップに置き、経済を最後に持っていったところに著者の意識がある。例によって興味あるコメントを取り上げる。

①外交
貴族制度に取り巻かれていない天皇制度というのは危ういのではないか(P45)というのは盲点であった。男系の減少や妃候補の不足といった問題は全てこれに関連しているからである。貴族制度などは封建思想の差別の極致などという、戦後米国によって流布された硬直した発想に囚われているのである。

 ギリシャ、ローマとヨーロッパの間には千年のアラブ人の支配されていて、地中海はアラブ世界で、ヨーロッパ人はギリシア人の末裔ではなく、ローマ人とゲルマン人は混血するが、文明としては千年の断絶がある(P64)と綺麗に整理してくれている。今日残るゲルマン神話は、アイスランドに残っていたアイスランド・サガを元にして、古代ゲルマン神話はこんなものだろうと後世作り上げたもの(P65)だそうである。

 こんな神話まででっちあげるのだから、ヨーロッパ人の歴史コンプレックスは相当なものである。ハリウッド映画では昔から、ギリシア、ローマの神話をテーマにしたものを多く作っているのはその最たるものである。現代ヨーロッパがギリシア、ローマの文明と断絶しているのは、現代の支那が漢字を発明し、四書五経の古典を書いたオリジナルの漢民族と完全に断絶しているのと同様である。だからこそ、中国4千年の歴史などと言う法螺を吹くのである。現代ヨーロッパは、蛮族ゲルマンが辺境から現れ、ヨーロッパ大陸を蹂躙した結果である。しかもゲルマンは自らの神話を奪われキリスト教徒に改造されてしまったという歴史の断絶を繰り返している。

②歴史
大局に於いて正しかった日本の大陸政策(P158)という項を設けているが、日米戦争はやらなければならなかったと言う持論と言い、小生が西尾氏を尊敬するゆえんである。


 「十六~十九世紀の世界は、明、清帝国、ムガール帝国、オスマントルコ帝国、ロシア帝国(ロマノフ王朝)の四つの帝国があって、それに先立つ時代に西洋は狭い、小さい遅れた地域でした(P160)」と言う。これらの帝国の内ロシア帝国以外の3つは物質的に恵まれ、技術も進み、ひとつひとつの帝国が一つの世界政府を成しているのだと言う。遅れたヨーロッパは貧しいから外に出て行き、植民地を獲得し本国に送金しなければならなかった。十四~十七世紀のヨーロッパは、わずか三年以外は戦争の連続であった。(P161)日本人は世界史についてこういった俯瞰をする必要がある。

 司馬遼太郎は日本は日清、日露戦争までは立派だったが、その後傲慢になって大局を見誤ったと言う説である。これに対し西尾氏は、傲慢になったのではなく、勝利で大国となったのだがその自覚がうまくできずに、適応しきれなかったと述べる(P166)。恐らくそれが正解である。どこの国にも傲慢なものはいる。それと戦争への勝利をリンクさせて傲慢な人間を強調して見誤ったのが司馬である。司馬は眼前の敗戦に呆然とし、目の前の同胞の愚かさだけが目につき、日清日露の戦役に勝利した日本人が偉大に見えたのである。戦前の日本人は欧米人に比べれば遥に謙虚であった。今の日本人が愚かになったのは、アメリカの占領政策が根本原因である。日本人は変えられたのである。そして日本人は今のアメリカだけを見て、ペリーの時代も大国であったと誤解しているが、実際には五大国の中には入っていなかった。第一次大戦の終了後は現在のイギリスの歴史の教科書に「二つの若き大国の出現」と書いてある(P168)のだそうである。

 意外なのか意外ではないのか、アメリカは、日本やヨーロッパと異なり、共産主義に好意的であったということである(P170)。だからアメリカがシベリア出兵したのは、日本が支援するシベリア極東共和国を倒して、自前のシベリア極東共和国を作って、トロッキーと組んでシベリア開発を行うことだった(P171)。このアメリカの甘さが、全てを無に帰すことになったのである。確かにアメリカは共産主義を民主主義の一種と誤解し、ファシズムと区別していた節がある。

 西部邁、小林よしのりは保守と言いながら不可解な人物である。両氏は反米テロを礼賛する。西部氏に至ってはビンラディンをキリストになぞらえる(P189)のだ。小林氏はニューヨークへの9.11テロを特攻隊になぞらえる漫画を描いている。だが、特攻隊は軍艦を攻撃したのであって、民間人を標的にしたテロリストとは全く異なる。小林氏は女系天皇容認論まで唱えており、彼の思想には時々混乱が認められ、不可解ですらある。

③政治

 いわゆる55年体制の自民党の派閥の説明は、これまでの蒙昧を晴らしてくれた。自民党長期政権の時代には、自民党独裁と言われたがそうではなく、派閥の主流交代によって党内で政権交代が行われているのも同じだと言う言説が保守の側からなされていたし、小生も何とはなしに同意していた。これ自体は間違いではないのだが、西尾氏はもっと深く分析している。

 派閥は結局は派閥であり、各々の思想を持った政党ではなかったというのだ。派閥は結局は思想の異なる人たちの集団で、人脈と金で離合集散していたのに過ぎない。自民党全体としては右から左までの日本国民が持つ思想の分布の人間から構成されていたのであって、決して左翼に対抗できる保守政党ではなかった(P272)のだ。ただ思想の吸う敵分布が国民の吸う敵分布に比例していたから、全体としては左翼政党となることを避けることが出来たのである。

これが平成22年に政権についた「民主党」と異なる。民主党の組織票は極左翼の労働組合しかない。これでは永遠に政権は取れない。そこで「保守的」「あるいは「リベラル」の組織票を持たない人物が表に出ることにより、あたかも自民党に類似した政党に見せかけて無党派層の票も取り込んで政権を取ることに成功したのである。これに対して社会党と共産党は確信的なマルクス主義政党であったから、国民は一定以上の議席を与えなかった。これで自民党に野中広務や加藤紘一のような、思想的には左翼としか思われない人間が長老として存在していた一間不可解なことが理解できた。彼らは利権の亡者というところだけが自民党らしかったのに過ぎない。

④経済
 ここでも歴史で述べた司馬史観が否定されている。「・・・日本人は同じ健気さと、同じひたむきさで生き続けたと思っております。にもかかわらず、自分が日露戦争の戦勝の後に大国となったということに気がつかなかった明治人、そして現実が急変し、その後アメリカが新しい悪意を示して太平洋に変化が起こるのですが、その現実に対し大国としてのルールで渡り合う気概と計略が欠けていたことが問題だったのです。つまり、環境が変わったのに、今までと同じやり方、考え方、日露戦争まで上向きになって一所懸命獲得してきた日本人の劣勢の生き方というものを続けていた結果の失敗です。決して傲慢になったからではなくて、現実が変わり、アメリカが戦争観を取り換えたという、その現実の変化を見ながらそれに堂々と適応できなかったのが失敗の原因ではないかと思います。(P303)

 戦前の日本の失敗をこれほど的確に示したものは少ないであろう。日本はヨーロッパの権謀術策のルールは学んだし、学ぶことは可能であった。だがアメリカの対応というものは不可解で予測不可能であったのである。だから司馬遼太郎のように傲慢だと切り捨てるのではなく、戦前の日本人に万感の哀惜を持つのである。

 日米構造協議などにおいて、日本の国内に「植民地型知識人」が多数いるという。例えば堺屋太一や天谷直弘で、米国の対日圧力を、「日本の消費者の役に立つ提案を米国はしてくれた」と日本のマスコミに呼びかける(P319)。西尾氏はたとえ良いことでも外国の意志で行えば、自国を裁く基準を外国にゆだねることになるというのだ。日本国憲法が米国製だと分かっても護憲派と呼ばれる人たちは、良いものは良いのだと言って恥じないのも同じ精神構造による植民地根性なのであろう。

 西尾氏が郵政民営化に反対するのは分かるが「国鉄の民営化は成功したといわれていますが、地方線が廃線になって苦しんでいる人は多いのです。公平が安心感を与え、統合が国力を産む明治以来の国民的努力はあっさり否定してよいものでしょうか。(P323)」というのは一面だけの真実である。戦後の経済成長は自動車産業と共にあった。同時に道路も整備されていった。これらが鉄道との調整なしに行われたために、鉄道の衰退の予兆はあった。そればかりではない。国鉄は労働組合の巣になっていて、国鉄を悪くすることが革命の狼煙である、という思想から故意に国鉄を悪くしていったのである。

 私も20代半ばに、同じくらいの年の官公労の組合員と話したことがある。彼は、目的が正しければ手段は不正であってもよいのだ、という意味のことを昂然と語った。それから間もなく高卒の新人が、風邪なのに夜間組合運動に連れまわされて肺炎となり、間もなく亡くなった。かの組合員は亡くなった若者の出勤簿をこっそりコピーした。当局を追求するためであったが、原因が自身にあるためかなわなかったが、目的が正しければ、云々の意味は理解できた。たとえ組合に死の一因があるにしても、当局の追及のネタになるなら利用しようとしたのである。だから私には、国鉄をわざと悪くしようとする労働組合の方針は信じられるのである。


 国鉄民営化の真の目的は労働組合潰しである。遵法闘争なるものを繰り返して営業の妨害をするから、労働運動を正常化するためには民営化するしかなかったのである。過激な組合活動をしても首にできない官公労はどうにもならない存在であるからである。国鉄をあのまま放置すれば、組合活動によっていずれ国鉄は潰れたのである。この点が国鉄民営化以後に行われた各種の民営化と異なる点である。

 西尾氏に欠けているところが唯一あるとすれば、過激な労働組合、という視点がないことであろう。これもGHQの時限爆弾である。左翼政党においては組織力の源泉は労働組合、特に官公労である。西尾氏はそのような経験がないのであろう。教育の項でゆとり教育の批判をしているが、それにも労働組合の視点はない。多くの公務員が週休二日制になっているのに、教師だけが週休二日ではないから、何とかしてくれという、労働組合の要求がゆとり教育の始まりだと私は考えている。単に休みを半日増やすのでは変だから、教育の密度を減らして「ゆとり教育」ということにした。

 考えてみれば授業時間を短くすれば、教育の密度を増やさないと同じ授業の進捗率が保てないのは当然である。それで、ゆとり教育という名のもとに進捗率の低下など教育密度の低下を容認したのである。これは日本的な言葉の詐欺である。その詐欺がまかり通ったのである。



満鉄調査部事件の真相・小林英夫・福井紳一・小学館
    新発見史料が語る「知の集団」の見果てぬ夢

 あれほど共産主義が忌避されていたはずの戦前の日本で、かくも多くのマルクス主義に囚われていた愚か者たちが跋扈していたと言う事実を知らされる一冊である。彼らの信念は確かなものであるにしても、実際には単に他国のために働き、自国を破壊して同胞を不幸に追いやろうとした愚か者であるに過ぎない。そもそもコミンテルンは彼らをソ連のために利用するために接近したのであって、彼らの理想は口実に過ぎない。関東軍の顧問であった小泉吉雄は、ゾルゲ事件の尾崎秀実にコミンテルン極東支部員のロシア人を紹介された。その後尾崎の指令により、日ソ戦争勃発の際には、輸送妨害、通信施設の破壊などの反戦活動の他、関東軍司令部を爆破することを約束していたのである。(P208)

 筆者は「・・・尾崎がソ連、中国、日本の反戦勢力の結集を図る動きをすることは十分可能性があり得るからである。」(P256)と書くが、満鉄のマルクス主義者も同じ心情だとしたらとんでもない間違いである。コミンテルンは日本人の反戦思想を利用するために、ソ連や中国にも反戦勢力があるかのように装い、各国で呼応して反戦活動をして政府に戦争を止めさせようと言い、結果的に日本軍だけを妨害させてソ連の勝利に貢献させようとしたのである。

 また「企画院事件」では勝間田清一も逮捕されている(P252)。勝間田は戦後、社会党委員長となる骨がらみのマルクス主義者であるし、戦後もソ連のスパイに利用されていて、日本を不幸にするための活動ばかりした人間である。もし、勝間田の理想が実現したとしたら日本には親ソ政権が出来であろう。親日で有名なライシャワー大使ですら日本には親ソ政権が出来たら、米国は日本を再占領したと後日明言している。日本の社会主義勢力は怖ろしいものがあったのである。驚くべきは花房森の手記(自供)には共産主義社会の建設過程には天皇制は「武器」として利用価値があるが、全世界に共産主義社会成立後は、利用する価値がなくなるから、「天皇制」は廃止すべきである、と書いてあることである。多くの本にはコミンテルンの指令に「天皇制」廃止が書かれていたために、受け入れることが出来ずに転向者が出たり、指令を隠したと書かれているが、この手記を見る限りそう単純ではなさそうで、本気で天皇をなくそうと考えていた人間は相当いたのではあるまいか。

 満鉄調査部事件の取り調べは拷問が禁止されており、手記は転向を約束した部分と仲間の告発で構成され、ストーリーは共通している(P197)という。だから自発的に書いたのではなく、憲兵の誘導によるものであろうと筆者は書くが、問題はそれにとどまらない。満鉄のマルクス主義者は日本で左翼活動をし、転向して満洲に渡ってきた。それがまた左翼活動をし、「手記」による転向によって重罪には問われていない。しかも戦後左翼活動をするという懲りない人々である。

 確かにホワイトハウスにも多数のコミンテルンのスパイはいた。しかし戦後検挙され大規模なレッドパージが行われた。スパイ活動により死刑になった科学者夫妻すらいる。アメリカでは共産主義者は撲滅されたのである。せいぜいベトナム反戦活動家が間接的にソ連に利用された程度である。西ドイツでは共産党を非合法化するという思想統制すら行っていた。

 さらに問題なのは検挙者のほとんどが東京帝大と京都帝大の出身者(P15)であることである。帝大は日本の中枢を担うエリートを育成するために作られた。ところがその帝大が他の教育機関より、圧倒的に多くの売国奴を輩出していたのである。民主主義でも自由主義でもマルクス主義でも、西欧から来た思想を無批判に受け入れてきた維新以後の病巣がここにある。これに対抗すべき日本思想と言うべきものは、過激だが貧弱なものしかなかったのである。

 ところで筆者であるが「アジア太平洋戦争」などと言う言葉からお里が知れる。「彼らの『見果てぬ夢』は、『戦時中の夢』といってしまうには、あまりに大きな犠牲であった。なぜならナショナリズムの調整を通じた東亜の共同体の形成という東アジア各国が目ざさなければならない大きな目標が、この事件を契機にその芽を摘まれ、それがふたたび日の目を見るには半世紀以上の時間が必要だったのである。・・・グローバリゼーションの嵐が吹き荒れる二一世紀初頭の今日・・・『東亜共同体』という、すでに半世紀前に、少数者であれ満鉄調査部員を含む心ある人々の手で企画され、その実現に向けた動きが出ていたことの先進性と鋭角的な問題提起が、いまふたたび日の目を見る状況になってきているのである。」(P263)と書くのだ。

 彼等はコミンテルンのスパイとなって、日本と中国を共産化しソ連の衛星国化しようとすることに利用されていたのに過ぎない。彼らの理想としていたのは共産主義である。共産主義の間違いが明白となった現在、どうして「いまふたたび日の目を見る状況になってきている」のであろうか。東アジアの軍事大国中共は飽くなき領土欲をむき出しにして日本ばかりではなく、ベトナムやフィリピン、インドとも争っている。ウイグルやチベットを侵略史民族浄化をしつつある。何が「東亜共同体」であろうか。筆者が否定するグローバリゼーションとは米国主導の世界であろう。だがそれに取って代わるものは、著者の想定しているであろう現代の帝国主義の中共との連携ではあり得ないのである。著者の詳細な調査と考察は見るべきものがあるが、根本の認識が完全におかしい。従ってデータとしてだけ価値がある。



世界最強だった日本陸軍・福井雄三・PHP研究所

 マクロに言えば精強だった日本陸軍に諸外国が恐れをなしたことが、世界史を動かした、という視点である。ヤルタ会談でルーズベルトの要請でスターリンはドイツ降伏後3か月以内の対日参戦を約束した。ところが実際に参戦したのは約束の最後の日であった。ここまでスターリンが躊躇したのは、ノモンハン事件で日本陸軍の強さに懲りていたからである(P192)というのだ。このことは時間の不足や満洲や樺太での日本陸軍の抵抗で、北海道東北への侵攻ができず、日本が分断国家にならなかったという幸運を招いたという。筆者は最後にノモンハンの英霊への謝辞で締めくくっているが、その通りである。

 また、ノモンハンで手を焼いたスターリンは、ヒトラーに日本との調停を依頼し、そのため独ソ不可侵条約を結び、ドイツに急接近した(P27)というのだ。これが真実なら正に精強陸軍は正に世界史を変えたのだ。

 筆者の意外性は悪名高き参謀の辻政信への好評価である。大本営の不拡大方針を無視して、陸軍航空隊が越境しタムスク飛行場を攻撃し、大戦果をあげたのは辻の独断によるものだった。このことで辻は批判されているが、筆者は敵地の基地を叩かずに航空戦はできないから、辻の判断は正しい、と言うのである。筆者は独ソ開戦後に北進していればソ連は崩壊し日本の勝利はあったと言っていることと言い、軍事的合理性を優先しているが、たとえそうだったとしても、日本が条約違反をしなかったことは、今でも国際関係における日本の財産であると考える。ソ連攻撃を進言した松岡洋右の判断力を筆者は高く評価しているが(P54)軍事的合理性からは正しいのであろう。かの関特演は動員された兵士は高齢であり本気で戦争をするつもりではなく、一種のフェイントに過ぎないとゾルゲがソ連に報告している(P63)。東條英機は東京裁判の宣誓供述書であっさりとただの演習に過ぎないと言っていることが、正しいことに納得した。

 また、緒戦のマレー半島上陸後の占領後の治安の安定は、辻の徹底した指導により日本軍兵士の規律が厳しく守られ、掠奪暴行は皆無に近く現地人の日本軍への信頼が高まったためである(P99)という。辻の規律の厳しさは有名で、慰安所開設に反対し、堅物と兵士には嫌われたそうだから皮肉である。辻を評価するなら、ガダルカナルの惨状を現地調査して撤退を進言したのは辻であることを付記する。マレーの華僑については、「・・・宗主国たるイギリスの手先となり、国民に寄生している搾取階級として、怨嗟の的になっていたのである。(P121)」有名なハリマオこと谷豊は満洲事変以後マレーで暴徒化した華僑により妹を惨殺されてさらし首になったのを知り、華僑を襲う義賊になったのだと言う(P120)日本軍による華僑の粛清はスパイや反乱と言ったものに対する自衛であり、国際法上正統であったことを付記する。支那人の残虐性は古来よりのものである。

 ノモンハン事件の原因は、支那事変の勃発によりモンゴル人民共和国内に日本と協力してソ連を追放しようと言う反乱計画があったため、スターリンは大弾圧を行うとともに、対外戦争を起こしモンゴル人の不満をそらすためだった(P23)というのだ。この説は初めて聞いたと思うが、従来の「日本に対する威力偵察説」より合理的な解釈である。

 ナチスと共産主義の評価も興味深い。ヒトラーは民主的に選ばれ、国民もベルリン陥落まで忠誠心は衰えなかった。ユダヤ人はドイツ国民と見做していなかったから、自国民への迫害ではなかったというのだ。これに比べれば、ソ連をはじめとする共産主義各国における、例外のない国民への迫害のすさまじさはユダヤ人迫害など児戯に思えるほどだという(P180)。さらに「・・・ドイツ国民は、表向きはじっと沈黙を守りながら、心の底で信じているはずだ。将来いつかは分からぬが、過度におとしめられ歪曲された自国の歴史が、地道で冷静な歴史研究によって修正される日の来るであろうことを。」(P175)これは小生と同一の説である。ドイツ国民は自虐的日本人ほど愚かではなく、理性的である。ただ小生は歴史の見直しが始まるのはドイツ統一のときであると考えていたことを告白する。ドイツを取り巻く世界情勢はそれほど浅いものではなかったのだ。福井氏の説が正しいのは、日本とともに闘ったはずのドイツ人が、日本軍による残虐行為批判が起こるたびに、声高に同調することでも証明される。彼等はドイツの歴史は間違っていないと心底で考えている証拠なのである。

 筆者も山本五十六をはじめとする海軍批判をしているが、他の書評でも述べたので追記しない。ただ、他書にも述べられている山本権兵衛による陸海対等による弊害は、山本権兵衛の間違いとしてもっと追及すべき用に思われる。山本五十六などはそのレールに乗った、国より組織維持を優先した典型的官僚に過ぎないのだから。山本の連合艦隊の指揮ぶりには軍人としての闘志が感じられない。井上成美をはじめとする「海軍善玉」論の典型として挙げられる海軍軍人にはそのような人物が多い。

 余計な事を言う。福井氏の見識には尊敬すべきものがあるが、西尾幹二氏の重層的な思考には及ぶべくもない。ただ一点、西尾氏が日本弁護の方便で言っているナチスのホロコースト批判は再考すべきものがある。



アメリカ・インディアン悲史・藤永茂・朝日選書

 この本は有名なソンミの虐殺で始まる。それは「ソンミは、アメリカの歴史における、孤立した特異点では決してない。動かし難い伝統の延長線上に、それはある。」(P12)として「アメリカ史上はじめての汚い戦争のぎせい者である」という当時の多くの米国民の一般的な声を否定する。米軍は歴史的に民衆を虐殺するような非人道的な体質を持つ軍隊であると言うことを言いながら、著者の姿勢で不可解なのは、それならば米軍が対日戦でも同様な行為をしたはずであるということを考えもしないで、人道的な米軍と非人道的な日本軍ということを疑いもしないことである。

 この本は確実な証拠はない(P257)、としながらも多くの文献から米国が「西部開拓」に行ったインディアンに対する卑劣で残虐な行為を示し米国の歴史の暗黒面を示している貴重な本である。問題は現在もインディアンに対する迫害は続いている。迫害されないインディアンとは名誉白人としてアングロサクソンに同化した人たちである。もし迫害が終わったとすれば、居留区が崩壊し、インディアンのアイデンティティーを持つものがいなくなっているからである。すなわち民族絶滅が完了したのである。本書によれば「現在、北米インディアンの大半は、各地に指定された保留地区に住んでいる。・・・アメリカではインディアン・リザーベーションとよび、一般に都市の黒人貧民街よりも、一段と悲惨な状態にある。しかし、不毛の荒地に位して、人の目につかない場合が多い。(P74)

 アメリカに入植した白人は「インディアンが、とうもろこしや、七面鳥をたずさえて来て白人たちの空腹をいやした時、白人たちはそこに神の恩寵のみを見た。やがて、邪魔者と化したインディアンの、効率よい虐殺に成功するたびに、彼らはそこに再び神の加護を見出し、あるいは、頑迷な異教徒を多数殺戮することによって、彼等の神への奉仕をなし得たとすら考えた。」(P36)これはアメリカの異民族征服や西部開拓を正統化するマニフェストデスティニー、すなわち明白なる使命と呼ばれるものである。

 マニフェストデスティニーはインディアンから大陸を奪ったのにとどまらない。メキシコを騙して広大なニューメキシコ州を奪ったとき、スペインを挑発してフィリピン人を騙してフィリピンを奪った時も使われた。対日戦のみならず卑劣な民間人の大量殺戮の本土空襲さえ正統化することができる。著者と違い私は嫌米反米ではない。米国にはこのような暗黒面もあるという事実を認識する必要があると思うだけである。長い闘争の歴史で丸くなったヨーロッパにしても、アメリカ人と同じような暗黒面を持つことを知らなければならない。

 独立を約束してスペインと闘わせながら、米西戦争後フィリピンを得たアメリカは、マッカーサーは以下の将軍が「一〇歳以上すべて殺すこと」(P246)を命令した。当時のフィラデルフィアの新聞の一面の現地報告の一部には「アメリカ軍は犬畜生とあまり変わらぬと考えられるフィリピン人の一〇歳以上の男、女、子供、囚人、捕虜、・・・をすべて殺している。手をあげて投降してきたゲリラ達も、一時間後には橋の上に立たされて銃殺され、下の水におちて流れて行く・・・」(P246)。この新聞記事は残虐行為を非難するのではなく、正当化するために書いたと言うのだから、正に「マニフェストデスティニー」を確信していたのである。

 黒人奴隷の扱いについても「アメリカ人が黒人奴隷制度の下で犯した非人道行為は気の遠くなるような規模のものである。ナチによる三〇〇万人のユダヤ人虐殺もその前に色あせる。・・・アフリカからアメリカに向かう奴隷船に全く貨物同然につめこまれた黒人たちが暑気と窒息のために死んだ数は一〇〇〇万と推定されている。」(P248)という。別な本で、黒人は魚を運搬するように詰め込まれ、運んだ人数の半数が死んだと言うことを読んだ。黒人は人間ではなかったし、高率で死んだとしても、ゆったりとしたまともな状態で運ぶよりコストパーフォーマンスがよかったのだ。

 平成二十五年「奴隷解放」で有名なリンカーンの映画が上映された。奴隷解放を讃えているのだ。そのことが善であるにしても、その前に言語を絶する規模の非人道的行為が国家の常識として行われていたことが問題にされず、廃止した人の功績だけが異常に讃えられていることは普通ではない。連続殺人犯をある警官が逮捕した事件で、連続殺人犯の罪が不問に付され、警官の功績だけが讃えられている、と言ったら分かりやすいだろう。それもアメリカの奴隷の場合は、連続殺人犯は一人の異常者ではなく、連続殺人の犯罪にはには政府も国民もが参加していたというのだから。慰安婦を「性奴隷」と簡単に言う米国人は、奴隷があるのが当然だから、それになぞらえたのである。その上、奴隷解放を美点として、奴隷を使ったことに良心の呵責があるから、ことさらに批難して見せるのだ。そもそもリンカーンですら黒人奴隷を所有していたのだ。

 白人は土地の所有についてインディアンと協定し、ことごとく裏切って土地を全て奪った。「・・・条約、協定は、三〇〇を超えたが、そのほとんどすべてが、白人側から一方的に破られた。・・・この事実の証拠隠滅をほとんど企てなかったアメリカの白人達の天真らんまんさを、たたえるべきであろうか。」(P42)アメリカ人の狡猾さはハワイ王国を乗っ取った時にも発揮されたのは明白である。

 「涙のふみわけ道」(Trail of Tears)とはチェロキー・ネイションの強制移住である。単に白人達に邪魔だと言うだけで、着の身着のままで1300kmも移動させられ、死者は四千人、四人に一人が死に、死者を出さなかった家族はいなかった(P208)。単に移動だけではない強姦殺戮も行われたのである。しかし大統領はインディアンの了解にもとづいて行われて幸福な結果をもたらした(208)と国会に報告するほどの恥知らずである。アメリカ人はありもしない「パターン死の行進」を日本軍の残虐行為をでっちあげているが、その米人ですら、「涙のふみわけ道」にくらべりゃ、パターンの死の行進なんざそんじょそこらのピクニックみてえなもんだ(P152)と評したのだ。要するに「バターン死の行進」とは自分たちの行為を日本人に投影して発明した嘘である。嘘をつく人間は自分がしそうな悪事を人がやったと言うのだ。

 ニューヨーク州のダム建設で、ワシントンが条約で保護を約束した土地の強制立ち退きを拒否して最高裁にまで行ったとき、当時のケネディ大統領は立ち退き判決に黙っていた、つまり黙認した。ケネディ神話は黒人にも信じるものがいるが、インディアンにとってははじめから落ちた偶像であった(P92)と書く。インディアンの迫害は、過ぎた昔話ではない。昔話になるとすれば、インディアンが絶滅する時である。

 インディアンが頭の皮を剥ぐ、と西部劇ではいう。だがこれは白人が始めた行為である。「・・・スカルプとは、動詞としては、頭髪のついた頭皮の一部をはぎ取ることを意味し、名詞としては、ボディ・カウント用の軽便確実な証拠としてのその頭皮・・・」(P13)だそうである。本書のどこかに、インディアン同士を争わせて褒美を与えるとき、殺人の証拠として白人がインディアンに他部族の頭皮を要求したことから、インディアンの頭皮狩りが始まったとあった記憶があるが頁を失念した。

 アメリカ人の残虐行為は対日戦での残虐行為に類似したものがみられる。「・・・累々たるインディアンの死体に殺到した。ホワイト・アンテロープのなきがらを、彼等はあらそって切りきざんだ。スカルプはもちろん、耳、花、指も切りとられた。睾丸部を切り取った兵士は、煙草入れにするのだと叫んだ。それらの行為は女、子供にも及んだ。女陰を切取って帽子につける者もいた。・・・死体の山からはい出た三歳くらいの童子は、たちまち射撃の腕前をきそう、好個の標的となった。・・・インディアンの総数は約七〇〇、そのうち二〇〇人が戦闘員たり得る男子であり、他は老人、婦女子、幼児であった。その六、七割が惨殺されたのである。デンバー市民は、兵士達を英雄として歓呼のうちにむかえ、兵士たちはそれぞれ持ちかえったトロフィーを誇示した。」(P14)

 トロフィーとは切り刻んだ死体のことだから、市民は残虐行為を知った上で英雄扱いしたのだ。死体を切り刻むというのは以前書評で紹介した「我ら降伏せず」という本で米兵が行った行為と同じである。さきの本を読んだ時、わさわざそんなことをするのかと不可解に思ったが、ルーツはあったのである。

 細菌戦のルーツもある。「また英軍側は・・・司令官アムハーストはフォート・ピッツの病院から天然痘菌を得て、これを布地、毛布につけ、インディアン達に配布して、その大量抹殺を試みた。おそらく、細菌戦術実施の最初であろう。」(P96)西洋人は合理的なのである。

 白人の名誉のためにひとつだけエピソードを取り上げる。セミノール戦争と呼ばれる戦いで、セミノール・インディアンの頭目として闘ったオセオーラである。父はスコットランド人であるとされ、「・・・彼が混血であったという確かな証拠はない。たとえそうであったにしてもオセオーラ自身はそれを言葉激しく否定した。(P222)」東京裁判の日本側弁護士となったアメリカ人は、祖国に抵抗し信念を以て被告を弁護した。オセオーラもその類の人物である。結局は騙されて捕まり病死した。しかし軍医が首を切って記念品として自宅の壁にかけた、(P234)というのだ。まさに鹿などの動物の剥製の首を展示する感覚なのだ。混血であろうとなかろうと、インディアンに味方した白人はインディアンなのである。

 最後に筆者の偏見と幻想について一言する。アメリカ建国について「ここには、サバタも、ホー・チ・ミンも、毛沢東いなかった・・・(P95)」という。ワシントン率いるアメリカ人のインディアン迫害を非難しながら、自国民を大量に殺戮し、飢餓に追い込んだ毛沢東、反ベトコンの村のベトナム人を見せしめに容赦なく殺害する戦法を命令したホー・チ・ミンを人道主義者のように言う無知は皮肉である。毛の犯罪を告発する本は何冊も支那人によって書かれている。ホー・チ・ミンを告発する本が一冊もベトナム人によって書かれていないのは不可解である。恐らくは、毛は支那人同士の殺し合いである内戦で勝利したのに過ぎないのに対し、ホー・チ・ミンはソ連や中共の支援を受けたとはいえ、フランスや米国と言った外国勢力と戦って勝ったのは事実だからであろう。



最終目標は天皇の処刑・中国「日本解放工作」の恐るべき全貌

 ペマ・ギャルポ・飛鳥新社

 何ともどぎつい題だが、内容はこのタイトルが荒唐無稽ではないことを教えてくれる。沖縄の独立運動や沖縄マスコミの極度な反基地反本土の実情をみれば、解放工作は相当に進んでいることが分かる。著者はよく知られたチベット亡命政府の代表者でチベットが中共に奪われたことを、今後の日本に重ねている。チベット問題は、中共によるチベット侵略と民族絶滅であって、決して人権問題に矮小化されてはならない

 チベットでの残虐行為は怖しい。チベットの高僧の一人は四肢に杭を打たれ腹を切り割かれ、「奇跡を起こせるなら皆の前で飛んで見せろ」と言われ高い所から落とされた僧侶もいる。(P67)犯罪者の市中引き回しなどは支那人もやられているから日常茶飯である。小生の知人は1980年代にその光景を目撃しているから、それほど昔の話ではない。宗教弾圧はすさまじい。侵略の過程で100万人いたチベット僧侶の内、9割が死亡、還俗国外脱出のいずれかとなった(P68)というのである。それを見て残った10万人は宗教者としては生ける屍であったろう。中共による侵略の犠牲者は亡命政府によれば、1959年から1979年の間に戦闘、餓死、処刑、拷問などにより120万人が死んだと言う(P70)。絶対数も多いが人口が極めて少ないことを考えると気が遠くなる数の人が犠牲になっている。人口比で言えば中共なら数億と言う単位であろう。問題は中共による残虐非道な行為は現在も行われていて、世界の国々もそれを知りながら、経済および軍事の大国故に目をつぶらざるを得ないことである。

 著者も言っているように、チベット侵略はチベット人自身の愚かさによることも大きい。それを日本人に訴え、中国による侵略に備えよ、というのが本書の意図でもある。1933年にダライ・ラマ13世が無くなった頃、ネパールが中心となって「ヒマラヤ王国連邦」を提唱した時に、チベットは大国だから小国とは組めない、と断った。チベット侵略の再羅それらの国に応援を求めてもだめだった(P93)。国連加盟についても推薦を受けて政府がサインすれば入れると言う状態までにこぎつけたのに、国連とはキリスト教国の国だと言うので大寺院の僧たちの反対でつぶれた。だがここにも寺に送り込まれていた中国人工作員の力があったと言うのだ(P95)正に沖縄の反米活動や独立運動がこのようなものであろう。

 チベットの宗教界のリーダーは自己保身を優先して、近代化を怠り、東チベットに中国の画策による暴動があった時も放置し、結局自分たちの身に危険が降りかかるまで放置し、どうにもならなくなってから、国連に訴えたりインドやネパールに助けを求めても手遅れだった(P98)。ギャルポ氏は国民が一枚岩であれば侵略を阻止できたと言うがそのとおりである。チベットは標高が高く地政学的にも侵略は困難である。だから中国は周到に工作したのである。国民が一致団結して闘ったなら、侵略は防止できたのに違いない。現に軍事大国ソ連の圧倒的な力に、徹底的に抵抗した小国のフィンランドは不完全ながらも独立を維持した。第二次大戦のフィンランド空軍の機種の多さは、なりふり構わず戦ったことの証明である。製造国は、米英、仏独伊、ソ連その他数えきれない。敵国ソ連機すら捕獲修理して使ったのである。バルト三国はソ連の工作によって愚かにも自らソ連への編入を求めたことになっているのである。愚かな日本人は、それを真に受けていた。1980年代の百科事典には、バルト三国が相次いでソ連への編入を求めた、と平然と書いている。

 1972年に発見された「中国共産党・日本解放第二期工作要綱」というものがあり日本社会はこれにより着実に侵攻していると言う。(P4)自民党の分裂や中国人による土地買い漁りなどその筋書きだと言うのだが腑に落ちる話が多い。平成25年6月には元自民党大幹部の野中元議員が「田中角栄首相から、中国とは尖閣問題は棚上げにしたと聞いた」と中国で発表し記者会見まで開いた「事件」があった。元々親中と言われた人だが、記者会見では自信なげに俯いて話していたのが印象的であった。恐らくは記名的な弱みを握られ、しゃべらされ、後ろめたさに堂々と話すことができなかったのであると私は想像している>

 日本のマスコミもどうにかしている。人民日報の東京支局は朝日新聞の本社内にあり、NHKの中にはCCTVの事務局がある(P134)というのだから。著者の言うようにこれらの報道機関は中共の諜報機関でもあるのだから、日本の最大手マスコミは既に籠絡されていたのだ。恐らくは朝日もNHKも報道内容をチェックされていいなりになっているのである。そもそも、言論の自由のない独裁国家の言論機関が、日本の公共放送機関や、最大手のマスコミに同居していると言うのは、恥ずべきことである。

 著者はインドとの提携に希望を持っているのだが当然の成り行きだろう。以前はインドはチベットが中国の一部であることを認めていたのだが、2010年12月に温家宝首相が訪印しビジネスで大きな合意をしたが、このときは、チベットが中国の一部であることばかりではなく、台湾の中国帰属を認める合意を文書化することを拒否した。これは印パのカシミール問題に中国が中立であるという文章化を拒否したことも一因だが、インド自身が対米関係や経済で自信をつけたことにもよる(P180)という。

インド独立の功労者は日本と提携したチャンドラ・ボースなのはインド政府も分かっているのだが、積極的には宣伝しない。日本と共に闘ったインド国民軍の勢力が拡大し独立機運が高まることを恐れた英国は、懐柔するためにインドの自治と戦後の独立をガンジーやネールに提案したと言う(P223)。もしこれが実現していたなら、ガンジーやネールは英国の傀儡に成り下がったのである。ガンジーの物語を英国が映画化したのは、ガンジーを都合よく描くためである。その映画には、チャンドラ・ボースは名前すら出ない。そのことこそ真の独立貢献者はガンジーではなく、チャンドラ・ボースである証明である。ビルマにしてもインドネシアにしても旧宗主国には公然とかつての悪業を言えない。日本はかつて中国に悪いことをしたから、今でも文句を言われる、という日本人がいるが、国際関係の真実を知らないなぃー部過ぎる考え方である。西欧の旧植民地はかつてひどいことをされたからこそ、独立しても怖くて文句ひとつ言えないのである。

 中華思想の中華という言葉は孫文の発想だった(P209)と言うのは意外である。孫文は飾り物に過ぎないにしても中共の侵略政策には大いに貢献しているのだ。



東郷元帥は何をしたか・高文研

 東郷平八郎、山本五十六など、陸海軍の7人の軍人を論評したものである。図書館でパラパラ読んで、山本と井上成美に批判的なことが書かれているので借りて来たのだが、高文研という発行所を見てがっくりした。だが山本の記述に面白いものがあった。「日米開戦に至らば、己が目ざすところはもとよりグアム比律賓にあらず、はたまた布哇桑港にあらず、実に華府街頭白亜館の盟ならざるべからず、当路の為政はたしてこの本腰の覚悟と自信ありや・・・」と昭和16年1月の笹川良一宛の手紙に書いた(P76)というのだ。

 これは著者も政府や軍もそこまで考えているか、という反語だというのだが、これが米国民にもよく知られ、スチルウェル将軍やニミッツ提督なども、これを文字通り受け取って敵愾心を燃やす結果となり、避戦のつもりが反日感情に火をつける結果となってしまった、というのだ。何故私的書簡が外国にまで知れ渡ったのか、という疑問はあるのだが。

 しかし、その後の山本の行動をみれば、あながち反語とも言えない気がする。ミッドウェー攻略の後には、ハワイ攻略を考えていたし、その先は米本土攻略があったはずである。現に戦前一時流行した日米必戦論には、日本軍による西海岸上陸作戦と言うのもあり、米本土攻略作戦と言うのは、今考えるほど荒唐無稽なものと考えられてはいなかったのである。ミッドウェーやハワイ攻略で分かるように、山本にも昭和の日本海軍にも補給と言う観念はないのである。それならば、支那事変で連戦連勝し南京を占領し、蒋介石を重慶に追い込んだ日本軍なら、米本土攻略も可能であると言う理屈になる。

 一日決戦論を唱えたり、ハワイ攻略を計画したり、はたまた航空機による主力艦の暫減による艦隊決戦の勝利を実行しようとしたり、山本五十六の行動には定見がないのである。



失敗の中国近代史・アヘン戦争から南京事件まで・別宮暖朗


 別宮氏は歴史に関してはかなり詳細な考究をするのに、意外や直感の人である。時々保守論壇の人たちとも異なる見解を示すことがある。ところが、それならば根拠を詳細に示してほしいのだが、必ずしもそうしないことも多いから困る。例えば「・・・先制攻撃をやった国が侵略者だという法理が変わるものではない」として支那事変では中国が侵略国と断ずる(P329)のだが、国際法上の根拠は示さない。氏は以前からこの主張をするのだが、いつもそう断定するばかりで根拠は示さない。

 西安事件について、「・・・この事件について中共は張学良と共同して蒋介石に「抗日」を兵諌したと虚偽の伝説を振りまいた。」(P300)と言う。つまり中共が張学良を使って蒋介石に抗日を強要したと言う通説は中共が作った嘘だ、と言うのだが根拠が不明である。元々蒋介石は共産主義シンパであり、抗日を主としていたと言うのだが、これは状況証拠に過ぎない。共産主義と言っても毛沢東はコミンテルンの配下であり、蒋はそうではない。色々な証拠は中国共産党を追い詰めるのに熱心であり、抗日を主とするようになったのは西安事件以後であると言うのも状況証拠であるが、この状況証拠を別宮氏の状況証拠で覆すには弱過ぎる。

 日本では平成17年に出版された「マオ」に張作霖暗殺はソ連の陰謀であったと書かれていて話題になった。3年後の平成20年に出されたこの本では、そのことを無視しているのは不可解である。そして河本は満洲問題にしか関心がなく、辛亥革命以後の日本の対中政策は大陸に独裁権力ができるのを防ぐのに一貫しており、満洲を支配する張を抹殺した結果、日本自身が満洲を支配するしか選択肢が無くなったと言う(P279)。蒋介石が統一政権を作っても張の満洲があれば分裂しており独裁権力はないということになるからだ、という。

