ガンガーで沐浴

 ガンガーの底はにゅるにゅるだった。生暖かいゲル状の泥が足の指間を押しのける。河岸は人々が入りやすいように、階段状になっている。滑らないように気をつけながら、1段1段下っていった。
 ヴァラナシ滞在中の1週間、ぼくは毎朝5時頃に起床し、対岸から昇る朝日を見るため、ガンガーに足を運んだ。ガンガーの東岸は「不浄の地」で何も建っていない。日の出の前からあたりは少しずつ明るくなり、川面も少しずつ変化していく。光は川面できらきらと揺れ、コントラストがはっきりしてきたかと思うと、すべてをオレンジ色に変える。すると、深紅の太陽がゆっくりゆっくり霞んだ大地から昇る。その輝きの下、ヒンドゥー教徒はガンガーに浸かって祈る。男性は下着1枚で、女性はサリーを着たまま、老若男女問わず、全身をガンガーで清め、一心不乱に祈る。毎朝ガンガーで沐浴をするインドの人たちを見ているうちに、ぼくも一度は沐浴をしてみようと思うようになっていた。
 聖地ヴァラナシはヒンドゥー教の人たちが一生に一度は訪れ、ここで沐浴をしたいと思う場所である。それはガンガーの聖なる水で沐浴をすれば、すべての罪は浄められるからだ。そして、ここで死に、遺灰がガンガーに流されれば、輪廻からの解脱をも得られる。そのため、ここで死を迎えようとする人たちも多く滞在している。死体は華やかな布にくるまれ、遺族の前で火葬され、その遺灰は聖なるガンガーに流されるのだ。ガンガーはそれだけではない。人々は洗濯をする。身体や食器も洗う。牛たちも水浴びをしている。まさにガンガーは生なる河。生と死の混濁。聖なるガンガーは清濁併せ呑み、すべてをやさしく温かく包んでくれる。
 その濁った水に身体を浸けるのには抵抗があった。しかし、異教徒のぼくに対してもガンガーはやさしく温かく包んでくれた。気持ちが癒され、不思議な安堵感を覚えた。ぼくは当初、顔を浸けるつもりはなかった。けれども、一人のインド人が一緒に泳ごうと云うので、泳ぐことになってしまった。彼はボート漕ぎを生業にしている男で、沐浴をするのではなく、潜ったり、足を器用に使って、川底のコインを拾っていた。聖なるガンガーでこんなことをしていいのだろうかと思ったが、ここはインドだから何でも「ノー・プログレム」だとも思った。
 インドに来て約1週間。下痢はしていなかった。ところが、この日の夜を境に約3週間のインド滞在中、ぼくは激しい下痢とつきあうことになる。ガンガーでの沐浴によって、ぼくの身体からは不浄なる穢れはすべて吐き出され、ぼくの身体は清浄になったのだ。この激しい苦しみは聖なる身体に変化するための通過儀礼だったのかもしれない。

 2009.02.22

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