 この論法は結果から考えた倒錯ではないか。日本の対中政策がこのように一貫していたと証明はできない。実際、氏も幣原外交はこれに反したと言うのだから、一貫していない。仮に一貫していたとしても、そのことが日本の対中外交として成功すべきものであったかを氏は証明していない。氏は満洲に権力の空白が生じたために満洲事変を起こさざるを得なかったと言う結論から逆算していて、そのために張作霖爆殺のソ連陰謀説を無視したように思われる。

 一体氏には権力闘争あるいはバランス・オブ・パワーの力の理念しか国際関係に見ない。日本が愚かにも西原借款したり大陸の内戦に干渉したのは日本の王道であって、王道は感傷に過ぎず国際政治に持ち込むべきものではないというものではない。結局開化以来の日本の行動はそれでしか説明できない。日本にはそれしか生きる道はなかったし、その選択は正しかった。ただ東亜の解放と言う果実を生かせないのは現代の我々の責任であって、父祖の世代はすべきことをしたのである。

 アヘン戦争に対する見方は面白い。アヘン戦争は英国が対支貿易赤字を解消するために、清にアヘンを持ち込み中毒患者を増やしたのが原因であるというのが通説である。十九世紀には、阿片の国内流通を禁止していたのは、日本やシャムだけであると言う(同じページで清国政府は阿片生産・流通をそれまでも禁止していたが実効性があがらず、と書いているのは矛盾している)十九世紀のイギリス国内ではあらゆる種類の麻薬は禁止されておらず、シャーロック・ホームズはコカイン常習者と言うことになっていたそうだ。阿片は1830年代の金額ベースの最大交易品であったというのだから特段悪いものだとされていなかったのだ(P20)。清朝の問題は阿片を輸入禁止するための処置として、英国承認を武力で脅迫したり私有財産を奪うと言う違法行為に出たこと、戦争の経過についても皇帝に都合がよい報告しか上げなかったり、講和条約を破るのを当然としていたことである。要するに今日の中国に至るまで続く政治のでたらめである。

 清における不平等条約の代表とされる治外法権についても、そうではないと言う。日本では司法が確立され、国内のどこにでも外国人が住めたから治外法権は不平等であり、租界にしか外国人居留を許さず、政府が外国人を襲撃させるような清では、治外法権は当然である(P48)、というのは納得である。ただ江戸時代に米英が治外法権を主張したのは、幕府の国内法が米英とは違い、日本の国内法で米英人が処罰されてはならないと言う、そもそもの発想が国際法から逸脱した不平等の思想である。

清潮ももちろんであるが中共も現在の世界に一般的となった国民国家ではない。ロシアとの愛琿条約で領土割譲交渉をしたとき、咸豊帝は、領土喪失を争わず、外国使節の中国風衣装にこだわったのは領土喪失は問題外で「礼」(儀式の形式)が最重要であった(P61)。これは天下、という観念が全世界であり、天下は清朝の支配するものであったから、領土喪失と言う観念がなかったのであろう。氏は簡単に中国風衣装と言うが、正確には今の支那服つまり満洲族の民族衣装であって「漢民族」の民族衣装ではない。現在の中国人は白人コンプレックスが強いから全世界が天下だと思わない。その代わり、非白人領域が全て中国の天下なのである。日本やフィリピン、ベトナムと領土領海を争うのは単なる資源問題ではない。元々天下だと思っているから資源問題を契機に争い始めただけである。

 支那人の残虐性の記録もある。アロー号事件ででたらめな講和交渉をずるずるしている間に軍使を拉致してそのうち、11人を惨殺した。顔面を損傷した上に身体の一部を切除した惨たらしいものであった(P74)。革命団体の光復会が武装蜂起に失敗して、幹部の二人が捕まって斬首されたのは時代相応であるが、その後が物凄い。一人の内臓は兵士によって食われ、もう一人は女性であるが、群衆が殺到して胴体からの鮮血をパンにつけて食べたと言うのだ(P238)。済南事件(P270)の描写は転記するに堪えない。

 支那事変では敗残兵が便衣(平服)となって隠れたり逃亡するパターンが頻発しているが、日清戦争でも発生している。敗北した4千人を司令官の指示で便衣に着替えさせて集団で平壌まで600キロを歩かせた(P132)というのだ。

 日本と支那との相違も面白い。「孟子」には「君主は臣下をゴミのようにしかみないのだから、臣下が君主をみるのは外敵や仇のようにみるのは当然だ」とあるというのだが、孟子の時代から支那は政治不信の世界であって日本の逆である。江戸時代前の日本の役人すなわち武士は世襲であり、支那の役人は試験で選ばれたエリートである。筆者の言うごとく、世襲だから役人は職を辞するのに恬淡としていて、試験エリートは苦労した分だけポストにしがみつく、というのは今の日本に当てはめて考えてよいのかもしれない(P91)。

 日清戦争の際に第一軍司令官の山県有朋が独断専行しようとしたとき、大本営は山県を罷免した(P156)というのだが、山県は陸軍の重鎮で現代では独裁的に思われているが、事実をみる限り山県は外交について融和的である。意外と言えば康有為もである。康は下関条約に反対して、講和に賛成する将軍を処刑し、遷都して国土を焦土しても戦い続けるべきだと言う上申書を皇帝に提出した(P163)。さらに、西洋の近代化は300年かかり、日本は30年かかった、だから博物地大の中国は近代化は3年でできるとし「泰西を牛となし、日本を農夫となし、彼らの耕したところを我々は座して食すればよい」と書いた(P164)。日本でも清朝の有望な改革の旗手として語られる康がこの程度の見識しか持たないのだから、康有為の改革など成功するはずがない。いや康は改革に挫折したから、実態とかけ離れた過大な評価を受けているのだ。

 西太后が独裁者ではない、という指摘も意外である。西太后に衣装の買い付けを命じられた宦官が、勅許状を持たないと言う理由で山東巡撫にいきなり捕縛・処刑されても西太后は泣くだけで何ともできなかったうえ、漢人官僚までが快哉を叫んだという。要するに、西太后の意見が群臣の意見に会えば従うが反対なら無視されてお終いである(P86)。西太后の独裁者のイメージは、皇帝が常に幼く実権を持たず、私的な贅沢を尽くしたことが原因であると言う。この点は研究を要するように思われる。

 筆者は大アジア主義に徹頭徹尾批判的である。しかしそれは筆者の国際関係の見方がバランス・オブ・パワーに徹しているからのように思われる。その点でバランス・オブ・パワーの視点も忘れずに、父祖の業績に賛辞を惜しまない西尾幹二氏の方が懐が広いように思われる。「・・・顧問として派遣された軍人は『任地惚れ』を起こしやすく、大アジア主義に染まった。大アジア主義とは・・・仁義道徳を中心とする亜細亜文明の復興を図りまして、この文明の力を以て彼等のこの覇道を中心とする文化に抵抗するのである。・・・漢学者や支那通は、中国文明が日本文化や西洋文化を上回っており、中国人と日本人が結合すれば西洋諸国を打倒することが可能とみていたのである。(P210)」

 これは事実である。現在に至るまでの日本人の支那観の間違いは、四書五経の道徳の支配する世界が現実の中国として存在すると思い続けていることである。孔子の時代はもしかするとそうであったのかも知れない。だが一部の人が言うように、四書五経の理想は、そうではなかったから主張されていたのであって現実ではなかったのかもしれない。確かなのは、五胡十六国の戦乱の時代に孔子を生んだ漢民族は滅び、その後は現在の中国と同じく、野蛮の世界が続いたのである。中国は王朝が滅び戦乱になる度に元に戻り、大陸の住民の民度は全く発展せずに、二千年前の古代が現在まで続いている。その点日本はもちろん、他のアジア諸国とも異なるのである。唯一の親戚は朝鮮である。

 だから大東亜戦争でアジア諸国を開放する素地は中国にはなく、その他のアジア諸国にあったのである。例えPETAを日本が組織しようと、あの短期間で日本の教育により、独立運動を戦うことが出来たのは、中国と異なり受け入れるだけの民度があったためであると考えなければ理解できない。康有為の言うのは間違いで、日本ですら30年で近代化を成し遂げたのではない。だが、ビルマでも、インドネシアでも現在でも政治に難渋する部分があるのは、その民度が充分ではないことと、西欧諸国が行った分断統治の置き土産による。

 「辛亥革命が成功したとしても、それは愛新覚羅家の政治関与・人事関与をなくしたにすぎず、中央政府の構造を変更するものではなかった。袁世凱や張勲による帝政復活の試みは、いわばアロー号戦争以前への逆戻り、礼楽による統治への復帰であった。勝利した直隷派も曹錕の世代まではまだ清朝軍官僚出身という点で、安徽派と変わることがなかったが、戦争のあとは中国が清朝であると考えない人物群が登場した。」(P222)これは辛亥革命前後の連続性と非連続性をよく表現している。

 アロー号戦争以前に戻ったと言うのは清朝成立当時の統治に戻ったと言うことではない。しかもここで述べられているのは、支那本土に関するものであり、満洲、現在の内モンゴル、新疆、チベットといった、はるかに広大な地域に関するものではないことに注意しなければならない。要するに満洲人の皇帝が支那本土の皇帝として統治した範囲である。満洲にしても、漢民族と呼ばれる人たちが大量に流入したのは、日露戦争と辛亥革命の開始の時点からであるからである。確かに清朝成立時点とそれ以後では支那本土の統治システムには変遷が生じた。圧倒的に強かった満洲の八旗軍は堕落し、利用したはずの軍閥がのさばったのである。辛亥革命が成立しても、満洲族の皇帝あるいは愛新覚羅一族が直接支配する体制が消えただけだから、統治システムが変わらないのは考えてみれば当然である。

 幣原外交の愚かさについて述べているのも(P254)引用するのも馬鹿げている位正しい。最後に「ドイツはヨーロッパのリーダーではない。これは第二次大戦の審決である。同じく、日本も東アジアのリーダーではない。リーダーになるために中国に『尽くすだけ尽くす』というのは倒錯ではあるまいか?」と述べるのは、結果として正しいが別宮氏の情熱の欠落を表わしている。例え非現実的であろうと日本は王道を歩まなければならない。別宮氏の考えは欧米と支那の覇道を是としている。しかし別宮氏は、日本が主権を喪失、つまり米国の占領と言う大きな代償から、国際政治の厳しさを習得したという。だが例えば社民党の福島代表を見よ。彼女は何も学んでいない。日本人らしいナイーブな善意が世界に通用すると思っている愚かな人である。しかし単なる善意の人ではない。日本ではなく、社民党という組織を護るためには、狡猾な嘘までつくと言う個体としての本能は失ってはいない、という奇妙なメンタリティーの人である。彼女らのような反日の日本人は、忠誠を尽くすべき「日本」を奪われたために、直接所属する組織と言う矮小なものにしか忠誠を尽くすしかない。それが結局は、日本と言う根本的なものを失い、しまいには社民党も存在しえないと言う矛盾にも気付かない。沖縄で反米反基地闘争をしている人たちも同様である。

 欧米人は悪意をも日本国憲法の前文のように、美しく飾る才能がある。日本人は美しい言葉を語るとき美しい心を持たなければならないと言う美徳がある。もっとも反日日本人はこの美徳を失っているのだが。日本人は王道を忘れてはならない。しかし、国際政治は覇道で動いていることも意識しなければならない。日本が西欧を駆逐した範囲の東アジアは、日本の王道が通じるはずである。別宮氏が言うように中国を相手にしてはならないのである。

 賛否色々書いたが、中国近代史を通観するのには必読の好著であることを申し添える。


日本農業への正しい絶望法・神門善久・新潮新書

 図書館に申し込んで一年近く待ったのだが、根本のところで意見が相違するのでがっくりした。学べるものより批判が多くなってしまうのだ。農業を専門とする学者なので、情報量は恐ろしく多い。だが考え方にバランスを欠いているように思えてならない。マルクス主義的思考の影響が強いのだ。しかし農協や兼業農家の現状などはよく捉えていて、一読の価値はある。思考の整理のために借りるのではなく、買おうと思うくらいである。

 氏の家には「折に触れて全国各地の農業名人から農産物が届けられる。彼らは、私に代金を一切請求しない。厚意での「おすそ分け」だ(P30)」そうだ。しかも奥さんと二人だけなので必要量は少ないのに、送られてくる量は多いのだそうだ。「親愛の気持ちを表したいのだろう」という。厚意も親愛の気持ちも本当であろう。本で公言する位だから違法ではないのも間違いはない。

 質も高く量も多いから金に換算したら相当なものになるのであろう。農産物は農業名人の作品ではあるが、一方では生活必需品である。生活必需品は現金と等価である。一面では氏は現金を貰っているに等しいのである。氏は無邪気なのだろうか、無神経なのだろうか。法に触れようが触れまいが、道義的には賄賂と言われても仕方ないのである。現に氏はこれら農業名人の「技能集約的農業」だけが日本農業が生き残る唯一の道だと断言しているのだ(P103)。心情的には物をもらっても動かないにしても、これらの人の情報に偏ると言われても仕方ないのだ。本当にこの神経は理解不能である。

 担い手不足の嘘(P50)は詭弁に近い。担い手不足になる原因として挙げているのが①若者が耕作放棄地を借りて就農したところ、地力が回復するようになった途端追い出された、として農地所有者が担い手が定着するのを嫌っている。②美人の若者が収納するとマスコミなどに持ち上げられて技能習得を忘れているうちに、周囲の言うことを学ばなくなって居場所がなくなり、マスコミに相手にされなかった結果、夜逃げ同然にいなくなった、という例である。こんな事例を「担い手不足の嘘」として一般化されるのでは困る。

 ①の例を敷衍して、高齢の農地所有者が耕作放棄しても儲かるような仕組みになっている、と言うがこれを最も問題にしているのだ。本末転倒である。後継者がいないから、高齢化して耕作放棄せざるを得ないし、先祖伝来の土地を人手に渡したくないからズルをするのだ。原因は後継者がいないことなのであって、ズルをするから後継者がいないのではない。肝心の就農したくない人が多い原因については論じないのである。

 私の田舎は父の代まで旧式の専業農家だった。子供のころ手伝わされた範囲だけでも辛いものだった。いち早く耕運機を買ったのも楽をするためで、収益を上げるためではなかった。馬と違い耕運機なら中学生にも扱えた。父は農閑期に土木作業員として働いた。現金収入が不足したためである。父祖の世代の辛苦を知る子供たちは誰も就農しなかったし、父母もそれを望んだ。戦前は生糸生産もしていてそれなりの現金収入もあったはずだが、それも失われた。母の実家は米以外に野菜やお茶で儲け専業農家でも裕福だった。その結果、従兄は進んで農業高校に行き、就農としてある花では栽培の講師をするほどになって海外旅行も頻繁に行き生活もエンジョイできている。その息子も就農した。就農するか否かはこうして決まるのであろう。

 なお、「担い手不足の嘘」の項には農協が電話一本で全ての農作業をしてくれる受託サービスをしてくれるそうだ。当然氏はこれを否定的に書いている。しかし、これは企業の農業参加の可能性を示唆しているのではあるまいか。筆者は企業の農業参入に反対している。「企業が農業を救う」のという幻想(P55)と書く。理由は「宣伝や演出の戦略にあわせた農業生産をさせるためには・・・なまじ耕作技能はないほうがよい・・・そういう企業は農業ではなく広告をしたいのだ」というのだ。そしてマスコミに取り上げられたり派手なスローガンが飛び交うと批判する。氏が例示したようにそういうケースもあろう。しかし企業が参入するのに反対する理由がそれだけ、というのは実に奇妙である。氏の言説は実にバランスを欠く。企業は農業参入そのもので利潤をあげたい、というのが大地儀の理由である。広告をしたいと言うのは、広告宣伝を常とする企業の習性による副次的効果であろう。

 「経済学の罠」(P75)とは、政府の介入なしに企業の自由競争が生産効率は最高になるという経済学の教科書の言説の前提は、取引相手を探すのにまったく費用がかからず、取引にあたって違法行為がなく、決裁も滞りなく行われるのが前提である、と主張する。これらのことは実現がほとんど困難だから、企業の自由競争がベストだと言うのは間違いだと主張する。

 だいいち「取引相手を探すのにまったく費用がかからない」と言うのは絶対にあり得ない話である。そもそも今の日本には「政府の介入なしの企業の自由競争が生産効率は最高になる」と言う言葉をそのまま信じている者はいまい。規制は必要である。人により異なるのは規制の程度である。規制をなくすために「・・・官僚や業界団体さえやっつければ、日本農業は劇的に強化され、農業は成長産業化し、輸出産業にもなる」という間違った論理を展開する、という。確かにこれに近い極端な言説をするものはいるし、単純化し過ぎている。適度な規制は必要であると、大多数の人は考えている。例外を一般化する悪癖がここにもある。

 氏は表向きはどうか知らないが、共産主義的信条の持ち主のように思われる。オムロンの植物工場の失敗例の引用が「しんぶん赤旗」である。企業参入について別な動機があるとして反対するのも、さかんに労働の「商品化」批判をするのもその表れである。町工場を称賛するのも同じである。氏は共産主義観点から大企業批判している一面がある。そう考えると氏が、労働が商品化したマニュアル依存型ではなく個人経営の技能集約型農業を絶対視することも理解できる。マルクス主義からは厳密には農業労働は「労働」ではないにしろ、「取引相手を探すのにまったく費用がかからない」と突然言うのは、マルクス主義では、営業活動そのものは労働とはみなせない不要な行為だと考えられているからであろう。

 いずれにしても氏は日本の農業には機械に頼らない技能集約型しか未来はないと考えている。そうすればJAに対する容赦ない批判も、補助金のばらまきでうまくやっている兼業農家に対する批判も理解できる。両者は持ちつ持たれつだからである。従ってJAに対する批判は読むべきものがある。

「経済学の罠」の後半の「取引にあたって違法行為がなく、決裁も滞りなく行われる」という前提条件はあらゆる経済行為に必要なものである。この前提が守られないのであれば、どのような生産形態の社会でも、生産も経済も崩壊しているから意味がない前提である。大規模経営批判で「まじめに農業に打ち込む環境になければ、規模という外形にこだわっても無意味」だというのだが、この前提も資本主義が成立する前提条件である。小室直樹氏だったと思うが西欧にキリスト教をベースにしたモラルがあるために、資本主義経済が発生し、日本にも別なベースによるモラルがあるのだそうだ。単に金儲け主義だけでは資本主義は成立しない。技能集約型農業も同様であるし、マニュアル依存型農業も同様であるはずだ。そういう条件であれば規模が小さいと言うのは絶対条件ではない。

 私には技能集約型農業には氏が敢えて触れない欠点があるように思われる。氏が技能集約型として例示しているのはほとんどが野菜農家である。多分最初に紹介されている「二人の名人」だけが、米農家である(p15)。この二人は反当り収穫量と食味値の抜群の良さが紹介されている。たが果たして、死の数年前から野良に出ることができなかったこの二人が、一般に言う定年の60歳前のころ、米だけで家計を支えるのに十分な収入を得ていたか記述されていない。つまり名人の農業法と体力で、生計を立てるのに必要な量と単価の米を作ることができたのか否か示されていない。狭い面積を多くの労働力をかければ反当たり生産量は増えるが、労働力辺りの生産量が多いとは限らないからである。

 もし、技能集約型農業が野菜にだけしか適用されないものだとすれば、それに全ての農家が専従すれば、日本の農業生産は極めていびつなものになってしまう危険があるのではないか。もう一点は、人間の能力と生産量である。説明によれば技能集約型農業は相当のやる気と技能を必要とする。日本にそのような人間がどの程度いるのであろうか。極めて少ないのではあるまいか。工場生産でも同様であるが、高度な技能を持った人間だけが生産に携わっている産業はない。もし高度な技能を持った人だけしか従事できない産業が全てであったとすれば、多くの人が就業できない。だが現実には、マニュアル通りに真面目にやれば、平凡な能力の人間にもできる仕事も必要とされている。そして高度な技能を必要とする仕事と、マニュアル通りの仕事の中間は欠落しているのではなく、その間の技能の程度は連続しているのである。

 氏は製造業をあまりに単純に理解しすぎているように思われる。そして町工場を農業名人になぞらえて美化し過ぎているように思われる。工場生産ではマニュアルを使用し機械を使用した大量生産は、一品作りの製品に比べ品質が劣るとは限らないのである。正確に言えば、機械的に大量生産可能な製品を、一品作りに戻せば確実に品質は落ちるし、コストも膨大にかかる。それは大量生産された車の表面仕上げや加工精度の良さを想像すれば理解できるであろう。また町工場で作られているものの多くは、マニュアル作業によってはできない部分を受け持っている。つまり多くの場合高度な技能の町工場で作られる製品は多くの場合部品であり、マニュアルで大量生産されるものに組み込まれる補完関係にある。また、ロケットのようなハイテク産業の単価がなぜ高いか。根本的には知的にも肉体的にも多くの人間の労働力を必要とするからである。だが社会で必要とされているのはほとんどがハイテク製品ではない。氏の推奨するのはハイテク製品だけ作る農業に特化することのように思われる。

 高度な技能の寿司職人は、スーパーで売られている大量販売の寿司の品質の維持向上には不可欠である、と言っていることから、氏はマニュアル型生産と高度な技能の商品との分業について理解しているはずであるが、農業や工業への理解にはそのことが反映されていないように思われる。40年位前のカラーテレビなどというものは今のものに比べれば品質は桁違いに落ちるは、給料に対する価格も桁違いに高いものだった。マニュアル生産によって現在のテレビの低価格高品質がある。私は農業でもそのような道はないかと思うのである。

 大規模、企業による農業反対論にも異論がある。どこに書かれていたか判然としないが、氏は失敗の例として、販売活動に力を入れ過ぎて肝心の農業技能がおろそかになった人をあげている。しかし販売活動は必要であろう。いいものを作っても知られていなければ売れないからである。しかし個人農業で販売活動に力を入れれば肝心の農業に専念できない。身は一つだからである。だが大勢例えば100人いれば1人が販売に専念しても残りは大勢いるからロスは極めて少ない。そして大勢いれば研究開発して新製品や良い製品の研究に配分できる人がいる。

 これが企業による産業活動が成立する理由であろう。100人いれば、給与の支払いからそれなりの農業規模とならざるを得ない。単に大規模大量生産に規模が有利なだけのではないのであろう。従前は農協が販売はや研究開発を分担していたから個人農業も成立してきた。しかし農協の肥大化と個人農業の崩壊によって、農協は組織維持のために農業以外の分野にも手を出さざるを得なくなっている。今の農協は農協のためにあるのであって、農家のためにあるのではなりつつあり、かえって凋落をまねいている。本来の仕事がなくなったから、農協が農協のためにあるのは組織としては当然の成り行きである。

 農協と農家は別組織であり、一心同体ではない。だが企業なら違う。生産担当であれ、販売、研究担当であれ会社が倒産しては困るのは同じである。つまり会社のために働くモチベーションが存在する。小規模農家を支えると言う本来の業務が減少している今、農協が必ずしも農家のために働くモチベーションがないのは当然である。もちろん企業が農地を保有するのには問題がある。しかし小規模専業「農家」が農地を保有することにも実態として問題を抱えているのは氏の指摘するところである。つまりだれが農地を保有しようと農業をするモチベーションがなければ、農地の保有は悪用される。

 氏は「マニュアル化された工場で正確かつ忠実に指示に従う優良作業員として何年働いても職人技は身につけられない」(P83)と言うのだが、この言葉が氏の製造業に対する誤解を象徴している。意図せずとも氏の言葉はベテラン工員に対する侮辱である。単品設計生産製品では、設計者が持ってきた図面を、こんなもの作れるか、と突き返すベテラン工員がいるのである。単にマニュアルや設計図に従っているのではない。第一にいくら完全なマニュアルを作ったところで、作業に対する習熟は必要である。氏は無意識にチャップリンのモダンタイムスの工場のように、単に物を右から左に動かす作業をイメージしているのではなかろうか。溶接を例にとろう。一番簡単な溶接作業ですら、言われた通りやってもなかなかできるものではなく、危険なものである。

 溶接には材料や条件によって様々な種類があり、各々技能認定試験がある。試験には技能や知識の程度によりランクがある。単にマニュアルに従うだけではない。しかも高度な資格を取ったところで美しい溶接のビード(溶接した部分)が作れるわけではなく、永年の習熟がいる。マニュアルがあって高い資格を取った後にも不断の勉強と知識と経験は必要なのである。これも職人技である。しかしこのようにして知識と経験を積んでも溶接工が行うのは、「金属の接合」という氏が嫌う「分業」の一部なのである。氏の称揚する「金型作り」にしても自動車生産などの工程のほんの一部である。ほんの一部をになう分業が集まって自動車産業と言う巨大産業が成立するのだから分業は忌避すべきものではない

 技能集約型農業は少人数で全工程を担う。個々人の技能のレベルについては、技能集約型農業従事者と町工場職人や溶接工は等しく高度なものを持ちうるのであろう。しかし、自動車産業は、その技能者が沢山集まる必要がある。ここまで敷衍すれば意図することが分かるであろう。農業を企業化することにより、研究開発、営業、各種技能を持つ生産技能者が集団化することができる。そこには、個人農業近い小規模農家とは違った可能性が開けるのではなかろうか。単に規模の大きさによる高効率化での低コスト生産を言うのではない。それは技能集約型農業と良きライバルとなり、双方の発展の可能性があるのではなかろうか。もちろん氏の言う農地保有の問題はあるから、制度作りは必要である。

 氏は農業の機械化についてあまり語らないが、嫌っているように思われる。しかし現代で機械を使用しない米作りなど絶望的に困難である。その反面町工場の職人芸を称揚するのは矛盾している。職人芸であっても町工場では機械を使用しないことは絶対にあり得ないからだ。いくら化石エネルギーを忌避したところで、電力なりの動力を使用しないのはもはや町工場であれ工業とは言えない。農業についてもその辺りのスタンスが本書では極めて不分明である。

 氏は日本の技能集約型農業によって、日本に海外の農業者をまねくか、海外に行って技術指導するのが良い、と述べる。「・・・町工場で腕を磨いた技術者が海外で工場指導をしているが、それの農業版だ」(P105)という。また「K名人は・・・韓国・中国にも出かける。中国での農業指導に対して、温家宝首相から直々に感謝を受けたこともあるという。」(P199)

 だが日本から技術指導を受けた中国、韓国がどう対応したか。中国は新幹線は自主開発だと嘘をつき、外国に輸出しようとして日本のライバルになろうとしている。韓国は日本の技術者を使い捨てにしている。要するに両国は技術を得てしまえば恩義など感じないのだ。しかも中国はチベットやウイグルで大量殺戮をし、ヒトラー顔負けの民族浄化をしている。そんな国の指導者に「直々に」会えたことに感動しているとは空恐ろしい。今巷間伝えられるような、ナチスドイツのような国が出現したとして、そのような国の指導者に会えたことを自慢すべきなのであろうか。氏には中国幻想がある。

 氏の学校教育批判(P86)は私にはいびつに思える。「製造業の発達のために社会全体の労働の価値観を変える装置はさまざまにあるが、その典型が学校だ。」として次のような教育社会学の専門家の意見を紹介する。「近代社会で必要な知識教授と集団的規律訓練の場として、学校は制度化された。学校は子供を社会生活からある程度引き離し、強制的に囲い込んだ空間だ。学校の肥大化は、やがて社会が学校で習得したことによって成り立つ(学校が社会を規定する)転倒した様相さえ呈することもある。」

 これに加えて筆者は「近現代の学校は労働の『商品化』を教え込むための装置とみなすことができる。農家の子弟も近代学校に通うことで、労働の『商品化』の感覚を身につける。また、テレビなどの電気製品の普及も、人々に無機的な時間の感覚を覚えさせ、時給などの近代的な労働の概念を導入し、労働の『商品化』を推進する。」というのだ。これは現在の学校教育の在り方の全否定である。氏は学校は資本家が労働者を効率よく使うための訓練機関だというのだ。日教組の管理教育批判とも酷似している。どのような社会でも最低限の集団的規律は必要である。それを教えるのは必要なことである。中国人のようにバスの列に並ばずに平然と割り込めば混乱する。最低限の集団的規律がないからである。

 氏はP143で「学部卒のほうが『つぶし』が利いてよかっただろう」とし、大学院卒の方がとっぴな発想を育むことができる、としているのだから、学校教育そのものを否定しているのではない。それならば、学校教育のあるべき姿を提示しなければ無責任である。また家電製品が労働の商品化を推進する、というに至っては荒唐無稽である。氏の家にはテレビも家電製品もないはずはなかろう。それならば、家電製品に騙される大多数の愚かな大衆と自分は違うと言うのだ。

 学部卒は使い回しされるだけで大学院卒の方が賢いと言っていることと併せれば、農業名人を持ち上げる一方で、平凡な労働者を見下げるエリート意識が垣間見える。これは共産党の前衛政党、という意識と類似する。労働者の前衛とは、労働者は自ら考えることが出来ないから我ら共産主義を理解するエリートが大衆を指揮し、労働者大衆はそれに従うだけでよい、というのだ。マルクスは労働者階級が支配階級になるべきであると主張したが前衛などとは言わなかった。後世の共産主義者はそこに「共産主義の前衛」という言葉を発明して、共産党幹部が政権を奪取する理論的根拠にしたのだ。共産主義国ではどこでも一党独裁となる根拠はここにある。

 小生はかつての伝統農家出身で古い農業と古い農協しか知らないから、本書には示唆されることは多い。多年農業関係者と接触してきた著者はさすがに既存の農業関係者に幻想を抱かず現実を見ている。しかし、一方で共産主義的偏見に基づくと思われる意見も見られる。P47に「戦前は欽定憲法のもとで・・・」と書くところなぞは、GHQの指示による教育にも従順である。米国の作った憲法を「民定憲法」というのでしょうね。また放射線被害については、警鐘を鳴らすあまりに、結果的に風評被害に加担することになるように思われる。原発事故以来、人体についても農産物についても放射線被害について非科学的な言説が飛び交っている。著者には農産物の放射線汚染について科学的な検証をし、風評被害をなくし、福島の農家を救っていただきたい。

 結論から言えば氏の理想とする農業だけでは日本の農業が成立することは不可能な事は明白である。なぜなら一貫して、日本農業はごく一部の特別な能力ある者にしかできないものであるべきだと主張しているが、そのような農業ではバランスある農業生産品を育てることはできないし、特殊技能者は極わずかしか育てられないからである。だから、この本のタイトルは「自分の言っていることは正しいが、それが実践されたら日本の農業は絶望的である」、という意味をこめたものであると理解できる。


○帝国海軍の勝利と滅亡・別宮暖朗

 別宮氏は頑固なのだろうか。自説を唱えるときに有力な反論があっても無視する癖があるように思われる。例えば「作戦計画(国策)にもとづいて第一撃を放てば、先制攻撃を禁ずるパリ不戦条約に違反する。(P175)」先に攻撃した方が侵略者だと言う言い方は、別宮氏が他の著書でもくりかえしている持論であるし、これを根拠に日本は米国を侵略したと言い続けている。不戦条約には正確には「・・・相互関係に於いて国家の政策の手段としての戦争を抛棄することを其の各国人民の名に於いて厳粛に宣言す。」(国際条約集・有斐閣)と書かれている。国策をカッコ書きにして作戦計画を前面に出しているのは、条約の文言には忠実ではなく、別宮氏の解釈を優先しているのだから、正確ではないがこれはどうでもいいことである。

 問題はアメリカが公文として「不戦条約の米国案は、いかなる形においても自衛権を制限しまたは毀損するなにものも含むものではない。この権利は各主権国家に固有のものであり、すべての条約に暗黙に含まれている。・・・事態が自衛のための戦争に訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ。」(前掲書)と公表していることである。つまり不戦条約は自衛戦争には適用されないし、自衛戦争か否かは自国に決める権利がある、と言っているのである。このことには英国も追従している。さらにアメリカは、戦争を始めるのが自国内かどうかを問わない、とし、経済制裁も戦争を構成するとさえ声明している。日本を擁護する人々は、これを根拠として対米戦が不戦条約違反ではないと主張するのは当然であろう。不可解なのは、博学な別宮氏はこんな主張はとうに知っているのに、何故無視し続けているかである。米国などは、不戦条約は、中南米の米国の影響圏には適用されない、とさえ言明しているのである。不戦条約は理想の言葉だけ高く、始めから形骸化していたのである。

 また軍事を論じている割には兵器に関する誤記もある。九六式艦戦の構造などの設計思想が零戦に引き継がれたのは事実であるが、長大な航続距離を誇ったと言うのは間違いである(P186)。九六艦攻が同時代のソードフィッシュやデバステーターをはるかにしのいだ(P187)というのは九七艦攻の間違いである。もちろん九六艦攻は実在した。雷撃機は複座であり、急降下爆撃機(艦爆)は単座である(P196)というのも思い込みを確認しなかったためのミスであろう。「駆逐艦は対空兵装が全くなかった。手法は立派であったが、仰角があがらず高角砲として使えなかった(P193)」とあるが、艦砲は仰角を上げれば高角砲に使えると言うものではない。米海軍の駆逐艦は対水上射撃用主砲だけを積んだ駆逐艦の建造は一九二一年まででほとんど止めて、それ以後は大部分が、対空射撃兼用の両用砲を積んでいる。もちろん両用砲搭載艦は対空火器管制装置を搭載しているから防空能力は高い。

 日本の駆逐艦で本格的な対空火器管制装置の九四式高射装置を搭載したのは防空駆逐艦と称した秋月型だけである。別項で論じたが、日米の対空火器管制装置の性能による命中率の差異は格段の差がある。だから、旧海軍関係者が自慢する秋月型の防空能力は、第二次大戦で米海軍が最も多用したフレッチャー級の足下にも及ばない。対空射撃能力は高角砲の発射速度とか初速と言ったカタログデータだけでは判定できないのである。

本書P223の輪形陣には何気なくアトランタ級軽巡が描かれているが、これは、駆逐艦と同じ両用砲と対空機銃を多数装備した、防空巡洋艦である。単に陣形が優れているだけなのではない。日本の重巡は手法の仰角が艦隊決戦用のために上げられなかったが、上げることができれば対空射撃に効果を上げたと予想される(P221)。実際には75度まで仰角を増やした重巡もあったが、実用上は55度に制限されていた。それでも対空射撃可能であるとしていたのだが、効果があったと言う戦訓はない。それどころか20cm以上の大口径砲弾の射撃は機銃による対空射撃を妨害する。

主砲発射の際はブザーで警告して機銃手は艦内に退避するが、大和級ではこの手順が適切に行われずに主砲の爆風で機銃手を殺した例すらある危険なものである。遠距離は大口径砲、中距離は高角砲、近距離は機銃と分担する方法はある。しかし、大口径砲は危険で機銃とは同時使用できないから、大口径砲が使用できるのは、空襲の最初の射撃に限定される。だから日本海軍以外に大口径砲を対空射撃に使った国はないのである。

以上問題点をあげたが、本書の価値を減ずるものではない。本書では陸軍のボスとされる山県有朋が、通説に反して柔軟な人物であることが書かれている。明治26年の山本権兵衛の海軍の将官整理に疑問を持った山縣は山本を呼び付けて趣旨を問うたが、納得すると「その後も陸海対立が生じると常に山縣は権兵衛の意見を聞いて、陸軍を譲歩させ妥協させる方向で動いた。」(P63)日露対立すると「山縣有朋は戦争に反対した。陸軍に必勝の策はなく・・・」(P98)。反戦だからといって褒める必要はないが、理性的に考えることが出来る人物なのである。

東郷平八郎も秋山真之もジュットランド海戦を、英海軍の被害が大であるが、制海権を保持したために勝利であった、と述べた。筆者はそれに納得して「帝国海軍は彼我の損害の点では勝利しても、決戦海面から逃げるのを常とした。(P153)」と酷評するがその通りである。昭和の海軍は制海権の思想がないことの延長として、船団護衛も通商破壊戦も上陸作戦阻止も行わなかったのである。

 本書の最大の眼目である山本五十六批判の要点は、山本が典型的軍官僚であって(P285)ハワイ攻撃計画を作成し、戦略眼のない官僚的作文の実行に固執し日本を敗北に追い込んだ経緯は、第一次大戦のドイツのシュリーフェンプランに酷似している(P285)ということに凝縮される。旧海軍の幹部は戦後山本を親米反戦家のように称揚するがそんな単純なものではない。山本は真珠湾攻撃で主力艦隊を撃滅すれば戦意喪失すると、「勝敗を第一日において決する覚悟を要する(P241)」という意見書を及川海相に提出したのだ。結果はその正反対であり山本の知米派と言う評価は間違いである。

 真珠湾攻撃が成功した同日の昼、山本長官の指揮する連合艦隊主力が小笠原方面に向かったのは通説のような論功行賞の為ではなく、残りの太平洋艦隊が大挙出撃するのを迎撃する「暫減邀撃作戦」の実行であった(P266)というのは確かに一日決戦論と符合する。山本はそれが生起しないと見ると、次の艦隊決戦の機会の為に航空機による暫減邀撃作戦暫減邀撃作戦を続けてラバウル方面で貴重な艦上機を陸に上げて消耗し尽くした。山本は航空主兵論者ではなく、著者の言うように戦艦による艦隊決戦論者なのである。

 筆者は対米戦は避けられたという考え方のようであるが、賛成しかねる。「岩畔豪雄陸軍省軍事課長と野村吉三郎駐米大使の対米交渉がようやく実を結んだ。「四・一六日了解案」と呼ばれる協商案で、満州国承認から八紘一宇までを認めたもので、アメリカができる最大譲歩であった。アメリカは苦境にあるイギリスを日本が攻撃する可能性をみて譲歩した。(P249)」というのだ。これは松岡外相によりつぶされたのだが、成功したところで米国は、開戦を先延ばしにしたのに過ぎない。別項で述べたように、米政府は対日戦を欲していた。スターリンも毛沢東も日米戦争を望んでいた。これらの勢力の暗躍により日本は確実に戦争に追い込まれていたのである。

 かの清沢洌は、当時の昭和十年危機説が、軍縮条約会議の決裂が原因だと言うことを批判した。軍縮条約がなくなったからすぐ戦争は起こらない、建艦競争が始まって戦争の危機が来るとすれば、それがアメリカの現在の建艦計画が完成する昭和十三、十四年頃であろう(清沢洌評論集P281)時期が正確かどうかは別として、米国は対日戦備ができるまで戦争はしない、と断言しているのだ。後知恵ではない卓見ではないか。

 残りは注目すべき指摘をいくつか。「英仏と違ってアメリカには、合衆国法が国際法や元地方より優先するという域外適用といわれる独善性がある(P17)」その通りで、パナマのノリエガ大統領を麻薬取締法違反でパナマに侵攻して逮捕して米国内で裁判して懲役にした。信じられない話である。第二次大戦で日本海軍がソ連の脱落を狙うインド洋作戦をさけたのは、ロシアが知性的に弱いという戦略的判断が欠如していたため(P141)であると言うのだが、イギリスを脱落させるためにインド洋作戦が必要だったと言う説は、多くの人が唱えている。「独ソ戦勃発前、東條陸将を筆頭に陸軍には三国同盟について懐疑する意見の持ち主が多かった。(P255)」独ソ戦前なら三国プラスソ連の同盟論が松岡外相にも陸軍にもあったはずなのだが。何を根拠に言うのであろうか。氏は多くの資料をよく読んでいるのに綿密な考証に欠けるところがあるように思われる。少なくとも考証の過程を提示しないことが多く断定的である。


○中国大暴走・宮崎正弘・文芸社2011

 新幹線事故問題を中心に、中国社会がいかにでたらめに満ちているかを綴る。ここでは新幹線以外のものを紹介する。

 ビジネスホテルに泊まろうとしてパスポートを出すと、外国人は泊めないと断られた。他にもこんな場面があるが、要するに盗聴設備がないからだそうである(P51)。毛沢東の竹のカーテンの時代は外国人の入国を徹底して制限したから、外国人に案内役と称する監視役をつけたが、現在では科学技術の利器が利用できるのだ。

 親や祖父などが付き添う小学校の集団下校があるのだが、交通安全のためではない。誘拐帽子である。金持ちからの身代金目的ばかりではない。幼子田舎の工場に、闇炭坑や農村の嫁に売るのだそうである(P51)。これは特殊な例ではなく、一般的な闇ビジネスで、外国に里子に出す商売もある(P136)。上海や北京の繁華街などの目立つ所には、身体障害者が物乞いをしている。歩行困難、四肢がない子供たちである。産経新聞の報道として、誘拐は組織的に行われ、身体障害者は子供を誘拐して虐待して手足を不自由にしたり、硫酸を顔に賭けたりして作られる(P151)と記している。健常者は物乞いには同情を得られないからだそうだ。以前、中国では子供を誘拐して四肢の骨を折るなどして障害者を作り物乞いをさせる仕事があった、と読んだことがあるが昔話ではなく、現在でも行われているのだ。ちなみに、障害者にされた子供は不健康なので早死にするケースが多いそうである。古代社会でも中世社会でも、このような犯罪が常態化している社会はあるまい。支那人と言うのは古今東西稀に見る異常な人たちである。

 新疆ウイグル自治区が原爆の実験場であったことはよく知られている。日本のある学者の試算によれば、核実験による死亡者は最悪18万人に達するという(P78)。実験のための管理など行われていなかっただろうから、当然であろう。ウイグルは漢族ではない。つまり支配者とは異民族の土地であったから平然と核実験を行ったのである。ウイグルはチベットに続き、1951年に毛沢東が侵略し、以後軍隊が100万人駐屯している(P80)。いくらウイグルが広大だとは言え、人口は僅かである。暴力による異民族統治は膨大な人員を必要とする。

 中国崩壊説を唱える人は多い。しかし小生はそれに与しない。試算金融バブル崩壊も何年も前から言われているが起こらない。本書によれば、特権階級が当局と組んで通貨を強制的に維持し、ビルのテナントが埋まらなくても、価格を維持させるというインチキをしている(P128)からだそうだ。中国は軍や警察などの暴力装置が維持される限り、崩壊はしない。

 一点疑問がある。渡辺利夫拓殖大学学長の指摘を引用して、北朝鮮が中国を振りまわしている状態であると言うのだ。その証拠に金正日が北京での会合をドタキャンした後、また訪中した金正日に胡錦濤が会いに来たし、江沢民も習近平も最初の外遊先に平壌を選んだ(P159)というのだ。だが、北朝鮮は中国の援助で細々と生きているのに過ぎない。中国ウォッチャーというのは朝貢外交と言う言葉に振り回されている気がする。

 中国人が自国を信頼しないのは古今変わらない。北米では一定以上の投資をすると移民、永住のビザが発給されるので、富裕層の過半が脱出したがっている。50万ドル以上の資産家の内、10%が投資移民として海外移住を決意しており、さらに10%が近く移民申請する(P132)という。これらの多くは共産党幹部なのだ。庶民も同じである。福建省の沿岸の南の閩南から人が渡り閩南語が台湾語になった(P146)。また、中国から陸伝いにタイへ逃げた華僑がタイの経済実権を握り、今完全にタイの政治を乗っ取ろうとしているタクシン一家もこの華僑の末裔である(P197)。ベトナム戦争後100万人以上のベトナム人が海外逃亡してポートピープルとなったが、彼らは実は華僑の末裔である(P237)。

 意外なのは尖閣領海で中国漁船が体当たりした事件で、レアアース輸出を凍結したのは、実はそれを口実に輸出制限をしただけであると言うのだ。この影響を受ける米国はWTOに提訴したと言うのだが日本は提訴に加わらなかった(P89)。なんだか戦前の支那で外国人襲撃事件に対して、欧米は一致して反撃したが、幣原外交は融和的に出て、かえって抗日侮日を招いたのと似ている。資源利権には中国は敏いのだ。アフガニスタンではタリバン政権当時から銅鉱山利権を持ち銅を採取している。欧米が軍事介入してカルザイ政権を樹立するが、中国は派兵しない。鉱山を護るのはアフガニスタン警察、それを訓練したのが米国、その人件費の半分を日本が負担している。筆者はポンチ絵である(P86)と笑うに笑えない状況を揶揄している。


世界が語る大東亜戦争と東京裁判・吉本貞昭・ハート出版

 大東亜戦争と東京裁判について、まず筆者の考えを述べて、その後各種の文献等から日本に対して肯定的な世界各国の著名人等の意見を簡単に紹介する体裁である。

 元中共軍将校の葛西純一氏が盧溝橋事件の中共謀略説の根拠とした人民解放軍の「戦士政治課本」について紹介している(P57)が小生は公刊されている葛西氏の著書は全て読んだつもりだが、まだこの本の記述を見つけていないのが残念である。ところで秦郁彦氏はこの本の存在を否定して、中共謀略説も否定するのだが、本書によると人民出版社の刊行する「毛沢東年譜」によって存在が確認されたと言うのだが、秦氏は保守の論客だと思っていた時期もある小生が愚かであった。

 「戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして滅びるのは、民族の魂まで失う、真の亡国である」という例の永野軍令部総長の言葉を紹介しているが本書によればこの発言は昭和十六年九月六日の対米英蘭開戦の決断の時期を決めた御前会議での発言(P77)とのことである。この言葉を他のコラムでも繰り返し引用するのは、全ての日本政府関係者は対米戦に楽観的どころか悲観的であり、軍人たちは必死の覚悟で開戦を決意していたこと、侵略戦争を行うのにこのような決意で臨む国はないことが明瞭に示されているからである。

 近衛内閣が総辞職したのは日米交渉が失敗したからとされているが、ゾルゲ事件を摘発した吉河検事が、戦後の米下院の公聴会で、ゾルゲ事件との関係が発覚したために責任を問われて総辞職せざるを得なかった(P78)とあるのは納得できる。

 戦後の米戦略爆撃調査団の報告書は特攻の命中率を全期間で18.6%とし、昭和十九年十月から翌三月までに限れば、39%に上り、至近弾として艦艇に損傷を与えたものを入れれば56%となるとしている。さらに昭和二十年四月の統計はそれぞれ、61%と71%となると報告されている。ハルゼーは特攻の戦果は1%であると嘘をついているのだが(P120)それだけ脅威であったのである。別の数字の統計も見たことはあるがいずれにしても命中率は10%は超えているから、通常の雷爆撃より高い数字である。このように被害を数値で算定する冷徹さが米国の特徴であろう。沖縄戦でニミッツが本土の統帥部に特攻機の被害が大きいので上陸を中止し、他方面に向かいたいと打電して拒否された(P121)というのも初めて聞く。

 日本の敗戦で急遽行われたインドネシア独立の式典で、独立宣言文の最後に〇五年八月十七日と書かれていたのは(P123)比較的知られたエピソードであるが、反日の日本人は皇紀二千六百五年を意味する元号を敢えて使用したインドネシアの人たちの想いに心をいたすべきであろう。欧米諸国は現在でも東ティモールをインドネシアから分離したり、アウンサン・スー・チー女史を利用して英国の植民地支配の過酷さを主張した、ミャンマー政府に軍事政権の悪名を冠して経済制裁するなどの悪辣な陰謀を行っているのである。欧米の間接的世界支配はまだ終わっていない。それに比べると中国の恫喝外交は稚拙の極みである。

 蛇足だが、ビルマという英語表記の名称は植民地時代に使われていたからだとして、ミャンマーに改めたのは、西欧から軍事政権のレッテルを張られて批難されていた政府である。つまり、英国に逆らったから「軍事政権」というレッテルを貼られたのである。民主化運動と称して反政府運動を起こさせて、それを鎮圧させて「軍事政権」と言ったのである。早い話が英国のマッチポンプである。マッチポンプに使われたのが、アウンサン・スー・チー女史というわけである。女子の主張を注意して聞くがよい。民主化、以外の政策はない。彼女には政治家としての政策も能力もないのである。彼女が大統領になってミャンマーが混乱しようと英国には関係ない。英国に逆らう旧植民地政権はどうなるか、ミャンマー人は知ったのである。彼女の役割は終わった

 次は大東亜戦争に関する世界の人々のコメントである。インド国民軍の少佐が、もし日本が戦争に勝っていたら、アジアの全ての国々が栄えていたと私は思います(P171)と述べている。日本がアジアの植民地を独立させたのは事実であったと認める人ですら、戦争に勝っていたらアジアを独立させたかどうか疑わしいと述べているのだ。戦争に負けた卑しい根性というべきである。どうしてそこまで自身を信じられない悲しい民族になってしまったのだろう。

 台湾の許東方工商専科大学学長は東條を天皇陛下に最も忠実で、私心なく清廉潔白であり、立派な人物だから日本は東條神社を創建すべきだ、と言っているが、なるほどである。今の日本人には考えられない発想である。東條を現代史の最高の偉人と認める小生は感激する発想である。東條神社が創建される日こそ日本が本来の姿に立ち戻る日であるが、それはいつになるだろう。

 米国のジョージ・フリードマンは1920年代後半にアメリカが保護貿易主義になったのが戦争の原因であるとし、日本の選択肢は①大陸から撤退して中国パイのおこぼれを貰うことに甘んじ、絶望的経済破局を迎える②日本が必要とする市場を確保するために軍事的選択をすることである(P187)。その通りどころか、おこぼれにあずかれるかさえ保証がなかった。米英の軍門に下ったアジア諸国の運命をみれば明白である。おこぼれで満足するような民族には容赦なかったのが欧米のやり方である。日本は徹底的に闘ったから相手として認められたのである。

 米国政府は日露戦争で意外にも日本が勝った時から対日戦争で日本を滅ぼすことを考えていた。これはルーズベルト個人の問題ではない。ただルーズベルトは最悪だった。何せ、女性スキャンダルは大統領にとって致命傷であると言われた(過去の話である)アメリカで、ルーズベルトは永年連れ添った愛人の元で臨終を迎えたからアメリカ人にとっては最低の大統領であった。対独戦に参戦するために、対日戦を欲したなどというのは、対日戦の動機の一部に過ぎない、と言うのが現在の小生の結論である。

 ハミルトン・フィッシュ共和党上院議員は、第二次大戦が始まるとすぐに、ルースベルトは参戦することを決めた、と断じ、その原因を、失敗したニューディール政策の失業者をなくすこと、戦争を指導した大統領になりたいと言う欲望があること、国際連合を作ってスターリンと共に世界の支配者になりたかったことをあげている(P190)。実際ルーズベルトに限らず、米国の指導者は世界制覇の野望を抱いていた。国際連合は日本人の夢見るような理想への一歩ではなく、世界制覇の道具だったのが事実である。パットン将軍を描いた映画だったと思うが、将軍が、アメリカが世界制覇をする、と言う意味のことを述べていた場面を記憶している。ウィキペディアで調べたらパットンは普段から乱暴なことを平気で言うので、映画化する際にはそれを削除した、と書かれている。当時の米国人には米国の世界制覇とは乱暴な言葉ではなかったのである。世界制覇とは当時の米国人にとっては常識的な現実だったのである。

 英国人では、ホプスパウロンドン大学教授は、インド独立はガンジーやネルーの国民会議によるものではなく、日本軍とインド国民軍が起こしたインパール作戦よるものである(P193)と言った。そう言えば、英国が作った「ガンジー」という映画では、インド独立をガンジーの非暴力抵抗運動というお決まりの説で描いていて、インパール作戦はおろかインド国民軍も登場しない。これは明らかな作為である。ルイス・アレンビルマ戦線情報将校は日本陸海軍には理想主義者がおり、日本にもアジアにも植民地解放をしたのは日本だと信じている人々がいて、日本帝国が滅びてもその業績は消えない、と述べている(P193)。かつての敵国ながら米英には信念に忠実な人物がいる懐の広さには感心する。このことは米英が日本を敵視したこととは矛盾しない。

 次は東京裁判である。マッカーサーは回想記で事後法で戦争裁判を行うことに反対し、国際法で言う戦争犯罪人の裁判だけにすべきだと言う信念を吐露している。それは、アメリカでも南北戦争終了後数十年経っても南部が北部に深い怨恨を抱いているためであった。その原因をマッカーサーは記していないが著者は、南軍の捕虜収容所長が偽証を承知の上の裁判長により捕虜虐待の冤罪で絞首刑になった事実などを知っていたためであろうと推測している(P204)。東京裁判もそのようなものになると考えたと言うのである。日本が戦争を始めたのは安全保障のためだと戦後証言をしたということといい、マッカーサーも案外まともなことをいうものだと思った次第である。だがマッカーサーの言葉は全て後の祭りである。

 次は証言である。チャーチル自身が東京裁判を批判して、日本の指導者を死刑にするならば、もし連合国が敗れれば、同じ理屈でルーズベルトも自分も処刑されていただろう(P253)、と言ったのは余りに正鵠を得ている。東京裁判の裁判長だったオーストラリアの当のウェッブ自身が、日本の証人たちの皇室に対する気遣いと尊敬の念と自己の立場を主張する際の真面目さと誠実感に心を打たれ、日本が戦争を始めたことに対して日本を断罪するどんな権利があるのか、と自問したという(P260)。開いた口がふさがらないとはこのことである。

 だが、ウェッブが考えを変えたのは、被告や証人の態度の立派さに尊敬の念を抱いて、日本の指導者に対する見方が変わったのが原因であるように思われる。このことは、有色人種の差別の激しいオーストラリアにおいて、シドニー軍港を攻撃して戦死した日本海軍の兵士を丁重に海軍葬にしたことと共通している。彼らは人種に拘わらず勇気や誠実さを見せた人間に対して自分たちと対等に扱うと言う精神をなくしてはいないのだ。この点は汪兆銘を漢奸として、わざわざ辱めるための像を作り唾を吐きかける支那人とは異なる。逆に言えば外国に媚を売る者は支那人に心の底では軽蔑されるのだ。反日日本人は中共にゴマをするから、彼らにしてみれば国を売る漢奸なのである。漢奸は彼らの最も忌み嫌うものである。支那人は日本の「漢奸」を利用するために褒めるが腹の底では軽蔑しきっているのである。


○中国の戦争宣伝の内幕・日中戦争の真実

 フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ・田中秀雄訳・芙蓉書房出版

 中国の真実を余すところなく、抉り出している。対中外交をする政治家や日本の近現代史の研究者には、基礎知識として是非読んで欲しい本である。何故日本が大陸で戦争をしなければならなかったか、何故今に至るまで欧米人が中国を哀れな被害者、日本を加害者と誤解し続けたかを見事に説明している。

 本書によれば、ソ連共産党の謀略と西洋列強がともに反日を中国に仕掛けているのだ。これは現代西尾幹二氏が主張していることとほぼ等しい。日本は「侮辱と周期的な自国民殺害に至っても平和的であろうとした」(P22)。しかし蒋介石が反共政策を続けたために反日の実行は上がらない。そこで、西安事件を起こした。この本は数ページにわたって西安事件を記述している。西尾幹二氏は反日の日本人が故意に西安事件を取り上げない、と批判したが確かにそれほど致命的な事件である。そのことを著者は充分知っているから詳述したのだ。

 阿羅健一氏はドイツ軍事顧問団が支那事変の後ろ盾になっている事を著書で論述した。西安事件の後盧溝橋事件は起きた。しかしすぐに起きたわけではない。蒋介石は西安事件で脅迫されて反共を止めて日本と戦うことにしたと軍事顧問団に伝えると、激怒して日本と戦うだけの軍隊にするには二年かかると告げた。そしてそのことをロシアに告げて猶予してもらったことを喜んだ。ところが当時ロシアは赤軍の大規模な粛清をしていて、蒋介石を支援するどころではなかった。そのことを蒋介石は後に知るが後の祭りだった(P29)。スターリンは自分に都合の悪いことを隠して蒋介石に恩を売ったのだ。ちなみに盧溝橋事件は、二年後ではなく1年弱で起きている。中国共産党は滅亡しかかっていたから待てなかったのだし、蒋介石を督戦する意味もあったのだ。

 阿羅氏が論述したようにドイツ軍事顧問団は純粋に軍事的支援をしていただけではなかった。顧問団は「あなたは一人では勝てない。ロシアは今はここにいない。協力者が必要でしょう。イギリスに頼みなさい。しかしながら力のある干渉者となると好ましいのはアメリカです。」と言ったのだ。「シンパシーという点では、最初から中国の方にあった。日本人は侵入してきたのだ。彼らは侵略者なのだ。中国の領土を奪い、帝国を広めようとしたのだ。一旦中国を征服したならば、中国人を組織し、世界を征服するのだ。これはモスクワとロンドンのエージェントが世界に送り出した最大のプロパガンダだ(P40)。これは、偽文書の田中上奏文をはじめとして、現代日本が教育された偽の近現代史そのものである。

 日本軍が戦闘に於いていかに一般民衆や外国人を巻き添えにしないようにしているのに対して、中国軍は計画的に逆のことをしている。「・・・中国軍が密集市街地の中心に塹壕を掘り、外国人の資産を遮蔽物にして銃器を据え付けていること、銃眼の付いた胸壁に第三国の旗を立てていることなども報じないのだ。何度も何度も日本軍指揮官は中国軍側に市民に近いところから戦闘地域を移動するように、・・・しかし中国軍とその兵隊はこの人道的な日本側指揮官の請願を拒否するだけでなく、警告もなくこのあわれな中国市民の身体と掘っ立て小屋を、敵への遮蔽物や生餌にしたのだ。」(P49)

 「蒋介石配下の共産主義者が陸伯鴻を暗殺したのは上海の街中であった。・・・自分のことより中国のことを思っている数少ない中国人だった。・・・彼は私に中国のこと、蒋介石のような者たちのためにどんなに苦しめられているかを語っていたのだ。・・・日本人が混乱の中から秩序を回復させ、上海を暗い絶望の淵から引き上げようとしたとき、また中国軍が逃走した後に、群れをなして町に帰ってくる数えきれない人々のために食料を与えようとして、食糧の手配ができないか乞うてきたとき、陸伯鴻は日本人と協力して、飢えた者たちや病人のための食料や薬の分配システムを作り上げたのだ。・・・彼が日本赤十字と共に数千人の人々を死から救おうと働き始めた矢先、彼は殺された。・・・蒋介石は表の戦争では負けていても、裏側のテロの世界には君臨し続けているのだ。・・・マークした中国人を群衆内に見つけたら、女や子供、外国人がいようが関係ない。爆弾を投げつけるのである。」(P64)これらはわれわれが今教えられていることの正反対であるのは明瞭である。日本人は支那民衆を助けようとし、支配者はそれを妨害する。汪兆銘が支那民衆を助けようとした例外であるように、陸伯鴻のような人もいたのだ。

 中国にはカソリックの宣教師がアメリカから派遣されていた。彼らは遠慮なく支那人に殺害されても本国には知らせないのだ。「過去23年間で二百五十人もの宣教師が中国兵や非俗に誘拐されて身代金を要求されたり、殺されたりしている。これに対して戦争が始まってから日本人に殺されたのは十人か十二人である。これらの事件が起きたとき、中国人に責任がある場合は知れ渡らないように目立たないように伏せられた。しかし宣教師が日本兵に殺された場合は、絶対数ではるかに少ないのに凶悪事件として世界に告知されたのだった。宣教師は中国の「目立つ場所」にいると・・・そこは中国兵と匪賊、共産主義者に取り囲まれているところであり、日本側に立って言えば、いかなる事情があっても彼らの死を意味するところと言われなければならない(P132)」。

 宣教師の殺害は日本人によるものであると宣伝されていたのである。そればかりではない。「支那事変国際法論」の書評で述べたように、戦闘中の地域に入り込んだ民間人が誤射されたとしても国際法の戦争犯罪とはならない。著者はそのことを言っているのであって、まことに公正な論表と言わなければならない。これに対して支那人は金品強奪のために誘拐殺害するので、戦争とは関係のない犯罪そのものである。

 いかに宣教師たちの嘘の報告がアメリカ本国に間違って伝えられているか。「中国のプロパガンダに利用されたこれらの幾つかの宣教師たちの恐怖の手紙と、著しい対照は泰安から来た二つの手紙である。書いたのは戦争を最も恐ろしい段階で経験していた司祭たちである。彼らは日本ではなく、中国の兵隊によるアトロシティーを非難していた。いわゆる非正規兵であるが、匪賊とほとんど変わらない程度の連中で自国民を獲物にしていたのだ。彼らは書く。『こちらの状況に関するアメリカの新聞報道は一方的であり、大袈裟すぎます。-しばしば本当のような嘘が反日のためのプロパガンダとしてはびこっているのです。我々は中国人に捕まり、殺された囚人の首が棒の先に突き刺されているのを見ております。中国の農民は中国の非正規兵による掠奪で一番苦しんでいるのです。もう匪賊と変わらない程度の軍隊なのです』・・・『日本兵は統率が取れています。そして我々をどんな形でも決していじめたりしません。・・・しかしながら日本人についての真実は語られておりません。彼らは私たちに親切です。泰安の爆撃の間、私たちの伝道施設はひどく破損しました。町の陥落の後、日本軍将校たちがやってきて、遺憾の意を表明しました。そして教会の再建用にと三千円を提供してくれました。また役に立つからと車を提供してくれ、宣教師の建物を保護するよう一筆書いて掲示してくれました。』(P135)」

 これが真実である。中国の軍隊が匪賊と同様で、彼らが略奪などの金稼ぎの目的で軍隊に入るのに過ぎないことはパール・バックの「大地」にも書かれている。大地は中国を美化しすぎていると論評されることもあるが、きちんと読めばそうでもない。唯一の欠点は、最後に登場する毛沢東の紅軍を、過去の中国になかった統制のとれた立派な軍隊であるかのような期待で書かれていることである。パール・バックは共産軍の本質を知る前に書いてしまったのである。

 アメリカ人が中国寄りのプロパガンダに乗せられるもうひとつの理由も書かれている。「我が国民に対する憎悪の感情を知って中国から帰ってくると、この国においては中国人へのほとんど感傷というしかない同情心を見出すのは皮肉なことである。もちろんこれはプロパガンダによって育てられているもので、一般的には多くの情報源がある。そしてこの国には母国を支援している中国人がかなり住んでいる。しかしアメリカで生まれた彼らの多くは中国に行ったことがなく、その生活のことも親の世代も知らない。それでいて母国に住む中国人より本当に愛国心が強い。アメリカ生まれの中国人が完璧に嘘偽りがなく、我国のアメリカ人のほとんどと同じように、冷酷で野望に満ちた征服者に侵略されていると本当に信じていることは疑えない。・・・彼らが救援と軍需品購入のために軍閥が送った巨額の金がどうなり、どう使われたかを追跡してみればいい。ただの一例二例でいい。このお金が軍閥どものポケットに直行し、預けられたにしても、一銭も救援や軍需品に使われていないことを発見するのはなんと恐ろしいショックだろうか。・・・チャイナタウンから航空機一機購入のために南京に送られた二万五千ドルのうち、たった五千ドルのみが最終的受領者の下に届いたという話は、上海のカフェで傑作な笑い話となっている。数百万ドル以上を注ぎこんでも日本と戦う飛行機が一機もなかったこと・・・」(P74)

 ここに書かれているのは現代にも通じる話である。いや、この本に書かれた全ての嘘とペテンが現代の中国にも通じる事実である。アメリカ政府にしても蒋介石政権につぎ込んだ何百兆円にも相当する金が軍閥の懐に入るだけで、何の役にも立たなかった。それにもかかわらず米国は経済的利益を求めて中国と「仲良く」しようとしている。日本も戦前膨大な西原借款を与えながら、得られたのは反日である。借款がびた一文も返済されなかったのは当然である。



○父たちの大東亜戦争・戦地シンガポール・スマトラの意外な日々・堤寛・幻冬舎ルネッサンス

 この本には戦闘の話は出てこない。しかし、副題の通り意外なことが多く書かれている。著者の父の戦地での話の聞き語りなのだが、戦後趣味の山登りやスキーには戦友と行き、家族とはほとんど一緒にいかない位、家族より戦友を大切にしたというのは理解できる。小生の父もそんなところがあったからだ。

 行軍の後宿営地で日本兵が酔って暴れて現地人に通報されて憲兵に捕まった。上官が謝っても許されず、将校が謝ってようやく許された。その後中隊長が訓示したと言うが、訓示は兵を非難するのではなく、中隊長の不徳であると結んだ(P79)。観測班で上官のいじめで自殺者が出ると、憲兵が厳しく追及した(P203)。憲兵の厳しさと軍律がきちんとしていること、将校たちのやさしさが溢れている。同様に、現地の放し飼いの水牛を食べたいと言って泥棒したら、現地人に損害賠償を追及されて往生し、部隊にも大いに迷惑をかけた、とあるのも、無法な軍隊ではないことを示している。

輸送用の駆逐艦について2000tで30ノット出るが、大砲は15cm砲が二門しかなく、大砲は人力で動かしているが、アメリカの軍艦の大砲は蒸気で動かしているからかなわない(P115)と書いてあるのは何かの聞き違いだろう。詮索すべき間違いではない。

 インドネシア独立戦争への日本兵の参加について意外な事が書かれている。スカルノが女と金に苦労させないと言ってリクルートしにきたというのだ。憲兵は威張っていてワルが多かったと言うのだが、独立戦争に参加したのは憲兵が多かったという。戦犯になるのを避けるためだった(P200)というが彼らの名誉を傷つけることではあるまい。オランダの戦犯に対する拷問虐待は凄惨なものがあったからだ。

 英軍の捕虜虐待もあった。捕虜を10キロ歩かせテントに10日もろくな給養もせず放置し、さらに50キロも歩かせた(P198)。いわゆる「パターン死の行進」と同じである。強制労働させていながら、1日の食事がビスケット9枚とイワシの缶詰1個である。それでも英軍兵士と同じだとでたらめを言うのだ。筆者の父は戦争中に50キロから70キロに太ったのに抑留中に57,8キロに痩せたと言うから、ジャングルで暮らしていた日本兵よりひどい食事なのだ。一年後に雑炊が出るようになったと言うが日本軍の倉庫の米を配給したからだ(P209)。

 連合国兵士の検問による略奪もある。時計を取っていくのだ(P199)。米軍も検査をするたびに日本兵の所持品を取っていく。逆に英軍将校の身の回りの世話をさせられていた筆者の父は、彼女にあげろというので色々な女ものの下着をくれたというのだが、結局段々米兵に取られてしまった(233)。小生の父も内地に帰還した時に米兵に時計を取られた。彼らは日本兵から取った腕時計をじゃらじゃらたくさん腕に着けていたのだと言う。まともな話は、英軍は作業日誌をつけさせて日本に帰ったら銀行で働いた分の賃金を払ってもらえ、と言われたが実際にもらえたと言う(P228)が、実際には日本政府が払わされていたのだろう。戦記ものだが、悲惨な話はない。副題の「意外な日々」というのは本当である。


○ホタル帰る
 九州、知覧の陸軍特別攻撃隊の基地の近くで食堂をしていた鳥濱トメという女性と、そこで最後の日々を過ごした特別攻撃隊の隊員の心の交流の物語である。私は近親が死んでも泣いたことはない。親友が死んでも泣けなかった。まして書物で泣くことはなかった。私の書評としては最初から最後まで滂沱として落涙して読んだとしか言えない。

○マオ
 おぞましいの一言である。図書館で借りたのだが、多くの図書館で購入しているのにもかかわらず、出版されてから1年間以上は貸し出し中で入手できなかったという人気のしろものである。毛沢東が何千万という単位の処刑や餓死者を出したとか、権力闘争に明け暮れていたなどということは常識になっていたはずであるが、あらためて凄惨で自己中心的な人生にあきれる。

 毛自身が残虐な処刑方法をいろいろ考えて実行させたこと。県長や地元の名士などはみせしめのために公開で処刑された。貧しい民衆ですら、処刑者を増やすために貧しい中から相対的に裕福なひとたち、(日本の常識では極貧)を多数処刑した。多数の地域が鉄条網で囲われ、兵士に囲まれて餓死に追い込まれる。追い立てる兵士ですら同情すると処刑されるという恐怖。こうして1箇所で二千人の人が餓死するのも珍しくはなかったという。

 実業家をつるし上げ財産を奪った結果、20ないし30万人の自殺者が出たという。上海のビルからの自殺者は川側に飛び込まず、道路側にみな落ちるので、不思議がっていたところ答えは、川側に落ちて流されて死体が発見されないと、香港に逃げたと思われて残された家族が迫害されるので、死体が発見されるように道路側に落ちるのだそうである。これはブラックユーモアにもならない。

 最初のうちはうわさや悪口をいっていたものの恐怖からうわさすらなくなり、毛沢東への賛辞に変わって言った。スターリンやヒトラーと異なり、殺戮は徹底的に外国に隠蔽されたから毛は自由主義諸国に信頼されていた。ブルジョアから搾取し虐殺して富を取り上げる反対に、毛沢東一人が巨万の富を集め、隠された多数の別荘で富豪の生活をしていたという。それどころか軍関係や別荘の看護婦あるいは女中のなかのごく若い女性を毛沢東のために提供させていたという。

 ここまで書いて私は毛の陰惨な人生と性格を書くのがつらくなった。こんな異常者が聖人としてあがめられていたのである。これを阻止し得なかった支那の人たちとはどういうひとたちであろうか。しかも今でも腐敗処理された毛の遺体は燦然と祀られている。そして文革や毛の時代の時代の諸悪は全て4番目の妻、江青以下の4人組の犯罪とされてしまった。

 一般にはこの書は日本軍の犯罪とされた張作霖殺害が、実はソ連の仕業であったことが書かれていることで注目されている。私にも日本軍の暗殺の動機が釈然とせず、重要なことだとは思ったが、読み進むうちに中国の歴史の全てがばかばかしく感じられた。



陰謀と幻想の大アジア・海野弘・平凡社

 本の大筋は、戦前戦中の日本がユダヤやイスラム、モンゴル、ウラル・アルタイと言った、アジアのみならず中東、中欧の諸民族との提携の模索や研究が深く行われていて、現在の日本の状況は、それらに遥に劣る、という壮大なものである。ウラル・アルタイ=ツラン民族圏と日本の関係や満洲にユダヤ国家を建てる構想など興味深いテーマが並ぶ。しかし所詮、筆者は東京裁判史観や親ソ親中思想に深く毒されていて矛盾が露呈して本論が矮小化されているように思われる。それがなければもっと深い洞察が出来て面白いものになるはずである。

 例えば内モンゴルのオロン・スムでスエーデンの探検隊が発掘した遺跡からの出土品が、戦後中国に返還された(P225)と書くが、たとえ内モンゴルは現在中共の領土であるにしても返されるべき相手はモンゴルのはずである。スターリンは強力にモンゴルをバックアップした(P210)といいながら、蒙古連合自治政府というのは、日本の傀儡政権だ(P204)と平然とダブルスタンダードを犯す。ソ連が傀儡政権を作ればバックアップなどというのだ。中共や北朝鮮、東欧のソ連の衛星国などは全て傀儡政権から出発している。

 また平然と、日本軍はハルハ河付近で軍事行動を起こした(P209)、とノモンハン事件を起こしたのが日本であると断定しているが、支那事変を戦っていた当時の日本はソ連と紛争を起こす理由はない。日本軍が計画的に軍事行動を起こしたのが、ノモンハン事件の原因である、という定説はない。だから、ばこのように断定するならば、その根拠を示すべきである。そればかりか、もし日本がノモンハン事件で勝っていたら、真珠湾攻撃による対米戦争はあったろうか、とし、ノモンハン事件は日本の南進政策への転機となっている(P210)という馬鹿げたことを言う。要するに戦争の原因は全て日本の都合による、というもので、世界の流れにおける日本の位置というものは考えもしない。まさに東京裁判とGHQがたくらんだ、日本罪悪史観に見事に洗脳されている。この本のテーマが、せっかく日本と多くの異文化の接触の体験という壮大なものであるのに、実にちぐはぐである。


 大東亜戦争がアジア諸国の解放をもたらしたという点は否定できない、と言いながら、もし勝っていたらアジアの解放はなかったかもしれない、と書くのは(P258)余計である。日本に勝機があるとしたら、インド独立などのアジア解放が必要だからである。筆者はGHQに洗脳された人間の特色として、西欧に対しては国家エゴは必要で当然であるとしながら、日本の対外行動に対しては完全無欠な自己犠牲の行動でなければ正当化できないと考えるのである。

 意外なのは、「以上の例でもわかるように、大東亜戦争における南方謀略工作は単なる日本の謀略、戦略だけではなく、東南アジア諸民族の独立のための地下運動との関係で読み直すべきではないだろうか。」と書いている事だ。当然ではないか。日本が東南アジア解放を目指したのは、日本のためだったのは当然ではあるが、それが独立運動と連携することなしに成功するはずがないし、成功したのである。たとえ国家エゴを内包していたとしても日本はアジア解放という歴史的できごとを為したのである。日本では産業革命を讃えるが、それは西洋人が純粋に金儲けをしたいと言う動機と知的好奇心が一致したものである。産業革命と呼ばれるようになったのは結果であって目的ではない。しかし一方で、生産物を輸出し原材料を奪うためにアジア・アフリカ地域を植民地化し、その混乱は特にアフリカでは収まっていないと言う甚大な悪を為したことも忘れてはならない。日本人は産業革命の陰の部分に無邪気過ぎる。

 またジョイス・C・レブラの「チャンドラ・ボースと日本」の序で「日本の歴史家たちは、東南アジアにおいて日本が大東亜共栄圏に托した理念、実現の方法などを吟味することに今まで消極的であった」と書いている事を紹介している。この文言を著者は、モンゴル研究や満洲イスラエル構想など、日本が過去に広くアジアで行った事績を忘れ去った、という平板な意味で捉えようとしている節があるのだが、もっと素直に読むべきであろうと思う。いずれにしても、著者の戦前戦中に対する捉え方の振れが大き過ぎてせっかくの着想が「日本帝国主義」という悪罵で矮小化しているように見えるのは残念である。

 モンゴルに作られた西北研究所について、かの梅棹忠夫が著書で、敗戦直前にモンゴルで純粋でアカデミックなのんびりした研究ができたことを懐かしく回想している事に対して、日本がモンゴルに「純粋にアカデミックな研究所」を作ったと梅棹は本気で信じていたのか(P200)と批判している。さらに1981年にかの地を再訪した梅棹が、なつかしさをのどかに記しているのに対して、この感傷旅行には、戦争はまったく影を落としていない(P204)とも書く。梅棹は戦争責任について反省すべきだと言うのだ。同じ時期に同じ研究所で働いた磯野氏の妻が戦後の感想で「西北研究所の楽しき日々は、日本帝国主義に守られていたものであった」という主旨のことを想い、夫はそれに強い痛みを感じていた(P205)のに梅棹にはなぜかみられないという。筆者は戦前と戦後の梅棹の姿勢が一貫している事をタフだと批判するのだが、私には世間の風潮に迎合しない一貫した梅棹の姿勢が素晴らしく思われる。

 この研究所が日本帝国主義の先鋒であったなどという者に限って、日本が勝っていれば平然と別な事を言うのだ。磯野氏は現実にモンゴルで研究をしていた当時その痛みを感じていたのかどうか疑問に思う。戦後世間が変わったから痛みを感じているのではないか。現に筆者は、戦前転向し、戦後再度転向した人物を、何の説明もなく転向し、しかも世間もそれを黙って受け入れたと批判しているではないか。要するに世間は迎合するものは批判しないのである。家永三郎は戦後のある時期まで典型的な「皇国史観」の論者であった。ところが何の説明もなく転向し皇国史観批判を行ったのに、多くのマスコミは絶賛する。何と典型的な転向者の家永を一貫した信念の持ち主と持ち上げるマスコミすらあるのだ。

 最後に興味深い記述をひとつ。日露戦争で日本が勝利するとソ連からイスラム系トルコ人が日本に亡命し、「かれらは主としてイディル・ウラル・トルコ人に属し、タタルと俗称されてゐるものである」「いわゆる白系露人といわれたのは大部分、この〈タタール人〉であったらしい」(P178)という。ロシア革命後、満洲にも白系露人が亡命して住んでいた話があるが、タタール系と言われる人たちなら納得できる。


勝つ司令部 負ける司令部・東郷平八郎と山本五十六 生出寿

 「凡将山本五十六」の著者だから内容は想像できる。対米戦に反対で三国同盟に反対していたからと、信奉者が多い山本だが、軍人としての山本は欠陥だらけだと言わざるを得ない。山本の気概とは、日米戦争が始まったら「さすが五十六さんだけのことはある」と言われたいという意味の手紙を郷里の友人に送っている(P43)という人なのだ。一方で対米戦が長期は持たない、と言っておきながら、これは見栄っ張りというべきであろう。いい格好したい、という気持ちで指揮をとられたら前線で闘う兵士はたまったものではない。筆者同様、小生も山本も開戦後の派手で隙だらけの行動から推定して、さきの手紙が身命を賭して闘うと言う決意を表わしたものとは到底思われない。

 ラバウルでの飛行隊の出撃を、皆が着ている緑の第三種軍装ではなく白い第二種軍装を着て山本とその参謀がパイロットを見送ったことについて「大西が開戦後の山本、白い服を着て若いパイロットたちに神の如く崇められていた山本をどんなに忌み嫌っていたか、私の脳裏のテープレコーダーは、父の声で何百遍もくり返しております」という手紙(P313)を紹介している。大西瀧治郎は「山本の白服は芝居だとみていたのだろうか」と書くがそのとおりであろう。大西は生粋の軍人だったのである。大西は毀誉褒貶の多い人物だが、山本の見栄を極度に嫌ったのは納得できる。

 山本はマレー沖海戦に出撃した中攻隊が出撃すると英戦艦を撃沈できるかどうかと参謀とビールを賭け、ミッドウェーで南雲艦隊の攻撃隊が発進しようとするときに、部下と将棋を指し始めた(P69)。「部下が生死を賭けて戦っている最中に、それにビールを賭けたり、将棋を指すなどとは、長官、参謀とも、ふまじめな振舞いとしかいいようがない。それをだれも止めようともしない山本司令部というのも、マトモなものとはいえないであろう。」というのは本当である。山本は戦闘中に最高指揮官は何をすべきかを知らなかったのではないのか、とすら思える。だから賭けをしたり将棋を指したりして暇をつぶしていたのだ。

 実は攻撃隊が発進しようとしたのではなく、防空の戦闘機が発進しようとしていたのであるが、いずれにしても、戦闘中の総指揮官のやるべきことではなかろう。既に艦隊は雷撃機に襲われていたのである。陽気で冗談ばかり言うと言われる米軍でもこんな指揮はしない。職務放棄である。東郷は日本海海戦で参謀が防弾堅固な司令塔に入ってくれと言われた東郷が「自分はとしをとっているからここにいる。みなは、はいれ」と言って(P291)陣頭指揮をとりT字ターンのタイミングと発砲のタイミングを自ら命じたのは有名な話である。日本海開戦前には、東郷は毎日朝から晩まで弁当持ちで訓練の状況などを視察して回って歩いた。米海軍のニミッツは若い頃から東郷を尊敬して学び合理的で堅実な作戦で日本海軍と戦ったと「あとがき」に書くが、山本を尊敬し学ぶ米海軍軍人はいまい。

 山本の指揮の不徹底は多い。真珠湾攻撃で参謀が一致して「もういちど真珠湾施設を攻撃してこれを徹底的に爆砕するよう、また敵空母部隊をもとめハワイ列島を南に突破する作を敢行すべき」と山本に上申すると、山本は自分もそれを希望するが被害状況がわからないから指揮官に任せる、と言った上に「南雲はやらないだろう」と付け加えた(P93)と言うが指揮任務放棄である。南雲中将に皆任せると約束したから、というのだが、そもそも遥かかなたの瀬戸内海にいたのだし、遠方にいてもいいが指揮に必要な情報を集めて分析、判断し指示する努力すらしていないのだ。山本の真珠湾攻撃の意図は、開戦劈頭に米海軍に徹底した損害を与えて、米国の士気を喪失させ短期講和に持ち込む、はずだったのだから、この判断は全く矛盾している。

 ミッドウェー海戦でも大和が米空母らしい無線を傍受すると山本は「赤城『機動部隊旗艦』に知らせてはどうか」と進言すると参謀たちは無線封止中だし、赤城も受信しているはずだ、と反対されて止めてしまった(P174)。連合艦隊司令部が無線封止を理由に反対したのは、山本自身の艦隊の位置がばれて米潜水艦などに狙われるのを恐れたと書くが、その通りである。むしろ南雲艦隊から500キロも離れた山本司令部の船が無線を発信すれば、米軍に南雲艦隊の位置を大きく誤認させる陽動作戦にすらなる。その後例の利根四号機が敵空母発見の第一報を発信すると山本は「どうだ、すぐやれといわんでもいいか」と聞くが事前に指導してあるから無用だと反対されるとまたもや引っ込めてしまう。山本は、戦闘中の重大な判断も部下に反対されると撤回を繰り返してばかりいる。山本は何を指揮していたのだろうか。

 ミッドウエー敗戦が明らかになると、山本は南雲らをかばい、敗戦責任を究明し責任者を首にしなかったのは、部下の責任を追及すると自らの責任も取らなければならないからだ(P189)と書く。米国は真珠湾の陸海軍の責任者を査問しなかったが、辞職させた。査問しなかったのは機密の保持という理由があった。機密は未だに明らかにされていない。草鹿少将などは「将来ともできることなら現職のままとして貰い・・・」(P186)と言ったとして筆者は軽蔑的言辞を書いている。当然である。黄海開戦で駆逐対が残敵掃討で攻撃が消極的なため全く雷撃の戦果をあげなかったとして、参謀の助言で、東郷は全駆逐隊の司令と艦長を全員更迭した(P218)。山本の処置は日本的人情人事とばかりは言えないのである。本書には書かれていないが、ミッドウェーの敗戦を隠すために下級兵士を隔離したり過酷な戦地に送ったりしたのは有名な話である。自分たちが責任を逃れながら、兵士に過酷な処置をしたことは山本司令部も関与しているはずなのである。

 戦訓の学び方にも東郷司令部と山本司令部には差が大きい。黄海海戦は勝利したとは言え不徹底であった。しかし海軍はその教訓を学び訓練し戦法を改善した。珊瑚海海戦では日本海軍は勝利したと判断した。しかしレキシントンの沈没は気化ガソリンへの引火というラッキーパンチによるもので攻撃隊の損害は日本海軍の方が大きかった。空母祥鳳は雷爆撃で滅多打ちにされて沈没した。日本空母の搭乗員は米海軍の防空能力に恐れをなしたと言ってもいい位米軍の防空陣は厳しいものであったと言う事実は戦記を読むと分かる。この戦訓を航空戦隊指揮官が山本や参謀たち司令部に報告したが無視されて戦訓としようとはしなかった。(P126)その戦訓はミッドウェー海戦に役立つものであった。山本司令部は珊瑚海海戦の実情を知らず、米空母など鎧袖一触、と公言する者が多かった。連合艦隊の解散に当たって東郷が「勝って兜の緒を締めよ」と言い、参謀の秋山が、日本海海戦は奇蹟の連続であった、と言っているのとは大違いではないか。

 なお、珊瑚海海戦は、じっさいには、大平洋戦争中の数ある海戦のなかで、指折りの勝ち戦であった(P132)というのは承服できない。作戦目的のポートモレスビー攻略は阻止されたからである。ポートモレスビーは補給が続かないからしなかったからかえって良かったと言うこととは別である。海戦とは補給や上陸作戦、補給阻止や上陸阻止などの作戦目的の遂行の結果生起するもので、海戦そのものが作戦目的ではあり得ない。戦闘で大きな損害を与えたか否かより作戦目的を達成したか否かである。日露戦争の陸戦などはほとんど日本軍死傷者が多い。第一戦闘に勝ったと言われる珊瑚海海戦ですら航空機と搭乗員の損失は日本軍の方が多い。大東亜戦争の主要な海戦で日本海軍は作戦目的を達成したことは一度もない。ガダルカナルの上陸以降一度も米軍の上陸を阻止したことはない。硫黄島で水際阻止をせずに上陸させてから攻撃して大きな戦果を上げたと言うが、これは戦略の常道ではない。上陸側の体制が整わないうちに行う水際阻止が正攻法で正しいのである。日本軍が水際阻止に常に失敗したのは、上陸する艦隊に対して早めに、阻止する艦隊を適時に派遣することが一度もできなかったのである。もちろんベストなのは、ミッドウェーや珊瑚海海戦のように上陸前に撃退することである。硫黄島の戦いのように上陸を許した上に、艦隊の援護がなければ、いくら敵に大きな損害を与えてもいずれ占領されるのは間違いない。

 筆者は日本海軍が戦艦による艦隊決戦主義に囚われて航空中心に転換しきれなかったというのは間違いであると言うがその通りである。そもそも日本海軍は空母が健在のうちは戦艦で戦おうとしなかった。しかも海軍航空部隊の戦果は少なく、損害ばかり甚大だった(P235)。山本はこのことに気付かずにい号作戦で艦上機を陸上に挙げて漫然と艦隊攻撃して損耗した。筆者の提案は空母に戦闘機だけ載せる位徹底して艦隊を護り、大砲と魚雷による攻撃をする、というものだが、珊瑚海海戦や南太平洋海戦などの勝利といわれる海戦を見てもその通りである。以前から小生が言うようにレーダが無くても米海軍の防空能力は日本海軍とは隔絶している。

 日本艦隊の主砲の命中率が悪かったのは、アウトレンジ戦法によって遠くから打っていたからであって、東郷艦隊のように肉薄攻撃すれば、日本戦艦や重巡の実弾射撃訓練の実績からも米軍の三倍の命中率を上げるのは可能であった(P243)、というが私にはそうは思われない。以前「海軍の失敗」で紹介したように、大和級とアイオワ級戦艦が初弾の命中を得るのに要する時間は、射撃法と火器管制システムの差から数値計算して、二倍以上の差があるから、大和はアイオワに負けると断言している。小生はこれが正しいと思うのである。

 山本が愛人に手紙でミッドウェー海戦の予定を間接的に漏らしていた事は省略する。だが連合艦隊の贅沢三昧にはあきれる。大西中将が昭和一七年二月に南方作戦から帰って山本を訪問すると長時間待たされるので勝手に入ると、莫大な慰問品や内地の名産などに囲まれた山本は、返礼の手紙を書くのに忙しかったのだと大西が知人に証言している(P164)。山本と参謀たちでの大和での食事は、軍楽隊のクラシックや軽音楽の演奏つきで、フルコースのフランス料理である。夕食は好きなものを注文しステーキでも何でも出、ビール日本酒ウイスキースコッチなど何でもある(P163)。ガダルカナルに派遣されていた陸軍参謀のかの辻中佐がトラック島の大和に言って「・・・将兵は、ガンジーよりもやせ細っている」と補給を訴えた。夕食でいつもの豪華な料理が出ているのを見て辻が怒ろうとすると、副官が、辻のように前線から帰ってくる人をねぎらうのだと誤魔化した(P254)。自分たちが贅沢三昧をしている間にも、兵士の飢えていることを知ったはずの山本司令部の感覚は尋常ではない。評判の悪い辻だが自らガダルカナルの戦場に赴き、兵士の惨状を見てガダルカナル撤退の上申をして実行させたのは他ならぬ辻である。辻の参謀としての指揮は人間性を非難されるが、この場面では辻の方が山本司令部よりよほどましである。

 国際法にも一言しよう。宣戦布告に先だって日本海軍が旅順港を攻撃したことを「日本は卑怯な不意打ち攻撃をした」とロシアが批難すると、米国の国際法の権威が、開戦前に外交断絶していることや公式の宣戦布告が必要だと言う確定した原則はない、として日本を弁護した(P76)。以前支那事変の国際法の研究書で紹介したように、大東亜戦争当時も宣戦布告なき「国際法外」の事実上の戦争が認められていたのだから真珠湾攻撃を弁護する余地は充分ある。単に日露戦争は米国にとって都合良かったので擁護論が通り、大東亜戦争は参戦のきっかけに米国には都合良かったので擁護論は出る余地がなかったのに過ぎない。

 山本の巡視による戦死には「覚悟の自殺」、という説を筆者は否定するがその通りであろう(P320)。山本は考えが甘く、スキを衝かれた(P324)のであろう。米軍を舐めていたのであろう。そのことは真珠湾やミッドウェーの手抜かりと同じ(P324)なのだろう。とにかくハワイやマレー沖海戦の戦果による航空戦への過信や情報管理の大甘さが山本の欠陥である。山本が頭部と体への被弾により機上戦死という俗説を記しているのも、海兵出身の元軍人としては不可解である。何度も他のコラムに書いたと思うが、P-38の12.7mmや20mm機銃弾を頭部に受ければ、頭はまともな状態で残らないが、あらゆる記録は例外なく、山本の頭部に大きな損傷はなかったとしている。筆者は分かっていて疑問を呈さずにいたとしか思われない。

 筆者の言うように大東亜戦争を日露戦争のように勝利するのは困難であるにしても、もっとましな戦い方はあったのだろう。かの井上茂美の「日本は多数の潜水艦をハワイ、米本土に配し、米国の海上交通破壊戦をおこなう・・・」という提言を戦前出していた(P158)が傾聴すべきものである。米本土はともかく、ハワイは占領しなくても潜水艦により封鎖すれば、米本土から西太平洋の戦地への補給や軍艦の移動はできないから米軍は日本軍と戦えないのである。井上は戦闘下手と言われたが山本より戦略眼はある。ともかく日本軍兵士は大東亜戦争をよく闘ったと考えるものである。


○我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実 田中徳祐復刊ドットコム

 この本の書評を書くのは気が重い。米軍の残虐行為を書くのが主だからだ。同胞がかつて非道なことをされたことは辛い事実だからだ。


 米軍はサイパンでも日本人の若い女性をスパイに使った(P67)。同じことを沖縄でも行った記録がある。米軍は捕獲した現地にいる民間の若い女性を洗脳してスパイとして使うと言うから非道いことをするものである。サイパンではこのスパイたちが隙を見て、指揮官を射殺すると言う。日本人同士が疑心暗鬼になって殺し合いをしてもやむを得ない恐ろしい計略である。また島の水源地に毒薬を入れ住民や兵士が多数犠牲になった(P67)。

 戦車を先頭にした歩兵がジャングルを機銃掃射すると「子供、兵士、動けない重傷者が見る見る射殺されて行く」。また野戦病院が戦車に蹂躙された(P70)。米軍が日本軍野戦病院に入り込み、負傷者を殺していくということは他の戦線でも知られている。

 多数の日本兵や民間人の屍が転がっていると「敵兵が、その屍を銃剣で串ざしにしてあざけり笑っている。そして所持品まであさりだした。」(P113)全部確実に死に絶えているとは限らない。とどめをさしているのだ。米軍特に海兵隊は徹底的に負傷者を殺していったのは自ら認めている。だから玉砕とは米軍により負傷者を殺して生存者がいなくなった結果である。機銃掃射を受けても死者の3倍程度は負傷者が残るものであって全員が死亡するはずがない。米軍が死体から所持品をあさって土産物にするというのもどこでも見られた光景である。生死にかかわらず日本兵から金歯を抜きとっていったというもよくあることである。

 ここからは筆にし難い残虐行為が書かれている。数百人の民間人を捉えた米軍は婦女子全員を全裸にしてトラックに積み込んで「殺して」と泣き叫ぶ女性を無理やり運んで行った(P138)。以前にもこのようなエピソードを読んだとき違和感を感じた。なぜわざわざ裸にするのだろうと。謎は解けた。島を逃走して復は汚れきってボロボロだし、着衣では性別が分かりにくい。特に西洋人には小柄な日本人の性別は分かりにくい。米兵は女性であることを確認したのだ。もちろん彼女らは生きて帰らない。証拠を隠滅するから人道的な米軍という与太話が残るのだ。

 米兵は性欲が強い。しかしこのような離島では歓楽街もない。だから米兵は日本女性を集めたのである。トラックを公然と使った所を見ると上官は兵士の行為を黙認したのである。ロシア兵と米兵の違いは集団強姦行為を推奨するか黙認するかの違いである。民間人がいた多くの島嶼戦では必ずこのような行為が行われたはずである。もちろん沖縄でも。そして「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきて下さい」と呼びかけながら、追い立てられて集められた数百人の子供と老人を滑走路に集めて、ガソリンをまいて焼き殺した。火から逃げる人たちを蹴ったり銃で突き返して火の海に投げ込む。隠れて見ていた日本兵がたまらず一発撃ってもおかまいなし。二人の兵士が泣いている赤ん坊を股裂きにして火の中に投げ込んだ(P139)。多数の人間を集めて、ガソリンをかけて焼き殺すなどという事は通常では困難である。だがサイパンの民間人は逃亡で飢えて疲れきって、ほとんどが地べたに寝転がって動けない状態だったのに違いない。さらに米軍には日本の民間人を殺す理由がある。兵士たちは欲望のために日本女性を集めた。だからそれを目撃した民間人に生き残っていてくれては困るのだ。これらの行為が上官の命令で行われたていたのかは明瞭ではない。しかし、兵士たちに不満をためさせないために、強姦を黙認せざるを得なかったとすれば、目撃者の殺害も黙認したとしか考えられない。日本軍に比べ情報管理は徹底していたのである。

 ジョン・ダワーの人種偏見という本だったと記憶している。日本兵が投降しなくなったのは初めに米兵が日本兵捕虜をひどい殺し方をして虐殺していったのでそれを知ったからだというのだ。特に海兵隊の多くの司令官が「捕虜は取らない」と公言している。つまり殺すのだ。このような残虐行為を聞くとさもありなんと思う。日本では島嶼戦の住民の集団自決が問題にされる。好んで島民が自決するはずがない。米軍の残虐行為は死よりまさるのだ。強姦された挙句に殺されたり焼き殺されるよりは、ひと思いに死にたいと思うだろう。

 意外であったのは、米軍が洞窟攻撃に毒ガス弾を使った(P146)ということである。それもくしゃみ性などというものではなく、致死性の高い物で老人や子供、重傷兵などの体力のないものから次々と苦悶して死んでいったという。あまりの苦しさに手りゅう弾で自決する兵士が出ると言うものすごいものだ。中国兵も対日戦に毒ガスを使ったと言う記録がある。インターネットでは、日本で生産保存された毒ガス弾の話題が書かれているが、これらは実戦では使われなかったものと思われる。毒ガスによる報復攻撃を恐れたからである。まして戦況が不利になったら尚更使えない。米軍は報復の心配がないから使ったのであろうが、大規模なものではなかったとは思われる。

 洞窟から逃げた著者が意識を失って気付くと、青竹で婦人を串刺しにした死体があったと言う。また同じ洞窟にいた兵士や住民が五体バラバラに刻まれていた、というのだが筆者自身がやられなかったことを不思議に思っている。(P147)恐らく米兵は生きて苦しんでいる日本人にとどめをさしたのであって、筆者はピクリともせず死体に見えたのだろうと考えると合点がいく。

 米兵が穴を掘ってブルドーザで落としこんで日本人の死体を埋めているのを見て筆者は死体の残酷な扱いを憤っているが(P158)、これが普通の日本人の死生観であると思う。谷間には追い詰められて火炎放射機で焼き殺された、民間人や兵士の大量の焼死体を目撃している(P158)記録映画でも米軍が火炎放射機で日本人を掃討する光景があるが、見かけは近代的な兵器だが、考えてみれば、人を焼き殺すと言う残忍な兵器である。許し難いのは戦闘が落ち着くと米軍の残虐な遊びが増えることである。最初のうちは殺した日本人は放置していたが、後には死体を切り刻んでいた(P173)というのだ。ジャングルの掃討は最後になると困難になって米兵は憎しみからか、耳を切り取り手を切断し、戦果の証拠とするために首を切って持ち去った(P191)というから日本人にはできない行為である。耳を切り取るというのはベトナム戦争の米軍が行っているし、イギリス人は植民地のインド人の手首を切り取っているからあり得る話である。

 母子の虐殺遺体は、母は腹を銃剣でそこらじゅう刺され、陰部は切り取られ、子供は原型をとどめないほど顔面を殴打されて殺されていた(P178)。筆者たちは砲弾跡に埋葬して線香代わりに煙草を備えたが、これも遺体に対する平均的日本人の行為である。米兵が頭蓋骨で遊ぶ光景何箇所かに見られる。頭蓋骨頭皮を剥いで射撃の的にしたり(P173)骸骨を集めてジープの前に飾ったり、小刀で加工して土産にしたり(P181)である。米兵が日本兵の頭蓋骨を土産にして、それで遊んでいる婦人の写真が米国の新聞にすら平然と載ったのは事実である。だから著者の記述には信憑性がある。米兵のこのような行為は前線の日本兵が知るよしもなく、戦後はそんな話は日本人には隠されたから、筆者は噂で嘘を書いたのではなく事実を目撃したのに違いないのである。支那人の言う嘘の日本兵の残虐行為は、日本人ではなく支那人ならではの行為なのでばれる。筆者の証言は米国人ならあり得る話だから信憑性がある。

 ともかくも、米軍の残虐行為を本書から抽出したのは、人道的な米軍というのが戦後日本人に植えつけられた虚偽であることを言いたかったのである。ふたつだけ付言する。かつて米軍がこのようなことをしたということと、日米同盟の是非論とは別に切り離して考えなければならない。また支那軍は米軍より遥かに残虐非道な人たちである。物事は相対的なものである。だから日本軍は世界で最も規律正しい軍隊であったのである。


○ルーズベルトの責任 日米戦争はなぜ始まったか チャールズ・A・ビアード・藤原書店

 どうでもいいと言えばどうでもいいが、翻訳に一点だけ気になることがある。「戦艦」という言葉がよく出てくるのだが、これが軍艦を意味していると思われる場合が多い。ルーズベルトが戦艦ポトマック号に乗って出かけたと書かれているが(P171)、ルーズベルトが航海に愛用した、海軍のUSSポトマックはわずか600t余だから、駆逐艦ですらない。明らかに軍艦と訳すべきものであろう。ところが、駆逐艦や巡洋艦と書かれている箇所もあるばかりではなく、実際に戦艦と訳すべきところを正確に戦艦と訳している箇所もあるからややこしい。最後の戦艦アイオワ級さえ退役して、現役の戦艦は世界中に存在しないにもかかわらず、どこどこの戦艦がと呼ぶ人たちが未だにいる。彼らは軍艦と言いたいのである。

 本書は精緻な学術研究書である。実証のために議会とマスコミの報道をこれでもかという位に並べている。最初は武器貸与法が、欧州での戦争に参戦するきっかけになるから反対である、という意見と、その反対に英国を強化するから参戦を阻止すると言う議会でのやり取りである。後者は詭弁に等しい。かつての国際法は交戦国への戦争関連物資の供与は国際法違反であったが現在はそうではない、などととんでもないことを主張しているからだ。現に同時期の支那事変の日本への石油や鉄くずの輸出は、国際法上の戦争ではないから許される、という立場をアメリカはとっているのである。

 ドイツが国際法違反を主張しないのはアメリカの参戦を恐れているからである。中立法の改正というのは、武器の交戦国への輸出は中立違反ではないというとんでもないものである。中立法は国際法の中立違反を、国内法で勝手に合法としたものである。米国は一般的に西欧諸国に比べ、国際法に対して厳格ではなく、自己都合で行動すると感じられる。さらに英国に支払い能力がないから武器を「貸す」ということにしたのが武器貸与法である。武器は消耗品だから貸すとほとんどが返ってこない。それどころかソ連などは武器貸与法で借りた膨大な数の軍用機などが残っていても全く返していない。

 次は物資の英国への輸送にパトロールと称して、実質護衛をしていることへの議会での賛否両論である。これも賛成派は武器貸与法と同様に詭弁を使っている。ルーズベルトとチャーチルが会談した大西洋会談も同類で、ルーズベルトが参戦の約束をしたのか否かという論争である。パトロール部隊がドイツの潜水艦を攻撃したのは、潜水艦の攻撃以前に、政府からの命令があったのではないか、という議論もされている。真珠湾攻撃を受けた時の海軍のキンメル大将と陸軍のショート中将を職務怠慢として政府が攻撃し、退役せざるを得なくなったことについても議論があった。

 戦争中に二人を軍事法廷で裁くことは、軍の機密を漏らすことになるので、戦争に不利をもたらすと言うので訴追されなかった。戦争の勝利が確実になりつつある時期にも訴追されないのは、政府や陸海軍上部では日本の真珠湾攻撃の可能性がある情報を持っていたにもかかわらず、故意に両将軍に知らせなかったためではないかという疑惑である。また来栖特使との交渉が始まると、太平洋艦隊はずっと真珠湾に集結停泊していた(P375)という。これは戦争準備だと言うのだ。また真珠湾攻撃の72時間前にオーストラリア政府から日本艦隊が真珠湾に向かっていると本土の米政府に警告し、警告は再度行われたが、この情報はハワイのショート中将には伝達されなかったと、ハーネス議員が陸軍委員会で追求した(P377)。さらに太平洋艦隊を真珠湾に集結するのは日本に艦隊を全滅させられる危険がある、と反対した海軍作戦部長をルーズベルト大統領は通常の半分の任期で解任したと言う(P391)のだ。疑惑は武器貸与法の賛成者やパトロールの賛成者が欧州戦争に参戦したがっているのではないか、ルーズベルト大統領も同様だったのではないか、ということである。真珠湾攻撃情報の隠匿も疑惑である。上巻では全てが状況証拠による疑惑に過ぎず、文書等による決定的な証拠は提示されていない。

 ひどいのは、米軍がグリーンランドを占領した件である。米政府はドイツに利用されるのを防止するために、グリーンランドを「侵略」したのである。アイルランドの米軍進駐も同様である。ところが記者会見でこのことを聞かれると「それは初耳だな!私が眠っている間の事に違いない(P31)」と笑ったと言うのだ。この当時のアメリカ大統領はマスコミも歯牙にかけない独裁者であったのだ。多くの日本の識者は日本の北部佛印進駐などをアメリカを挑発したというが、これは米英による武器輸送の仏印ルートの阻止であり、本国のフランス政府とも協議している。グリーンランド占領はもっと乱暴で、ドイツに宣戦布告したも同然である。日本の対支政策を米国が批判するのは勝手だが、禁輸などの戦争行為を実施されるいわれはない。アメリカはドイツを直接挑発したのである。

 なお、昭和16年3月のギャラップ調査では米国民の83%が外国の戦争に参戦するのに反対(P111)であったというのだがあてにはならない。人は戦争に賛成か反対かと言われれば、無反対というに決まっているからだ。現に国際法上の参戦となる中立法の改正や武器貸与法は圧倒的多数の賛成で成立した。この背後には多くの支持者がいるからである。アメリカの有権者やマスコミはこれらの法律の意味を知らないほど愚鈍ではない。戦争には反対だが、英国の崩壊とナチスドイツの台頭は許さないのである。即ちこれは参戦を意味する。現に駆逐艦への独潜の攻撃に対して反撃したと大統領が発表するとホワイトハウスに膨大な反響が届き、8対1で好意的だったというのだ。ここまでが上巻である。

 下巻だが、結局は状況証拠であった。例によって色々な報道や関係者の意見を倦むことなく提示する。ニューヨークタイムズ紙の昭和20年9月1日付けの新聞にハルノートについて「・・・合衆国政府が意図的に日本を、高圧的で独断的な難題でもって挑発し、戦争に追い込んだのであり、日本がわが国を真珠湾で攻撃したのは、この「最後通告」に対して唯一回答可能な返答をしたのだった、という結論を下しても、許されるのかもしれない」(P453)と書く。

 戦後もアメリカではルースベルトの開戦に至る政策を擁護する多数派と故意に日本を戦争に追い込んだという少数派の議論があった。多数派は真珠湾攻撃はいわれなき侵略行為であり(P480)合衆国の外交政策と行動は、日本のこの国に対する攻撃を正当化するような挑発行為にはまったくあたらなかった(P481)というものである。

 これに対して議会の委員会で少数派はスティムソン、マーシャル、スタークらの陸海軍首脳の会議で「次の月曜日(12月1日)にも攻撃される公算が高いとし、わが国にさほど甚大な危険を招くことなく、奴ら(日本)が最初に発砲するように誘導するか、という問題を議論した(P496)という結論を提示した。

 だが、多数派ですらルーズベルト政権が単に対日戦絶対反対ではない。当時の国務次官補のパーリーは中立と孤立主義からの転換を1938年頃だと見ている。その証拠は1937年10月のルーズベルトの隔離演説である(P561)としているが、隔離演説は秘密でも何でもない。何とルーズベルトの追悼演説にすら、武器貸与法などの連合国への支援があきらかな参戦行為でありながら「大統領はこの一連の込み入った動きに携わりながらもわが国による侵略行為が外観として現れることすら回避すべく巧みに遂されたのである。」(P564)としているのは当然であろう。武器貸与法やアイスランド占領などが参戦行為だと言わないのは児戯に等しい。

 親日派として知られるグル―大使ですら「・・・日本の制度、政治、党利、そして調和を重んじる日本国民と好戦的な軍国主義者の間の激しい対立によく通じていた」(P669)と書くのは著者の見解でもあろうる知日派と言われる人たちですら、日本人を理解をしてはいなかったのだ。興味深いのは、日本の外交暗号は解読されて「マジック」と呼ばれ、日本側の日米交渉の意向は全て米国に筒抜けになっていたことは以前から知られていたが、このことを公式に認めたのは1980年であったということだ。

 著者の独自性はこれらの状況証拠を執拗に追求したことではない。多数派は、「ヒトラーの専制政治を打倒するために」必要だと言われた戦争を開始するためには国民を欺くことさえやむを得なかったということを念頭において詭弁を弄した。少数派は「ヒトラーに対して中立であるという考え方自体が一九四一年に恥ずべきものだったとするならば、テヘランやヤルタで平和と国際的友好の名のもとに交わされた約束はどう評価されるべきなのか。」(P757)として結局は「ヒトラーの体制に劣らず、専制的で非情な新たな全体主義政権」(P756)を強化したことを非難する。

 著者がこの本で追求したかったことは、ルーズベルトが詭弁を弄して国民を欺き戦争を開始したこと自体にあるのではない。目的が違法な手段を正当化することにより、憲法のもとで議会に与えられた権限を欺瞞により実質的に大統領が奪ってしまったことを言いたいのだ。そして議会制民主主義を破壊しかねないことだ。こうしたことがかえって専制の危険をまねいたことである。そのことをエピローグで執拗に訴える。

 「・・・合衆国大統領は再選を目指す選挙の議会の運動期間中に、この国は戦争に参加することはないと国民に対して公の場で約束しておいて、選挙に勝利した後、国に戦争をもたらすための、あるいは戦争をもたらすことが事実上必至の行動に密かに乗り出してよいことになる。」「合衆国大統領は、その秘密の目的を推進する法律を成立させるため、連邦議会と国民に、その法律の趣旨を偽ってもよいことになる。」「アメリカの軍隊を投入して第三国の領土を占領することを、実際に合衆国大統領として約束しておきながら、公式発表では新たな約束は交わされていない、と宣言してもよいことになる。」「・・・いかなる条約の同盟よりも、合衆国の命運にとってはるかに重大な影響をもたらす秘密合意を外国政府と結んでよいことになる。」「合衆国大統領は、特定の外国政府を合衆国の的であると勝手に決めつけて、そうした国に対してこれまでのところ、合衆国で受け入れられ強制されてきた国際法の原則と国内法の違反して、随意に戦闘を起こす権力を求めることができ、連邦議会も従順にこれを大統領に付与できるということになる。」(p762~763)

 引用はこれで充分だろう。この著書を書く以前からルーズベルトの政策に批判的であったビアードは第二次大戦戦勝のムードから大きな批判を受け、中傷もされたという。当然であろう。このような米国人を見るたびに思うのは、日本では異論は受け入れられない雰囲気がある、というのは嘘だということである。米国でも異論はビアードのように排斥される。しかし、それを恐れない強烈な個性があるかどうかが違うのである。かのミッチェル准将などは、軍艦に対する航空機の優位論を唱え空軍の独立を強烈に主張したために、ある事故を口実に陸軍を追放された。もうひとつ感じるのは、西洋人の唯我独尊の考え方である。米国は勝手にアイスランドなど他国の領土を占領しても平然としているのに、日本が協定により仏印に進駐するなどの行為をしても侵略とみなすのである。ビアードにもこの放漫はある。今の日本人はこれらの不条理を感じないように洗脳されつくしている。

 ビアードの検証を読んであらためて、当時の米国民の大多数は実は、欧州の戦争に賛成であると考えていたことを実感した。なるほど大統領選挙の際には不参戦は約束された。世論調査も圧倒的に参戦反対である。戦争に参加したいか否かと聞かれれば、反対と答えるのは人情であり建前である。ところが、本書が論証したように、実質的に参戦である武器貸与法や英国への物資輸送の米海軍のエスコートに賛成し、アイルランド占領に賛成した議員やマスコミは、戦争への道ではないと明らかな詭弁を弄した。しかもこれは多数派だったのである。多数だから法律は成立したのである。国民はその議論は詭弁であるとは非難しなかったし、反対派もその点を突きはしなかった。できるはずなのに米国民の特性である激しい批難はなかったのである。多数派の支持者は国民の数に於いても多数派である。つまり建前は戦争反対だが、暗黙の了解のもとに戦争への道を支持したのである。

 それではなぜ世論調査は圧倒的に戦争反対の声をあげたのか。多数派は戦争にはならないから、武器貸与法などの法律に賛成したのであり、少数派は戦争になるから反対した。つまり、どちらも戦争に至らない道を求めていたと言う点では同じである。だから多数派も世論調査では戦争反対の声を上げた。世論調査が戦争反対の結果を出すのは当然である。多数派でも少数派でもなく、公然とヨーロッパへの戦争に介入すべきだと主張した人たちがごく一部にいる。彼らだけが、世論調査で戦争賛成の声を上げたのである。これが世論調査では戦争反対が圧倒的であったのに、実は米国民の多数が参戦すべきであったと考えている、という一見矛盾した事態のからくりである。

 戦後も同じである。多数派は、キンメル大将とショート中将が真珠湾攻撃の責任を取らされて解任されたのち、訴追されなかったことについて追及をしなかった。少数派は、ホワイトハウスにやましいことがあるから訴追しなかったと追及した。開戦直後は軍事機密があり、法廷での証言は戦争の遂行に支障をきたす、という弁明がなされたが、戦争が終わるとそれも通用しなくなった。両司令官が解雇ではなく、自発的に退職したことにさせられたことについても少数派は疑惑の目を向けている。解雇という不名誉な措置は両司令官の何らかの反撃に出ることになるとホワイトハウスは恐れていたというのだ。

 私はこの本の上巻を読み終えてルーズベルトが戦争への道を裏で画策していたということについては、この本は結局は、他の本と同じく状況証拠しか提示できないであろうと推測したがやはりその通りであった。私はある時から米国民は欧州への参戦に賛成であったという確信をもつようになったが、世論調査は参戦の直前まで圧倒的に戦争反対であったと言う矛盾を解消できなかった。しかし、本書で米国での戦前戦後の論争を読んで、この矛盾を解くことが出来た。これが最大の収穫である。


石原莞爾・備忘録ノート・早瀬利之・光人社

 石原の名前とタイトルに興味を以て読んだが、私としては外れでした。石原が活躍した満洲事変と支那事変の頃の日記は何故か欠落しているが、代わりに備忘録があり、それを解説したものである。ところが小生の分かる知識の範囲でさえ疑義のあるものがあるから、残りは推して知るべしだと思うのである。

 例えば「戦闘機、五万メートル、現地にて」とあるのを、「朝鮮海峡では五万メートル飛べる長距離の戦闘機を現地で製作したい。なお、内地では、長野県の松本航空基地で、「双発の長距離戦闘機83」が、昭和十六年に試作された。」(P40)とある。

 これはでたらめに近い。明治の飛行機ならともかく、航続距離が50kmでは長距離も何も話にはならない。航続距離の数字が二桁も相場と違う。83とあるのは、キ-83であるのはいいとして、キ-83は三菱の名古屋の工場で製作され、1号機が松本飛行場に空輸されてテスト中であった。昭和16年に試作された、というのも試作指示が昭和16年で完成したのは昭和19年である、というのはけちのつけすぎだろう。ちなみにキ-83の航続距離は約2000kmである。

 我国にてオクタン価一〇〇のものを用い、一馬力一六〇gまで出せり(P48)とあるのをそのまま、100オクタンの燃料160gで1馬力が出せる、と書くのだがとんでもない話である。馬力は単位時間当たりのエネルギー量だから、時間の次元があるが、ガソリンの重量はエネルギーの量を表しているだけであるから、両方が比較できるはずがない。

そもそもオクタン価が高かろうと低かろうと単位重量当たりに持つガソリンのエネルギーは同一である。効率が同じならば、1リットルのガソリンを短時間で消費するエンジンは、長時間で消費するエンジンより高い馬力を出すことができる。ただし、高オクタンのガソリンの使用を前提にすれば同じ馬力でも、より小型軽量のエンジンが作れると言うだけのことである。石原が間違っていなければ別の解釈があるはずである。

 石原が飛行機の操縦ができたとか、エンジン通だった(P49)と持ち上げるなら、もっとよく調べるべきなのである。私は著者が知識が不足している事を言っているのではない。調べれば分かることを調べていない節があることを言っている。以上指摘したことは、調べるなり、専門家にちょっと聞くだけで分かる程度のことだからである。


中華帝国の興亡・黄文雄・PHP研究所

 支那大陸の王朝史を俯瞰するのは絶好の書である。歴史年表代わりに持っているのも良かろう。欲を言えば各民族の使用言語に言及して欲しかったが、無理というものであろう。だが、支那大陸があたかも統一されるべき領域であると誤解されるのも、民族ごとの使用言語が明らかにされていないからである。たが現実には民族の移動の結果、現在では、地域ごとに使用言語が固定化されていて、あたかも民族分布を示しているかのごとくである。正確に言えば「あたかも」ではない。何せ、北京語、広東語などいくつもの言語は、方言ではなく、ドイツ語、フランス語、英語、スペイン語といった異言語だから、これらを話すのは異民族としか言いようがないのである。

例えば、北魏が漢化政策として漢語を話させたP175)と書くが漢語とは、沢山ある支那の言語のどれであろうか、という疑問が湧くのである。漢字は清朝崩壊以降と異なり、漢文を書くためのものであって、民族言語を表記するものではないから、漢字を使うから漢民族である、と言うのは、アルファベットを使う民族は全て同じ民族である、という以上に不可解な事なのである。現に、唐代のの安祿残山は六つの民族の言語をあやつれた(P187)と書かれている。

また、民族言語を表記した漢字以外の独自の民族がいた例を紹介しながら、満洲族が満洲文字を作ったことに言及していないことは不可解である。例えば金王朝は漢化を防止するために、四書五経などの漢文献を女真文字に翻訳した(P241)と書いている。もちろん女真族は満洲族の前身であるが、女真文字は漢字を基に作ったもので、満洲文字はモンゴル文字が元になっているから別系統の文字である。小生のような素人が知ることを黄氏が知らないはずかないからである。また四書五経などの支那の古典は全て清朝により満洲文字に翻訳されている。これは漢化ではなく、満洲族が民族文化を守ろうとした足跡である。翻訳された支那の古典は現在にも残されていて、西欧の支那研究者は四書五経を読むために満洲語を習う人もいる位である。これは漢文が文法のない特異な表記手段であるため、習得が極めて困難であることによる。

 よく理解できるのは支那大陸の人間は、国に属している意識がない、ということである。だから異民族の侵入にも国を守ろうとはせず、逆に侵入側の味方をすることが多い(P24)。これは王朝が民族ではなく、家族に属しているから、天下と言っても皇帝の家族だけの天下であるから、民衆が味方するはずはない。清朝が、明朝を倒した李自成を北京から駆逐したときに、北京市民はもろ手を上げて、清軍を歓迎した(P281)。これは李の軍隊が略奪暴行を繰り返したせいもあって民衆は異民族であろうと、良き統治者を求めているのである。また「一九〇七年の早稲田大学における「清国留学生部」卒業記念署名の名簿では、六十二人の学生のうち国籍を「支那」と書いた者が十八人、「清国」が十二人、「中華」「中国」が七人で、残り二十五人は何国人かも書けなかったのである(P26)という事実を紹介して当の中国人が国家への帰属意識がないことを示している。父が大陸に出征したとき、支那の民衆は日本軍が来ると日の丸を上げて歓迎されたと言った。父は、支那の人たちはそもそも日本軍が外国の軍隊である、とさえ思っていなかったのだろう、と述懐していたが、黄氏の見解を聞くと父の直感は正しかったのである。

 黄氏も周辺民族は中原に進出すると、漢民族文化に染まっていくと言う見解の持ち主である。しかし、これは奇妙ではないか。いつまでたっても秦・漢の大昔にできた漢文化が五百年千年経っても最新のものである、ということになる。これは昔のものが最も良いものであるという支那人に一般的な尚古主義である。例えば衣服をとっても「漢民族」は満洲族の服を受け入れている。京劇は今では中国の伝統芸能と言われているが、これも満洲族のものである。中原の民は、満洲族の文化を受け入れたのであって、その逆なのではない。「康熙帝伝」(東洋文庫)には、北京の清朝宮廷では、漢人官吏が満洲化していると書かれている。このようなことは、それ以前の王朝でもあったはずである。

 黄氏の支那大陸文明観で一貫しているのは南北問題である。それも北とは北方遊牧民ではなく、支那本土内の区分である。『南船北馬』に象徴される南北の文化上の差異は地理的・風土的なものであるが、それ以上に大きいのが、長江文化から生まれた南と黄河文明の流れを汲む北における歴史文明的異質性である。その異質性は政治、経済、社会、文化にも及ぶ(P361)、と書く。このことは日欧中の論者のにも多く知られているという。また、漢の崩壊後の春秋の時代の諸国乱立について、「斉、晋など周王室を奉ずる中原諸侯に対して、南方の長江文明の流れをくむ楚、越、呉諸国は、北方中原の国々とは違って、公侯伯とは称せずに王と称し、周、斉、晋などの北方中原の国々とは対立していた」(P43)と書く。南方の長江文明の地域は中原ではないのだ。

 支那王朝の人種問題も面白い。秦の始皇帝の容貌についての「秦始皇本紀」の記述からは始皇帝はペルシア人ではないか(P76)という。また新疆ウイグル自治区で発見された四五千年前のミイラは明らかにアーリア系であるという。兵馬俑の造形や遺骨にも西方系民族も混じっている事がわかる。以上のことから秦王朝は多民族集団であろうと、黄氏はいう。隋唐王朝、五代の後唐、後晋、後漢は全てトルコ系であり、後周や宋の開国者が漢人かどうかも疑われる(P164)とさえいうのだ。

 辛亥革命後は、中華民国が成立したと言うのは建前で、実際には軍閥の乱立する世界であった。毛沢東さえ青年時代は熱心な連省自治論者であったが、さらに解体独立論を唱えていたという。中国を27地方に分裂させ、毛沢東の地元は「湖南共和国」になる予定であったと言う(P326)。それを実現したのが戦国時代であった。戦国時代は、中国市場唯一の国際化、他国共存の時代であった(P62)。支那大陸の民にとって不幸なのは、それがヨーロッパのように、多国共存が安定せず、分裂と統一を繰り返して、民度と政治システムの発展をもたらさなかったことである。この性向は今後も続くのであろう。支那大陸は永遠に近代化しない。



○売国奴・黄文雄・呉善花・石平 ビジネス社

 売国奴とは皮肉なタイトルを付けたものである。呉善花と石平の両氏は、祖国の痛烈な批判をし日本を擁護しているからである。だから当時は祖国からみれば売国奴と言うべき人たちであった。このタイトルの真意は別なところにあるのだろう。三氏とも嫌いな日本人の筆頭に大江健三郎をあげている。大江は民主主義以外の一切の価値を認めないと国内で公言しながら、北京にいくと非民主的なことや人権侵害を批判せず、民主主義を一言も言わない。それどころか、民主主義を弾圧するボスの前でおそろしく媚を売っていた。石氏は父親が共産党や毛沢東の乱脈政治で苦しんでいたのに、朝日新聞は毛沢東礼讃、文化大革命礼讃をしていたと憤る(P187)。彼らが真の売国奴であるというのだ。

 中国では汪兆銘などのように、人民のために平和を求めた人が歴史上売国奴と呼ばれるから平気である、と石氏が言うのに対して呉氏は、意識の上ではやましさを感じていなくても、売国奴だと言われると、自分が虫けらであるかのような気持ちになってしまうような気持ちになってしまうのが韓国人である、であると言っているのは切ない。

 その後石氏も呉氏も日本に帰化した。当然であろう。祖国の人間性も信じられなくなって日本人の人間性にしか信頼をおけないのであれば、それが最も人として誠実な行為である。両氏が祖国に決別したのには深い思いがあろう。今の中華人民共和国という国家自体に正当性がないと思い、個人としても中国人としても今の中国を決して自分の国とは思っていない(P43)。また、日本人か中国人か、と聞かれると関西は落ち着ける場所で、「私は関西人です」と答える(P167)。だから当時の石氏は、まだ祖国を捨てたのではなく、中共という体制を否定していた段階で、まだ中国と日本の中間の関西という場所にいたのであろう。

 この書の多くはメンバーからして日中韓の比較論である。中韓に共通点が多いのに対して、大抵の場合日本は異質である。中韓は父系血縁共同体で農耕村落を形成していたのに対して、日本は父母双系の非血縁で血統ではなく、家の存続を目的とする疑似血縁社会であるという(P29)。私事であるが私の実家は、つい最近まで数百年間、田植えや冠婚葬祭は特定のグループだけで行っていた。労力だけではなく金銭も互いに出し合う濃密なコミュニティーであった。甚だしい場合は近隣の二軒の家で婚姻を続けている場合さえあった。今考えてみればこのコミュニティーは我が家を本家とする同姓だけの親族であったから、日本では例外の血縁共同体であったのに違いない。

 兄も私もこのコミュニティーから逃げる事ばかり考えて、未だに近隣のコミュニティーに参加することを嫌っている。深読みすれば日本人として最も不自然なコミュニティーを本能的に嫌っていたのではなかろうかとも思えるのである。実際このコミュニティーは、極度な濃密な関係にありながら、精神的には各家ごとに仲たがいしていた。やはり日本人の精神風土には合わなかったのだろう。ある資料を調べたら、我が家の祖先は主君が戦争に負けたために元の領地に逃げ帰って定住した、とあるから一種の落人部落であったのに違いない。防衛本能から周囲から遮断して一族だけで生活すると言う不自然なコミュニティーを形成したのである。

 閑話休題。中国と韓国の共通点は、建前は儒教的な血縁の倫理道徳でありながら、モラル崩壊によりお金のためには血縁すら騙すのようになったという(P141)。石氏はそれどころか中国では血縁から騙す(P143)と言っている。特に中国は毛沢東が倫理道徳を破壊した後に鄧小平が資本主義を導入した。だから西洋がプロテスタンティズムの精神が、日本では武士道精神が資本主義の倫理を支えているのに、中国では騙し合いの資本主義になってしまった(P143)というのは理解できる話である。

 中韓の反日には、道徳的には両国が上だから反日になる、という共通点があるものの、根本的に違う部分が多いという。中国では元々共産党に正統性がない上に、天安門事件で学生たちを多数殺して弾圧して、共産党に対する信頼が完全に失墜したから、その後政権についた江沢民は愛国主義を高める必要があり、そのために反日を利用した(P197)というのが石氏の見解である。だから共産党政権が崩壊して言論の自由を回復して、嘘から作られた反日がばれれば、時間はかかるが反日は消えるという(P219)。

 韓国の場合は、民族主義そのものが反日の原因だから、民族主義がいらない国家システムができるまで続くと呉氏は言う。経済力が日本を超えれば蔑視は残るが反日は少なくなるという。本当に反日を捨てるのは、日本の敗戦に相当する大敗北をする時であろう、ともいう(P219)。いずれにしても両国に共通するのは、反日が国益に反するようになれば反日はおのずと減る、ということは日本人は理解しておいた方が良い。また、毛沢東・周恩来・鄧小平らの世代は日本と戦った経験があるから日本の凄さが分かっており、江沢民は知らない世代である(P204)。そんなことにも反日の根底にあるのだろう。

 朝鮮には伝統的にハヌニム(天様)という唯一絶対神に似たものがあるから一神教のキリスト教を韓国が受け入れやすい(P147)、という指摘は中国とも日本とも異なる事情である。

 韓国は外国を侵略したことがない、という韓国人についての呉氏の見解は面白い。李氏朝鮮時代には、対馬侵略の計画があり、元寇のときにも朝鮮は大々的に派兵した。また、済州島にたてこもって、日本の協力でモンゴル軍と対決しようとした高麗の武人を高麗朝はモンゴルと一緒に攻め滅ぼした(P119)などというのは侵略以上の恥ずべき歴史である。その時日本が頼られていた、というのは面白い事実である。現実には韓国は日本の竹島を敗戦のどさくさにまぎれて侵略した。

 ハングルというのは作られた当時からの正式名称は「訓民正音」と言い、漢字を知らない民衆でも使える文字として出あったが、知識人は侮蔑して四百年間使われていなかった、とここまでは良く知られている。しかしハングルという言葉自体は日本統治時代に作られたものである(P137)というから呆れる

 中国にもインチキな話はある。現在の中国では中国人は黄帝の子孫だと言っているがこれは日本が明治維新を成功させたのは、万世一系の神話が重要な役割を果たしたので、清朝崩壊以後に民族のアイデンティティーを作るため日本の真似をしたと言うのだ(P60)。確かに石氏の言う通り、中国は易姓革命の世界で、新王朝は歴史を書き改めて自分たちの祖先を始祖としていて、旧王朝とは断絶している。王朝間の歴史は断絶しているから、遥か昔の皇帝が自分たちの祖先であるなどということは清朝以前は考えてきていなかったのである。中華民国にしても滅満興漢のスローガンのもとに異民族王朝を否定するところから始まったのだ。つまり中国は変質したのだ。檀君神話というのも同様なのであろう、というのも理解できる。


○書評・「アウン・サン・スー・チーはミャンマーを救えるか」

 本書ではいきなり「はじめに」の項でミャンマーに関するクイズを出す。主なものをあげれば、

ミャンマーの軍事政権は国民を弾圧し、国民は戦々恐々として暮らしている。
・欧米の制裁によって軍事政権は崩壊した。
アウン・サン・スー・チー女史は大多数の国民から全幅の信頼を得ており、彼女にミャンマーの将来を託すのが最善である。
・ミャンマー人は日本軍の占領統治の経験から、日本と日本人が嫌いである。
・ミャンマー人は旧宗主国イギリスを一番尊敬している。
・ミャンマーの実態については、朝日新聞を一番正確である。

 これらがイエスかノーか、と言う質問である。この本を読もうと思ったのは、全部ノーだったからである。日本のマスコミ報道は全てイエスとなっている。だが正解は全部、正反対なのである。この本は欧米がマスコミを使ってミャンマーに関する間違った情報を故意に流し続けたことを書きつづっている。その間違った情報を日本のマスコミは受け売りしているのに過ぎない。

 皇室にも関する重大な事が書いてある。

アメリカが外国や未開発地域の王室を潰すには三つのパターンがあることがわかります。ひとつは戦争を仕掛けて破壊しつくすこと。二つ目は国民に民主主義を吹き込み、マスメディアや広告代理店などを使って徹底的に宣伝工作して国民をマインドコントロールし、国民の側から体制をひっくり返すよう仕向けること。そして三つ目は王位継承者を根絶やしにすることです。
 もちろん、アメリカがお手本にしたのはイギリスです。・・・植民地化されたわけですが、最初にやったことは、ミャンマー国王をインドに流し、王子を殺し、そして王女をインド兵に与えたことです。ミャンマーから王位継承者を根絶やしにしたわけです。国王の居城は監獄に作り替えられました(P50)。

 なんと非道なことをイギリスはしたのである。アメリカはもっと狡猾で一見非道には見えないが効果的にやった。ほとんどの皇族を臣籍降下させて皇位継承者がいずれなくなるようにした。そして間違った男女同権思想を吹き込んで、女系天皇の容認と言う天皇の事実上の断絶を日本人に言わせている。恐ろしいのは保守の側にも女系天皇を容認し、旧皇族の復活に反対しているものが少なからずいる、と言うことである。

 日本人は愚かにもソフトな仕掛けに引っ掛かって喜々としてアメリカに追従している。ミャンマー人が心底で反英なのは、英国のやり方があまりに直截だったからだろう。英国の過酷で狡猾なミャンマー支配は読んでいただきたい。日本がミャンマーの独立にいかに貢献したか、それゆえ日本人に感謝しているかも同様に読んでいただきたい。

 アウン・サン・スー・チー氏の夫が英国人であることは良く知られているが、本書によればそれだけではない。なんとイギリス情報部員なのである(P112)。高山正之氏の「白い人が仕掛けた黒い罠」によれば、アウン・サン・スー・チー氏は不思議な偶然で高校生になると英外交官が引き取り英国に留学し、ハンサムな英国人を紹介され結婚した。体のいい政略結婚である。しかも英国はアウン・サン・スー・チーの父で独立の英雄のアウン・サンをライバルを使って暗殺し、ライバルも処刑してしまった。ミャンマーの大物を一度に始末してしまったのである。ところが、ミャンマー本土ではアウン・サン暗殺の黒幕が英国であるのは常識であるのにも関わらず、英国生活の長いアウン・サン・スー・チー氏は、そのことを知らないというのだ。アウン・サン・スー・チー氏は外見はミャンマー人だが中身はイギリス人(P84)だというがまさにその通りである。

 あるミャンマーの知識人は、ナチスによるユダヤ人虐殺は、イギリスが悪知恵ででっち上げた嘘だと著者に語った(P158)。これはミャンマー人がいかに英国人を嫌っているかの象徴である、というのだ。植民地統治でヒドイ目にわされ、戦後も少数民族問題というほとんど解決不能の時限爆弾をイギリスはミャンマーに置いていったわけです(P158)、というのだ。常識の嘘を知るために、読むべし。



支那事變國際法論・立 作太郎・松華堂・昭和13年5月

 神田の古書店でタイトルに惹かれて買った本である。何年も放置したが最近やっと読み終えた。読み飛ばすと面白くないが、意味を正確に読み取るように精読すれば、国際法が理解でき腑に落ちることが多いので面白く読めることが分かった。もっとも法律の素養がない小生には、読み切れていない部分も多いはずである。同じ論旨の繰り返しに思える部分も意味があるのであろう。繰り返しに思えるのも小生が素人であるのが原因である。読んでいる最中に論理の展開の仕方が、パール判事の東京裁判の判決書に似ている事に気付いた。同じ国際法の専門家であることがなせるわざである。面白いのは、外国の都市や国名の漢字表記が一部に一般的なものではないと思われるものが使われていることである。これは単に当時の外国の都市や国名の漢字表記が現在よりバリエーションが多く、それらの一部が現在では忘れられたと言うことなのだろう。

 タイトルからして、支那事変の日本軍の行動を国際法を援用して弁明しようとする本だろうと言う予想は外れた。むしろ戦時国際法の教科書にしてよい位であろう。それこそ国際法の創成期から当時の国際法の説への変遷まで引用しているのである。小生にとってのポイントの一番は、事実上の戦争と国際法上の戦争の区分である。日本が戦時の中立条項によって、アメリカから石油やクズ鉄などの物資の輸入が止まらないように宣戦布告をしなかったのはよく知られているが、支那事変のような事実上の戦争に置いても交戦法規は適用される、という点である。当時は宣戦布告した国際法上の戦争は少なく、ほとんどが事実上の戦争であったと言うことである。事実上の戦争が常態化している、という事により真珠湾攻撃が宣戦布告なしに行われた、ということは何ら国際法違反ではなく、交戦法規さえ守れば良いということである。

 アメリカの中立法についての記述も時代を反映したものである。アメリカは時々国際法を無視した行動や立法をするが、中立法もその典型である。アメリカの中立法は、必ずしも国際法の中立の概念とは相いれない、身勝手なものである。欧州大戦が始まってからも中立法を改正して、参戦していないのにもかかわらず米国はヨーロッパに大量の武器援助をするという国際法上の中立義務違反をした。この時の中立法についての立氏の見解を聞きたいものであるが、残念な事にまだ大戦は始まっていなかった。中立法については、著者は淡々と解説をしているだけであり、批難的言辞はなく、著者が純粋に法律的立場から論じていることが分かる。

 三章の支那事変における空中爆撃問題は、解釈を拡大すれば米国の日本本土空襲を国際法違反としない見解も生まれかねない危険なものである。例えば、

1.P75「・・・政庁の在る建物・・・の中央幹部の置かれる建物の如きは、支那軍作戦の中枢と緊密の関係あるを以て、之が破壊又は毀損を為し得ると為すの説は有力であると言わねばならぬ。以下すべて新仮名遣いに直した。

2.P91「・・・将来の戦争に於いて人民の大聚団(great center of population)に爆弾を投下することが行わるべく、国際法は之を禁ずること無く、倫敦の如き都市が無防守の都市として空襲を免かるるためには、敵の航空隊に降参するの外なしと説けるに端を発し、ホランド教授も参加するに至れる論争に関連して、スペート自身の説を著者中に於いて述べた際、無防守とは軍により占拠されず、其他武力的抵抗を為すの地位に在らざることを意味すると為し、倫敦の如き都市は、陸戦条規又は海軍力を以てする砲撃に関する条約に依りて攻撃を受けざるを得ることとならぬ旨説いたのである。

 その後に、国際の慣行が教授の説く所に一致するに至らざることは云々と書いてはいるものの、2.の説はまさに東京への空襲を是認したごとくである。1.にしても、天皇が大元帥であるを以て国会議事堂のみならず、皇居の空襲をも許容されるごとくである。日本軍は誤爆を除き支那の民間施設を破壊したことはないのだから、このような説は日本軍の弁護のためではない。しかもこの本の説くところは、交通機関は軍事利用されるを以て空爆の対象となる。

 次の興味は七章の九国条約と支那事変である。米国のフェンウィック教授が国際法専門誌に、宣戦布告があろうとなかろうと支那と戦争をしているのは、九カ国条約違反である(P219)と書いたのは九カ国条約と不戦条約を混同しているばかりではなく、不戦条約も自衛戦争を禁止していない、と説くのは当然であろう。しかも自衛戦争か否かの判断は国家主権に属するとの留保をしたのは他ならぬ米国である。しかも九カ国条約の言う門戸開放とは、元来「支那に於いて領土を占領せる者が、従来支那の行へる如く、自由に其門戸を開放すべき」(P237)であったのが、支那の全土に適用されるように変更されたのが九カ国条約である、というのである。要するに日本をも含む欧米諸国が支那で自由勝手に行動して良いというひどいものなのである。

 九カ国条約の義務については、結論から言えば、支那の赤化に伴う抗日運動の激化は、国際法の言う事情変更の原則によって、条約義務が消滅している、と説く(P259)。もちろん事情変更の内容によっては義務が消滅する内容は限定される。いずれにしても支那の抗日運動は現在想像される範囲を超えたテロの連続、と言うべきものであった。イラク戦争終結後のイラクでのテロと同然であった。これに対して日本は国際法上の正当な権利を行使すべきであったのに、日本の政治家はしなかったのである。日本政府は支那の在留邦人をテロから守るために国際法上の権利を行使すべきだったのである。英米は支那の外国人への暴行に対して一致して砲撃した。しかし共同行動を要請された幣原外相は断った。

 その他は紹介しないが、いかに当時の日本人がいかに真面目に戦時国際法を研究していたか良く分かる。戦後大東亜戦争について、この本の程度に於いて戦時国際法上の研究をした論文を知らない。日本の侵略をあげつらうものが、戦時国際法をつまみ食いして利用した程度のレベルが低いものしか見ないのである。今の日本ではまともな戦時国際法の図書を寡聞にして知らない。まだまだこの本に教えてもらえることはある。例えば国際法は、国際的慣習と国家間の条約により成り立つものとされている。しかし、条約にも、国際法となるべき慣習をなすものと、単に条約関係国相互の約束に過ぎないものがあると教えている。

 何かの本で、戦前は、ゲリラ等の政府ではない団体は交戦団体と認めなかった、と書いたものを読んだ記憶がある。しかしそれは間違いであった。本書によれば、「・・・内乱の現在の事態および内乱後の将来の事態に関して利害関係を有する第三国は、政府と叛徒との間の闘争に関して対等の地位を認むるの必要を感ずることあるを以て、国際法は、特に交戦団体の承認の制度を認め、・・・(P19)」と書いてある。つまり反政府ゲリラは無条件ではないにしても、当時より戦時国際法の交戦団体と認められることがあったことが分かる。


尖閣喪失・大石英司・中央公論社

 タイトルの通り中国が漁船などを利用して軍人を上陸させて実効支配する、というものである。プロローグで、ある中国老人がカナダから中国に送還されて処刑されるが自伝を残す。実はその中には暗号が隠されていて、出版された本を入手した外務省の職員が解読すると、尖閣侵略計画を実行している主席のスキャンダルだった。ここまでは思わせぶりだが、それが尖閣侵略防止には何の役にも立たない、と言うのだから龍頭蛇尾である。

 本当なら心強いのだが、防衛省や海保がひそかに侵略防止と奪還のための色々なプランを用意していて、海保などは上陸阻止のために漁船などを撃沈することにためらいがない、ということである。

 今の中国の行動からあり得て恐ろしいと思えるのは、尖閣侵略の実行が、政権交代の空白を突く、という事である。また日本が逆上陸する計画を立てても、中国の経済的ブラフによって米国が安保を発動しないということもありうる話である。幸い政権交代の空白にも何も起こらなかったが。

 陸自の逆上陸実施部隊員が、血判を集めて下剋上まがいの行動で、逆上陸実施を迫る、と言うのだがそのような志士がいたら心強い。しかし、総理も陸自幹部も彼らの行動を満州事変に例えて非難しているのは現実的だが、個人的にはいただけない。現在はほとんどの植民地が独立して自由貿易ができる世界であるのに対して、当時の世界はほとんど欧米の植民地であり、日本は数少ない有色人種の独立国として欧米により経済的にも軍事的に強い圧迫を受け、国家崩壊の危機にあったのに政党政治は何の対策もしなかったのである。

 もし欧米流の政党政治が機能していたのなら、満洲事変など起こさずに、中西輝政教授が言うように、支那の排日行為を理由に満洲を正当な外交手続きにより保障占領すればよかったのである。それが行われないために、関東軍はクーデターまがいの行動で満洲を占領したのである。

いずれにしても、自衛隊や海上保安庁の行動のディティールが面白い本である。現実的にはあり得ない話ならもっと気楽に楽しめる本なのだが。


○パール博士「平和の宣言」ラダビノード・パール、田中正明編著・亀戸
 パール博士らしく論理的かつ難解。特にインド哲学を語るのは難解。西洋人がいかに非白人を人間扱いしていないか、植民地での非道な行為を論じた部分は日本人は是非読むべし。読書によるものばかりではなく、インドにおける体験だからである。

 小林よしのりの復刊にあたっての序には、パールの原著が絶版になったのをいいことに、一部をつまみ食いしてパールが日本を強く批判したかのように書いた者がいると批判している。自国を悪く言いたくてたまらない異常な日本人は一方では大嘘つきであって、少しも誠実でも良心的な人たちではない。それでいて日本をより悪く言う事が良心の証しだなどと本気で考えているからまともではない。

 第一部のアジアの良心は田中正明氏の筆である。パール氏の日本に対する心情が書かれている。西洋が自己防衛のために、西洋の武器と技術をとりいれたのはよい。しかし日本は、決して西洋を模倣して、その国家主義の私欲を自己の宗教として受け入れてはならない。そして隣国の弱者にたいして無法な行動に出てはならない(P37)、と言うがこれは必ずしも戦前戦中の日本の批判ではない。

パール博士は中国を日本やインドと同じくアジア共通の哲学と宗教の持ち主と誤解しているのは残念である。だがパール氏の思い描く中国とは孔子孟子の時代の中国であってその後の中国とは、蛮人に繰り返し乗っ取られて入れ替わった異人種であって秦漢時代の漢民族は事実上絶滅している。長江、黄河の古代文明を起こした人々と現代中国人とは文化もDNAも何のつながりもないのである。隣国のインドとすら貪欲な紛争を起こしている、現代の中国を見たらパール氏も考えを改めるであろう。

本書には哲学者や歴史家としてのパール博士と法律家としてのパールが登場するが、興味深いのは歴史観と法律家としての見方である。また朝鮮戦争の米軍捕虜を東京裁判のように国際法で裁く、と言った途端にニュルンベルグ裁判や東京裁判はドイツと日本の国内法で裁いたのであって連合国は主権のない日本を代行したのに過ぎない、と詭弁を弄したというのだ。それならば、戦犯は講和条約が締結されて主権が日本に移ると釈放されるものであるのに、それを予測した狡猾な米国はサンフランシスコ条約で戦犯の釈放を制限した。それなのに日本政府は講和条約が史上希に見る寛大で公正なものだと言っているのを批判している(P45)。

奉天の会戦と日本海海戦で日本が勝利して初めて有色人種が白人を負かしたからインドやアジアの独立運動が始まった(P64)と書かれるのは当然で、そのことを日本人は再認識し自信を持つべきである。ただガンジーの不服従の抵抗運動の独立への貢献を強調する半面、日本の侵攻がインド国民軍の成立を促し、それが直接の独立のきっかけになったことに触れていないのは残念である。恐らく平和主義のゆえに目が曇ったものと思う。ただボース亡命に貢献した頭山満翁の寸暇をさいて墓前に花をたむけた、というのはその当時の頭山の不当な悪評を考えるとさすがである。

全般に原爆による世界絶滅への恐怖から、反戦非武装の思想が強調され過ぎている。武器による独立と平和を否定するが、今の世界を見れば考えが変わるであろう。そして益々日本の戦争へのアジア独立への貢献を強く理解するようになると思うのである。ただパール博士らインド人の非武装の思想の淵源はインドが英国の武力で支配されたからではないからである。巧妙な分断と策略によって結局あれだけの広大な地域が少数の英国人に奪われて、暴力によってしか独立できない状態に呻吟したのである。その英国の手法については本書でも抽象的に書かれている。パール博士もガンジーもそのために非暴力の団結に思い至ったものであろう。それゆえにかえってパール氏ですら、英国の卑劣な手段を具体的に語れず抽象的にしか語らないほど辛いことだったのだろう。私には本書で新たに認識した最も重要な点は、ここにあるように思われる。

私は二冊の分厚い文庫本でパール博士の東京裁判の判決を難渋しながら辛うじて読み通した。そこには冷静な論理が徹底している。しかし、判決の最後に有名な「時が偏狭和らげたとき」と云々という文言を書いたとき、明らかにパール氏は興奮していたのである。英国や欧米諸国に対する憤怒に興奮していたのである。あの文言はどう考えても博士の言う純粋な法律に基づく結論ではないからである。だからこそ私はパール氏に親近感と尊敬を抱けるものである。博士が単に冷徹な学者ではなく、情熱の人あることは、パール博士の日本における行動が証明している。この本でもパール博士の判決書でも不思議な共通点がある。翻訳のせいもあり、読解に難渋するが読んでいるうちは冷徹な論理に徹底していながら、読んでしばらくすると、パール氏の情熱を含んだ心情に触れられる思いがすることである。

本書にしはしば登場するトインビーの白人が有色人種を動物以下にしか見ないことへの指摘は傾聴に値する。第二部の世界に注ぐ、では・・・アジアの諸問題を指導し、処理しつつある指導的欧米政治家たちの、そのやり口から判断してみて、少なくともこれらの政治家たちのいう「世界」は、彼らのみの世界であり、「人道主義」は、ある特定の人種に対する主義にすぎないのではないかということを疑ってみる理由がある(P196)、と言って欧米人の欧米中心のエゴを批判している。

第三部の真理と平和では、欧米人の有色人種に対するすさまじい人種偏見を列記している。

遠い過去から遠い将来へかけての人類の進化に関する英語を話す人種の考え方は、世界は将来当然自分たちのものだということである。そして他民族は英語を話す人種に奉仕することによって、神の約束した人類進歩に貢献するとともに、歴史上の宿命的役割を果たすのだと信じている(P221)。

アジアを植民地支配したのは英国以外にも多いのに「英語を話す」と言っているのは、英国のインド支配がつい口についたものだろう。またトインビーの言葉を引用する。「われわれは彼らを歩いている樹木ぐらいにしか考えず、たまたま出あった地方に棲息する野獣としか考えていない・・・西欧人の先駆者が切り倒した森の木々あるいは彼が射落とした大きな獲物のように、彼らの命は一時的であり、もろいものである」「・・・これら゛土着民゛を、放逐さるき有毒動物として、とり扱うであろう。『黒人は魂を持っていない』とすればほかに考えてやる必要はない」(P225)つまり有色人種とは白人にとって動物以下の存在である、ということである。我々が欧米人と付き合う時は、潜在的には、このような意識が彼らには厳として存在することを脳裏に描いておかなければならない。そして博士は、原爆が日本に投下されたのは日本人への人種偏見であるとして・・・彼らの日本人観によれば、これらの人間は根絶さるべき゛有毒動物゛にすぎない、すなわち有罪の、有毒動物である(P226)という米国指導者の言葉を引用している。最近では日本人史家にも原爆投下は人種偏見による、という言説があるが、時期からしてパール博士が初めてこの見解を示したのであろう。

朝鮮戦争における米軍の残虐行為にも言及する。米軍の爆撃は、まず高度の破壊力をもつ爆弾の投下で始まり、次に焼夷弾を投下し、最後には焼夷弾による火災を消火している男女や子供たちに機銃掃射をした(198)、という英国人の目撃者の証言を紹介している。これは日本本土空襲でも行った米軍の常套手段に過ぎない。また朝鮮人の夫人の証言を米国人の調査員が聞きとったとして、米兵は夫を殺し子供を踏みつけて殺し、母は二人の米兵によって強姦された(p200)、と書く。しかし間接証言であるから全くの真実とは断言できない、としているのは法律家らしい。東京裁判の判決書にもこのような態度が貫かれている。

パール博士が最も憤っているのは西洋人による過酷な植民地支配であろう。オランダはインドネシアで現地のあらゆる産業を破壊し、それに代わりコーヒーとインディゴ染料の強制栽培を行った結果飢饉が起こり、ジャワのある地方では人口が半分以下になってしまった(p209)。また一九三六年のオランダ領インドネシアではヨーロッパの人口は全体の0.5%しかないのに、収入の65%を奪い、97.5%もいるインドネシア人は僅か20%しか受け取れず残りは他のアジア人が受け取った(p209)、という恐るべき収奪を紹介している。

日本人は記憶すべきである。この凄まじい収奪が欧米植民地の本質であって、日本による朝鮮と台湾の支配はこれに比べれば植民地とは言えない。しかも欧米人は過酷な支配に少しでも抵抗した者たちを、平然と殺害したり飢餓に追い込んでいる。これらの犠牲者には女性や老人子供がいるのは当たり前であった。彼らの抵抗とは武器で反乱を起こしたのではない。食糧を持っていくと飢えるから止めてくれ、と懇願する程度の話なのだ。

パール博士が処刑されたA級戦犯の家族や獄につながれたBC級戦犯にしばしば会いに行き、彼らが無罪であると慰めている事実がある。博士の言動まで利用して日本の侵略戦争批判をする人たちは、良心があるならそんな卑劣な行為はやめるべきである。第二部の世界に注ぐ、では

国際裁判と称して、ニュルンベルグと東京で裁いた彼らの二つの裁判、これに適用した二つの法律が「実は二つの裁判所に限った法律であった」ということを、いまになっていいだすのは、法律を侮辱するもはなはだしいといわなければならない。法律という名に価しない法律である。いいかえれば、一部のものにたいする法律は、法律ではなくして、リンチ(私刑)に過ぎない(P154)。

リンチと断言しているのはパール博士だけではない、というのだ。二つの軍事裁判なるものを実施した国々自身が、二つの裁判所に限った法律であった、と認めることによって間接的にリンチであったと認めているというのだ。パール博士が日本を無罪と言っているわけではない、と主張する人たちはこの言をよく読むがよい。日本は無罪であるばかりではない、東京裁判は欧米によるリンチであったとさえ言っているのだ。リンチを行うものは犯罪者である。本書を再刊されたことに感謝する次第である。


真・国防論・田母神俊雄 宝島社

 国防の必要性と日本は過去に悪いことをした国ではない、と述べる箇所は読み飛ばしてもよい位小生には平凡である。注目すべき個所は内局の存在がいかに自衛隊を駄目にし、防衛力として役に立たないようにするための無用の存在かを説いている箇所である。内局を旧ソ連軍の政治将校に例えているのは言い得て妙である。

 軍法会議の必要性について、機密保持の観点から説明しているのには納得した。護衛艦や自衛隊機が事故を起こして、裁判で兵器の機密部分が審査されると、それを支那人やロシア人が傍聴できるというとんでもないことになるのだ。

 歴代防衛大臣で、意外に軍事オタクと言われる石破氏の評価が低いのは他でも聞いたことがある。国防や軍事に詳しいのではなく、やはりオタクなのであろう。あるいは汎用な政治家の一人に過ぎないのだろう。

 勘違いしたのだろうか。第二次大戦の時に「ロシア」が日本周辺に大量に機雷を撒いたので、戦後6、7年かけて掃海したと書いてある。ロシアはやらなかったとは言わないが圧倒的に米軍の機雷が多かったのである。

 その他兵器のハードソフトについても頁が割かれているが、この本の本質と外れるところは読み飛ばしてもよいと思う。


○重光葵・連合軍に最も恐れられた男・福富健一・講談社・平成238

 重光の重厚な性格からすれば、連合国から云々という副題は適切ではなかろう。連合国が敗戦国の政治家を恐れようもないし、本人もそんなことに価値を認めない人物だろうからである。ともかくもこれだけ外交官として適切な日本人はなかなかいない、という著者の称賛は当然であろう。マッカーサーが軍政を敷こうとしていたのを止めさせた(P28)というエピソードは、よくてせいぜいうまくGHQと妥協する、というのが当時の日本人の最善策であった実態に比べれば画期的な事である。

 この本には重光の矜持と拮抗する西欧のエピソードがいくつか書かれている。このようなことは支那や朝鮮では考えられないであろう。例えば、第一次大戦で日本の英国船団護衛で殉死した66人の日本兵の名前がマルタ島の英海軍基地の墓碑に刻まれている(P79)という話である。反対に宋子文、王正廷、顧維欽ら戦前の中華民国外交官は中共が成立すると外国に逃れそこで客死している、という支那の冷たい現実がある。

 重光は幣原の軟弱外交とは違っていたが、「当時の中国は群雄割拠の状態にあったが、北京政府は馮玉祥の軍隊を背景に段祺瑞がかろうじて政権を保持していた」(P96)というのが支那大陸の実情であって、国際連盟に登録されていた中華民国というのは、誰が首班の政府であったのか不明である、という当時の支那の実態を記憶しておくべきである。

 ワシントン条約体制について、幣原外相は忠実に守ろうとしていたが、重光は、この体制が事実より理想を求めたものであり、支那の共産勢力が排日を激化させていたこと、英米の目的は支那に進出した日本を妨害する目的であったことから、ワシントン体制は有名無実だと考えている(P98)。このことは九カ国条約のワシントン体制違反を口実に日本を弾劾した東京裁判と真っ向から対決するものである。

 日本人が大陸で心底から貢献した事実も示されている。福民病院は、日本人医師の頓宮寛が国籍・人種を問わず人命を救う事を理想とした病院である。頓宮は五ヶ国語を話し、魯迅とも親しく、魯迅の妻はここで出産している(P149)。こういった日本人の献身は例外ではない。日本の侵略を宣伝する中共はいかに非人間的な政府であろうか。それに騙される現代日本人はいかに愚かであろうか。平成24年の尖閣国有化の際の中共政府が行った、民衆による反日暴動の野蛮な行動を見てもまだ目が覚めないのであろうか。

 吉田茂を重光と比較して、戦略がない、として経済優先の短期的戦術には成功したが、アジア解放を志向した重光のような戦略がない(P171)として憲法改正による再軍備をしなかった吉田を批判するがその通りである。未だに憲法改正をできず在留邦人の海外救出すらできない日本の現実を考えれば、吉田路線による高度経済成長はあだ花にすぎない。それどころか経済大国への執着が国民精神の堕落さえもたらしている。

 共産主義については、初めより無理ある理論の実現に直進するのであるから、目的達成のためには手段を選ばぬことになる。共産革命は、常に闘争の観念がともなう(P173)、という。そして筆者は「西ドイツの憲法裁判所は憲法を破壊するような政党の結社はできないという理由から、共産党の活動を禁じた」と西独のアデナウアーが吉田に語った言葉を紹介している。観念的な日本の結社の自由など本当は意味をなさないことを論証した言葉である。GHQが共産党を容認させたのは日本を弱体化させるためであって、自由主義の普及のためではない。

 吉田批判はまだ続く。重光が一時的にしろ英国の援蒋ルートを閉鎖させることができたのに対して、英国政府が吉田駐英大使の構想に次第に懐疑的になったことを紹介して、外交官の加瀬俊一が「ハムレットはいつしかドンキホーテになった」と酷評しているのを紹介している。平成24年にも「負けて勝つ」と題してNHKが吉田を持ち上げたドラマを作った。GHQ路線を走るNHKがよいしょするのだから、吉田の功績は推して知るべしであろう。

 広田内閣が、軍部大臣現役武官制を復活させたのは、二二六事件の関係軍人を予備役に編入させ軍への関与を排除させるためであった、と単純に書いている(P207)。軍部による同制度復活のための口実だとするのが一般的であるが、軍を悪者にするための勘繰り過ぎなのかも知れない。重光は軍部が日本を支配して日本を破滅に追い込んだ、という史観を持たない。

 重光の最大の功績は、やはり大東亜会議を構想実現したことであろう。会議ばかりではなく、実現しなかったが大東亜国際機構という組織まで構想していた。筆者も特筆しているが、これを最も支持したのは東條首相であった。小生が東條を単なる有能な官僚だと考えないのはそのためである。東條は重光と同じくきちんとした歴史観があったのは、東京裁判の宣誓供述書が如実に示している。資料もない極めて不便な条件であれだけの歴史観を語れるのは今でも多くはいまい。

 大東亜会議に関連して英国がアジアをいかに分断支配していたかも語られている。植民地ビルマは英国人、インド人と中国人、ビルマ人の三階層に分けて支配し、搾取されるビルマ人の怨嗟はインド人と中国人に向けられるシステムを作った。このため大東亜会議はビルマとインドの関係を考慮しなければならなかったのである。日本にビルマを放逐されたイギリスは、インドのベンガル地方を食糧徴発し、数百万の餓死者を出し、ナチスのごとき大量殺人を行った(P246)。現代日本人は日本の行った植民地解放までの、欧米の植民地支配がいかに残忍で非道だったかを認識すべきである。彼らが宗主国を非難しないのは世界で欧米の力がまだ圧倒的に強いからに過ぎない。

 歴史学者のトインビーの「第二次大戦において、日本は戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である(P253)」という大東亜会議についての言葉を紹介している。日本がアジアを解放した、というのは夜郎自大ではない、日本人が誇るべき事実である。この意識を多くの日本人が共有しない限り、経済的繁栄はあり得ても国際社会における日本の存在感はない。


○日本経済を殲滅せよ・エドワード・ミラー・金子宣子・新潮社

 一言で言えばアメリカの組織的分析と実行力の巨大さを思い知らされる。本書に記述されているようにアメリカの対日経済的圧力に対応して日本の政界財界が国益のために、私益を棚上げして連携した努力のすばらしさもあるが、結局アメリカの手の内で踊っていたのだと分かる。現在と同様に欧米はゲームのルールを作り、日本はそれに対応する尋常ならざる努力を続けているという構図は昔から変わらないのである。ただ現代日本は、尖閣を脅かされても中国と仲良くしたいという、経団連会長がいるように、国家存亡の危機よりも商売で儲けることの方が大切だという愚かな経済人が多数派であることが健全な戦前の日本と異なる。

日本は円をドルに交換できないとアメリカからの輸入が出来ないため、一旦円を元に変えてドルに換金してさえいたのだ。現代に通ずる日本の愚かさも指摘されている。昭和十六年夏、金融凍結対策で物々交換を考えたのだが、米国人の日本の代理人として立てたのが、デスヴァーニンという米国大統領と露骨に敵対する人物であったという「じつに奇怪で、自殺行為とは言わないまでも、日本の政治音痴を示すものだった(P308)、というのである。

 正直言ってこの本は、精読と乱読の繰り返しで何とか読み通した。要するに専門研究書で小生のごとき門外漢が全て精読することの可能な本ではないし、その意味もない。ただ著者の日本に対する歴史観は熟考されたものではなく、単に日本のアジア侵略、という米国人らしい偏見しかない。スムート・ホーリー法という日本の商品を自由に禁輸できるに等しいとんでもない法律を作っておきながら、「結果的に日本の膨張主義を刺激するという予期せぬ事態をもたらした(P60)」などとうそぶいている。米国がこの経済制裁的法律を作った原因を日本の対中侵略のせいにすることは著者さえできない。スムート・ホーリー法は「日本の満洲侵略以前のことなのだ」(P74)

著者すら「こうした悪意に満ちた対日差別が行われた理由はなかなか推測が難しい(同頁)と認めている。著者は生糸が売れなくなって仕方なく他の輸出を考えたらそれも妨害されても、日本は対外進出を控えて座して死を待つべきだ、というのだ。著者にとって米国の対外進出は当然の権利で、日本のそれは侵略なのだ。P69のグラフでは日本がアメリカにおいて、一見欧米諸国より低い関税がかけられているように見えながら実質的には対日関税が最も高くなるようなトリックがあることを証明している。

日本への肥料封鎖により、日本は壊滅的食糧不足をもたらす(P215)とさえ分析している。著者が意図しまいと、この本にはアメリカの理不尽な経済的圧力に対して、日本は官民挙げて必死に努力するが常にその努力は次の圧力により水泡に帰して行く、という理不尽な日米関係を描いている。鉄道王ハリマンと満洲を共同開発すれば日米の衝突はなかったなどというのが、幻想であることの証明である。アジアで米国と「仲良く」することなどできなかったのだ。

だが訳者あとがきはこの本の対する見方が異なっていて「著者はこのアチソンこそ、日本を戦争へと駆り立てた元凶とみているようだ」と書く。面倒なら、訳者あとがきだけ読んで、日本が最終的に資産凍結により対米戦争に追い込まれたことと、それが石油の禁輸より重大であったと言う事を要約していることを理解することができる。本文の方はそれを裏付ける基礎資料扱いとしておけば良いのである。

それにしても戦前の西欧世界というものは、世界をいかようにも牛耳ることができたのであって、日本はそのルールの中で必死に踊っていたのに過ぎない。日本は自前のわずかな資産と尋常ならざる努力ができるだけで、欧米に自分の正当なルールを押し付けるなどという事はありえない。これに対し、欧米諸国は連携して、植民地資源まで動員して日本をいかようにも操ることが出来たのである。

植民地の独立によって欧米の強さははるかに減じられたとは言うものの、依然として欧米がルールを作る世界であるのに変わりはない。小生の見解だが、中共ですらその手駒に過ぎないのである。いや支那大陸を支配した中共はロシアの作った共産主義イデオロギーで西欧に取り込まれ、改革開放で西欧のマネーゲームの一員に決定的に取り込まれた。共産主義を取り入れた時から独自の年号を廃止し、西暦を採用したのはその象徴である。


○天皇と原爆・西尾幹二・新潮社

 タイトルは意外性があるが、原爆は付け足しに近い。要旨を煎じつめて言えば日本とアメリカは別の意味での神の国であり、日米戦争は宗教戦争の一種であり、宿命である、というのである。アメリカの西への侵攻は経済的には必要ではないのに、宗教的国家原理に基づき侵攻膨張して行って、その到達点が支那大陸であって、そこには生活のために日本がいたのである。ニュアンスが違うが日米戦争宿命論には同感である。小村寿太郎がハリマンの満鉄共同開発を断ったから支那大陸で日米の衝突が起きた、という説をなすものは多い。しかし、それは事実ではあるがミクロの話である。

 ハリマンの提案を受け入れたところで、いずれ日米は衝突する。満洲に日米が共存すること自体が紛争の火種である。この本は西尾氏らしい、独創的かつ論理的な指摘に溢れたものである。秀吉はスペインのフィリップ二世と対決的に渡り合った唯一のアジア人である(P45)というのもそのひとつである。もっとも秀吉の朝鮮征伐はスペインのアジア進出が原因である、と書いた人はいる。

 テレビ放送をもとにしているので、章だてではなく、第何回という体裁になっている。第六回の「日本は「侵略」国家ではない」で戦後教育の米国観では戦前戦中の米国は悪い日本をたしなめやっつける国であったとなっているが、この史観はGHQの西欧による侵略本を大量に焚書したり色々な方法で日本人を洗脳した結果であると述べている。アメリカが西欧のように植民地獲得に狂奔しなかったのは、白人社会は常に奴隷の犠牲に成り立っているのだが、アメリカは国内に奴隷を抱えていたからである(P69)という主張もたしかである。アメリカは国内に植民地を抱えていたのである。アメリカでは黒人も含めた普通選挙は東京オリンピックの同年に公民権法が制定されたのに始まる(P77)。氏が、なんでアメリカが民主主義の本家本元ですか、と憤るのも当然である。欧米人はギリシアの選挙制度をもってデモクラシーの元祖だと言うが、ギリシアも奴隷制度に支えられた国であるのは実に皮肉なアナロジーである。

 氏の言う米国が神の国である、というのは同じ白人のイギリスから独立した国でありながら、宗教対立のため移民して独立したためにそうなった、というのである。アメリカにおける信教の自由というのは、最大限に見て聖書をいただく宗教に限る、ということである。その中にはイスラム教は入らない。日本が神の国である、というのは天皇の系譜は日本神話とつながっていて、天照大御神がまっすぐ万世一系の天皇である、ということである(P127)。それが嘘ではないか、という疑義に対する氏の反論がふるっている。イエスが生まれたのも復活したのも嘘か本当か分からないから、それに疑義をはさむ必要はない、というのである。

 鎖国についは、国際社会に向かって行かないという点ではずっと鎖国ではあったが、江戸期以前から西欧の情報は細々と入れた(P151)。中国は異質の文明だと気付いた頃から本当の鎖国は中国に対して行っていたというのだ。確かに氏の言うように中国には封建時代がなく、むしろ西欧世界の方が日本とパラレルに発達していったという感がしてならない。

 キリスト教世界の怖さを和辻哲郎の説で紹介している(P211)。和辻によればキリスト教の民以外の「土人」を絶滅するのは神の意志であるから土人を殺すのは自分たちではなく、神なのだ、というのである。だからインディアンを滅ぼすのは当然である。このことはパリの講和会議で米国のウイルソン大統領が「民族の自決」を言っているが、目的はオーストリア・ハンガリー帝国の解体というヨーロッパのことだけであって、アジアにも中近東にも適用されない(P250)のと軌を一にしている。西尾氏は反米ではないが常にこうして米国ないし西欧の根底にある恐ろしさに警鐘を鳴らしていることが慧眼である。


○戦後日本が失ったもの-風景・人間・国家 東郷和彦 角川書店

 著者は言わずと知れた開戦と終戦時の外務大臣東郷茂徳の孫である。失われたアイデンティティーという項目に期待して読んだが、勘違いであった。景観の話が以外に長かったのには少々うんざりしたが、傾聴に値する。しかしなぜ日本の街並みが醜くなったかについては別に論ずることとしたい。

 ここでは脱ダムについてだけ論ずる。下流の生態系の破壊や土砂流出の遮断による弊害はその通りである。本書では明確には書かれてはいないものの、あたかもダムが不用であるかのような論調である。そしてダムの役割を治水だけに限定している。これは脱ダムの論者がよく使う論法である。植林などによる緑のダムによってダムの治水機能の代替は可能であるからコンクリート製のダムは不用である、というわけである。時折群馬の草木ダムや高知の早明浦ダムの水位が渇水で低下して、給水制限が行われる、などというニュースが流される。脱ダムを主張する人たちはこれをどう考えているのだろうか。現に民主党がいったん中止した八ツ場ダムですら、水を利用したい周辺の都府県の反対で建設を再開したではないか。普段当たり前のように恩恵を受けながら黙して、困った時だけニュースを流すのはあまりに御都合主義である。脱原発問題で言われる再生可能エネルギーには水力発電は入っていないようだが、技術的に言えば再生可能エネルギーである。これらを閲するに元官僚の東郷氏の景観に関する主張は少々エキセントリックに過ぎるようであるのは意外であった。それどころか氏の考え方は官僚らしい保守思想はなく、左翼のリベラリズムに近いものさえ多い。

 ナショナリズムの章で、大平洋戦争が侵略戦争あり、その首謀者は「平和に対する罪」として断罪されねばならないという、極東裁判検察と多数判決の論理を、我が家では、一秒たりとも肯定したことはなかった(P137)と書く。しかし、同じページで、日本は、徐々に、戦争によってどのような被害を相手国に与えたのかという点について、学び始める、とも書く。ここで書かれている相手国は米英というよりはいわゆるアジア諸国であるように前後から読み取れる。しかしアジアで独立国であり日本と戦ったのは中国だけに過ぎない。それなのに当時米国領であったフィリピンを持ちだすのだ。どう読んでも氏は日本がアジア諸国に対する侵略国であったと考えているとしか読めない。ラトビアなどの現在のバルト三国の地域は、ドイツに蹂躙されたが、これはソ連に侵攻したのであってバルト三国に侵攻したのではない。しかもこの地域の人々には、独立のためにドイツに協力した人々さえいたのだ。

 同様にマレーなどで日本軍が快進撃をしたのは欧米からの独立を期待した現地の人たちの協力があったからだ。まず欧米のアジア侵略があった事に端を発している。日本が守勢に転ずるとこれらの地域の人々が連合国への協力に転じたのは、現実的対応としてやむを得ないのであって根本に反日感情があったのではない。東郷氏にはこれらのアジアの植民地の地域の人々の心の機微が全く分からないのだ。アジア諸国への侵略や日本軍の残虐行為など、結局東郷氏の書きぶりは東京裁判の結論に忠実である。氏の前掲の主張は平和に対する罪で断罪されるべき人々の中には、祖父茂徳だけは入っていない、と主張しているとだけしか読めないのだ。

 田母神空将との対話で、当時アジアへの勢力拡大の指導者であったひとたちから、アジアにおける日本の戦いに関する痛切な自己批判が繰り返し述べられている、として戦前の日本人の二例を挙げている(P146)。

 明治維新後、日本人は民族国家を完成するため、他民族を軽視する傾向が強かったことは否定できません。台湾、朝鮮、満洲、支那において、遺憾ながら他民族の心を掴みえない最大原因がここにあることを深く反省することが・・・(石原莞爾)
 もとより南京政府はすでに樹立され、汪精衛氏以下の諸君は、興亜の戦いにおいて我らと異心同心になっておりますが、支那国民の多数派その心の底においてなお蒋政権を指導者と仰ぎ・・・(大川周明)

 だが日本とこれらの地域の関係を、欧米諸国とその植民地に置き換えたとき、この文章のような批判を免れる国はない。それどころか李登輝氏が日本の統治に感謝しているように、日本の統治は欧米のように過酷なものではなかったし、台湾や朝鮮は収奪を目的とした植民地ではなかった。まして二人は兵士の残虐行為を批判しているのではない。石原や大川は李登輝氏が感謝するようなことすら許せないほど理想主義で潔癖だったのである。今日ですらロシアや共産主義諸国、独裁国家などにおいて、国内でこのような批判をすることができる国は皆無である。当時よくもここまでの言論の自由があったと賞賛すべきである。氏がこのようなナイーブな国際感覚で外交官をしていた外務省の危うさを空恐ろしく感じる。

 国民の総意に基づく国体(P159)と題して、日本国憲法が作られた過程をあっさり述べるのだが、国際法に違反して憲法や制度を次々と変えて日本を蹂躙した米国のやり方に対する怒りは微塵もない。それどころか、皇室の安泰は新憲法によって維持され、象徴天皇は日本の伝統に合致すると安易に是認する。

 「皇室の安泰」とは何だったのか(P162)、と題して、皇位継承問題と敗戦間際指導者が国家の存亡をかけて「皇室の安泰」を護ろうとした意味を問いかけている。そして我が国の皇室の安泰とは何だったか、と言い、

・・・私にも、よく分からないのである。けれども、この原点にたちもどるとき、なぜか、涙がこみあげてくる。それ以上に答えがないのである。

と言う。東郷氏は「皇室の安泰」という章を設けながら、天皇の存在が日本の統治の根源であり、皇室なくして日本という国は存在しえない、という認識はない。皇室に対する畏敬も感じられない。だからポツダム宣言受諾に当たって、日本が全滅する危機にあっても国体の護持に固執する指導者に不可解なこだわりを持っていたために無用に終戦が遅れた、という視点しか示さない。

 当時の指導者は東郷外相も含めて、皇室の安泰すなわち国体の護持がなければ、物理的存在として日本が残っても、本当の日本は消滅する、という危機感を共有していたのである。彼らは狂信的なのではなくて、ごく常識的な日本人だったのである。そのことは東郷氏には全くの理解の埒外である。正に東郷氏は皇室とは日本にとってどのような存在なのか「よくわからないのである」。東郷氏は祖父茂徳氏とは皇室観を全く異にしている。祖父を尊敬してるようだが、祖父の考え方のどこを尊敬していたのだろうか。ただ涙がこみ上げてくる、というのは無意識の皇室への尊敬の念と解したら誤解だろうか。

・・・敗戦ショックからすこしづつ立ち直る過程で、日本国民の中に、まず中国における日本軍の行動が、その一部において相当ひどいことがあったのではないかという情報が伝えられるようになった。東京裁判における残虐行為の追及がその端緒であったが、その後の動きは、占領軍の指示によるものとはいえない、日本人自身による発信を基礎としている。中国において戦後戦争犯罪人として収監され、共産党指導下で「学習」してきた人たちが、一九五六年から日本に帰り、一九五七年から中国帰還者連絡会を設立し、認罪運動を始めた。・・・どこまで真実を物語っているかについての、学問的判断は非常に難しい。しかし、普通の日本人にとっては、このようなことがあったのではないかという認識につがる基礎になっていったように思われる、と書く。

 氏の筆致は淡々として客観的であるかのように思われるがそうではない。P136で江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」を挙げているのだから、占領軍による「戦前の日本は何でも悪い」という作為的情報の中にしか戦後の日本人が生きていけなかったことは知っているはずだ。だから日本軍の残虐行為は占領軍の検閲や指示の結果であり、日本人自身の発信とはこれらに洗脳された結果なのだ。こうした閉ざされた情報の中では、嘘をついてまで日本軍の残虐行為を述べる元日本兵は例外ではない

 私自身も帰還者連絡会による本を二冊読んだ。これによれば大陸にいた日本兵は例外なく人間性を喪失したおぞましいほどの残虐な人物で、反対に中国人は心優しく勇気ある抵抗者として描かれている。また、恥ずかしくなるような美辞麗句を連ねて毛沢東と共産党指導部を褒めたたえている。まともに読めば中共政府の洗脳による全くの作文としか読めない代物としか考えられない。信ぴょう性のかけらさえ読み取れない。学問的真実など検討する必要さえない。今の中国では政府がテロ集団に等しいデモ隊を止めるどころか、バスで運ぶなどの支援あるいは命令している形跡さえある。これは義和団事件の暴徒と共同して日欧の外国人を襲った清朝の行動と酷似している。政府と国民のこのような自己中心の狂態と比較すれば、認罪運動に描かれた清廉潔白な中国人が全くの虚構であることは冷静に考えれば分かる

 彼らは10年間拘束されて徹底した洗脳を受けて帰ってきて対日政策に利用されたのだ。氏の言う普通の日本人の認識、というのは直接帰還者連絡会の本を読んだためではあるまい。刻苦してこれらの本を読んだ一部の作家やマスコミ人などが間接的にコラムやドラマという形で広げたものであろう。これらの戦争犯罪の告白本、というのは荒唐無稽で気持ちが悪く、読みとおすのは困難な代物だからである。しかし外交官をした人間が国際間にはこのような熾烈な情報戦争が行われている事を知らないし考えもしない、という東郷氏と同様の官僚が外務省では当り前であるとしたら、他国と比較して日本の外務省は外交を担当するに値しない。教育の章では、近現代史を教えない日本の学校教育、という章を設けているが、氏が教えるべきと考えている近現代の日本史とは何か、と心配になる。

 旧陸軍の親睦団体の偕行小社の「南京事件」を調査して3千人から1万3千人の不法殺人があったとして「中国国民に深く詫びる」(P139)とした結果を発表したことを書く(P139)。偕行社も罪な事をしたものである。確かに3千人でも不法なら大問題である。だが偕行社が不法殺人として数えたのは、安全区に逃げ込んだりした便衣兵の処刑である。偕行社は戦闘中の射殺などではないから、不法殺人としたのである。だが国際法上は戦闘中に戦闘員が民間人の衣服に着替えて民間人になりすました者、いわゆる便衣兵は、そもそも捕縛されても捕虜となる資格がないのである。戦闘中に兵士は公然と武器を保持していなければ、裁判もなく処刑されるのは国際法上当然である。軍服を着て階級を表わすものを身に着けて公然と武器を保持していなければならない。それがハーグの陸戦条約である。停戦していないのに民間人になり済ませば、隠し持った武器でテロを起こす可能性があるからこのような条約が作られたである。現に支那兵はそういう戦術もとった。恐ろしいことに米軍はサイパンの民間日本人を洗脳して沖縄に多数送り、日本兵に手りゅう弾を投げさせたそうである。ベトナム戦争でベトコンは女子供まで使ったゲリラ戦術を行ったから、興奮した米兵がソンミの虐殺などの不法行為を起こした。もちろんソンミの虐殺は断罪されて当然である。しかし一方で米軍に融和的な村長などを、ベトコンが見せしめに虐殺した事実も知られるべきである。これが共産主義の本質でもある。

 だから便衣兵を処刑しても合法である。裁判を行っていなかったから不法であると言う論者がいるがこれも間違いである。完全に停戦したら便衣兵はきちんと便衣兵か否か認定する簡易裁判もできようが、停戦していない最中に裁判ができようはずがないから裁判は不用である。皮肉な事に偕行社の人たちは国際法を知らないから、捕虜になる資格のない便衣兵を処刑したのを、捕虜を処刑したと考えたのである。

 ちなみに、映画プライベートライアン、で捕虜にしたドイツ兵を射殺しようとした主人公をフランス語通訳の米兵が止めて、戦闘を止めて国に帰れと諭して解放する。ところが最後に、かのドイツ兵が戦闘に参加していた。ドイツ軍不利となるとそのドイツ兵はフランス語通訳の前に現れて、武器を捨てて助けてくれと投降するが、怒りに駆られた通訳兵は即座に射殺する。皆様これは国際法違反でしょうか。正解は、違反ではありません。ライフルは捨てたから武器はないようだが、もしかすると拳銃を隠し持っているかも知れない。だから完全に武装解除を確認して身柄を確保するまでは捕虜ではないのである。だから通訳のしたのはあくまでも戦闘行為の一環である。厳密には全く白とは解せないかもしれないとしても、戦時国際法は自国に有利に解釈する慣行があるから、米軍が軍事法廷を開けば間違いなく通訳兵は無罪である。

 P139には森村誠一の「悪魔の飽食」が紹介されているが、これは歴史関係書としてはきわ物というべきで、まともなものではないのが東郷氏には分からない。「中国の旅」と同様に中国側のそろえた証言者の言う通り書いたもので、著者が検証した形跡がないし、書かれた人体実験は残虐行為であることを強調するだけの行為であり、人体実験の意味があるか疑問なものばかりだからである。731部隊の主任務は防疫である。大陸ではコレラなどが大発生したから防疫部隊が必要だったのである。防疫部隊は中国の民間家屋の消毒や治療も行っている。健康優良児だった小生の叔父も満洲に出征してわずか1か月もたたずにコレラで亡くなった。大陸とはそういう風土だったのであるから防疫が必要だったのである。

 世界各国のほとんどの軍隊では、毒ガスや生物化学兵器対策として、極秘に人体実験を行っている事実がある。731部隊が人体実験を行っていたとしたらそれと同レベルである。別項にも書いたが現に米国ですら、戦後プルトニウムによる人体実験を行い、かなりの犠牲者を出している。永遠に明るみに出ないであろうが、英仏独ソでも行われたはずであろうことは間違いはない。何せ中世の昔から英独は人体実験の本場なのである。中国などは現在でも言葉にできないような残酷な拷問をチベットやウイグルで行っているから、BC兵器対策として人体実験を現在でも行っていても不思議ではない。他国もやっているからといって許されるものではない、という論者もいるであろう。国家にも生存のために最低限の悪が必要であり、それは秘匿される。日本軍が人体実験をしたことを批判する者は、それを極限にまで残虐に歪めて表現し、故意に最低限の悪を超えている印象を与えると言う詐欺的手法を取っている。

 読後感であるが、氏は海外の経験豊富で良識の人であろう。何回も書いたが氏のようなナイーブな人が外交の最前線で国益をかけて戦っていたという点については、不可解に思える部分があると言わざるを得ない。氏の国益とは外国の長所を学び日本にとりいれ、何がなんでも外国と「仲良く」する、という事ではなかろうか。その点を頭に置けば、我々が経験できない幅広い海外経験については一読の価値があると思う本である。


○海戦からみた太平洋戦争 戸高一成・角川書店

 大東亜戦争の海軍の戦いについてコンパクトで適切に書かれているものである。ただ海軍の米内光政、山本五十六、井上成美らが反戦親英米の立場から三国同盟に反対したという常識論を書いている(P35)。その後三人が海軍政策から外れると対米強硬派が三国同盟に賛成した、というのだ。相澤淳氏の「海軍の選択」によれば事はそう単純ではないし、そうであろうはずがない。英米協調派と目される山本ですらロンドン条約の随員であった時、財政が厳しいことを言う大蔵省の賀屋興宣を「黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と恫喝したのであった。この本には山本がむしろ対米強硬派であり、海軍が三国同盟に反対したのも賛成したのも、建艦予算獲得のためであったことが書かれている。海軍幹部は戦後も嘘をついてまで海軍を護ろうとしている人士がいる。陸軍の行動は満洲利権保護による国家安泰と言う明瞭な目的があったが、海軍には国家なく海軍あるのみであった。前掲書は興味ある一冊である。

 閑話休題。昭和十六年七月下旬には海軍中央の対米強硬派の主導によって南部仏印への進駐が行われ、その報復措置として対日石油輸出を全面禁止した(P43)。しかし前掲書によれば米内光政は親ソ反米であり、山本五十六が航空整備に狂奔したのは反米の考え方からである。しかも「大東亜戦争への道」、によれば既に昭和十五年の夏には英米指導者が対日屈伏のために対日石油供給停止について立法まで含めて協議していた(P547)のであり、南部仏印進駐はその口実に過ぎなかった。米国は日本を追い詰める既定の路線を走ったのである。

 同書によれば、米国は欧州大戦の推移を見て、日本の南部仏印進駐より前にアイスランドを占領していてグリーンランドに空軍基地を設けていて、日本の南部仏印進駐を非難する資格はなかった(P570)。アメリカも日本も同様に資源確保や軍事的合理性からこれらの行動をとった。本書も結局は全てが日本の行動だけに原因して英米の対日圧力を正当化する、という愚を犯している。外交上の二国間の争いも、一方の国の行動に目を瞑れば他方の国の行動は理由も無い理不尽なものに見えるのである。

 山本の真珠湾攻撃の意図について、犠牲を顧みず真珠湾を徹底的に破壊し、敵の闘志を根本から萎えさせるという自らの真意を、南雲機動部隊にも軍令部にも知らせていなかった(P52)という。それを半藤一利氏の証言から、越後人の人見知りで口が重い性格に帰している。しかしこれは指揮官としては見当違いの話であろう。そして山本が、第二撃がやれれば満点だが、泥棒だって帰りは怖いんだ、南雲はやらんだろう(P54)、と言った、というがこれは前述の山本の意図に反した無責任な言動であろう。ここに記されたことが事実ならば山本は指揮官としての能力が欠如している。半藤氏も戸高氏も贔屓の引き倒しをしているのに気付かないのであろうか。

 山本五十六は知米派と言われている割に、アメリカの友人に宛てた書簡が全く見当たらない、という秦郁彦氏の指摘を紹介している。他の本でも指摘されているが、山本は何回もアメリカに行っているのにアメリカ人とは付き合わなかったのである。そして攻撃されれば猛烈に反発する米国人気質を知らないから見当違いに士気を阻喪するなどという意図を持ったのである。メイン号を忘れるな、とかアラモ砦を忘れるな、と言ったアメリカの戦史する勉強していなかったのである。だから自ら真珠湾を忘れるな、という標語をアメリカに追加させたのである。

もし日本が一時間前に宣戦布告をしていたところで、アメリカ国民は激高したのは疑いが無い。アラモ砦は奇襲されたので怒ったのではなく、守備隊が全滅したから怒ったのである。しかも守備隊は勝手にメキシコ領に侵入して砦を築いたのである。他国の領土に作った砦を全滅させられても怒る国民が、どうして自国の軍港の艦艇が全滅させられて怒らないと言えるのだろう。宣戦布告の遅れについて重箱の隅をつつく人たちの料簡が知れない。

真珠湾攻撃でもミッドウェー海戦でも事前の特別図演では日本側空母は全滅する、という結果が出たのに、それを抑え込んで作戦を強行したのは山本自身であった(P80)。戸高氏は反戦の人として山本を描こうとしているが、本書が並べた事実をつなぎ合わせれば、山本の重大な欠陥が浮かび上がる。

 ブーゲンビル島沖航空戦で、高性能レーダーと戦闘情報センターによる防空戦闘機隊の支援システム、近接信管を備えた高角砲弾を持つようになったため、従来に比べ隔絶した防空能力を持つようになった(P99)、と書く。実際にはそれ以前に射撃指揮装置の能力の差から昭和十七年の珊瑚海海戦でも南太平洋海戦でも日本の攻撃隊は大きな損害を受けている。防空システムにしてもレーダーにしてもこの時突然登場したのではなく、逐次進歩したのである。艦隊の防空能力に大きな差があったのは大戦以前からで、差が広がったのに過ぎない。近接信管の登場はマリアナ沖海戦からで、それも少しが使われたのに過ぎない。

 後半では艦隊航空を使えなくなった海軍が陸上機による攻撃を実施したが、それも次々と失敗に終わったことが書かれているが、この戦訓を考慮しない単調な攻撃はもっと批判されてしかるべきである。酸素魚雷の高性能が日本海軍から突撃精神を奪い、実戦での戦果が僅かであった(P128)と書くがその通りである。酸素魚雷も航続距離を短くすれば高速になる。従来の攻撃砲と同じ距離から発射すれば命中率は上がる。酸素魚雷が恐ろしく遠距離で命中した戦果の自慢が戦記にが散見されるが、そんな戦果は期待するものではない。

 武蔵の主砲の方位盤が魚雷一本の命中で使えなくなった(P165)と言って、大和型のメカニズムは複雑繊細でわずかな被弾で戦闘能力を失う、と書くが、繊細で脆弱ではあったが複雑だとは思われない。システムの全てが米海軍に比べ改良がはるかに遅れシンプルだったにもも拘わらず脆弱だったのである。である。大和型の欠陥は船体防御にも砲弾にも、いくらでもある。猪口艦長は武蔵が被害に強いことと、射撃に自信があったので射撃精度を高めるため雷爆撃に対する回避行動を行わなかった(P163)、とあるがこれは何かの間違いであろう。

 栗田長官は海軍を輸送船と刺し違えて終わらせることに躊躇してレイテ湾突入を放棄した(P174)と同情するが、戦後黙して語らなかった栗田が「疲れていた」とだけ語ったことが象徴するように、そんな立派なものとは思われない。米軍にすらあった、見敵必殺、肉を切らせて骨を切る、の敢闘精神が大戦前から日本海軍では少数派になっていた。被害を恐れるあまりアウトレンジで戦う指揮官が多過ぎたのである。

 最後は特攻の話で終わるが、人間魚雷を発案進言したのが中尉、少尉クラスであったように(P181)桜花などの特攻専用の兵器の多くが、下からの必死の提案でなされたのである。形式的にはともかく、根本的には上意下達の精神が少ない日本では兵士たちに、やむなしの気持ちがなければ特攻は実施できない。

 総評だが、これだけの大きく幅広いテーマなので、この倍以上の紙幅を費やして書きつくしてほしかった。これだけのページにまとめるならテーマを絞った方が良かったのではないか。



F機関-
アジア解放を夢見た特務機関長の手記 藤原岩市・バジリコ


 古今東西これほど高潔な軍人がいた、と言う事をこの本を読むまで知らなかった事は恥じ入る限りである。最も重要なのは弱冠三十三歳の藤原少佐の編成した少数のF機関の働きがインド国民軍(INA)の設立を促し(P132)、INAがインパール作戦に参加したことである。戦後INAが英印軍に対して反乱を起こしたとして、裁判にかけられたことがきっかけで収拾がつかない全国的な暴動が発生し膨大な死傷者を出したために、英国は統治権を返還、つまりインド独立を認めざるを得なかった。

 F機関ひいては大東亜戦争がインド独立の直接の契機であったのは間違いない。F機関が高潔で私心のない藤原少佐に率いられたからこそ、インドやビルマの人たちを結束させたのである。そんな組織を作った陸軍の見識も見事である。本人が経験も資質もないと誇示するのに敢えて命令したのは、軍幹部もそれなりの見識があったのに違いないのである。軍のバックアップには問題があったにしても、全ての軍人に藤原氏の高潔を求めるのは、理想主義に過ぎる。F機関の創設をさせたということだけで、国家組織としては充分高潔と言える。もし大東亜戦争がなければインドの独立は三十年遅れたとも書かれているが、単に遅れただけでは済まない。現在でもインドの公用語には英語もあるように、独立が遅ければ遅いほど、インド文化は喪失していったであろう。三十年は恐ろしく長い時間なのである。日本軍によるアジア侵略と信じ込まされている人たちはこの本を読んで、よく考えていただきたい。

 日本軍人の責任感の強さを伝えるエピソードがある。二名の日本兵が、若干の銀製食器類とマレイドルをマレイ人家庭から略奪したが、藤原少佐が咎めて部隊長に報告するよう命じて帰したところ、その日のうちに自決した、というのである(P106)。他にもマレーで略奪を行った日本兵を処罰する場面がある(P169)シンガポール占領の際、山下将軍は混乱を避けるため、市内には治安維持のための一部の憲兵を入れただけで、軍の主力は郊外に駐留した(P217)。これは米軍のフィリピン侵攻の際に、山下将軍が市内を無防備都市宣言をして市街戦を避け郊外で戦おうとしたことと同じで、市民の被害を極限しようとしたのである。ところが海軍の反対で市街戦を戦ったためにマニラ市民が米軍の攻撃で多数殺された。今でもフィリピン人は、米軍は市民を殺し過ぎたと心底では思っているそうである。そして陸軍にはこのような判断ができたのであって、戦闘を知らない海軍の誤断による失敗が大東亜戦争の陸戦に随所にみられる。太平洋の島嶼戦でも海軍は多数のイージーミスを犯している。

 インパール作戦は、戦闘としては大惨事となり失敗ではあるが、インド独立、ひいては全世界の植民地の解放につながり、現在の自由貿易社会はそれによって生まれた戦後日本の高度成長は植民地の解放なくしてはあり得なかったのである。インパールの犠牲者には犬死ではなかったと言うべきである。戦後の英軍の裁判でINAが告発されたのはINAが日本軍とともに英軍と戦ったからである。自由インド仮政府は英国に宣戦布告したのであり、INAの唯一の戦争がインパール作戦であった。独立の英雄チャンドラ・ボースは「・・・死傷の続出、補給の途絶、餓死も、進軍を中止にする理由にはならない・・・」(P308)と叫んで日本軍の作戦終了に最後まで抵抗したのである。英軍による裁判が行われている時期にインドの新聞は、インパール作戦においてINAが英軍に武勲をあげたと報道して支援した。

 いわゆる日本軍の残虐行為の記述については同意しかねる箇所がある。戦後間もなく書かれたことと、少佐の高潔な性格の故で同胞に対しても厳しかったのであろうと思うが残念である。マレーに進駐した日本軍は、華僑が晴天白日旗を掲揚する事を、一度は藤原少佐の要請で許可したものの、その後禁止した(P125)。英統治下でも彼らの祝日には祖国の国旗を掲揚していたのに、というのである。これに対する反感を英軍と共産系華僑が利用して、後方撹乱やスパイ行為を行った結果、華僑の摘発と虐殺と言う汚点を残したと言う(P230)。

 中島みち氏の「日中戦争いまだ終わらず」に書かれているように、史実はこんなナイーブなものではなく、計画的な不法行為に対する摘発であって虐殺ではない。藤原氏は支那事変についての日本軍の違法行為の噂も信じているのであるが、これも支那側の宣伝を容易に信じる少佐のナイーブさの証明であるが、だからこそこのような崇高な任務を行う事が出来たのであるから、絶対矛盾である。支那事変においては日清日露の当時より不法行為が増えているのは事実であるが、それは支那兵が行った日本軍捕虜の目を覆いたくなるような惨殺体を頻繁に目撃した兵士が、怒りにかられて行った同情の余地のあるものである。支那兵は国際法違反の便衣兵や女子供によるテロ行為など卑劣な戦法を常習した。ベトナム戦争でのソンミの虐殺などもこれに類することである。北ベトナム軍は米軍兵士や南ベトナム人を卑劣な手段で虐殺したが、日本ではその声が聞こえないのである。

 「訊問」の章ではチャンギー刑務所における残虐非道な捕虜への取り扱いが次のように書かれている。

 刑務所の有様は、さながら地獄の涯、賽の河原を思わせるものであった。畜生を扱うに等しい警備兵の仕打ち、飢餓ぎりぎりの乏しい粗食、陰険苛烈な尋問、神の裁きを詐称する前近代的な復讐裁判、獄の一角で次々と執行される絞首刑等、陰惨を極めた。将兵は、骨皮同然に痩せさらばえ、渋紙のように陽焼けし憔悴していた。

 これが戦後捕虜を人道的に扱ったと宣伝される連合国の実態である。まして誰も見ることのできない植民地で、欧米諸国がアジアの人々をいかに過酷に扱ったか想像できるではないか。フィリピンでは反抗する30万人の人をバターン半島に追い込み餓死させ、インドでは機織り職人の右手首を切り落とし仕事を奪った、などというのは氷山の一角にもならないのであろう。ナチスの蛮行は欧米人自身が告発している。しかし同じ欧米人が同じような事を植民地でしなかったはずはないのである。現にアメリカインディアンは絶滅したに等しい。ニュージーランドのアボリジニーはただの一人も残すことなく絶滅させられた。オーストラリア人の狩猟遊びのターゲットとして殺戮されたのである。

 藤原氏は現代日本人に重大な警告を発している。戦後日本人は占領下の痛苦に耐えて国土の再建を期していた終戦直後の祖国と同胞を知っていた、と言いながら直後に「その後浅ましく変貌したが」と書いているのだ(P337)。最後に藤原少佐の女婿の冨澤氏が、英軍将校にF機関の成功の理由について質問されたときの藤原少佐の答えを紹介している。これがこの本の全てを語っているが、諸氏は本書を読んでいただきたい。私はこれを書くに高潔と言う言葉を繰り返した。藤原氏を表わすのに語彙の貧困を恥じる次第である。


○「真相箱」の呪縛を解く・櫻井よしこ・小学館文庫

 真相箱と言うGHQが作った本が、日本の歴史観を歪めた、ということでその嘘を突く、と言う主旨は重大である。皮肉にも櫻井氏自身がGHQによる史観から完全には逃れられていないことを、この本は示している。以下にその例を示す。特に後半は戦史に属する部分が多くなるので、戦史に疎いと自ら認められているように、嘘を見抜けないものが多いのは仕方ない。日本人必読の好著であるが解説が少ない事に不満が残る。

 P35では南京攻略において虐殺は確かにあったと述べている。だが30万人より遥かに少ない人数であっても虐殺があったのなら、戦史における事件と言わざるを得ない。櫻井氏も数の大小に置き換えて逃げようとしているように思われる。通州事件は日本の民間人がむごたらしく殺されたそれこそ、歴史上の虐殺事件である。数は二百余人だがやはり事件として特筆すべきことなのだ。だから問題は数ではない。

 通常の市街地攻略戦においては、民間人も含めた不法殺害は絶対と言っていいほど0には出来ない。問題は当時の市街地攻略戦において通常やむを得ず起きる程度にとどまっているかどうかである。沖縄戦でも米軍は国際法違反の民間人殺害を行っているのは、米国人の書いた「天王山」にも描かれている。米軍の強姦や殺人は、戦闘が終結した地域でさえ行われていたのである。しかし沖縄大虐殺とか沖縄事件とは言われない。それが何故かを考えればよいのである。その意味において私は南京大虐殺や南京事件と呼ばれるべき歴史上のできごとはなかったと確信している。

 パターン死の行進、についても全面的に認め、その原因は日本軍の生命軽視や捕虜をとらない方針であったとしている。しかし近年「死の行進」は、多くの原因はマッカーサーが兵士を置き去りにして逃亡したことにあり、むしろ捕虜の生命を救うために捕虜を移動しなければならなかったことが、雑誌や書籍で明らかにされている。捕虜を取らないことを公言していたのは、米海兵隊の幹部であった。だから日本人投降者や野戦病院の傷病兵を次々に殺したのだ。

 日本兵が投降しなくなった原因のひとつは、投降者への虐殺にあったと米国人が認めている。狡猾な米軍は殺さなかった少数の兵士や民間人を徹底的に厚遇し宣伝に利用した。強姦された日本人の多くは殺害された。死人に口なしである。このことをどう考えるのだろうか。櫻井氏も人道的な米軍、残酷な日本兵と言うGHQどころか米国を上げて行った宣伝にみごとに引っかかっているのだ。

 対支二十一箇条の要求の項(p85)について日本のとった道はたしかに正道とはいえない。中国からみればとんでもないことである、と語る。その後世界情勢の枠内に置いてのみ、公正で真っ当な視点として成立するということだ。そうした場合、日本ひとりが不当な要求をしていたとの構図と批判は当たらないのである、と西欧との比較によって日本の行動を擁護しているものの、全体の調子は日本は中国に対して悪いことをしていた、という立場であると読める。

 だが、当時の中国はまともな国とはいえないのだ。櫻井氏にはそうした視点が欠けているように思われる。支那との租借期限延長交渉との過程で、日本がこうした要求をしたので支那政府がこれに屈せざるを得ないことにすれば、国内世論の反発を抑えて日本の希望を入れることができる、と言われてこうした形で公表されることになったのだ、という説さえある。今日でもあるように支那政府に利用されたのである。

 戦史に関する真相箱の嘘にも触れていない箇所があるが仕方ないだろう。昭和二十年に日本機の爆撃で大破した正規空母フランクリンは修理された上再就役した(p356)と書かれている。事実は、大火災で船体に大きな歪が生じ、復旧するには新造に近い大工事になるため、復役しなかった(世界の艦船2012.6による)。戦場より曳航されて後航行する事すらなかった。フランクリンがずっと予備役扱いながら正式に除籍されたのが昭和三十九年と遅かったのは、米海軍による誤魔化しである。程度は軽いが同様に日本機の爆撃で大損害を出したバンカーヒルも五十歩百歩だった。フランクリンは沈没したのも同然であったのである。

 日本の急降下爆撃機は、二十五日の朝小型空母セイントロウを撃沈しました(p251)、とある。護衛空母セント・ローを撃沈したのは、最初の神風特別攻撃隊とされる敷島隊の零戦である。他の個所でも真相箱は特攻隊の戦果を具体的に書かない。米軍は体当たり攻撃までして日本軍が抵抗している事実を国民に知られるのを恐れ、戦時中は報道させなかったのである。米国はいいことも悪いことも公平に発表していたなどというのは大嘘であるのは当然である。

 真珠湾攻撃の戦果を戦艦二隻撃沈としているのも、日本戦艦10隻を撃沈したと書いている事と比較すると巧妙な嘘である。真珠湾では、戦艦で大破着底すなわち事実上の沈没したのは5隻でそのうち3隻が浮揚修理されて実戦に参加している。日本戦艦12隻のうち、洋上で沈没したのは7隻、事故で陸奥が沈没、瀬戸内海で大破着底したのが3隻、長門だけが残った。真珠湾で大破着底した3隻が修理再就役したから撃沈ではないとするなら日本戦艦3隻も撃沈ではない。米軍にしても自軍の被害は少なく、敵の被害は大きく評価するのだ。



○日本を護った軍人の物語・・・近代日本の礎となった人びとの気概岡田幹彦・祥伝社

 明治維新から大東亜戦争の時期までに活動した日本軍人の物語である。正確に言えばただひとりだけ、民間人であるが陸軍の特別任務班員として刑死した、横川省三がいる。ひとつの特徴は、戦前からの著名人もそうではない人も、高官から下級将校もまぜこぜになっているのにもかかわらず、東郷元帥のように派手に陣頭で勝利に貢献した人はいないということである。

 さらにこの人選には著者が意識せぬ偏りがある。9人のうち陸軍関係が、7人である。また、大東亜戦争の軍人の中に海軍軍人は一人もいない、と言う事である。このことは海軍軍人が後世に残すべき貢献をした人物がいかに少なかったか、と言う事を物語っている。特にインド独立に貢献した藤原岩市少佐とインドネシア独立に貢献した柳川宗茂中尉の物語は、多くの人が否定する、大東亜戦争の目的のひとつは欧米からのアジア解放であったと言うことが誠であったことを立証する。

 確かに国家は負ける戦争をしてはならない、国家は自国のエゴを優先すべきであって、他国のために犠牲になることなど政治としてあり得ない、というのは一面の真実である。しかし明治以来欧米諸国と付き合って分かった事は、アジアの解放なくして日本の自存自衛はあり得ない、と言う事であった。確かに韓国と台湾の併合は日本の独立を守ると言う国家エゴである。

 しかし併合による近代化の内容は、単に国家エゴではなく、奉仕の精神もより多く含まれていたのも事実である。植民地として効果的に支配するのなら、欧米がアジア各地で行ったように、民族の分断支配や産業を欧米の搾取しやすいように変える、という方法を取るべきであった。アメリカのように独立派のフィリピン人をパターン半島に追い込んで30万人も餓死させる、という恐怖政治を行うべきであった。

 それをせずに、「植民地支配」した地域を近代化し、戦時に占領した地域に独立のための教育などをする必要はなかった。日本も国家である以上自存のためのエゴはあった。かし、それと同時に、国家としては他に比較できない位にアジア地域に献身的であったのも事実である。その精神をこの本は教えてくれる。日本は敗北したのが悪いのではない。負けて戦前の信念を喪失して、誇りを持たない、経済だけの大国に成り下がったことである。悪いのは戦争を決定し、あるいは戦って敗れた人々ではない。戦後に生きてこのような日本を作った我々が悪いのである。

 日本は他のアジア諸国のように唯々諾々として欧米に侵略されるほど愚かではなく、西洋文明を取り入れた国としては考えられる限り最も良心的な国であった。戦後の東洋の指導者には優れたリーダーがいる。しかし考えてみれば、何故そのようなリーダーを輩出している国が西欧の侵略を許したのか。これはパラドクスである。戦前の日本を正当に評価しないから生じたパラドクスである。


○書評・日米開戦の悲劇・・・ジョセフ・グル―と軍国日本 PHP研究所・福井雄三

 福井氏は、バランスのとれた見方のできる人であろうと思う。例えばグル―を大変な親日家としながら、一方で当時のアメリカ人に典型的な白人至上主義と人種差別意識を持ち合わせ、悪名高き排日移民法を強力に支持していたことも指摘している。多くの評伝に見られるように、惚れてしまえば欠点は隠す、と言う事はしないのである。松岡洋右についても、反米の好戦論者と単純に片付ける向きが多いが、実際には日米戦争を最も恐れていて、三国同盟推進の同期は日米戦の阻止であった事を書いてもいる。しかも松岡を日本外交史上最もスケールの大きく、かつリアリストであり、世界的大局観をもちあわせていた人物である、と評している。このような意外性、客観性が本書の魅力である。

 戦後のドイツについても、ナチスの行った国家犯罪は、反論も許されず過度に誇張され宣伝されているが、今は沈黙を守りながらもドイツ人は、歪曲された歴史を将来修正する日が来る、と書く(P184)。これは我が意を得たり、であった。ドイツ統一以前、私は、ドイツが一方的に批難されている第二次大戦期のドイツ史について、ドイツ統一がなったときドイツ人は昂然と歴史の修正を始める、と考えた。結果的には外れたが、いずれそのような時期が来ると、福井氏同様に考えている。戦勝国の洗脳で自虐史観がテレビなどのメジャーなマスコミを支配している日本とは違うのである。

 海軍はあくまでも陸軍の側女である(P53)、と言いきったのも明快である。従来の日本海軍批判は、大艦巨砲主義、艦隊決戦至上主義だとか、シーレーン防衛を怠ったとか、言われるが、これは個別的かつ枝葉末節であり、福井氏の指摘をもとに考えると明快になる。明治の海軍が心をくだいたように、戦地への兵員やの輸送の保護、国内への物資の輸送などの保護を行うのが海軍の役目である。海戦はその目的の達成のために結果的に生起するのであって目的ではない。

最も興味深いのは、対米宣戦布告が真珠湾攻撃開始から1時間近く遅れた件である(P141)。これまでのノンフィクションでは、前日に大事な電報が来ているのに、大使館職員はほったらかしにしたまま宴会に行き、解読を始めたのが攻撃当日で、その結果、宣戦布告が遅れる結果になった。しかもこの失態で誰も処分を受けないどころか、戦後まで順調に出世している、と例外なく外務省の無責任さを非難している。ところが福井氏によれば、海軍はぎりぎりになって、攻撃一時間前から30分前に縮めている。これは海軍が、宣戦布告により迎撃されて虎の子の艦隊を喪失する事を極度に恐れたからだと言う。それどころか、30分前の宣戦布告は建前に過ぎず、海軍は被害を恐れるあまり、通告が遅れる事を望んでおり、そのことを外務省と裏で連携していたのではないか、と言うのだ。氏が述べるように勤勉で時間厳守の日本人が、あのような失態を犯した理由も、何の咎めもなかった理由も腑に落ちるのだ。

それが事実だとすれば、私の思うのは、海軍は宣戦布告の遅れの責任を全部外務省になすりつけ、真珠湾攻撃の成果だけ誇り、戦後も真実を隠蔽して海軍善玉説に固執する海軍上層部の卑劣さである。本書では山本五十六の罪と無能を批判しているが、これについてはかなり巷間に知られるようになったことである。しかし平成24年に公開された映画「山本五十六」のように相変わらず平和主義者としてあがめる風潮がまだあるのは奇異の感がある。山本が軍隊の指揮官として重大な欠陥があるのには数々の明白な証拠がある。米内光政がソ連のハニートラップに引っかかっていたのではないか(P85)と言う説も興味ある。

 もちろん意見が相違する箇所もある。蒋介石を偉大な軍人で政治家であり、彼が支那大陸を制覇していたら、反共と言う日本の目的は達成され、日本と支那は新たな大東亜共栄圏を作り上げていただろう、と言うのだ。そして台湾を世界屈指の経済大国に成長させた功績を語る(P73)。しかし台湾の繁栄は日本の支配のもたらした功績が大であり、かつ台湾と言う適正規模の国家によってもたらされたものである。中共と同様に清朝の巨大な版図を引き継いで、大陸全土に幸福をもたらすようなことがあり得るはずがなかろうと思うのである。チベットなどの異民族支配のための強権的な帝国にならざるを得ないのである。

 東條内閣ではなく、近衛や東條が推薦した東久邇宮内閣が成立していれば、日米戦争は回避出来ていたかもしれない(P126)、と言う。だが別の記事で書いていたように、当時の米政府はこの時点では対日開戦に決していた。ラニカイと言うボロ船で最初の一発を撃たせたり、3百を超える大編隊による爆撃計画の準備が行われている。これらは計画ではなく、実行に移されていたのである。しかも日本爆撃計画は大手の米マスコミが公然と報道していたが国民に何のブーイングも起きなかった。一方で中立法の改正により、英ソへの軍事物資の大量支援を実行していた。これは国際法上戦争を意味する。政府はともかく、国民の多数派厭戦気分にあったなどと未だに多くの歴史書に書かれるが、到底事実と符合しない。真珠湾攻撃は乾燥しきっていた藁束に火を付けたのにすぎない。このように公表された事実を情報として共有しないから、無用な意見のすれ違いが起きるように思えてならない。


やぶにらみ書評・「グリーン・ミリテク」が日本を生き返らせる
  兵頭二十八・メトロポリタンプレス


 タイトルが奇妙なのだが、兵頭氏らしい鋭い指摘が多い。

1979年の中共のベトナム侵攻は、日本ではベトナム軍が侵略した中共軍を追いだした、との説が一般的である。氏によれば孫子の兵法にのっとり、一撃で撤退をする計画を実行したのに過ぎない、というのである。しかもベトナムに教訓を与える事にも支那の国内の引き締めにも成功したと言うのである。確かにこの事によって、中共の国内外への威信も落ちず、経済発展を始めたのもこのころからだから、氏の指摘は正しいのであろう。

・中共は米国全土を射程に入れたICBMを一貫してわずか20基程度しか持たない。これでは米国はこれら全部を先制攻撃で破壊できる。従って中共は米国と全面的に対峙するつもりはない、というのである。これはソ連が全面的に対抗しようとして崩壊したことからの教訓だそうである。

・他にもいい指摘は多いのだが、兵頭氏らしい()ミスもある。バケツに水をいっぱい入れて全部凍らせると氷はバケツからはみ出すが、再び溶かせば元の水位に戻る、と言う。当たり前の話である。驚いた事に兵頭氏はこれを地球温暖化で北極大陸の氷が全部溶けても海面は少しも上がらないことの証明にしているのである。

 もう読んでいる方にはお分かりなのだが、くどいのを承知で説明する。水位の比較は氷が溶ける前と溶けた後で比較しなければならないのであって、水が氷る前と溶けて元の水に戻った後の比較は意味をなさないのである。全部凍っていれば水位はバケツの底である。氏は、氷が溶ければ水位は上がる、の証明をしたのである。証明は、バケツに水を途中まで入れて、氷塊を浮かべたと仮定して氷が全部溶けても、水位はみじんも変化しないことをアルキメデスの原理によって示せばいいのである。

 どうも兵頭氏には物理や工学と言った方面にこのようなミスが見られる。他の例は「技術史としての第二次大戦」の小生の書評をご覧いただきたい。

・ミスの指摘が長過ぎたが、世界情勢を兵頭氏らしい意外な視点から多いので一読の価値あり、と言っておきたい。


ミッドウェー海戦・その時、艦隊はどう動いたか・「運命の5分間」の真実
     左近允尚敏・新人物往来社


 正直なところ、「運命の5分間の真実」という副題に惹かれて買った。しかし著者が元自衛官ではあるが、海軍兵学校の卒業者と知って一瞬後悔した。海兵出身者には旧海軍を擁護して嘘までつく人物さえいるからである。これは杞憂だった。大東亜戦史を考える日本人にとって、ミッドウェー海戦は誰にとっても痛恨の一戦である。そこで有名なのが「運命の5分間」である。私が「運命の5分間の嘘」説を目にしたのは、澤地久枝氏によってだったが、その論拠を読み損ねていた。

 ミッドウェー海戦の「運命の5分間」とは何かを復習して見よう。著者は「運命の5分間」説の元となった当事者である草鹿参謀長と淵田「赤城」飛行隊長の証言を紹介しているのでこれを見るのが早道である。二人とも明快に「攻撃を受けたのは戦闘機の1機目が発艦しあと5分あれば攻撃隊は全機発艦する時だった」と言う趣旨の事を述べている。つまり「運命の5分間」とは、あと5分後に被弾したのなら、攻撃隊は全機発艦を終えていたから、あれほどの被害はなく、攻撃隊は米空母群を全滅させた、というのである。たった五分の差が天国と地獄の差を生んだ。つまり南雲艦隊は運が悪かっただけであった、というのである。

 結論から言うと「運命の5分間」が嘘であるのは、本書のP282~283に単純明快に書かれている。すなわち次のふたつの資料による。

①米国人による日本側の海戦参加者からのヒヤリングでは、攻撃された時点では雷撃機は兵装の再転換は終わっていたが格納庫にあった、と整備員やパイロットなどが証言している。つまりまだ飛行甲板には1機も上がっておらず発艦寸前どころではなかった。

②防衛庁の「戦史叢書」によれば、当時は攻撃準備中で兵装復旧もできていなかった。直前に南雲長官が上空警戒の零戦を発艦させるよう命じ、被弾直前に赤城の1機だけが発艦したという。

 若干の相違はあるが、共通しているのは搭載機はまだ飛行甲板には上がっておらず、発艦の準備は終わっていなかった、ということである。従って攻撃隊が発艦寸前だったというのは嘘で、せいぜい発艦できたのはただ1機の上空警戒機であったということである。草鹿も淵田も上空直掩の零戦の発艦を攻撃隊の発艦と誤魔化したのである。戦史叢書と言うのは戦史研究者なら一般的に知られている一種の定本であり、これが明快に運命の5分間を否定しているのである。

 だがよくよく二人の証言を読めば、嘘だという事はばれる。資料(*)によれば、大戦中の米空母の場合、カタパルト発艦で1分に2機、直接発艦で1分に3機で、60機を発艦するのに単純計算で20分とある。いくら日本機の搭乗員の技量が優れていても各々数十機ある3空母の攻撃隊が一斉に5分で全機発艦できるはずはないのである。

 よく放映される日本空母から乗組員に見送られて零戦が次々と発艦する実写フイルムがある。素人目にも5分で攻撃隊が全機発艦できようはずがないのは分かる。第一米空母フランクリンの被弾の例でも分かるように、格納庫にあった艦上機のガソリンや兵装に引火したことが被害を大きくしたのであって、全機が飛行甲板にあれば被害はこれほど拡大しなかった。馬脚は既に現れていたのである。艦上機運用のプロがよくこれだけの見え透いた嘘をついたものである。

 もうひとつ。残った飛龍の第一次攻撃隊が発進したのは10時50分から58分の間である。(P194)この時既に3空母の被弾を知り山口多聞少将は拙速で取り敢えず飛行甲板上の24機の攻撃隊を発艦させた。従って被弾した3空母の攻撃隊発艦もこれ以上早いことはあり得ない。しかし米軍機は10時2分に急降下爆撃を開始した。日本の最初の攻撃隊が発進する1時間近く前である。最初の命中弾は10時20分頃であるが、それでも30分以上前である。あらゆる証拠が運命の5分間を否定している。ちなみに飛龍の攻撃隊の発艦は24機で8分と、さきにあげた1分に3機というデータと恐ろしい位一致する。

 私はもうひとつのイフを考えた。著者が言うように、もしも山本長官が南雲艦隊に空母の存在の可能性を知らせ、無事攻撃隊を全機発艦させることができた場合である。珊瑚海海戦の戦訓が示すように、米艦隊の防空能力は相当なものである。しかも空母対空母の戦闘は激しい殴り合いになる。双方応分の被害は出る。しかも艦上機数の比率は日本278機対米234機で空母の数の比のような格段の差があるわけではない。本書でアメリカの戦史家が言明している通り、南雲艦隊も2隻程度の喪失はあったはずである。

 しかも対空砲火と直掩戦闘機の配備は米海軍の方がはるかに優れているから、攻撃隊の損害は日本側の方が多いはずである。実際には搭乗員の喪失は米艦上機の方が多かったが、これは米海軍の方が攻撃隊をはるかに多く出撃させたために直掩の零戦に多数撃墜されたことによる。対空砲火は米艦隊の方がはるかに優れているから双方が等しく攻撃隊を出せば、この比率は逆転する。米機動部隊を撃滅しえたとしても、南雲艦隊も空母、機材、搭乗員に甚大な損害を受けていたのである。

 米空母は被弾しても飛行甲板が使える事が多いのに反して、日本空母は致命的損傷が無くても被弾すると飛行甲板は使えない。帰投した攻撃隊は飛龍に収容しきれずにほとんどが海没する。そこに基地航空隊が襲いかかったら被害は拡大しただろう。艦上機の兵力で日本艦隊は僅かに優勢(278:234機)なだけであって、基地航空隊も含めたら(278:359機) 兵力は逆転する。南雲艦隊の惨敗はないにしても、この兵力差ではよほどの幸運が無い限り圧勝は考えられないのである。引き分けと言うのが妥当なところであろう。それならば珊瑚海海戦同様にミッドウェー島攻略はできなかった。結局攻撃の目標達成に失敗したであろうから日本の敗北である。ミッドウェーの教訓は巷間言われる情報や索敵の軽視以外にも多くある。それにしても大東亜戦争から教訓を得るのに、旧海軍の幹部の虚言癖、とでも言うべき嘘の証言ほど困ったものはない。

*歴史群像・太平洋戦史シリーズVol.22空母大鳳・信濃P158


○「仮面の大国」中国の真実 王文亮 PHP研究所

 期待の1冊であった。何せ図書館に予約しても在庫は多いのに先着の予約が多く、借りることが出来たのは、1か月後だったから。著者は研究者である。1つのテーマに関して、かなりなスペースとデータを使って延々と実証的に追及する。反面素人の読み物としては冗長に感じる。この本の最大の指摘は、GDPは中国経済の実態を表しておらず、外資系企業により巨大なGDPのほとんどが支えられているのに過ぎない、と言う事だろう。

 GDPでは属地主義の経済指標であるため、中国の土地において生みだされた付加価値額を表しているだけで、中国人が生み出した価値ではない、ということである。だからGDPがいくら大きくなろうと中国人自身が得る所得は大きくなってはいない。実際、ほとんどの国民にはそんな経済大国になっているという実感はないというのだ。本当はGDPから外国企業が稼いだものを引き、中国企業が外国で稼いだものを足した、GNI(国民総所得)が国民の収入の実態を表している、というがその通りである。中国は外資を導入して見かけの経済規模だけ大きくなっているのである。自ら汗を流して働くのではなく、人の稼ぎをあたかも自国のものであるかのように見せているのである。

 この他に指摘されているのは、一人っ子政策に代表される、人口政策と汚職の問題である。汚職については、公務員の汚職かと思ったら、民間であっても職権乱用による腐敗がある、というのには驚いた。例えば自動車学校で順調に試験をパスしたければ、試験官に物をあげたりする必要がある、というのだからさすが中国である。ただ気になるのは、一方で公務員の汚職が共産中国だけではなく、歴代王朝の伝統である、といいながら、最後に汚職の監視システムなどによって事態を改善することは、共産党の独裁が続く限り無理だと言って、結局民族性に原因を求めていないことである。

 また著者には中国人らしい恐ろしい人権感覚があるように思われる。巨額の汚職に対して死刑に執行猶予が付いたのに対して、金額の大きさから死刑を言い渡してもおかしくない、という見解に対して疑問を呈していないことである。近代国家で汚職によって死刑になる、というのは考えられることではあるまいと思う。


○現場からの中国論・大西広著
 結論から言うと、見方を間違えれば、ここまで誤った認識が生じる、と言うことの典型である。

 例えばチベットに関する見方である。著者はチベットへの中共軍の侵略を中共政府が言う通り、農奴制からの解放という理由を素直に信じている。

 解放前のチベットがいかに野蛮な社会経済システムをもっていたかは、この農奴制からの解放をチベット人民が当時確かに歓迎したことによって確認できる。(P68)

のだそうである。セブンイヤーズインチベット、という映画はチベットに突然入りこんできた人民解放軍が、狡猾な手段と暴力でチベットを占領したことを当時チベットに住んでいた西洋人の目で語った映画である。仮にそのことが、この本の著者の言うように事実ではないとしても、映画の製作者はそのように描いたのである。それにもかかわらず、この映画を見たある女優は、中国の田舎を描いた素晴らしい映画だと評している。思い込みによってここまで目が曇ることがあるのだ。著者がチベット人民が人民解放軍を歓迎したというのは、チベットの民衆から聞き取ったものであろう。著者はこっそり聞きとったのではなく、中共政府が派遣した通訳を通して聞いたのであろう。著者は中共が言論統制の厳しい国であり、もしチベット民衆が人民解放軍は恐ろしかった、などと言えば拘束されて拷問されるか殺される、などと言う事には思い至らないのである。何せ

 日本ではあまり気楽に「中国の言論統制はけしからん」と言うが、その言論統制によってわれわれ日本人への反感が抑えられているという現実も知らなければならない。(P126)

 と言うのだから。西欧の植民地支配は今日表だって語られるより遥かに過酷なものであった。それが反西欧感情として表れないのと比べると、中国だけ何故現在でも反日感情が強いのであろうか。それは中国の若者の反日感情なるものが中共政府の教育と言論統制によって作られたものだからである。過去の暴虐の記憶による他民族への自然な怨恨感情は時間がたつと潜伏し鎮静化する事はあっても段々過激になることはない。中国における反日感情なるものは、支配者の都合で作られたものである。それが過大になるとかえって反政府感情の口実になるために、言論統制で抑えるのである。つまりマッチポンプである。著者は、言論の自由は都合によって弾圧してもかまわない、と言っているのに等しい恐ろしいものである。著者は日本政府による言論統制を認めよ、と言うであろうか。ある例外を除いては言うまい。その例外とは中国批判である。

 また、この農奴制で存在した野蛮な拷問や刑罰も批判の対象となっている。これは「農奴の怒り」と入れてホームページを検索すれば誰でも見られることであるが、生きた人間の皮を剥いだり、目を刳り抜いたりといった身の毛もよだつ野蛮なものであった。・・・また「人権」を主張する者が人民解放軍による「解放」を非難できないことも確認しておきたい。(P68)

 
確かにホームページには「塑像群《農奴の怒り》」[北京 外文出版社(1977年)と言うのが載っていてまえがきがあり、中に虐殺の犠牲者の人骨や手を切られた人の骨とか、生きたままはぎ取られた人の皮の展示写真がある。これが本物だという証拠はどこにあるのだろうか。本当にチベット人が行ったものであろうか。ここに書かれていることは、1997年に中国で作られた「ダライラマ」と言う映画にも出ている。これを見て残虐なチベット人と言う話を信じる日本人もいるのである。参考になるのが「図説 中国酷刑史」である。昔の中国での残虐な刑罰が数々示されていて見るに堪えないほどである。それには眼えぐり、と言うのがある。凌遅と言う簡単に殺さずに苦痛を長引かせる恐ろしい刑罰がある。手を切断したり、体中の表面の肉を切り削いだりしているものがあり、西洋人が撮った写真による絵葉書さえ載せられている。

 これらを行ったのは漢民族であってチベット人ではない。人は自らの行為でしか想像できない。例えばロボコップ、と言う映画で主人公の警官を足を撃って動けなくして苦痛を与えた挙句とどめをさす、と言う場面がある。これは単なる空想の話ではない。アメリカ人は昔フィリピンの独立の闘士を同じようにして惨殺しているのだ。しかも何日も生かして苦しめてである。つまり中共政府は自分たちがした酷刑をチベット人に投射したのである。著者はチベットで中共政府が弾圧拷問を繰り返し、大量殺人を行っている事には言及しない。それは過去のことではない。現在進行中のことである。残虐なダライラマ支配を倒すために人民解放軍が侵攻したのなら、中共政府の主張するのと同じ残虐行為を今行っているのは何故だろうか。中共政府に比べればダライ・ラマ亡命政府などはごくごく弱い存在に過ぎない。その弱い存在の主張に耳を傾けず、強い中共政府の主張ばかりなぜよく聞くのだろうか。

 ダライ・ラマについても

 彼についての批判は別に私が始めたわけではない。ダライ・ラマはオウム真理教指導者と何度も会ったり、一億円もの支援金を受け取ったり、合同供養を行ったりして、最後にはオウム真理教の宗教法人としての登録に推薦状を書いているから、日本での「オウム事件」にも責任がある。・・・またCIAから一七〇億ドルもの資金提供を受けていたのも、本人が認めている。このように、とても褒められない残念な経歴をもっている。(P72)

 確かに褒められない経歴である。宗教法人になるのを助けたために、オウム事件に責任がある、と言うのなら、そもそも宗教法人として登録させた日本政府に責任がある、と言う馬鹿な事になる。犯罪者に騙された人を愚かだということはあっても、犯罪に加担したとは言うまい。オウムとの関連は、いかにダライ・ラマがおおらかで騙されやすい性格であったことを証明しているのに過ぎない。CIAからの資金提供を受けたのは、亡命政府の困窮からしたことであって好ましいことではなくても止むを得ざることであったと思う。日露戦争の牽制のために、明石元二郎は革命運動家に莫大な資金提供を行っていてロシア革命成功の一助となった。だが明石に支援された革命運動家たちを今日批判する者がいるであろうか。ダライラマが中共に対抗するためになりふりかまわずアメリカの謀略にのったのは同情してあまりある。ダライ・ラマの亡命政府を悪だと考えて、中共のチベット侵略を擁護する立場だからこのような批判になるのだ。

 その後ラサ暴動についてダライラマが関与したとして批判していることなどは中共政府の主張を丸のみしていることの証明でしかない。何故弱いチベット人が暴動を起こさなければならなかったのか。その結果チベット人が過酷な弾圧を受けたのかには想像も至らないのである。そして「暴徒」が寺院に大量に武器を隠していた、と批判する。中共政府にとっては「暴徒」である。しかし武器があったとしても、政府軍の武器に比べればおもちゃに過ぎない。暴動は止むを得ざる暴発であって、独立運動ですらない。それならば日本支配下の朝鮮における反乱を暴徒のしわざと言うのだろうか。ソ連支配下の国々、あるいはソ連国内でも暴動が起きた。しかし当時のマスコミや知識人はそれに対して批判的であった。そしてソ連崩壊後の現在では収容所群島ソ連と東欧の民主化運動弾圧の真実が明るみに出つつある。当時ソ連を擁護した知識人は、自らの間違いを黙して語らない。そして著者は現在の中国の圧政と言論統制には批判の目を向けないのである。

 著者は善意の人なのであろう。だが善意で行ったことが必ずしもいい結果を生むとは限らない。まして他国の圧政に利用されればなおさらである。私がソ連が素晴らしい国である、ということを信じなかったのは簡単な理由からだった。鉄のカーテンと言われるように国内を閉ざし、外国人が自由に出入りてきない国であった。ソ連は素晴らしいと言っているが、それならば素晴らしい国をどうして隠す必要があるのか、というだ。アメリカなら自由に旅行が出来る。その結果悪い所も見ることができる。だから見聞きしたこと自体に間違いはない。たがソ連は外国人をいいところだけ見せるようにコントロールしていたのである。その極端な例が北朝鮮である。外国人が旅行をできる範囲を限定して、そこを映画のセットのようにすばらしい街を作ってすばらしい人民を演じる役者を配置しているのだ。

 だからそこにいる限り、訪問者は北朝鮮を素晴らしい、この世の天国だと誤認する。そのような認識で書かれた日本人学者の本を昔読んだことがある。それによれば飢餓も言論統制も強制収容所も公開処刑もない、それどころか犯罪も起きない国である。中国のような独裁国家はそのような統制が容易にできる。しかもソ連や北朝鮮の嘘がばれているから、やり方は巧妙になっている。まして改革開放などといって外国資本がどんどん入ってくると本当に自由な国なのではないかと錯覚するのである。私は中国に一度も行ったことはない。著者は何度も何度も行って見聞が広いのであろう。「現場からの」と言うのは自ら中国に言って見聞した、と言う事を言っているのであろう。だが「現場」が巧妙にコントロールされたものならば、かえって自由に見聞した結果であると錯覚してしまうだけである。

 このように無条件に中共政府の言う事を信じる人たちに共通していることがある。彼らは、毛沢東が行った粛清の何千万ともいわれる大量虐殺や飢餓、チベット、ウイグルなどの「少数民族」への弾圧拷問虐殺などの非難に対して反論するどころか、そもそも全く言及しないことである。著者は毛沢東について言及していないのではない。毛沢東と「社会主義」と言う章さえ設けている。

 しかし、こうして建国以前の毛沢東が素晴らしければ素晴らしいほど、それがどうして(一九五七年からの大躍進期と)文化大革命期にあのような「ひどい」指導者となったのか、と多くの人々は疑問に思うだろう。

 著者は「ひどい」とはどういうことかその後全く書かない。著者は大躍進や文化大革命についてちゃんと言及している。いずれについても現在考えられる最大限肯定的な評価をしているのである。人民公社はその後の経済成長の基盤を形成したし、文化大革命は権力闘争ではなく「正真正銘の階級闘争であった」と言うのだ。彼にとっては毛沢東による粛清や飢餓による何千万と言う犠牲者はなかったかのようである。著者のいう「ひどい」指導者の毛沢東とはあくまでも「」付きであって本当にひどいとは思っていないのである。中国情報がこれだけ明らかになった現在でも、かつて北京は清潔でハエ一匹いない、と書いた大新聞の幻想と変わらない認識ができる、と言う事実は、人間の先入観はどんな情報を以てしても覆せないことがあることを示している。まして収容所に隔離された千人余の日本人捕虜を洗脳することなど容易な事であったろう。


昭和陸軍の軌跡。永田鉄山の構想とその分岐・川田稔・中公新書


 論旨は明快である。前半は永田鉄山の国家総動員論について説明している。後半は欧州戦争勃発に呼応して、対ソ戦と対英米戦の構想についての、武藤章と田中新一の対立について叙述している。永田の構想は、戦時の国家総動員について、戦時の動員ばかりではなく、平時の準備と構想が必要である、というのである。

 永田の構想を引き継いだ二人は、支那大陸と南方における資源確保という点では共通するものの、田中は対ソ開戦論者であり対米戦争不可避と考えているのに対して、武藤は対ソ戦は行うべきではなく、対米戦も回避すべく努力したという。この本だけ読むと特に田中などの陸軍の唯我独尊で日本の国力をも考えない軍人官僚の典型、と読める。だが、そこに至るまでの幕末以降の日本の環境、というものが書かれていないからそう読むのである。もちろんこの本にそこまで書く目的が無いから、片手落ちと批判するのは筋違いである。この本は、当時の時局に対して陸軍の主流となった統制派の軍人官僚、永田鉄山、武藤章、田中新一の考え方の動きを詳細に叙述して貴重である。石原莞爾については付け足しであろう。

 明治以来の日本史を概括してみよう。迫るロシアの脅威に対して、安閑と構え清の属国に甘えて自立しない不安定な朝鮮の独立のために日清戦争を戦った。しかし弱体化する清朝は満洲をロシアに奪われても危機感が無く、朝鮮まで併呑する構えであった。日本は満洲を奪われないために日露戦争を戦ったのであった。ここで満蒙権益なるものを得ることになった。それは資源や市場を持たない日本にとって貴重なものであった。ここで現代日本人が忘れた、江藤淳氏によれば忘れさせられた2つのことがある。

 第一は、戦前の世界は、弱い民族は西洋に植民地化されてしまう弱肉強食の世界であって、民族の独立を保つには、強い軍隊を保持しなければならなかったのである。日露戦争で日本は精強陸軍と無敵艦隊の評価を得た。米海軍士官にとって東郷元帥はあこがれのまとですらあった。米軍は目の前の呉軍港は徹底的に破壊しながらも、海軍兵学校には1発も撃たなかったのである。

 第二は、軍備が近代化すればするほど、強い陸海軍を保持するには、多くの資源と経済活動のための市場を必要とする。米英のテリトリーの外でこれらを獲得する場所は支那大陸しかなかった。日本の強い陸海軍とは、いつその基盤を失うかもしれない極めて脆弱な存在だった。既に日本の満洲での独占的権益は確立していた。そのことはリットン調査団でさえ許容していた。悪いことに、米国は「門戸開放」と称して支那本土と大陸に進出を図った。一方で自らは中南米は他国の進出を許さない聖域としていたのにである。そう言う米国が自らの生活圏は犯してはならず、日本の死活的利益にかかわる地域には進出させろ、と言うのはいかにも勝手である。

 しかも大陸は清朝崩壊後の戦国時代であった。国際法上は中華民国として承認されていたが、実態は地域政府と軍閥が乱立していた。ようやく蒋介石政権と共産党に収束したのは日米開戦の頃に過ぎない。しかもこれら地方政府と軍閥は、外国軍隊の干渉によって支那の統一を行おうとしていた。そのターゲットに選ばれたのがお人好しの日本であった。そういう当時の状況を考えれば、永田、東條、武藤、田中ら統制派軍人の考えはアメリカに比べれば強欲どころか、辛うじて日本の独立を維持しようとする努力に過ぎない。日米交渉が妥結しても結局日本は陸海軍を維持できなくなり、欧米に侵食される運命だったのである。

 だから本書にあるように、武藤に反抗して対米早期開戦を叫んだ田中の主張も一理ある。彼らは日本が真剣の上を素足で歩いているような日本の状況は百も承知していたのである。田中が武藤軍務局長や東條首相と罵倒を交えた大喧嘩をしたのは私心によるものではない。保身であれば更迭されるこんな行為は避けるのである。陸士や陸大で戦史を研究して日露戦争は辛勝に過ぎず、運よく勝ったと考えたの石原莞爾ばかりではなかった。石原はそれを公言し、他の軍人が言わなかっただけのことである。彼らは無敵皇軍と言う神話を信じていた愚か者たちではない。無敵皇軍でなければ日本は存立できないと考えていたのであって、ただひとつの望みだったのである。大東亜戦争の結果、有色人種の民族自決が成り自由貿易が出来る現在の状況が、戦前にもあったかのごとくの誤解が全ての間違いである。

 また、本書にあるように永田らの陸軍が日本の政府を牛耳ろうと考えたことについても一言しておく。日本の存亡に死活的な存在となった満洲の安定に、幣原外交を始めとする日本外交は無力であった。支那の無法に対して余りに妥協的であった結果、支那からは侮日を受けた上に、欧米からは支那と妥協して出し抜くつもりではないかと疑われて、対日政策を硬化させる体たらくであった。しかも政党政府は何ら展望を示さずに統帥権干犯などと軍事を政権争奪に利用するありさまだった。しかし陸軍軍人は官僚化したとはいえ、関東軍と言う最前線で抗日侮日に向き合って、日本の満洲政策の失策を見せられて、しかも在留邦人の保護をしなければならない現実から、日本の戦略とはいかなるものでなければならないかを身を持って知らされていたのである。その点、海軍は陸軍との予算獲得競争にだけ勤しんでいたのであって、政党と同じく国家戦略の展望を持つ必然性はなかった。

 本書で米国が対日戦を決意したのは、欧州戦争の勃発に伴う英国の崩壊を防ぐためであった、と言うのは一面正しい。しかしこれだけではない。資本が支那大陸と満洲にしか活路を見いだせず、アメリカも同じ所にフロンティアを求めている以上、日米の対決は避けられなかったのだし、日米開戦の動機のひとつともなっている。そうでもなければ、支那から発進した数百機の大編隊で日本本土を爆撃しようという計画が真珠湾攻撃当時進行中であった、ということを説明できまい。

 本書で驚かされるのは、昭和十六年四月の時点で米国の世論調査では、欧州参戦支持が80%余りあった、という重大な事実をあっさり書いていることである。今までの日本の常識では、真珠湾攻撃が始まるまでは米国民は厭戦気分に満ちていて、真珠湾攻撃がこれを吹き飛ばした、ということになっていた。以前私は、欧州戦争に米国が中立を犯して公然と支援していたことと「幻の日本本土爆撃計画」と言う本にこの計画が大手マスコミで大々的に報道されていたことから米国に厭戦気分はなかったと論じたが、これは正しかったのである。だから山本五十六が開戦通告が遅れたことを知って思慮深げに、「これで眠れる獅子を起こしてしまった」と怒っている「トラトラトラ」という米国映画の場面がいかに噴飯ものか分かる。

 それにしても、米国民が厭戦気分だったという誤認はさておいても、日本に最初の一発を撃たせようというルーズベルト政権の計画はいくらでも実証されているのに、当時米政府が開戦したくなかったなどという馬鹿げた説すら公然と日本では流布されている。このように客観的な事実に対する認識の共有すらなくては、日本の近現代史の論争は永遠に空回りし続けるのである。日本人はあの巨大な大東亜戦史から何の教訓も得ていない。それは米国の巧みな言論統制と洗脳によるものであっても、現在ではそれを打破する情報はいくらでも市井にすらある。


日本は勝てる戦争になぜ負けたのか・新野哲也・光人社_H19.8

 全般的にかなりの思い込みと直感で書かれている。このことは著者自身も自覚している。直感で書かれていると言うのは悪いことではない。仮説と言うものは多くがそのようなものだからである。著者の主張を大雑把に言えば、方向こそ異なれ、陸海軍にそれぞれ日本の敗戦による革命を望んだものがいたから、勝てる戦いを負けた、と言う事であろう。これは必ずしも唐突なことではない。当時のアメリカ政府中枢はソ連のスパイに占拠されていて、外交の多くが決定されていた、と言う事は戦後のレッドパージで証明されている。ゾルゲ事件に象徴されるように、日本でもソ連のスパイが政治中枢を動かしていた、というのも事実であろう。その暗部は我々が知っているよりはるかに大きいのに違いない。日本は敗戦によってその全てが闇に葬られてしまったのであろう。

 日本人の多くが、かつての仇敵であったソ連の共産主義体制の惚れ込んだのは不思議ではないのかもしれない。日本の敵は帝政ロシアであった。ソ連はそれを倒したのである。敵の敵は味方である。しかも統制経済により、重工業化の大躍進をしたと伝えられた。軍備のため重工業化を必要とした日本もそれに続け、と考えたとしても不思議ではない。だから軍人が密かにソ連に傾斜したとして心情的にはあり得るのかも知れない。ソ連の躍進が農業を犠牲にした事はばれていないし、ソ連のスパイ活動の暗躍もあったのであろう。

 ただ海軍が戦争下手であったと言うのは著者の言うように敗戦革命を望んだという高等戦術ではなく、幹部教育の失敗と官僚主義によるものであったと思う。陸軍は人間を相手にした戦争をするだけに、戦史教育を含んだ戦略と言うものを考えなければならない。しかも満洲鉄道を保護する関東軍を持っていたために、必然的に生きた戦略を学んだのである。海軍は、日本海海戦を艦隊決戦の勝利と誤解して、艦隊決戦に勝つための教育しかしてこなかった。日本海軍の戦略とは軍艦のカタログデータを優れたものにすることでしかなかった。この差が海軍には石原莞爾のような戦略家を生まなかったゆえんである。

 著者はインド洋攻略を主張しながら、インパール作戦を批判しているのは矛盾である。艦砲や艦上機の攻撃だけでインドの英軍を駆逐するのは無理である。海軍の本質は補給路の確保や上陸の支援など、陸軍のサポートであって陸上兵力と対峙する事ではない。最後の勝利は歩兵により得るものである。日本海軍は敵艦船の撃沈を究極の目標としたが、これは作戦の手段に過ぎないという、明治の提督すら知っていた事実を忘れていた。東條がインパール作戦を指示したのはボースに対する同情ではない。戦略が分かっていたからである。インドの蜂起なくして英軍の駆逐はなく、英軍の駆逐なくして、インドの独立はない。インドの独立なくして東亜植民地の独立はない。

 東亜植民地の独立なくして英米に不敗の体制を築くことはできない。日本軍の初期の快進撃を支えたのは、西欧の植民地の民が日本軍を支えたからである、という素晴らしい事実を書いているのはこの本ではないか。山本五十六が無暗に拡大戦略をとってソロモンの消耗戦で甚大な被害を受けて失敗したのは、そもそも攻勢終末点というような戦略教育すら受けていないからである。山本は結局米戦艦の撃沈しか目的としていなかった。艦艇勢力が劣勢だから航空機で補おうとしていたのである。海軍が米国には勝てないとは言えなかったのも、三国同盟反対から賛成に転じたのも、全てが陸軍に対する予算均衡と言う官僚的発想であった。

 著者の言う戦争下手は戦士たるべき軍隊の中枢が官僚化したのが原因である、というのは事実である。官僚化したのは陸大海大の成績で序列が決まると言うシステムが原因である。システムの失敗はエリート教育の失敗であると言う著者の主張も事実である。政治家教育の失敗も同様である。それが陸大海大帝大を作ってエリート教育事足れりとしたのは、明治元勲の失敗であるのは事実であるが、その原因が下級武士出身だったと言うのは間違いであろう。いずれにしても著者の指摘する日本には正しいエリート教育がなく、学歴偏重の官僚主義が日本を蝕んでいる、というのは現代においても大きな課題である。真のエリートのいない議会制民主主義とは、衆愚政治の別称である。

 確かに長い江戸時代にあっても武士の教育が続けられ、それが維新の原動力になり、日清日露の戦争の指導者の精神的基礎であったと言うのは事実である。しかし下級武士だったからエリートを育てなかった、と言う批判は単純に過ぎる。現に徳川末期の将軍後継の争いなどは、序列を重んじる官僚的発想で、新野氏の批判する学歴偏重と根源は同じである。むしろ伊藤らは下級武士から成りあがったからこそ、東郷のように成績優秀ではないものを戦時に抜擢した海軍の風潮の見本となったのではないか。明治期には伊藤、西郷、大久保らの実力主義の成り上がりの風潮の残滓があったからではないか。

 著者は昭和十六年の時点で日米開戦を避けることができ、避けるべきであったと言うが、明白な誤りである。そもそも新野氏は、避けるべきであったと言うために、避ける事が出来たとこじつけている節がある。避ける事ができないのであれば、避けるべきであったと言っても仕方ないからである。日米開戦の直前ルーズベルトはラニカイと言う海軍籍にしたぼろ舟を太平洋に遊弋させ、日本に開戦の一弾を打たせて開戦しようとしていた。この事が象徴するように、アメリカ政府は対独戦に参戦したくて仕方なかったのである。

 既にアメリカは武器貸与法を成立させ、大量の武器弾薬を英ソに送っていた。国際法の中立違反である。ということは事実上の参戦で兵士を送っていないだけであった。国民が本当に戦争反対なら、野党もマスコミもこのことを攻撃して世論は沸き立っていたはずであるが、そのような事実もない。米国が第一次大戦に参戦したのはドイツの船舶攻撃により僅かばかりの民間人の被害を生じたからである。大量の武器供与ははるかに危険な行為である。建前は反戦でも米国民は戦争やむなしが本音であったと考えるしかない。ハルノートは満洲からの日本軍撤退を要求していないし、最後通牒ではない、と新野氏は書く。支那に満洲が含まれていたか否かなどは瑣末な事である。そもそも突如交渉の経緯を無視して条件を極度に高くしたのは交渉の拒否を意味しているのだから。

 米国が世論の反対にもかかわらず、あれほど長くベトナム戦争を継続したのは何故か。それを考えれば支那本土から撤兵すればいい、などと言う発想はない。既に日米修好通商条約を破棄し、禁輸など経済制裁を実行している環境の中である。これらのことは米国民周知の事実である。社会党などはイラク戦争の直前に、戦争はしなくても経済制裁だけにとどめよ、などと主張したが、これは経済制裁が準戦争状態であると言う国際法の常識を無視している。ことほど左様に当時の環境からして、最後に登場したハルノートが最後通牒ではないとは誤りである。ハルノートはソ連のスパイによって厳しいものに改ざんされていた、と言うのは事実であろうが、それ以前にルーズベルトは日米開戦を対独参戦の口実にしようとしていたのだから、ソ連のスパイの暗躍がなければ日米海戦はなかったとは考えられない。根本的には人種偏見もあって、支那大陸進出つまり体のいい支那侵略のために日本が邪魔だったのである。

 ハルノートを公開していたら、と言う事は小生も考えた。だがそれ以前に石油禁輸その他の公式な経済制裁措置を取っている。従って大統領は、それにもかかわらず日本は譲歩しなかったから仕方なく原則的要求を行ったのだ、と説明すればお終いである。すなわちハルノートは唐突に出たのではなく、エスカレートする米国の制裁措置の最後に登場したのであって何ら不自然なものではない。アメリカ国民は原理主義の面があるから、日本の対外的行動をなじって理想的言辞を並べれば説得できる。当時の米政府のマスコミ対応は現在の日本よりよほどましであり、説明上手である。

 真珠湾攻撃さえしなければアメリカは参戦できなかった、というのも考えにくい。地球儀を見ていただきたい。新野氏の言うように東南アジアの資源地帯やグアム、サイパンなどの島嶼を確保しようとすれば、そこに大きく立ちはだかるのはフィリピンである。真珠湾を攻撃しなくてもフィリピンでアメリカは邪魔するのに違いない。逆に言えば地理的に、これらの地域を確保しようとするのに、フィリピンは最適な位置にある。必要なのである。結局この観点からも、英蘭に宣戦すれば、アメリカとの戦いは避けられない。とすれば真珠湾の無力化は必要である。

 原爆を積んだ重巡インディアナポリスの航路をたどってみよう。パナマ運河を通過して、サンフランシスコ、真珠湾に寄港しテニアン島で原爆を降ろした同艦はフィリピンに向かう途中で撃沈された。パナマ運河、サンフランシスコ、ハワイ、テニアン島のこれらの間はほぼ等距離である。航続距離や補給の観点からも、これらの地点を経由する必要があったのである。つまりハワイを無力化すれば米軍は日本を攻撃できない

 よく言われるように無力化のためには、真珠湾攻撃の際に、港湾施設と石油タンクを破壊する事であるが、それだけでは足りない。潜水艦などをハワイ周囲に配置して、機雷封鎖や出入りする艦船攻撃などをしてハワイを使う事を常時防止する事である。アメリカ西海岸を砲撃したことから分かるように、イ号潜水艦の航続距離は他国のものに比べ極めて長い。そのような作戦は充分に可能であった。この本は基本的にいい発想から書かれているが、たまに我田引水があるように思われる、と言うのが書評子の結論である。



日本人のためのイスラム原論・小室直樹・集英社

 イスラム教ばかりではなく、儒教、キリスト教、仏教などを小室氏らしく明快に定義してある。それによれば、イスラム教の特色は内心の信仰ではなく、外に現れた行動を規定している、ということである。例えば祈りの回数や時間、食べていいものと食べてはいけないもの、など日常生活について事細かに規定されていて、例外もグレーゾーンもない、ということである。規範をきっちり守るのが苦手な日本人には普及しないわけである。中東戦争で相手がムスリムの国である、ということを利用して、イスラエル軍が、そのことを利用して祈りの時間に攻撃してバタバタ撃ち殺されても祈りを止めなかった、と言う話がまことしやかに伝えられるのもそのためである。

 そしてキリスト教が基礎となって近代資本主義が生まれたのは、近代のキリスト教が中世の堕落を廃して禁欲を説いたからである、と言う逆説的な説明をする。これに対してイスラム教は利子を禁止ししかも内面ではなく行動を縛るから、近代資本主義は成立しない、と言うのである。この辺りの説明は単純ではないので本書を読んでいただくしかないのだが、ともかくイスラム圏には西欧風の近代国家は成立しない、と言うのが結論である。結局パーレビ国王のイラン近代化政策も、このイスラムの原理に反したためにホメイニ師のイスラム革命によって倒された。

 ここまでの小室氏の分析は正しいのであろう。小生が言いたいのはここからである。確かにイスラム教は厳格な規範を守る宗教であり、明快な宗教であるために国境を越えて世界に広がっている。だがムスリムの子は必ずムスリムになるのだろうか、と言うわずかな疑問が生じるのである。現代は、かつてのようにオスマントルコ帝国などのように、イスラム世界が経済も文明もだんとつで世界を圧倒していた時代ではない。ムスリムも人間である。現代西欧社会の輝きに目が眩む人間も出るのであろう。失敗したとはいえ、現にパーレビの近代化政策もあった。

 かつてイスラム商人は世界一であった。小室氏はイスラム教は現世の利益を奨励する宗教である、と言う。それが逆に近代資本主義の導入を阻止している、と言うのだが、逆説は逆説である。イスラム圏が近代資本主義を超える繁栄をもたらす超近代資本主義を生みだす日が来ないとは言えないのかも知れない。あるいはイスラム圏が何らかの西欧的変革を成し遂げるかもしれない。イスラム圏が世界のトップランナーであった時代、西欧は名実ともに世界の片田舎であったのである。かつての世界帝国のモンゴルやスペイン、ポルトガルは今や確かに生気がない。しかし現代のイスラム圏は西欧に後れを取っているとはいえ、エネルギーは満ち溢れているではないか。



信長・近代日本の曙と資本主義の精神・小室直樹・ビジネス社

 ある図書館に予約を入れたら、借り手が何人もいて何ヶ月経っても連絡が来ず、挙句に連絡が入っていたのを見忘れたのか、予約が取り消されていた。それで他の図書館に予約してようやく読んだのだが、かくほど人気のある本である。この本の主題は信長の改革が日本の近代資本主義の端緒となったと言う事であるが、ここで紹介するのはそのことではない。

 かの桶狭間の戦いが奇襲ではなく昼間の強襲であったと言っている事である。信長の最高の伝記とされる、太田牛一の信長公記にそう書いてありその他の資料とも矛盾しない、というのである。津本陽の下天は夢か、や映画などで桶狭間の低地に陣取った今川義元を山上からにわか雨の中を急襲する光景を想像していた私たちには意外である。この定説は参謀本部の「大日本戦史」によるところが大きい、と言う。参謀本部が信長公記を無視して奇襲説をとったのは、信長公記に書かれているような強襲は成立しえない状況であった、と言う軍事常識によるものである。戦争のプロが言うのだから間違いはない、と言う訳である。

 確かに全く史料的根拠もなく単に論理的判断で史料を覆すのは仮説に過ぎず、定説となるのはおかしいから、小室氏の判断は妥当である。信長公記には、義元は小高い狭間山の上に陣取って酒盛りをしていたから、信長の動静は常に丸見えだったと言うのである。
貴族趣味もあったとはいえ、一流の武将であった義元が、有利な山上に休憩していたと言うのは言われてみれば納得できる話である。小室氏は今川軍をミッドウェーの南雲艦隊に例えているのは絶妙の譬えである。連戦連勝の南雲艦隊は米機動部隊など鎧袖一触のはずであった。作戦目的のひとつは米空母撃滅であった。しかし米海軍は奇襲したのではなかった。デバステータ雷撃機は零戦に何の戦果もなく撃墜されたのは意図したのではない。しかしその結果、日本艦隊の目が低空に奪われている間に突如急降下爆撃機が襲って勝負が決したのだった。

 詳しくは同書を読んでいただきたいが、ミッドウェーの南雲艦隊同様に、信長をなめきった義元が、絶対不敗の体制から負けたのは信長の意志が奇蹟を起こした、というのである。そしてその後このような戦い方をせず、奇蹟に頼らず軍事的合理性により戦ったのが信長の天才であるゆえんであり勝ち続けた理由である、というのである。小室氏は言ってはいないがミッドウェー以後の米海軍の戦いにも類似点がある。雷撃機が犠牲になって日本艦隊の目を低空に引き付け、絶好のタイミングで急降下爆撃したのは示し合わせたのではない、各々の攻撃隊が全力で攻撃しているうちに、圧倒的なはずの日本艦隊を捉えることに成功したのであった。これは確かに奇蹟である。しかし信長の奇蹟が今川軍の情報収集を徹底して行っていた事によるものであると同様に、米海軍の奇蹟も日本艦隊の動静の情報収集を徹底して行ってきた事によって起こった。日本では今でもミッドウエーの敗戦を運命の五分間、などと言うのもこの敗戦を奇蹟として捉えたからであろう。

 信長同様その後の米海軍は軍事的合理性による戦いを行っている。ミッドウエーの戦訓から先制攻撃に固執した日本海軍はマリアナ沖海戦において先制攻撃した。日本艦隊の攻撃を承知しながら、米軍は防衛網で日本機の攻撃を撃滅しておいてから、悠々と日本艦隊を襲うと言う横綱相撲を取って見せた。

ついでに本書の本来の結論を述べようと言うのが、小生の真骨頂である。小生の私見も若干含めて要約するとこうなる。信長の軍隊は農民兵ではなく能力あるものを雇った傭兵である。これにより兵農分離がなされ、いつでも戦争ができるから信長軍は強かったのである。この兵農分離を完成したのが秀吉の刀狩りである。家康は国替えをすることによってさらに農民と武士の分離を徹底した。そもそも鎌倉時代の武士と言うものは農民のなれのはてだから、この意義は大きい。つまり信長、秀吉、家康の三人によって確固とした武士階級が成立したのである。

最後に徳川の治世により武士は戦闘集団でありながら官僚となった。これが明治維新において廃藩置県を成し得、近代日本の礎をきずいたと小室氏は言うのである。これは実に明瞭に日本史を整理したものと言える。しかし残念なのはその後である。世襲の官僚たる武士階級が崩壊した後の日本の官僚とその位置についての考察が無いのである。それによって現代まで続く議会制度における官僚のあるべき姿、ひいては明治以降の日本の政治制度の在り方についての小室氏の明快な意見が聞きたかったのである。


○八月の砲声

 副題が示すように、ノモンハン事変とかの辻政信の事を書いたものである。実は三分の二ほど読んで、馬鹿馬鹿しくて投げ出したのである。剣道の達人で、信長を書いた津本陽氏なら、従来流布されている、独善的狂信的な辻と言う類型的な見方をしていないかも知れない、と言う期待があったからである。

 最初にがっくりしたのは、三〇ページで辻が偵察を軽視すると言って持ちだした話である。陸軍が保有していた九七式司令部偵察機は優秀な能力を持っていたから、ソ連領を偵察すれば当時のソ連軍の状況を容易に把握できたのに、辻はしなかったと批判する。ところがこの時、日ソはソ満国境を挟んで対峙していたとはいえ戦争は始まっていない。だから偵察機をソ連領に飛ばせば、戦争を誘発するのは確実なのである。日本軍の戦争を批判する津本氏は一方でソ連を挑発しない辻を批判しているのである。この本は図書館で借りた本である。この本には以前借りた人が書いた書き込みが一箇所だけある。それは辻が起案した、関東軍の「満ソ国境紛争処理要綱」について述べた次の箇所である。


 処理要綱の全文に、ソ連軍に対する戦意がみなぎっている。また何の裏付けもない、感情的としかいいようのない、ソ連軍戦力の過小評価が見えている。


というところに?が付けられている。よく読めば、処理要綱には、ソ連を刺激しないように慎重に行動するとともに、不法に対しては断固闘う、というのが全体に貫かれているから、読者が?を付けたのは当然であろう。「いったん戦えば兵力の多少、理非のいかんにかかわらず・・・」とあるようにソ連の戦力の評価などないのである。ソ連とは直前に張鼓峯事件で戦っているから警戒心があって当然であろう。現在の北朝鮮や中国では緊張状態にないにも拘わらず、対外的に戦闘的なメッセージを発する事は珍しい。それに比べ当時の日ソ関係を考えれば、この要綱は中立的とも言いうる位なのである。

 多くの識者と同様に、津本氏も昭和の日本軍の兵站、つまり弾薬や食糧などの物資の補給を軽視した事を批判している。この点はどういう立場であれ一致しているから津本氏だけの問題ではない。曰く、日清日露戦争の日本軍は兵站を重視していたのに、昭和になって忘れられた、と。私はこの点にも疑問を持つ。明治と昭和では、兵器の質も量も格段に違う。日本軍のために弁じれば、昭和の日本では兵器の発達に対して兵站を確保するだけの経済力が追いつかなかったのである。かの石原莞爾が総力戦のためにまず国力を養う必要があるから、対外戦争を実施できる状況にない、と言ったのは正にこの点である。

 この石原の卓見を評価する者たちも、日本軍は兵站を軽視したと批判するのは矛盾しているのである。日本は第一線の戦闘用の兵器を作るのにせいいっぱいどころか、それさえ他国に比べれば充分とは言えなかった。第一線の兵器が充足できないものが、兵站を充足できるはずはない。この点を無視した批判は意味をなさない。なぜなら批判したものが当時の日本軍の製造計画を立案する立場にあったとして、兵站を重視できなかっただろうからである。

 日本の兵器が充足されていなかった例に戦艦の建造を見て見よう。なぜなら日本は日露戦争の戦訓から、艦隊決戦の主力として、何より戦艦の建造に国家の総力を傾けてきたのだから。各国海軍は軍縮条約開けの前後から、競って戦艦の建造を開始した。それが相次いで昭和15年以後に相次いで竣工している。

 戦艦は第二次大戦で役割を終えたからこれらの戦艦は、最後の戦艦と言えるものであった。日本は大和級3隻。米国はノースカロライナ旧、サウスダコタ級、アイオワ級合わせて10隻英国はキングジョージⅤ級、ヴァンガード級6隻。ドイツはシャルンホルスト級、ビスマルク級4隻。フランスはリシュリュー級2隻だがあと2隻が第二次大戦により建造中に中止。別にその前の計画艦2隻が昭和12,13年に2隻竣工している。イタリアはヴィットリオ・ベネット級3隻竣工。ただしあと1隻は進水後第二次大戦により中止。

 日本は信濃や改大和型計画があったと言うなかれ。米国は更に2隻が建造中であったし、モンタナ級の計画もあったし、ドイツにもZ計画と言う遠大な計画があったのである。こうしてみると、英米には圧倒され、海軍国でないはずの独伊仏より建造数は少ない。もちろん総排水量でも劣っている。

 当時の戦艦は国力の象徴であったから、日本がせいいっぱい背伸びしてこの程度だったのである。陸上兵器の代表たる戦車や大砲の製造などは、これよりはるかに劣悪な状況であった。まして兵站は劣っていても当然であったろう。私がこの事を強調するのは、日本軍の弁護のためばかりではない。多くの識者は日本軍の批判はしても新国軍たる自衛隊の事は考えないのである。自衛隊にしても、制限された予算から、第一線の兵器を整備するのに汲々としているのである。

 そればかりではない、航空自衛隊にしても海上自衛隊にしても、旧国軍に比べても第一線兵器のラインアップのバランスが悪い。専守防衛と言う建前によるばかりではなく、米軍を補完する機能しか与えられていないためにバランスが悪いのである。例えば開示用自衛隊は対潜能力に特化したため、100機も対潜哨戒機P3Cを保有すると言う極端な状況にある。


インパール作戦

 私としては、やっと納得できる本に出会った、という気持ちである。著者は医師を本業とする、市井の研究者である。私はその事に必然を感じる。日本の大学の専門の研究者の近代史観は歪んでいる。米軍の占領による公職追放で、左翼の学者以外は大学などから放逐された。米国などの連合軍に都合がいい歴史観を日本に押し付けるためである。その結果日本の歴史学界には、日本の近代史を否定的に見る学者しか育たなくなった。徒弟制度のような日本の大学では、師の意見に反する意見を発表する事は、職業を失う事を意味する。仕方なくそのような研究をする学者の弟子は、本気で日本の近代史を否定する考え方を持つようになる。こうして日本の歴史家は日本の近代史を邪悪なものとしてしか捉える意見しか残らない、という傾向が助長された。従って歴史でまともな意見は私にとって市井の人しか期待できない事が多いのである。

 本書のテーマである、インパール作戦、と言うのは戦闘での死者より多数の餓死者を出して敗退した、何の軍事的合理性もない、意味無き戦いであった、と言うのが定説である。私には長い間、いくらなんでもわざわざそんな作戦を好んで行うはずはない、と言う疑問があった。ところが多くの歴史書はこんな素朴な疑問も持たずに、平気で日本の軍人は愚かだったから、という理由でインパール作戦の動機を解説している。あるとき、この作戦の発端には、チャンドラ・ボース、というインド独立運動家の熱意があった、という事を読んだ。そこで私は、なぜインパール作戦がインド方面に向かったか、と言う理由を納得したのである。

 日本はインドの独立を助けるためにインド国民軍と共にインドに攻め込もうとしたのだと理解したのである。この本でこの解釈は見当違いではなかったという事がようやく分かった。この本の構想は大きい。日本がインドに侵攻してインド独立を支援する事によって、英国が戦力を割かれる。さらにエジプトに侵攻しているドイツと連絡する事によって、連合国を分断する事が出来る、というものである。同様な事は「太平洋戦争は無謀な戦争だったのか」と言う翻訳書で訳者が「私は、インド洋作戦こそが、第二段作戦の中心であり、それによって英本国への豪・印からの原料・食料などの補給遮断、スエズ英軍への米からの武器補給遮断、カルカッタ-アッサムからの重慶への米補給路の遮断などの莫大な効果をあげることができる、と結論付けていた。」と語っている。

 このインドへの侵攻の基本構想は開戦直前の「対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案」に明記されている、と言う。すなわち海軍のハワイ作戦、ミッドウェー攻略などはこの基本構想に全く反するものであり、インパール作戦こそが基本構想にかなうものであった。この本ではインパール作戦発動が遅れた事、補給がない事を理由に三十一師団長の佐藤中将が侵攻を躊躇し最後は撤退してしまった事による、と言う。英国公刊戦史では佐藤中将の行動を非難し、あとひと押しで日本の勝利はあったのであって、英国は窮地に陥っていたとさえ言っているのだ。ちなみにインパール作戦の中止に最後まで反対したのは、インド独立派のインド国民軍(INA)であった。インド国民軍を支援したのは独立への善意ではなく、日本の勝手な都合だと批判するむきもあろう。それは当然である。日本の作戦のため、と言う事と、インド独立と言うインド人の目的が一致したから提携したのである。軍事同盟とはそうしたものなのである。一方的な善意で他国のために自国の兵士を犠牲にする事は国際関係ではあり得ない。その事が理解できないから、日米安保の意味も理解できないのである。

 この本の、作戦を指揮した参謀の牟田口中将の評価も意外なものがある。戦史の常識では無謀な作戦から逃亡した佐藤中将の行動を、多くの部下を飢餓から救った人道的指揮官とし、牟田口を無謀な作戦を強引に発動した軍人として非難している。ところが佐藤師団の撤退によって師団は救われたものの、置き去りにされた他の師団は多数の被害を出している。あまつさえ、勝利さえ失ったのである。インパール作戦はむしろ大本営の望んだものであり、牟田口は上官に逆らう事を最も忌み嫌った軍人であったと言う事を記録で証明している。第十五軍の河邊方面軍司令官が、当初は作戦に積極的であったので牟田口を督励し、不利になって変心してもそれを明言せず、牟田口の指揮に一任したのである。

 従って牟田口自身には、勝手に作戦を強行したのではなく、上官の意図をくんで作戦を行っている、としか考えられなかったのである。しかも英軍は牟田口の指揮を高く評価しているのである。結局陸軍悪玉説のために、故意に英国の評価は隠され、佐藤師団長は人道的指揮官に持ち上げられてしまったのである。佐藤中将の行動を知った他の師団の将兵は、佐藤師団によって置き去りにされたために、多くの仲間を失ったと恨んでいるのだが、この怨嗟の声は故意に隠されている。これらの事実を閲するに、つくづく日本海軍による艦隊決戦思想による博打的作戦行動と、戦略眼のある陸軍との相違が分かる。故に米軍の占領による情報統制は、陸軍を貶め海軍を持ち上げると言う評価を逆転する行動をとったのである。米軍が日本海軍善玉説を応援したのは都合が良かったからであり、陸軍の作戦は米軍の勝利にとって都合が悪かったから悪玉に仕立て上げたのである。

 私は陸軍大学の教育の一部を解説した本を読んだ事がある。もちろん専門外なので充分理解するには至らないが、地形を利用した作戦や部隊の配置などの教育は、必然的に地政学的な考えを養い、ひいては戦略眼を養ったのであろう。これに引き換え武器の強弱だけに頼った海軍の艦隊決戦思想教育は、戦闘の仕方だけ教え、戦略眼は養わなかったのは当然である。陸軍が戦略思想家と言われる、石原莞爾を生んだのは当然である。海軍で有名なのは山本五十六などであるが、優秀な戦略家であったという事ではなく、反戦であったとして持ち上げられる始末である。本来そんな事は軍人にとって褒め言葉ではあるまい。大東亜戦争の作戦や軍人の評価は全面的に見直すべきである。



○逆説の日本史1 古代黎明編。井沢元彦・単行本版
 あら探ししているようだが、あくまでも著者の見識に敬意をあらわしつつも、枝葉末節の疑問をいくつか。卑弥呼の話は特に面白い。今でも日本では役職者を個人名で呼んだり記録する習慣がなく、当時の中国でも同じであったから、卑弥呼というのは役職名であって、個人名ではないというのはその通りだろう。卑弥呼は日巫女という役職名だったという仮説は魅力的である。そして卑弥呼が太陽信仰のシャーマンとして女王になったのは、紀元158年の皆既日食をきっかけに、女王になったというのだ。ここまではいい。次の記述は明らかに疑問である。

 「ただ卑弥呼にとって不幸だったことは、彼女が生きているうちに、もう一度日本が皆既日食に見舞われたことだ。」

 つまり二度目の皆既日食のときに殺されたという。この一文は「一人の」卑弥呼が二度の皆既日食の間に女王に在位したことを意味している。二度目の皆既日食は何と九〇年後に起きたのだ。どう考えても卑弥呼の年齢は九〇歳を超えていたのだ。しかも最初の皆既日食で王座に就いたのだから、既に相応の年齢だったはずである。荒唐無稽である。

 卑弥呼というのは地位の名称であったというのだから、何も一人の女王ということにしなければよいのである。ところが記録によれば、「壱与」という女性が卑弥呼の後継者となったという。ところが井沢説を敷衍すれば、壱与も地位の名称のはずである。すると地位の名称の変更が行われたことになる。

 これは重大なことではないか。日本でも実質上の為政者の名称が、将軍から総理大臣に変わったとき、明治維新という大変革があった。女王の地位の名称が変更されたなら、更に追及すべきことがあるのに、それを井沢氏がしていないのは残念である。なぜ追求しないかは想像がつく。卑弥呼は日巫女あるいは日御子という、役職らしい解釈ができるからで、壱与はそのような解釈が困難だからだろう。つまりあえて避けたのである。

 次に邪馬台という名称は、古代中国音でヤマトに近いという。ところが後の大和朝廷は女王ではないから、体制は異なると考えるべきであろう。支那というのは大陸の歴史を一貫した名称であるのに、明とか宋といのは王朝毎の名称で変遷する。大和というのは日本の普遍的名称というべきであろう。邪馬台とはこのような普遍的名称の漢字表記に過ぎないのか、明のような国号なのか追求してほしかった。

 金日成と金正日のように父子で同じ日という漢字を入れる週間は支那や朝鮮にはなく、かえって忌避されるという。これはインターネットの金正日の項にもそう書いてある。ところが金日成とは本名ではない。少なくとも親からもらった名前ではない。金日成とは抗日の英雄の名称で実在の人物であるが、何人かが同一名を名乗ったとも言われる。

 つまり金日成とは抗日の英雄の象徴であった。いわば普通名詞に近づいたのである。だからこそ、金日成という名前に改名したのである。ウィキペディアによれば元は金成柱であったとも言われる。金日成は象徴的名前であるとすれば、金正日を後継者とすると決めたとき、その一字をとって名づけたとすれば筋は通る。

 金正日の幼名はユーリ・キムだとも言われる。そしてキムジョンイルと発表されたとき、日本では金正一と当て字されたという。朝鮮では親子に共通した漢字を使わないという習慣は軽視すべきではない。金正日の息子は3人とも正の字を使っている。これは後継者を予定した名前であって、単なる個人名ではないと考えるべきではないのではないか。


○逆説の日本史5 中世動乱編・井沢元彦・小学館文庫版

 日本史の著作の多い、作家井沢元彦氏にして、不得意領域の評論はやはりだめだという見本を発見した。P296に戦略と戦術の違いを述べて戦術的勝利にもかかわらず、戦略的には敗北した例として真珠湾攻撃を挙げる。

 当初目的としていた敵機動部隊の撃滅(空母を撃沈すること)が出来なかったばかりか、宣戦布告が遅れたためにアメリカを必要以上に憤激させてしまったからだ。

 と述べた箇所である。氏は著書で全般的に後知恵による誤認識の危険を述べる。その通りなのだが氏自身がここではその間違いを犯している。空母を打ち漏らしたから失敗だというのは典型的な後知恵による通説である。それを無批判に受け入れているばかりか、さらに空母攻撃が当初からの目的であったというように発展させてしまっている。後に海戦の主力が戦艦から空母に移ったから、「結果論」としては空母を打ち漏らしたことは失敗だと言っても間違いではない。

 しかし空母攻撃は当初の目的にはなかった。せいぜい空母を発見したら攻撃すること、という程度である。海軍は在住の日本人を使って真珠湾内の軍艦の配置を偵察している。その中に空母がいないことは初手から分かっている。そして訓練は湾内の浅海での攻撃を想定している。当初から空母攻撃はついでに過ぎない。何よりも当時の主戦力は日米ともに戦艦であって空母ではない。

 山本五十六は航空機主戦力主義だろうと言うなかれ。兵頭二十八氏のいうように山本は陸上基地で運用する攻撃機を重視したのであって、空母で運用する艦上機を重視したのではない。だから真珠湾攻撃でも空母を発見して攻撃せよとは指示しなかった。後のラバウル航空戦では艦上機をわさわざ陸上基地にあげて運用した。練度の高い貴重な艦上機搭乗員を空母での運用の倍以上の距離を毎日飛行させて不利な状況で戦わせた。

 それは自ら熱心に育成した長距離攻撃のための陸上攻撃機による戦果を期待して、艦上戦闘機による無理な援護をさせるためであった。いかに山本が艦上機より陸上攻撃機に期待したかは、真珠湾攻撃の際には日本海海戦の東郷司令長官のように旗艦で陣頭指揮をとらず、内地の戦艦に座乗していたのに、ラバウルでは自ら前線に立ち偵察飛行さえしたことの際立った差異が証明している。なお、真珠湾攻撃に参加しなかった山本の艦隊は、攻撃成功と見るやわざわざ小笠原辺りまで出動して論功行賞にあずかるという馬鹿げた配慮さえしている。その艦隊は、莫大な量の貴重な燃料を消耗したのだ。日本が対米戦に踏み切ったのは、石油を止められたのが一因をなしていると言うのにである。山本には、人に対する気配りに長けているのに、戦略眼はないのである。

 それでは珊瑚海海戦でもミッドウェー海戦でも主要海戦には日本海軍は空母を主要したという批判が出るであろう。しかし珊瑚海でもミッドウェーでも空母を使ったのは上陸作戦の支援に使うために空母を運用したのであって対艦船攻撃に空母を準備したのではない。相手の空母が出てきたから結果的につかったのである。要するに陸上基地を破壊するために、遠距離まで届く砲弾として空母機を用意したのである。

 そもそも魚雷の他に爆弾を使用する飛行機を日本海軍はなぜ爆撃機と呼ばずに陸上攻撃機と呼んだか。それは艦上機のうち爆弾だけを使用するものを艦上爆撃機と呼び、魚雷を主として使用するものを艦上攻撃機と呼ぶのと同じである。魚雷は艦船攻撃にしか使えないから、艦上攻撃機の主任務は艦船攻撃である。同様に陸上攻撃機の主任務も名前によれば艦船攻撃である。

 ここに真珠湾で多数の戦艦を撃沈したにもかかわらず、海軍を脅かした英国の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの攻撃に空母を使わずに陸上攻撃機を使ったかの答えがある。真珠湾は動かない艦船に対するいわばすえもの斬りだという批判、すなわち洋上を機動する艦船攻撃は無理ではないかという批判があった。これに対して威力の大きい陸上攻撃機を使用することに決定したのである。アメリカの士気が高まったことに対して、宣戦布告が遅れたことが大して相関がないことは別に論説する。

○技術戦としての第二次大戦

 この本に関しては全般的批評はしない。兵頭氏に内燃機関工学の素養のないために奇妙な内容になっているp230からの「液冷エンジンの」の項についてコメントする。小生が「素養がない」というのは、必ずしも大学等で正規の内燃機関工学を学んでいないことを言うのではなく、独学でも何でもいいから内燃機関工学の基礎知識を身に着けていないことを言うのである。

・「レシプロ発動機では、オクタン価の効果は小さくなかったようです。ハイ・オクタンであるほど、スロットルを全開にした時の発熱量が少なかった。」

 これは全くの間違いである。オクタン価とはある燃料がノッキングを起こす圧縮比と同じ圧縮比でノッキングを起こす、イソオクタンとノルマルヘプタンの混合燃料のイソオクタンの比率を言う。つまりオクタン価80のガソリンとは、イソオクタンが80%の標準燃料と同等のアンチ・ノック性能があるということである。

 煎じ詰めれば、オクタン価が高ければ高い圧縮比でもノッキングが起きないということである。圧縮比が高くできれば単位排気量当たりのエンジン馬力が大きくできるから設計上有利である。ご存知だろうがハイオク用に設計されていないエンジンにハイオクのガソリンを入れても性能は変わらない。逆にハイオク用のエンジンに低オクタンのガソリンを使うとノッキングを起こして危険である。だから旧日本軍の飛行機が米軍のハイオクガソリンでテストされたら性能が向上したというのは正確ではない。エンジンが設計どおりの本来の性能を発揮したというべきである。

 ただしこの特性は同じレシプロエンジンでもガソリンエンジンのように火花点火機関にしか通用せず、圧縮点火機関のディーゼルエンジンには逆の特性が重要となる。レシプロ発動機でもオクタン価が高くてよいのはガソリンエンジンだけであるから、冒頭の「レシプロ発動機・・・」云々の指摘は明白な間違いである。ディーゼルエンジンでは燃料の指標にセタン価が使われる。理由は省略するが一般に、セタン価の高い燃料はオクタン価が低いといってよい。ディーゼルエンジンにハイオク燃料は有害である。だからガソリンエンジンとディーゼルエンジンでは使用燃料が違うのですよ。

 そもそも氏はガソリンの発熱量はオクタン価に関わらず一定であることを知らないのではあるまいか。同じ量のガソリンを吸入していれば、スロットルを全開したときの発熱量はオクタン価の大小にかかわらず一定である。もしスロットルを全開した時に発熱量が少なければ、吸入したガソリンの量が少ないということであり、ハイ・オクタンが原因ではあり得ないから、さきのコメントは意味をなさない。

 そもそも発熱量が大きいということは、燃料の単位重量当たりの保有エネルギーが大きいことであり、オクタン価には関係ないという物理の基礎を忘れている。低空でスロットルを全開すると、低オクタン燃料ではブースト圧が高すぎてノッキングを起こし、異常燃焼によりシリンダヘッドやピストンが融けることがある。兵頭氏はそのことを「ホットスポット」と誤解しているのであろう。兵頭氏がガソリンエンジンのノッキングという重大な現象を知らないことは他にも散見される。

・「・・・スロットル全開で離陸して高高度に上がろうとすると、空冷ではシリンダーのどこかに風当たりの緩い『ホット・スポット』が生じてしまい、そこから合金が溶けて火災を起こしてしまうんです。ですからカタログ性能では出せる馬力が肝心の離陸直後の急上昇段階で出せない。」これに対して別宮氏が「・・・会敵に理想的なポジションにたどりつくことすらできないわけですか」と応じている。

 この文章自体に矛盾があることはすぐわかる。兵頭氏は離陸上昇時だけの出力制限を言ったのだから、一万メートルの高空に上昇するトータル時間が増えるとは限らない。零戦をはじめとする日本の空冷エンジン機の6000m程度までの上昇率は素晴らしいものがある。日本機はそれ以後の高高度における出力低下により、上昇率は急速に低下するばかりか高度1万mでは出力低下により機動ができないのが問題なのである。過給しなければ高度1万mでは海面高度のエンジン出力の30%以下になり、かつ高空では大気が冷たいから冷却効果が大きい。従って発熱も少なく気温も低いので冷却不足が問題になることはあり得ない。

 初期上昇率が低くて高高度戦闘に問題になった事例はない。日本の戦闘機の低空での上昇率の高さはひとえに機体が軽量であることによる。そして高高度性能の悪さは過給性能不足によるブースト圧の不足のためである。いくら冷却にむらがあっても高空では気圧が低くて出力は出ないから発熱は少なく、低温なのだから冷却が問題になることはない。
 
・「水冷だとデザイナーがシリンダーの並べ方にまったく気を遣わなくてもよいそうで、ホット・スポットを生じないというのが液冷式の最大のメリットです。」
 液冷エンジンは冷却むらが少ないのは事実である。しかし液冷でも空冷でも高出力エンジンのシリンダー配列は完全にワンパターンである。並べ方に選択の余地は少ない。それはシリンダーの配列は冷却方式と、ピストンなどのアンバランスマスによる振動問題により決まるからである。航空機用の大馬力の液冷エンジンはV型12気筒以外の成功例は稀である。逆に大型空冷エンジンは星形でも18気筒かそれ以上のものが実用化されていて、液冷エンジンより配列のバリエーションは多い。

・自動車用が水冷であり航空機用が液冷とはなぜかと問われて「第二次大戦中の航空機用の冷却液は、成分的にただの水であったものは少ないからであるようです。」とだけ答えているのは「技術戦」と銘打つには不勉強である。

 冷却液がただの水ではないのには二つの理由がある。ひとつは水が低温で凍ってしまうのを防ぐためである。ただの水ではなくエチレングリコールである。いわゆる不凍液である。もうひとつの重要な目的は沸点を上げるためである。冷却液温度が高ければ、空気との温度差が大きくなるため冷却効果が高くなり、冷却器を小型にでき、冷却器の軽量化と空気抵抗の減少の効果がある。「液」冷にはかほどの重要な意味がある。

 兵頭氏は冷却の重要性を指摘するが、実はエンジンの金属の強度を保てる温度の範囲において、冷却はできるだけしない方がエンジンの出力は高くなる。せっかく発熱したものを冷却すれば、エネルギーが奪われて出力は低下するのである。ちなみに冷却水によりせっかくのエネルギーの30%もが失われてしまう。

・「・・・レシプロカルの高速回転が意味するところも「発熱」であり、結局冷却効率の問題に帰着したんです。排気ターボチャージャーや機械過給、インタークーラー、水/メタノール噴射、酸素壜・・・そういったものでは、根本のブレークスルーにはなり得ません過給すれば筒温は上がるものです。結局は、クーリングに逢着する。」とそこまで断言されると大丈夫ですかと言いたくなる。

 第一に、たとえ液冷エンジンであろうと排気タービンまたは機械式であれ、第二次大戦当時の運用高度では過給しないことには使い物にならなかったのである。過給はブレークスルーであろうがなかろうが必要不可欠なものである。さきに述べたように1万mでは海面の30%以下しか出力が出ないのだから過給をしないことには話にならないのである。

 過給の温度上昇が問題になるのは筒温ではなく吸入空気温度である。インタークーラー、水/メタノール噴射は筒温を下げるために使うのではない。エンジン出力は吸入空気の温度が低いほど高くなる。より多くの空気を吸入できるからである。

 それは過給による圧縮によって上昇した空気温度を下げるためである。たしかに冷却むらは良くないが、効率よく冷却して金属の耐熱以上に発熱を奪いすぎると前述のように馬力は低下する。だいいち過給の必要な高空では大気温度も低く冷却には有利で、過給しても低空より出力は落ちているから加熱することはあり得ない。低空で過大な過給をするとオクタン価不足となるから冷却不足による筒温上昇よりさきに、即座にノッキングにより筒温が急上昇して、ピストンなりバルブが溶ける。これは異常燃焼によるものだからいくら冷却をしても無駄である。

 兵頭氏はダイムラーベンツとマーリンエンジンの性能のよさに目を奪われて基本的な原理を学習することを忘れている。DBエンジンは気化器ではなく燃料噴射をしているので、エンジンの回転数の変化が容易で、マイナスGでも燃料が止まらず、戦闘機の急激な機動に適している。

 マーリンエンジンは性能の良い二段式過給器により、排気タービン式に劣らない高空性能を得ている。排気タービンはロスエネルギーを回収使用するので過給によるロスは理論的には少ないが、エンジンの使用領域全域で良いとは限らず、運転状態の変化に対する追従性は機械式に比べて劣ることが多い。マーリンエンジンが航空性能が優れている上に、激しい機動に適しているゆえんである。

 これら異なった特性により持つ両エンジンの戦闘機に対する適性を、兵頭氏は液冷というキーワードでひとくくりにしてしまったように思われる。現にP-47のように空冷エンジンでも排気タービンによる過給により高高度性能は優れている。P-47が日本にあれば、B-29に対する優れたインターセプターになったと思いませんか。空冷エンジンは液冷より軽量な点は、高高度エンジンとしてはすぐれている。兵頭氏は故意にP-47に言及していないように思われますが勘ぐり過ぎでしょうか。

 なおこのネタの基本は古書に属する粟野誠一氏の「内燃機関工学」です。


○「談合文化論」・宮崎学著・祥伝社刊

 タイトルに興味があって書店で偶然買ったが、タイトル通り単なる談合肯定論ではなく、むしろ文化論としても優れている。著者はもちろんプロの談合屋だったが、それを日本社会のありようまで研究している点が興味深い。私自身が子供の頃田舎の緊密な共同体に悩まされたから実感は強い。私の実家は調べると戦国時代に主君が敗れて帰農して土着したのだった。そのため近隣は同姓の親戚ばかりでその本家だったから何となくプレッシャーを感じていた。冠婚葬祭のあらゆる付き合いはその内輪だけで行われていたものだった。昔からの村の自治の残滓を強く知っていたから私には著者の言う「ムラの自治」の意味を体感できる。ベビーブーマーの私と同世代ですらムラの自治を体感できるものは少ないだろう。

 閑話休題、著者はムラの自治を基層として、建設業界の自治としての談合が発生したのだと言う。それが戦時中の統制経済による上からの談合、政官財癒着としての談合に変化するに従って歪みを生じているのだと言う。現在の建設業は独占禁止法の強化により、談合が排除された結果、自由競争により地方の建設業は大手ゼネコンに負けて悲惨な状況になっている。その癖、大手ゼネコンは政治家の集金組織として談合が続けられているのだと言う。そう言えば以前は摘発される談合と言えば、地方の中小業者によるものだったが、平成5年頃に摘発されたゼネコン汚職以来、最近の小沢献金の西松建設等は、大手ゼネコンばかり摘発されている。昔知人の叔父が実は談合屋だった、と言う話を聞いた。もちろん故人である。

 ゼネコンに入って見込まれて談合屋にされたのだが、付き合うのは社内の人間ではなく、社外の談合屋同士だった。会社で言われたのは、警察に言って本当の事を言いたくなったら窓から飛び降りろ、残った家族は一生面倒を見るから、というものだった。血の結束があるからかつては談合がばれなかったのである。なぜ談合が内部告発等によってばれるようになったのか。著者の説を敷衍して言えば、ムラの自治の延長としての談合ならば、生きる世界はそこにしかないから、命を賭ける価値はあったのだが、政官財の癒着に利用されているだけのものならば、命を賭ける価値は無いからなのだろう、と私には思える。ムラの結束とはそれほど強いのだ。

 著者は良い談合と悪い談合に分けて、良い談合は復活せよ、と言う。ムラの自治の延長としての談合が良い談合で、悪い談合とは政官財の癒着に利用されているだけのものである。ある建設業界紙にかの山本夏彦氏のインタビュー記事が載った事がある。山本氏は平然と、建設業に談合はあるんでしょ、いいじゃありませんか、と発言すると、インタビューアーは、そういう話はどうも、と逃げてしまった。

 山本氏は談合肯定論者ではあるが、著者ほどに談合のあり方に深く突っ込んではいない。そこがこの本の価値である。談合は日本の風土である。もちろん建設業ばかりではなくあらゆる民間取引にもある。新聞屋だって談合している。新聞の価格、休刊日である。全国紙で唯一安い産経は夕刊がないのと、ページ数が少ないので安くてもよいと言う、談合仲間のお墨付きをもらっている。休刊日は他の社が休んでいる間に抜けがけで売って儲けられると困るから談合して決めているのである。果たしてこの本、ムラ社会の経験のない者に理解できるものか、と私は思うものである。


高橋是清伝・津本陽・幻冬舎

 今の僕らの常識から考えたらすさまじい人生である。宮澤元総理が総理大臣になりながら、大蔵大臣にカムバックしたことをもって、平成の高橋是清と自称したが、優等生で過ごした宮澤にはふさわしくない。ぜんぜん似ていないのである。

 アメリカに語学留学したつもりが、いつの間にか奴隷に売られていたのは有名なエピソードである。敢然と相手の不正を正し、何とか切り抜けて日本に帰ってくると、英語優秀ということで、わずか十六歳で大学南校の教授手伝いとなる。正規の語学留学者よりも英語優秀であったというが、ものすごい努力をしたのであろうが、この点が一切書かれていないのが残念。この時代の人は豪放磊落の一面もあるが、努力は尋常ではない。命をかけているというに等しい。

 ところが遊びたい生徒にだまされて大学からカネを持ち出して、一緒に遊ぶうちに芸者遊びに熱中する。是清が芸者遊びの誘惑に極めて弱いのを逆手に取ったのである。これがばれると敢然辞職するが、同情した芸者に囲われて吐血するまで飲み続ける。一晩3升飲むというからすごい。「日露戦争物語」というコミックに、是清が芸者の襦袢を羽織って、昼間から飲んだくれている描写があったが、本当の話である。

 ところでビッグコミックスピリッツに連載された、このコミック、いつの間にか連載が消えてしまった。中国人、朝鮮人の敗北を描くので、その筋からの抗議で小学館が連載を打ち切ったのだろう。今の出版社は根性なしである。この漫画、明治の偉人をけっこうリアルに描きバンカラな風潮を良く表現していて秀逸だったのに残念。日本の国もだめになったものである。予言する。日本は滅びる。

 閑話休題。そこで友人に同情されて、株屋、牧場経営など点々とする。みな頼まれると断れないので、せっかく財産や地位を築いても簡単に職を変えてしまうのである。ペルーの鉱山経営に行ったときは、ろくに調査もせずにインチキ鉱山をつかまされてしまう。すると連れてきた鉱夫たちを救うために相手をだまし返して損害を最小にして逃げ帰るのだが膨大な借金をする。これも自宅を全て売り払って返済に充て、借家住まいになってしまう。

 高橋の偉くかつすごいのは、転職したり遊んだりするのに多額の借金を繰り返すが、きちんと自分の責任で返済していくことにある。しかも先の学生のように、誰かのせいで借金しても、その人たちを頼るということはしない。その後日銀副総裁から総理大臣に登りつめるのは有名な話だが、その間信念に合わなければ簡単に辞表を書いてしまう。しかしただ逃げるのではなく、後に問題なきよう処置していくからたいしたものである。

 最後に大蔵大臣となったとき、経済政策のために軍人に嫌われてテロに倒れるのは周知のことだが、これは時代のなせる業でしかない。かつて緒方竹虎が喝破したように、政府部内の軍人はサラリーマンに過ぎない。政府の軍人が予算獲得でがんばれば、それに対して予算削減で対抗するのは、当時の風潮では当然のことである。

○護持院原の敵討
 何十年ぶりかで読み返した鴎外のいわゆる歴史もののひとつである。同じ歴史ものでも初期のものだから、伊澤蘭軒や北条霞亭などと異なり、ストーリーがあり読みやすい。何より短編である。改めて読んで新たな感想を得た。江戸時代の敵討の話だが、当時の司法手続きが複雑かつきちんとしていることに驚かされた。

 侍が親を殺されたら敵討ちをしなければならない。これが当時の常識である。だがいきなり敵討ちをしていいというものではない。親族が集まって評議した上で「表向敵討」の願書を主君に提出する。剣の腕の立つ弟がいて助太刀をしたいというのだが、仕えていた主人に願書を出して許可を得なければならない。許可した主人は敵探しの旅の旅費をくれるのである。

 以上の手続きの結果、敵討ちの願書を受けた主君は、老中と寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三奉行に届ける。老中と三奉行は今で言う関係の行政官と司法官である。文書の日付を定めて、敵討ち本人と助太刀に許可証を発行する。許可証は大目附連署とあるから、主君との連名の許可証である。

 許可はこのような複雑な手続きを経ている上に、連名だから主君の独断では出来ないようになっている。そして主君は敵討ち本人と助太刀に費用を支給する。留守へは扶持が下がるとあるから、留守家族にも生活費を支給するのである。敵討ちの許可証には、速やかに敵討ちをして帰る事と、敵が既に死んでいた場合にはその証拠を提出せよと書いてある。周到である。任務と費用が出るのだから敵討ちは私事ではなく公務、職務である。

 さて無事に敵討ちを終える。それで一件落着ではない。敵討ちをした場所の辻番所に届ける。要する交番に届けるのである。番所で敵討ちのヒヤリングを行い、番人は上司に説明すると上司は大目附に届ける一方で、敵討ちの主君に報告する。主君は役人を派遣して敵討ちを調べて調書を作って主君に提出する。

 さらに7人のものが派遣されて、敵討ちたちの調べを行う。敵討ちの人物の確認、衣類、持ち物、けがの有無を調べて調書を作る。死骸の傷などの確認を行う。傷は7箇所あり、傷の各々の場所と長さ、深さが記録されて現在まで残されている。衣類や持ち物も確認される。そればかりではない。殺された敵の雇い人と宿泊所の主人までが取調べを受ける。これらの調べの結果は複数の関係者に報告される。

 これで終わりではない。敵討ちと助太刀の者は番所から籠で引き取られ、主君の指定する場所にあずけられる。さらに警護つきの籠に載せられて、町奉行の取調べを受け、次に与力の調べを受ける。町奉行の4度の取り調べの最後に、取調べ調書に実印、爪印をさせられたとある。調書を本人が正しいと確認したのである。これは現代日本でも同じである。5度目に町奉行から無罪放免が申し渡されて、司法手続きがやっと終わる。

 物語はまだまだ続く。敵討ちと助太刀には今後の処遇まで決定されるのである。以上ながながと書いたが、時代劇には敵討ちの敵探しの苦労と仇討ちの場面だけが映されるが、その前後にこれだけの行政と司法の手続きが行われて敵討ちがされるということを、鴎外は飽きることなく叙述した。これは日本の行政が江戸時代からしっかりしていることを証明している。

 日本は明治になって突然文明化したのではない。そんなことはあろうはずもない。そのことを鴎外は語ってくれている。私は鴎外の歴史ものの価値を今頃になって発見した気がする。鴎外は医師、自然科学系の人である。その資質が単に情緒的な文学ではなく、歴史の分析を行っている。

 余談だが敵討ちは講談で語られ、黄本などという出版物でも大衆に紹介された。単に賞賛されるばかりではない、パロディーにされることもある。江戸時代は現代の大衆文化の素地も充分備えていたことを鴎外は教えてくれる。


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